2006年10月21日 (土)

ベルリン旅日記:10月20日

 今日の夕方の飛行機でベルリンを発って帰国するので、スーツケースを引きずりながらベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ向かう。これまでほとんどずっと晴れていたのだが、今日ばかりは天気が悪く、朝から半ば霧雨のように小雨が降っていた。
 この日のベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムは、デートレフ・シュテッカーの基調講演で幕を開けた。「ウィトゲンシュタインを読むベンヤミン」と題されたその講演は、豊富な資料を駆使して、ベンヤミンがウィトゲンシュタインの存在を意識していたことを示していたが、二人の言語哲学に深く分け入るものではなかった。両者がともに、主観的な志向を越えたものとして言語をとらえようとしているのは確かだとしても、それが「体系」であるというシュテッカーの見解も首肯しがたいところである。言語の生成を活性化させようとするベンヤミンはとりわけ、言語を「体系」としてとらえる考えからは遠いはずだ。その講演が終わった後、ベンヤミンにおける聴覚的モティーフをテーマとする分科会に参加する。ベンヤミンのエッセイに描かれるノイズや音響が、時の流れを中断しながら想起を誘発していることを際立たせ、ベンヤミンにおける想起をそうした音への応答として描くアンヤ・レムケの発表がとりわけ印象的であった。書物における声の救出というモティーフを主題としたクリスティーネ・イヴァノヴィチは、発表の最後に、ベンヤミンの思い出をアドルノやブロッホといったかつての友人に語らせる自由ベルリン放送のインタヴューを、ややラップ風に編集したものを聴かせてくれた。会場は大受けであった。
 午前のプログラムが終わったところで会場を後にし、テーゲル空港へ向かう。フランクフルトから成田へ行く飛行機が取れなかったので、今回はエール・フランスの便でいったんパリへ向かい、パリから成田へ飛んだ。そのあいだベルリンの新聞ターゲスシュピーゲル紙を拾い読みしていたが、「ベルリンは貧しくない」、「それゆえ連邦政府の特段の補助を必要としない」という憲法裁判所の判断に対する反応がほとんどの紙面を占めている感じである。ベルリンが自活していかなければならないとすれば、文化事業や社会事業の「節約」が当然強いられるわけだが、なかでもまず問題となるのが社会福祉事業の縮小である。新たな経済的格差が社会を引き裂いていること、さらに希望をもてなくなった人びとが子どもを虐待したりといったことが毎日問題となっているだけに、社会福祉の緊縮は、こうした格差の問題を放置することとも見られかねない。他方で文化をより開かれたものにすること、つまり教育を受け、芸術に触れる機会を広げることもけっして軽視されるべきことではないはずだ。あるコラムのなかに、「本を読み、じっくりと考え、そして劇場へ出かける者は、貧しいかもしれないが「下層」ではない」と書いてあった。経済的な所得はけっして多くなくとも、生の芸術に触れ、生きることの奥行きを感じ、その意味を噛みしめることができること。そのことは、奥深いところで生きていることを喜び、生きることに希望をもつことにつながるはずだし、また「階級」や「階層」を突破しながら生きることを変えることにもつながるはずだ。その可能性は、ベルリンにおいてはある程度確保されていよう。そして、芸術の経験をつうじて生きることを内側から変成させる可能性をすべての人びとに対して開いてゆくことは、「格差社会」化が語られるようになって久しい日本に生きるわたしたちに今課せられている課題でもあろう。

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2006年10月20日 (金)

