2009年9月26日 (土)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記IV

 昨晩の帰りが遅かったこともあって身体が重いが、8時頃に何とか起き出して朝食を取り、身支度を調えて、前から訪れようと思っていたプレツェンゼー記念館を訪れる。地下鉄7番線から、市街の外周を回るSバーン(これは走っている)に乗り換えて、ボイセル通りの駅から運河のほうへ歩くと、10分ほどで記念館が見つかった。ここはナチスの刑務所と処刑場があった場所で、今も刑務所として使われている建物の隣で、処刑場の跡が記念館として公開されている。ナチスの時代、この場所で3000名におよぶ抵抗者たちが命を落としたのだ。通常ギロチンで執行されたという死刑の部屋も公開されていて、赤い旅団のメンバー8名──そのなかの最年少者はまだ17歳だったという──を見せしめのために絞首刑にした首吊り鈎が並ぶ下に、排水口へ向けて緩やかな傾斜のある冷たい床があるのが実に生々しく、ナチスの暴力の凄まじさが薄気味悪く迫ってくる。隣の部屋では、プレツェンゼーの刑務所の歴史と、ナチスによってここで処刑された抵抗者のうち主要な人々とを紹介する展示が行なわれていて、設置されているコンピューターでは、処刑された人々全員の名前を検索することができる。
 プレツェンゼー記念館を出て、ボイセル通りの駅へ戻り、空港と市街を結ぶ急行バスに乗って、ブランデンブルク門近くの「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」へ向かう。ピーター・アイゼンマンの設計による墓碑のようなブロックが立ち並ぶなかに足を踏み入れたことはあったが、地下の情報センターへは入ったことがなかったので、それを見てみようと思ったのだ。ブランデンブルク門に群がる観光客をかき分けて「メモリアル」のある場所にたどり着くと。ナチスの犠牲となった同性愛者たちのための記念碑の案内板が目に入った。「メモリアル」のある広場のちょうど向かい、ティーアガルテンへ少し入ったところにその記念碑は立っている。少しいびつな形をした角形のコンクリートの塊という感じであるが、それには覗き窓のようなものが付いていて、そこへ顔を向けると、内部にある画面で二人の男が口づけを交わしている。その行為自体の名誉を回復しようというものだろうが、少し虚を突かれたような印象も受ける。この同性愛者たちのための記念碑は、向かい側にあるユダヤ人のためのモニュメントに比べればとてもささやかなものではあるが、それがあることの意味はけっして小さいものではない。
 さて、この記念碑を後にして「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」へ向かう。びっしりと立ち並んでいる不揃いな高さのブロックを縫うようにして地下のインフォメーション・センターへの入り口へ向かうと、この虐殺の犠牲者一人ひとりの身に降りかかった出来事の重みがのしかかってくるかのように感じないわけにはいかない。迷路のつもりで駆け回っている若者にぶつかりそうになりながら通って、反対側の地下への入り口にたどり着くと、10人ほどの観光客が並んでいる。入り口で入場者を管理している女性からドイツ語のパンフレットをもらい、それを読みながらしばらく待っていると、5分ほどで入ることができた。地下に入ると、ユダヤ博物館で見かけたようなセキュリティ・チェック。それを通過して中へ入ると、案内と管理を担当しているのも、ユダヤ博物館で見たのとそっくりな若者たちである。ユダヤ系の関係筋を通して同様のシステムを導入したのだろうか。設立母体が異なるはずなので、少々不自然な感じもなくはない。
 展示そのものはかなり工夫されている。最初にポグロムから「最終的解決」に至るユダヤ人迫害の歴史の概要が、写真を交えて説明され、続く部屋には、ナチスの暴力が迫るなかで、あるいは収容所へ移送され、虐殺される直前に書かれた手記が、その翻訳とともに展示されるとともに、部屋の壁には各国ごとの犠牲者の数も掲げられている。こうして犠牲者一人ひとりの生の記録から出来事の全体への展望を開くというのは、過去の出来事の記憶のあり方として注目するべきものを含んでいよう。一人ひとりの個としての経験を消し去ることはできないし、その際に経験された出来事の総体を見つめ直すことも忘れてはならないのだから。ただし、ここでの展示に選ばれているのは、手記や手紙を書き残すことができた犠牲者だけであることも忘れられてはならないだろう。
 次の部屋では、いくつかのユダヤ人家族がヨーロッパ各地で営んでいた生活とその運命が写真や映像を交えて展示されている。それはヨーロッパのユダヤ人の生を、家族の日常から浮き彫りにするとともに、家族の離散と絶滅を具体的に描き出すものと言えよう。さらにその次の部屋では、これまでに歴史的な調査によって突き止められた、犠牲者一人ひとりの名前と、その人が死に至るまでの履歴が読み上げられている。すべて読み上げると、6年と8か月近くかかるという。その長さによって、犠牲の大きさがあらためて浮き彫りになるわけだが、一人ひとりの名前がこうして重視されるところには、ユダヤ的な伝統が介在していることを感じないではいられない。実際、名前と履歴のデータは、イスラエルのホロコースト記念施設ヤド・ヴァシェムの犠牲者記念ファイルにもとづいているという。もちろんヤド・ヴァシェムの調査には心からの敬意を表わしたいと思う。ただし、この施設の紹介が展示のなかでかなり大きなウェイトを占めることには、少し違和感を感じないわけにはいかない。展示の構成に大きく寄与した機関が文字情報のかたちで紹介され、その活動へ訪問者がアクセスできるようにするのは当然のこととしても、あくまで虐殺の歴史を振り返りつつその犠牲者を哀悼するためにあるはずの展示室の空間に、その機関の写真がいくつも掲げられるなら、展示そのもの意味が歪められてしまうのではないだろうか。このほかに、虐殺の舞台となった場所に関する、映像資料と証言の音声による展示もあった。
 少し割り切れない気持ちで「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」を後にすると、今日までホテルの朝食以外まともな食事をしていないことに気づき、通りがかったヴェトナム料理屋で遅い昼食を取ることにする。食べたのは、日本でいうサービスメニューとして掲げてあった、鶏肉を揚げたもの。まさに炒飯そっくりの焼飯が山盛りになっているのに載っていて、正直途中で飽きてしまった。ヴェトナム人と思われる店員の応対も気に入らない。
 途中のスーパーで買い物をしてからいったんホテルへ戻り、夕方からはベルリン・ドイツ・オペラでヴァーグナーの『タンホイザー』の公演を聴く。ドレスデン版による公演で、指揮はドナルド・ラニクルス。序曲から非常に力のこもった演奏で、期待が高まる。序曲の途中から、合唱が演じるヴェーヌスベルクの女性たちが裸を思わせる(舞台から遠い席で確認できなかったが、薄い肌色の衣装を着けているように見えた)姿で登場し、タンホイザーを誘惑する。そして序曲が終わるとともに、女性たちが誘惑する手を掲げながら奈落へ消えていくという演出。キルステン・ハームスによる演出は、全体として、ベルリン・ドイツ・オペラの上下の移動が自在な舞台を巧みに用い、かつ照明のイリュージョンも非常に効果的に駆使した演出だったが、舞台の上下動の際の騒音が少し気になった。騎士道的な恋愛が花咲く中世の世界を現代の視点から、現代の問題を照射するものとして捉える演出のコンセプトは、それなりに好感がもてるもので、基本的にはシンプルな装置と衣装によって舞台が構成されている。騎士の甲冑と馬を模した乗り物が仰々しすぎたのを除けば、違和感なく見ることができた。蝙蝠のような姿をした、ゴシック様式の教会の外壁に見られるような怪物が、人間の意識下の欲動を具現しているという見方も、説得的に表現されている。演出においてとりわけ興味深かったのは、第3幕でローマへ向かう巡礼の一行が病院のベッドから現われたこと。演出家へのインタヴューによれば、肉体的な快楽の園と言うべきヴェーヌスベルクと、精神的な騎士道的愛の世界であるヴァルトブルクとは、人間そのもののうちにある二つの側面を具現しているとのことだが、そうした見方にとって、身体的なものを否定しながら精神的な救いを集団で追い求める巡礼の姿は、どこか病的に映るのだろうか。ともあれ、幕切れの合唱が、ベッドから起き上がって、かつ女性たちも加わって歌われるのには、身体性の回復と身体を介した人間関係の再発見とを見る思いがした。ハームスは、そこに救済を見届けようとしたのかもしれない。とすれば、男性という同性の集団の巡礼が、タンホイザーを救済へと導くという解釈は否定されることになるし、ともすればナチズムの称揚にもつながりかねない、精神的なイデオロギーへの献身の賛美も斥けられることになろう。むしろ身体的な人間の生が他者との関係において再発見されるところに焦点が当てられることになるはずだ。実際、フィナーレにおいて憔悴したタンホイザーは、生きたエリーザベトの腕に抱かれることになる。
 歌手のなかでは、何とこのエリーザベトとヴェーヌスの二役を演じたペトラ・マリア・シュニッツァーが、この二つのパートを見事に歌いきっていた。体力的に相当困難なはずだが、最後まで声に疲れを見せることなく、美声を劇場全体に響かせていた。表現の振幅の大きさにも瞠目するべきものがある。タイトル・ロールを演じた、ペーター・ザイフェルトも、大きな体格を生かした力強い声と豊かな感情表現で、説得力のあるタンホイザー像を浮き彫りにしていた。とくに第3幕の「ローマ語り」の歌は感動的ですらあった。ヴォルフラムを演じたマルクス・ブリュック、ヘルマン公を演じたラインハルト・ハーゲンをはじめ他の歌手たちの歌唱にもほとんど隙がない。とりわけヴォルフラムの「夕星の歌」は、タンホイザーの「ローマ語り」に比肩しうる出来だった。
 今回の公演でとくに印象的だったのは、合唱の素晴らしさ。息を呑むようなピアニッシモから圧倒的なクライマックスまで、乱れることのないアンサンブルとハーモニーが貫かれていた。『タンホイザー』の出来を左右するのは合唱としばしば言われるが、ベルリン・ドイツ・オペラの合唱は、聴衆の耳を舞台の空気へしっかりと引きつけていた。舞台上の演技にも間然するところがない。指揮のラニクルスは、オーケストラから力強い響きを引き出していた。音楽の運びは手堅いながら、テンポにも推進力があり、バランスの取り方も巧みである。オーケストラも熱のこもった演奏で応えていた。この日の『タンホイザー』の公演では、オーケストラ、合唱、ソロの歌手、そして演出が一体となって、人間がその身体性において救済されるドラマを、きわめて説得的に構成していたのではないだろうか。

