2006年10月21日 (土)

ベルリン旅日記:10月20日

 今日の夕方の飛行機でベルリンを発って帰国するので、スーツケースを引きずりながらベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ向かう。これまでほとんどずっと晴れていたのだが、今日ばかりは天気が悪く、朝から半ば霧雨のように小雨が降っていた。
 この日のベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムは、デートレフ・シュテッカーの基調講演で幕を開けた。「ウィトゲンシュタインを読むベンヤミン」と題されたその講演は、豊富な資料を駆使して、ベンヤミンがウィトゲンシュタインの存在を意識していたことを示していたが、二人の言語哲学に深く分け入るものではなかった。両者がともに、主観的な志向を越えたものとして言語をとらえようとしているのは確かだとしても、それが「体系」であるというシュテッカーの見解も首肯しがたいところである。言語の生成を活性化させようとするベンヤミンはとりわけ、言語を「体系」としてとらえる考えからは遠いはずだ。その講演が終わった後、ベンヤミンにおける聴覚的モティーフをテーマとする分科会に参加する。ベンヤミンのエッセイに描かれるノイズや音響が、時の流れを中断しながら想起を誘発していることを際立たせ、ベンヤミンにおける想起をそうした音への応答として描くアンヤ・レムケの発表がとりわけ印象的であった。書物における声の救出というモティーフを主題としたクリスティーネ・イヴァノヴィチは、発表の最後に、ベンヤミンの思い出をアドルノやブロッホといったかつての友人に語らせる自由ベルリン放送のインタヴューを、ややラップ風に編集したものを聴かせてくれた。会場は大受けであった。
 午前のプログラムが終わったところで会場を後にし、テーゲル空港へ向かう。フランクフルトから成田へ行く飛行機が取れなかったので、今回はエール・フランスの便でいったんパリへ向かい、パリから成田へ飛んだ。そのあいだベルリンの新聞ターゲスシュピーゲル紙を拾い読みしていたが、「ベルリンは貧しくない」、「それゆえ連邦政府の特段の補助を必要としない」という憲法裁判所の判断に対する反応がほとんどの紙面を占めている感じである。ベルリンが自活していかなければならないとすれば、文化事業や社会事業の「節約」が当然強いられるわけだが、なかでもまず問題となるのが社会福祉事業の縮小である。新たな経済的格差が社会を引き裂いていること、さらに希望をもてなくなった人びとが子どもを虐待したりといったことが毎日問題となっているだけに、社会福祉の緊縮は、こうした格差の問題を放置することとも見られかねない。他方で文化をより開かれたものにすること、つまり教育を受け、芸術に触れる機会を広げることもけっして軽視されるべきことではないはずだ。あるコラムのなかに、「本を読み、じっくりと考え、そして劇場へ出かける者は、貧しいかもしれないが「下層」ではない」と書いてあった。経済的な所得はけっして多くなくとも、生の芸術に触れ、生きることの奥行きを感じ、その意味を噛みしめることができること。そのことは、奥深いところで生きていることを喜び、生きることに希望をもつことにつながるはずだし、また「階級」や「階層」を突破しながら生きることを変えることにもつながるはずだ。その可能性は、ベルリンにおいてはある程度確保されていよう。そして、芸術の経験をつうじて生きることを内側から変成させる可能性をすべての人びとに対して開いてゆくことは、「格差社会」化が語られるようになって久しい日本に生きるわたしたちに今課せられている課題でもあろう。

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2006年10月20日 (金)

ベルリン旅日記:10月19日

 今日も午前中から国際ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムに参加する。午前中の基調講演を担当したベルント・ヴィッテは、文化的な記憶、そしてその伝承がいかにその媒体に依存しているかを論じていた。伝承の媒体が歴史的な人間の言語となり、それとともにたとえばユダヤ教のトーラーが無限に解釈可能となったことを「ディアスポラ」と結びつけていたあたりは興味深かったものの、物語的な伝承、印刷された文字、近代国家の記念碑的建築と変化していった記憶の媒体が、20世紀に至って文学となり、今やその注釈に文化的な記憶の伝承がかかっているとする議論は、制度的な学問としての文学研究の自己正当化を志向しているように思えて、ややついて行きがたい。
 ベンヤミンの哲学の反体系性をテーマとする分科会へ行ってみると、二つの発表がキャンセルされたようで、発表は一つだけ。若いベンヤミンのソクラテス批判を取り上げながら、ベンヤミンが評価するプラトン的対話を「トラクタート」の概念と結びつけようとするものだったが、対話ということとベンヤミン自身の方法とを接続されるためには、もう少し詰めておかなければならないことがあるように思われた。それに続いて昨日の発表者を交えて討論が行われた。若い研究者たちが今ベンヤミンを読む可能性を熱く論じあう姿に触れることができたのは貴重な経験だったし、またその該博な知識にも驚かされた。それに比べたら自分はまだまだ勉強不足である。
 いったん宿に戻って少し本を読んだりした後、今度は国立歌劇場のアポロザールへベンヤミン・フェスティヴァルの午後のプログラムを聴きに行く。室内楽の演奏会やオペラ公演のアフタートークの会場として用いられることの多いこのホールで、ジョルジョ・アガンベン、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ステファヌ・モーゼスという世界的に知られた三人の哲学者の講演が行なわれるわけである。
 会場で空席を見つけて座ると、一列後ろの女性が携帯電話で「アガンベンは病気よ」と話している。ジグリット・ヴァイゲルによれば、アガンベンは今朝になって突然来られないと連絡してきたとか。病気か仮病か定かではないが、アガンベンが今ベンヤミンについて何を語るか楽しみにしていただけに残念である。とはいえ、ディディ=ユベルマンの講演もモーゼスの講演も興味深かった。とくに、コソヴォで撮られた家長の死を悲しむ家族の写真をモデルに制作されたレリーフを例に用いながら、その未完結性によって一回的で特異なものの記憶を甦らせるイメージの可能性を論じたディディ=ユベルマンの講演は、現代にベンヤミンを生かす道を説得的に示していたように思う。「パサージュ」としての、あるいは「根源」としてのイメージ、その反復、そして複製のうちに一回的なものが新たに見いだされるのだ。それを媒介する「解読」は、ディディ=ユベルマンによると「イコノロジー」の対極にあるという。モーゼスの講演は、ベンヤミンのうちにユダヤ神秘主義の伝統の継承を見て取りながら、『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」に見られる「原聴取」の概念が代表する聴覚的なモティーフがベンヤミンの思考のうちに一貫して見られることを強調するもの。ベンヤミンとショーレムがバベルの塔の建設と結びつける堕罪とともに失われた根源的な真理を聴覚的に復元しようという志向が、ベンヤミンの思考を貫いているというのである。
 夜はフィルハーモニーへベルリン・フィルの演奏会を聴きに行く。指揮はサイモン・ラトルで、シューマンとブルックナーの第4交響曲というプログラム。シューマンの第4交響曲は、1841年の初稿で演奏された。ちなみにブルックナーは、1878/80年のノーヴァク版。シューマンの第4交響曲を、楽章のテンポがイタリア語で記されている初稿で演奏すること自体、ラトルのシューマンへのアプローチのありようを示しているのかもしれない。ラトルは、少なめの弦楽器の編成で見とおしのよい響きをつくりながら、リズムの躍動を強調していたように思う。とりわけ、第1楽章と終楽章の主部における音楽の生命感には瞠目させられたし、第1楽章のコーダへ向かうテンポの運びもスリリングであった。目まぐるしくテンポが変化するなかでも響きを濁らせることのないベルリン・フィルの合奏能力にも、あらためて驚嘆させられる。とはいえ、リズムの躍動に力点が置かれるぶん、音楽の横の流れは後退し、それとともにこのシューマンの作品全体を貫く、そこはかとなく暗い緊張感も薄れてしまう。ラトルの指揮だと、すべての音が表に出てしまって、シューマンの音楽に必要な響きの奥行きと潤いが失われてしまうのだ。それゆえ、どのフレーズもたしかによく歌われているのだけれど、表情がどこか明るすぎてしまう。第3楽章まで短調で書かれているのを忘れてしまうくらい。また、スケルツォとフィナーレには、音楽の流れに実によくはまったルバートが見られたが、表現として少し表面的な感じも否めない。生命感に満ちた、鮮やかな、しかしあまりにも晴朗なシューマンだった。
 ブルックナーでは、ラトルの細やかな音楽づくりが印象に残る。メロディーに応じてトレモロの伴奏にも実に細かくダイナミクスの変化が付けられていたし、転調に応じて響きもさっと表情を変える。それによって、「ロマンティック」と作曲者自身が呼んだこの作品に特徴的なメロディーの美しさが引き立つのである。朗々としたソロを聴かせてくれたホルンをはじめ、管楽器奏者の巧さも光る。いや、管楽器のソロ以上に輝いていたのは、ヴィオラ・セクションのアンサンブルであろう。一本の楽器で弾いているように聴こえるほどのまとまりを見せながら、温かい深みをもった響きで、第2楽章の長いメロディーを見事に歌いきっていた。その心に響く深い余韻も忘れがたい。
 ラトルは、シューマン以上にブルックナーを自分のものにしているようで、音楽の運びに余裕がある。基本的にゆったりとしたテンポを取りながらも、音楽の流れが停滞することはないし、逆にテンポが速められても、性急さを感じることはない。間の取り方も実に自然だった。響きは、シューマンのときと同様、晴朗な鮮やかさが支配的である。迫力あるフォルテのトゥッティの響きも、晴れやかで見とおしがよい。各セクションの動きも生き生きとしていて、そのことが音楽の躍動感を高めている。そのことがとりわけプラスにはたらいていると思われたのが、第3楽章のスケルツォ。リズムの躍動と響きの解像度をこれほどの水準で両立させた演奏は耳にしたことがない。第1楽章も、晴れやかな喜びに満ちていて、聴いていて心地がよい。しかし、第2楽章と第4楽章においては、シューマンのときと同様、響きのあまりの鮮明さが音楽の奥行きを減じてしまっているように聴こえた。フィナーレのコーダを聴いても、奥深いところから湧き上がってくるものにどこか欠けるのである。また、ラトルの響きの鮮明さと音楽づくりの細やかさが、ブルックナーの音楽に特有の素朴さないしは豪放さを奪ってしまっている感じも否めない。フィナーレには、几帳面さが音楽の力強さを損ねてしまっているところもあった。このように、音楽の奥行きやブルックナーらしさがいくぶん欠けていたし、またライヴゆえの惜しいミスもあったとはいえ、音楽の自然な流れ、生命感に満ちた音楽の力強い躍動、細やかな表情、そして響きの鮮明さを、これほどの完成度をもって兼ねそなえた演奏は、ラトルの指揮するベルリン・フィルならではのものであろう。最近のラトルに対しては「伝統的」な「ドイツ音楽」のプログラムへの取り組みに不熱心であるとの批判があるようだが、この日のシューマンとブルックナーの演奏は、ラトルにそのような批判を浴びせる人びとにとって、どのような回答と映っただろうか。