ベルリン旅日記:10月19日

 今日も午前中から国際ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムに参加する。午前中の基調講演を担当したベルント・ヴィッテは、文化的な記憶、そしてその伝承がいかにその媒体に依存しているかを論じていた。伝承の媒体が歴史的な人間の言語となり、それとともにたとえばユダヤ教のトーラーが無限に解釈可能となったことを「ディアスポラ」と結びつけていたあたりは興味深かったものの、物語的な伝承、印刷された文字、近代国家の記念碑的建築と変化していった記憶の媒体が、20世紀に至って文学となり、今やその注釈に文化的な記憶の伝承がかかっているとする議論は、制度的な学問としての文学研究の自己正当化を志向しているように思えて、ややついて行きがたい。
 ベンヤミンの哲学の反体系性をテーマとする分科会へ行ってみると、二つの発表がキャンセルされたようで、発表は一つだけ。若いベンヤミンのソクラテス批判を取り上げながら、ベンヤミンが評価するプラトン的対話を「トラクタート」の概念と結びつけようとするものだったが、対話ということとベンヤミン自身の方法とを接続されるためには、もう少し詰めておかなければならないことがあるように思われた。それに続いて昨日の発表者を交えて討論が行われた。若い研究者たちが今ベンヤミンを読む可能性を熱く論じあう姿に触れることができたのは貴重な経験だったし、またその該博な知識にも驚かされた。それに比べたら自分はまだまだ勉強不足である。
 いったん宿に戻って少し本を読んだりした後、今度は国立歌劇場のアポロザールへベンヤミン・フェスティヴァルの午後のプログラムを聴きに行く。室内楽の演奏会やオペラ公演のアフタートークの会場として用いられることの多いこのホールで、ジョルジョ・アガンベン、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ステファヌ・モーゼスという世界的に知られた三人の哲学者の講演が行なわれるわけである。
 会場で空席を見つけて座ると、一列後ろの女性が携帯電話で「アガンベンは病気よ」と話している。ジグリット・ヴァイゲルによれば、アガンベンは今朝になって突然来られないと連絡してきたとか。病気か仮病か定かではないが、アガンベンが今ベンヤミンについて何を語るか楽しみにしていただけに残念である。とはいえ、ディディ=ユベルマンの講演もモーゼスの講演も興味深かった。とくに、コソヴォで撮られた家長の死を悲しむ家族の写真をモデルに制作されたレリーフを例に用いながら、その未完結性によって一回的で特異なものの記憶を甦らせるイメージの可能性を論じたディディ=ユベルマンの講演は、現代にベンヤミンを生かす道を説得的に示していたように思う。「パサージュ」としての、あるいは「根源」としてのイメージ、その反復、そして複製のうちに一回的なものが新たに見いだされるのだ。それを媒介する「解読」は、ディディ=ユベルマンによると「イコノロジー」の対極にあるという。モーゼスの講演は、ベンヤミンのうちにユダヤ神秘主義の伝統の継承を見て取りながら、『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」に見られる「原聴取」の概念が代表する聴覚的なモティーフがベンヤミンの思考のうちに一貫して見られることを強調するもの。ベンヤミンとショーレムがバベルの塔の建設と結びつける堕罪とともに失われた根源的な真理を聴覚的に復元しようという志向が、ベンヤミンの思考を貫いているというのである。
 夜はフィルハーモニーへベルリン・フィルの演奏会を聴きに行く。指揮はサイモン・ラトルで、シューマンとブルックナーの第4交響曲というプログラム。シューマンの第4交響曲は、1841年の初稿で演奏された。ちなみにブルックナーは、1878/80年のノーヴァク版。シューマンの第4交響曲を、楽章のテンポがイタリア語で記されている初稿で演奏すること自体、ラトルのシューマンへのアプローチのありようを示しているのかもしれない。ラトルは、少なめの弦楽器の編成で見とおしのよい響きをつくりながら、リズムの躍動を強調していたように思う。とりわけ、第1楽章と終楽章の主部における音楽の生命感には瞠目させられたし、第1楽章のコーダへ向かうテンポの運びもスリリングであった。目まぐるしくテンポが変化するなかでも響きを濁らせることのないベルリン・フィルの合奏能力にも、あらためて驚嘆させられる。とはいえ、リズムの躍動に力点が置かれるぶん、音楽の横の流れは後退し、それとともにこのシューマンの作品全体を貫く、そこはかとなく暗い緊張感も薄れてしまう。ラトルの指揮だと、すべての音が表に出てしまって、シューマンの音楽に必要な響きの奥行きと潤いが失われてしまうのだ。それゆえ、どのフレーズもたしかによく歌われているのだけれど、表情がどこか明るすぎてしまう。第3楽章まで短調で書かれているのを忘れてしまうくらい。また、スケルツォとフィナーレには、音楽の流れに実によくはまったルバートが見られたが、表現として少し表面的な感じも否めない。生命感に満ちた、鮮やかな、しかしあまりにも晴朗なシューマンだった。
 ブルックナーでは、ラトルの細やかな音楽づくりが印象に残る。メロディーに応じてトレモロの伴奏にも実に細かくダイナミクスの変化が付けられていたし、転調に応じて響きもさっと表情を変える。それによって、「ロマンティック」と作曲者自身が呼んだこの作品に特徴的なメロディーの美しさが引き立つのである。朗々としたソロを聴かせてくれたホルンをはじめ、管楽器奏者の巧さも光る。いや、管楽器のソロ以上に輝いていたのは、ヴィオラ・セクションのアンサンブルであろう。一本の楽器で弾いているように聴こえるほどのまとまりを見せながら、温かい深みをもった響きで、第2楽章の長いメロディーを見事に歌いきっていた。その心に響く深い余韻も忘れがたい。
 ラトルは、シューマン以上にブルックナーを自分のものにしているようで、音楽の運びに余裕がある。基本的にゆったりとしたテンポを取りながらも、音楽の流れが停滞することはないし、逆にテンポが速められても、性急さを感じることはない。間の取り方も実に自然だった。響きは、シューマンのときと同様、晴朗な鮮やかさが支配的である。迫力あるフォルテのトゥッティの響きも、晴れやかで見とおしがよい。各セクションの動きも生き生きとしていて、そのことが音楽の躍動感を高めている。そのことがとりわけプラスにはたらいていると思われたのが、第3楽章のスケルツォ。リズムの躍動と響きの解像度をこれほどの水準で両立させた演奏は耳にしたことがない。第1楽章も、晴れやかな喜びに満ちていて、聴いていて心地がよい。しかし、第2楽章と第4楽章においては、シューマンのときと同様、響きのあまりの鮮明さが音楽の奥行きを減じてしまっているように聴こえた。フィナーレのコーダを聴いても、奥深いところから湧き上がってくるものにどこか欠けるのである。また、ラトルの響きの鮮明さと音楽づくりの細やかさが、ブルックナーの音楽に特有の素朴さないしは豪放さを奪ってしまっている感じも否めない。フィナーレには、几帳面さが音楽の力強さを損ねてしまっているところもあった。このように、音楽の奥行きやブルックナーらしさがいくぶん欠けていたし、またライヴゆえの惜しいミスもあったとはいえ、音楽の自然な流れ、生命感に満ちた音楽の力強い躍動、細やかな表情、そして響きの鮮明さを、これほどの完成度をもって兼ねそなえた演奏は、ラトルの指揮するベルリン・フィルならではのものであろう。最近のラトルに対しては「伝統的」な「ドイツ音楽」のプログラムへの取り組みに不熱心であるとの批判があるようだが、この日のシューマンとブルックナーの演奏は、ラトルにそのような批判を浴びせる人びとにとって、どのような回答と映っただろうか。

