2006年10月21日 (土)

ベルリン旅日記:10月20日

 今日の夕方の飛行機でベルリンを発って帰国するので、スーツケースを引きずりながらベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ向かう。これまでほとんどずっと晴れていたのだが、今日ばかりは天気が悪く、朝から半ば霧雨のように小雨が降っていた。
 この日のベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムは、デートレフ・シュテッカーの基調講演で幕を開けた。「ウィトゲンシュタインを読むベンヤミン」と題されたその講演は、豊富な資料を駆使して、ベンヤミンがウィトゲンシュタインの存在を意識していたことを示していたが、二人の言語哲学に深く分け入るものではなかった。両者がともに、主観的な志向を越えたものとして言語をとらえようとしているのは確かだとしても、それが「体系」であるというシュテッカーの見解も首肯しがたいところである。言語の生成を活性化させようとするベンヤミンはとりわけ、言語を「体系」としてとらえる考えからは遠いはずだ。その講演が終わった後、ベンヤミンにおける聴覚的モティーフをテーマとする分科会に参加する。ベンヤミンのエッセイに描かれるノイズや音響が、時の流れを中断しながら想起を誘発していることを際立たせ、ベンヤミンにおける想起をそうした音への応答として描くアンヤ・レムケの発表がとりわけ印象的であった。書物における声の救出というモティーフを主題としたクリスティーネ・イヴァノヴィチは、発表の最後に、ベンヤミンの思い出をアドルノやブロッホといったかつての友人に語らせる自由ベルリン放送のインタヴューを、ややラップ風に編集したものを聴かせてくれた。会場は大受けであった。
 午前のプログラムが終わったところで会場を後にし、テーゲル空港へ向かう。フランクフルトから成田へ行く飛行機が取れなかったので、今回はエール・フランスの便でいったんパリへ向かい、パリから成田へ飛んだ。そのあいだベルリンの新聞ターゲスシュピーゲル紙を拾い読みしていたが、「ベルリンは貧しくない」、「それゆえ連邦政府の特段の補助を必要としない」という憲法裁判所の判断に対する反応がほとんどの紙面を占めている感じである。ベルリンが自活していかなければならないとすれば、文化事業や社会事業の「節約」が当然強いられるわけだが、なかでもまず問題となるのが社会福祉事業の縮小である。新たな経済的格差が社会を引き裂いていること、さらに希望をもてなくなった人びとが子どもを虐待したりといったことが毎日問題となっているだけに、社会福祉の緊縮は、こうした格差の問題を放置することとも見られかねない。他方で文化をより開かれたものにすること、つまり教育を受け、芸術に触れる機会を広げることもけっして軽視されるべきことではないはずだ。あるコラムのなかに、「本を読み、じっくりと考え、そして劇場へ出かける者は、貧しいかもしれないが「下層」ではない」と書いてあった。経済的な所得はけっして多くなくとも、生の芸術に触れ、生きることの奥行きを感じ、その意味を噛みしめることができること。そのことは、奥深いところで生きていることを喜び、生きることに希望をもつことにつながるはずだし、また「階級」や「階層」を突破しながら生きることを変えることにもつながるはずだ。その可能性は、ベルリンにおいてはある程度確保されていよう。そして、芸術の経験をつうじて生きることを内側から変成させる可能性をすべての人びとに対して開いてゆくことは、「格差社会」化が語られるようになって久しい日本に生きるわたしたちに今課せられている課題でもあろう。

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2006年10月20日 (金)

ベルリン旅日記:10月19日

 今日も午前中から国際ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムに参加する。午前中の基調講演を担当したベルント・ヴィッテは、文化的な記憶、そしてその伝承がいかにその媒体に依存しているかを論じていた。伝承の媒体が歴史的な人間の言語となり、それとともにたとえばユダヤ教のトーラーが無限に解釈可能となったことを「ディアスポラ」と結びつけていたあたりは興味深かったものの、物語的な伝承、印刷された文字、近代国家の記念碑的建築と変化していった記憶の媒体が、20世紀に至って文学となり、今やその注釈に文化的な記憶の伝承がかかっているとする議論は、制度的な学問としての文学研究の自己正当化を志向しているように思えて、ややついて行きがたい。
 ベンヤミンの哲学の反体系性をテーマとする分科会へ行ってみると、二つの発表がキャンセルされたようで、発表は一つだけ。若いベンヤミンのソクラテス批判を取り上げながら、ベンヤミンが評価するプラトン的対話を「トラクタート」の概念と結びつけようとするものだったが、対話ということとベンヤミン自身の方法とを接続されるためには、もう少し詰めておかなければならないことがあるように思われた。それに続いて昨日の発表者を交えて討論が行われた。若い研究者たちが今ベンヤミンを読む可能性を熱く論じあう姿に触れることができたのは貴重な経験だったし、またその該博な知識にも驚かされた。それに比べたら自分はまだまだ勉強不足である。
 いったん宿に戻って少し本を読んだりした後、今度は国立歌劇場のアポロザールへベンヤミン・フェスティヴァルの午後のプログラムを聴きに行く。室内楽の演奏会やオペラ公演のアフタートークの会場として用いられることの多いこのホールで、ジョルジョ・アガンベン、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ステファヌ・モーゼスという世界的に知られた三人の哲学者の講演が行なわれるわけである。
 会場で空席を見つけて座ると、一列後ろの女性が携帯電話で「アガンベンは病気よ」と話している。ジグリット・ヴァイゲルによれば、アガンベンは今朝になって突然来られないと連絡してきたとか。病気か仮病か定かではないが、アガンベンが今ベンヤミンについて何を語るか楽しみにしていただけに残念である。とはいえ、ディディ=ユベルマンの講演もモーゼスの講演も興味深かった。とくに、コソヴォで撮られた家長の死を悲しむ家族の写真をモデルに制作されたレリーフを例に用いながら、その未完結性によって一回的で特異なものの記憶を甦らせるイメージの可能性を論じたディディ=ユベルマンの講演は、現代にベンヤミンを生かす道を説得的に示していたように思う。「パサージュ」としての、あるいは「根源」としてのイメージ、その反復、そして複製のうちに一回的なものが新たに見いだされるのだ。それを媒介する「解読」は、ディディ=ユベルマンによると「イコノロジー」の対極にあるという。モーゼスの講演は、ベンヤミンのうちにユダヤ神秘主義の伝統の継承を見て取りながら、『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」に見られる「原聴取」の概念が代表する聴覚的なモティーフがベンヤミンの思考のうちに一貫して見られることを強調するもの。ベンヤミンとショーレムがバベルの塔の建設と結びつける堕罪とともに失われた根源的な真理を聴覚的に復元しようという志向が、ベンヤミンの思考を貫いているというのである。
 夜はフィルハーモニーへベルリン・フィルの演奏会を聴きに行く。指揮はサイモン・ラトルで、シューマンとブルックナーの第4交響曲というプログラム。シューマンの第4交響曲は、1841年の初稿で演奏された。ちなみにブルックナーは、1878/80年のノーヴァク版。シューマンの第4交響曲を、楽章のテンポがイタリア語で記されている初稿で演奏すること自体、ラトルのシューマンへのアプローチのありようを示しているのかもしれない。ラトルは、少なめの弦楽器の編成で見とおしのよい響きをつくりながら、リズムの躍動を強調していたように思う。とりわけ、第1楽章と終楽章の主部における音楽の生命感には瞠目させられたし、第1楽章のコーダへ向かうテンポの運びもスリリングであった。目まぐるしくテンポが変化するなかでも響きを濁らせることのないベルリン・フィルの合奏能力にも、あらためて驚嘆させられる。とはいえ、リズムの躍動に力点が置かれるぶん、音楽の横の流れは後退し、それとともにこのシューマンの作品全体を貫く、そこはかとなく暗い緊張感も薄れてしまう。ラトルの指揮だと、すべての音が表に出てしまって、シューマンの音楽に必要な響きの奥行きと潤いが失われてしまうのだ。それゆえ、どのフレーズもたしかによく歌われているのだけれど、表情がどこか明るすぎてしまう。第3楽章まで短調で書かれているのを忘れてしまうくらい。また、スケルツォとフィナーレには、音楽の流れに実によくはまったルバートが見られたが、表現として少し表面的な感じも否めない。生命感に満ちた、鮮やかな、しかしあまりにも晴朗なシューマンだった。
 ブルックナーでは、ラトルの細やかな音楽づくりが印象に残る。メロディーに応じてトレモロの伴奏にも実に細かくダイナミクスの変化が付けられていたし、転調に応じて響きもさっと表情を変える。それによって、「ロマンティック」と作曲者自身が呼んだこの作品に特徴的なメロディーの美しさが引き立つのである。朗々としたソロを聴かせてくれたホルンをはじめ、管楽器奏者の巧さも光る。いや、管楽器のソロ以上に輝いていたのは、ヴィオラ・セクションのアンサンブルであろう。一本の楽器で弾いているように聴こえるほどのまとまりを見せながら、温かい深みをもった響きで、第2楽章の長いメロディーを見事に歌いきっていた。その心に響く深い余韻も忘れがたい。
 ラトルは、シューマン以上にブルックナーを自分のものにしているようで、音楽の運びに余裕がある。基本的にゆったりとしたテンポを取りながらも、音楽の流れが停滞することはないし、逆にテンポが速められても、性急さを感じることはない。間の取り方も実に自然だった。響きは、シューマンのときと同様、晴朗な鮮やかさが支配的である。迫力あるフォルテのトゥッティの響きも、晴れやかで見とおしがよい。各セクションの動きも生き生きとしていて、そのことが音楽の躍動感を高めている。そのことがとりわけプラスにはたらいていると思われたのが、第3楽章のスケルツォ。リズムの躍動と響きの解像度をこれほどの水準で両立させた演奏は耳にしたことがない。第1楽章も、晴れやかな喜びに満ちていて、聴いていて心地がよい。しかし、第2楽章と第4楽章においては、シューマンのときと同様、響きのあまりの鮮明さが音楽の奥行きを減じてしまっているように聴こえた。フィナーレのコーダを聴いても、奥深いところから湧き上がってくるものにどこか欠けるのである。また、ラトルの響きの鮮明さと音楽づくりの細やかさが、ブルックナーの音楽に特有の素朴さないしは豪放さを奪ってしまっている感じも否めない。フィナーレには、几帳面さが音楽の力強さを損ねてしまっているところもあった。このように、音楽の奥行きやブルックナーらしさがいくぶん欠けていたし、またライヴゆえの惜しいミスもあったとはいえ、音楽の自然な流れ、生命感に満ちた音楽の力強い躍動、細やかな表情、そして響きの鮮明さを、これほどの完成度をもって兼ねそなえた演奏は、ラトルの指揮するベルリン・フィルならではのものであろう。最近のラトルに対しては「伝統的」な「ドイツ音楽」のプログラムへの取り組みに不熱心であるとの批判があるようだが、この日のシューマンとブルックナーの演奏は、ラトルにそのような批判を浴びせる人びとにとって、どのような回答と映っただろうか。

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2006年10月19日 (木)

ベルリン旅日記:10月18日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが本格的に始まる。ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーで行なわれたその学会に午前中から参加した。午前中は、ジクリット・ヴァイゲルの基調講演を聴いた後、ベンヤミンの思想の反体系性をテーマとする分科会に参加した。ベンヤミンにおける「世俗化」の弁証法を論じたヴァイゲルの講演において興味深かったのは、余すところなく世俗化された世界が再び神話によって覆われているところに言わば「覚醒」としての世俗化をもたらす可能性を示すものとしてベンヤミンの神学的モティーフがあるという論点と、「覚醒」としての世俗化の言語のありようを彼の「翻訳」概念が示しているという論点である。楽園的な起源から隔絶されて歴史の舞台に登場した言語のその起源からの距離を測り、言語の神話化の不可能性を示す「試み」としての翻訳。またその「試み」のためにジャーナリスティックなメディアを動員したとも言えるカール・クラウスにベンヤミンが注目したことの意味も、あらためて考えてみなければならない。分科会の発表のなかでは、シュテファニー・ヴァルドウのものに教えられる点が多かった。ベンヤミンの「純粋言語」の概念は、カッシーラーが神話的な命名のはたらきとして論じているし、またブルーメンベルクが「絶対的メタファー」と呼んだものとも関連するという。三者の関係を論じた彼女の本を読んでみなければと思う。
 昼休みのあいだ、ウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿で開催されていた、20世紀のヨーロッパにおけるマイノリティの迫害、追放、亡命を主題とする展覧会を見る。追放反対センターという団体が主催したこの展覧会「強制された道──20世紀ヨーロッパにおける逃亡と追放」は、第一次世界大戦期のトルコによるアルメニア人の迫害と虐殺から、1990年代の旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」までを扱っていた。ナチスによるユダヤ人のホロコーストを取り上げる一方で、第二次大戦後の東欧における残留ドイツ人に対する迫害やユーゴスラヴィアに残留したイタリア人に対する迫害も扱うなど、目配りは利いているし、歴史的な記述も詳しかったのだけれども、当時のドキュメントの実物の展示が少なく、展示としてのインパクトに欠ける感は否めない。とはいえ、わずかな生活用品の展示は、追放されることが、これまでの生活を、それが沈殿させてきた記憶を、その原風景とともに剥奪されることなのだ、ということを印象づけてくれる。
 午後、再び科学アカデミーで基調講演と分科会に参加する。サミュエル・ウェーバーの基調講演は、ベンヤミンがさまざまな「可能性」、たとえば「翻訳可能性」、「解読可能性」、「認識可能性」などを提示することで何を狙っていたのかをテーマとするものだった。通常コミュニケーションの可能性と理解される「伝達可能性」を分有する可能性ないし能力と理解していたこと、またその可能性そのものを伝達する言語に、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」でいう「一回的で極端なもの」たちを配置し、また一回的ないし特異なものの存在を証言する力を認めていたことが興味深い。「世俗化」のモティーフをテーマとする分科会では、「もう一つの世俗化」を論じたアーヴィング・ヴォールファールトの発表が圧倒的な印象を残した。世俗宗教としての資本主義とナショナリズムの共犯、そして原理主義の跋扈によって再神話化が進む現代においてベンヤミンを読み、そこからこの神話の脱呪術化としての世俗化の可能性を引き出す一つの行き方を、力強く示していたように思う。ヴォールファールトは、「複製技術時代の芸術作品」において提示される「第二の技術」のうちに「第二の世俗化」の可能性を見ると同時に、言語をもって神話化された歴史の過程に介入し、その連続性を破砕する可能性も語っていた。それを具体的に構想することこそ、喫緊の課題であろう。
 ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムが終わった後、国立歌劇場でパーセルの「ディドとアエネアス」の公演を見る。ツアーに出ているシュターツカペレに代わってピットに入ったのは、ベルリン古楽アカデミー。アッティーロ・クレモネージが指揮をつとめた。ベルリン古楽アカデミーは、いつもながら素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれたが、今回の演奏ではとくに表情の豊かさが光った。ピアニッシモでも響きが痩せないので、安心して音楽に身を委せることができる。他方で、フォルテの鮮やかさも実に爽快である。歌手たちの歌唱もすぐれていた。とりわけベリンダを歌ったデボラ・ヨークの巧さと、ディドを歌ったオーロレ・ウゴリンの心のこもった歌とが印象に残る。ヴォーカルコンソート・ベルリンの合唱も、舞台で複雑な演技をこなすなかでも美しいハーモニーを聴かせていた。
 このように、演奏にはほぼ満足できたのだが、サーシャ・ワルツの演出と振り付けには、正直に言って最後まで付いて行けなかった。歌とダンスを別々に担当させるのはよいとしても、同じ役を演じる人物が二人同時に舞台に登場するのにはどうしても違和感をおぼえるし、まったく音楽のないところでディドとアエネアスの物語と関係のない挿話風のダンスと演技が延々と続くのには閉口させられた。ダンサーたちの踊りはよく訓練されているけれども、舞台全体がつねに雑然としてしまう。プロローグで用いられた、登場人物を水族館の魚のように見せるプールの意味は最後までわからなかった。ワルツの演出は、パーセルの「ディドとアエネアス」を今に甦らせることではなく、ダンサーたちのパフォーマンスを見せることを志向した演出だったのではないだろうか。かつて北とぴあの音楽祭で見た、ほとんど能の舞台を見るかのような演出のほうが、よほど作品にふさわしいと思われる。演奏がすぐれていただけに、舞台が「ディドとアエネアス」という作品の印象を散漫にしてしまっていたのは悔やまれる。

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2006年10月18日 (水)

ベルリン旅日記:10月17日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが始まる。そこで、まずベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ行き、参加登録を済ませる。参加料の30ユーロを払うと、すべての講演会に通用するパスとA5判のプログラムが渡された。領収書を書いてもらっているあいだも、いろいろ苦情が舞い込んできて、フェスティヴァルを組織する側はさっそく大変そうである。
 その足で、ブランデンブルク門のすぐ脇のパリ広場にある芸術アカデミーを訪れる。そこで開催されている「ベンヤミンのアルシーヴ」と題された展覧会を見るためである。ベンヤミンのマニュスクリプト、彼が収集した絵葉書、彼が論じた玩具やパリのパサージュの写真などから構成されていたが、マニュスクリプトを見て驚いた。ベンヤミンが書く文字の小ささは噂には聞いていたが、これほどだとは思わなかった。ミネラルウォーターの広告が載ったホテルのメモ用紙と思われる紙に、あるいはレストランの勘定書きの裏面に重要なテクストが、5ミリ四方ほどの文字でびっしりと書き込まれている。また、同様に小さな文字で書かれた読んだ本のリスト、論文の構成に関するメモなどからは、彼の仕事の驚くべき緻密さがうかがえる。ベンヤミンの思考の空間の極微の緻密さに圧倒される展覧会であった。
 芸術アカデミーの本屋で、今となっては貴重と思われるベンヤミンに関する文献を手に入れ、いったんホテルの部屋に戻った後、今度は国立図書館へ行って、展覧会でもそのタイプ稿が展示されていた履歴書で影響を受けたとベンヤミンが語っている、エルンスト・レヴィという言語学者の「老いたゲーテの言語」という論文を読む。共同体のなかで習得した言語から出発しながらそれを独自の仕方で変容させ、「個人の言語」を形成してゆくさまが、ゲーテの『ファウスト』の第二部にそくして示されている。デリダなら「絶対的特有言語」と呼ぶであろうこの「個人の言語」が、また別の言語類型と類似しているのを発見するところに、この言語学者の本領があるのかもしれないが、ベンヤミンは、こうして詩的な言語が独特の仕方で言語そのものを変成させるところに関心をもったのかもしれない。このレヴィの論文以外に、ハイム・シュタインタールという言語学者が編んだフンボルトの言語哲学に関する著作のアンソロジーを借り出し、シュタインタールの序文を読む。フンボルトについて深い洞察を示しているとベンヤミンがショーレムに語っているものである。シュタインタールのフンボルト観が端的に表われているところを書き抜いておいた。
 何か食べようと図書館のカフェテリアに入ると、今日のおすすめということで、ジャガイモとズッキーニの入ったスペイン風オムレツを四角く切ったようなものが出ている。これを「グラタン」というのだそうな。このようなカフェテリアではお約束の厳めしいおばさんにそれを頼むと、巨大な一切れを皿に載せてくれた。すっかり腹一杯になってしまったのは言うまでもない。
 図書館を出て向かいのフィルハーモニーへ行き、当日券を買って、室内楽ホールでフィルハーモニア・クァルテットの演奏会を聴く。今年生誕百周年を迎えるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を全曲演奏するツィクルスの3回目として開かれたこの日の演奏会では、彼の第9番から第12番までの4曲の弦楽四重奏曲が演奏された。これらの弦楽四重奏曲はいずれも、1962年に初演された第13番の交響曲「バビ・ヤール」と第14番の交響曲「死者の歌」の間に書かれている。キューバ危機、アンドレイ・サハロフやアレクサンダー・ソルジェニツィンの迫害といった出来事によって、フルシチョフ時代の「雪解け」が幻想であったことが露呈しつつあった時期である。その時期にショスタコーヴィチ自身も、「バビ・ヤール」交響曲において、反ユダヤ主義、女性の抑圧、出世主義などを強烈に皮肉ったエフゲニー・イェフトゥシェンコの詩を用いたことで当局の批判を浴び、心身ともに弱っていた。そのようなショスタコーヴィチの苦悩が、これらの弦楽四重奏曲の苦渋と皮肉に満ちた形式に結晶していることは容易に見て取ることができよう。暖かなハーモニーはすぐに色褪せ、社会主義リアリズムを思い起こさせる民謡風の旋律はずたずたに引き裂かれる。
 そのようなショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を、フィルハーモニア・クァルテットは、驚くべき明晰さと充実した響きをもって演奏していた。第10番の弦楽四重奏曲のスケルツォのような荒れ狂う音楽においても、けっして響きが混濁することはない。他方で、亡くなったベートーヴェン・クァルテットのヴァイオリン奏者に捧げられた、ベートーヴェンの第3交響曲の葬送行進曲の主題の断片を自由に展開させたとも言うべき第11番の弦楽四重奏曲のエレジーをはじめ、悲哀に満ちた音楽も、説得力をもって迫ってくる。第1ヴァイオリンのダニエル・スタブラヴァがポーランドで抑圧的な体制を経験したことがショスタコーヴィチの音楽と響きあっているのだろうか。第12番の弦楽四重奏曲の十二音技法を思わせる展開も間然とするところがない。もう少し重苦しさと鋭さがあっても、と思うところもなくはなかったが、これほどの完成度をもってショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が演奏されることは、きわめて稀なことであろう。

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2006年10月17日 (火)

ベルリン旅日記:10月16日

 夕方まで国立図書館にこもって勉強する。ベンヤミンとハイデガーがフンボルトの言語哲学をどのように読んでいるかをまず調べてみると、読んでいるテクストが少し異なっているようだ。また、ベンヤミンに関しては、彼とフンボルトを伝えた言語学者が書いたものも見てみる必要がありそうだ。その著作が図書館に所蔵されていないか調べてみると、何冊かあるうちの1冊は戦争で失われたかもしれないとのこと。空襲と市街戦でこの街が一度は一面の廃墟と化したことがあらためて思い出される。
 それが用意されるまで時間がかかるので、その間ハイデガーの言語論を2篇読む。ハイデガーは、ベンヤミンと同様に言語を、語るはたらきにおいて、また名づけるはたらきからとらえようとしているが、それを遂行する言葉を、「伝説」とも重なる「言うこと」として、存在の出来事への聴従のうちに根づかせようとしている。その消息に分け入るなら、ハイデガーとベンヤミンの対蹠点を見いだすこともできるだろう。他方で、ハイデガーの「言語への道」には、ノヴァーリスへの言及とともに、言語が自己自身を語るはたらきに注目するという、ベンヤミンとハイデガーの共通の出発点も示されているように思う。
 買い物をして、いったん部屋へ帰った後、歩いてユダヤ博物館へ行く。そこで開催されている「故郷と亡命──1933年以後のドイツ・ユダヤ人の移住」を見るためである。1933年にヒトラーのナチが政権を掌握して以後、ユダヤ人への迫害が強まってゆくなか、ユダヤ人たちがどこへ、またどのように生存の場所を求めたか、またそこでどのように生きていたかが、さまざまなドキュメントともに示されていた。ユダヤ人たちの移住先は、イギリスやアメリカ、あるいはパレスチナばかりでなく、遠くは中国やラテン・アメリカにまでおよんだ。そこで、ドイツ文化に根ざした生活を立てなおそうとする逞しい努力の跡を見ることもできれば、逆に自殺に追い込まれた人びとのことを報じる記事も展示されている。全体として、亡命すること、そして亡命先で生き続けることの苦難のさまざまな局面に触れることのできる展示であった。そのなかに、ヴァルター・ベンヤミンについての展示も見つけた。アメリカへの移住を受け入れるホルクハイマーの手紙と、自殺を図ったベンヤミンの最後の言葉を書きつけたグルラント夫人のメモが展示されていたのが興味深い。そのピレネー越えを導いたリーザ・フィトコの肉声も聴くことができた。
 部屋に帰ってテレビを点けると暗いニュースばかり。ドイツにおいても経済的な格差が広がりを見せるなか、「下層」という言葉をめぐって論争が起きている様子。社会厚生大臣は、「一つの社会」を保つことの重要性を強調していたが、社会の溝は確実に広がっているようで、職に就く見込みのない親が自分の子どもを虐待して死なせてしまうといった事件も起きている。その一方で、ネオナチ勢力がじわじわと広がってもいるようで、東部の各州では、議会に議席を得てもいる。東北部のメクレンブルク・フォアポンメルンでは、議会の初日から極右議員とのあいだでさっそく騒動がもち上がったようだ。ブランデンブルクでは、ネオナチの集会活動を規制する法律を作ろうという動きがあるという。ポツダムの中央駅でネオナチの行進に遭遇したときの恐怖が脳裏に甦った。また、それとともに、ユダヤ博物館に掲げられていた、世界の平和──それ社会のそれでもあろう──と心の平和を両立させることの重要性を説く、ヘルマン・コーエンの言葉が思い出された。

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2006年10月16日 (月)