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2006年10月19日 (木)

ベルリン旅日記:10月18日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが本格的に始まる。ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーで行なわれたその学会に午前中から参加した。午前中は、ジクリット・ヴァイゲルの基調講演を聴いた後、ベンヤミンの思想の反体系性をテーマとする分科会に参加した。ベンヤミンにおける「世俗化」の弁証法を論じたヴァイゲルの講演において興味深かったのは、余すところなく世俗化された世界が再び神話によって覆われているところに言わば「覚醒」としての世俗化をもたらす可能性を示すものとしてベンヤミンの神学的モティーフがあるという論点と、「覚醒」としての世俗化の言語のありようを彼の「翻訳」概念が示しているという論点である。楽園的な起源から隔絶されて歴史の舞台に登場した言語のその起源からの距離を測り、言語の神話化の不可能性を示す「試み」としての翻訳。またその「試み」のためにジャーナリスティックなメディアを動員したとも言えるカール・クラウスにベンヤミンが注目したことの意味も、あらためて考えてみなければならない。分科会の発表のなかでは、シュテファニー・ヴァルドウのものに教えられる点が多かった。ベンヤミンの「純粋言語」の概念は、カッシーラーが神話的な命名のはたらきとして論じているし、またブルーメンベルクが「絶対的メタファー」と呼んだものとも関連するという。三者の関係を論じた彼女の本を読んでみなければと思う。
 昼休みのあいだ、ウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿で開催されていた、20世紀のヨーロッパにおけるマイノリティの迫害、追放、亡命を主題とする展覧会を見る。追放反対センターという団体が主催したこの展覧会「強制された道──20世紀ヨーロッパにおける逃亡と追放」は、第一次世界大戦期のトルコによるアルメニア人の迫害と虐殺から、1990年代の旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」までを扱っていた。ナチスによるユダヤ人のホロコーストを取り上げる一方で、第二次大戦後の東欧における残留ドイツ人に対する迫害やユーゴスラヴィアに残留したイタリア人に対する迫害も扱うなど、目配りは利いているし、歴史的な記述も詳しかったのだけれども、当時のドキュメントの実物の展示が少なく、展示としてのインパクトに欠ける感は否めない。とはいえ、わずかな生活用品の展示は、追放されることが、これまでの生活を、それが沈殿させてきた記憶を、その原風景とともに剥奪されることなのだ、ということを印象づけてくれる。
 午後、再び科学アカデミーで基調講演と分科会に参加する。サミュエル・ウェーバーの基調講演は、ベンヤミンがさまざまな「可能性」、たとえば「翻訳可能性」、「解読可能性」、「認識可能性」などを提示することで何を狙っていたのかをテーマとするものだった。通常コミュニケーションの可能性と理解される「伝達可能性」を分有する可能性ないし能力と理解していたこと、またその可能性そのものを伝達する言語に、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」でいう「一回的で極端なもの」たちを配置し、また一回的ないし特異なものの存在を証言する力を認めていたことが興味深い。「世俗化」のモティーフをテーマとする分科会では、「もう一つの世俗化」を論じたアーヴィング・ヴォールファールトの発表が圧倒的な印象を残した。世俗宗教としての資本主義とナショナリズムの共犯、そして原理主義の跋扈によって再神話化が進む現代においてベンヤミンを読み、そこからこの神話の脱呪術化としての世俗化の可能性を引き出す一つの行き方を、力強く示していたように思う。ヴォールファールトは、「複製技術時代の芸術作品」において提示される「第二の技術」のうちに「第二の世俗化」の可能性を見ると同時に、言語をもって神話化された歴史の過程に介入し、その連続性を破砕する可能性も語っていた。それを具体的に構想することこそ、喫緊の課題であろう。
 ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムが終わった後、国立歌劇場でパーセルの「ディドとアエネアス」の公演を見る。ツアーに出ているシュターツカペレに代わってピットに入ったのは、ベルリン古楽アカデミー。アッティーロ・クレモネージが指揮をつとめた。ベルリン古楽アカデミーは、いつもながら素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれたが、今回の演奏ではとくに表情の豊かさが光った。ピアニッシモでも響きが痩せないので、安心して音楽に身を委せることができる。他方で、フォルテの鮮やかさも実に爽快である。歌手たちの歌唱もすぐれていた。とりわけベリンダを歌ったデボラ・ヨークの巧さと、ディドを歌ったオーロレ・ウゴリンの心のこもった歌とが印象に残る。ヴォーカルコンソート・ベルリンの合唱も、舞台で複雑な演技をこなすなかでも美しいハーモニーを聴かせていた。
 このように、演奏にはほぼ満足できたのだが、サーシャ・ワルツの演出と振り付けには、正直に言って最後まで付いて行けなかった。歌とダンスを別々に担当させるのはよいとしても、同じ役を演じる人物が二人同時に舞台に登場するのにはどうしても違和感をおぼえるし、まったく音楽のないところでディドとアエネアスの物語と関係のない挿話風のダンスと演技が延々と続くのには閉口させられた。ダンサーたちの踊りはよく訓練されているけれども、舞台全体がつねに雑然としてしまう。プロローグで用いられた、登場人物を水族館の魚のように見せるプールの意味は最後までわからなかった。ワルツの演出は、パーセルの「ディドとアエネアス」を今に甦らせることではなく、ダンサーたちのパフォーマンスを見せることを志向した演出だったのではないだろうか。かつて北とぴあの音楽祭で見た、ほとんど能の舞台を見るかのような演出のほうが、よほど作品にふさわしいと思われる。演奏がすぐれていただけに、舞台が「ディドとアエネアス」という作品の印象を散漫にしてしまっていたのは悔やまれる。

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2006年10月18日 (水)