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2009年9月25日 (金)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記III

【ホテル・メゾン・オリヴァー・プラッツにて】
 ヴァイマールのホテルをチェック・アウトして、市街中心へ向かう。新美術館が開くのが11時なので、それまでレベッカ・ホルンのインスタレーションの展示場所を下見に行くが、地図に従って歩いて行き着いたのは、錆び付いた骨組みだけになったバスの車体が放置されている廃墟。普段は、市電の車庫だった建物を使って夜に演劇の公演が行なわれたりしているようだが、なかなか魅力的な会場かもしれない。それで、お目当てのインスタレーションはどこにあるのかと探してみると、貼り紙がしてあって、土曜と日曜の午後にしか公開されないとのこと。新美術館の受付の人に聞いても、同じ返事だった。期待していただけに非常に残念だ。
 通りがかりの古本屋をのぞいたりして開館時間を待ってから新美術館へ行き、そこで開催されているフランツ・エーリヒの回顧展を見る。最初に展示されていた、逮捕されて収監されているあいだに制作された水彩画のシリーズが、素朴ながら心を打つ。彼の恋人が差し入れた紙に書かれたとのことだが、その多くは全体的に明るく、穏やかな色調で、ほとんどの作品に鍵と錨がモチーフとして描かれている。鍵は当然ながら自由な世界へ出たいという願いを表わしているのだろうが、錨は何を表わしているのか。魚を魅力的に描いた一枚もあることからすると、広大な海原への憧れを表わしているのかもしれないし、自分の依って立つ足場のようなものを求めているのかもしれない。バウハウスで学んだであろう有機的に構築された画面構成のなかに、柔らかな静けさに満ちた世界が広がっている。
 エーリヒは、ブーヘンヴァルト収容所へ送られた後、インテリア・デザイナーとしてSSに重用されたようで、SSの住居やその家具のために膨大な設計図を残している。展覧会ではその一部が展示されていた。面従腹背のドキュメントと言えようか。もちろん図面を引く際、収容所の支配者の言いなりになってばかりだったわけではないだろう。調度品などの無駄を廃した設計は、バウハウスの精神に基づく抵抗のささやかな表われと言えるかもしれない。その抵抗が最もはっきりと表われているのが、言うまでもなく収容所の門に掲げられる「各人に各々自身のことを(Jedem das Seine)」の文字のタイポグラフィーであろう。展覧会ではヨースト・シュミットのモデルなどにもとづいて、エーリヒが用いた書体の由来が跡づけられるとともに、この箴言の由来も示されていた。それは次のようなローマ法に表われる正義の掟に由来するという。「正直に生きよ。他人を傷つけるなかれ。各人に各々のことを認めよ」。エーリヒの抵抗は、欺瞞の極致として掲げられる言葉を、その本来の意味へ投げ返そうとする試みだというのが、展覧会の主催者側の解釈のようである。
 展覧会ではそのほかに、エーリヒが戦後、東ドイツ時代に設計した放送局の建物を撮影場所に用いたヴィデオ・インスタレーションも展示されていた。インスタレーションは、アンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』から着想を得たもので、今は使われていないこの建物を、『惑星ソラリス』に出てくる過去の記憶を体現する「お客」のような女性が徘徊するのをカメラが追うというもの。その際に建物の細部が意味深く映し出されて興味深い。
 さて、ベルリン行きの特急が出る時間までまだしばらくあるので、ゲーテとシラーの像のある国民劇場の広場からほど近いバウハウス博物館を訪れる。バウハウス創立90年を記念してか、常設展はなく、バウハウスの歴史についての短いドキュメンタリー映画の上映と『新しい線(Die neue Linie:この「線」には「路線」、「進路」、身体の「輪郭線」といった意味が込められていよう)』という女性誌に関する特集展示のみ。バウハウス様式の表紙の書体をはじめとして、服のデザイン、インテリア、ライフ・スタイルの発信におけるバウハウスとの密接な関係に焦点が当てられていた。ナチスの支配下で、「自立した女性」から「民族の母」へ誌上の女性像が変貌していくのも興味深いが、正直なところ常設展を見たかった。20分ほどのドキュメンタリー映画も、バウハウスのさほど目新しいもののない紹介。グロピウス自身が話しているのはたしかに面白かったけれども。博物館を出た後は、近くのヘルダー教会を訪れ、クラーナハの祭壇画を見る。壮大な三幅対の絵が、祭壇一面に掲げられていて圧倒される。十字架上のイエスの描写も生々しい。飛び散った血が降りかかるのは聖別の徴か。祭壇の隣には、三つの時期に分けてルターを描いた肖像画もあった。
 教会を出て中央駅へ急ぎ、ブレーツェルと水を買い求めて、ベルリンへ向かう特急列車に乗る。ライプツィヒとドレスデンを往復する列車と違って車両は古く、車内もあまりきれいではない。車内はかなり混み合っていて、立っている人も多い。それをかき分けて予約した座席を見つけ、車掌さんの手を借りて荷物を棚に収めてやっと腰を落ち着けることができた。2時間と少し走り、数分の遅れでベルリンに到着。遅れたために、予定していた乗り継ぎの電車に乗れず、次の電車を探すのにひと苦労だった。Sバーンが走っていればこういうことはないのだけれども。
 ようやくポツダム行きの電車に乗り、シャルロッテンブルクの駅から歩いてホテルへ向かう。10分ほど探してホテルを見つけると、それはかなり古い建物のなかにあった。日本でいう三階がホテルになっているとのことで、そこまでスーツケースを持ち上げるのがひと苦労。ホテルの主人は気のいいおじさんで、部屋は大丈夫かなどといろいろ心配してくれる。部屋はそれほど大きくないが、不自由はない。古い建物ならではの内装も落ち着ける。一つ問題なのはインターネットの接続で、無線LANの電波がほとんど届いていない。メールの送受信とウェブ・サイトの閲覧以外は諦めたほうがいいだろう。荷解きをして、ひと息ついてから、今度はポツダム広場のフィルハーモニーへ向かう。オリヴァー広場からバスに乗り、ツォーロギッシャー・ガルテン駅で乗り換えて地下鉄2番線でポツダム広場へ。20分足らずで到着した。
 フィルハーモニーでは、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴く。指揮はインゴ・メッツマッハーで、曲目はマーラーの交響曲第3番。最初からしばらく響きにまとまりを欠き、金管楽器のミスも多くて心配したが、第1楽章の終わりあたりから調子に乗ってきた感じだ。とくに楽章のコーダの追い込みは、今まで聴いたなかで最も激しいものだった。第2楽章では、弦楽器の柔らかな響きがとりわけ魅力的。メッツマッハーがメロディを十分に歌わせていたのも好ましかった。第3楽章は、舞台裏からのポストホルンのソロを含め、いくつか危うい箇所があったものの、全体としては軽やかな歌の魅力と、針葉樹の森のように聳え立つ響きの壮大さを兼ね備えた演奏に仕上がっていた。この楽章でも弦楽器の奥行きのある、かつ肌触りの柔らかな響きがマーラーにふさわしい。第4楽章では、アンネ=ゾフィー・フォン・オッターが、ニーチェの「ツァラトゥストラの酔歌」の素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。声量が豊かなわけではないが、フィルハーモニーの広い空間のなかにすっと声を浸透させる歌唱力には瞠目させられる。第5楽章では、オルガンの前に陣取った少年合唱がしっかりと訓練されたハーモニーを聴かせてくれたし、女声合唱もそれ自体としてはまとまっていたのだが、オーケストラとのアンサンブルにずれが生じてしまったのが残念。第6楽章では、少しも急ぐことのないテンポで、柔らかなピアノから壮大なクライマックスへ至る大きなクレッシェンドが見事に構築されていた。ヴァイオリンをはじめとする弦楽器の繊細な響きと、豪壮とも言える金管楽器の響きとの対照が実に印象的である。ちょうど10年前に聴いたケント・ナガノ指揮による演奏に比べると、演奏の精度と響きの洗練の度合いは劣るかもしれないが、聴き応えという点ではそれに勝るとも劣らない演奏であった。