ベルリン旅日記:10月15日

 今日は日曜で図書館が休みなので、久しぶりにポツダムを訪れることにする。目的は、サン・スーシ宮殿のなかの絵画館を見ること。冬のあいだ閉まっているので、一昨年滞在したときには見ることができなかったのである。ポツダム中央駅から695番のバスに乗ってサン・スーシ宮殿の前で降り、宮殿の入り口へ行ってみると、まだそれほど寒くないせいか、たくさんの観光客でごった返している。目につくのはイタリア人と中国人。どういうことなのだろう。
 この絵画館には、カラヴァッジョの作品が1枚ある。1600年頃の作という「不信心のトマス」。イエスの復活を信じることができないトマスが、磔刑の際にイエスが脇腹に負った傷に手を触れる驚愕の瞬間に、鋭い光を投げかける絵である。これ以外に、リューベンスやファン・ダイクの絵がいくつかあるのだが、正直に言ってカラヴァッジョ以外にはほとんど眼を惹く絵がない。むしろこの絵画館において見るべきは、バロック宮殿の絵画展示のありようなのだろう。たしかに、黄金がちりばめられた天井と大理石の床のあいだに所狭しと絵が架けられているさまは、壮観ではある。
 絵画館を出ると、宮殿の丘を降りて、歩いてポツダムの街へ出る。ルイーゼ広場を通ってポツダムの目抜き通りとも言うべきブランデンブルク通りに入ると、一昨年のことを思い出し、何だか懐かしい感じがする。近くにスーパーができるまでバスで通ったスーパーも、全部1ユーロで古本を売る本屋も健在である。いまだに工事中のところもあるが、一昨年滞在したときよりは少し街に活気がある印象である。電車通りになっているエーベルト通りに出て、パン屋の隣のケバプ屋でケバプを食べる。何でもここは、わたしもポツダム滞在時にときどき朝食用のパンを買っていたそのパン屋からパンを仕入れているとか。たしかに普通のケバプ用のパンより噛みごたえがある感じ。食べているとトルコ系の移民の2世か3世と思われる子どもが二人入ってきて、今日だけケバプを2ユーロにまけてくれとせがんでいた。「今日だけだよ」と応じるケバプ屋の主人の姿が少し微笑ましい。
 電車でベルリンへ戻る。急行電車からSバーンへ乗り換えるついでに、ワールドカップに合わせて開業した新しいベルリンの中央駅をのぞいてみるが、他の駅と同じような店ばかり入っていて、あまり代わり映えがしない。乗り換えたSバーンで、博物館島へ向かう。目的は博物館ではなく、その周辺で週末ごとに開かれている蚤の市。ここの市には古本を売る店が多く出ている。掘り出し物はないかと奥の方から見てゆくが、今回は収穫がなかった。
 宿に戻ってひと休みした後、フィルハーモニーへベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴きに行く。指揮は、今年生誕百周年を迎える作曲家ショスタコーヴィチの息子であるマキシム・ショスタコーヴィチ。ロッシーニの「ウィリアム・テル」の序曲とそれを引用したショスタコーヴィチの第15番の交響曲のあいだに、モーツァルトの第1番のヴァイオリン協奏曲が挟まるというプログラム。
 最初のロッシーニの序曲は、オーケストラの力量を示すにはうってつけの作品であるが、その演奏においてドイツ交響楽団は、ベルリン・フィルと比べても大きな遜色のない実力のほどを示していた。冒頭のチェロのアンサンブルも、コーラングレとフルートの掛け合いも決まっているし、ギャロップの推進力にもわくわくさせるものがある。あまりにも使い古されたこの曲が、新鮮に響く力強い演奏であった。
 続いて演奏されたモーツァルトの最初のヴァイオリン協奏曲に関しては、正直に言って首をかしげざるをえなかった。マクシム・ショスタコーヴィチが指揮するオーケストラの伴奏の雄弁さに比べて、ヴァイオリン独奏を担当したアラベラ・シュタインバッハーの音楽があまりにも皮相に聴こえたからである。彼女は、ユリア・フィッシャーなどとならぶドイツのヴァイオリン界の期待の新星と聞くが、それにしては音楽に奥行きがない。すぐれた技巧をもっていることは間違いないが、音に深みがなく、音楽づくりにも余裕がないのだ。もしかしたら、この曲をまだものにしていないのかもしれない。アンコールとして演奏されたパガニーニのメドレー風の小品は、実に伸び伸びと弾いていたのだから。どちらかというとロマン派以後の技巧的な作品で実力を発揮できそうな様子である。
 最後に演奏されたショスタコーヴィチの最後の交響曲であるが、これはたしかマクシム・ショスタコーヴィチ自身が初演したのではなかっただろうか。それだけに曲を完全に自分のものにしているようで、間然とするところがない。早めのテンポを基調として、ロッシーニの「ウィリアム・テル」やヴァーグナーの「ヴァルキューレ」の断片をはじめとして、引用された断片が別の音楽によって掻き消されたり、変容したりするさまを説得的に表現していた。悲痛な旋律も感傷に流れることなく、重い硬質の響きで迫ってきたのも、この作品にふさわしいことのように思われる。室内楽的なパッセージ、あるいは第二楽章のチェロの独奏をはじめとする独奏部では、ドイツ交響楽団の各奏者がその実力を発揮していた。とりわけ、チェロとピッコロのソロが印象に残る。シンフォニストであることから、さらには交響曲というジャンルからの別れを告げるような終結部は、シニカルな軽さをもってではなく、その別れの意味を考えさせるような重みをもって響いた。父親の辛酸を知る実の息子ならではの終結部のとらえかたなのかもしれない。聴衆の盛んな喝采──ドイツ交響楽団の聴衆はいつも熱い──に対して、父親が書いたスコアを掲げるマクシム・ショスタコーヴィチの姿が心に残った。

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2006年10月15日 (日)

ベルリン旅日記:10月14日

 朝から国立図書館にこもって文献を読む。まず、昨日読みかけたハーマンの『美学提要』をひとまず最後まで読み通す。この困難なテクストについて見とおしがついたとはとても言えないが、「言語一般および人間の言語について」におけるベンヤミンのアダムによる事物の命名についての記述、あるいは人間の堕罪の後に沈黙してしまった自然を救い出すために詩人がいるという言い方に何らかのインスピレーションを与えたのでは、と思われる箇所にぶつかった。その後、1917年のショーレム宛の書簡のなかで言及される、フランツ・フォン・バーダーの宗教哲学に関する著作を読んでみることにする。書庫から出してきてもらったのは、1853年に出たという、古めかしいことを通り越した分厚い本。それに収められた、モリトールという人物に宛てた書簡のかたちでかかれた論文をベンヤミンは読んでいたのである。さっそく読んでみたが、ヒゲ文字ではないとはいえ、キリスト教神秘主義の臭いがぷんぷんと漂う論調で、なかなかテクストに入っていけない。とはいえ、ベンヤミンが手紙のなかで挙げている以外にも、彼の発想につながると思われる箇所を見つけることができた。このあたりは1917年の「来たるべき哲学のプログラムについて」でもテーマになることだが、言語の記号への「堕落」を、啓蒙主義的な自然支配の問題と結びつけ、それが人間を逆に締めつけていることへの危機感を、あるいはそうした状況からの突破口を言語のうちに求めようといる発想を、ベンヤミンは、ハーマンやバーダーと共有していたのは確かなのかもしれない。
 夜、コーミッシェオーパーへモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』の上演を見に行く。今年春のシュトゥットガルト歌劇場の引っ越し公演における同じモーツァルトの『魔笛』の演出でも話題を呼んだ、ピーター・コンヴィチュニーの演出に興味があったのだ。このオペラ・ハウスの恒例として、ドイツ語による上演である。
 コンヴィチュニーの演出に興味があったとはいえ、最初にぐっと惹きつけられたのは音楽である。ピリオド楽器による演奏に勝るとも劣らない切れ味のアコードで序曲の序奏が始まると、やがて柔らかな管楽器のハーモニーが、舞台を包む涼やかな空気のように立ちのぼってくる。そして序曲の主部に入ると、弓がよく弾んだ弦楽器の音がリズムを刻み、聴き手の心をいやがうえにもかき立てるのである。
 今回の上演を指揮したマルクス・ポシュナーという指揮者、まだずいぶん若いように見受けられるが、かなりの手腕の持ち主と思われた。ピリオド楽器の奏法を生かした鋭さを随所で引き出しながら、オーケストラの各セクションが一体となるようなアンサンブルを統率し、芳醇な、それでいて見とおしのよい響きをコーミッシェオーパーのピットから立ちのぼらせていた。このピットの指揮台にしばしば立つキリル・ペトレンコも、モーツァルト指揮者としてすぐれた手腕を発揮していたけれども、ポシュナーのモーツァルトへの適性は彼以上のものであろう。何といっても響きのバランスの取りかたが素晴らしい。ゆったりとした音楽においては、バスによってしっかりと支えられた響きが香気とともに漂っていた。軍隊に徴集されたと嘘をつくフェランドとグリエルモが二人の恋人に別れを告げる場面では、夜の香気が舞台を包むのである。
 歌手たちも、ドン・アルフォンゾを演じたディートリヒ・ヘンシェル以外聞いたことのない名前の歌手たちばかりだったが、いずれもそれぞれに与えられたアリアをほぼ完璧に歌いこなすばかりでなく、このオペラの命ともいうべき重唱でも、息の合ったアンサンブルを聴かせていた。なかでも印象的だったのは、デスピーナを演じたゲルトルート・オッテンタール。この女中の役はたいてい、若い、おきゃんなところのある歌手が演じるのだけれども、オッテンタールは見るからに相当なベテランである。しかし、デスピーナはほんとうは、恋愛の挫折を幾度も経験した人生のベテランのはずなのだ。そして、こと恋に関して年季の入ったところをドン・アルフォンゾと組んで、若い二組の恋人に見せてやらなければならないはずだ。このことをオッテンタールは、見事な声のコントロールで力強く主張していた。
 さて、幕切れも間近となったところで、ドン・アルフォンゾが、女の浮気さを自分の手で証明してしまった二人の男を舞台の手前に連れて行くと、緞帳が下りてくる。そして三人で、「みんなそうするものさ!」──ドイツ語の歌詞は「女はみなそうしたものさ」ではなく、「女」にかぎらず「みんなそうするものさ」となっていた──と叫ぶと、どこからか拍手喝采の音が流れてきて、聴衆もそれにつられて拍手してしまう。やがてそこにデスピーナが、二人の女性を連れて割って入り、二人は新しい恋人と結婚する用意ができていると告げる。その光景を見て、これはただでは済むまい、と思っていたら、やはり最後にどんでん返しが待っていた。二人の若い女性の貞節を試す芝居の種明かしが終わると、今度は本来誰と誰が結婚するはずだったのか誰もわからなくなり、ついには台本をもった舞台監督まで舞台に呼び出されると、フェランドが突然結婚式のテーブルの上に立ち上がって、「おれはグリエルモと結婚する!」と叫ぶのである。コンヴィチュニーがプログラムに収められたインタヴューで述べているところによれば、台本には最終的に誰と誰が結ばれるのか、はっきりと書かれていないのだ。だから、二人の男が結ばれることもありうるのである。恋心は、誰に対しても燃え上がる。彼によれば、モーツァルトはそのことを、オペラの音楽で肯定しているのである。
 舞台では、フェランドとグリエルモが結婚することになったまま、結婚式の祝宴が再開され、登場人物たちは客席へ降りてくる。すると、合唱がテーブルクロスになっていた紙を広げるのだが、そこには物事を「少しは哲学的にご覧なさい!」──あるいは「お考えなさい!」──と大書してある。その文句は、相手を取り違えた恋人たちが最後には元の鞘に戻るというハッピー・エンドを期待する聴衆ばかりでなく、恋について教訓を与えようとした哲学者ドン・アルフォンゾとデスピーナにも向けられているにちがいない。そう、人間は恋について何も学ぶことはないのである。
 実際、四人の若者たちは、結局何も学ばない。コンヴィチュニーの演出では、四人はいつも相手のぬいぐるみの人形をもっていて、ドン・アルフォンゾとデスピーナはそれをことあるごとに取り上げようとする。お前たちが恋をしているのはお人形さんとしての相手なのだと言わんばかりに。しかし四人は、自分たちの浮気さと盲目を突きつけられても、教訓をわが身に刻もうとはしないのである。芝居の種明かしと、それに対する驚愕を、四人は結婚式のテーブルの上で、人形劇のかたちで演じるだけなのだ。その一方で、新しい相手が現われると、四人はいずれも相手に対して何か応えずにはいられない。そのときに新たな恋心が炎のように燃え立つこともありうるのだ。そこにこそ現実があることを、コンヴィチュニーは示していたように思われる。
 『コジ・ファン・トゥッテ』のドイツ語の副題は「恋人たちの学校」であるが、コンヴィチュニーはその「学校」を、聴衆を含めて、人間が恋について何も学ばないことを学ぶ場に変えている。この教訓なき教訓劇とも言うべきドラマのために、彼はブレヒト的な、文字による異化効果を、序曲の最中からふんだんに用いて、観客のなかば自嘲的な笑いを誘っていた。「みんなそうするものさ」というプラカードが緞帳のあいだから差し出されると、そこに「女は」ばかりでなく、「男は」とか、「猫は」とか、あるいは「消しゴムは」とか書かれたプラカードが次々と差し出されるのである。そして、文字とならんで異化効果を発揮していたのが、レチタティーヴォの伴奏にチェンバロではなく、ハンマーフリューゲルが用いられたことである。その硬い音色とともに歯切れよく繰り出されるドイツ語の台詞は、聴衆が期待するであろう『コジ・ファン・トゥッテ』の甘ったるいイメージを打ち砕いていた。コンヴィチュニーは、ドイツ語ででしかできない『コジ・ファン・トゥッテ』を、人間の真実を仮借なく突きつけるとともに、それを音楽で救い出すオペラとして、今に甦らせていたのではないだろうか。

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2006年10月14日 (土)

ベルリン旅日記:10月13日

 今日から昼間は文献を読むことに専念しようと、ポツダム広場のフィルハーモニーの向かいにある国立図書館の建物へ出かけ、利用を申し込む。利用料金は1か月10ユーロで年間25ユーロと、年間利用のほうが断然得なのだが、1年間のうちにベルリンへ戻ってくることはほとんどありえないので、仕方なく1か月の利用を申し出た。
 申し込みを済ませると、小さな利用券がもらえる。これを使って書庫の本を注文できるのだが、ベルリンへ来るまでにほとんど何も準備ができなかったので、読んでおきたい文献がほとんど絞られていない。ともかく、ベンヤミンの初期の言語論「言語一般および人間の言語について」で引用されているハーマンの著作や書簡を読んで、ベンヤミンの言語論の発想の源を探ることから始めることにする。ベンヤミンの著作集にしても、ハーマンの著作集にしても、注文するまでもなく、直接手に取って読むことのできる主要文献が並んでいる本棚に並んでいる。今日はハーマンの著作と書簡に取り組むことにした。ベンヤミンが引用した箇所の前後の文脈もたどってみると、ベンヤミンの発想の背景が暗示されているようで興味深い。書簡に関しては、ベンヤミンの著作集の編者註に、と言うよりもそこでベンヤミンが用いたとされるハーマンのアンソロジーに、書誌的な混乱があるようで、しばらく振り回された。久しぶりにドイツ語のいわゆるヒゲ文字をたどることになる。久しぶりだったせいか、しばらく眼が馴れない。
 18時過ぎまで図書館で勉強した後、ポツダム広場のショッピング・センターの地下にあるスーパーで、ミネラル・ウォーターをはじめホテルの部屋で飲み食いする品々を買い込んで、いったん部屋に戻る。ホテルとポツダム広場とのあいだの距離は、徒歩でだいたい10分強というところだろうか。途中には政府関係の大きな建物も建ち並んでいる。そう言えば、午前中出かけるときに、現在財務省となっている建物の壁に、巨大な社会主義リアリズムの壁ががあるのを見つけて、ギョッとさせられた。そう。このあたりはかつて東側だったのだ。
 夜、フィルハーモニーでベルリン・フィルの定期演奏会を聴く。曲はJ・S・バッハのミサ曲ロ短調(BWV. 232)だった。指揮はロジャー・ノリントンで、合唱はRIAS室内合唱団。最近活躍のめざましいノリントンがバッハ畢生の大作にどのように挑むのか、楽しみなところである。
 客席に入って舞台を眺めると、弦楽器群が馬蹄形に並べられている。指揮台も、指揮者用の譜面台も見あたらない。ではノリントンはどうするのだろう、と思いながら見ていたら、彼は、合唱が入るときには、弦楽器の輪のなかに入って指示を出し、独唱歌手のアリアやデュエットのあいだは、舞台のいちばん手前にヴァイオリン奏者の椅子の余りのように置かれた椅子にちょこんと座って、必要最小限の指示だけを与えていた。彼の譜面台はないので、当然すべて暗譜である。
 実際、ノリントンはこの巨大なミサ曲のすべてを手中に収めていた。そして、それとともに彼は、このミサ曲のあまりにも厳密と思われる形式が、生命のダイナミズムをその精髄において表現しているのを見て取っているようだ。基本的に楽天的で、またピリオド楽器の奏法を生かした──実際、弦楽器奏者はほとんどヴィブラートをかけていない──切れ味鋭いノリントンの解釈は、とりわけ生命の躍動を生きることの喜びとともに鮮やかに表現するところで、その美質をいかんなく発揮していたように思われる。グロリアが、キリストの地上への復活が、サンクトゥスが、これほど輝かしく響いたことがあるだろうか。この作品の演奏において、生きていることへの喜びがこれほど屈託なく表現されたことがあっただろうか。ノリントンがバッハのロ短調のミサ曲のうちに見ていたのは、少なくとも居丈高に屹立する巨大な神への捧げ物ではない。彼にとってその作品は、むしろ地上の被造物すべてに捧げられた、この地上に生きていることへの讃歌なのではないだろうか。
 したがって、そこにある対位法にしても、彼にとってはけっして抽象的な形式ではなく、絶え間なく躍動する生命が応えあうのと一体となった形式のようである。この曲におけるノリントンの指揮は、各曲の冒頭以外ほとんど拍子を出さない。むしろ、異なった生命が応えあうのを活気づかせるために強調すべき点を全身で表現することに重点を置くものである。少しビッグ・バンドか何かの指揮にも似ていなくはなかったのだけれども。ともあれ、そのような指揮によって、躍動する生命の呼応が、一つの音楽の高まりに結実してゆくのを聴くのは、感動的ですらあった。
 逆にキリエや、クレドのなかのイエスの磔刑を描く一節のように、地上の被造物の儚さを嘆きながら神の哀れみを求める深刻な箇所も、音が短く切られ、言葉の区切りが際立たせられることによって、逆に切々と胸に迫る祈りとして響いていたように思う。グロリアやアニュス・デイの最後の平和への祈りには、もう少し内側から湧きあがるものがあっても、とも感じたが、全曲の祈りが注ぎ込まれているとも言ってよいこの音楽が、これほど燦然と響いたのは耳にしたことがない。
 このような輝かしく、また鮮やかなバッハのミサ曲の演奏を支えていたのが、ラトル時代の若いベルリン・フィルの機動性であったことは言うまでもないが、それ以上に特筆すべきは、ベルリン・フィルのきびきびとした演奏が、RIAS室内合唱団と透明な響きと一体となっていたことである。時にそれぞれの声部が一人の歌手の声のように聴こえるくらいによく訓練されたこの合唱団の声は、力強く、そしてけっして混濁することなく響きわたる。また、バスによってしっかりと支えられた響きには、安心して身を委せることができる。演奏全体のこれほどの完成度は、この合唱団なくしてはけっして望みえなかっただろう。
 独唱歌手のなかでは、テノールのジョン=マーク・エンスリーとバスのデートレフ・ロートが印象的に残る。エンスリーのまっすぐに響きわたる力強い声は、最初から耳を惹いたし、またロートの真摯さも光る。グロリアのなかのバスのアリアは、狩のホルンを担当したラデク・バボラクの巧みな演奏と相まって、アリアのなかでは白眉の出来を示していたように思う。この二人に対して、ソプラノのスザンナ・グリトンとカウンター・テノールのデヴィッド・ダニエルスの歌唱は、今ひとつこちらへ迫ってこない感じ。とりわけダニエルスの声は、カウンター・テノールには珍しくとても自然だっただけに、惜しまれる気がする。もしかすると、歌手の背後で聴いたせいかもしれないけれども。
 この日、ベルリンのフィルハーモニーで聴いた、どこまでも澄んだ響きと切れ味鋭いアーティキュレーションで、生命の絶え間ない躍動を表現し、この世に生きることの喜びを力強く歌い上げるバッハの演奏。それはもしかすると、バッハがその晩年の大作に一人の人間として込めたものを、世俗的で普遍的なものとして今に響き出させるものだったのかもしれない。ノリントンとベルリン・フィルによるバッハの演奏が、現代の楽器奏法と歌唱法でバッハの作品にアプローチする一つの可能性を力強く示していたのは間違いない。

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2006年10月13日 (金)

ベルリン旅日記:10月12日

 今日から20日までベルリンに滞在する。第一の目的は、雑用から離れて研究のための文献を読み、考えること。だいたい毎日国立図書館に通い、場合によってはまる一日そこに閉じこもることになりそうだ。ベンヤミンがパリの図書館でしたことの真似事を、ベンヤミンについてやろうというわけである。ただ、そうでもしないととても勉強などできないのが現在の広島での状況でなのだ。この滞在期間に、言語を、それを語る活動の相においてとらえ、また意思疎通の手段となるたんなる記号としてでなく、語るはたらきとともに表現の媒体として生成するものとしてとらえるドイツの言語哲学の伝統からベンヤミンとハイデガーの言語哲学が生じてきたこととともに、両者のコントラストを示すことによって、ベンヤミンの言語哲学の可能性を提示しようとする自分自身の立場を浮かびあがらせるような論文の下準備をできれば、と思っている。
 ベルリンへ来た第二の目的は、17日から始まる「国際ベンヤミン・フェスティヴァル」のいくつかの催しに参加すること。アガンベン、ディディ=ユベルマン、サム・ウェーバー、そして多和田葉子の師でもあったジグリット・ヴァイゲルといった、日本でも名前が知られている学者たちの講演に接することができるのを期待している。わざわざこの時期にベルリンへ来たのもそのためである。ちなみに「フェスティヴァル」なので、講演やシンポジウムばかりでなく、展覧会や映画上映、さらには日本人によるダンス・パフォーマンスも、その枠内で催されるという。
 三つ目の目的として、やはり音楽を聴いたり、絵を見たりといったことがあるのも、白状しておかなければならない。フランクフルトでベルリン行きの飛行機を待つあいだ読んでいた『南ドイツ新聞』によれば、来週から博物館島のボーデ美術館が新装なって開館するとのこと。写真を見るかぎり、王宮のコレクションのような展示である。週末には、懐かしいポツダムを訪れて、サン・スーシ宮殿の絵画館のカラヴァッジョも見ておきたい。音楽は、ベルリン・フィルの演奏会のほか、オペラの公演などに接する予定。
 ベルリン行きの飛行機がフランクフルトへ来るのが遅れて、そのあいだ待合室に山と積まれた新聞を読んで暇を潰していたが、どの新聞もやはり北朝鮮の核実験の政治的な影響を論じている。日本での報道と異なるのは、北朝鮮とアメリカの関係がクローズアップされていること。どのようなコンテクストのなかで「核」というカードが切られたのかを考えさせてくれる。文化面では、ナチの親衛隊に所属していたことを最近になって自伝で告白したギュンター・グラスをめぐる騒動が相変わらず続いている様子が報じられているし、『南ドイツ新聞』は、今週の土曜に生誕百周年を迎えるハンナ・アーレントが、戦後ドイツへ旅行したときに、ケーニヒスベルク時代の彼女のギリシア語の教師で、後にナチ党員として教育のナチ化に向けて動くことになる人物と再会したことを取り上げていた。ネオナチ勢力も暗躍を続けているようである。ベルリンのユダヤ系のサッカー・チームは、試合中にネオナチと思われる観客から繰り返し反ユダヤ主義的な野次を浴びせられたことを理由に、試合を途中でボイコットしたとか。
 ベルリンに到着したのは午後8時過ぎ。ホテルにたどり着いたのは結局9時前のことだった。長旅の疲れがこれまでたまっていたのと合わせて出たのか、何もする気にならない。空港で買ったチョコレートをかじりながら新聞やテレビを見ているうちに眠くなってしまった。

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2006年10月12日 (木)