ベルリン旅日記:10月17日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが始まる。そこで、まずベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ行き、参加登録を済ませる。参加料の30ユーロを払うと、すべての講演会に通用するパスとA5判のプログラムが渡された。領収書を書いてもらっているあいだも、いろいろ苦情が舞い込んできて、フェスティヴァルを組織する側はさっそく大変そうである。
 その足で、ブランデンブルク門のすぐ脇のパリ広場にある芸術アカデミーを訪れる。そこで開催されている「ベンヤミンのアルシーヴ」と題された展覧会を見るためである。ベンヤミンのマニュスクリプト、彼が収集した絵葉書、彼が論じた玩具やパリのパサージュの写真などから構成されていたが、マニュスクリプトを見て驚いた。ベンヤミンが書く文字の小ささは噂には聞いていたが、これほどだとは思わなかった。ミネラルウォーターの広告が載ったホテルのメモ用紙と思われる紙に、あるいはレストランの勘定書きの裏面に重要なテクストが、5ミリ四方ほどの文字でびっしりと書き込まれている。また、同様に小さな文字で書かれた読んだ本のリスト、論文の構成に関するメモなどからは、彼の仕事の驚くべき緻密さがうかがえる。ベンヤミンの思考の空間の極微の緻密さに圧倒される展覧会であった。
 芸術アカデミーの本屋で、今となっては貴重と思われるベンヤミンに関する文献を手に入れ、いったんホテルの部屋に戻った後、今度は国立図書館へ行って、展覧会でもそのタイプ稿が展示されていた履歴書で影響を受けたとベンヤミンが語っている、エルンスト・レヴィという言語学者の「老いたゲーテの言語」という論文を読む。共同体のなかで習得した言語から出発しながらそれを独自の仕方で変容させ、「個人の言語」を形成してゆくさまが、ゲーテの『ファウスト』の第二部にそくして示されている。デリダなら「絶対的特有言語」と呼ぶであろうこの「個人の言語」が、また別の言語類型と類似しているのを発見するところに、この言語学者の本領があるのかもしれないが、ベンヤミンは、こうして詩的な言語が独特の仕方で言語そのものを変成させるところに関心をもったのかもしれない。このレヴィの論文以外に、ハイム・シュタインタールという言語学者が編んだフンボルトの言語哲学に関する著作のアンソロジーを借り出し、シュタインタールの序文を読む。フンボルトについて深い洞察を示しているとベンヤミンがショーレムに語っているものである。シュタインタールのフンボルト観が端的に表われているところを書き抜いておいた。
 何か食べようと図書館のカフェテリアに入ると、今日のおすすめということで、ジャガイモとズッキーニの入ったスペイン風オムレツを四角く切ったようなものが出ている。これを「グラタン」というのだそうな。このようなカフェテリアではお約束の厳めしいおばさんにそれを頼むと、巨大な一切れを皿に載せてくれた。すっかり腹一杯になってしまったのは言うまでもない。
 図書館を出て向かいのフィルハーモニーへ行き、当日券を買って、室内楽ホールでフィルハーモニア・クァルテットの演奏会を聴く。今年生誕百周年を迎えるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を全曲演奏するツィクルスの3回目として開かれたこの日の演奏会では、彼の第9番から第12番までの4曲の弦楽四重奏曲が演奏された。これらの弦楽四重奏曲はいずれも、1962年に初演された第13番の交響曲「バビ・ヤール」と第14番の交響曲「死者の歌」の間に書かれている。キューバ危機、アンドレイ・サハロフやアレクサンダー・ソルジェニツィンの迫害といった出来事によって、フルシチョフ時代の「雪解け」が幻想であったことが露呈しつつあった時期である。その時期にショスタコーヴィチ自身も、「バビ・ヤール」交響曲において、反ユダヤ主義、女性の抑圧、出世主義などを強烈に皮肉ったエフゲニー・イェフトゥシェンコの詩を用いたことで当局の批判を浴び、心身ともに弱っていた。そのようなショスタコーヴィチの苦悩が、これらの弦楽四重奏曲の苦渋と皮肉に満ちた形式に結晶していることは容易に見て取ることができよう。暖かなハーモニーはすぐに色褪せ、社会主義リアリズムを思い起こさせる民謡風の旋律はずたずたに引き裂かれる。
 そのようなショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を、フィルハーモニア・クァルテットは、驚くべき明晰さと充実した響きをもって演奏していた。第10番の弦楽四重奏曲のスケルツォのような荒れ狂う音楽においても、けっして響きが混濁することはない。他方で、亡くなったベートーヴェン・クァルテットのヴァイオリン奏者に捧げられた、ベートーヴェンの第3交響曲の葬送行進曲の主題の断片を自由に展開させたとも言うべき第11番の弦楽四重奏曲のエレジーをはじめ、悲哀に満ちた音楽も、説得力をもって迫ってくる。第1ヴァイオリンのダニエル・スタブラヴァがポーランドで抑圧的な体制を経験したことがショスタコーヴィチの音楽と響きあっているのだろうか。第12番の弦楽四重奏曲の十二音技法を思わせる展開も間然とするところがない。もう少し重苦しさと鋭さがあっても、と思うところもなくはなかったが、これほどの完成度をもってショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が演奏されることは、きわめて稀なことであろう。

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2006年10月17日 (火)

ベルリン旅日記:10月16日

 夕方まで国立図書館にこもって勉強する。ベンヤミンとハイデガーがフンボルトの言語哲学をどのように読んでいるかをまず調べてみると、読んでいるテクストが少し異なっているようだ。また、ベンヤミンに関しては、彼とフンボルトを伝えた言語学者が書いたものも見てみる必要がありそうだ。その著作が図書館に所蔵されていないか調べてみると、何冊かあるうちの1冊は戦争で失われたかもしれないとのこと。空襲と市街戦でこの街が一度は一面の廃墟と化したことがあらためて思い出される。
 それが用意されるまで時間がかかるので、その間ハイデガーの言語論を2篇読む。ハイデガーは、ベンヤミンと同様に言語を、語るはたらきにおいて、また名づけるはたらきからとらえようとしているが、それを遂行する言葉を、「伝説」とも重なる「言うこと」として、存在の出来事への聴従のうちに根づかせようとしている。その消息に分け入るなら、ハイデガーとベンヤミンの対蹠点を見いだすこともできるだろう。他方で、ハイデガーの「言語への道」には、ノヴァーリスへの言及とともに、言語が自己自身を語るはたらきに注目するという、ベンヤミンとハイデガーの共通の出発点も示されているように思う。
 買い物をして、いったん部屋へ帰った後、歩いてユダヤ博物館へ行く。そこで開催されている「故郷と亡命──1933年以後のドイツ・ユダヤ人の移住」を見るためである。1933年にヒトラーのナチが政権を掌握して以後、ユダヤ人への迫害が強まってゆくなか、ユダヤ人たちがどこへ、またどのように生存の場所を求めたか、またそこでどのように生きていたかが、さまざまなドキュメントともに示されていた。ユダヤ人たちの移住先は、イギリスやアメリカ、あるいはパレスチナばかりでなく、遠くは中国やラテン・アメリカにまでおよんだ。そこで、ドイツ文化に根ざした生活を立てなおそうとする逞しい努力の跡を見ることもできれば、逆に自殺に追い込まれた人びとのことを報じる記事も展示されている。全体として、亡命すること、そして亡命先で生き続けることの苦難のさまざまな局面に触れることのできる展示であった。そのなかに、ヴァルター・ベンヤミンについての展示も見つけた。アメリカへの移住を受け入れるホルクハイマーの手紙と、自殺を図ったベンヤミンの最後の言葉を書きつけたグルラント夫人のメモが展示されていたのが興味深い。そのピレネー越えを導いたリーザ・フィトコの肉声も聴くことができた。
 部屋に帰ってテレビを点けると暗いニュースばかり。ドイツにおいても経済的な格差が広がりを見せるなか、「下層」という言葉をめぐって論争が起きている様子。社会厚生大臣は、「一つの社会」を保つことの重要性を強調していたが、社会の溝は確実に広がっているようで、職に就く見込みのない親が自分の子どもを虐待して死なせてしまうといった事件も起きている。その一方で、ネオナチ勢力がじわじわと広がってもいるようで、東部の各州では、議会に議席を得てもいる。東北部のメクレンブルク・フォアポンメルンでは、議会の初日から極右議員とのあいだでさっそく騒動がもち上がったようだ。ブランデンブルクでは、ネオナチの集会活動を規制する法律を作ろうという動きがあるという。ポツダムの中央駅でネオナチの行進に遭遇したときの恐怖が脳裏に甦った。また、それとともに、ユダヤ博物館に掲げられていた、世界の平和──それ社会のそれでもあろう──と心の平和を両立させることの重要性を説く、ヘルマン・コーエンの言葉が思い出された。

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2006年10月16日 (月)