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2009年2月 8日 (日)

ベルリン放送交響楽団演奏会

 2月7日、岩国駅近くにあるシンフォニア岩国で開催されたベルリン放送交響楽団の演奏会を聴く。指揮は、このオーケストラの音楽監督を務めるマレク・ヤノフスキ。この組み合わせ、今から4年ほど前にベルリンのフィルハーモニーで聴いたことがある。そのときはR・シュトラウスのアルプス交響曲で、フィルハーモニーの舞台を埋め尽くす大編成のオーケストラが見事なアンサンブルを聴かせてくれたのだった。その記憶もあって楽しみに出かけた。
 プログラムはすべてベートーヴェンの中期作品で、最初に演奏されたのは「エグモント」序曲。ヤノフスキは、最近しばしば見られるように、ピリオド楽器での演奏を意識して弦楽器の人数を減らしたり、ピリオド楽器の奏法を取り入れたりはしない。フル編成のオーケストラをしっかりと鳴らしきる。それがむしろ小気味よいくらいだった。序奏部での弦楽器のユニゾンは、各セクションの緊密なアンサンブルと相まって、風圧が伝わってくるような響きで、そう、このような響きを聴きたかったのだ、と思ったくらい。とはいえ、緻密な構成力に定評のあるヤノフスキのこと、けっして豪放さを強調する方向へ走ることはない。バスがどっしりと座ったピラミッド型の音響をベースに、ダイナミクスの違いをきちんと描き分けていたのが印象的だった。そのバスが肺腑をえぐるようにクレッシェンドを主導するのが、この作品にはとくにふさわしく、主部のクライマックスの悲劇性をより深いものにしていたように思う。内声部のリズムの躍動感も素晴らしく、それが音楽に推進力を与えるとともに、壮麗なコーダをより感動的なものにしていたのではないだろうか。一曲目からして聴き応え充分であった。
 次にヴァイオリン協奏曲が演奏されたが、独奏を担当した樫本大進は、第二楽章まではとても小さく見えた。第一楽章では、オーケストラの響きの深さに、樫本の表現が拮抗しえていなかったように見える。独奏が登場する最初の上昇音型のパッセージからして、高音が今ひとつ輝かない。オーケストラがトゥッティで演奏するなかで弾くときなど、自分の音を引き立たせようとすればするほど、表現が縮こまってしまったように見える。細部に工夫の跡が見られるだけに惜しまれる。ようやくカデンツァに入って、解き放たれたかのように、伸びやかな音で素晴らしい技量を聴かせてくれた。第二楽章以降は、オーケストラの響き自体が少し薄くなることもあって、樫本の音は輝かしさを増したように思う。とくにフィナーレは、全体として感興と躍動感に満ちた演奏に仕上がっていた。ただ、緩徐楽章での樫本の表現はいささか表面的に流れた感があり、伴奏のオーソドックスなアプローチと対比して少しちぐはぐな印象を受けた。もしかするとそのあたりが、第一楽章で「小さく」なってしまった要因かもしれない。
 さて、休憩後に演奏されたのは第5交響曲。全体として、フォルテとフォルティッシモの音量を明確に区別しながら、引き締まった響きとテンポで全体を運んでいたが、実際に聴いているあいだは、そのような演奏として対象化されている印象はまったく受けない。あの単純な動機を積み重ねることで構成された音楽に自然に身を委せ、リズムの躍動を肌で感じ、それがクライマックスへ突き進むのに胸を熱くすることができた。そのように音楽そのものが伝わるのは、ヤノフスキとベルリン放送交響楽団の楽員が、このあまりにも知られた作品の内実を共有しているからだろう。両者は特別なことは何ひとつしていない。ただ、書かれている音をこの両者なりに音にしきっているだけである。そのことが、音楽そのものの構成によって生そのものの力強さと一体となったベートーヴェンの音楽として、聴衆の心を動かしうることを、あらためて実感させられた。とりわけ、内声部でリズムを刻む一音一音もおろそかにすることなく弾ききって音楽に献身する姿には心打たれる。また、全曲を通してファゴットが素晴らしい演奏を聴かせてくれた。これを含めたバスの声部が、一歩一歩大地を踏みしめながらクライマックスへとひた走る音楽の推進力とリズムの躍動感を支えていたことはいうまでもない。これほど堅固でありながら、音楽の喜びに満ちたベートーヴェンが聴けることは、めったにあることではないだろう。
 アンコールには、第8交響曲の第2楽章が演奏された。こちらは、先の曲よりも解き放たれた感じで、楽員たちもいっそう伸び伸びと演奏していたように見える。感興に満ちた素晴らしい演奏だった。
 これほどのベートーヴェンが聴けるのに、聴衆が少なかった(前二列くらいごっそり空いていた)のは非常に惜しまれる。また、この会場に海外のオーケストラが来るのは4年半ぶりとのこと。ホールの響きはそう悪くないだけに、これも寂しい気がしてならない。
 

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2008年5月30日 (金)