アルベルト・ジャコメッティ展

 先日、京都からの帰りがけに神戸に立ち寄り、兵庫県立美術館で開かれていた「アルベルト・ジャコメッティ展──矢内原伊作とともに」を見に行った。展覧会の最終日にようやく間に合ったというところである。
 ジャコメッティを日本に紹介した哲学者矢内原伊作との交友を中心に据えながら、矢内原がジャコメッティの不断の試みとしての芸術のうちに見て取った、「見えるがままに描く」ことの追求を、140点近くの作品によって展望させようとする展覧会であった。一人の人間が現にそこに存在していることそれ自体を極限にまで研ぎ澄まされたかたちで屹立させ、見る者を立ちどまらせずにおかない彫像の数々とともに、そこに至るまでのあまりにも執拗と言うほかない試みの足跡を示すデッサンも数多く出品されていた。個人的には、どちらかというと彫刻作品をもっと数多く見たかった気もしないではないが、これほどの数のジャコメッティの作品を、その創造の過程──そこに矢内原は居合わせることになるのだ──とともに見ることができたのは、得難い機会だったことは間違いない。
 それにしても、ジャコメッティにとって「見える」とはどういうことだったのだろう。それはたとえば、ある人物が「矢内原伊作として」見えているということではないのだろう。それは少なくとも「見たい」ものを見ているということではないはずだ。ジャコメッティは初期に、「不快なもの」の彫像を制作している。昆虫の幼虫のような胴体に、こちらを睨みつけるような眼をもった顔がついた、不気味な生き物。その彫像を敢えて制作するとはどういうことなのだろう。悪夢の残滓を形象化したかに見えるこの作品を、シュルレアリスムの影響の産物と片づけることはできないのではないか。それはむしろ、ジャコメッティにとって「見える」とはどういうことだったのかを暗示してはいないだろうか。ジャコメッティにとって「見える」とは、見たくなくとも、どうしても見えてしまう、眼前に立ち現われてきてしまうということのように思われるのである。
 1947年に制作された、極端に長くとがった「鼻」の彫像も、ジャコメッティにとっての「見える」ことそれ自体を象徴しているように見える。彼にとって「見える」とは同時に、彼を傷つけること、すなわち彼のなかにトラウマを残すことのようにも思われるのだ。トラウマ的な記憶の痕跡から反復衝迫的に産み出されてくる無意志的な記憶の像は、けっして全体的なものではない。だからこそジャコメッティは「頭蓋を欠いた頭部」(1958年頃)を制作することもできたのだろう。また、記憶の像が断片として現われてくるとは、記憶される過去と記憶する現在のあいだに埋めることのできない隔たりがあるということでもある。その絶対的な距離のなかで過去が現前してくることをも、ジャコメッティは形象化しようとしたようだ。彼が制作した極小の彫像の小ささは、その距離を示しているのであろう。
 記憶の像が眼前に立ち現われてくるままに描き取ろうとすること、それは他方でどうしても「見えるがまま」に描くことではなく、現われてくるものを「見える」姿のうちに囲い込むことにならざるをえない。ジャコメッティはそのことも自覚していたように見える。1950年に制作された「檻」は、彼自身の芸術の暴力性を映し出す作品でもあるのではないか。それを自覚しながら、ジャコメッティは、自分を突き刺すように「見える」ことに対して、どこまでも忠実であろうとしたようだ。それは、「見える」さまを見届けるまなざしを研ぎ澄ますことでもあろう。そして彼は、自分を刺すように何かが、あるいは何者かが見えてくることを極限まで突きつめることによって、存在することの精髄に迫ろうとしたのではないだろうか。その厳しい歩みを支えたのが、矢内原であり、弟のディエゴであり、妻のアネットであったのかもしれない。この三人の魅力的な彫像を見ることができたのも、今回の展覧会の収穫の一つであった。

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2006年8月 4日 (金)

岡真理『棗椰子の木陰で』

 48時間の爆撃停止の期限が切れて、イスラエルによるレバノンへの、空と地上両方からの激しい攻撃が再開された。攻撃の激しさは増す一方だが、これは当初から防衛の範囲をはるかに越えている。空からの爆撃においては、非戦闘員を無差別に虐殺するもの以外の何ものでもないクラスター爆弾も使われたという。今朝の新聞には、病院を掃討するイスラエルの地上特殊部隊の写真も載っていた。そして、このような一方的な軍事攻撃の被害を受けるのは、カナの避難施設への爆撃が象徴するように、決まって子どもや年老いた人びとをはじめとする一般の市民である。レバノンでは900人に上る人びとが殺され、そのほとんどが民間の非戦闘員であるという。そして、今や100万人を超える人びとが、住み慣れた場所を追われ、難民となっているとも報じられている。
 そのような悲惨な状況を最も研ぎ澄まされた眼で見つめている一人がアラブ文学研究者の岡真理であるが、彼女がこの10年間、悪化の一途をたどるパレスチナとその周辺のアラブ世界の情勢を見つめながら、それに応える文学の力を問い続け、書き継いでいった論考を集めた一冊が最近出版された。『棗椰子の木陰で──第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社)である。この論集には、言葉を語り、語られた言葉を読むことを、そして語り、読む主体のアイデンティティを、正確な言葉づかいをもって一歩一歩突きつめ、それらについての従来の見方を、すなわち人びとの自明のよりどころとなっているものを突き崩し、その果てに文学の、そして言葉の可能性を切り開こうとする試みの軌跡が刻まれている。
 たとえば、いわゆる「グローバリゼーション」が進行するとともに富める者と貧しき者が引き裂かれるなかで、あるいはイスラエルとアラブ世界との緊張が高まるなかで、しばしば「異文化理解」や「多文化共生」といったことが叫ばれる。しかし、そのように「固有の」文化があらかじめ存在することを前提するかのような議論には、大きな落とし穴があることを岡は指摘している。「かつて帝国主義の時代、非西洋世界の文化は価値的に劣ったものとされ、西洋中心主義の世界観のなかで周縁化されてきた。現代においては、過去の西洋中心主義に対する批判として、非西洋世界の文化の自己主張がさかんになされるようになった。とりわけグローバリゼーションが進行する今、世界の一元化に対する文化的抵抗として多文化主義が主張されている。どの地方にも、その地方固有の文化、固有の価値観がある、アラブにはアラブ独自のイスラーム文化によって培われた経験と価値観が、アフリカにはアフリカの太陽と母なる大地によって育まれた生と価値観がある、という主張。西洋中心的な私たちの世界認識が批判され、解体されるのは良い。しかし、ここで注意したいのは、こうした本質主義的な地方主義に根ざした多文化主義は、依然として西洋=普遍、非西洋=特殊という構図が強固に存在するこの世界では、西洋中心主義的な世界認識を解体するどころか、むしろ強化することになりはしまいかということである。知の本質主義的地方主義に居直り、地方の文化的特殊性を強調する「原理主義」が、西洋=普遍とする西洋中心主義と共犯関係を結んでいることはつとに指摘されているとおりである」。
 では、酒井直樹が批判する「文化主義」とも重なりあうこの「本質主義的地方主義」を乗り越えてゆくどのような道筋があるのだろうか。岡は、「固有な」ものとして、自己のアイデンティティの基盤として自明視しているものを内側から解体することを提案している。たとえば「母語」。これを私たちは「固有の」言語として「自然に」話しているだろう。しかし、それはもとをただせば、「母」という他者の口から吹き込まれた「異物」なのだ。それを語ることは、核心においては一体化の享楽であるよりはむしろ分裂の「苦悶」なのではないか。そのことを岡は、トリニダート・トバコの詩人マルレーヌ・ヌルベーズ・フィリップの詩「言語の論理に関する言説」を解釈しつつ、説得的に示している。
 このことを洞察し、言語の物質性に躓きながら、他者の言語として自分が「母語」として話してきた言語を見つめなおすこと。岡によれば、このことのうちに言葉を話すことを他者に開かれた活動へ反転させる契機がある。「母語を母語として生きる者であろうと、母語なるものの他者性を、つねにすでに、生きている。これらのテクストが読者に要求するのは、言語の物質性を回復させ、私たちがそれに躓くことによって、母語なるものの、忘却されてあるこの生々しい他者性を想起することにほかならない。言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。/だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者に開かれたものにする、その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。私の躯のなかに吹き込まれたあなたの言葉が、私の呼気となって出てゆく、開かれた私の躯が反響板となって、あなたの言葉を、あなたのものではない他者の言葉を、誰のものでもない言葉を、私のことばとして、私たちの言葉として。誰のものでもない他者の言葉を分有する者として。苦悶であると同時に、歓びでもあるような」。
 「固有の」言語ではなく、他者の言語を分有していることを引き受け、複数性を自分自身のうちに刻印することによってこそ、他者たちのあいだで言葉を響きあわせることができる。「この世に居場所をもたない者たちの、死者たちの声」に耳を澄ませ、「正統性」の名のもとでのあらゆる排除の暴力を越えたところで、そのように掻き消されようとしている声に耳を澄ませ、それに応答することができるのだ。『千夜一夜物語』、ナワール・エル=サアダーウィーの『零度の女』、李良枝の『由煕』といった文学作品の精緻で批判的なレクチュールをつうじて、岡真理のエクリチュールは、これまで自己の母胎と見なしてきたものを突き崩した先に、他者と応えあう言葉を見いだすことへ読者をいざなおうとしている。
 ところで、『棗椰子の木陰で』には、1997年から2006年にかけて、パレスチナの出来事を中心に、ひとつひとつの出来事に応答しつつ、そこにある暴力と、それに対する抵抗を証言するクロニクルも収められている。それを書き継ぐことをつうじて、岡はアラブ世界の情勢を見すえつつ、そのなかで暴力的な抑圧に苦しむ人びとと連帯しようとしている。その姿を見つめながら、レバノンに対する不当な攻撃に対して、そしてその陰で今も進行しているガザへの暴力に対して、抗議の声をあげようとしない自分自身の今ここを、戦慄とともに見つめ返すべき時が来ているのかもしれない。

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2006年7月22日 (土)

「パウル・クレー──創造の物語」展

 祝日の月曜のことだが、佐倉の川村記念美術館で開催されていた「パウル・クレー──創造の物語」展を訪れた。「日本におけるドイツ年」の一環として開催されたこの展覧会は、デュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン美術館、ハノーファーのシュプレンゲル美術館、そしてヴッパータールのフォン・デア・ハイト美術館というドイツ北西部の3つの美術館のクレーのコレクションに、日本国内にあるクレーの作品を加えて展示するもの。クレーの故国スイスに並ぶとされるこれら3つの美術館の充実したコレクションを中心に構成されたこの展覧会は、最初期の風刺的なエッチングから、最晩年の、まったく無駄のない画面構成のなかに暖かな静謐さを感じさせる作品まで網羅することによって、画家としてのクレーの仕事を一望させるばかりでなく、5つのテーマのもとに作品を配することによって、クレーの創造の核心にあるものへも迫ろうとしていた。
 「光の絵」と題された第1部は、1910年代までの初期の作品によって、クレーがモノクロームの世界を脱して、光に満ちた世界を色彩的に構成し始めるに至るまでの作風の変遷を描き出していた。それが示すのは、神の世界創造の原理でもある光を、クレーが最初期から追求していることである。風刺的なエッチングに取り組んでいた若きクレーは、黒の描線によって地上の現実を照らし出す光を画面にもたらそうとしていたのだ。その光は、苦い鋭さを放ちながら、人間社会の矛盾を歪んだ寓意像のかたちで抉り出す。世俗の王冠を前に身をかがめる一方で、他人を前にしてはみずからの優位を主張するといった人間の醜悪さをアイロニーとともに浮かびあがらせるクレーの「作品1」の版画集「インヴェンション」は、ゴヤの「ロス・カプリチョス」と比べて見たらどのように映るだろうか。
 そのように苦渋に満ちたまなざしと鋭い黒の描線をもって人間社会の矛盾を照らし出す光を追い求めていたクレーは、1910年代には、光に満ちた世界を、水彩で色彩豊かに、かつ抽象的に構築し始める。ロベール・ドローネーの作風に触れたこと、そしてよく知られているチュニジアでの光の啓示は、人間社会の深奥へ突き入っていたクレーのまなざしを、豊かな光彩と広がりをもった世界へ向けて開いていったようだ。そしてクレーは、線描画家から、そのような世界を画面のうちに色彩をもって再創造する画家に変貌することを決意したのかもしれない。神が世界を創造する光の強烈な放射を、力強い線の動きと一体となった色彩によって描き出そうとする「はじめに光ありき」は、そのマニフェストのようにも見える。
 「自然と抽象」と題された第2部は、クレーにおける経験的な自然の観察と抽象的な画面構成の緊密な関係に焦点を絞るものであった。経験的な世界の要素の幾何学的なものへの抽象ではなく、世界を経験的なものとして成り立たせている世界そのものの躍動を画面上に構成し、可視化するクレーの抽象は、絵画空間のなかに時間的な動きをもたらすにちがいない。クレーの絵に音楽があるのは、一面ではそれが時間を絵にしているからではないだろうか。
 この音楽を一枚の譜面にも見えるようなかたちに構成しているように見えるのが、「駱駝(リズミカルな樹々の風景のなかの)」である。赤を基調とする柔らかで暖かな色彩のなかに駱駝のようで駱駝に見えない動物の姿が溶け込んでゆくなかから、いくつもの声部と拍子をもった音楽を鳴り響かせようとしているかのようだ。また、これも赤を基調とした絵であるが、「バラの庭」においては、ひとつひとつの形態の動きと画面全体の色彩の諧調が見事に結びついていよう。そこでは、石積みの建築物の石の隙間から力強く花を咲かせ、光を放射するようなバラの花が、暖かな光によって照らし出された石の建築物によって覆われた風景に動きを与えている。バラが一輪また一輪と咲くなかで、石の階梯が色の諧調をなしているのである。
 クレーは、このように音楽を聴き出すようにして自然の生命へまなざしを注ぎながらも、同時代の社会的現実からけっしてまなざしを逸らしてはいない。第一次世界大戦による物心両面での破壊の悲惨さを一つの風景に凝縮させたかのような「破壊された街」は、このことを証し立てるものだろう。蝋燭の希望の灯が消えてしまった世界を、真っ赤な太陽がじりじりと照らし、廃墟を剥き出しにするさまを描くこの絵は、慰めなき世界を凝視するクレー自身のまなざしも同時に描いているのかもしれない。これと好対照をなすのが、暖かな光で照らし出された空間のなかに古代ギリシアの円柱を思わせるような建築物の断片を配し、瓦礫から何かが少しずつ造り上げられようとしていることを感じさせる「再構築」だろうか。
 ところで、自然の形態と画面の構成とが見事に結びついた作品として、もう一枚「蛾の踊り」にも触れておきたい。虫とも鳥ともつかない形態を浮かびあがらせ、その羽根の動きを描き出す震える線の動きが、青を基調とする画面全体の色彩の配置と緊密に結びついている。中心に描かれた生き物の踊りが空間を響かせているかのようだ。
 第3部は「エネルギーの造形」と題して、自然の事物が内側から自己を生成させる生命の躍動を画面上に描き出すクレーの創造を作品によって照らし出そうとしている。この第3部では、2枚の対照的なモノクロームの絵に魅かれた。1枚は「螺旋状にねじれた花II」。画面の右上、右下、そして左下から伸びてくる線をたどってゆくと、闇のなかに密やかに咲く花の形態に行き着くが、その花を描き出す螺旋状の線は、別の花ともつながっている。暗闇のなかで静かに応えあう生命のいとなみを描き出すようでいて、画面全体は闇のなかへ沈み込みながら、見る者の心を静め、沈思へと誘う。この闇のなかに沈潜してこそ、自然の生命に耳が開かれるのかもしれない。
 もう1枚のモノクロームの絵とは、死の前年に描かれた「シュユップ」という奇妙な画題をもった作品。魚類や爬虫類の鱗を思わせる形態が画面を覆い、嵐のように渦巻いている。その荒々しい動きは、「皮膚硬化症」と診断されたクレー自身の身体に現われた病魔の動きから見て取られたものであるという。病に苦しみながらも、自分自身の身体を蝕んでゆく自然の動きと対峙し、それを描き取ろうとする画家としてのクレーの姿が、その苦悩とともに伝わってくる作品。
 「イメージの遊び場」と題された第4部に配された作品はどれも、震動しながら既成のさまざまな境界線を揺り動かし、空間のなかに「遊び場」を開くクレーの線の魅力を発揮している。見ていて笑みを浮かべずにいられないような作品が多い。「窓辺のマリオネット」という作品に描き出されているのは、E・T・A・ホフマンの「砂男」に登場する窓辺の自動人形のようだ。柔らかな紫を基調とする色彩の諧調に包まれるなか、人形が涙を流し始めているようにも見える。「赤い鳥の物語」においては、線の動きがさまざまな生き物の形態への想像をかき立てる。画面の右上に描かれた赤い鳥(のような生き物)は、これからどのような生き物と出会うのだろう。鯨だろうか。それとも自分の何倍も大きな鳥だろうか。
 最後の第5部は、晩年のクレーの作品の画面を「物語る風景」として提示している。病魔に冒され、自由が利かなくなったクレーの手が、けっして直線的にではなく、緊張に満ちた震えを孕みつつ、行きつ戻りつしながら、あるいは線と線を縺れ合わせながら描く線。それは空間と時間を多層的に分節しながらイメージを産み出し、見る者に語りかけてくる。それは線が文字を思わせるようなかたちで空間を区切っているからかもしれない。そのような文字がイメージと、さらには画面全体の色彩の諧調と見事に結びついている作品として、「石板の花」を挙げておきたい。薄緑の石に刻まれたさまざまな記号が、花を咲かせるように、赤や青の色を帯びて浮かびあがる。しかし、記号をかたちづくる線そのものは、硬い石のなかへ沈み込んでゆくようにも見える。色と線の緊張。これが画面に独特の静けさをもたらしているのではないか。そして、静けさのなかで有機質の音と無機質の音が応えあっているかのようだ。
 そう、晩年のクレーの作品はどれも静けさによって貫かれている。ただし、その静けさは、冷えきった静けさではない。どこか暖かさを感じさせる静けさである。そして、その暖かさをもたらしているのは、時に生命あるものへの優しいまなざしであったり、時に醜悪な人間の生きざまをアイロニーを交えつつ受けとめようとするまなざしであったりするのだろう。とはいえそのまなざしも、自分自身へ向かうときには、厳しさを増しているように思われる。寓意的な自画像のように見える「忘れっぽい祝宴の席もはててから」の画面においては、晩年のクレーがしばしば手がけた天使像を思わせる形象が、自分自身へと沈潜している。そしてその姿は、寒色を基調とする硬質の静けさのうちに静止している。自分自身を厳しく見すえるクレーの透徹したまなざしを感じさせる作品である。
 最後に置かれていた死の年の「隣の家」は、クレーの現世への別れの挨拶のようにさえ見える。そこでは、隣の家へ遊びに行く子どもとなったクレーが、彼岸への扉を開こうとしているのではないか。落ち着いた緑と茶を基調としながら、微妙にちがった色を格子状のブロックに配することで、家々とその背景を構成する画面は、静かな暖かさに満ちている。クレーは、自分のこれまでの生きざまを受けとめながら、彼岸へ赴こうとしているのだろうか。
 このように、暖かな静けさによって貫かれているのは、もしかすると何も晩年の作品だけではないのかもしれない。振り返ってみると、今回の展覧会で見たクレーの絵のなかに、騒々しく自己主張したり、居丈高になったりするものは一枚もない。何よりもまず静けさによって貫かれているからこそ、クレーの画面は、何かを響かせ、語りかけてくるのではないだろうか。その無調の響きの源にある静けさ。それをもたらしているのは、クレーの透徹した耳をもった眼、生命の囁きを聴き取るまなざしであろう。それは彼の創造の核心をなすものの一つではないだろうか。今回訪れた「パウル・クレー──創造の物語」展は、初期から晩年までのクレーの優れた作品を数多く見せてくれるばかりでなく、このようなクレーの創造の核をなすものにまで思考をいざなう展覧会だったと言えよう(以上、http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Paul_Klee_17072006.htmより抄録)。
 ちなみに川村記念美術館は現代美術の充実したコレクションを誇っていて、なかでもマーク・ロスコの作品は独立した部屋を設けて展示してある。底なしに深い黒や赤が塗りこめられた作品が立ち並ぶその部屋に足を踏み入れると、自分を吸い込むものが迫ってくるような感じがして眩暈をおぼえる。クレーの絵を見るのとはまったく対照的な経験であった。それ以外では、シャガールの大きな油絵も印象的。東京の中心からはかなり離れてはいるものの、何か展覧会があるごとに足を運ぶ価値のある美術館の一つである。

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2006年6月26日 (月)

「ガーダ──パレスチナの詩」

 古居みずえ監督のドキュメンタリー「ガーダ──パレスチナの詩」を見る。上映会場となった原爆記念資料館の会議室は150人ほどのキャパシティだったが、中国新聞に監督を紹介する記事が出たためだろうか、雨天だったにもかかわらず、立ち見客が出るほどの盛況であった。
 作品は、ガーダというガザ在住の女性が、学問によって啓蒙された女性として、伝統的な慣習や女性の役割を押しつけられるのに反発しながらも、結婚し、子どもを産むなかで、苦難を生き抜き、抵抗を続けるパレスチナの女性としてのアイデンティティに目覚め、1948年以来のイスラエルの占領支配に苦しみながらも生活を守り続ける女性たちの記憶を一つの歴史として語り継ごうと決意し、ガザ周辺に住む老女たちを訪ねて回るさまを追っている。パレスチナの女性たちの日常の息づかいを、それを取り巻く空気とともに細やかに伝えるとともに、それ自体がイスラエルの圧政に対する抵抗となるような日常生活の力強さをも暖かく浮かびあがらせる映像が胸を打つ。
 古居みずえは、12年間にわたってガーダを追い続け、パレスチナの人びとの生活に密着しながら、500時間におよぶ映像を撮り貯めたという。そのなかから選りすぐられた2時間足らずの映像は、パレスチナの女性たちの息づかいのなかから、男性的視点からはなかなかとらえることのできないもう一つの抵抗の姿を浮かびあがらせている。家屋や農地を壊されてもそこで生活を守ることが、イスラエルの暴力に対する抵抗なのである。
 このドキュメンタリーが描き出しているのは、パレスチナの人びとの生活が歌に満ちていることである。結婚の祝宴のような場で人びとが歌い、そして踊るのはもちろんだが、けっしてそうしたハレの場だけに音楽があるわけではない。女性たちは、歌いながら生活を守っていると言ってもよいくらいだ。銃弾が飛び交うなか、女性たちは歌いながら菓子を作り、子どもをあやす。そして手を動かしつつ歌うなかに、かつての記憶が甦ってくる。そのように呼び覚まされてくる記憶をこそ、ガーダは聴き取り、語り継ごうとするのである。
 最も印象的だったのは、ガーダの義理の祖母が鎌を動かしながら、麦刈りの歌と思われる哀愁を帯びた歌を歌うシーン。刈り入れを真似ながら歌ううちに、イスラエルの侵攻によって故郷を追われた記憶が甦ってきて、彼女は涙にくれる。そのように、歌が時に涙とともに呼び起こす記憶を継ぎ合わせ、パレスチナの女性たちひとりひとりの身体的な生に根ざした記憶を描き出すこと、それはイスラエルのシオニズムのイデオロギーを形成する、ひと続きの国民的アイデンティティの物語とは異なったもう一つの歴史を提示することであろう。そして、このもう一つの歴史を書くことが、パレスチナの女性としてのガーダの抵抗なのである。
 ガーダがこのような抵抗に目覚めたのは、第二次インティファーダにおける幼い甥の死がきっかけだった。他の子どもたちと投石による抵抗に加わっていた甥は、イスラエル兵によって後ろから撃たれたのである。イスラエルの兵士は、逃げてゆく子どもの後頭部に銃弾を撃ち込んだのだ。映像は、そのような理不尽なイスラエルの暴力とそれに対するパレスチナの人びとの悲しみも描き出している。壊された家屋となぎ倒された果樹。その上に広がる青く澄み渡った空。古居みずえの「ガーダ」は、両者の落差のなかで悲しみを背負いながら、また歌うことで悲しみを他者と分かちあいながら生き抜く女性たちの息づかいを届けながら、もう一つの歴史の希望を感じさせる作品と言えよう。そこにあるのは、広島にいるわたしたちの抵抗としての歴史の希望なのかもしれない。
 パレスチナの女性たちの姿を暖かく、また細やかに描き出す「ガーダ──パレスチナの詩」の広島での上映が、この一回限りで終わってしまうのは実にもったいない。女性をはじめ、もっともっと多くの人びとに見てもらいたい作品である。広島市内の映画館で、一週間でもよいから上映する可能性はないものだろうか。

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2006年6月13日 (火)