ベルリン旅日記:10月15日

 今日は日曜で図書館が休みなので、久しぶりにポツダムを訪れることにする。目的は、サン・スーシ宮殿のなかの絵画館を見ること。冬のあいだ閉まっているので、一昨年滞在したときには見ることができなかったのである。ポツダム中央駅から695番のバスに乗ってサン・スーシ宮殿の前で降り、宮殿の入り口へ行ってみると、まだそれほど寒くないせいか、たくさんの観光客でごった返している。目につくのはイタリア人と中国人。どういうことなのだろう。
 この絵画館には、カラヴァッジョの作品が1枚ある。1600年頃の作という「不信心のトマス」。イエスの復活を信じることができないトマスが、磔刑の際にイエスが脇腹に負った傷に手を触れる驚愕の瞬間に、鋭い光を投げかける絵である。これ以外に、リューベンスやファン・ダイクの絵がいくつかあるのだが、正直に言ってカラヴァッジョ以外にはほとんど眼を惹く絵がない。むしろこの絵画館において見るべきは、バロック宮殿の絵画展示のありようなのだろう。たしかに、黄金がちりばめられた天井と大理石の床のあいだに所狭しと絵が架けられているさまは、壮観ではある。
 絵画館を出ると、宮殿の丘を降りて、歩いてポツダムの街へ出る。ルイーゼ広場を通ってポツダムの目抜き通りとも言うべきブランデンブルク通りに入ると、一昨年のことを思い出し、何だか懐かしい感じがする。近くにスーパーができるまでバスで通ったスーパーも、全部1ユーロで古本を売る本屋も健在である。いまだに工事中のところもあるが、一昨年滞在したときよりは少し街に活気がある印象である。電車通りになっているエーベルト通りに出て、パン屋の隣のケバプ屋でケバプを食べる。何でもここは、わたしもポツダム滞在時にときどき朝食用のパンを買っていたそのパン屋からパンを仕入れているとか。たしかに普通のケバプ用のパンより噛みごたえがある感じ。食べているとトルコ系の移民の2世か3世と思われる子どもが二人入ってきて、今日だけケバプを2ユーロにまけてくれとせがんでいた。「今日だけだよ」と応じるケバプ屋の主人の姿が少し微笑ましい。
 電車でベルリンへ戻る。急行電車からSバーンへ乗り換えるついでに、ワールドカップに合わせて開業した新しいベルリンの中央駅をのぞいてみるが、他の駅と同じような店ばかり入っていて、あまり代わり映えがしない。乗り換えたSバーンで、博物館島へ向かう。目的は博物館ではなく、その周辺で週末ごとに開かれている蚤の市。ここの市には古本を売る店が多く出ている。掘り出し物はないかと奥の方から見てゆくが、今回は収穫がなかった。
 宿に戻ってひと休みした後、フィルハーモニーへベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴きに行く。指揮は、今年生誕百周年を迎える作曲家ショスタコーヴィチの息子であるマキシム・ショスタコーヴィチ。ロッシーニの「ウィリアム・テル」の序曲とそれを引用したショスタコーヴィチの第15番の交響曲のあいだに、モーツァルトの第1番のヴァイオリン協奏曲が挟まるというプログラム。
 最初のロッシーニの序曲は、オーケストラの力量を示すにはうってつけの作品であるが、その演奏においてドイツ交響楽団は、ベルリン・フィルと比べても大きな遜色のない実力のほどを示していた。冒頭のチェロのアンサンブルも、コーラングレとフルートの掛け合いも決まっているし、ギャロップの推進力にもわくわくさせるものがある。あまりにも使い古されたこの曲が、新鮮に響く力強い演奏であった。
 続いて演奏されたモーツァルトの最初のヴァイオリン協奏曲に関しては、正直に言って首をかしげざるをえなかった。マクシム・ショスタコーヴィチが指揮するオーケストラの伴奏の雄弁さに比べて、ヴァイオリン独奏を担当したアラベラ・シュタインバッハーの音楽があまりにも皮相に聴こえたからである。彼女は、ユリア・フィッシャーなどとならぶドイツのヴァイオリン界の期待の新星と聞くが、それにしては音楽に奥行きがない。すぐれた技巧をもっていることは間違いないが、音に深みがなく、音楽づくりにも余裕がないのだ。もしかしたら、この曲をまだものにしていないのかもしれない。アンコールとして演奏されたパガニーニのメドレー風の小品は、実に伸び伸びと弾いていたのだから。どちらかというとロマン派以後の技巧的な作品で実力を発揮できそうな様子である。
 最後に演奏されたショスタコーヴィチの最後の交響曲であるが、これはたしかマクシム・ショスタコーヴィチ自身が初演したのではなかっただろうか。それだけに曲を完全に自分のものにしているようで、間然とするところがない。早めのテンポを基調として、ロッシーニの「ウィリアム・テル」やヴァーグナーの「ヴァルキューレ」の断片をはじめとして、引用された断片が別の音楽によって掻き消されたり、変容したりするさまを説得的に表現していた。悲痛な旋律も感傷に流れることなく、重い硬質の響きで迫ってきたのも、この作品にふさわしいことのように思われる。室内楽的なパッセージ、あるいは第二楽章のチェロの独奏をはじめとする独奏部では、ドイツ交響楽団の各奏者がその実力を発揮していた。とりわけ、チェロとピッコロのソロが印象に残る。シンフォニストであることから、さらには交響曲というジャンルからの別れを告げるような終結部は、シニカルな軽さをもってではなく、その別れの意味を考えさせるような重みをもって響いた。父親の辛酸を知る実の息子ならではの終結部のとらえかたなのかもしれない。聴衆の盛んな喝采──ドイツ交響楽団の聴衆はいつも熱い──に対して、父親が書いたスコアを掲げるマクシム・ショスタコーヴィチの姿が心に残った。

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2006年10月15日 (日)

ベルリン旅日記:10月14日

 朝から国立図書館にこもって文献を読む。まず、昨日読みかけたハーマンの『美学提要』をひとまず最後まで読み通す。この困難なテクストについて見とおしがついたとはとても言えないが、「言語一般および人間の言語について」におけるベンヤミンのアダムによる事物の命名についての記述、あるいは人間の堕罪の後に沈黙してしまった自然を救い出すために詩人がいるという言い方に何らかのインスピレーションを与えたのでは、と思われる箇所にぶつかった。その後、1917年のショーレム宛の書簡のなかで言及される、フランツ・フォン・バーダーの宗教哲学に関する著作を読んでみることにする。書庫から出してきてもらったのは、1853年に出たという、古めかしいことを通り越した分厚い本。それに収められた、モリトールという人物に宛てた書簡のかたちでかかれた論文をベンヤミンは読んでいたのである。さっそく読んでみたが、ヒゲ文字ではないとはいえ、キリスト教神秘主義の臭いがぷんぷんと漂う論調で、なかなかテクストに入っていけない。とはいえ、ベンヤミンが手紙のなかで挙げている以外にも、彼の発想につながると思われる箇所を見つけることができた。このあたりは1917年の「来たるべき哲学のプログラムについて」でもテーマになることだが、言語の記号への「堕落」を、啓蒙主義的な自然支配の問題と結びつけ、それが人間を逆に締めつけていることへの危機感を、あるいはそうした状況からの突破口を言語のうちに求めようといる発想を、ベンヤミンは、ハーマンやバーダーと共有していたのは確かなのかもしれない。
 夜、コーミッシェオーパーへモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』の上演を見に行く。今年春のシュトゥットガルト歌劇場の引っ越し公演における同じモーツァルトの『魔笛』の演出でも話題を呼んだ、ピーター・コンヴィチュニーの演出に興味があったのだ。このオペラ・ハウスの恒例として、ドイツ語による上演である。
 コンヴィチュニーの演出に興味があったとはいえ、最初にぐっと惹きつけられたのは音楽である。ピリオド楽器による演奏に勝るとも劣らない切れ味のアコードで序曲の序奏が始まると、やがて柔らかな管楽器のハーモニーが、舞台を包む涼やかな空気のように立ちのぼってくる。そして序曲の主部に入ると、弓がよく弾んだ弦楽器の音がリズムを刻み、聴き手の心をいやがうえにもかき立てるのである。
 今回の上演を指揮したマルクス・ポシュナーという指揮者、まだずいぶん若いように見受けられるが、かなりの手腕の持ち主と思われた。ピリオド楽器の奏法を生かした鋭さを随所で引き出しながら、オーケストラの各セクションが一体となるようなアンサンブルを統率し、芳醇な、それでいて見とおしのよい響きをコーミッシェオーパーのピットから立ちのぼらせていた。このピットの指揮台にしばしば立つキリル・ペトレンコも、モーツァルト指揮者としてすぐれた手腕を発揮していたけれども、ポシュナーのモーツァルトへの適性は彼以上のものであろう。何といっても響きのバランスの取りかたが素晴らしい。ゆったりとした音楽においては、バスによってしっかりと支えられた響きが香気とともに漂っていた。軍隊に徴集されたと嘘をつくフェランドとグリエルモが二人の恋人に別れを告げる場面では、夜の香気が舞台を包むのである。
 歌手たちも、ドン・アルフォンゾを演じたディートリヒ・ヘンシェル以外聞いたことのない名前の歌手たちばかりだったが、いずれもそれぞれに与えられたアリアをほぼ完璧に歌いこなすばかりでなく、このオペラの命ともいうべき重唱でも、息の合ったアンサンブルを聴かせていた。なかでも印象的だったのは、デスピーナを演じたゲルトルート・オッテンタール。この女中の役はたいてい、若い、おきゃんなところのある歌手が演じるのだけれども、オッテンタールは見るからに相当なベテランである。しかし、デスピーナはほんとうは、恋愛の挫折を幾度も経験した人生のベテランのはずなのだ。そして、こと恋に関して年季の入ったところをドン・アルフォンゾと組んで、若い二組の恋人に見せてやらなければならないはずだ。このことをオッテンタールは、見事な声のコントロールで力強く主張していた。
 さて、幕切れも間近となったところで、ドン・アルフォンゾが、女の浮気さを自分の手で証明してしまった二人の男を舞台の手前に連れて行くと、緞帳が下りてくる。そして三人で、「みんなそうするものさ!」──ドイツ語の歌詞は「女はみなそうしたものさ」ではなく、「女」にかぎらず「みんなそうするものさ」となっていた──と叫ぶと、どこからか拍手喝采の音が流れてきて、聴衆もそれにつられて拍手してしまう。やがてそこにデスピーナが、二人の女性を連れて割って入り、二人は新しい恋人と結婚する用意ができていると告げる。その光景を見て、これはただでは済むまい、と思っていたら、やはり最後にどんでん返しが待っていた。二人の若い女性の貞節を試す芝居の種明かしが終わると、今度は本来誰と誰が結婚するはずだったのか誰もわからなくなり、ついには台本をもった舞台監督まで舞台に呼び出されると、フェランドが突然結婚式のテーブルの上に立ち上がって、「おれはグリエルモと結婚する!」と叫ぶのである。コンヴィチュニーがプログラムに収められたインタヴューで述べているところによれば、台本には最終的に誰と誰が結ばれるのか、はっきりと書かれていないのだ。だから、二人の男が結ばれることもありうるのである。恋心は、誰に対しても燃え上がる。彼によれば、モーツァルトはそのことを、オペラの音楽で肯定しているのである。
 舞台では、フェランドとグリエルモが結婚することになったまま、結婚式の祝宴が再開され、登場人物たちは客席へ降りてくる。すると、合唱がテーブルクロスになっていた紙を広げるのだが、そこには物事を「少しは哲学的にご覧なさい!」──あるいは「お考えなさい!」──と大書してある。その文句は、相手を取り違えた恋人たちが最後には元の鞘に戻るというハッピー・エンドを期待する聴衆ばかりでなく、恋について教訓を与えようとした哲学者ドン・アルフォンゾとデスピーナにも向けられているにちがいない。そう、人間は恋について何も学ぶことはないのである。
 実際、四人の若者たちは、結局何も学ばない。コンヴィチュニーの演出では、四人はいつも相手のぬいぐるみの人形をもっていて、ドン・アルフォンゾとデスピーナはそれをことあるごとに取り上げようとする。お前たちが恋をしているのはお人形さんとしての相手なのだと言わんばかりに。しかし四人は、自分たちの浮気さと盲目を突きつけられても、教訓をわが身に刻もうとはしないのである。芝居の種明かしと、それに対する驚愕を、四人は結婚式のテーブルの上で、人形劇のかたちで演じるだけなのだ。その一方で、新しい相手が現われると、四人はいずれも相手に対して何か応えずにはいられない。そのときに新たな恋心が炎のように燃え立つこともありうるのだ。そこにこそ現実があることを、コンヴィチュニーは示していたように思われる。
 『コジ・ファン・トゥッテ』のドイツ語の副題は「恋人たちの学校」であるが、コンヴィチュニーはその「学校」を、聴衆を含めて、人間が恋について何も学ばないことを学ぶ場に変えている。この教訓なき教訓劇とも言うべきドラマのために、彼はブレヒト的な、文字による異化効果を、序曲の最中からふんだんに用いて、観客のなかば自嘲的な笑いを誘っていた。「みんなそうするものさ」というプラカードが緞帳のあいだから差し出されると、そこに「女は」ばかりでなく、「男は」とか、「猫は」とか、あるいは「消しゴムは」とか書かれたプラカードが次々と差し出されるのである。そして、文字とならんで異化効果を発揮していたのが、レチタティーヴォの伴奏にチェンバロではなく、ハンマーフリューゲルが用いられたことである。その硬い音色とともに歯切れよく繰り出されるドイツ語の台詞は、聴衆が期待するであろう『コジ・ファン・トゥッテ』の甘ったるいイメージを打ち砕いていた。コンヴィチュニーは、ドイツ語ででしかできない『コジ・ファン・トゥッテ』を、人間の真実を仮借なく突きつけるとともに、それを音楽で救い出すオペラとして、今に甦らせていたのではないだろうか。