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2006年10月19日 (木)

ベルリン旅日記:10月18日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが本格的に始まる。ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーで行なわれたその学会に午前中から参加した。午前中は、ジクリット・ヴァイゲルの基調講演を聴いた後、ベンヤミンの思想の反体系性をテーマとする分科会に参加した。ベンヤミンにおける「世俗化」の弁証法を論じたヴァイゲルの講演において興味深かったのは、余すところなく世俗化された世界が再び神話によって覆われているところに言わば「覚醒」としての世俗化をもたらす可能性を示すものとしてベンヤミンの神学的モティーフがあるという論点と、「覚醒」としての世俗化の言語のありようを彼の「翻訳」概念が示しているという論点である。楽園的な起源から隔絶されて歴史の舞台に登場した言語のその起源からの距離を測り、言語の神話化の不可能性を示す「試み」としての翻訳。またその「試み」のためにジャーナリスティックなメディアを動員したとも言えるカール・クラウスにベンヤミンが注目したことの意味も、あらためて考えてみなければならない。分科会の発表のなかでは、シュテファニー・ヴァルドウのものに教えられる点が多かった。ベンヤミンの「純粋言語」の概念は、カッシーラーが神話的な命名のはたらきとして論じているし、またブルーメンベルクが「絶対的メタファー」と呼んだものとも関連するという。三者の関係を論じた彼女の本を読んでみなければと思う。
 昼休みのあいだ、ウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿で開催されていた、20世紀のヨーロッパにおけるマイノリティの迫害、追放、亡命を主題とする展覧会を見る。追放反対センターという団体が主催したこの展覧会「強制された道──20世紀ヨーロッパにおける逃亡と追放」は、第一次世界大戦期のトルコによるアルメニア人の迫害と虐殺から、1990年代の旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」までを扱っていた。ナチスによるユダヤ人のホロコーストを取り上げる一方で、第二次大戦後の東欧における残留ドイツ人に対する迫害やユーゴスラヴィアに残留したイタリア人に対する迫害も扱うなど、目配りは利いているし、歴史的な記述も詳しかったのだけれども、当時のドキュメントの実物の展示が少なく、展示としてのインパクトに欠ける感は否めない。とはいえ、わずかな生活用品の展示は、追放されることが、これまでの生活を、それが沈殿させてきた記憶を、その原風景とともに剥奪されることなのだ、ということを印象づけてくれる。
 午後、再び科学アカデミーで基調講演と分科会に参加する。サミュエル・ウェーバーの基調講演は、ベンヤミンがさまざまな「可能性」、たとえば「翻訳可能性」、「解読可能性」、「認識可能性」などを提示することで何を狙っていたのかをテーマとするものだった。通常コミュニケーションの可能性と理解される「伝達可能性」を分有する可能性ないし能力と理解していたこと、またその可能性そのものを伝達する言語に、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」でいう「一回的で極端なもの」たちを配置し、また一回的ないし特異なものの存在を証言する力を認めていたことが興味深い。「世俗化」のモティーフをテーマとする分科会では、「もう一つの世俗化」を論じたアーヴィング・ヴォールファールトの発表が圧倒的な印象を残した。世俗宗教としての資本主義とナショナリズムの共犯、そして原理主義の跋扈によって再神話化が進む現代においてベンヤミンを読み、そこからこの神話の脱呪術化としての世俗化の可能性を引き出す一つの行き方を、力強く示していたように思う。ヴォールファールトは、「複製技術時代の芸術作品」において提示される「第二の技術」のうちに「第二の世俗化」の可能性を見ると同時に、言語をもって神話化された歴史の過程に介入し、その連続性を破砕する可能性も語っていた。それを具体的に構想することこそ、喫緊の課題であろう。
 ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムが終わった後、国立歌劇場でパーセルの「ディドとアエネアス」の公演を見る。ツアーに出ているシュターツカペレに代わってピットに入ったのは、ベルリン古楽アカデミー。アッティーロ・クレモネージが指揮をつとめた。ベルリン古楽アカデミーは、いつもながら素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれたが、今回の演奏ではとくに表情の豊かさが光った。ピアニッシモでも響きが痩せないので、安心して音楽に身を委せることができる。他方で、フォルテの鮮やかさも実に爽快である。歌手たちの歌唱もすぐれていた。とりわけベリンダを歌ったデボラ・ヨークの巧さと、ディドを歌ったオーロレ・ウゴリンの心のこもった歌とが印象に残る。ヴォーカルコンソート・ベルリンの合唱も、舞台で複雑な演技をこなすなかでも美しいハーモニーを聴かせていた。
 このように、演奏にはほぼ満足できたのだが、サーシャ・ワルツの演出と振り付けには、正直に言って最後まで付いて行けなかった。歌とダンスを別々に担当させるのはよいとしても、同じ役を演じる人物が二人同時に舞台に登場するのにはどうしても違和感をおぼえるし、まったく音楽のないところでディドとアエネアスの物語と関係のない挿話風のダンスと演技が延々と続くのには閉口させられた。ダンサーたちの踊りはよく訓練されているけれども、舞台全体がつねに雑然としてしまう。プロローグで用いられた、登場人物を水族館の魚のように見せるプールの意味は最後までわからなかった。ワルツの演出は、パーセルの「ディドとアエネアス」を今に甦らせることではなく、ダンサーたちのパフォーマンスを見せることを志向した演出だったのではないだろうか。かつて北とぴあの音楽祭で見た、ほとんど能の舞台を見るかのような演出のほうが、よほど作品にふさわしいと思われる。演奏がすぐれていただけに、舞台が「ディドとアエネアス」という作品の印象を散漫にしてしまっていたのは悔やまれる。