広島Van弦楽四重奏団第3回演奏会を聴いて

 広島交響楽団の弦楽器奏者で構成される広島Van弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲演奏シリーズは、今最も楽しみにしている演奏会の一つである。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲が16曲すべて演奏されること自体、きわめて稀なことであるうえ、その実演に接するなかでこそ、作曲家が弦楽四重奏曲という非常に抽象度の高い形式に込めた深い思索を、あるいは情熱やユーモアを、肌で感じることができるのだから。そして、回を追うごとにアンサンブルが成熟していくのに立ち会える喜びも、このシリーズならではのものであろう。
 去る5月18日に行なわれた第3回演奏会では、第4番(ハ短調作品18の4)と第13番(変ロ長調作品130)の二曲が取り上げられたが、とくに後者の変ロ長調の四重奏曲の演奏からは、アンサンブルの成熟が一つの充実した音楽に結実しているのを聴き取ることができた。アレグロの楽章では、後期作品の厳格な形式性を保ちながらリズムが躍動し、緩徐楽章では、豊かな響きのなかに深々とした歌が浮かび上がる。この第13番の演奏によって、四重奏団のベートーヴェンの作品へのアプローチも明確になったのではないだろうか。奇を衒うことなく、ひとつひとつの音をしっかりと響かせることによって、音楽そのものに語らせようとするアプローチ。それによってこそ、ベートーヴェンが弦楽四重奏のために書いた最も美しい楽章と言われるカヴァティーナが深沈と響くし、晩年の彼独特のほろ苦いユーモアも、皮相に流れることがない。
 情熱をもって各フレーズを明確に描き取っていく鄭英徳のヴァイオリンがひときわ印象に残るが、それを支える各声部の充実ぶりにも目を見張らされる。もう一歩踏み込んだ表現を求めたい箇所もないではなかったが、これほど完成度の高いベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲の演奏に接することができたことを、まずは率直に喜びたい。また、広響の忙しいスケジュールの合間を縫って、ベートーヴェンの作品に真摯に取り組む四人に、心からの敬意を表したい。弦楽四重奏を志す者が一度は登ってみたいと思う険しく聳え立つ山の頂を、手を携えて目指す四人を応援しながら、16曲の弦楽四重奏曲を聴き通す歩みをこれからも続けようと考えている。

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2008年2月17日 (日)

ザルツブルクとミュンヘンへの旅

 このウェブログに一年以上も何も書かなかった。物理的に書く時間がまったくなかったわけではないけれども、自由に書きたいことを書くだけの心の余裕がなかったのだ。昨年は、原稿の執筆、学会での発表、翻訳の仕事、ヒロシマ平和映画祭をはじめとする広島での文化的な活動(第2回となるヒロシマ平和映画祭2007については公式ウェブ・サイトをご参照いただきたい)、そしてもちろん講義をはじめ大学の仕事で非常に慌ただしかった(こうした活動の記録についてはわたしのウェブ・サイトの記録をご参照いただきたい)。さらに7月には、初めての子どもである娘の美音が生まれ、子育てにも忙しくなってしまったのだ(美音の成長記録についてはこちらのウェブログを)。そうした忙しさに振り回されてしまった、というのが正直なところである。たしかにこうした忙しさのなかに、これからの仕事の糧となる貴重な経験があったのは間違いないのだけれども、今のところそれを反芻するだけの気持ちの余裕をもつことが未だできていない。何よりも、昨年中に読んだ本、聴いた演奏会、足を運んだ展覧会、そして今までになく数多く見た映画についての考えをまとめることができないでいるのが悔やまれてならない。
 2008年もそのような慌ただしさを引きずったまま始まってしまい、早いものでもう50日が経とうとしている。そのようなか、後期の講義が終わったところで、妻とミュンヘンとザルツブルクへの短い旅行へ出かけた。主たる目的はザルツブルクで毎年モーツァルトの誕生日の1月27日を中心に行われる音楽祭モーツァルト週間のいくつかの演奏会を聴くことで、今回は2泊3日の滞在期間中に4つの演奏会を聴くことができた。なかでも最近活躍のめざましいマルク・ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの演奏会は鮮烈な印象を残した(モーツァルト週間2008の演奏会の報告についてはわたしのウェブ・サイトをご参照いただきたい)。
 今回の旅行ではフライトに成田からのミュンヘン行き直行便を使い、到着した日と出発する前の日にはミュンヘンに泊まった。ミュンヘンとザルツブルクの間は特急列車で1時間半ほどと近いし、妻がミュンヘンの街を見たことがなかったからである。ミュンヘンでは、空いた時間を利用して、古典絵画の宝庫とも言うべきアルテ・ピナコテークと、カンディンスキーをはじめとする「青騎士」の精華が展示されているレーンバッハハウス・ギャラリーを訪れた。前者ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンの祭壇画の静謐な美しさや、デューラーをはじめとするドイツ古典絵画の力強さに打たれ、後者ではマルクの動物をモティーフとした絵の色彩のユートピア的とも言うべき美しさに心を動かされた。ちなみに、レーンバッハハウス・ギャラリーの各展示室の内装は、それ自体が現代美術家によるインスタレーションのようになっていた。20世紀の古典を21世紀の今と呼応させようというのだろうか。
 ミュンヘンを発つ前の夜には、ガスタイク文化センター内のフィルハーモニーで、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴いた。指揮はドイツの中堅マルクス・シュテンツで、前半は現代イギリスの作曲家トーマス・アデスの「アシュラ」、後半はハイドンの第22番と第100番の交響曲というプログラムであった。最初のアデスの曲が始まる前に、指揮のシュテンツがマイクを手に、曲の構成を聴衆に紹介していた。なかなかウィットに富んだコメントで、これなら現代音楽を聴き慣れていない聴衆も作品の世界に入って行きやすいだろう。演奏そのものも、今のミュンヘン・フィルの機能性を最大限に生かしたもので、リズムの躍動感と響きの見通しのよさを見事に両立させていた。
 後半の最初に演奏された、「哲学者」という表題で親しまれるハイドンの第22番の交響曲では、管楽器として珍しく2本のコーラングレが加わり、第一楽章ではそれとホルンの対話が聴きどころとなるが、シュテンツは両者を舞台の両端に配して、山を隔てて呼応しあうかのような対話を際立たせていた。それ以外の楽章の音楽の運びは、きびきびとしていて聴いていて心地よい。
 最後に演奏された第100番の「軍隊」交響曲の演奏は、基本的にはオーソドックスなアプローチで洗練された様式性を提示するものであるが、ところどころでハッとさせる間を取ったりして、かなり強烈な諧謔を表現するものでもあった。フィナーレの高揚感も素晴らしく、ハイドンを聴く喜びを存分に味わわせてくれる演奏だったと言える。一つ全体的に気になったのは、ホールの残響が非常に長いせいか、ひとつひとつの音のエッジがぼやけてしまったこと。それによって曲の輪郭も少し曖昧になってしまったように思えてならない。
 演奏会のはねた後、聖母教会近くのニュルンベルク風の焼きソーセージを食べさせる店に立ち寄ったが、これが強烈にバイエルン的な雰囲気を押し出す店でまったく落ち着けない。バイエルンよりはベルリンやその周辺の街のほうが、わたしにはしっくりくるようだ。

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2006年12月20日 (水)

ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ&新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会