「ルート181」

 6月11日、パレスチナ人ミシェル・クレイフィとイスラエル人エイアル・シヴァンという二人の映像作家が監督した作品「ルート181──パレスチナ−イスラエル・旅の断章」を見る。上映会場となった広島市内の映画館(横川シネマ)には、椅子が足りなくなるほどの人が詰めかけていた。上映会を主催したグループのメンバーから聞いたところでは、200名近い入場者があったとのこと。あまり広く共有されているとは思えないパレスチナの状況を扱った映画にこれほどの人が集まるとは正直予想できなかった。広島の人びとの外へ向かう問題意識もまだまだ捨てたものではないということだろうか。ともかくこの上映会が、パレスチナの状況と問題がこれまで以上に広く共有される機会となったことは率直に喜びたい。
 映画「ルート181」のタイトルは、1947年の「国連決議181号」にもとづいている。その決議はパレスチナの分割線を定めるもので、この分割線が後にアラブ国家とユダヤ国家の境界線になることもうたっていた。しかし、1948年のイスラエル独立とそれに続く中東戦争の結果、この決議は反故にされてしまう。それが定めた境界線は、幻のものになってしまったのである。映画「ルート181」は、クレイフィとシヴァンの二人がこの幻の境界線を「ルート181」と名づけ、それをたどった旅の記録であるが、その映像はパレスチナの地から複数の声を届けながら、日本の現在の問題を鋭く照らし出している。
 「ルート181」上の土地は、イスラエルによって征服されている。かつてあったパレスチナ・アラブ人の集落は跡形もなく一掃され、そこにヘブライ語の地名が覆い被せられているのだ。あたかもアラブ人たちの生の記憶を消し去ろうとするかのように。そして、そこに住むユダヤ人たちは、自分がそこに他者を排除しながら生きていることを、二人の映像作家の前で正当化しようとする。神の約束や最初の開拓者たちの記憶を都合よく解釈することによって、そこがもともと自分の土地だったことを裏づける物語を捏造し、場合によってはそのために博物館のような施設まで建てたりするのである。その様子は、植民地支配をも利用して人びとを動員し、軍艦をはじめとする兵器を造り続けた軍需産業としての重工業産業の現在に至る存続を正当化しようとするかのように、いわゆる「ものつくり」の先達を礼賛しようとする博物館が建設されてしまう広島の状況とも二重写しになる。
 映画に登場するユダヤ人の多くは、そのようにひと続きの物語を作りあげることによって自分のアイデンティティと現在の生存を正当化する一方で、それがパレスチナのアラブ人の排除の上に成り立っていることを問いただされると、アラブ人への攻撃性を剥き出しにする。女性や子どもを含め箒で掃き出すように追放したことを、「弱い」アラブ人自身に責任があったことのように語る元軍人、アラブ人を「犬」や「癌」と呼んでその排除を正当化しようとする若い労働者。とりわけ新参の移民としてイスラエル社会のなかでも底辺に追いやられ、差別の対象ともなっている中東生まれのユダヤ人が、アラブ人への敵意を露わにすることによってイスラエル国民であることをことさらに自己主張しようとするさまは、日本でもいわゆる「勝ち組」になれるコースから外れてしまった人びとが、隣国の人びとへの敵意を剥き出しにしながら「国民」の虚像に必死でしがみつき、自分がマジョリティに属していることを何とかして確かめようとする様子にも重なってくる。そして、イスラエルにおいては、このように自分のアイデンティティの不確かさを他者に対する攻撃性によって埋め合わせようとする人びとが、やがて兵士となってパレスチナ人への直接的な暴力に手を染めることになるのだ。それによって、かつてユダヤ人がホロコーストのなかで被った暴力が、皮肉なことに今度はパレスチナ人へ向けて繰り返されることになるのである。
 そのことが実は、第一次中東戦争におけるイスラエルのパレスチナ・アラブ人居住地域の征服と占領以来、不断に繰り返されていたことも、映画は証言している。たとえばロッドと現在呼ばれているパレスチナ中部の街には、1948年当時にパレスチナ人を閉じ込める地区が造られていて、その地区はこともあろうに「ゲットー」と呼ばれていたという。ユダヤ人を閉じ込めていたゲットーが、ユダヤ人の手によって、パレスチナ人を閉じ込めるものとして再び造り出されたのだ。しかもロッドの「ゲットー」では、300人におよぶパレスチナ人がモスクに集められ、イスラエル人によって虐殺されたのである。それを目撃し、さらにはナチス・ドイツの絶滅収容所でユダヤ人特務班が同胞の遺体の処理を強いられたのとまったく同じように隣人たちの遺体の処理をさせられたのを証言する年老いたアラブ人の床屋が登場するシーンは、明らかにクロード・ランズマンの映画「ショアー」のなかの、絶滅収容所の生き残りアブラハム・ボンバが、床屋として髪を切りながら、ガス室に送られる直前のユダヤ人女性たちの髪を切らされたことを証言するシーンを思い起こさせようとするものであろう。クレイフィとシヴァンは、ボンバが経験したのと規模こそ異なれ、他者を絶滅させようとする点では同じ暴力が、ユダヤ人によって、それもホロコーストのわずか数年後に繰り返され、今も繰り返され続けていることを突きつけているのだ。カメラが映す、近隣アラブ諸国へのアラブ人の「移送」──それはユダヤ人の収容所への「移送」というかたちで用いられていた語だ──を訴える政治的スローガンもまた、戦慄を催すものだった。
 このように反復される暴力の中心的な担い手となっているのは当然ながらイスラエル国防軍の兵士たちであるが、そのなかの若い、哲学を学んでいてカフカを愛読するという一人に、監督たちは問いかける。「悪の陳腐さ」を知っているか。収容所への「移送」を取り仕切る責任者だったナチス・ドイツの高官アドルフ・アイヒマンの裁判を論じたハンナ・アーレントのルポルタージュの副題である。アーレントはそこで、組織の歯車として動くだけの凡庸な人間のルーティン・ワークこそが巨悪を担いうることを暴き出し、映画「ルート181」の監督の一人であるシヴァンは、アイヒマンがその凡庸さを露呈させる裁判の映像を映画「スペシャリスト」(1999年)のかたちで、「オフィスの犯罪」が横行する現代に突きつけたのだった。そしてシヴァンとクレイフィは、「悪の陳腐さ」というアーレントの言葉を引用することによって、イスラエル軍の若い兵士に、自分が上官の命令にしたがって仕事としてやっていることが、パレスチナ人に対する巨大な、圧倒的な、またパレスチナ人ひとりひとりの人格を否定するような暴力の一端を担うことであることにどれほど自覚的なのか、自覚的でないとすればお前はもう一人のアイヒマンではないのか、と問いかけているのである。その問いは日本の状況を問いただすものでもあろう。もしかすると「愛国心」や「国民の義務」が声高に語られるようになるなかで、日本では従順なアイヒマンたちが生産されてゆく機構が作り出されようとしているのではないだろうか。
 映画「ルート181」は、そのように「ユダヤ国家」の存立がパレスチナ人の排除と抑圧を構造化することを基盤にしていることを暴き出してゆくが、それはけっして一枚岩の悪としてのイスラエル像を呈示するひと続きの物語に解消されるものではない。まず、「ルート181」をたどる旅は絶えず寸断される。行程は鉄条網を張り巡らした境界や建設されつつある分離壁によって遮られ、道行く人との対話は戦闘機の爆音によって遮られるのだ。そして寸断された「旅の断章」から響いてくるのは、単一の声ではなく、複数の声なのである。イスラエル人のなかにもパレスチナ人との共存を望む人はいるし、とくに最後近くに登場するチュニジアから来たというユダヤ人女性は、人が毎日殺されてゆくのを聞いてはけっして自分の生活の安寧を享受できないと嘆いてもいる。他者の排除と抑圧の上に成り立つ「安全」の危うさと欺瞞に気づいている人びともいるのだ。その声は、「テロ対策」や「治安」などの名のもとに他者への暴力が恒常化し、遍在化しつつある状況のなかで見せかけの「平和」を享受する生活を問いただしてもいる。「ルート181」は、「非常事態」が常態化しつつある世界の状況をパレスチナから照らし出し、そのような世界に生きること自体を問う声をも響かせているのかもしれない。
 一見遠く思われるパレスチナから今ここを照らし出し、そこにある問題を抉り出すドキュメンタリー映画「ルート181」。その広島での上映は、できることなら今回の一回だけで終わらせたくはない。もっと多くの人びと、とりわけ若い人びとと、それが響かせる複数の声を共有したいものである。

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2006年5月31日 (水)

「辣韮のような存在」を映す鏡

 財政学を専攻する同僚のクラスと合同の1年生向けのゼミで、沢木耕太郎のルポルタージュ集『人の砂漠』(新潮文庫)に取り組むことになった。その掉尾を飾る「鏡の調書」は、岡山市奉還町で一人の老女が起こした詐欺事件を追っている。その事件とは、奉還町の人びとがみな「滝本キヨ」を名乗る80過ぎの老女によって3年近くにわたって騙され、彼女と付き合いのあった十数人が返済のあてのない600万円に及ぶ金を無心し続けたというものである。それにしても本名を片桐つるえというこの老女は、なぜこれほど長い間人びとを騙し続けることができたのだろう。この問いに答えるために事件の経緯をたどった沢木耕太郎は、事件が金儲けのために起こされたのではないことに行き当たる。「金持ちの素晴らしいおばあさん」として町中で認められている自分を演じ続けるための犯行だったのだ。そのことが「最上の張り合いとなっていた」のである。そして、東京から来た裕福で気風のよい老女の役を演じるために小奇麗に実なりを整え、詐欺を重ねてきた老女のことを、沢木は最終的にこう言い表わしている。「辣韮のような存在」。
 たしかに偽名を使い続け、いくつもの名前を行き来した片桐つるえは、「辣韮」さながらどこまで剥いても皮ばかりの、それどころか偽名を名乗ることで薄皮の一枚を他人に見せることに執着し続けた人物だったのかもしれない。しかし「辣韮のよう」なのは、果たしてこの詐欺をはたらいた老女だけなのだろうか。「世間」の評判を落とさないために「よき社員」を、「よき公僕」を、「よき親」を、果ては「よい生徒」や「よい子」までも演じ続けようとする人びともまた、「辣韮のよう」ではないか。いや、そう言う自分も、周囲の視線を気にしながら、社会からあてがわれた役割を演じるのに汲々とする「辣韮のような存在」ではないのだろうか。沢木耕太郎が描き出す片桐つるえの生きざまは、そのような問いを抱かせるものである。
 むろん、片桐つるえの奉還町の人びとを欺く手腕は、常人には真似できないほど見事である。「東京・銀座の煙草屋」という「眼新しさと馴染み深さが適度に入り混じった」役割の設定と、その信憑性を高める舶来煙草の手土産によって銀座から来た大金持ちの孤老であることを印象づけ、金を貸すことが途方もない見返りにつながる個人的なコネを強めることであるかのように期待させる心理作戦によって、町全体を「ほとんど集団催眠に近い完璧さで」騙すことに成功したのだ。もちろん騙すだけでなく、騙し続けるための手だても必要である。彼女は恩義を感じた人に対する付け届けを絶やさなかった。しかも、騙し取った金はもっぱら付け届けのために使われ、ほとんど自分の手許には残らなかったという。では、なぜそこまでして彼女は「金持ちの素晴らしいおばあさん」を演じることに固執したのだろう。この問いに向きあうなかで沢木耕太郎は、「滝本キヨ」という偽名のもとで奉還町の人びとに語られた人生が、「片桐つるえにあり得たかもしれない「また別の人生」への夢」と重なることを見抜く。「億万長者」であり、「島崎藤村の弟子だった」などといった嘘は、他人に騙されたのをきっかけに犯罪に手を染め、社会の底辺での生活を強いられてきた人生のなかで満たされなかった彼女の「夢」を表現していたのである。とはいえ、その「夢」は最後まで「夢」であり続けた。街中の人びとが彼女を「億万長者」と思ったところで、現実に「億万長者」になれるわけではないのだ。彼女は、それでも「億万長者」と思われることによって、「夢」の空虚さが埋められたかのような感触を得ようとしたのだろうか。
 そう考えるとき、大金持ちの孤老を演じ続けようとする片桐つるえの姿は、社会のなかで他人の視線に晒されながら生きるわたしたちの姿にも重なってくる。わたしたちはしばしば、「ひとかどの」とか「よい」とか認められるために身なりや立ち振る舞いを整え、ある理想化された「自分」の姿を装う。現実の自分がそれと重なっているわけではないのに。そうして「世間」で認められた自分を演じて満たされようとするわたしたちは、欺瞞に汚れた「辣韮」の皮にしがみついて生きていよう。しかし、その薄皮以外のところに「ほんとうの」自分などというものがあるのだろうか。「辣韮」をいくら剥いたところで剥いた皮が残るだけではないのか。だとすれば、そもそも「自分」とは何なのだろう。
 沢木耕太郎の「鏡の調書」は、一人の老女が起こした詐欺事件を追うことで、人はなぜ騙されるのかという問いに正面から向きあうばかりではない。それは、他人の視線に晒されながら社会のなかに生きる「自分」というものを映し出し、問いただす、それ自体が一枚の鏡のようなルポルタージュである。

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2006年5月14日 (日)

辺見庸『自分自身への審問』

 辺見庸は、脳卒中に倒れて右半身が麻痺したばかりでなく、癌にも蝕まれつつある身体で書いた。おそらくは一語一語絞り出すようにして。しかも「自己自身への審問」というかたちで。彼の思考の強靱さは、病床で自分自身を問いただすほどだった、と言うべきなのだろうか。いや、その「審問」はむしろ、彼をその身体もろとも強靱さといったものを越えた次元へと導いているのではないか。
 辺見庸の新著『自己自身への審問』(毎日新聞社)は、脳卒中で半身の機能を失い、記憶の一部を失った自分自身の身体をさらけ出すところから始まっている。「襤褸のような」と彼が形容する、みずからの身体の剥き出しの姿を見つめるところに、新たな出発点を置こうとするのだ。「老いて病んだ自己身体に即して世界を眺める」。つまり、「なるたけ裸形を怖れず、幻影をまとわず、格好をつけずに風景に分け入る」こと。これがより衒いのない、ということはより深く身体経験にそくした彼の新たな思考のモットーなのである。
 とはいえ、病に蝕まれてまったく思うようにならない身体を前にして、「自死の衝動」が首をもたげてきていることも、辺見庸は否定しない。だからこそ、脳梗塞の末に自殺した江藤淳が最後に書き残した言葉のことも思い出される。しかし辺見は、江藤のように「自ら処決して形骸を断ずる」ことは選ばない。自死の権利を最終的なものとして留保しながら、自死が自分にとって可能であるかぎり、自己自身を、すなわち「自己身体に即して世界を眺める」思考を、表現し続けようとするのである。「形骸化しつつある自己身体を消滅させる前に、おつにすました者どもの面前で醜怪きわまる踊りの一つも踊ってみせて紳士淑女を仰天せしめよ」。むしろ思考がすでに「形骸」と化してしまっていた江藤のように「自裁」を選ぶのではなく、健常者には「形骸」と見えるものそれ自体を、さらにはその内部に湧きあがるものをさらけ出そうとするのだ。そのとき、いったい誰が「健常」なのかという問いも湧いてくることになる。
 脳卒中を経て「眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」へ向かい視界が反転する」のを経験した辺見は、「見る」ことの「不遜」をこれまで以上に強く感じるようになる。病院でつねに見られる立場にあるなかで、「一般に〈見られる〉ぼくの〈見る〉を想定していない」医師の「見る」まなざしに居心地の悪さを感じ、「〈見る者は見られない〉という関係性」に不遜なものを見て取っているのである。その関係を自明なものとして享受しているところに、辺見がそれに対する心の底からの嫌悪感を吐露してやまない「安手のシニシズム」の根があるのかもしれない。
 辺見は、第二次世界大戦後の世界についてハイデガーが語った「世界の夜の時代」という言葉を引いて、その「夜の時代」とは「まさに現在のこと」かもしれないと述べたうえで、そのような「神の不在をそれとして感じることができず、夜を昼と錯覚している時代、恥なき季節、徒労と失意の時代」では「チープなシニシズム」が伝播してゆくと指摘している。彼によると、そのシニシズム自体は古くからある低い声の笑いとして現われていた。日本では「人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると」、「必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます」。「何もしない自分を高踏的にみせたいのでしょうか。それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない放屁のような笑いなのでしょうか」。
 そして、今日そのように人を笑わせているのは、「資本」であるという。「ハイデガーの言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタルと市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です」。いわゆる「勝ち組」を含めて意識が資本によって収奪されてゆくなかで、その収奪された意識から「安手のシニシズム」の笑いが漏れているのだ。そのとき笑いを漏らす者には、「自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない」。そのようななかで、マジョリティに属しているという安心感に浸りつつ、まったく実質のない資本という虚無を追い求めるという、それこそ藤田省三が「全体主義の時代経験」のなかで資本主義のニヒリズムと呼んだ「妄」が全体を覆っていることを、病床の辺見は喝破しているのだ。こちらが「健常」どころではない。ゴヤの版画の題名さながら「すべては妄」であるなかで、ナルシスティック記憶の捏造をともなう記憶喪失が進行し、「市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産み出す無慈悲な場」であることも同時に忘却されているのだ。
 だとすれば、「自分自身への審問」とは、脳卒中に倒れて右半身が麻痺し、癌にも身体を蝕まれている者だけが行なわなければならないことなのだろうか。むしろ市場と連動する「腐った民主主義国家」の内部で消費生活と世界のスペクタクルを享受しながら生きている者は、わたし自身を含めてまず、自分自身の生きざまを、いや今ここに生きていることそれ自体を問いたださなければならないのではないか。自己の生存への審問を、スペクタクルの社会の内部で、つねに見ているのではなく、実はさまざまな権力装置によって見られていることの恥辱を「自己身体」で引き受けるところから始めなければならないのではないだろうか。辺見庸の「自分自身への審問」は「未完」となっている。辺見庸の自分自身への審問も、わたしたちの自分自身への審問も、まだ終わっていない。

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2006年4月29日 (土)

「ホテル・ルワンダ」

 1994年、「フツ族」による「ツチ族」のジェノサイドの嵐が吹き荒れるルワンダの首都キガリで、一人のホテル支配人が、1200人を超える「ツチ族」避難民を自分が経営するホテルに匿い、守り通す。昨日広島市内の映画館で見たテリー・ジョージ監督の映画「ホテル・ルワンダ」は、そのドラマを描き出すばかりではない。その映画は、ヨーロッパの植民地主義的近代がつくり出した「人種」という観念の恐るべき虚しさ、さらには「人種主義」を清算しないままに、ルワンダが地政学的に重要でないことがわかれば、そこで人種主義的ジェノサイドの危険に曝されている人びとをあまりにも簡単に見捨ててしまう、欧米を中心とする国際社会の身勝手さといった重い問題も見る者に突きつけている。そしてそれらの問題は、まだ何ひとつ解決されていない。
 映画は、現在の多数派である「フツ族」側のラジオの不気味な声で始まる。問題の元凶を「ツチ族」に押しつけ、敵意を煽る声。それがやがて100万人とも言われる犠牲者を出すジェノサイドへ一般の「フツ族」市民を駆り立てるプロパガンダの中心となる。とはいえ、もともと「フツ族」と「ツチ族」のあいだに大きな相違があるわけではない。かつての植民者であるベルギー人が、外見上のわずかな、当人たちも判別しがたいほどの差異にもとづいて恣意的に設けた「フツ族」と「ツチ族」の「人種的」な区別が、どちらかへの帰属を記した身分証明書や、政治の主導権をめぐる対立のかたちで反復されているのである。実際、現地に乗り込んだジャーナリストには、両者はまったく区別できない。植民地支配を容易にするために植民者がつくり出した「フツ族」と「ツチ族」を区別するまったく恣意的な見方が、今度は人種主義的ジェノサイドの論理として反復されるのだ。
 さて、「フツ族」と「ツチ族」の和平協定を結んだ大統領が何者かによって暗殺された後、そのジャーナリストは、キガリの街で一般の「ツチ族」市民が、同じく一般の「フツ族」市民を次々と虐殺する場面に遭遇する。その映像をたまたま目のあたりにしてしまったミル・コリン・ホテルの支配人ポール・ルセサバギナは愕然とさせられると同時に、その映像が欧米の国々で流れることにわずかな期待を寄せるのだった。しかしジャーナリストは言った。欧米の人びとは、怖いねと言うだけで、ディナーを続ける。
 事態はその通りだった。自分たちを救いにやって来たと思われたフランスとベルギーの軍隊は、実際には、ルワンダで孤立してしまった外国人を安全に避難させるために来たのである。地政学と暗黙の差別によってルワンダの人びとを見捨てるために、植民者たちが再びやって来たのだ。その軍隊が去った後は、1200人以上の避難民が隠れるホテルが、ほとんど無援の状態で取り残されることになる。そこからポール・ルセサバギナの活躍が本格的に始まる。彼は勇気を狡知を駆使して、つまりはあらゆる虚言と賄賂を使って、家族をはじめホテルに隠れる人びとを、命がけで守り通すのだ。
 そのさまはたしかに、ナチス・ドイツのジェノサイドから数多くのユダヤ人を守ったオスカー・シンドラーを思わせる。この映画が「ルワンダ版『シンドラーのリスト』」と呼ばれるゆえんである。そして、避難民を懸命に守る姿の描き方に、「シンドラーのリスト」と同種の一抹の美化がないわけではない。しかし、見る者が何よりも慎まなければならないのは、ポール・ルセサバギナの生き方を、「愛」といった耳当たりのよい言葉で包んで涙することであろう。むしろ、彼にそうした生き方をさせた背景にある問題を自分に突きつけられた問題として受けとめながら、その生き方の一端に自分自身の可能性を見て取るべきではないだろうか。
 映画の終わり近く、ポール・ルセサバギナは、自分の姪たちを難民キャンプで見つけ出してくれた赤十字職員に対してこう言う。わたしたちのホテルはいつでも開いています。その台詞は、かつて植民地主義を押し進めた欧米諸国と日本の政府の高官や、そこで表向き安寧に生きている者こそが言うべき台詞のようにも思われるのだ。
 ところで、ひと言だけ映画のつくりについて付け加えると、難民キャンプからタンザニアへ向かう、ポール・ルセサバギナとその家族を乗せたバスが遭遇するツチ族反乱軍の描き方には、これもどこか美化が入っているようで少し引っかかった。
 ちなみに映画「ホテル・ルワンダ」は、日本の映画配給会社の買い手がつかず、日本での公開が危ぶまれていたという。その現状を危惧した人びとが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」を立ち上げ、懸命な署名活動の結果、公開にこぎ着けたとか。今は「『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会」と名称を改めたその会の活動に感謝すると同時に、日本の映画配給会社が一つも名乗りをあげなかったことには暗澹とさせられざるをえない。
 「ホテル・ルワンダ」は、過去のドラマを感動的に描く映画ではない。それはむしろ現在の問題を突きつける映画である。それを考えるために、見なければならない。

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2006年4月28日 (金)