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2006年10月17日 (火)

ベルリン旅日記:10月16日

 夕方まで国立図書館にこもって勉強する。ベンヤミンとハイデガーがフンボルトの言語哲学をどのように読んでいるかをまず調べてみると、読んでいるテクストが少し異なっているようだ。また、ベンヤミンに関しては、彼とフンボルトを伝えた言語学者が書いたものも見てみる必要がありそうだ。その著作が図書館に所蔵されていないか調べてみると、何冊かあるうちの1冊は戦争で失われたかもしれないとのこと。空襲と市街戦でこの街が一度は一面の廃墟と化したことがあらためて思い出される。
 それが用意されるまで時間がかかるので、その間ハイデガーの言語論を2篇読む。ハイデガーは、ベンヤミンと同様に言語を、語るはたらきにおいて、また名づけるはたらきからとらえようとしているが、それを遂行する言葉を、「伝説」とも重なる「言うこと」として、存在の出来事への聴従のうちに根づかせようとしている。その消息に分け入るなら、ハイデガーとベンヤミンの対蹠点を見いだすこともできるだろう。他方で、ハイデガーの「言語への道」には、ノヴァーリスへの言及とともに、言語が自己自身を語るはたらきに注目するという、ベンヤミンとハイデガーの共通の出発点も示されているように思う。
 買い物をして、いったん部屋へ帰った後、歩いてユダヤ博物館へ行く。そこで開催されている「故郷と亡命──1933年以後のドイツ・ユダヤ人の移住」を見るためである。1933年にヒトラーのナチが政権を掌握して以後、ユダヤ人への迫害が強まってゆくなか、ユダヤ人たちがどこへ、またどのように生存の場所を求めたか、またそこでどのように生きていたかが、さまざまなドキュメントともに示されていた。ユダヤ人たちの移住先は、イギリスやアメリカ、あるいはパレスチナばかりでなく、遠くは中国やラテン・アメリカにまでおよんだ。そこで、ドイツ文化に根ざした生活を立てなおそうとする逞しい努力の跡を見ることもできれば、逆に自殺に追い込まれた人びとのことを報じる記事も展示されている。全体として、亡命すること、そして亡命先で生き続けることの苦難のさまざまな局面に触れることのできる展示であった。そのなかに、ヴァルター・ベンヤミンについての展示も見つけた。アメリカへの移住を受け入れるホルクハイマーの手紙と、自殺を図ったベンヤミンの最後の言葉を書きつけたグルラント夫人のメモが展示されていたのが興味深い。そのピレネー越えを導いたリーザ・フィトコの肉声も聴くことができた。
 部屋に帰ってテレビを点けると暗いニュースばかり。ドイツにおいても経済的な格差が広がりを見せるなか、「下層」という言葉をめぐって論争が起きている様子。社会厚生大臣は、「一つの社会」を保つことの重要性を強調していたが、社会の溝は確実に広がっているようで、職に就く見込みのない親が自分の子どもを虐待して死なせてしまうといった事件も起きている。その一方で、ネオナチ勢力がじわじわと広がってもいるようで、東部の各州では、議会に議席を得てもいる。東北部のメクレンブルク・フォアポンメルンでは、議会の初日から極右議員とのあいだでさっそく騒動がもち上がったようだ。ブランデンブルクでは、ネオナチの集会活動を規制する法律を作ろうという動きがあるという。ポツダムの中央駅でネオナチの行進に遭遇したときの恐怖が脳裏に甦った。また、それとともに、ユダヤ博物館に掲げられていた、世界の平和──それ社会のそれでもあろう──と心の平和を両立させることの重要性を説く、ヘルマン・コーエンの言葉が思い出された。

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2006年10月13日 (金)