 12月3日、東京都墨田区のすみだトリフォニーホールで、ショスタコーヴィチの生誕100周年を記念する新日本フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会を聴く。指揮は生前のショスタコーヴィチと親交のあったムスティスラフ・ロストロポーヴィチで、ピアノ協奏曲第1番と交響曲第8番という2曲のハ短調の作品が演奏された。
 最初に演奏されたピアノ協奏曲第1番は、若きショスタコーヴィチがその才気を古典的な形式のうちに凝縮させた作品として知られているが、この日の演奏は、どちらかというと当時のショスタコーヴィチのモダニズムよりはロマンティシズムを強調した演奏と思われた。ピアニストの上原彩子がひとつひとつの音をしっかりと弾きながら十分に歌っていたうえ、トランペット独奏を担当した服部孝也の音色が一貫して柔らかであったことがそのような印象を与えた側面もあるが、何よりもロストロポーヴィチが指揮するオーケストラの響きが深く、とりわけゆっくりとしたテンポの楽章において、ひとつひとつのフレーズを十分に歌わせながら説得力ある表現を示していたのが、強い印象を残したからである。第2楽章のレントの陰鬱な音楽がこれほど重々しく迫ってくるのを聴いたことがない。ロシアではスターリンが牙を剥き始める時代に、またヨーロッパではファシズムが跋扈し始める時代にこの曲が書かれたことが、あらためて思い起こされる。両端楽章の諧謔も重く、また苦い。個人的には、グロテスクな哄笑がもっと空々しく響くところがあっても、とは思ったが、モダニズムのアイロニーとともにユーモアを表現せざるをえないことを噛みしめるような表現が、遅めのテンポと厚みのある響きで打ち込まれてゆくのには、胸を衝かれてしまう。重厚な音の塊となった弦楽器群が突き進むのにもぐっと耳を惹きつけられる。上原彩子のピアノ独奏は、厚みのある音色で、ひとつひとつのフレーズをしっかりと弾き込んでいた。ショスタコーヴィチのスコアを十分に読み込んでいることが伝わる、説得力ある表現を示していたが、やや音色の変化に乏しい気もしないではなかった。また服部孝也は、一貫して美しい音色で困難なトランペット独奏のパートをほぼ完璧に吹き切っていたが、もう少し鋭い表現があっても、と感じるところもあった。とはいえ、両者のアプローチがロストロポーヴィチのそれと見事に調和していたことは言うまでもない。若きショスタコーヴィチの古典主義を装ったモダニズムではなく、苦く重いロマンティシズムを、強い説得力と高い完成度をもって表現したピアノ協奏曲の演奏であった。
 休憩を挟んで演奏された交響曲第8番は、ピアノ協奏曲が書かれたおよそ十年後、第二次世界大戦のさなかに書かれた作品で、その戦争を主題とする交響曲の中核をなすものとされてきたが、そこにあるのは戦争そのものの描写というよりはむしろ戦争の狂気と苦悩の表現であり、またそれを貫くのは戦争の犠牲となった人びとへの哀悼であることを、ロストロポーヴィチの指揮は強い説得力をもって示していた。とりわけ最終楽章の、作曲者が人生の肯定と呼んだと言われるユーモアが、いかに苦く噛みしめられたものであるか、初めて理解できたように思われる。ファゴットやチェロによって奏でられるどこかユーモアを含んだ旋律が、苦みに顔を歪めながら歌われているように聴こえるのだ。それを歌う者は戦争のことを、その犠牲になった者の苦しみを忘れようとしているようとしながら、どうしても忘れられないでいるのかもしれない。そのようななかに戦争の狂気の記憶が仮借なく回帰してくるのだ。第1楽章のクライマックスを形成し、第3楽章から第4楽章への移行部に再び現われたあの鋼鉄の暴風のような全オーケストラの叫びが、苦いユーモアを交えた最終楽章の展開のなかに割って入るのである。そのように3度繰り返される嵐のように吹きつける叫びは、ほんとうに鋼鉄を思わせる硬さと重さをもって聴き手に突き刺さってくるばかりでなく、はるか遠くから凄まじい速度で押し寄せてくるようですらあった。そのように強度と奥行きをそなえた響きをロストロポーヴィチの指揮はもたらしていたのだが、それに応える新日本フィルの各奏者の力量も特筆に値しよう。3度繰り返される重い叫びがけっして痩せることはなかったし、またその響きが混濁することも一度としてなかった。どこまでも正確に戦争の狂気が表現されていたのである。
 ロストロポーヴィチの指揮するこの交響曲の音楽の歩みは、どこまでも重く、深い。第3楽章の無窮動的な動きのひとつひとつもしっかりと踏みしめられる。そして、ずしりと打ち込まれる第1楽章冒頭のモティーフ。これこそが後に、鋼鉄の暴風のような狂気の叫びとなって回帰してくるのである。そのモティーフは、アダージョの楽章の冒頭において、恐ろしいまでに広大で奥深い、そして冷たく張りつめた空間を打ち開いていた。そしてその空間のなかに、すべての息が凍りつく寸前のところで囁かれているかのような祈りの歌がすっと入り込んでくる。ヴァイオリンが奏でる第2主題は、これ以上は不可能と思われるほどの最弱音で演奏されたのである。ロストロポーヴィチは、戦争と圧政の犠牲となった者たちのために、どれほど息を潜めて祈らなければならなかったのかを、祈りの場の空気とともに伝えようとしたのだろうか。この祈りの歌をあたかも一人で奏でているかのように弾き切ったヴァイオリン・セクションのアンサンブルにも瞠目させられた。
 第1楽章中間部と第2楽章のマーチの歩みも重い。とくに後者はスケルツォのなかのマーチとして、滑稽味を含んでいるのだが、その諧謔も苦く響く。たとえ軍隊組織のようなものが空虚な不条理を含んでいて、その権力が恣意的な暴力であったとしても、身近な人びとがその犠牲になった者にとっては、それはけっしてたんなる笑いの対象にはなりえない。皮肉を言いえたとしても、それはどこまでも苦く噛みしめられなければならないのだ。第1楽章のクライマックスを過ぎて、音楽が静まったなかに、どこか問わず語りのように歌い出されるコーラングレの独奏は、そのことのうちにある悲しみを、しっかりとした息づかいで切々と訴えるかのようだった。ロストロポーヴィチの指揮による第8交響曲の演奏は、抽象的な「戦争」ではなく、戦争の狂気が、さらには権力の暴力が吹き荒れた時間と空間を生きた人びとひとりひとりを、さらにはそれらの犠牲者たちに捧げられる祈りのひとつひとつを焦点とするものであったのではないか。そしてロストロポーヴィチは、生き残ったひとりひとりの生と祈りの空間と時間を、そして時代を克明に描き出そうとしていたのではないだろうか。そのような彼のアプローチは、新日本フィルの卓越した演奏──これほど個々の奏者の力量が高く、合奏能力も優れたオーケストラの演奏を、東京では日常的にも聴くことができるのだ──と一体となって、強く、そして重く胸に迫ってくる。作曲家ショスタコーヴィチとともに一つの時代を生き抜いた音楽家の証言が、きわめて完成度が高く、また心を揺さぶる説得力をもった音楽に結晶した、そんな第8交響曲の名演奏であった。

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2006年12月19日 (火)