植民地主義の反復と歴史認識の問題

 「領土」とは言うまでもなく、一定の境界によって囲まれた土地のことである。それはずっと昔なら、城壁の内側のことだったり、あるいは河川や山脈といった自然の城壁によって守られた内部だったりしたのだろう。今は「領土」と言えば、地図上に人為的に引かれた境界線の内側にある陸地のことである。
 ある土地を「領土」と定める境界線を地図上に引くとは、境界線の内側にあるその土地が「われわれ」の生存の場所であると、「われわれ」とは異質な「彼ら」に対して宣言することである。それは同時に境界線の内側にいる人びとに、同類ないし同胞としての「われわれ」のアイデンティティを、異質な「彼ら」との対比において自覚させ、さらにはひとりひとりではなく、「われわれ」なるものの生存の必要を知らしめることでもある。そのような「われわれ」の想像とともに生じるのが「国民国家」の「ナショナリズム」であり、それが排他的なものであるほかはないことは言うまでもない。そして、虚構の「われわれ」の生存の権益のために従来の境界を越えたところに新たな境界線を引き、そこに住んでいる人びとを従属させようとするとき、「ナショナリズム」は「植民地主義」となる。
 現在、日本と韓国のあいだで「領土」をめぐる議論がかまびすしい。韓国側が独島と呼び、日本側が竹島と呼ぶ小島は、いったいどちらのものなのか。日本側が、古くから日本の漁民の寄港地だったことを踏まえて明治期に島根県に編入したことの法的正当性を主張する一方、韓国側はそのことを、同時期に進められていた朝鮮半島の植民地主義的収奪の一環と主張し、双方とも譲らない。しかし、みずからの主張を譲らないなかで、双方とも小さな島の周辺の海域の漁業権益の独占を見すえているならば、双方の主張は「ナショナリズム」のそれであるにとどまらず、「われわれ」の生存の権益を外に求める「植民地主義」の色彩も帯びてくる。そのことに思い至るとき、おびただしい数のアジアの人びとを虐殺し、抑圧しながらアジア全体を戦争に巻き込んでいった近代日本の植民地主義的ナショナリズムが、実に皮肉な仕方で反復されているのを目のあたりにするようで、暗澹とせざるをえない。
 憎しみあう者たちは醜く似かよってくる。小さな島をめぐる憎悪が、植民地主義につながるナショナリズムの反復と応酬につながってしまっているのだ。そのことの最大の原因はやはり、かつて朝鮮半島を植民地支配した日本が、みずからの植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識を示しえていないことにある。韓国の大統領も指摘するように、「A級戦犯」を合祀し、植民地主義の戦争を美化する展示物を置く靖国神社を首相が詣でるというのは、本人がいかに内心の問題と弁明しようと、日本が植民地主義の過去を否定しない歴史認識を公にする行為なのである。これが政治家たちの「妄言」とともに繰り返されるなかでは、韓国の側も身構えてしまう。これまでの「謝罪」は嘘なのではないだろうか。現に日本の歴史教科書からは第二次世界大戦における日本の加害責任についての記述は減っているし、憲法改正の動きもあるではないか。韓国大統領が「謝罪に見合う行動を要求する」のも無理のないことである。だからといって、手段を選ばないナショナリズムが正当化されるわけではけっしてないのだけれども。
 では、植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識はありうるのだろうか。ありうるとすれば、それはどのような歴史認識なのだろうか。
 この問題を考えるうえで示唆的に思われたのが、講談社『本』別冊『RATIO』第1号に掲載された大澤真幸の論考「「靖国問題」と歴史認識」である。ここで大澤は、山田太一のドラマ「終りに見た街」を巧みに論じながら、「靖国問題」をめぐるいわゆる「右派」と「左派」の主張を見事に腑分けしている。高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)とともに、この問題を考えるうえで必ず参照されるべき重要な論考と言うべきであろう。
 大澤によれば、これまで歴史は「最後の審判」の視点から書かれてきた。歴史とは、大澤が「第三者の審級」と呼ぶ超越的な視点、すなわち神の視点を時間の外に設定し、その視点からそれぞれの出来事を意味づける「歴史神学」だったのだ。その「第三者の審級」に「右派」は自分の同胞の死者だけを置き、その期待に同胞たる「われわれ」は応えなければならないと、同胞の死者のみに感情移入する。これに対して「左派」は、「最後の審判」を文字どおりに受け取る。「第三者の審級」は無限の未来に待つ「超越的な救済者」の場なのだ。その「普遍的な正義」の視点から、あらゆる死者が裁きの場に呼び出されうるのでなければならない。したがって、死者を差別するのでなく、すべての死者を追悼の対象とするべきなのである。
 このような二つの立場の違いを明確にしたうえで、大澤は「左派」の主張に含まれる問題点も指摘している。「左派は、「普遍的な正義」の存在を前提にする立場であった。それは、無限の未来に──つまり人類と宇宙の歴史を全体として通覧できる位置に──、「最後の審判」を下す救済者を想定するのと、論理的には同じことに帰する。それに対して、右派は、言ってみれば、不完全な「最後の審判」を想定していることになる。というのも、右派は、全人類・全宇宙を視野に収める神の代わりに、特定の共同体のみを視野に収める死者を置くのであり、それは共同体が歴史的なアイデンティティを持続させる有限の時間幅の中でしか意味をもてないからである。その結果として、右派にとっては、死者=「第三者の審級」は、共同体が伝統的に保持してきた「善」を代表することになる。当然、それを阻害したり、傷つけたりする者は、「悪」であり、「敵」である。左派の「最後の審判」が、これとは異なった真正のものであることの端的な現れは、──戦死者の追悼という問題との関連で見た場合には──敵方の犠牲者をも追悼の対象に含めるべきだ、という主張の内に見て取ることができる。だが、先に示唆したように、敵をも追悼しようとすると、たちどころに困難にぶちあたることにもなる。「普遍的な正義」の中に包摂しようもない、根本的な「悪」が残ってしまうからである」。真正の「審判」を想定する主張も、神が悪を含む世界を創造したのはなぜなのか、という神学的ないし弁神論的難問にぶつかってしまうのである。
 そのことを確認しながら大澤はこう自問している。「歴史の渦中にある生成の契機を掬いだし、敗者を救済することができるような、そんな歴史認識の可能性はあるのか」。たしかに、自分が生きている現在を正当化するために特定の死者だけに感情移入し、「われわれ」の死者が顕彰されるような歴史を物語り、その他者を抑圧する従来の歴史認識ではけっしてなく、むしろ死者たちの記憶をひとつひとつ今に甦らせ、それぞれの出来事を「他でもありえた」可能性を含んだ、未完結の生成の相においてとらえかえし、そうして現在を揺り動かす歴史認識によってこそ、虚構の「われわれ」の自己正当化と深く結びついた植民地主義的ナショナリズムを乗り越えていくことができるにちがいない。だが、そのような歴史認識は、どうしたら可能なのか。神の無限性を想定しても、根本的な悪の問題に突き当たってしまうではないか。そこで大澤は、「全能の神と有限の神との対立」、すなわち「左派と右派」の対立が構成する「デッドロックを乗り越える、第三の立場」を、「神が悪をなしうるということ、したがって神が可謬的であるということ、これらのことを認めるところ」に求めている。「第三者の審級(神)そのものに悪が刻まれており、第三者の審級が破壊的な失敗をなしうるということ、それゆえ、第三者の審級が歴史の生成過程の中に巻き込まれているということ、このことを前提としたとき、歴史がまったく異なった相貌をもって現れるはずだ」。
 しかしながら、そのように「神=第三者の審級を歴史化し、歴史の渦中に投げ込む」とはどういうことだろう。それはどのような歴史認識のかたちとして現われてくるのだろうか。むしろ、それは歴史を認識する者のほうが、「最後の審判」の地点に立てないことを自覚しながら、ひとつひとつの過去を想起することではないか。そのことは、過去の出来事を現在の視点から完結させず、むしろ生成の相において今に甦らせることにつながるだろうし、またそれは神の可謬性よりは過去と現在の断絶を出発点とすることであるはずだ。人間があまりにも性急に神を歴史の渦中へ投げ込んだところよりは、人間が歴史を完結させることはできないのを胸に刻むところからのほうが、過去をその救済の可能性において想起できるはずである。フランツ・カフカが語ったように、希望はある、しかしそれはわたしたちのためのものではない、ということと、ヴァルター・ベンヤミンの『歴史の概念について』のなかの大澤が引いていない補遺にある「未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門だったのだ」ということとの緊張のなかで、歴史認識は試みられるべきであろう。
 こうした問題点を感じるとはいえ、大澤の論考が歴史認識の可能性を考えるうえで重要であることに変わりはない。そればかりでなく、それが喫緊の問題となる現在を照らし出している点にも注目すべきであろう。ちなみに大澤は、ドラマ「終りに見た街」にもう一度触れながら、論考をこう結んでいる。「主人公は、「終り」に、戦争の後に、つまり──戦争との関連において──最後の審判の立場に、自分はすでにいると思っていた。ところが、「終りに見た街」は、戦争の渦中の自分たち自身の現在(2005年)の街だったのである。超越的な位置から戦争の善・悪を判断していた主人公自身が、戦争の中に降り立っていたのだ」。「共謀罪」による訴追を可能にする法案や「教育基本法改正」案が、賛成の与党が大多数を占める国会に提出されようとしている現在が、「終りに見た街」の現在に急速に近づきつつあることは間違いない。

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2006年2月21日 (火)

「ヌヴェール」という地名の符合

 必要があってヴァルター・ベンヤミンの生涯の足跡を調べていたら、「ヌヴェール」という地名にぶつかった。
 1939年、友人たちの度重なる忠告や脱出の誘いがあったにもかかわらず、亡命先のパリにとどまって国立図書館に通い、『パサージュ論』のための仕事を続けていたベンヤミンは、9月に第二次世界大戦が始まると、「敵性外国人」として、フランス政府当局によってまずパリ郊外のコロンブ競輪場に造られた収容所に入れられ、10日後にはさらに「志願労働者キャンプ」という名前のついたニエーヴル県ヌヴェールの収容所に移されている。
 彼は、フランス人の友人たちが力をつくしてくれたおかげで2か月後には解放されるが、それまでの期間彼はヌヴェールの収容所の劣悪な環境のなかで、シガレット三本を報酬とする野外哲学講座を開いたりして過ごしていた。あるいは、外出許可の腕章を得るために、「最高水準の」文芸雑誌の刊行を企てたりもした。これによってベンヤミンは三度目の雑誌の挫折を味わうことになるのだけれども。
 ジャック・デリダが2002年のアドルノ賞受賞記念講演『フィシュ』(逸見龍生訳、白水社)で取り上げることになる、「詩を《fichu》に変えることが問題なのだ」というひと言を含んだグレーテル・アドルノ(アドルノ夫人)宛の手紙をベンヤミンが書くのも、このヌヴェールの収容所でのことである。ともかくヌヴェールでの2か月間は、亡命生活の苦しさによってすでにかなり衰弱していたベンヤミンの身体に深刻なダメージを与えた。そのことを自覚してか、パリに戻ったベンヤミンは、思想的遺言とも言うべき「歴史の概念について」(「歴史哲学テーゼ」)を書き下ろすのである。
 そうしたベンヤミンの生きざまをたどりながら、「ヌヴェール」という地名に既視感をおぼえていた。どこかで聞いたことがあるのだけれども、何の機会だったか。
 しばらくしてふと思い出した。あの女性の出身地ではないか。
 その女性というのは、アラン・レネ監督の映画「ヒロシマ、モナムール」(邦題:「二十四時間の情事」、1959年)の主人公の一人のこと。マルグリット・デュラスの脚本によるこの映画で、日本人の建築家と8月6日の広島での24時間をともに過ごすフランス人の女優が、自分の生まれ育った街として「ヌヴェール」という地名を挙げているのである。
 生まれはフランスのどこか、という問いの答えとしてこの地名を耳にした岡田英次演じる建築家は、「ヌヴェール」の響きがすっかり気に入ってしまい、「ヌヴェール」と何度も繰り返す。すると、それに触発されるように、エマニュエル・リヴァ演じる女優は、ヌヴェールの辛い記憶を思い起こし、それを振り絞るように少しずつ語り始めるのである。その女優は、まだ少女だった第二次世界大戦中に、ヌヴェールに占領軍として駐留していたナチス・ドイツの兵士と恋に落ちてしまった。そして、戦争終結とともにフランスが解放されると、その罪の見せしめに、同胞の女性たちによって髪を切り落とされてしまうのだ。ベンヤミンが収容所に監禁された数年後のことである。
 ちなみに「ヒロシマ、モナムール」を見たのは昨年の11月のことだったが、映画館へ向かう際に路面電車に乗った。その電車は、見るからに年季の入った一台だったが、車内をよく見ると1945年8月6日に被爆した電車とのこと。これも何かとの符合だろうかと、その時はいろいろ思いをめぐらせてしまった。新聞によると、この「被爆電車」もまもなく現役を引退するようだ。歴史の「動く」痕跡が、街から姿を消してゆくわけである。そのことが記憶の退化と符合するものでなければよいのだけれども。

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2006年2月 8日 (水)

エレニの叫びと音楽というユートピア

 先日、広島市内の映画館でテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』が再上映されていたのを見に行った。アンゲロプロスの作品らしく、息の長いショットで映像美をじっくりと味わわせてくれる映画であることをあらためて実感させられるが、その映画がゆったりとしたテンポで語りかけてくるのは、20世紀のギリシアの苦難の歴史を一身に背負っているかのような女性エレニの痛ましい生涯である。オデッサから逆難民として帰還したギリシア人のリーダー格だったスピロスの葬列の筏舟の一団が、薄暗く曇ったなかを静かに川を下ってゆくとりわけ美しいシーンには、切々と苦難の歴史を物語るこの映画の時空間が凝縮されていたのかもしれない。
 みなしごとなってオデッサから帰還したエレニの生涯を描くこの映画は、国家への反逆者を匿った疑いで監獄を転々とするあいだに、まず内縁の夫を沖縄戦で失った──エレニの幼なじみで、後に恋人となるアレクシスは、音楽家として羽ばたくチャンスをアメリカに求めた後、家族を呼び寄せるために米軍の移民部隊に加わっていたのだった──うえに、第二次世界大戦後の内戦で双子の息子まで亡くしてしまった彼女の慟哭によって締めくくられる。最後の子どもの遺骸を見つけた生涯の難民エレニは、もはや愛する者が一人もいなくなってしまったことを思い知り、見る者を突き刺すような叫び声を上げて泣くのだ。
 そのようなエレニの慟哭のシーンは、一面で『否定弁証法』におけるアドルノの言葉を思い出させるものである。「永遠に続く苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を表現する権利を持っている」(三島憲一訳)。エレニはまだ泣き叫ぶことができるし、永遠に続くかのような苦悩を背負った彼女には、そうする当然の権利があると思われる。それに、彼女の慟哭は、映画を見る者の胸に、彼女が生きた証を刻み込むことだろう。しかし、他面でエレニはもう泣き叫ぶことしかできないのかもしれない。叫びにしかならない彼女の思いを受けとめることができるのだろうか。そうして、どこかしら彼女と同じ苦難を味わった難民たちの生の歴史に思いを馳せることができるだろうか。映画館を出た後で、エレニの叫び声がどこか別の場所で反響しているのに耳を澄ませなければならないのかもしれない。
 ところで、エレニの涙をたたえているかのような雲に覆われた映画の空間のなかに、一つだけ心を和ませてくれる場所がある。テサロニキの難民居住区域「白布の丘」にある廃墟、通称「音楽の溜まり場」である。エレニとアレクシスがスピロスの手から逃れるのを手伝ったヴァイオリン弾きニコス──彼が後に反逆者として追われることになるのだ──は、アレクシスのアコーディオン演奏の才を認め、そこへ案内する。すると、仕事を待ってそこに集う音楽家たちが、アレクシスとエレニを音楽で歓待するのである。そのシーンは、廃墟のなかに一つの、現実の歴史からすれば文字どおりのユートピアを開くかのようだった。
 音楽は時としてユートピアを現出させることができる。そのような考えを抱かせるきっかけをもたらすものとして、ここでは1枚のDVDを挙げておきたい。それは、指揮者として、またピアニストとして、八面六臂の活躍を続けているダニエル・バレンボイムと、音楽への造詣も深かった思想家エドワード・サイードとが協働して創設した、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラのジュネーヴでのライヴ録音を収録したCD(Warner Classics 2564 62190-5)に付いてくるもので、そこにはジュネーヴでの演奏会の模様のほかに、ヴァイマールとセヴィリアでのワークショップとリハーサルの様子を記録したドキュメンタリーと、ユダヤ人バレンボイムとアラブ系の知識人サイードの対談とが収められている。
 ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラは、パレスチナ自治区を含むアラブ諸国とイスラエルの才能ある若い音楽家たちによって構成されている。現実の世界では、アラブ人とユダヤ人の関係は険悪な状態が続いている。パレスチナ=アラブ人の居住地域とユダヤ人入植地のあいだに建設が進んでいる「分離壁」は、何よりもそのことを象徴していよう。しかもイスラエルのシャロンが病に倒れ、パレスチナ自治評議会の選挙でハマスが勝利を収めて以降、両者の和解への道筋はますます見定めがたくなっている。そのような困難な状況を乗り越えて、アラブ人とユダヤ人の若い音楽家が一つのオーケストラを、弦楽器セクションにあっては同じプルトを形成し、同じ一つの音楽をつくりあげようとするのである。
 ワークショップとリハーサルをオーケストラの創設者たちの話も交えながら記録したドキュメンタリー「レッスンズ・イン・ハーモニー」には、イスラム世界への憧れをうたった『西東詩集(ウェスト=イースタン・ディヴァン)』の作者ゲーテゆかりのヴァイマールにおける最初のワークショップで、アラブ人とユダヤ人の音楽家がところどころでぶつかりあいながらも、一つの音楽へ向けてだんだんと心を一つにしてゆくさまが生き生きと映し出されている。オーケストラが奏でる音楽は、たしかにまだ粗削りではあるけれども、プロフェッショナルなオーケストラの演奏からなかなか聴くことのできない若々しい力に漲っている。対話をつうじて若い音楽家たちの心を一つにしてゆく、バレンボイムとサイードをはじめとする指導者たちの力量も特筆すべきであろう。
 争いが絶えず、エレニのような難民を日々生み出しているこの世界のなかに、音楽というユートピアを一瞬現出させるかのようなウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ。その活動が、日本でももっと知られるようになって、その支援者が増えれば、と思うと同時に、「平和文化都市」にして「オペラの街」であるここ広島で、現実の政治情勢のなかでは対立しあう国々や諸民族出身のアーティストたちで一つのオペラをつくりあげることができたら、とふと考えた。

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2005年12月31日 (土)

2005年の終わりに

 2005年が暮れようとしている。阪神淡路大震災の衝撃とオウムのテロルに揺れた10年前の1995年とまったく同様に、自分たちの生活がいかに脆い地盤の上に築かれているのかを思い知らされた1年だった。そして、その1年のあいだに起きた2度の脱線事故は、規模こそ大きく異なるが、どちらとも、ひとりひとりのかけがえのない生命が守られるための最低限の倫理を確かめあうことなしに、利潤を獲得し、新自由主義的な競争に勝ち抜くための数値的なデータだけを追い求めることの危うさを突きつけていた。にもかかわらず、アメリカ主導のグローバリズムに追随し、その正義なき戦争における人殺しに加担し、新自由主義的な競争の原理を、そうした競争とは無縁なはずの領域にまで浸透させ、社会のなかの階級格差の拡大を自明視する流れが、とりわけ総選挙の結果とともに決定的になったのも確かである。
 そのような流れを、マス・メディアを介して心地よく響く言葉の数々がつくり出していることは、おそらく間違いない。滑らかで耳当たりのよい美辞麗句、それは何も語っていない。いかなるリアリティにも応えていないのだ。だからこそ滑らかなのだが、そうであるがゆえに人びとを惹きつけ、思考停止に陥らせる魔力だけは持ち合わせている。そして今、人びとは「改革」とか「安全」といった言葉の前で思考を停止させながら、破局へ向かう流れに巻き込まれようとしているように思えてならない。ほかならぬ自分の生きざまを思い描くより前に、ひとしなみに「公」だの「国益」だののための犠牲にされるというひとりひとりの破局は、もうすぐ眼の前まで来ているのかもしれない。
 このようにひとりひとりの破局へと突き進む流れに、自分なりにできる仕方で楔を打ち込まなければ、と思いつつも、結局思うような仕事ができないまま、新しい年を迎えようとしている。2006年には、今まで続けてきた仕事を形にする見通しがつけられるだろうか。状況は厳しくなる一方だが、やらなければならない。
 ヴァルター・ベンヤミンは、第一次世界大戦中からそれに続くドイツのインフレーションの時代にかけて、それぞれの言語が、けっして同類のあいだの意思疎通の道具にも、わかりやすい情報を伝達するための手段にも局限されえず、それゆえ「国語」の統一体としても固定されえないことを、言語それ自体のダイナミズムを取り出すことで示そうとしていたように思われる。彼によれば、言語はむしろ、自分とは深淵によって隔てられた他なるものとのあいだでつねに新たに語られる。ある種の「わかりやすさ」をはみ出してゆく異質なものに応答し、同じ立場に立つことのできない他者とのあいだにひと筋の回路を切り開こうとするなかでつねに新たにかたちづくられてゆくのだ。そのことを、ベンヤミンは当初、言語の純粋な「本質」にもとづいて説明しようとしていたが、後には、言語が同類のあいだの意思疎通と情報伝達の道具と化した「バベル」以後の「言語の混乱」のただなかに、それぞれの言語がそうした他者に応答する力を取り戻す可能性を探るようになる。ちょうどウィトゲンシュタインが、「論理形式」を示すことで言語の純化を図った後、「ざらざらとした大地」の上の「生活形式」に立ち戻ったように。ただしベンヤミンによれば、それぞれの言語が「バベル」以後の世界で言語が他者と応えあいながら生成するダイナミズムを取り戻すためには、それが囚われている「母語」の滑らかな流れに吃音をもたらすようなかたちで、その桎梏を解体しなければならない。そのきっかけとなるのも、他者の異質な言葉との遭遇である。このとき、それに応える言葉を、自分が自明に話していた言語を内側から突破するかたちで見いだすことが問題となるのだ。そして、そのような応答の言葉を見いだすとき、それぞれの言語は、他者とのあいだに回路を切り開く力を取り戻すことになる。
 では、このように、立ちどまらせ、自分が話してきた言語を見つめなおさせるような他者の言葉と出会い、それに応答する言葉を見いだすなかで、言語を他者とのあいだで、そこにある深淵の上で語り交わされるながら生成するものとして見つめなおす可能性を、もう少し具体的にどのように思い描けばよいのだろう。言わば、武満徹が語ったように「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」(年賀状に引いた『音、沈黙と測りあえるほどに』のなかの言葉)余地は、どのように開かれるのだろうか。こうした問題に取り組むことが、来たるべき年の最初の課題となりそうである。もし、「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」とは今どういうことなのか、自分の言葉にできたなら、破局に近づきつつある今の流れに向きあう自分の位置を確かめることができるのかもしれない。

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2005年11月 7日 (月)

ベルリン旅日記:11月6日

 荷造りをして宿を引き払った後、ポツダム広場へ向かい、昨日同様楽器博物館で「美的経験の諸言語」をテーマとする学会に参加する。日曜日ということもあって電車の本数が少なかったのと、荷物を預けるコインロッカーを探すのに少し手間取ったのとでずいぶん遅刻してしまったが、最初の講演者がまだまだ熱弁をふるっていた。ルーマンのシステム理論などを下敷きに独自の「認知美学」とも言うべき理論を展開しているバツォン・ブロックという学者とか。ロスコなどを例に、ユダヤ系の芸術家が図像化禁止の掟を芸術的形象によって表現しているといった話はわからないではないものの、錯覚が知覚の明証性を前提としており、有意味であるとは騙されうることであるというテーゼを振りかざして、芸術は知覚の普遍性を表現すると述べ立てるのは、芸術を陳腐化するのに思えてならない。ブロックは、延々と制限時間を1時間近くオーバーして話し続けていた。その後の発表も、それに対する応対に終始した観があるが、それに対抗しうる明確な立場を打ち出しえていたとはとても言い難い。それは何よりも言語の位置づけ、さらに言えば「言語とは何か」という問いを言語哲学的に、芸術言語との関係を視野に入れながら理論的に掘り下げる作業が欠落しているからであろう。昨日も含めて、今回の学会で聴いた発表は、どれ一つとして、言語化を拒むものでもありうる強度をもった美的経験とその言語化との緊張関係を表現しえていなかったように思う。
 楽器博物館を出て、最後に発表したポツダム滞在中の知り合いと別れた後、ユダヤ博物館の近くに新たにオープンしたベルリン・ギャラリーへ向かう。そこで開催されている「表現主義の誕生」展を見ようと考えたのである。日曜日ということもあって、ギャラリーはかなり混んでいた。常設展として、20世紀初頭以後のドイツの表現主義、新即物主義、ダダから、現在存命中の芸術家たちの作品まで、多彩な作品が展示されていたが、そのなかには、フェリックス・ヌスバウムの作品やオットー・ディクスの作品も含まれていた。苦境に置かれた人間の困窮を包み隠さず描き出すことで、描かれた人間を画面上に屹立させるディクスによる詩人の肖像もさることながら、自画像であることを否定するかのように、自分自身の顔の上半分を画面の外に追いやったヌスバウムの1942年の自画像がとくに印象的。まったく無駄のないタッチで生存の危機に直面している人間の姿が、それが抱いている不安とともに鋭く描き出されている。やがてアウシュヴィッツへ送られ、そこで抹殺されることになる画家による、極限的にまで研ぎ澄まされた画面である。
 さて、お目当ての「表現主義の誕生」展は、常設展の一つ上のフロアで開催されていた。ホドラー、ムンクといった画家の影響のもと、従来のアカデミックな絵画のありようを真っ向から否定し、生の躍動とそこから噴出する感情を描ききるような表現を目指す集団として、ドレスデンに「ブリュッケ」が結成された時期から、キルヒナーらがベルリンへ移って、表現主義的な技法を大都市に生きる人間の生きざまを描きとるのに生かすようになるまでの作品が展示されていた。エミール・ノルデ、エーリヒ・ペヒシュタイン、カール・シュミット=ロットルフといった、「ブリュッケ」に加わった(ことのある)画家たちの作品の魅力を再発見することもできたが、最も強烈な印象を残したのはやはりエルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーの作品である。
 最初に眼を惹いたのは、1911年のドレスデンでの展覧会で「ブリュッケ」の画家たちを揺さぶったゴッホの影響のもと、補色どうしがぶつかりあうなかに女性像を、その皮膚の強烈な輝きとともに浮かびあがらせる裸体像。昨日見たピカソとはまた違った仕方で、キルヒナーも古典的な輪郭をはみ出してゆく身体性に接近しようと試み、はみ出してゆく動きをぎらりとした肌の光彩というかたちで画面に定着させているように見える。人物像のなかで最も印象的だったのは、「フランツルの肖像」。大胆に緑に塗られた顔面に浮かびあがる微笑みかける表情には魅了される。緑のなかから黒い眼と赤い唇を浮かびあがらせるというアイディアは、ゴッホらとの対話をつうじて独自の自由な色彩の配し方を模索するなかから生まれたものであろう。描き方はまったく対照的ながら、フェルメールの「ターバンの少女」と並んで魅力的な若い女性の肖像と呼びたいくらいの一枚。ところで、フェルメールの肖像画もそうなのかもしれないが、キルヒナーの「フランツルの肖像」が描きとっているのは、瞬間的な表情の変化、ここでは微笑みかけるという動きである。キルヒナーは、瞬間的な動きを描きとることにつねに関心を寄せていた。実際彼は、膨大なスナップ・ショット的スケッチを残している。あるいは、「ブリュッケ」の「表現主義」とは、古典的な輪郭をはみ出してゆく動きへの関心を示すものであり、なかでもキルヒナーはその運動の瞬間を画面に定着させるために、絶えず画家としての眼のシャッター・スピードを高めようとしていた、と言うべきなのだろうか。このようなキルヒナーの瞬間への関心は、やはりベルリンという大都市における生の速度を描きとることに生かされている。今回、以前に新ナショナル・ギャラリーで見た「ポツダム広場」とともに、ブリュッケ美術館に所蔵されている「ベルリンの街路の情景」を見ることができたのは幸運だった。どちらの絵でも、往来の速度のなかに、着飾った人びとの姿が、どこか儚さを感じさせる仕方で鋭く抉り出されている。1910年代のベルリンを、それを貫く未曾有の速度とともに描きとった傑作である。このように、都市における生へを見つめる一方で、キルヒナーは自然への、その躍動への憧れを失うことはなかった。彼が生涯にわたって好んで用いた緑は、それを象徴しているのかもしれない。都市生活を描いたキルヒナーの絵のなかでその緑が見事に生かされているのが、野外のカフェに座る女性を描いた一枚。もしかするとそのカフェは、今は跡形もなく失われた共和国広場のクロルのそれかもしれない。ベルリン・ギャラリーを出て、フリードリヒ通りの駅に預けた荷物を引き取った後、現在ドイツ政府の中枢があるその共和国広場の近辺を、テーゲル空港行きのバスで通過した。シュプレーの河畔に、カメラを提げた観光客のシルエットが浮かびあがっていた。