ベルリン旅日記:10月12日

 今日から20日までベルリンに滞在する。第一の目的は、雑用から離れて研究のための文献を読み、考えること。だいたい毎日国立図書館に通い、場合によってはまる一日そこに閉じこもることになりそうだ。ベンヤミンがパリの図書館でしたことの真似事を、ベンヤミンについてやろうというわけである。ただ、そうでもしないととても勉強などできないのが現在の広島での状況でなのだ。この滞在期間に、言語を、それを語る活動の相においてとらえ、また意思疎通の手段となるたんなる記号としてでなく、語るはたらきとともに表現の媒体として生成するものとしてとらえるドイツの言語哲学の伝統からベンヤミンとハイデガーの言語哲学が生じてきたこととともに、両者のコントラストを示すことによって、ベンヤミンの言語哲学の可能性を提示しようとする自分自身の立場を浮かびあがらせるような論文の下準備をできれば、と思っている。
 ベルリンへ来た第二の目的は、17日から始まる「国際ベンヤミン・フェスティヴァル」のいくつかの催しに参加すること。アガンベン、ディディ=ユベルマン、サム・ウェーバー、そして多和田葉子の師でもあったジグリット・ヴァイゲルといった、日本でも名前が知られている学者たちの講演に接することができるのを期待している。わざわざこの時期にベルリンへ来たのもそのためである。ちなみに「フェスティヴァル」なので、講演やシンポジウムばかりでなく、展覧会や映画上映、さらには日本人によるダンス・パフォーマンスも、その枠内で催されるという。
 三つ目の目的として、やはり音楽を聴いたり、絵を見たりといったことがあるのも、白状しておかなければならない。フランクフルトでベルリン行きの飛行機を待つあいだ読んでいた『南ドイツ新聞』によれば、来週から博物館島のボーデ美術館が新装なって開館するとのこと。写真を見るかぎり、王宮のコレクションのような展示である。週末には、懐かしいポツダムを訪れて、サン・スーシ宮殿の絵画館のカラヴァッジョも見ておきたい。音楽は、ベルリン・フィルの演奏会のほか、オペラの公演などに接する予定。
 ベルリン行きの飛行機がフランクフルトへ来るのが遅れて、そのあいだ待合室に山と積まれた新聞を読んで暇を潰していたが、どの新聞もやはり北朝鮮の核実験の政治的な影響を論じている。日本での報道と異なるのは、北朝鮮とアメリカの関係がクローズアップされていること。どのようなコンテクストのなかで「核」というカードが切られたのかを考えさせてくれる。文化面では、ナチの親衛隊に所属していたことを最近になって自伝で告白したギュンター・グラスをめぐる騒動が相変わらず続いている様子が報じられているし、『南ドイツ新聞』は、今週の土曜に生誕百周年を迎えるハンナ・アーレントが、戦後ドイツへ旅行したときに、ケーニヒスベルク時代の彼女のギリシア語の教師で、後にナチ党員として教育のナチ化に向けて動くことになる人物と再会したことを取り上げていた。ネオナチ勢力も暗躍を続けているようである。ベルリンのユダヤ系のサッカー・チームは、試合中にネオナチと思われる観客から繰り返し反ユダヤ主義的な野次を浴びせられたことを理由に、試合を途中でボイコットしたとか。
 ベルリンに到着したのは午後8時過ぎ。ホテルにたどり着いたのは結局9時前のことだった。長旅の疲れがこれまでたまっていたのと合わせて出たのか、何もする気にならない。空港で買ったチョコレートをかじりながら新聞やテレビを見ているうちに眠くなってしまった。

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2006年8月 4日 (金)