マリス・ヤンソンス&ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会

 12月2日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて、マリス・ヤンソンスが指揮するアムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会を聴く。前半に演奏されたのは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲と交響曲第8番。
 最初に演奏された「エグモント」序曲を聴いていても、ヤンソンスのベートーヴェンへのアプローチをうかがい知ることができる。おそらくそれは、作品の脈打つ生命と古典的な様式を新たな視点からとらえなおしつつ、両者をモダン楽器の機能を最大限に生かして表現しようという行き方であろう。たしかにそうしてこそ、コンセルトヘボウ管弦楽団の豊潤な響きを、ベートーヴェンの作品の内実を表現するのに生かすことができるにちがいない。たしかに「エグモント」序曲の演奏において、オーケストラはまだ十分に鳴り切っていなかったとはいえ、ヤンソンスとコンセルトヘボウ管弦楽団は、豊かな、それでいてけっして混濁することのない響きで、悲劇性を過剰に強調することなく、この序曲の音楽がもつ躍動感を生き生きと表現していた。それによって何よりも音楽のフォルムが明確に伝わってくるのは、一面で爽快ではあるが、ベートーヴェン中期の音楽から聴かれる、型を破ってしまう叫びのようなものが伝わってこないもどかしさは残る。勝利の音楽に入る前のヴァイオリンのパッセージがディミニュエンドして終わるのは、様式的には正しいと思われるとはいえ、どこか肩透かしを食った感じもする。
 こうしたヤンソンスのベートーヴェンへのアプローチが最も生きたのは、第8交響曲の演奏においてであろう。当初このヘ長調の交響曲が取り上げられると知ったときには、今なぜ、という疑問が湧くのを禁じえなかったが、演奏を聴いてみて、ヤンソンスがこの作品を取り上げのはなぜか、理由の一端を理解できた気がした。彼の音楽がその基底にもつ楽天性と、どちらかというと骨太の運動性とが、今このヘ長調の交響曲の音楽に内在する生命と最もよく調和していることが、演奏から伝わってきたのである。
 第1楽章冒頭の4小節で主題が提示されるのを聴いただけで、素晴らしい演奏になることが確信されるとともに、音楽そのもののなかへ入っていくことができた。ヤンソンスは、響きを後に引きずらない切れ味をもった明確なフレージングによって、音楽のフォルムをはっきりと見定めながら、そこに内在する生命の躍動をきびきびとしつつ急ぎすぎることのないテンポで、かつベートーヴェンの音楽にふさわしい重厚さをもって引き出していたのである。何よりも、まったく無理のない音楽の運びで、コンセルトヘボウ管弦楽団自体のもつ豊麗な響きにピリオド楽器の奏法の切れ味をうまく加味しながら、それをベートーヴェンの長調の音楽の表現に存分に生かし切っていたのが印象に残る。ピリオド楽器の奏法に全面的に依拠した演奏のように耳を驚かせるところはほとんどなく、どこを取っても自然に響いてくるのだが、けっして音楽がルーティンに流れてゆくことはない。全体の響きが明瞭なためにゴツゴツした動きも浮かびあがってくるのだが、それが喜びに満ちた音楽に推進力をもたらしてゆく。たんにオーケストラの各セクションのバランスが取れているというだけでなく、それがけっして自己目的化することなく、清新で喜びにあふれた音楽像の形成に見事に生かされていたのである。
 第2楽章では、メトロノームを模したと言われる音楽の歩み自体が醸す諧謔が、確かな足どりと鋭い切れ味をもって十分に表現されていたが、その間に差し挟まれる木管楽器のハーモニーは、響きそのものに身を委ねる喜びも味わわせてくれた。第3楽章のメヌエットもけっして退屈させることはない。弦楽器の波打つ動きのなかからすっとヴァイオリンのチャーミングなメロディが引き出される瞬間には眼を細めてしまう。トリオのホルンのアンサンブルを伴奏するチェロの動きは2人の奏者だけで弾かれていたが、それによってホルンの響きの美しさがいっそう引き立てられていたように思う。フィナーレは愉悦の極み。第8交響曲の時期以降のベートーヴェンの音楽において特徴的になってゆく断片的なモティーフの動きが、喜びに満ちた音楽の躍動と見事に結びついていた。曲の末尾ではトゥッティのアコードが執拗に反復されるが、ヤンソンスはそれを、むしろそのしつこさを楽しむかのように、そしていつまでも終わりが来ないかのように響かせた末に、短く切り約められた響きで、一抹のユーモアもそこに込めながら曲を閉じた。そうして響きを引きずらないこと。それは清新な明確さと心からの喜びをもって作品に内在する生の躍動を表現したこの演奏を締めくくりにふさわしい。そうであってこそ、音楽の余韻が心の喜びと響きあいながら残るのだから。
 さて、休憩の後に演奏されたドヴォジャークの交響曲第9番においても、ヤンソンスの確かな読みにもとづいた音楽運びの巧みさが光った。この作品において彼は、さらに余裕のあるテンポでメロディを歌わせながらも、けっして過度に情緒的になることなく、むしろこのあまりにも有名な作品の新たな姿を響かせようとしていた。たとえば、第1楽章の第2主題は、第1主題よりもかなりテンポを落として演奏されていたが、音楽が停滞することはけっしてないし、むしろメロディが十分に歌われるなかに、これまで聴こえてこなかった和音の奥行きが響いてくる。むろんリズムの躍動も欠けてはいない。とりわけ第1楽章のコーダで、重厚な響きの塊が終わりへ向けて突き進む様子はスリリングであったし、また非常に聴き応えがあった。
 第2楽章のラルゴの演奏は、非常に広い強弱の幅を取っていたが、ピアニッシモでもけっして響きが痩せないのが印象的。澄んだ、それでいて豊かな響きによって貫かれたラルゴ。コーラングレのソロも確かなフレージングでしっかりと歌われていたし、各セクション二人だけの弦楽器で演奏されるパッセージにおいても響きの豊潤さが損なわれることがなかった。かなりテンポを動かしながら一つの楽節から別の楽節へ移り変わるのもけっしてわざとらしくならない。第3楽章のスケルツォにおいては、ヤンソンスの音楽の運びの巧さがとくに光っていた。リズムの躍動と歌の豊かさが見事に両立しているし、かつすべてが清新に響く。フィナーレにおいては、音の塊が力強く前へ進むさまにまず耳を惹きつけられたが、それ以上に第2主題のメロディに、ふだん聴き逃してしまいがちな対旋律がしっかりと寄り添いながら、歌の豊かさをもたらしていたのが印象に残る。その歌がけっして情緒的になりすぎないのは、未聞の響きをスコアから引き出してゆくうえで必要なことだったのかも知れないが、個人的にはもう少し熱いものが湧き上がってくるのを聴きたかった気もしなくはない。すべてがあまりにも澄んだ響きのなかで、あまりにも流麗に歌われてしまったのが、作品全体の印象を薄めてしまっているのでは、という思いも残る。ドヴォジャークの第9交響曲の演奏として、これ以上の完成度を望むのは極めて難しいとはいえ、その完成度それ自体が、音楽が自己自身を伝える力を弱めているのでは、という疑念も拭えなかったところである。ヤンソンスのドヴォジャークのスコアの読みが卓越したものであることは十分に感じ取られたのだけれども。その第9交響曲という、感情の振幅が極めて広いなかに、郷愁をはじめさまざまな想念が入り込む作品が相手だっただけに、ヤンソンスの音楽づくりの美質が最大限に生かされているのを感じる一方で、演奏の技術的な完成度と音楽の力がかならずしも一致しえないことをあらためて痛感させられた演奏であった。

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2006年10月20日 (金)