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2005年11月 6日 (日)

ベルリン旅日記:11月5日

 午前中から夕方にかけて、「美的経験の諸言語」というテーマの学会に参加する。日本の科学研究費補助金のように補助金の出る「特別研究領域」の年次集会として開催された学会である。会場は、フィルハーモニーの隣の楽器博物館のなかにあるクルト・ザックス・ホール。午前中に聴いたのは、1920年代の演劇におけるアヴァンギャルドな演劇、とりわけその舞台における台本のテクストと、マルチ・メディア的な舞台設計との結びつきを論じた発表、新聞をはじめとするマス・メディアにおける造形芸術の批評の動向と、それが自己検閲的に判断力を失っていることを批判する発表、そして音楽におけるポピュラーとクラシックの二項対立を脱構築することで現代音楽におけるアドルノの言説のヘゲモニーを打ち破ろうとする発表である。午後には、20世紀の建築史における、文学の動向や芸術運動のさまざまなマニュフェストと建築の関係について論じた講演に続いて、テクストとして書かれた舞台の理想を実際の演出において実現させようとする現代演劇の試みを論じた発表、シェーンベルク以後の音楽における、音楽の語法の設計としての作曲家の言語的なプログラムとその音楽的な実現の関係を論じた発表、そして現代のいわゆる芸術映画がさまざまな禁忌を自己検閲的に掲げるプログラムによって、芸術としての権威を獲得していることを暴き出す発表を聴いた。いずれも、芸術作品の制作とその批評の両方における、美的な経験と、テクストとして書かれる言語との関係の具体的な様相についての歴史的な記述としては興味深かったものの、理論的な掘り下げという点ではもの足りない。それにしても、批評を論じてベンヤミンの名前に一度も触れないというのはどういうことだろうか。
 学会の昼休みに、会場の近くにある新ナショナル・ギャラリーへピカソ展を見に行く。パリのピカソ美術館に所蔵されている主要な作品が展示されているということで、かなり混雑していた。実際、初期の絵から晩年の作品に至るまで、かなりの数の作品が展示されていた。「青の時代」の自画像をはじめ有名な作品も多かったが、今まで知らなかったピカソの一面を示す作品も展示されている。彼が点描を試みたことがあったとは知らなかった。具象的に人間像を彫りだす初期の作品から、過剰なまでに身体の豊饒さを強調する晩年の作品まで、ピカソの創作の足どりをたどって気づくのは、やはり彼が人間、とりわけ女性の身体を、その野生の豊かさにおいて描き出そうという試みを生涯にわたって続けていることである。20世紀を迎えてすぐにピカソは、従来の具象的な人間像が、もはや人間の身体性を表現しえなくなっていることに気づいたようだ。その後彼は、面を組み合わせることで、あるいは肉の塊を構成することで、自分が惹かれ続けた身体の「野生」に近づこうとするのである。女性の肖像画としては1920年代にピカソの妻であったオルガの肖像が印象的。あまりに美しく書かれた彼女の姿の傍らに見られる無造作な書き込みは、この絵が具象的な完結性をみずから否定しようとする身ぶりのように見える。朝鮮戦争中の1951年1月にあった虐殺事件を、ゴヤを思わせる手つきで描き残そうとする絵も忘れがたい。
 夜はコーミッシェ・オーパーへヤナーチェクのオペラ「イェヌーファ」の公演を見に行く。この作品の上演に接するのは初めてだが、今年の2月に国立歌劇場で見た「カーチャ・カバノヴァー」に続いて、歌と語りが交錯するなかで、ひとつのメロディとしての完結が絶えず否定されるヤナーチェクの音楽の緊迫感に惹きつけられる。ベルクの音楽と並んでオペラにおける、いや「オペラ」を越える音楽の可能性を示すものと言えよう。ヴィリー・デッカーの演出は、二人の男に翻弄されるなかで最初の子どもを失い、やがて新たな愛に目覚めるイェヌーファの生きざまと並んで、彼女の子どもを殺してしまう継母が強さと弱さの両方を示すさまにも光を当てている。荒涼としてシンプルな舞台のデザインも作品にふさわしいと思われる。キリル・ペトレンコの指揮するオーケストラは、実に力のこもった演奏で、心の底からの叫びと情景描写が一体となるかのような響きを聴かせていた。フォルティッシモの凄まじい強度とピアニッシモの緊張感。重要なヴァイオリンの独奏も力強い。それにしてもペトレンコという指揮者の実力は、もっと広く認められてもよいだろう。歌手のなかでは、イェヌーファを歌ったシネアド・ムルハイムと、イェヌーファの継母役を歌った、ヘドヴィヒ・ファスベンダー(ブリギッテ・ファスベンダーと関係があるのだろうか)が印象的。とりわけ後者は、継母の両面を見事に表現しきって、大きな喝采を浴びていた。ヤナーチェクのオペラの重要性を再確認できたことは、今回のベルリン滞在の大きな収穫であった。

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2005年11月 5日 (土)

ベルリン旅日記:11月4日

 朝の5時半に宿を出て電車でヴァイマールへ向かう。フリードリヒ・シラーの没後200年を記念する学会に出席するためである。6時過ぎにベルリンを出て、ヴァイマールに搗いたのは9時過ぎ。何とか10時からの講演に間に合った。会場はバウハウス大学内のかつてバウハウスのアトリエとして使われていたというホール。天井が採光のためにガラス張りで、柔らかな光が入ってくる。「バウハウス」の名を冠した大学らしく、このホールがある建物以外にも、壁もすべてガラス張りの建物が並んでいる。
 講演はおもにシラーのテクストを解釈しながら、演劇の原題における可能性を論じるもの。前日に行なわれたジャック・ランシエールの講演を前提にして、それに対する応答というかたちで展開される箇所もあって、ついて行くのが難しいところもあったが、わたしにとっては現代における舞台芸術の意味と位置について考えるまたとない機会であった。シラー自身の議論のなかで彼が顕揚する「美的教育」が挫折することを示し、演劇の芸術美と教育的効果が両立しえないことを証明しながら、美的次元と、教育的ないし倫理的な次元との緊張を表現することで、自己反省的に自己形成を遂げるものとして演劇をとらえかえす講演や、世界の規範的なメカニズムないしエコノミーと主体性のあいだの深淵を開く熱狂が噴出する場として演劇を見つめなおそうとする講演など。ルソー的な一般意志のありようを批判しながら、来たるべき民主主義の可能性が示される場として演劇をとらえなおそうとする議論もあったが、その場合の聴衆あるいは大衆とは何か。あるいは、ある舞台演出を例に、俳優の演技による言語形成を論じる議論において、言語形成の場として何が考えられているのか。批評眼をもった聴衆による言語への翻訳なのか、あるいはそれを含めた演劇の舞台なのか。自問することも多い。それにしても、日本では考えられないくらい、劇作家として、美学者として、シラーが高く評価されている。
 夕方、学会の会場を出てベルリンへの帰途につく。大学近くのバス停でバスを待っていたら、一緒にバスを待っていたおばあさんが、虹が出ていると教えてくれた。見ているうちにだんだんと鮮やかな七色に変わってきた。おばあさんは、めったに見れるものではないと感嘆していた。わたしも実際に見るのは何年ぶりのことだろう。
 ほんとうはベルリンへ帰ってから、コンツェルトハウスでユン・イサンの没後10周年を記念する演奏会を聴くつもりだったのだが、ベルリンへ向かう電車が遅れてしまい、聴けずじまい。非常に残念だったが、いいかげん休め、ということかもしれない。少しCDを買ってから帰途につく。宿に着いたら、やはりまともに立っていられないくらい疲れ果ててしまっていた。

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2005年11月 4日 (金)

ベルリン旅日記:11月3日

 夜のうちに雨が降ったようで、道路が濡れていたが、だんだんと晴れてきた。今日は午後にポツダム大学へ行くので、その前にいくつか用事を済ませようとフリードリヒ通りの駅へ向かう。まず、2月までのポツダム滞在の後で完成した、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人追悼記念碑」を訪れる。ブランデンブルク門のすぐ南の、かつて東ドイツの国境警備隊が地雷を敷設していた土地に造られたこのいわゆる「ホロコースト記念碑」は、ジャーナリストのレア・ロッシュが中心になって結成された市民団体が、ベルリン州政府と連邦議会を巻き込むかたちで、また学者、ジャーナリスト、芸術家、政治家の熱い議論の末に、17年をかけて実現させたものとのこと(影書房『前夜』第5号所収の梶村太一郎の論文「つまずきの石」を参照)。今やベルリンの新名所と化している。高さがどれも異なる無数の直方体の石柱がぐにゃぐにゃとした床面の上にひしめいていて、そのような石柱の森のなかに入ると何とも言えない圧迫感に襲われるのだが、子どもたちにとっては絶好のかくれんぼの場所である。走り回る子どもたちがはしゃぐ声と、それを追いかける親の叫び声があちこちで聞こえ、正直なところ静かに、犠牲となったユダヤ人たちが、すでに戦争直前の日常生活でも感じていたであろう圧迫感を身に受ながら、「ヨーロッパのユダヤ人」の虐殺とはいったい何だったのか、と考える雰囲気ではない。地下の展示を見てみようかとも思ったが、並ばないと入れない様子だったので、今回は諦める。それはともかく、この記念碑が国会議事堂の眼の前にあることは、この過去の忘却に重い楔を打ち込むものと言えよう。このような楔を政府の側も引き受けようとしている点は、忘却の進む日本の状況とやはり対照的と言わざるをえない。
 フリードリヒ通りのドゥスマンで本を買い求めた後、電車に乗ってポツダムへ向かう。ポツダム大学に着いて、今年の2月まで世話になった教授と再会し、そのゼミに顔を出した。ゼミとはいえ、ものすごい数の学生で、多くの学生は、近くの教室から椅子を持ち込んで座っていた。ヘーゲルの美学がテーマで、おもにいわゆる「芸術終焉論」を中心に、ヘーゲルによる芸術の歴史的、社会的、さらには哲学的位置づけが問題になっていた。ゼミの後は、同じゼミに出席していた、今年わたしと同じようにポツダム大学で研究している知人と再会し、ドイツでの研究生活などについて大学のカフェテリアで話をする。
 ベルリンへ帰った後、宿に荷物を放り込んでから国立歌劇場へ向かい、「白鳥の湖」の公演を見る。ヴラディミール・マラーホフが見事にジークフリートを踊っていた。堂々としていて、かつしなやかな身のこなしは、貫録さえ感じさせる。ジャンプも高く、衰えをまったく感じさせない。白鳥のオデットと黒鳥のオディーレを踊ったポリーナ・セミオノーヴァもすばらしい。オデットのときには、指先まで使って悲しみを表現していたし、またオディーレのときには実に鮮やかな踊りを見せてくれた。ジークフリートとの、一方はオデットでの、他方はオディーレでのパ・ド・ドゥはこの日の白眉であった。この二人以外の踊り手も、けっして遜色のない踊りを見せていたし、白鳥のアンサンブルも美しい。オーケストラの音色にもう少し繊細さがあれば、と思うところもあったが、重い硬質の響きは、やや粗削りなところもある「白鳥の湖」のスコアにふさわしかったのではないか。ヴァイオリンのソロも大変な力演を聴かせていた。何よりも印象的だったのは、オデットをはじめとする白鳥たちも、ジークフリートも靄に包まれた湖の底へ消えてゆき、後には陰謀を仕組んだ彼の母親の苦悩だけが残るという救いのない結末。それは、それまでの典型的なバレエの世界の華やかさをも否定するかのようであった。

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2005年11月 3日 (木)

ベルリン旅日記:11月2日

 11月のベルリンとは思えない爽やかな青空の広がったのを幸いに、まずはヴァルター・ベンヤミンのベルリンでの住家を訪ねて回ることにした。最初に見つけたのは、彼が幼年時代を過ごしたクアフュルステン通り154番地の家。外壁はやや落ち着きのないピンク色に塗り直されていたが、建物そのものは当時のまま残っているようだ。1階部分が薬局として使われているが、4階建ての立派な邸宅。ここから小さなヴァルターは、召使いの女性に手を引かれながら、ティーアガルテンへ散歩に出かけたりしたのだろうか。それはともかく、この建物自体は豪奢な造りなのだが、周辺にはもうかつてのヴェステンの高級住宅街の面影はない。すぐ近くでは、トルコからの移民たちが八百屋やレストランをたくましく営んでいるし、安っぽい衣料品を売るチェーン店も建っている。
 次に訪れたのは、マグデブルク広場4番地の生家。建物は跡形もなく取り壊されてしまっていて、その後に無味乾燥な造りの集合住宅が建っている。ただその向かいには、昔からあると思われる小さな公園があった。もしかしたらその公園を、乳母車に乗せられた赤ん坊のヴァルターが、両親とともに訪れたこともあったかもしれない。今は幼稚園児たちの遊び場になっているようで、小さな子どもたちがかわいらしい遊具を使ってはしゃぎ回っていた。
 マグデブルク広場から、ベンヤミンが『1900年頃のベルリンの幼年時代』のなかで触れているベンドラー橋を渡り、日本を含めた各国の大使館が建ち並ぶヒロシマ通りを抜けて、かつて皇帝の狩り場だったベルリン市民の公園ティーアガルテンに入る。ここでは、ちょっとした森林浴も楽しみながら、『1900年頃のベルリンの幼年時代』の「ティーアガルテン」の章に書かれているベンヤミンの足跡をたどることにして、まずはフリードリヒ=ヴィルヘルム三世とその妻ルイーゼの像を探す。それらは、運河にほど近い、金網に囲われた(ウサギが逃げないように、ということらしい)一角にあったが、像そのものは意外と慎ましやかな感じである。しかし、ベンヤミンが触れているように、台座にはずいぶん凝った彫刻が施されている。とくにルイーゼ像の台座に彫られている、幾人もの男女が愛しあう神話的な情景は、小さなヴァルターの胸を高鳴らせたこともあったろう。そう言えば「ティーアガルテン」の章に、「愛」という言葉が、やがて否定されるべき想像的なものとして登場していた。
 皇帝夫妻の像のある一角を出て、戦勝記念塔へ向けて歩く。少しひんやりとした空気が心地よい。前の晩に雨がぱらついたせいか、空気がそれほど乾燥していないのも嬉しいところ。ゆっくり10分ほど歩いたら、戦勝記念塔が見えてきた。トンネルを通って塔のすぐ近くまで行き、下からけばけばしい壁画を眺めた後、再びトンネルを通って、6月17日通りに出る。ティーアガルテンの駅から電車に乗って、1912年からベンヤミン家が住んだ家のあるグルーネヴァルトへ行こう、と考えたのだ。
 15分ほど電車に乗った後、グルーネヴァルトの駅に到着する。実は、グルーネヴァルトへ行ったのは、もう一つ目的があった。この駅の17番ホームを見ることである。この17番ホームからは、1941年から1945年にかけて、おびただしい数のユダヤ人たちが、ポーランドやチェコといった当時のナチス・ドイツの占領地に造られた収容所へと「移送」されていた。今日それを忘れないために、もはや列車の発着に使われなくなったこのホームには、いつ、何人のユダヤ人が、ここからどこへ連れ去られていったのかが書かれた、金属製の銘板が並べられている。やはりヴァンゼー会議の行なわれた1942年1月以降、「移送」はだんだんと大規模になっていて、1943年には、これまで数百人までだったのが、千人以上の単位で、おもにアウシュヴィッツへと「移送」されている。この狭いホームに、行き先も、その後の運命も告げられることなく集められた千人以上もの人びとがひしめくさまは、凄まじいものであったことは想像に難くない。しかも、その後は貨物のように封印列車に詰め込まれて、そこから何日も立ったまま、飲食も排泄も許されない状態で運ばれてゆくのだ。グルーネヴァルト駅の17番ホーム、そこはかつて人間の顔が組織的に引き剥がされる場所だったのである。今はひっそりとしているそのホームに置かれた銘板の一枚に、一輪の赤いバラがたむけられていた。
 古めかしい造りの駅を出てしばらく歩くと、1912年以後ベンヤミンの家族が住んでいた家があったとされる通りにたどり着いた。今日リヒャルト・シュトラウス通りと呼ばれているその通りにあった邸宅は、第二次世界大戦中の空襲によって焼けてしまったという。残念ながら、その痕跡を探し出すことはできなかった。この近辺は昔から高級住宅街だったようで、庭も大きい豪奢な邸宅が今でも立ち並んでいて、通りにはかつてそこに住んでいたであろう名士たちの名が付けられている。シュトラウス以外の音楽家では、レオ・ブレッヒやヴィルヘルム・フルトヴェングラーといった、戦前のベルリンの顔だった指揮者の名が見られた。
 リヒャルト・シュトラウス通りをとぼとぼと歩いているうち、ブリュッケ美術館へ行ってみようと思いつく。この表現主義のための美術館を、ベルリンの中心街から離れていることもあって、今まで訪れたことがなかったのだ。そこからかなり距離があったのだが、地図を頼りに歩いて20分ほどでたどり着く。カール・シュミット=ロットルフの戦後の作品を集めた回顧展が開かれていた。キルヒナーやノルデにくらべて印象の薄い画家だったのだけれども、こうしてじっくり見ていると、今挙げた二人にはない魅力も感じ取ることができる。いくつかの風景画と静物画が気に入った。どの作品も、画家のまなざしと、対象の光彩との親密な対話によって貫かれているように思う。そして、その光彩をあたかもモティーフとなる対象そのものから発せられているかのように力強く描きとることで、対象にしっかりとした存在感をもたらしているようだ。シュミット=ロットルフは、最後まで抽象画に手を染めることはなかった。
 ブリュッケ美術館を出た後、バスと電車を乗り継いで、ザヴィニー広場の駅へ行く。その広場から伸びるカルマー通りの3番地に、ベンヤミンはギムナジウム時代に住んでいたのである。そこには、周りのモダンな建物からちょっと浮いた感じで、古い造りの邸宅が建っていた。当時の建物がそのまま残っているのだろう。どういうわけか、ここも薬に縁があって、今は薬剤関係の事務所として使われている。ここからベンヤミンは近くの学校へ通っていたのだが、だんだんと適応できなくなってしまうのである。そうして彼は、グスタフ・ヴィネケンの学校へ移り、青年運動へのめり込んでゆくのだが、そうした活動家ベンヤミンのベルリンでの足跡をたどることは、今回かなわなかった。
 付近の書店をいくつかのぞいてみた後、いったん宿へ戻り、夜はその近くにあるベルリン・ドイツ・オペラへ、クルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」を見に行く。さすがに歩き疲れたのと時差ボケが相まって、集中力を欠いてしまったのが悔やまれるが、オペラを内側から破壊しようとするこの作品の起爆力の一端を感じることはできた。カラン・アームストロングの寡婦のベグビック、ニコラ・ベラー・キャルボーンのジェニー、それにデイヴィッド・スタールという指揮者の率いる管弦楽がいずれも好演を聴かせていた。とりわけヴァイル特有の怪しげな影を含んだ響きは、そう簡単に出せるものではないだろう。マハゴニー市に近づいていたハリケーンがそれた後、享楽への欲望が噴出する際の猥雑な鮮やかさを放つ響きがとりわけ印象的だった。ギュンター・クレーマーの演出は、客席の第一列に男性の合唱団員を配して、マハゴニーへの欲望が聴衆自身の欲望でもあることを意識させながら、この理想の歓楽街の興亡を描くというもの。マハゴニーの享楽に酔う男たちすべてにミッキーマウスの面をかぶらせる一方、ドイツの国旗をモティーフにした天幕を張るあたりは、政治的なバランスへの配慮を示すものか、それとも「グローバル化」した世界における享楽の姿を描き出そうというものだろうか。あまりにも衣裳などが一律に揃えられているあたり、どうも単調な感じがして退屈するところもあったが、最後の場面ではその単調さが逆に、消費による快楽の追求が、異質な者の排除と、それによる軍隊的な画一性とに結びつくのをうまく描くのにつながっていたようにも思う。ともかく、ブレヒトとヴァイルの共同作業による最もオペラらしく見えるオペラ「マハゴニー市の興亡」によって、二人がどのように「オペラ」を内側から爆破し、それに興ずるわたしたちの生活をどのように問いただそうとしたのか、もう少し探ってみる必要があるだろう。とりわけ興味深いのは、古いナンバー付きのオペラの様式が、オペラの展開のモンタージュ映画的な非連続性と結びついている点である。ここが「マハゴニー」であることを突きつける上演は、今日どのようにすれば可能だろうか。

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2005年10月18日 (火)

安部公房『他人の顔』

 機会があって、安部公房の『他人の顔』(新潮文庫)を久しぶりに再読した。主人公自身を含めたさまざまな「他人」たちの視線が集まる「表面」として「顔」を浮かびあがらせ、さらにはその「表面」と「内面」なるものの区別を無意味にすることによって、「自己」というものをその根底から揺さぶる小説である。
 化学研究者として研究所のなかで一定の地位を得ている主人公の男にとって、液体酸素の不意の爆発によって自分の顔にできたケロイド痕は、「蛭の巣」であり、顔に穿たれた「深い洞穴」にほかならなかった。彼はそれを地肌と見まがうほどに精巧な「仮面」で埋めようとする。物語の大部分は、そのための孤独な暗闘を妻へ向けて綴った彼の手記によって構成されているが、安部は、そこに日常的な空間を言わばさっと異境化しながらその骨組みを浮かびあがらせる洞察をちりばめると同時に、主人公が一定のジェンダーを背負った「男」としての自分に囚われ続けていることを、手記のうちにさらけ出させてもいる。
 それにしても、顔の「洞穴」はなぜ「仮面」によって埋められなければならなかったのか。それは何よりも主人公が妻との関係を回復したかったからである。彼が顔に包帯を巻いて生活するようになって以来、妻とのあいだを支配していたのは、「あのこわれた楽器のような沈黙」だったのだ。彼は「自分と他人を結ぶ通路」をもう一度切り開くべく、仮面の制作に没頭する。そして、他人の顔から顔型を取り、柔らかい高分子樹脂の仮面を作りあげ、それを着けて街を出歩くようになると、だんだんと彼の仮面制作を衝き動かしていた欲望が浮かびあがってくるのである。その欲望とは性欲にほかならなかった。彼が回復したいのは妻との性的な関係だったのである。だからこそ仮面の男は、妻の好むような顔つきをした、ちょっとした伊達男でなければならなかったのだ。主人公は、妻を誘惑できる「他人の顔」を身に着けようとしたのである。
 彼は化学者らしくこの「他人の顔」を、一貫して一つの物的な対象として見ている。人間の顔をさまざまな特徴に分解し、それを組み合わせることによって作りあげられた顔とは、あくまで妻との関係を取り戻すための道具にすぎないのである。だからこそ、彼は仮面の顔に引きずられてしまう自分に気づくときに苛立ってしまうのだ。彼は、「他人の顔」を「仮面」として対象化することによって、「化学者」であり、「男」である自分を保持しようとする。そしてそのためには、「仮面」と「自分」との関係はいつか清算されなければならない。彼は、他人との通路としての「顔」の重要性を認めつつも、そこから隔てられたところに「ほんとう」の自分があることを信じてやまないのである。
 しかしながら妻のほうは、そのような「表面」としての「仮面」と、「内面」としてある「自分」との区別を認めていない。仮面の男の誘いに乗った彼女は、「他人の顔」という新しい顔をした夫を、まさに自分の夫として受け容れた。彼女は、新しい顔を見せるところに夫自身の姿を認めたのである。そして、そのことを知らず、妻は仮面の男に誘惑されたのであり、自分は妻に裏切られたのだ、と信じ込んでいる男は、彼女に言わせれば、「顔は人間同士の通路だなどと言いながら、税関の役人みたいに、自分の扉のことしか考えない、巻き貝のようなあなた」、でしかない。
 そのように顔の現われと自己の所在を同一視する彼女の考えを徹底させるなら、「表情」というものが、他者がそれを認め、それに呼応するところで初めてある一つの表情として意味をもつように、ひとりひとりの自己も顔において現われるとともに、それを他者が認めるところに生まれる、ということになるのだろうか。さらには、自己は「内面」に「存在する」のではなく、他者とのあいだに「生成」するのであり、顔とはそのような自己の媒体である、ということにもなるのかもしれない。だとすれば、「顔」はどこに位置づけられるのか。「他者」の哲学者エマニュエル・レヴィナスが述べていたように、それは他者それ自身がその無限の他者性において顕現する場として、どこにも位置づけられないのだろうか。少なくとも主人公の妻にとっては、人工の皮膚をもった顔面でも、その人自身の姿を示す「顔」でありえたのだ。当初劇で用いられる「仮面」を意味し、後に「人格」や神の「位格」を意味するようになった「ペルソナ」という語はそれ自体、「それを通して (per) 」何かが「鳴り響く (sonare) 」ことを意味している。少なくとも、人間の顔の固定された表面としての側面ではなく、「おもて」を示すことで他者に対して鳴り響き、語りかける顔のはたらきに注目しながら、自己のありようを問いなおすべきなのだろう。主人公の手記の後に挿入された妻からの手紙は、そのような問いの契機をもたらすものと考えられる。さらにその後に置かれている、主人公がかつて正視できなかった映画の物語は、ゲーテの『親和力』に挿入されたノヴェレのようであると同時に、ケロイド痕と「広島」という固有名詞を結びつけることによって、「他人の顔」に対する読者のまなざしを問題化してもいる。
 さて、この妻からの手紙を読んだ主人公は、「仮面」の顔ではなしえなかった真の「行為」のために、いったん捨てた仮面を再び被って外へ出る。彼はどのような「顔」で「行為」へ赴こうとしているのだろうか。その「行為」の物語は未だ書かれていない。