岡真理『棗椰子の木陰で』

 48時間の爆撃停止の期限が切れて、イスラエルによるレバノンへの、空と地上両方からの激しい攻撃が再開された。攻撃の激しさは増す一方だが、これは当初から防衛の範囲をはるかに越えている。空からの爆撃においては、非戦闘員を無差別に虐殺するもの以外の何ものでもないクラスター爆弾も使われたという。今朝の新聞には、病院を掃討するイスラエルの地上特殊部隊の写真も載っていた。そして、このような一方的な軍事攻撃の被害を受けるのは、カナの避難施設への爆撃が象徴するように、決まって子どもや年老いた人びとをはじめとする一般の市民である。レバノンでは900人に上る人びとが殺され、そのほとんどが民間の非戦闘員であるという。そして、今や100万人を超える人びとが、住み慣れた場所を追われ、難民となっているとも報じられている。
 そのような悲惨な状況を最も研ぎ澄まされた眼で見つめている一人がアラブ文学研究者の岡真理であるが、彼女がこの10年間、悪化の一途をたどるパレスチナとその周辺のアラブ世界の情勢を見つめながら、それに応える文学の力を問い続け、書き継いでいった論考を集めた一冊が最近出版された。『棗椰子の木陰で──第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社)である。この論集には、言葉を語り、語られた言葉を読むことを、そして語り、読む主体のアイデンティティを、正確な言葉づかいをもって一歩一歩突きつめ、それらについての従来の見方を、すなわち人びとの自明のよりどころとなっているものを突き崩し、その果てに文学の、そして言葉の可能性を切り開こうとする試みの軌跡が刻まれている。
 たとえば、いわゆる「グローバリゼーション」が進行するとともに富める者と貧しき者が引き裂かれるなかで、あるいはイスラエルとアラブ世界との緊張が高まるなかで、しばしば「異文化理解」や「多文化共生」といったことが叫ばれる。しかし、そのように「固有の」文化があらかじめ存在することを前提するかのような議論には、大きな落とし穴があることを岡は指摘している。「かつて帝国主義の時代、非西洋世界の文化は価値的に劣ったものとされ、西洋中心主義の世界観のなかで周縁化されてきた。現代においては、過去の西洋中心主義に対する批判として、非西洋世界の文化の自己主張がさかんになされるようになった。とりわけグローバリゼーションが進行する今、世界の一元化に対する文化的抵抗として多文化主義が主張されている。どの地方にも、その地方固有の文化、固有の価値観がある、アラブにはアラブ独自のイスラーム文化によって培われた経験と価値観が、アフリカにはアフリカの太陽と母なる大地によって育まれた生と価値観がある、という主張。西洋中心的な私たちの世界認識が批判され、解体されるのは良い。しかし、ここで注意したいのは、こうした本質主義的な地方主義に根ざした多文化主義は、依然として西洋=普遍、非西洋=特殊という構図が強固に存在するこの世界では、西洋中心主義的な世界認識を解体するどころか、むしろ強化することになりはしまいかということである。知の本質主義的地方主義に居直り、地方の文化的特殊性を強調する「原理主義」が、西洋=普遍とする西洋中心主義と共犯関係を結んでいることはつとに指摘されているとおりである」。
 では、酒井直樹が批判する「文化主義」とも重なりあうこの「本質主義的地方主義」を乗り越えてゆくどのような道筋があるのだろうか。岡は、「固有な」ものとして、自己のアイデンティティの基盤として自明視しているものを内側から解体することを提案している。たとえば「母語」。これを私たちは「固有の」言語として「自然に」話しているだろう。しかし、それはもとをただせば、「母」という他者の口から吹き込まれた「異物」なのだ。それを語ることは、核心においては一体化の享楽であるよりはむしろ分裂の「苦悶」なのではないか。そのことを岡は、トリニダート・トバコの詩人マルレーヌ・ヌルベーズ・フィリップの詩「言語の論理に関する言説」を解釈しつつ、説得的に示している。
 このことを洞察し、言語の物質性に躓きながら、他者の言語として自分が「母語」として話してきた言語を見つめなおすこと。岡によれば、このことのうちに言葉を話すことを他者に開かれた活動へ反転させる契機がある。「母語を母語として生きる者であろうと、母語なるものの他者性を、つねにすでに、生きている。これらのテクストが読者に要求するのは、言語の物質性を回復させ、私たちがそれに躓くことによって、母語なるものの、忘却されてあるこの生々しい他者性を想起することにほかならない。言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。/だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者に開かれたものにする、その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。私の躯のなかに吹き込まれたあなたの言葉が、私の呼気となって出てゆく、開かれた私の躯が反響板となって、あなたの言葉を、あなたのものではない他者の言葉を、誰のものでもない言葉を、私のことばとして、私たちの言葉として。誰のものでもない他者の言葉を分有する者として。苦悶であると同時に、歓びでもあるような」。
 「固有の」言語ではなく、他者の言語を分有していることを引き受け、複数性を自分自身のうちに刻印することによってこそ、他者たちのあいだで言葉を響きあわせることができる。「この世に居場所をもたない者たちの、死者たちの声」に耳を澄ませ、「正統性」の名のもとでのあらゆる排除の暴力を越えたところで、そのように掻き消されようとしている声に耳を澄ませ、それに応答することができるのだ。『千夜一夜物語』、ナワール・エル=サアダーウィーの『零度の女』、李良枝の『由煕』といった文学作品の精緻で批判的なレクチュールをつうじて、岡真理のエクリチュールは、これまで自己の母胎と見なしてきたものを突き崩した先に、他者と応えあう言葉を見いだすことへ読者をいざなおうとしている。
 ところで、『棗椰子の木陰で』には、1997年から2006年にかけて、パレスチナの出来事を中心に、ひとつひとつの出来事に応答しつつ、そこにある暴力と、それに対する抵抗を証言するクロニクルも収められている。それを書き継ぐことをつうじて、岡はアラブ世界の情勢を見すえつつ、そのなかで暴力的な抑圧に苦しむ人びとと連帯しようとしている。その姿を見つめながら、レバノンに対する不当な攻撃に対して、そしてその陰で今も進行しているガザへの暴力に対して、抗議の声をあげようとしない自分自身の今ここを、戦慄とともに見つめ返すべき時が来ているのかもしれない。

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2006年8月 1日 (火)