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2006年10月14日 (土)

ベルリン旅日記:10月13日

 今日から昼間は文献を読むことに専念しようと、ポツダム広場のフィルハーモニーの向かいにある国立図書館の建物へ出かけ、利用を申し込む。利用料金は1か月10ユーロで年間25ユーロと、年間利用のほうが断然得なのだが、1年間のうちにベルリンへ戻ってくることはほとんどありえないので、仕方なく1か月の利用を申し出た。
 申し込みを済ませると、小さな利用券がもらえる。これを使って書庫の本を注文できるのだが、ベルリンへ来るまでにほとんど何も準備ができなかったので、読んでおきたい文献がほとんど絞られていない。ともかく、ベンヤミンの初期の言語論「言語一般および人間の言語について」で引用されているハーマンの著作や書簡を読んで、ベンヤミンの言語論の発想の源を探ることから始めることにする。ベンヤミンの著作集にしても、ハーマンの著作集にしても、注文するまでもなく、直接手に取って読むことのできる主要文献が並んでいる本棚に並んでいる。今日はハーマンの著作と書簡に取り組むことにした。ベンヤミンが引用した箇所の前後の文脈もたどってみると、ベンヤミンの発想の背景が暗示されているようで興味深い。書簡に関しては、ベンヤミンの著作集の編者註に、と言うよりもそこでベンヤミンが用いたとされるハーマンのアンソロジーに、書誌的な混乱があるようで、しばらく振り回された。久しぶりにドイツ語のいわゆるヒゲ文字をたどることになる。久しぶりだったせいか、しばらく眼が馴れない。
 18時過ぎまで図書館で勉強した後、ポツダム広場のショッピング・センターの地下にあるスーパーで、ミネラル・ウォーターをはじめホテルの部屋で飲み食いする品々を買い込んで、いったん部屋に戻る。ホテルとポツダム広場とのあいだの距離は、徒歩でだいたい10分強というところだろうか。途中には政府関係の大きな建物も建ち並んでいる。そう言えば、午前中出かけるときに、現在財務省となっている建物の壁に、巨大な社会主義リアリズムの壁ががあるのを見つけて、ギョッとさせられた。そう。このあたりはかつて東側だったのだ。
 夜、フィルハーモニーでベルリン・フィルの定期演奏会を聴く。曲はJ・S・バッハのミサ曲ロ短調(BWV. 232)だった。指揮はロジャー・ノリントンで、合唱はRIAS室内合唱団。最近活躍のめざましいノリントンがバッハ畢生の大作にどのように挑むのか、楽しみなところである。
 客席に入って舞台を眺めると、弦楽器群が馬蹄形に並べられている。指揮台も、指揮者用の譜面台も見あたらない。ではノリントンはどうするのだろう、と思いながら見ていたら、彼は、合唱が入るときには、弦楽器の輪のなかに入って指示を出し、独唱歌手のアリアやデュエットのあいだは、舞台のいちばん手前にヴァイオリン奏者の椅子の余りのように置かれた椅子にちょこんと座って、必要最小限の指示だけを与えていた。彼の譜面台はないので、当然すべて暗譜である。
 実際、ノリントンはこの巨大なミサ曲のすべてを手中に収めていた。そして、それとともに彼は、このミサ曲のあまりにも厳密と思われる形式が、生命のダイナミズムをその精髄において表現しているのを見て取っているようだ。基本的に楽天的で、またピリオド楽器の奏法を生かした──実際、弦楽器奏者はほとんどヴィブラートをかけていない──切れ味鋭いノリントンの解釈は、とりわけ生命の躍動を生きることの喜びとともに鮮やかに表現するところで、その美質をいかんなく発揮していたように思われる。グロリアが、キリストの地上への復活が、サンクトゥスが、これほど輝かしく響いたことがあるだろうか。この作品の演奏において、生きていることへの喜びがこれほど屈託なく表現されたことがあっただろうか。ノリントンがバッハのロ短調のミサ曲のうちに見ていたのは、少なくとも居丈高に屹立する巨大な神への捧げ物ではない。彼にとってその作品は、むしろ地上の被造物すべてに捧げられた、この地上に生きていることへの讃歌なのではないだろうか。
 したがって、そこにある対位法にしても、彼にとってはけっして抽象的な形式ではなく、絶え間なく躍動する生命が応えあうのと一体となった形式のようである。この曲におけるノリントンの指揮は、各曲の冒頭以外ほとんど拍子を出さない。むしろ、異なった生命が応えあうのを活気づかせるために強調すべき点を全身で表現することに重点を置くものである。少しビッグ・バンドか何かの指揮にも似ていなくはなかったのだけれども。ともあれ、そのような指揮によって、躍動する生命の呼応が、一つの音楽の高まりに結実してゆくのを聴くのは、感動的ですらあった。
 逆にキリエや、クレドのなかのイエスの磔刑を描く一節のように、地上の被造物の儚さを嘆きながら神の哀れみを求める深刻な箇所も、音が短く切られ、言葉の区切りが際立たせられることによって、逆に切々と胸に迫る祈りとして響いていたように思う。グロリアやアニュス・デイの最後の平和への祈りには、もう少し内側から湧きあがるものがあっても、とも感じたが、全曲の祈りが注ぎ込まれているとも言ってよいこの音楽が、これほど燦然と響いたのは耳にしたことがない。
 このような輝かしく、また鮮やかなバッハのミサ曲の演奏を支えていたのが、ラトル時代の若いベルリン・フィルの機動性であったことは言うまでもないが、それ以上に特筆すべきは、ベルリン・フィルのきびきびとした演奏が、RIAS室内合唱団と透明な響きと一体となっていたことである。時にそれぞれの声部が一人の歌手の声のように聴こえるくらいによく訓練されたこの合唱団の声は、力強く、そしてけっして混濁することなく響きわたる。また、バスによってしっかりと支えられた響きには、安心して身を委せることができる。演奏全体のこれほどの完成度は、この合唱団なくしてはけっして望みえなかっただろう。
 独唱歌手のなかでは、テノールのジョン=マーク・エンスリーとバスのデートレフ・ロートが印象的に残る。エンスリーのまっすぐに響きわたる力強い声は、最初から耳を惹いたし、またロートの真摯さも光る。グロリアのなかのバスのアリアは、狩のホルンを担当したラデク・バボラクの巧みな演奏と相まって、アリアのなかでは白眉の出来を示していたように思う。この二人に対して、ソプラノのスザンナ・グリトンとカウンター・テノールのデヴィッド・ダニエルスの歌唱は、今ひとつこちらへ迫ってこない感じ。とりわけダニエルスの声は、カウンター・テノールには珍しくとても自然だっただけに、惜しまれる気がする。もしかすると、歌手の背後で聴いたせいかもしれないけれども。
 この日、ベルリンのフィルハーモニーで聴いた、どこまでも澄んだ響きと切れ味鋭いアーティキュレーションで、生命の絶え間ない躍動を表現し、この世に生きることの喜びを力強く歌い上げるバッハの演奏。それはもしかすると、バッハがその晩年の大作に一人の人間として込めたものを、世俗的で普遍的なものとして今に響き出させるものだったのかもしれない。ノリントンとベルリン・フィルによるバッハの演奏が、現代の楽器奏法と歌唱法でバッハの作品にアプローチする一つの可能性を力強く示していたのは間違いない。