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2005年10月 7日 (金)

熊野純彦『差異と隔たり』

 まだその一部を拾い読みしたにすぎなかった熊野純彦の論文集『差異と隔たり──他なるものへの倫理』(岩波書店)を再読した。労働の産物のみならず自己の生命も「所有」の対象であり、人間はそれに対する自己決定権を有するという「私的所有論」、歴史とは出来事が終わった後で物語られるものであり、物語る現在の視点から──過去が実際どうであったかにかかわりなく──構成されるところにあるとする反実在論的な「歴史の物語り論」、そして言語とはすでにある記号どうしの差異の体系であり、言葉を話すとはその体系を織りなすコードに従属することにほかならないという「記号論的」で「静態的」な言語論のそれぞれに、レヴィナス他者論の視点から楔を打ち込もうとする熊野の議論は、現在自己の身体と生命、自己の来歴ともなる歴史、そしてみずからが語る言語に関して、それらを手にすることが必然的に孕むはずの他者との関係へのまなざしを欠いた、ある主体の一方的な決定と操作だけがものを言うかのような現在の状況にも切り込もうとするものであるばかりではない。その議論は何よりも、死に抗って生命を自己につなぎ止めること、過ぎ去ったことを想起し、語り出そうとすること、そして言葉を語ることそれ自体のうちに、自己とは絶対的に隔たった他者への回路を穿つことによって、それらのいとなみをより根源的な次元へ立ちかえらせ、そこに他者とのあいだにある倫理を考える余地を切り開こうとするものであるように思われる。
 熊野は「所有する」ことを主題化するにあたり、まず「所有する」ことそれ自体を可能にする原初的な、ある意味では当然至極な条件を浮かびあがらせている。その条件とは、「私は、私にいくらかは近しいが、私そのものではない対象だけを、私のものとして所有することが可能である」、というものである。この「私にいくらかは近しいが、私そのものではない対象」として今日クローズ・アップされているのが「身体」ということになろうが、熊野によれば、「身体を自己所有の対象と考えるとき、ひとはなぜか、身体が病んで、痛みに苦しみ、老い、やがて死んでゆくことを忘れはててしまっているかにおもわれる」。身体が病むときにこそ、それをあらためて自分のものにすることが痛切に問題となるはずなのに。しかも、その身体は、労働においては他者と「間身体的」に機能し、それ自体として他者に触れられる対象である。そればかりか、とくに病に苦しむとき、身体はそのさまざまな欠乏を、他者に配慮してもらわなければならない。
 このような身体の「自己所有」の不可能性が最もラディカルに浮かびあがるのは、やはり自分が死ぬときである。所有とは死を先送りする努力であるが、それは最終的には先送りできない。しかも、その死はけっして「私」に現前することなく、所有を擦り抜けてゆく。「私の死亡をたしかめ、私の生じたいを閉じることができるのは、他者にかぎられる」のである。そして、死の対極にある自己の生誕もまた、所有の彼方にある不可能な「贈与」の出来事なのだ。そのことを見つめなおすとき、身体として存在することに由来するさまざまな欠乏を埋め、死を繰り延べようとする「所有」一般の努力を、またそれをつうじて自分が生き存えることそれ自体を、自分の手をつねに逃れてゆく他者との倫理的な関係において問いなおすことが要請されるのである。
 さて、熊野は、いわゆる「過去の想起説」にもとづく「歴史の物語り論」を検討するに際し、その「想起説」自体のうちに、それが排除しようとする「過去としての過去」がひそかに回帰しているのに着目している。想起が、たんなる想像ではなく、まさに「想起」であると自己を了解するところに、「過ぎ去ったものそれ自体が、亡霊のように」回帰し、「想起が過去を定義する」という主張を侵食しているのである。それゆえ、その始まりにおいて「喪の儀礼そのものとむすんだ〈追憶〉にほかならない」歴史の物語りは、「それ自体としては反復不可能で、現在へと回収不可能な生」であるような過去を繰り返し物語るいとなみであるばかりでなく、そのような過去が、「遙かな差異そのままに、私の現在にかかわってくる」ところから始まるものなのではないだろうか。隔絶した過去がそのようなものとして現在に食い込んでくるところ、またそれに「無関心であることができない」ところに歴史は始まる。とすれば、その物語りはけっして完結することはありえないし、見せかけの完結はつねに欺瞞であろうことになろう。歴史をいくつかの一貫した筋立てに解消しようとするある種の「物語り論」が見すごしかねないこうした論点を、熊野は指摘しているのである。
 けっして現在に回収できない過ぎ去ったものが現在を侵食しているのに遭遇し、それに対して無関心でいられないとき、現在は他者の痕跡の場と化す。熊野によると、その痕跡はけっして癒えることのない「傷痕としての過去」を回帰させるものとして、現在の外部から予測しえないかたちで到来し、現在を、またそのリアリティを構成している来歴の物語を根底から揺さぶるのである。ベンヤミンは、その「物語作者」のうちに「死は、物語作者が報告しうるすべてを承認する」と書きつけるとき、その「承認」のうちにこうした現在の動揺を見て取ってはいなかっただろうか。だからこそ彼は「無意志的記憶」に注目し、現在と過ぎ去ったことが遭遇する恣意的でない瞬間に歴史の構成が始まると述べることができたのではないだろうか。それはさておき、熊野の議論によって、現在が過ぎ去った他者の痕跡の場と化す今こそが歴史そのものの原点であることが明らかになったとすれば、彼が述べているように、そうした他者への「祈り」を含んだ、新たな歴史の物語りのありようが問われなければならないことになろう。熊野は、そのような問題意識を、ここでは言語への問いに接続させている。  熊野は、今日ともすればあまりにも規範的ないし記号論的に取り押さえられがち言語のうちに他者と応えあう回路を開き、言語をめぐる経験の深みを計測するために、まずレヴィナスが取り出した言語における「語ること」と「語られたこと」の区別とも重なるような言語の両義性を指摘している。「言語がこの私よりも前に存在し、私はすでに存在する語と規則を用いてなにごとかを語りだす以上、すべてはかつてすでに繰り返し語られたものである。他方では、私がいま特定の状況で、特定のことばによって、現前する他者にたいしてなにかを伝えようとするかぎり、いっさいはいまだ語られたことがないはずなのだ」。発話の「繰り返し語られたもの」を反復するという側面ばかりを強調するなら、言語がつねに他者へ向けて語られることが見すごされてしまう。そして、この点に注目するなら、「ことばを習いおぼえたばかりの子どもであれ、既成的なコードにほとんど搦めとられてしまっているかにみえるおとなであれ、ひとは、発話の連鎖を継続しようとするそのつど、ことばが生まれようとする現場に立ちあうことができる」ことが確認されるのである。  ここにあるのは、熊野に言わせれば、他者とのあいだにある一般性へ向けた言語の生成である。一個の名詞を言挙げることであっても、言葉を語るとはつねに、他者との関係を更新するような呼びかけと贈与を含んだかたちで、「いまだかつて語られたことのないもの」を語り出すことなのである。そのような経験とともにある言語の本質を体現しているのが、熊野によれば「固有名」にほかならない。「固有名」は、言語が何ごとかを語る前に他者への呼びかけであることを示しているのである。「他者に呼びかけるために、まず発せられる固有名は、その意味では、ことばそのものの原型をかたどっているといわなければならない。呼びかけとしての固有名、特定の他者を呼び止めるための表現は、文法的な品詞としての固有名にさきだって、言語それ自体を可能にしているのである」。このような洞察は、言語の本質を「名」のうちに見て取ったベンヤミンの思考の消息を思い起こさせずにおかない。  熊野によれば、固有名のように呼びかけられる言葉は、同時に「あてどない祈り」である。それが、一つの言葉として他者に届く保証はどこにもないのだ。にもかかわらず、今ここにいる自分は、自分がけっして立つことのできないそこへ言葉を届けようとする。届かなければ届かないほど、その欲望は増大することさえある。それは何よりも、自己と他者のあいだに埋めることのできない隔たりがあるからである。他者はつねに言葉を擦り抜けてゆくし、また言葉を語ろうとするとき、他者がつねに先に呼びかけていて、言葉はそれにけっして追いつくことができないのだ。「世界の移ろいと揺らぎは、なまえを与えられぬままに生起し、ほどなく消え去ってゆく」こと、そして他者の呼びかけに応えようとするときにそこにあるのは、もはや取り戻しようもなく過ぎ去った他者の痕跡でしかないこと。これが言葉を語ることを不可能にしながら可能にし、さらには衝き動かしているのだ。言語をめぐるベンヤミンの思考を「世界の受難史」に応ずるアレゴリーへ差し向けたのとおそらくは同じこのような洞察に、他者に応答し、そして呼びかける言語のありようを問う熊野の思考は達しているのである。そしてその到達点こそ、彼にとっては他者とのあいだにあるべき倫理的関係を主題化する思考の出発点なのであろう。

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2005年9月28日 (水)

高橋哲哉『国家と犠牲』

 わたしが今ここに生きていることはけっして正当化されえない。ここに場所を占めるとは、他者たちから生きる場所を奪うことであり、今何かを食べて命をつなぐとは、他の生きものを殺すことであり、さらにはそれをもとに作られた食べものを用意してくれる他者たちを搾取することでもありえよう。わたしがその立場に立つことのできない他者は、時にこうした自己保存の暴力を問いただす者としてわたしの眼前に立ち現われてくる。そして、たとえその他者の問いかけに真摯に応えようとしたとしても、わたしは他者の立場に立つことはできない以上、その他者に対する責任を果たしきることはできないし、またその他者に対する責任を引き受けるなら、わたしはそれ以外の他者たちとの関係をやはり暴力的な仕方でなおざりにせざるをえない。このこともまた、けっして正当化されえないのだ。わたしはその暴力を問いただす他者の呼びかけに再び応えなければならない。
 このように考えるとき、わたしはそれぞれ特異な他者たちに普遍的に応えることをまだあきらめてはいない。そしてカントはすでに、特異な他者たちに普遍的に応えようとする行為へ一歩を踏み出そうとするところに、「理性的存在者」としての「人間」の「自由」と、「道徳的」でありうる希望とを見ていたのではなかったか。あるいはレヴィナスは、わたしが特異な他者に対して「無関心でいられない」ときにわたしのうちに開かれる「応答可能性」のうちに、「根源的社会性」を見届けるとともに、ラディカルな「平和」の可能性を見て取っていたのではないだろうか。
 とはいえ、このようにそれぞれ特異な他者たちとの関係のなかでけっして正当化されえない仕方で生きるとは、たしかに厳しいことであり、割り切れないことではある。カントが「道徳的」であろうとする「理性的存在者」であるにつきない「人間」の深層に「根源悪」として見て取っていたように、今ここに生きている──社会的にお仕着せられたものであるはずの──自分を、あまりにも性急な「最終的解決」によって正当化したい欲望が、人びとのなかでうごめいていることもまた否定できない。そして、他者が自分のための「犠牲」になることを自分のために神聖化し、それによってもたらされる他者の悲惨を覆い隠し、疑似的な「最終的解決」を今生きている者たちのなかにもたらすレトリックとして絶えず持ち出されるのが、「犠牲の論理」にほかならない。それは「論理」であり、「レトリック」である。自己正当化の論理として首尾一貫性を追求するかぎりでは、それは「論理」であろう。しかし、それはつねに他者の悲惨を隠蔽しながら虚構の「われわれ」をつくり出し、その「われわれ」を説得する「レトリック」なのだ。このようなレトリックとしての「犠牲の論理」は、第二次世界大戦のあいだには「ユダヤ人問題の最終的解決」をもたらそうとする、いわゆる「ホロコースト」──この語はかつてユダヤ教の「犠牲」そのものを表わしていた──を引き起こしたし、今でも「国家」とその「国民」の自己保存のための「尊い犠牲」を産み出し続けている。
 このように「自己」正当化のレトリックとして今なお機能し続ける「犠牲の論理」の構造を、「生け贄」の「神聖化」(サクリファイス)というその宗教的起源から解き明かすとともに、その論理が「国家」を束ねていること、とりわけ軍隊をもつ近代国家を「国民国家」として構成していること、そしてその点で「犠牲の論理」が、日本も含め世界じゅうに遍在しているのを明快に示しているのが、高橋哲哉の近著『国家と犠牲』(NHKブックス)である。この著書は、思想書としては空前のベストセラーとなった彼の『靖国問題』(ちくま新書)のバックボーンをなしている思想を、より広いコンテクストで展開させることによって、悲惨な戦場での兵士たちの無惨な戦死からその悲惨さも無惨さも拭い去り、戦死を神聖で崇高な死に変え、非業の死を遂げる兵士を送り出してまで押し進めた侵略戦争の責任の所在を隠蔽しながら、兵士の遺族の感情を慰撫するばかりでなく、国民を「名誉の戦死」へ駆り立てていった「靖国の論理」がいかに根深いものであるかを読者に突きつけている。「自衛」の軍隊による「テロ対策」や「安全保障」を訴えるなら、すでに他の人びとを殺し、また他の人びとのために殺されるための人間の集団を作るという不正に手を染めながら、その不正を隠蔽する「犠牲の論理」を生きてしまうことになるし、「靖国の論理」で戦死者の「平和と繁栄のための尊い犠牲」を語る首相のもとで、その「自衛」への国民への動員を可能にするような政治が押し進められるのを容認するならば、自分自身が死へ向けて動員されることを同時に容認してしまうことになる。「犠牲の論理」とは、他者への不正を一方的に正当化し、他者への暴力を恒常化しながら、ひとりひとりを死へと駆り立て、そうしてある虚構の「われわれ」の自己保存を図るレトリックにほかならない。それは今ここに生きているわたしたちをいつでも虜にしかねないのだ。たとえ宗教的なよりどころをもっていたとしても、その宗教自体が──かつて聖なる生け贄を神に捧げていたものとして、あるいは語源的に人びとを束ねるものとして──「犠牲の論理」を含みもっているかぎりは、国家による犠牲の論理に巻き込まれかねない。高橋は、「殉国即殉教」を説いてみずから「靖国の論理」との共犯関係に身を置いた日本のキリスト者のことを取り上げるとともに、長崎への原爆投下によって殺された浦上地区の人びとを戦争終結のための「尊い犠牲」とし、原爆投下自体を「神の摂理」と神聖化することで、無差別殺戮をもたらした原爆投下の責任ばかりでなく、それを招いた天皇をはじめ日本国家中枢の責任をも隠蔽してしまったカトリック教徒永井隆の言説にも、鋭い分析を加えているのである。
 では、「犠牲の論理」の外部はあるのだろうか。高橋はデリダの『死を与える』を引きながら、「人は絶対的犠牲から逃れられない」、「他の他者を、他の他者たちを犠牲にすることなしには、ある他者への呼びかけ、要求、責務、それどころか愛に対しても応えられない」、と述べている。この「絶対的犠牲」がある構造の内部で、決断しなければならないのだ。そのことは何も、犠牲なき国家や社会がありえないことを意味しない。特異な他者に普遍的に応えようとすること、それは同時にあらゆる犠牲の廃棄という「不可能なもの」を欲望することである。その欲望にもとづいて、現実に犠牲なき国家や社会を目指してゆくことができるのである。それが具体的にどのように他者およびその他の他者たちに対する責任を引き受けて倫理的な決断を下すことでありうるのか、どのような実践でありうるのかは、『国家と犠牲』の最終章だけでは、今ひとつ明らかではない。おそらくそうした問題の考察にはもう一書が必要であろうし、またその問題は読者自身に課せられた問題でもあろう。
 高橋によると、魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を呼び覚ますとともに、魯迅自身、そうした犠牲にもとづく「人食い」の社会のなかで生きてきたことに絶望している。わたしたちも、自分自身が「人食い」の社会に生きていることに戦慄を覚えるところから始めなければならないのかもしれない。高橋哲哉の『国家と犠牲』は、そのきっかけに満ちているばかりでなく、わたしたちのなかに「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせる思考の可能性も示している。それは、犠牲の外部を目指す責任ある生への問いを呼び起こす書物なのである。

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2005年9月23日 (金)

言語論二題

 先週から今週にかけて、二冊の言語論を読み終えた。もっともそのうちの一冊は、言語論というよりはむしろ詩学と呼んだほうがよいのかもしれないけれども。
 一冊は、以前から気になっていた管啓次郎の『オムニフォン──〈世界の響き〉の詩学』(岩波書店)である。表題が示すとおり、彼が翻訳してきた詩や小説についての文学論的なエッセイが集められた著作であるが、その至るところに鋭い言語論的洞察がちりばめられていて、わたしにとってはどちらかというとそちらのほうが興味深い。とはいえ、文学論としても面白く読めたことは確かで、とりわけフェルナンド・ペソア論は、彼がさまざまな異名で書いた実際の詩作品がいくつも載せられていたこともあって、実に魅力的であった。この詩人の重要性、そしてその詩の魅力を詩的に伝えてくれる文章である。そして、その末尾に管が置いている、「自分であることは牢獄」と歌う「私は逃亡者」という詩は、異名の詩人ペソアの詩作そのものを歌うものであると同時に、管自身の思索のモットーであろう。
 ところで、言語論として興味深いのはまず、「オムニフォン」という言語に対する態度を論じた冒頭のエッセイである。「近代」の顔を示すものとして1492年という年号を呈示する発想も示唆に富むが、それ以上に、この年から本格的に始まることになる植民地主義的「近代」の力によって、アフリカの海岸から引き剥がされ、カリブ海の島々に連れられて来たディアスポラの人びとが産み出してきた、そして今も産み出されつつあるクレオール言語を媒体として文学作品を書いている作家たちが、みずからを「世界の響き」に育てあげようとしていることを論じているあたりがやはり注目に値しよう。
 管によると、クレオール言語で書くということは、異質な言葉たちが隣り合い、ぶつかりあう多島海に身を置くことである。そうすることで、カリブ海の作家たちは、それら異質な諸言語のどれもが、世界の豊饒さを受けとめるのになくてはならないことを洞察したのだ。「世界の多様性は、世界のすべての言語を必要とする」。そして、言語の群島の作家たちは、一つの言語で語るときに、他のすべての言語がかたわらに佇んでいることも意識している。管に言わせれば、「オムニフォン」とは、そのようにして「あらゆる言葉が同時に響きわたる言語空間で生きる」こと、またその「決意」なのである。それにもとづいて、「理解できない言葉の不透明性をうけいれ、それに耐えつつ、それを尊重し、その来歴を想像し、新たな「列島」を構成しうる可能性を探ろう」とすること、これは「アングロフォン」の資本主義が世界を覆いつつある状況と同時に、日本の列島を一つの「日本語」ないし「国語」という虚像が包もうとしている状況に対抗するかたちで、今まさに試みられなければならないことだろう。そのことはむろん、管自身が指摘しているように、数えることのできる個々の言語や方言を尊重することではない。むしろ、それらの言語の閉鎖性ないし排他性を解体して、そこにある響きを、さまざまな言語のあいだで聴き出そうとすることである。では、それを具体的にどのように実践しうるのだろう。多和田葉子の行き方はその実践の一つの方向性を示すものかもしれないが、これは他人任せにしてよいことではなく、今ここで語るわたし自身の問題である。
 もう一つ言語論として面白かったのが、「エコソフィア」の詩人たちとともにヤキ族の詩的言語を論じた「花、野、世」である。そこで管は、その詩的言語がそれ自体一つの「殺し」であると同時に、それが生きてゆくための現実の「殺し」を思い出させつつ、殺されたものの再生を祈るものであることに触れている。その指摘は、言語自体の暴力性とともに、その自己言及性、さらにはその詩的な表現力を思い起こさせる。語ることは、語られるものを殺すことであるが、まさにこの殺害によって、語られるものを甦らせることもできるのである。
 このように管の言語論はさまざまな示唆に富むとはいえ、あとがきに代えて置かれた「島と翻訳」というエッセイに含まれているベンヤミン批判は、やはり看過するわけにはいかない。そこで管は、「翻訳者の課題」でベンヤミンが導入している「純粋言語」の概念に対して、「そんな唯一の、真理の、沈黙の純粋言語がありうると考える」というのには「とても賛成できない」と述べている。「徹底的にローカルな言語質の群れの上に、そんな純粋言語のレベルを想定すること自体に、ぼくは反発を覚える。それは大陸の、どこかに中心と頂点をもたずにいられない「帝国」の発想だ」、というのである。とはいえ、そのように管が断言するときに忘れられているのは、ベンヤミンが、この「純粋言語」が取り戻しがたく失われているところ、すなわちバベル以後の状況を直視するところから、「翻訳者の課題」の議論を始めていることである。「多くの言語をひとつの真の言語に積分するというモティーフ」をもって翻訳者が翻訳を行なったとしても、けっして「純粋言語」に達することはできないし、また翻訳者がみずからの課題として遂行すべきとされる諸言語の「補完」とは、実のところ、「文字どおり」翻訳することでそれぞれの言語のうちに不協和をもたらし、その言語を動揺させ、他の言語と響きあう可能性へ向けて、「英語」、「ドイツ語」と数え上げうる言語を解体してゆくことである。とすれば、「多くの言語をひとつの真の言語に積分する」とは、あらゆる言語が、その「近代」的な桎梏を突破しながらモザイク状に響きあう、それこそ「オムニフォン」的な言語のありようを目指すものなのではないだろうか。それに、「純粋言語」の概念をただ「帝国」的なものとして打ち捨ててしまうことは、その概念をもってベンヤミンが語ろうとしている言語そのものの創造力や表現力を見すごしてしまうことにもなるだろう。
 こうした問題を感じるとはいえ、管の『オムニフォン』が、「世界の響き」に呼応しうるような言語の実践の可能性を、「ピジンという生き方」としても指し示す、魅力的な著作であることに変わりはない。それはわたしたちを複数の言語へ、さらには「オムニフォン」の世界へといざなうのである。
 さて、最近読んだもう一冊の言語論とは、半ばそのタイトルだけに惹かれて古本を注文した、竹内芳郎の『言語・その解体と創造』(筑摩書房)である。絵について絵を描くことはできないが、言語については言語で語ることができるというメルロ−ポンティの洞察──それがほんとうに明察であるかどうかには、いわゆる「モダン・アート」の動きを考えるならちょっと首をかしげてしまうが──にもとづいて、言語が自己言及的に、日常言語から、文学的言語と理論的言語という二つのメタ・レヴェルへ階層化する必然性を述べて、当時も今も死に体を晒している「言論」の地位を理論的に確保したうえで、構造主義的な、さらにはそれ以後の言語論を批判的に検討し、「言論」が体現すべき「社会的伝達性」を本質とする言語の主体的で革命的な変成の普遍的な可能性を語る論理をチョムスキーの変換生成文法の理論のうちに求める竹内の執拗な議論は、たしかに今となっては時代がかって見えるし、また「文化革命」に言語を動員しようかという粘着質の熱さには、ついて行きかねるという思いも禁じえない。しかし、言語そのものの「非現実性」および「疎外」を論じているあたりは、傾聴に値するだろうし、またいち早くデリダのエクリチュール論に対して詳細な批判的論評を加えている点も興味深い。
 竹内のこの言語論で何よりも面白かったのは、ドゥルーズとガタリによる「マイナー文学論」を先取りするかのような議論を展開しているあたりである。竹内は、かつての支配者の言語であり、自分から同胞の言葉を奪った日本語で書く在日朝鮮人の言葉づかいに、この「日本語」のうちに不協和をもたらし、それを内側から解体してゆくようなポテンシャルを見て取っているのである。「在日朝鮮人作家たちの場合」には、「国語の既成性に発話の直接的な自己表出性を対置させただけではどうにもならぬこと、むしろ、己れの発話そのものさえ己れの〈内語〉となった敵の国語によって占拠されてしまっている以上、一旦は己れを徹底的に他者化し、敵の国語をそのまま受容しつつその逆用をもって敵の国語自体を破壊するという、詐術に充ちた迂路を経なければ自己発見すらもできぬことが、したたかに体験されているのである」。そのように、スピヴァックふうに言えば、一つの言語を「学び捨てる」ことでその言語を内側から、そこに潜在する未聞の響きへ向けて解体し、「国語」であるといった言語の「近代」的桎梏を乗り越えてゆく、そうして他者とのあいだに新たな関係を築いてゆく可能性を、言語そのもののうちに見いだすことに、竹内が成功しているとは言いがたい。とはいえ竹内は、言語そのものの「非現実性」と「疎外」ゆえに、言語のうちに住まうことはできないこと、そしてそのことが「語る」可能性に転じうることに気づいていたようである。そして、彼によれば、「国語」の重圧を感じ、自分の言語に違和感をおぼえるところにこそ、言語の創造的な変成の出発点があるのだ。「言語創造の場そのものでも働くコトバの社会的既成性の重圧(……)を自覚的にひき受ける覚悟のない言語観は、どんなに革命的意図に貫かれていても、所詮は真のコトバの創造を基礎づけるには至らぬであろう」。

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2005年9月 7日 (水)