ベルリン旅日記:10月19日

 今日も午前中から国際ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムに参加する。午前中の基調講演を担当したベルント・ヴィッテは、文化的な記憶、そしてその伝承がいかにその媒体に依存しているかを論じていた。伝承の媒体が歴史的な人間の言語となり、それとともにたとえばユダヤ教のトーラーが無限に解釈可能となったことを「ディアスポラ」と結びつけていたあたりは興味深かったものの、物語的な伝承、印刷された文字、近代国家の記念碑的建築と変化していった記憶の媒体が、20世紀に至って文学となり、今やその注釈に文化的な記憶の伝承がかかっているとする議論は、制度的な学問としての文学研究の自己正当化を志向しているように思えて、ややついて行きがたい。
 ベンヤミンの哲学の反体系性をテーマとする分科会へ行ってみると、二つの発表がキャンセルされたようで、発表は一つだけ。若いベンヤミンのソクラテス批判を取り上げながら、ベンヤミンが評価するプラトン的対話を「トラクタート」の概念と結びつけようとするものだったが、対話ということとベンヤミン自身の方法とを接続されるためには、もう少し詰めておかなければならないことがあるように思われた。それに続いて昨日の発表者を交えて討論が行われた。若い研究者たちが今ベンヤミンを読む可能性を熱く論じあう姿に触れることができたのは貴重な経験だったし、またその該博な知識にも驚かされた。それに比べたら自分はまだまだ勉強不足である。
 いったん宿に戻って少し本を読んだりした後、今度は国立歌劇場のアポロザールへベンヤミン・フェスティヴァルの午後のプログラムを聴きに行く。室内楽の演奏会やオペラ公演のアフタートークの会場として用いられることの多いこのホールで、ジョルジョ・アガンベン、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ステファヌ・モーゼスという世界的に知られた三人の哲学者の講演が行なわれるわけである。
 会場で空席を見つけて座ると、一列後ろの女性が携帯電話で「アガンベンは病気よ」と話している。ジグリット・ヴァイゲルによれば、アガンベンは今朝になって突然来られないと連絡してきたとか。病気か仮病か定かではないが、アガンベンが今ベンヤミンについて何を語るか楽しみにしていただけに残念である。とはいえ、ディディ=ユベルマンの講演もモーゼスの講演も興味深かった。とくに、コソヴォで撮られた家長の死を悲しむ家族の写真をモデルに制作されたレリーフを例に用いながら、その未完結性によって一回的で特異なものの記憶を甦らせるイメージの可能性を論じたディディ=ユベルマンの講演は、現代にベンヤミンを生かす道を説得的に示していたように思う。「パサージュ」としての、あるいは「根源」としてのイメージ、その反復、そして複製のうちに一回的なものが新たに見いだされるのだ。それを媒介する「解読」は、ディディ=ユベルマンによると「イコノロジー」の対極にあるという。モーゼスの講演は、ベンヤミンのうちにユダヤ神秘主義の伝統の継承を見て取りながら、『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」に見られる「原聴取」の概念が代表する聴覚的なモティーフがベンヤミンの思考のうちに一貫して見られることを強調するもの。ベンヤミンとショーレムがバベルの塔の建設と結びつける堕罪とともに失われた根源的な真理を聴覚的に復元しようという志向が、ベンヤミンの思考を貫いているというのである。
 夜はフィルハーモニーへベルリン・フィルの演奏会を聴きに行く。指揮はサイモン・ラトルで、シューマンとブルックナーの第4交響曲というプログラム。シューマンの第4交響曲は、1841年の初稿で演奏された。ちなみにブルックナーは、1878/80年のノーヴァク版。シューマンの第4交響曲を、楽章のテンポがイタリア語で記されている初稿で演奏すること自体、ラトルのシューマンへのアプローチのありようを示しているのかもしれない。ラトルは、少なめの弦楽器の編成で見とおしのよい響きをつくりながら、リズムの躍動を強調していたように思う。とりわけ、第1楽章と終楽章の主部における音楽の生命感には瞠目させられたし、第1楽章のコーダへ向かうテンポの運びもスリリングであった。目まぐるしくテンポが変化するなかでも響きを濁らせることのないベルリン・フィルの合奏能力にも、あらためて驚嘆させられる。とはいえ、リズムの躍動に力点が置かれるぶん、音楽の横の流れは後退し、それとともにこのシューマンの作品全体を貫く、そこはかとなく暗い緊張感も薄れてしまう。ラトルの指揮だと、すべての音が表に出てしまって、シューマンの音楽に必要な響きの奥行きと潤いが失われてしまうのだ。それゆえ、どのフレーズもたしかによく歌われているのだけれど、表情がどこか明るすぎてしまう。第3楽章まで短調で書かれているのを忘れてしまうくらい。また、スケルツォとフィナーレには、音楽の流れに実によくはまったルバートが見られたが、表現として少し表面的な感じも否めない。生命感に満ちた、鮮やかな、しかしあまりにも晴朗なシューマンだった。
 ブルックナーでは、ラトルの細やかな音楽づくりが印象に残る。メロディーに応じてトレモロの伴奏にも実に細かくダイナミクスの変化が付けられていたし、転調に応じて響きもさっと表情を変える。それによって、「ロマンティック」と作曲者自身が呼んだこの作品に特徴的なメロディーの美しさが引き立つのである。朗々としたソロを聴かせてくれたホルンをはじめ、管楽器奏者の巧さも光る。いや、管楽器のソロ以上に輝いていたのは、ヴィオラ・セクションのアンサンブルであろう。一本の楽器で弾いているように聴こえるほどのまとまりを見せながら、温かい深みをもった響きで、第2楽章の長いメロディーを見事に歌いきっていた。その心に響く深い余韻も忘れがたい。
 ラトルは、シューマン以上にブルックナーを自分のものにしているようで、音楽の運びに余裕がある。基本的にゆったりとしたテンポを取りながらも、音楽の流れが停滞することはないし、逆にテンポが速められても、性急さを感じることはない。間の取り方も実に自然だった。響きは、シューマンのときと同様、晴朗な鮮やかさが支配的である。迫力あるフォルテのトゥッティの響きも、晴れやかで見とおしがよい。各セクションの動きも生き生きとしていて、そのことが音楽の躍動感を高めている。そのことがとりわけプラスにはたらいていると思われたのが、第3楽章のスケルツォ。リズムの躍動と響きの解像度をこれほどの水準で両立させた演奏は耳にしたことがない。第1楽章も、晴れやかな喜びに満ちていて、聴いていて心地がよい。しかし、第2楽章と第4楽章においては、シューマンのときと同様、響きのあまりの鮮明さが音楽の奥行きを減じてしまっているように聴こえた。フィナーレのコーダを聴いても、奥深いところから湧き上がってくるものにどこか欠けるのである。また、ラトルの響きの鮮明さと音楽づくりの細やかさが、ブルックナーの音楽に特有の素朴さないしは豪放さを奪ってしまっている感じも否めない。フィナーレには、几帳面さが音楽の力強さを損ねてしまっているところもあった。このように、音楽の奥行きやブルックナーらしさがいくぶん欠けていたし、またライヴゆえの惜しいミスもあったとはいえ、音楽の自然な流れ、生命感に満ちた音楽の力強い躍動、細やかな表情、そして響きの鮮明さを、これほどの完成度をもって兼ねそなえた演奏は、ラトルの指揮するベルリン・フィルならではのものであろう。最近のラトルに対しては「伝統的」な「ドイツ音楽」のプログラムへの取り組みに不熱心であるとの批判があるようだが、この日のシューマンとブルックナーの演奏は、ラトルにそのような批判を浴びせる人びとにとって、どのような回答と映っただろうか。

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2006年10月19日 (木)

ベルリン旅日記:10月18日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが本格的に始まる。ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーで行なわれたその学会に午前中から参加した。午前中は、ジクリット・ヴァイゲルの基調講演を聴いた後、ベンヤミンの思想の反体系性をテーマとする分科会に参加した。ベンヤミンにおける「世俗化」の弁証法を論じたヴァイゲルの講演において興味深かったのは、余すところなく世俗化された世界が再び神話によって覆われているところに言わば「覚醒」としての世俗化をもたらす可能性を示すものとしてベンヤミンの神学的モティーフがあるという論点と、「覚醒」としての世俗化の言語のありようを彼の「翻訳」概念が示しているという論点である。楽園的な起源から隔絶されて歴史の舞台に登場した言語のその起源からの距離を測り、言語の神話化の不可能性を示す「試み」としての翻訳。またその「試み」のためにジャーナリスティックなメディアを動員したとも言えるカール・クラウスにベンヤミンが注目したことの意味も、あらためて考えてみなければならない。分科会の発表のなかでは、シュテファニー・ヴァルドウのものに教えられる点が多かった。ベンヤミンの「純粋言語」の概念は、カッシーラーが神話的な命名のはたらきとして論じているし、またブルーメンベルクが「絶対的メタファー」と呼んだものとも関連するという。三者の関係を論じた彼女の本を読んでみなければと思う。
 昼休みのあいだ、ウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿で開催されていた、20世紀のヨーロッパにおけるマイノリティの迫害、追放、亡命を主題とする展覧会を見る。追放反対センターという団体が主催したこの展覧会「強制された道──20世紀ヨーロッパにおける逃亡と追放」は、第一次世界大戦期のトルコによるアルメニア人の迫害と虐殺から、1990年代の旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」までを扱っていた。ナチスによるユダヤ人のホロコーストを取り上げる一方で、第二次大戦後の東欧における残留ドイツ人に対する迫害やユーゴスラヴィアに残留したイタリア人に対する迫害も扱うなど、目配りは利いているし、歴史的な記述も詳しかったのだけれども、当時のドキュメントの実物の展示が少なく、展示としてのインパクトに欠ける感は否めない。とはいえ、わずかな生活用品の展示は、追放されることが、これまでの生活を、それが沈殿させてきた記憶を、その原風景とともに剥奪されることなのだ、ということを印象づけてくれる。
 午後、再び科学アカデミーで基調講演と分科会に参加する。サミュエル・ウェーバーの基調講演は、ベンヤミンがさまざまな「可能性」、たとえば「翻訳可能性」、「解読可能性」、「認識可能性」などを提示することで何を狙っていたのかをテーマとするものだった。通常コミュニケーションの可能性と理解される「伝達可能性」を分有する可能性ないし能力と理解していたこと、またその可能性そのものを伝達する言語に、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」でいう「一回的で極端なもの」たちを配置し、また一回的ないし特異なものの存在を証言する力を認めていたことが興味深い。「世俗化」のモティーフをテーマとする分科会では、「もう一つの世俗化」を論じたアーヴィング・ヴォールファールトの発表が圧倒的な印象を残した。世俗宗教としての資本主義とナショナリズムの共犯、そして原理主義の跋扈によって再神話化が進む現代においてベンヤミンを読み、そこからこの神話の脱呪術化としての世俗化の可能性を引き出す一つの行き方を、力強く示していたように思う。ヴォールファールトは、「複製技術時代の芸術作品」において提示される「第二の技術」のうちに「第二の世俗化」の可能性を見ると同時に、言語をもって神話化された歴史の過程に介入し、その連続性を破砕する可能性も語っていた。それを具体的に構想することこそ、喫緊の課題であろう。
 ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムが終わった後、国立歌劇場でパーセルの「ディドとアエネアス」の公演を見る。ツアーに出ているシュターツカペレに代わってピットに入ったのは、ベルリン古楽アカデミー。アッティーロ・クレモネージが指揮をつとめた。ベルリン古楽アカデミーは、いつもながら素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれたが、今回の演奏ではとくに表情の豊かさが光った。ピアニッシモでも響きが痩せないので、安心して音楽に身を委せることができる。他方で、フォルテの鮮やかさも実に爽快である。歌手たちの歌唱もすぐれていた。とりわけベリンダを歌ったデボラ・ヨークの巧さと、ディドを歌ったオーロレ・ウゴリンの心のこもった歌とが印象に残る。ヴォーカルコンソート・ベルリンの合唱も、舞台で複雑な演技をこなすなかでも美しいハーモニーを聴かせていた。
 このように、演奏にはほぼ満足できたのだが、サーシャ・ワルツの演出と振り付けには、正直に言って最後まで付いて行けなかった。歌とダンスを別々に担当させるのはよいとしても、同じ役を演じる人物が二人同時に舞台に登場するのにはどうしても違和感をおぼえるし、まったく音楽のないところでディドとアエネアスの物語と関係のない挿話風のダンスと演技が延々と続くのには閉口させられた。ダンサーたちの踊りはよく訓練されているけれども、舞台全体がつねに雑然としてしまう。プロローグで用いられた、登場人物を水族館の魚のように見せるプールの意味は最後までわからなかった。ワルツの演出は、パーセルの「ディドとアエネアス」を今に甦らせることではなく、ダンサーたちのパフォーマンスを見せることを志向した演出だったのではないだろうか。かつて北とぴあの音楽祭で見た、ほとんど能の舞台を見るかのような演出のほうが、よほど作品にふさわしいと思われる。演奏がすぐれていただけに、舞台が「ディドとアエネアス」という作品の印象を散漫にしてしまっていたのは悔やまれる。