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2006年10月13日 (金)

ベルリン旅日記:10月12日

 今日から20日までベルリンに滞在する。第一の目的は、雑用から離れて研究のための文献を読み、考えること。だいたい毎日国立図書館に通い、場合によってはまる一日そこに閉じこもることになりそうだ。ベンヤミンがパリの図書館でしたことの真似事を、ベンヤミンについてやろうというわけである。ただ、そうでもしないととても勉強などできないのが現在の広島での状況でなのだ。この滞在期間に、言語を、それを語る活動の相においてとらえ、また意思疎通の手段となるたんなる記号としてでなく、語るはたらきとともに表現の媒体として生成するものとしてとらえるドイツの言語哲学の伝統からベンヤミンとハイデガーの言語哲学が生じてきたこととともに、両者のコントラストを示すことによって、ベンヤミンの言語哲学の可能性を提示しようとする自分自身の立場を浮かびあがらせるような論文の下準備をできれば、と思っている。
 ベルリンへ来た第二の目的は、17日から始まる「国際ベンヤミン・フェスティヴァル」のいくつかの催しに参加すること。アガンベン、ディディ=ユベルマン、サム・ウェーバー、そして多和田葉子の師でもあったジグリット・ヴァイゲルといった、日本でも名前が知られている学者たちの講演に接することができるのを期待している。わざわざこの時期にベルリンへ来たのもそのためである。ちなみに「フェスティヴァル」なので、講演やシンポジウムばかりでなく、展覧会や映画上映、さらには日本人によるダンス・パフォーマンスも、その枠内で催されるという。
 三つ目の目的として、やはり音楽を聴いたり、絵を見たりといったことがあるのも、白状しておかなければならない。フランクフルトでベルリン行きの飛行機を待つあいだ読んでいた『南ドイツ新聞』によれば、来週から博物館島のボーデ美術館が新装なって開館するとのこと。写真を見るかぎり、王宮のコレクションのような展示である。週末には、懐かしいポツダムを訪れて、サン・スーシ宮殿の絵画館のカラヴァッジョも見ておきたい。音楽は、ベルリン・フィルの演奏会のほか、オペラの公演などに接する予定。
 ベルリン行きの飛行機がフランクフルトへ来るのが遅れて、そのあいだ待合室に山と積まれた新聞を読んで暇を潰していたが、どの新聞もやはり北朝鮮の核実験の政治的な影響を論じている。日本での報道と異なるのは、北朝鮮とアメリカの関係がクローズアップされていること。どのようなコンテクストのなかで「核」というカードが切られたのかを考えさせてくれる。文化面では、ナチの親衛隊に所属していたことを最近になって自伝で告白したギュンター・グラスをめぐる騒動が相変わらず続いている様子が報じられているし、『南ドイツ新聞』は、今週の土曜に生誕百周年を迎えるハンナ・アーレントが、戦後ドイツへ旅行したときに、ケーニヒスベルク時代の彼女のギリシア語の教師で、後にナチ党員として教育のナチ化に向けて動くことになる人物と再会したことを取り上げていた。ネオナチ勢力も暗躍を続けているようである。ベルリンのユダヤ系のサッカー・チームは、試合中にネオナチと思われる観客から繰り返し反ユダヤ主義的な野次を浴びせられたことを理由に、試合を途中でボイコットしたとか。
 ベルリンに到着したのは午後8時過ぎ。ホテルにたどり着いたのは結局9時前のことだった。長旅の疲れがこれまでたまっていたのと合わせて出たのか、何もする気にならない。空港で買ったチョコレートをかじりながら新聞やテレビを見ているうちに眠くなってしまった。

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2006年10月12日 (木)

アルベルト・ジャコメッティ展

 先日、京都からの帰りがけに神戸に立ち寄り、兵庫県立美術館で開かれていた「アルベルト・ジャコメッティ展──矢内原伊作とともに」を見に行った。展覧会の最終日にようやく間に合ったというところである。
 ジャコメッティを日本に紹介した哲学者矢内原伊作との交友を中心に据えながら、矢内原がジャコメッティの不断の試みとしての芸術のうちに見て取った、「見えるがままに描く」ことの追求を、140点近くの作品によって展望させようとする展覧会であった。一人の人間が現にそこに存在していることそれ自体を極限にまで研ぎ澄まされたかたちで屹立させ、見る者を立ちどまらせずにおかない彫像の数々とともに、そこに至るまでのあまりにも執拗と言うほかない試みの足跡を示すデッサンも数多く出品されていた。個人的には、どちらかというと彫刻作品をもっと数多く見たかった気もしないではないが、これほどの数のジャコメッティの作品を、その創造の過程──そこに矢内原は居合わせることになるのだ──とともに見ることができたのは、得難い機会だったことは間違いない。
 それにしても、ジャコメッティにとって「見える」とはどういうことだったのだろう。それはたとえば、ある人物が「矢内原伊作として」見えているということではないのだろう。それは少なくとも「見たい」ものを見ているということではないはずだ。ジャコメッティは初期に、「不快なもの」の彫像を制作している。昆虫の幼虫のような胴体に、こちらを睨みつけるような眼をもった顔がついた、不気味な生き物。その彫像を敢えて制作するとはどういうことなのだろう。悪夢の残滓を形象化したかに見えるこの作品を、シュルレアリスムの影響の産物と片づけることはできないのではないか。それはむしろ、ジャコメッティにとって「見える」とはどういうことだったのかを暗示してはいないだろうか。ジャコメッティにとって「見える」とは、見たくなくとも、どうしても見えてしまう、眼前に立ち現われてきてしまうということのように思われるのである。
 1947年に制作された、極端に長くとがった「鼻」の彫像も、ジャコメッティにとっての「見える」ことそれ自体を象徴しているように見える。彼にとって「見える」とは同時に、彼を傷つけること、すなわち彼のなかにトラウマを残すことのようにも思われるのだ。トラウマ的な記憶の痕跡から反復衝迫的に産み出されてくる無意志的な記憶の像は、けっして全体的なものではない。だからこそジャコメッティは「頭蓋を欠いた頭部」(1958年頃)を制作することもできたのだろう。また、記憶の像が断片として現われてくるとは、記憶される過去と記憶する現在のあいだに埋めることのできない隔たりがあるということでもある。その絶対的な距離のなかで過去が現前してくることをも、ジャコメッティは形象化しようとしたようだ。彼が制作した極小の彫像の小ささは、その距離を示しているのであろう。
 記憶の像が眼前に立ち現われてくるままに描き取ろうとすること、それは他方でどうしても「見えるがまま」に描くことではなく、現われてくるものを「見える」姿のうちに囲い込むことにならざるをえない。ジャコメッティはそのことも自覚していたように見える。1950年に制作された「檻」は、彼自身の芸術の暴力性を映し出す作品でもあるのではないか。それを自覚しながら、ジャコメッティは、自分を突き刺すように「見える」ことに対して、どこまでも忠実であろうとしたようだ。それは、「見える」さまを見届けるまなざしを研ぎ澄ますことでもあろう。そして彼は、自分を刺すように何かが、あるいは何者かが見えてくることを極限まで突きつめることによって、存在することの精髄に迫ろうとしたのではないだろうか。その厳しい歩みを支えたのが、矢内原であり、弟のディエゴであり、妻のアネットであったのかもしれない。この三人の魅力的な彫像を見ることができたのも、今回の展覧会の収穫の一つであった。