石原吉郎の問い

 最近講談社文芸文庫から出た『石原吉郎詩文集』を、重い感銘をもって読み終えた。石原吉郎が自分自身に向けていた問いが、読んだわたしの肩にずしりとのしかかっているように思われてならない。
 この『詩文集』には、まず石原が「もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動」と「失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志」をもって書いた詩の精選が収められているが、なかでも「事実」と題された一篇において示される、起きてしまったことを、その「事実」が「うすわらい」を始めるまでに凝視するまなざしは、読む者を突き刺すほどの鋭さをもっている言えよう。そのように事実をその内側から照射するようなまなざしをもって、石原は、代表作とされる「葬式列車」を書いたのだろう。その詩では、名前を失って「まっ黒なかたまり」と化した人間の群れ──そのなかに石原自身も交じっていたかもしれない──が、貨車に投げ込まれ、運ばれてゆくなかで、生きたまま「屍臭」を放ち始め、亡霊と化してゆくさまが、凄まじいまでの鋭さをもって、しかし静かさに貫かれた筆致で描き出されているのである。
 起きてしまった「事実」へのそのような鋭いまなざしをもつこと、それは石原の言葉で言えば、彼自身の「位置」に立つことにほかならない。石原は、8年間ものシベリア抑留を経験しながら、けっして声高に他人を告発することなく、静かに自分自身の「位置」に立とうとした。しかも、彼はそのこと自体に仮借のない問いを向けたのである。詩の後に収められた評論を含む散文、そしてとりわけ彼が断続的に綴った日記ふうのノートは、自分の「位置」に立つことへの問いに向きあい続ける石原の歩みを示すものといえよう。
 みずからの「位置」に立つことを問うとは、石原にとってはとくに、詩を書く自分自身の言葉と、言葉を語る自分が、他ならぬ自分であることとを問うことであった。それに、この二つの問いは不可分だったのである。彼が言語をつねに「失語」とのかかわりで問題にしていたことはよく知られていようが、「失語」に陥るとは、石原によると、「ことばの主体がすでにむなしい」がゆえに、「ことばに見はなされる」ことなのだ。それゆえに、「ことば」を問うとは、つねに「ことば」を語る「主体」としての自己のあり方を問うことなのである。
 とすれば、石原にとって「ことば」とは、それを語る者自身を他者へ向けて差し出すものであることになろう。実際彼は「失語と沈黙のあいだ」という文章のなかで、「ことばはじつは、一人が一人に語りかけるものだと私は考えます」、と述べているのである。さらに自分の詩を、こう「ひとすじの呼びかけ」と規定している。「ひとすじの呼びかけに、自分自身のすべての望みを託せると思ったからです。ひとすじの呼びかけと私がいうのは、一人の人間が、一人の人間にかける、細い橋のようなものを、心から信じていたためでもあります」。このような、詩を「投壜通信」と規定するパウル・ツェランを思わせる身ぶりで、石原は、言語が第一次的に他者への「ひとすじの呼びかけ」であることを指摘するのである。彼によれば、そのことを忘却するとき、人間は──たとえ饒舌に話しているように見えても──言葉を語る自己とともに言語そのものを失うのだ。そのような危険を身をもって経験しながら、石原は自分の「ことば」に厳密であろうとした。彼が照らし出した言語の深層を踏まえながら、この言葉を銘記しておかなければならないのだろう。「言葉は厳密にもちいねばならぬ。詩を書くことが生きることへの確証であるなら」。
 このようにみずからの言葉を研ぎ澄ませながら、石原は自分自身を、その孤独において問い詰めていった。そのことを衝き動かすきっかけになったのは、シベリアにおける抑留生活と、そこでの鹿野武一という徹底的な「ペシミスト」との出会いであったようだ。それをつうじて石原は、「自己という存在」が「徹底的な例外であって、徹底的に例外でない」ことを洞察する。彼によれば、自分自身であろうとするとき、この二つの相矛盾した命題のあいだにある断層を孤独のなかで目のあたりにしなければならないのだ。そこにある「絶望」を、キルケゴールは「死に至る病」と呼んだ、と石原は言うかもしれない。そして、自分が自分であろうとする「絶望」のなかに浮かびあがる孤独、それを石原は数ある状態のなかの一つとは考えていなかった。「孤独ということは〈存在〉と同義なのだ」。人間は、「はじめから孤独のなかに居り、一歩も孤独からでていないのだ」。
 石原は、そのような人間にとって本質的とも言える孤独を美化しようとはしなかった。孤独のなか、自分自身であり続けようとするとき、他の人間は、自分に対する脅威として立ち現われることもある。そして、そのように他者を敵視するところから、他者との関係を築くこともできるのだ。そのような孤独への深い洞察が、他者との関係への冷徹なまなざしに結びついている。石原は、ノートのなかにこう書きつけることもできたのだ。「理解しあい、手をにぎりあうことだけが連帯なのではない。にくみあい、ころしあうこともまた連帯である」。
 このような、石原を彼自身の「位置」に追い込む、言語とそれを語る自己への鋭い洞察、そしてそれに結びついた彼の問いは、「立ちどまる」ことから始まっている。その重要性について、彼はこう語っている。「私が立ちどまるとき、私は階段を一つ降りる。生きることがそれだけ深くなるのだ。なぜなら、立ちどまる時だけ私は生きているのだから」。わたしも立ちどまるところから始めなければならないのかもしれない。そうすると、彼の問いがずしりとのしかかってくるのも確かなのだけれども。
 最後に、石原が1956年の9月11日に、ノートにこのような言葉を書きつけていたのを紹介しておきたい。「敵を恐れるな──やつらは君を殺すのが関の山だ。/友を恐れるな──やつらは君を裏切るのが関の山だ。/無関心なひとびとを恐れよ──やつらは殺しも裏切りもしない。だが、やつらの沈黙という承認があればこそ、この世には虐殺と裏切りが横行するのだ」(ヤセンスキイ『無関心な人びとの共謀』より)。饒舌に映る「沈黙という承認」が近づくかに見えるなか迎える次の9月11日に向けて、銘記しておきたい言葉である。

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2005年8月31日 (水)

ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』

 ジョルジョ・アガンベンの『開かれ──人間と動物』(岡田温司+多賀健太郎訳、平凡社)を、遅ればせながら読み終えた。ベンヤミンの思想に関心をもつわたしにとってはとりわけ刺激に富んだ著作であった。
 この『開かれ』においてアガンベンは、あらゆる政治体制のうちに内在化されるかたちで晩年のフーコーが言う「生政治」が全世界を覆いつつある状況の内部に、その「生政治」が機能不全に陥る可能性を探っていると考えられる。つまり、絶えず「人間」と「非人間」を分割し、「人間」であるか、それともたんなる「動物」であるかを決定し、そうして──アガンベンに言わせれば「開かれざるもの」を「開く」ことによって──暴露された「剥き出しの生」を管理し、一定のかたちで生き残らせる、言わば「収容所」を含み込んだ「生権力」の支配が常態化している状況のただなかに、「例外状態」が、その力がおよびえない場所が、ひとつひとつの生そのもののうちに開かれる可能性を探ろうとしているのではないか。そしてその場所の名こそ、「開かれ」にほかならないだろう。
 この「開かれ」についての考察が、ここでのアガンベンの中心的な課題であることは言うまでもないが、このハイデガーが「人間」のうちに見て取り、「動物」に認めなかった世界への「開かれ」の真相が示されるのは、アガンベンによれば、ハイデガーが「形而上学の根本諸概念」についての講義において長大な考察を充てている「倦怠」、それも「深き倦怠」においてである。なすべきことをもたず、気晴らしだけを求める「倦怠」のなかで、人間は存在者の「閉ざされに開かれている」。そのことを指摘するハイデガーは図らずも、彼にしてみれば人間に固有の「開かれ」が、「開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない」のに触れているのである。「開かれや存在の自由は、暴露されざるものそのものの顕現であり、開かれを見ないヒバリの宙づりにして生け捕りなのである。動物の放心とは、人間界とその開かれの中心に象嵌された宝石にほかならない。「存在者が存在する」という驚異とは、露顕せざるもののうちに曝されることによって生物のうちに生起する「本質的な震撼」をつかまえることにほかならないのだ。実際、開かれは、この意味で、不合理な説明なのである。つまり、開かれにおいて賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである」。
 そのように、世界への「開かれ」が実は、存在者の「閉ざされ」に曝されることであり、「人間」と「非人間」の区別が宙づりにされる場面を指し示していることに触れながらも、アガンベンによれば、ハイデガーは「人間」と「動物」の関係の不可能な決定のうちに「民族」の歴史的命運を見るとともに、その命運が芸術作品のうちに示されると語っている。これに対してベンヤミンは、芸術作品のうちに、「おのれ自身へと送り返された」、「いかなる昼も待望することのない」自然の「救出された夜」の表現を見ている。それはハイデガーの言う「露顕せざるもの」を、そのようなものとして救い出す可能性を示しているのだ。さらに、ハイデガーが指摘するように「芸術」と同じ起源をもつ「技術」は、ベンヤミンによると、「人間」が「自然を支配する」ためのものではなく、「自然と人類のあいだの関係を支配する」ものでありうるのだ。アガンベンは、その「関係」のうちに、「人間」と「非人間」を区別する決定を「静止状態」において宙吊りにする「星座」を見て取っている。そして、その「星座」をなす「隙間=戯れ」を、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」において語っている「自然と人間の協働=共同遊戯」と重ねあわせたい、という誘惑に駆られるのは、わたしだけだろうか。
 アガンベンが『開かれ』の冒頭で取り上げる、13世紀のヘブライ語聖書の写本に描かれる動物の頭部をもつ義人たちの形象、それは「人間と動物のいずれをも存在外へと存在せしめ、本来的に救うことのできない存在のうちで救済を果たす「大いなる無知」の形象」であるという。その「大いなる無知」が、「生政治」に覆われたこの世界のなかで、具体的にどのようなかたちで実現されうるのか、あるいはそれによってどのような「星座」が形成されうるのか、さらにはそれによって、どのように「生権力」が停止され、「救われざる残余」が救済されうるのか。この点は、アガンベンは明らかにしていない。これを衝いて彼を「修辞的」と批判することもできようが、「大いなる無知」の可能性を考えることに読み手をいざなうだけでも、彼の『開かれ』には大きなインパクトがあると言うべきであろう。

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2005年8月21日 (日)

「近代」を問いただす新書二題

 鹿児島へ帰省しているあいだ、最近出た新書を二冊読み終えた。
 一冊は徐京植の『ディアスポラ紀行──追放された者のまなざし』(岩波書店)。「近代の奴隷貿易、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリズムなど、何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔」と定義される「ディアスポラ」たちの生の痕跡を、あるいは彼/彼女たちが受けた暴力の痕跡を、現代美術をはじめ、音楽、文学など芸術作品のうちに、あるいは芸術家たちの生きざまのうちに探る、ロンドン、光州、カッセルなどへの旅の軌跡を描くエッセイである。自明な家郷をもたず、自分は何者なのか、自分が話す言葉はいかなる言語なのかをつねに問いつづけなければならず、それゆえ生につなぎ止める絆は弱く、存在証明と死のあいだを漂いつづけなければならない一人の「ディアスポラ」、すなわち在日朝鮮人二世として、徐はここで、こうした「ディアスポラ」たちの生の痕跡を読み解くことをつうじて、「国民国家」や「植民地主義」の「近代」の歪みや矛盾を鋭く照らし出すとともに、その先に「植民地主義やレイシズムが押し付けるすべての理不尽が起こってはいけないところ」としての「真実のくに」というユートピアを遠望している。
 そのような徐の省察をたどりながら、彼がヴァーグナーの音楽にアンビヴァレントな感情を抱きつつ惹かれていること、最近そのヒロシマ賞受賞展を見たシリン・ネシャットが光州ビエンナーレでもグランプリを獲得していることなどを知ったのだけれども、とくに印象に残ったのは、パウル・ツェランの詩作に寄せた一節である。徐は、ツェランがみずからの詩を「投壜通信」にたとえていることに触れて、それは「いま目の前にいるドイツ語を解する人々に自分の詩が受け容れられることはほとんど期待していないということではないか」と指摘している。自分のホームページに「投壜通信」というタイトルを付けているわたし自身にもそうした思いがないかと訊かれるなら、とても否認できない。たしかに「国語」としての「日本語」を話す「日本人」に読んでもらいたいなどとはまったく思わない。いつか誰かが書いたものを拾ってくれるかもしれない。その誰かがそういう「日本人」である必要はどこにもないのだ。
 徐によると、ツェランは「生まれ育った多言語・多文化の領域(多様な言語文化が息づいていた故郷のチェルノヴィッツ)が諸国家の暴力によって破壊され、精神的なきずなとしての「母語の共同体」が消滅した後も、詩人は母語そのものを自らの「母国」とし、また、詩を書くという行為そのものを「母国」として、終わりのない放浪を続けた」。わたしは、そのあてどない旅のあいだも、ツェランはその「母語」を、それとともに詩作という「母国」をつねに問いなおしては生成させ続けていた、と考えたい。だからこそ、その旅は「終わりのない放浪」なのではないか。そしてそう考えるとき、「母語」、「母国」といった言い方にはやはり違和感をおぼえる。とはいえ、ツェランの詩作についての徐の省察は、このようなあてどのない「ディアスポラ」の旅の軌跡のうちに、「近代」の桎梏を突き抜ける可能性が秘められていることを気づかせるとともに、現実には彼のいう「ディアスポラ」ではない自分が、その可能性を引き受けて終わりのない旅へ一歩を踏み出すことを勇気づけるものだった、と言わなければならない。
 ところで、鹿児島で読んだもう一冊の新書は、目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK生活人新書)である。こちらは、今も続く「日本」の「近代」によって「本土」のための犠牲にされつづけている沖縄人、それも肉親から60年前の沖縄戦の記憶を継承する沖縄人の視点から、今や「戦後」でも「戦前」でもなく、「戦時」にほかならない今につながる「日本」の「近代」の問題を、厳しく問いただすとともに、目取真俊という作家の創作活動の背景もうかがわせる一冊である。
 今なお「本土」の「防波堤」として、日本全体の75パーセントの米軍基地を抱える沖縄に身を置くとき、日本がアメリカの「テロとの戦争」に自衛隊の対外派遣をもって加担する今が、「戦時」にほかならないことが浮かびあがってくる。そして、その今と沖縄戦の過去を関係づけるとき、軍隊が市民をけっして守らないことを露呈させ、あまりにも多くの沖縄の若者を「国のため」の死に追いやった沖縄戦の問題が何ひとつ解決されていないことも見とおされてくる。そう、沖縄戦はほんとうは終わっていないのだ。では、「戦後60年」の今を「戦後ゼロ年」にするためにはどうすればよいのか。まずは沖縄戦が露わにした問題が解決されていないこと、否、それどころか「基地問題」というかたちで沖縄の人びとのうちに抱え込まれたままだということを見抜かなければならない。現在に戦争の過去を──場合によっては身体のうちに──執拗に差し挟み、時の流れを寸断する目取真俊の小説の書き方は、それを見とおすきっかけをもたらそうとするものなのかもしれない。
 もう一つ目取真がここで照らし出しているのは、沖縄を「癒しの島」として喧伝するイデオロギーが、沖縄が抱えている問題を覆い隠すばかりか、沖縄を「捨て石」とし、犠牲にすることを可能にしてきた沖縄の人びとに対する「本土住民」による差別を隠蔽するイデオロギーにほかならないことである。さらに彼は、このイデオロギーによる沖縄文化の神話化が、天皇制を神話化するナショナリズム、さらには文部科学省が押し進めようとする「心の教育」による「国のため」に命を捧げる「国民」の訓育とも共犯関係にある、ということも指摘している。
 目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』。沖縄を訪れるなら、その前に必ず読んでおかなければならない一冊と思われる。

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2005年8月11日 (木)

守中高明の『法』

 前から気になっていた守中高明の『法』(岩波書店)をようやく読むことができた。法そのものについてだけでなく、法と言語のかかわりとともに、法をめぐる自己と他者の関係をも、現代的なコンテクストのなかで考えさせる読みごたえのある一冊と言えよう。とりわけ、現代日本における法、とりわけ憲法をめぐる深刻な問題を含んだ状況を批判的に浮かびあがらせながら、法自体に内在する力ないし暴力を見すえたうえで、法をその可能性において問題化している点が印象に残る。
 ハート、ルーマン、デリダの法理論を突き合わせて、法についての現代的な議論のコンテクストを浮かびあがらせたなかで、ベンヤミンの「暴力批判論」を読みかえし、彼が「神的暴力」と呼ぼうとした、法の内側からその自己措定的にして自己保存的な「神話的暴力」を中断させる力を「市民的不服従」のうちに探る守中の思考は、さらに現代の日本のなかで不服従の「原−形象」アンティゴネーのように生きる可能性を見届けようとする。守中は、国旗と国歌の強制やいわゆる「有事法制」など、現代日本における、国家権力の犠牲となる「国民」の訓育が押し進められつつある状況を象徴する問題を抉り出したうえで、それに対する非暴力的抵抗の可能性を、「歓待の掟」にもとづいて「来たるべき正義」を求める法の脱構築のうちに求めるのである。
 他者を歓待するとき、他者を迎え入れる者の自己が、そのアイデンティティが動揺させられ、さらにその言語、とりわけその母語の同化の暴力が問いただされる。そして、レヴィナスが指摘するように、「言語活動の本質とは友愛と歓待である」ことを見つめなおすことが迫られるのである。その際、この「友愛と歓待」を実践する翻訳の可能性が問われなければならないのは言うまでもない。それは、差し迫った問題でもある。脱−固有化としての「歓待の掟」は今日本で、難民たちの歓待というかたちで実現されなければならないのだ。さらに守中高明は、歓待への問いを、死刑への問いへ結びつけてゆく。「同害刑罰」という「計算」の彼方にある他者との関係、とくに赦しという観点から、日本に今も権力の存続のために生き存えている死刑が問いただされなければならないのだ。
 このように、法をめぐるアクチュアルな問題を浮かびあがらせながら、法そのものについての省察というかたちでそれに立ち向かおうとする守中高明の強靱にして繊細な思考は、前著『脱構築』のときと同様、ベンヤミンにもとづいて言語をその可能性において問う自分自身の思考を現代のコンテクストのなかに位置づけ、問いただす大きな刺激となった。
 最後にこの『法』のなかで最も印象深い言葉を引いておきたい。「「市民的不服従」の賭札はいたるところにある。クレオーンの法に叛き、来たるべき真実の法の到来に賭けてひとすじの弔いの砂をさらさらと落としたあのアンティゴネーの白い指先は、われわれの未来に属しているのである」。

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2005年8月 9日 (火)

管啓次郎と翻訳

 最近読んで面白かった本のなかに、管啓次郎の『コヨーテ読書──翻訳・放浪・批評』がある。最近では移民や亡命者たちの作品を中心に、アメリカのマイノリティの文学の翻訳を手がけている彼の、言語への深い洞察にもとづいて翻訳すること自体を論じたエッセイとともに、生活に根ざしたマイノリティたちの文学の世界への想像力をかき立てるエッセイの数々も収められていて、久しぶりに読書の楽しみを味わうことができたし、また言語について考える刺激も得られた。何よりも、言語の、というよりも言葉を語ることの深層に翻訳を見届け、また翻訳を通過すること、さらに言えば翻訳を経験することを、文学にとって根源的な経験として語っている点に共感する。
 「翻訳人、新しいヨナたち」と題されたエッセイで、彼は白鳥正宗と小林秀雄に触れながらこう述べている。「ここで「翻訳」という言葉に、少なくともふたつの層を区別したほうがいいかもしれない。積極的に翻訳をおこなうことを活動の中心にすえる決意をする批評家がここで念頭に置く翻訳が、そのもっとも根源的な層においては、単に外国語で語られた思弁の反復や理論の適用などではないことは、明らかだろう。あらゆる思考の発生の瞬間にある翻訳──見慣れないもの、徹底して異質なものを稲妻の閃光のうちに見とり、本当には語りえないその残像を言葉で包囲しながら、暴力的に切りつめ、精密さを断念しつつ文の網にすくいとってゆく行為──に、彼はここでふれている。/そうした翻訳にとっては、じつはオリジナルが外国語か自国語かというちがいは、結局どちらでもいい。けれども同時に、通常の意味での「翻訳」という行為がもつ圧倒的な厚みと力を無視することはできない。外国語と格闘し、あるいはその翻訳文(それはすでに一種の外国語だ)を苦労しつつ読むという抵抗に満ちた迂回を経てはじめて、人は自国語内の翻訳というぎこちなく苛立たしい経験さえも発見できるのだ、いかに多くの言葉が、われわれにとっては見慣れないものであることか。あるいは、その見慣れなさが突如として流れる水晶の輝きをおび、われわれの生に(たとえそれ自体は無意味であっても)輝かしい読点を打つことか。そうした経験がたしかにあると信じられるからには、小林のいう「翻訳文学者」を単に「文学者」と呼んでもさしつかえないだろう。それは異質な思考、異質な言葉のアレンジメントを、ある言語に注入しようと試みる者のことだ。「国語」の安定に奉仕し、飼い馴らされた文章の整然としたふるまいのみを期待する者は、「文学」という経験の動揺にはそもそも何の関係もない。あるいは「翻訳」という迂回がないところに、「文学」はない」。とても長い引用になってしまったが、翻訳についてのまれに見る深い洞察を示す言葉として、引いておきたかった次第である。
 このような言語の生成の根源に翻訳を見届け、その視点からいわゆる翻訳を見つめなおす洞察を、管は自身の実践に活かしている。彼は、マイノリティの文学者が英語、スペイン語、ポルトガル語といった複数の言語を行き来しながら自分の世界を織りなす言語を生成させているさまを、みずからが行なう翻訳のうちにすくい取ろうと試みているのだ。その作業日誌とも呼ぶべきエッセイも、じつに興味深い。
 「一つの言語(たとえば英語)で書いていようとも、その英語使用の影で表面化せずにとどまっている時間的・空間的コンテクストと、そこに響きわたる他のさまざまな言葉を、救出しようとする態度」としての「オムニフォン」を論じた管の近著も読んでみたいと思っている。

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2005年8月 7日 (日)

幸運という名の女性

  先月末、二度にわたってコロンビア大学のキャロル・グラックの話を聴くことができた。日本近代史を専攻し、日本語を巧みに操る彼女は、一般向けの講演では、日本語で講演したうえ、明確な日本語で会場からの質問に応じていた。そして、広島国際会議場で行われたシンポジウムの折には、これまた明確な英語で、平和へ向けてヒロシマの記憶を普遍化する希望を決然と語りかけていた。そうした彼女の学者としての態度、とりわけどのような質問も真摯に受けとめようとする態度には感銘を受けるとともに、学ばせられた。
 二度にわたる講演のなかで、彼女が一貫して強調していたのは、ヒロシマにまつわる単純化された内向きの「被害者」物語を乗り越え、それを解体して、普遍的に、人類へ向けて平和を呼びかけるようなヒロシマの「パブリック・メモリー」を形成する可能性である。その責任をとりわけ若い世代が引き受けていけるために考慮しなければならない条件を彼女は三つ挙げていた。第一は、戦争や原爆の記憶はその地域を越えなければならない、ということ。第二は、歴史を語る枠組みを広げ、一つの戦争をたの戦争と結びつけること。第三は、ナショナル・メモリーないしナショナル・ヒストリーという制約を乗り越えて、さまざまな記憶が響きあうのを聴き出すこと。
 第二の条件に関して、わたしは、彼女の同僚だったエドワード・サイードが『知識人とは何か』のなかで述べていたことを思い出す。そこで彼は、一つの苦難の出来事を、他の苦難の出来事と結びつけながら、そこに或る問題を人類の問題として提起することの重要性を語っていたのだ。また、第三の条件に関しては、テッサ・モーリス−スズキが語っている「歴史の真摯さ」を思い出す。単純なひと続きの「国民の歴史」を解体して、それが抑圧するさまざまな記憶の配置を、その複雑さを捨象することなく描き出していかなければならない。そうした条件を踏まえながら、「未来を記憶する」こと。キャロル・グラックのこの言い方を、わたしなりにパラフレーズするなら、わたしたちの未来へ向けて、さまざまな記憶の抗争をはじめ歴史的プロセスにまつわる複雑さをけっして捨象することなく、過去の出来事を地域を越えた普遍性へ向けて記憶してゆくこと、そうして世界的な「パブリック・メモリー」を形成すること、ということになると考えられる。それをつうじてこそ、「ヒロシマ」も「ホロコースト(ショアー)」に比肩する普遍性を獲得するのかもしれない。このような彼女の話を聴いたのにもとづいて、「ヒロシマ」を記憶することについて考えてみたことは、以下のURLに掲載しておいた。http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Memory_of_Hiroshima.htm
 ところで、講演の後、彼女と個人的にいろいろ話をすることができたのは大きな幸運だった。ヴァルター・ベンヤミンについてのわたしの仕事に大きな関心を示してくれたし。シンポジウムの後でいくつか論文を渡したら喜んでくれた。
 それからしばらくして、彼女からメールが届いた。「このあいだは、あなたの仕事の話も聞けて嬉しかったわ。あなたのハイデガーとベンヤミンについてのエッセイも楽しみにしているのよ」。同封しそこねたその古い論文を探し出して送ったことは言うまでもない。
 ちなみにキャロル・グラックのファミリー・ネームGluckは、もとはドイツ語で「幸運」や「幸せ」を意味する語だろう。幸運という名の女性との出会い、大切に胸に刻んでおかなければならない。

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