石見銀山を訪れる

 ようやく梅雨の明けた日曜日、世界遺産への登録を申請している石見銀山へ出かけた。思ったよりも遠くはなく、広島市内の自宅から車で、高速道路を使わなくても2時間足らずの距離。11時半頃に出て、午後1時過ぎには石見銀山公園の駐車場に到着した。
 まずは腹ごしらえということで、大森の街の入り口にある「御前そば」という蕎麦屋に入って、割子そばを食す。松江の蕎麦屋が出すものに比べてかなり素朴な感じの割子そば。あまり腰が強くなく、少しぼそぼそした感じで、個人的には今ひとつ。石見地方の蕎麦は、出雲蕎麦とはまたちがった打ち方で作られているのだろうか。それにしてもこの蕎麦屋、ハワイアン風にアレンジされた「ウルトラマン」シリーズのテーマ・ソング(「ウルトラマン・セブン」の歌の冒頭をウクレレが奏でるのを想像してほしい)を始終流していたのは店主の趣味だろうか。
 腹ごしらえがすんだところで、近くにある羅漢寺を訪れ、銀山での事故や苛酷な労働のために命を落とした人びとの慰霊と祖先の供養のために彫られたという五百羅漢を見る。まず寺に入ると、秘仏の降三世明王と大元帥明王が公開されていると案内された。本堂の奥を見れば異様にけばけばしい極彩色の木彫が眼に飛び込んでくる。どちらも江戸中期の木彫のようだが、目のあたりをリアルに作ろうとしているのが逆にキッチュな感じ。両明王に踏みつぶされている怪獣のほうが、どこかユーモラスで魅力的だ。
 さて、五百羅漢像のほうは、寺の道を挟んだ向かいの崖に掘られた石窟に安置されているが、これには圧倒された。どこも飾ったところのない素朴な石像ながら、造形がぎこちないわけではなく、むしろ洗練された造形のなかで人間の喜怒哀楽を生き生きと表現している。徳川吉宗の時代に、温泉津の石工坪内平七とその一門の石工が彫り始めたとのこと。確かな技術で、衒いのない人間の姿が彫り出されている。羅漢とは、人間と仏の中間の存在なのだとか。その五百の姿は、人間のすべてを象徴するのかもしれない。人間のすべてを表現するかのように、さまざまな表情と姿態を見せる石像たちが、狭く、薄暗い石窟のなかに所狭しと並んでいる。左右の石窟に、250体ずつの羅漢像が安置されていた。
 羅漢寺を後にして、ひところは銀の取り引きで栄えた大森の街へ入る。1800年の大火で、街はほぼすべて消失してしまったとのことなので、そう古い建物が残っているわけではない。近代初期の街並みが残っているという感じだろうか。洋館風の建物もあるし、古い看板やブリキの広告板が木の壁に打ち付けられているのも見られるので、明治か大正へタイム・スリップしたような気がする。
 大森の街に残るいくつかの古い建物は公開されていて、まず代官所の役人の家だったという旧河島家住宅を訪れる。武家屋敷らしい質実剛健な造り。これに対して、重要文化財に指定されているという熊谷家の屋敷は、一つの城のような豪奢な造り。銀の掛け屋として財を成し、酒造業をはじめさまざまな事業を手がけた石見有数の商家の屋敷は、大きな土蔵をひけらかすかのように造られた広い客間がある一方で、こぢんまりとした茶室もそなえている。いくつかの部屋には、往時の商売と生活を偲ばせる展示もあった。全体的に、武家の家よりも明るい色調で統一されていたようだ。
 これら二つの屋敷のあいだでは、かなり以前に廃業したと思われる理髪店の戸が開け放たれていた。のぞいてみると、古い革張りの椅子が土間に鎮座している。かつてどんな紳士がこの椅子に座っていたのだろうか。また、小高い丘のようなところには、もうすでに廃寺となっているとおぼしき寺もあり、その門の両側では、一本の木から彫り出した仁王像が踏ん張って睨みを利かせている。かなりの大きさで、ぎょっとさせられた。
 大森の集落の端のほうにあるかつての代官所は、今は石見銀山資料館となっている。なかなか立派な平屋の代官所だが、石庭の奥に抜け穴が隠されているのが面白い。百姓や鉱山労働者の一揆から逃れるためだろうか。資料館の展示は、銀が最も多く採掘され、大森の街が栄えた江戸初期の鉱山と鉱山街の歴史に焦点を絞ったものと言えようか。とくに灰吹法という手法で銀がどのように抽出されたのかを示す展示が面白い。鉛との比重の違いを利用した巧みな手法だったことがわかる。また、石見の銀は大航海時代のヨーロッパの注目も集めていて、そのことが当時の地図からもわかるし、鉄砲やキリスト教が伝来したのも、石見の銀に惹かれたヨーロッパ人の波が日本列島へ打ち寄せるなかでの出来事だったとか。たしかに16世紀のヨーロッパの世界地図にも石見銀山とおぼしき場所は記されている。当時の航海者の実感としては、「ジパング」は黄金の国ではなく、銀の島だったのかもしれない。
 石見銀山の隆盛を描こうとする資料館の展示では、鉱山労働者の苦難は今ひとつよく伝わってこない。それは今や「間歩」と呼ばれる坑道の岩肌から読み取るほかないのだろうか。最後に訪れた龍源寺間歩は、鉱山労働の厳しさをわずかに伝えているように思われた。狭い道路を通った先を少し登ったところにある入り口からは、白い靄とともにひんやりとした空気が漂っている。少し坑道のなかへ入ってみると、それが湧き水のせいだということがわかった。岩肌のあちこちから水が染み出ているし、足下ではちょろちょろと水が流れている。あちこちに垂直に掘られた細い穴があったが、そこから絶えず水を汲み上げなければ、銀を掘り出すどころではなかったようである。水を汲むのは銀を削り出すより、心理的にも体力的にも厳しい仕事だったにちがいない。
 江戸時代の初期にシルバー・ラッシュに湧いた石見銀山も、徐々に採掘量が落ち、鉱山町もさびれていったという。そんな石見銀山の鉱山労働者たちは、どこから来て、ここでどのように生き、そして死んでいったのだろう。石見銀山が世界遺産に指定されるかどうかはともかく、まずは鉱山労働者たちの生きざまを、ウォーラーステインの言う「世界システム」の植民地主義的な拡大が進みつつあった世界の広い文脈のなかに位置づけながら浮き彫りにする努力をするべきではないか。大航海時代のヨーロッパにも知られた石見銀山の世界的な意義を強調したいなら、なおさらのことである。今の大森地区は、若い人びとを呼び寄せてこ洒落た店やギャラリーを開かせるなどして、街の若返りと観光地化を優先させているように見える。それも街の活性化のためには欠かせないとはいえ、銀山の歴史をとらえなおす努力も同時に続けなければ、石見銀山は現在の日本と世界を、とりわけそこにある資本主義の問題を照らし出す輝きを失うことになろう。ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」が坑道の岩壁のなかへさらに深く埋め込まれてゆくことを危惧させられた石見銀山への旅であった。
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2006年6月26日 (月)