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2006年8月 4日 (金)

岡真理『棗椰子の木陰で』

 48時間の爆撃停止の期限が切れて、イスラエルによるレバノンへの、空と地上両方からの激しい攻撃が再開された。攻撃の激しさは増す一方だが、これは当初から防衛の範囲をはるかに越えている。空からの爆撃においては、非戦闘員を無差別に虐殺するもの以外の何ものでもないクラスター爆弾も使われたという。今朝の新聞には、病院を掃討するイスラエルの地上特殊部隊の写真も載っていた。そして、このような一方的な軍事攻撃の被害を受けるのは、カナの避難施設への爆撃が象徴するように、決まって子どもや年老いた人びとをはじめとする一般の市民である。レバノンでは900人に上る人びとが殺され、そのほとんどが民間の非戦闘員であるという。そして、今や100万人を超える人びとが、住み慣れた場所を追われ、難民となっているとも報じられている。
 そのような悲惨な状況を最も研ぎ澄まされた眼で見つめている一人がアラブ文学研究者の岡真理であるが、彼女がこの10年間、悪化の一途をたどるパレスチナとその周辺のアラブ世界の情勢を見つめながら、それに応える文学の力を問い続け、書き継いでいった論考を集めた一冊が最近出版された。『棗椰子の木陰で──第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社)である。この論集には、言葉を語り、語られた言葉を読むことを、そして語り、読む主体のアイデンティティを、正確な言葉づかいをもって一歩一歩突きつめ、それらについての従来の見方を、すなわち人びとの自明のよりどころとなっているものを突き崩し、その果てに文学の、そして言葉の可能性を切り開こうとする試みの軌跡が刻まれている。
 たとえば、いわゆる「グローバリゼーション」が進行するとともに富める者と貧しき者が引き裂かれるなかで、あるいはイスラエルとアラブ世界との緊張が高まるなかで、しばしば「異文化理解」や「多文化共生」といったことが叫ばれる。しかし、そのように「固有の」文化があらかじめ存在することを前提するかのような議論には、大きな落とし穴があることを岡は指摘している。「かつて帝国主義の時代、非西洋世界の文化は価値的に劣ったものとされ、西洋中心主義の世界観のなかで周縁化されてきた。現代においては、過去の西洋中心主義に対する批判として、非西洋世界の文化の自己主張がさかんになされるようになった。とりわけグローバリゼーションが進行する今、世界の一元化に対する文化的抵抗として多文化主義が主張されている。どの地方にも、その地方固有の文化、固有の価値観がある、アラブにはアラブ独自のイスラーム文化によって培われた経験と価値観が、アフリカにはアフリカの太陽と母なる大地によって育まれた生と価値観がある、という主張。西洋中心的な私たちの世界認識が批判され、解体されるのは良い。しかし、ここで注意したいのは、こうした本質主義的な地方主義に根ざした多文化主義は、依然として西洋=普遍、非西洋=特殊という構図が強固に存在するこの世界では、西洋中心主義的な世界認識を解体するどころか、むしろ強化することになりはしまいかということである。知の本質主義的地方主義に居直り、地方の文化的特殊性を強調する「原理主義」が、西洋=普遍とする西洋中心主義と共犯関係を結んでいることはつとに指摘されているとおりである」。
 では、酒井直樹が批判する「文化主義」とも重なりあうこの「本質主義的地方主義」を乗り越えてゆくどのような道筋があるのだろうか。岡は、「固有な」ものとして、自己のアイデンティティの基盤として自明視しているものを内側から解体することを提案している。たとえば「母語」。これを私たちは「固有の」言語として「自然に」話しているだろう。しかし、それはもとをただせば、「母」という他者の口から吹き込まれた「異物」なのだ。それを語ることは、核心においては一体化の享楽であるよりはむしろ分裂の「苦悶」なのではないか。そのことを岡は、トリニダート・トバコの詩人マルレーヌ・ヌルベーズ・フィリップの詩「言語の論理に関する言説」を解釈しつつ、説得的に示している。
 このことを洞察し、言語の物質性に躓きながら、他者の言語として自分が「母語」として話してきた言語を見つめなおすこと。岡によれば、このことのうちに言葉を話すことを他者に開かれた活動へ反転させる契機がある。「母語を母語として生きる者であろうと、母語なるものの他者性を、つねにすでに、生きている。これらのテクストが読者に要求するのは、言語の物質性を回復させ、私たちがそれに躓くことによって、母語なるものの、忘却されてあるこの生々しい他者性を想起することにほかならない。言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。/だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者に開かれたものにする、その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。私の躯のなかに吹き込まれたあなたの言葉が、私の呼気となって出てゆく、開かれた私の躯が反響板となって、あなたの言葉を、あなたのものではない他者の言葉を、誰のものでもない言葉を、私のことばとして、私たちの言葉として。誰のものでもない他者の言葉を分有する者として。苦悶であると同時に、歓びでもあるような」。
 「固有の」言語ではなく、他者の言語を分有していることを引き受け、複数性を自分自身のうちに刻印することによってこそ、他者たちのあいだで言葉を響きあわせることができる。「この世に居場所をもたない者たちの、死者たちの声」に耳を澄ませ、「正統性」の名のもとでのあらゆる排除の暴力を越えたところで、そのように掻き消されようとしている声に耳を澄ませ、それに応答することができるのだ。『千夜一夜物語』、ナワール・エル=サアダーウィーの『零度の女』、李良枝の『由煕』といった文学作品の精緻で批判的なレクチュールをつうじて、岡真理のエクリチュールは、これまで自己の母胎と見なしてきたものを突き崩した先に、他者と応えあう言葉を見いだすことへ読者をいざなおうとしている。
 ところで、『棗椰子の木陰で』には、1997年から2006年にかけて、パレスチナの出来事を中心に、ひとつひとつの出来事に応答しつつ、そこにある暴力と、それに対する抵抗を証言するクロニクルも収められている。それを書き継ぐことをつうじて、岡はアラブ世界の情勢を見すえつつ、そのなかで暴力的な抑圧に苦しむ人びとと連帯しようとしている。その姿を見つめながら、レバノンに対する不当な攻撃に対して、そしてその陰で今も進行しているガザへの暴力に対して、抗議の声をあげようとしない自分自身の今ここを、戦慄とともに見つめ返すべき時が来ているのかもしれない。

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2006年7月22日 (土)