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2006年10月18日 (水)

ベルリン旅日記:10月17日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが始まる。そこで、まずベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ行き、参加登録を済ませる。参加料の30ユーロを払うと、すべての講演会に通用するパスとA5判のプログラムが渡された。領収書を書いてもらっているあいだも、いろいろ苦情が舞い込んできて、フェスティヴァルを組織する側はさっそく大変そうである。
 その足で、ブランデンブルク門のすぐ脇のパリ広場にある芸術アカデミーを訪れる。そこで開催されている「ベンヤミンのアルシーヴ」と題された展覧会を見るためである。ベンヤミンのマニュスクリプト、彼が収集した絵葉書、彼が論じた玩具やパリのパサージュの写真などから構成されていたが、マニュスクリプトを見て驚いた。ベンヤミンが書く文字の小ささは噂には聞いていたが、これほどだとは思わなかった。ミネラルウォーターの広告が載ったホテルのメモ用紙と思われる紙に、あるいはレストランの勘定書きの裏面に重要なテクストが、5ミリ四方ほどの文字でびっしりと書き込まれている。また、同様に小さな文字で書かれた読んだ本のリスト、論文の構成に関するメモなどからは、彼の仕事の驚くべき緻密さがうかがえる。ベンヤミンの思考の空間の極微の緻密さに圧倒される展覧会であった。
 芸術アカデミーの本屋で、今となっては貴重と思われるベンヤミンに関する文献を手に入れ、いったんホテルの部屋に戻った後、今度は国立図書館へ行って、展覧会でもそのタイプ稿が展示されていた履歴書で影響を受けたとベンヤミンが語っている、エルンスト・レヴィという言語学者の「老いたゲーテの言語」という論文を読む。共同体のなかで習得した言語から出発しながらそれを独自の仕方で変容させ、「個人の言語」を形成してゆくさまが、ゲーテの『ファウスト』の第二部にそくして示されている。デリダなら「絶対的特有言語」と呼ぶであろうこの「個人の言語」が、また別の言語類型と類似しているのを発見するところに、この言語学者の本領があるのかもしれないが、ベンヤミンは、こうして詩的な言語が独特の仕方で言語そのものを変成させるところに関心をもったのかもしれない。このレヴィの論文以外に、ハイム・シュタインタールという言語学者が編んだフンボルトの言語哲学に関する著作のアンソロジーを借り出し、シュタインタールの序文を読む。フンボルトについて深い洞察を示しているとベンヤミンがショーレムに語っているものである。シュタインタールのフンボルト観が端的に表われているところを書き抜いておいた。
 何か食べようと図書館のカフェテリアに入ると、今日のおすすめということで、ジャガイモとズッキーニの入ったスペイン風オムレツを四角く切ったようなものが出ている。これを「グラタン」というのだそうな。このようなカフェテリアではお約束の厳めしいおばさんにそれを頼むと、巨大な一切れを皿に載せてくれた。すっかり腹一杯になってしまったのは言うまでもない。
 図書館を出て向かいのフィルハーモニーへ行き、当日券を買って、室内楽ホールでフィルハーモニア・クァルテットの演奏会を聴く。今年生誕百周年を迎えるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を全曲演奏するツィクルスの3回目として開かれたこの日の演奏会では、彼の第9番から第12番までの4曲の弦楽四重奏曲が演奏された。これらの弦楽四重奏曲はいずれも、1962年に初演された第13番の交響曲「バビ・ヤール」と第14番の交響曲「死者の歌」の間に書かれている。キューバ危機、アンドレイ・サハロフやアレクサンダー・ソルジェニツィンの迫害といった出来事によって、フルシチョフ時代の「雪解け」が幻想であったことが露呈しつつあった時期である。その時期にショスタコーヴィチ自身も、「バビ・ヤール」交響曲において、反ユダヤ主義、女性の抑圧、出世主義などを強烈に皮肉ったエフゲニー・イェフトゥシェンコの詩を用いたことで当局の批判を浴び、心身ともに弱っていた。そのようなショスタコーヴィチの苦悩が、これらの弦楽四重奏曲の苦渋と皮肉に満ちた形式に結晶していることは容易に見て取ることができよう。暖かなハーモニーはすぐに色褪せ、社会主義リアリズムを思い起こさせる民謡風の旋律はずたずたに引き裂かれる。
 そのようなショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を、フィルハーモニア・クァルテットは、驚くべき明晰さと充実した響きをもって演奏していた。第10番の弦楽四重奏曲のスケルツォのような荒れ狂う音楽においても、けっして響きが混濁することはない。他方で、亡くなったベートーヴェン・クァルテットのヴァイオリン奏者に捧げられた、ベートーヴェンの第3交響曲の葬送行進曲の主題の断片を自由に展開させたとも言うべき第11番の弦楽四重奏曲のエレジーをはじめ、悲哀に満ちた音楽も、説得力をもって迫ってくる。第1ヴァイオリンのダニエル・スタブラヴァがポーランドで抑圧的な体制を経験したことがショスタコーヴィチの音楽と響きあっているのだろうか。第12番の弦楽四重奏曲の十二音技法を思わせる展開も間然とするところがない。もう少し重苦しさと鋭さがあっても、と思うところもなくはなかったが、これほどの完成度をもってショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が演奏されることは、きわめて稀なことであろう。

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