「パウル・クレー──創造の物語」展

 祝日の月曜のことだが、佐倉の川村記念美術館で開催されていた「パウル・クレー──創造の物語」展を訪れた。「日本におけるドイツ年」の一環として開催されたこの展覧会は、デュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン美術館、ハノーファーのシュプレンゲル美術館、そしてヴッパータールのフォン・デア・ハイト美術館というドイツ北西部の3つの美術館のクレーのコレクションに、日本国内にあるクレーの作品を加えて展示するもの。クレーの故国スイスに並ぶとされるこれら3つの美術館の充実したコレクションを中心に構成されたこの展覧会は、最初期の風刺的なエッチングから、最晩年の、まったく無駄のない画面構成のなかに暖かな静謐さを感じさせる作品まで網羅することによって、画家としてのクレーの仕事を一望させるばかりでなく、5つのテーマのもとに作品を配することによって、クレーの創造の核心にあるものへも迫ろうとしていた。
 「光の絵」と題された第1部は、1910年代までの初期の作品によって、クレーがモノクロームの世界を脱して、光に満ちた世界を色彩的に構成し始めるに至るまでの作風の変遷を描き出していた。それが示すのは、神の世界創造の原理でもある光を、クレーが最初期から追求していることである。風刺的なエッチングに取り組んでいた若きクレーは、黒の描線によって地上の現実を照らし出す光を画面にもたらそうとしていたのだ。その光は、苦い鋭さを放ちながら、人間社会の矛盾を歪んだ寓意像のかたちで抉り出す。世俗の王冠を前に身をかがめる一方で、他人を前にしてはみずからの優位を主張するといった人間の醜悪さをアイロニーとともに浮かびあがらせるクレーの「作品1」の版画集「インヴェンション」は、ゴヤの「ロス・カプリチョス」と比べて見たらどのように映るだろうか。
 そのように苦渋に満ちたまなざしと鋭い黒の描線をもって人間社会の矛盾を照らし出す光を追い求めていたクレーは、1910年代には、光に満ちた世界を、水彩で色彩豊かに、かつ抽象的に構築し始める。ロベール・ドローネーの作風に触れたこと、そしてよく知られているチュニジアでの光の啓示は、人間社会の深奥へ突き入っていたクレーのまなざしを、豊かな光彩と広がりをもった世界へ向けて開いていったようだ。そしてクレーは、線描画家から、そのような世界を画面のうちに色彩をもって再創造する画家に変貌することを決意したのかもしれない。神が世界を創造する光の強烈な放射を、力強い線の動きと一体となった色彩によって描き出そうとする「はじめに光ありき」は、そのマニフェストのようにも見える。
 「自然と抽象」と題された第2部は、クレーにおける経験的な自然の観察と抽象的な画面構成の緊密な関係に焦点を絞るものであった。経験的な世界の要素の幾何学的なものへの抽象ではなく、世界を経験的なものとして成り立たせている世界そのものの躍動を画面上に構成し、可視化するクレーの抽象は、絵画空間のなかに時間的な動きをもたらすにちがいない。クレーの絵に音楽があるのは、一面ではそれが時間を絵にしているからではないだろうか。
 この音楽を一枚の譜面にも見えるようなかたちに構成しているように見えるのが、「駱駝(リズミカルな樹々の風景のなかの)」である。赤を基調とする柔らかで暖かな色彩のなかに駱駝のようで駱駝に見えない動物の姿が溶け込んでゆくなかから、いくつもの声部と拍子をもった音楽を鳴り響かせようとしているかのようだ。また、これも赤を基調とした絵であるが、「バラの庭」においては、ひとつひとつの形態の動きと画面全体の色彩の諧調が見事に結びついていよう。そこでは、石積みの建築物の石の隙間から力強く花を咲かせ、光を放射するようなバラの花が、暖かな光によって照らし出された石の建築物によって覆われた風景に動きを与えている。バラが一輪また一輪と咲くなかで、石の階梯が色の諧調をなしているのである。
 クレーは、このように音楽を聴き出すようにして自然の生命へまなざしを注ぎながらも、同時代の社会的現実からけっしてまなざしを逸らしてはいない。第一次世界大戦による物心両面での破壊の悲惨さを一つの風景に凝縮させたかのような「破壊された街」は、このことを証し立てるものだろう。蝋燭の希望の灯が消えてしまった世界を、真っ赤な太陽がじりじりと照らし、廃墟を剥き出しにするさまを描くこの絵は、慰めなき世界を凝視するクレー自身のまなざしも同時に描いているのかもしれない。これと好対照をなすのが、暖かな光で照らし出された空間のなかに古代ギリシアの円柱を思わせるような建築物の断片を配し、瓦礫から何かが少しずつ造り上げられようとしていることを感じさせる「再構築」だろうか。
 ところで、自然の形態と画面の構成とが見事に結びついた作品として、もう一枚「蛾の踊り」にも触れておきたい。虫とも鳥ともつかない形態を浮かびあがらせ、その羽根の動きを描き出す震える線の動きが、青を基調とする画面全体の色彩の配置と緊密に結びついている。中心に描かれた生き物の踊りが空間を響かせているかのようだ。
 第3部は「エネルギーの造形」と題して、自然の事物が内側から自己を生成させる生命の躍動を画面上に描き出すクレーの創造を作品によって照らし出そうとしている。この第3部では、2枚の対照的なモノクロームの絵に魅かれた。1枚は「螺旋状にねじれた花II」。画面の右上、右下、そして左下から伸びてくる線をたどってゆくと、闇のなかに密やかに咲く花の形態に行き着くが、その花を描き出す螺旋状の線は、別の花ともつながっている。暗闇のなかで静かに応えあう生命のいとなみを描き出すようでいて、画面全体は闇のなかへ沈み込みながら、見る者の心を静め、沈思へと誘う。この闇のなかに沈潜してこそ、自然の生命に耳が開かれるのかもしれない。
 もう1枚のモノクロームの絵とは、死の前年に描かれた「シュユップ」という奇妙な画題をもった作品。魚類や爬虫類の鱗を思わせる形態が画面を覆い、嵐のように渦巻いている。その荒々しい動きは、「皮膚硬化症」と診断されたクレー自身の身体に現われた病魔の動きから見て取られたものであるという。病に苦しみながらも、自分自身の身体を蝕んでゆく自然の動きと対峙し、それを描き取ろうとする画家としてのクレーの姿が、その苦悩とともに伝わってくる作品。
 「イメージの遊び場」と題された第4部に配された作品はどれも、震動しながら既成のさまざまな境界線を揺り動かし、空間のなかに「遊び場」を開くクレーの線の魅力を発揮している。見ていて笑みを浮かべずにいられないような作品が多い。「窓辺のマリオネット」という作品に描き出されているのは、E・T・A・ホフマンの「砂男」に登場する窓辺の自動人形のようだ。柔らかな紫を基調とする色彩の諧調に包まれるなか、人形が涙を流し始めているようにも見える。「赤い鳥の物語」においては、線の動きがさまざまな生き物の形態への想像をかき立てる。画面の右上に描かれた赤い鳥(のような生き物)は、これからどのような生き物と出会うのだろう。鯨だろうか。それとも自分の何倍も大きな鳥だろうか。
 最後の第5部は、晩年のクレーの作品の画面を「物語る風景」として提示している。病魔に冒され、自由が利かなくなったクレーの手が、けっして直線的にではなく、緊張に満ちた震えを孕みつつ、行きつ戻りつしながら、あるいは線と線を縺れ合わせながら描く線。それは空間と時間を多層的に分節しながらイメージを産み出し、見る者に語りかけてくる。それは線が文字を思わせるようなかたちで空間を区切っているからかもしれない。そのような文字がイメージと、さらには画面全体の色彩の諧調と見事に結びついている作品として、「石板の花」を挙げておきたい。薄緑の石に刻まれたさまざまな記号が、花を咲かせるように、赤や青の色を帯びて浮かびあがる。しかし、記号をかたちづくる線そのものは、硬い石のなかへ沈み込んでゆくようにも見える。色と線の緊張。これが画面に独特の静けさをもたらしているのではないか。そして、静けさのなかで有機質の音と無機質の音が応えあっているかのようだ。
 そう、晩年のクレーの作品はどれも静けさによって貫かれている。ただし、その静けさは、冷えきった静けさではない。どこか暖かさを感じさせる静けさである。そして、その暖かさをもたらしているのは、時に生命あるものへの優しいまなざしであったり、時に醜悪な人間の生きざまをアイロニーを交えつつ受けとめようとするまなざしであったりするのだろう。とはいえそのまなざしも、自分自身へ向かうときには、厳しさを増しているように思われる。寓意的な自画像のように見える「忘れっぽい祝宴の席もはててから」の画面においては、晩年のクレーがしばしば手がけた天使像を思わせる形象が、自分自身へと沈潜している。そしてその姿は、寒色を基調とする硬質の静けさのうちに静止している。自分自身を厳しく見すえるクレーの透徹したまなざしを感じさせる作品である。
 最後に置かれていた死の年の「隣の家」は、クレーの現世への別れの挨拶のようにさえ見える。そこでは、隣の家へ遊びに行く子どもとなったクレーが、彼岸への扉を開こうとしているのではないか。落ち着いた緑と茶を基調としながら、微妙にちがった色を格子状のブロックに配することで、家々とその背景を構成する画面は、静かな暖かさに満ちている。クレーは、自分のこれまでの生きざまを受けとめながら、彼岸へ赴こうとしているのだろうか。
 このように、暖かな静けさによって貫かれているのは、もしかすると何も晩年の作品だけではないのかもしれない。振り返ってみると、今回の展覧会で見たクレーの絵のなかに、騒々しく自己主張したり、居丈高になったりするものは一枚もない。何よりもまず静けさによって貫かれているからこそ、クレーの画面は、何かを響かせ、語りかけてくるのではないだろうか。その無調の響きの源にある静けさ。それをもたらしているのは、クレーの透徹した耳をもった眼、生命の囁きを聴き取るまなざしであろう。それは彼の創造の核心をなすものの一つではないだろうか。今回訪れた「パウル・クレー──創造の物語」展は、初期から晩年までのクレーの優れた作品を数多く見せてくれるばかりでなく、このようなクレーの創造の核をなすものにまで思考をいざなう展覧会だったと言えよう(以上、http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Paul_Klee_17072006.htmより抄録)。
 ちなみに川村記念美術館は現代美術の充実したコレクションを誇っていて、なかでもマーク・ロスコの作品は独立した部屋を設けて展示してある。底なしに深い黒や赤が塗りこめられた作品が立ち並ぶその部屋に足を踏み入れると、自分を吸い込むものが迫ってくるような感じがして眩暈をおぼえる。クレーの絵を見るのとはまったく対照的な経験であった。それ以外では、シャガールの大きな油絵も印象的。東京の中心からはかなり離れてはいるものの、何か展覧会があるごとに足を運ぶ価値のある美術館の一つである。

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