「ガーダ──パレスチナの詩」

 古居みずえ監督のドキュメンタリー「ガーダ──パレスチナの詩」を見る。上映会場となった原爆記念資料館の会議室は150人ほどのキャパシティだったが、中国新聞に監督を紹介する記事が出たためだろうか、雨天だったにもかかわらず、立ち見客が出るほどの盛況であった。
 作品は、ガーダというガザ在住の女性が、学問によって啓蒙された女性として、伝統的な慣習や女性の役割を押しつけられるのに反発しながらも、結婚し、子どもを産むなかで、苦難を生き抜き、抵抗を続けるパレスチナの女性としてのアイデンティティに目覚め、1948年以来のイスラエルの占領支配に苦しみながらも生活を守り続ける女性たちの記憶を一つの歴史として語り継ごうと決意し、ガザ周辺に住む老女たちを訪ねて回るさまを追っている。パレスチナの女性たちの日常の息づかいを、それを取り巻く空気とともに細やかに伝えるとともに、それ自体がイスラエルの圧政に対する抵抗となるような日常生活の力強さをも暖かく浮かびあがらせる映像が胸を打つ。
 古居みずえは、12年間にわたってガーダを追い続け、パレスチナの人びとの生活に密着しながら、500時間におよぶ映像を撮り貯めたという。そのなかから選りすぐられた2時間足らずの映像は、パレスチナの女性たちの息づかいのなかから、男性的視点からはなかなかとらえることのできないもう一つの抵抗の姿を浮かびあがらせている。家屋や農地を壊されてもそこで生活を守ることが、イスラエルの暴力に対する抵抗なのである。
 このドキュメンタリーが描き出しているのは、パレスチナの人びとの生活が歌に満ちていることである。結婚の祝宴のような場で人びとが歌い、そして踊るのはもちろんだが、けっしてそうしたハレの場だけに音楽があるわけではない。女性たちは、歌いながら生活を守っていると言ってもよいくらいだ。銃弾が飛び交うなか、女性たちは歌いながら菓子を作り、子どもをあやす。そして手を動かしつつ歌うなかに、かつての記憶が甦ってくる。そのように呼び覚まされてくる記憶をこそ、ガーダは聴き取り、語り継ごうとするのである。
 最も印象的だったのは、ガーダの義理の祖母が鎌を動かしながら、麦刈りの歌と思われる哀愁を帯びた歌を歌うシーン。刈り入れを真似ながら歌ううちに、イスラエルの侵攻によって故郷を追われた記憶が甦ってきて、彼女は涙にくれる。そのように、歌が時に涙とともに呼び起こす記憶を継ぎ合わせ、パレスチナの女性たちひとりひとりの身体的な生に根ざした記憶を描き出すこと、それはイスラエルのシオニズムのイデオロギーを形成する、ひと続きの国民的アイデンティティの物語とは異なったもう一つの歴史を提示することであろう。そして、このもう一つの歴史を書くことが、パレスチナの女性としてのガーダの抵抗なのである。
 ガーダがこのような抵抗に目覚めたのは、第二次インティファーダにおける幼い甥の死がきっかけだった。他の子どもたちと投石による抵抗に加わっていた甥は、イスラエル兵によって後ろから撃たれたのである。イスラエルの兵士は、逃げてゆく子どもの後頭部に銃弾を撃ち込んだのだ。映像は、そのような理不尽なイスラエルの暴力とそれに対するパレスチナの人びとの悲しみも描き出している。壊された家屋となぎ倒された果樹。その上に広がる青く澄み渡った空。古居みずえの「ガーダ」は、両者の落差のなかで悲しみを背負いながら、また歌うことで悲しみを他者と分かちあいながら生き抜く女性たちの息づかいを届けながら、もう一つの歴史の希望を感じさせる作品と言えよう。そこにあるのは、広島にいるわたしたちの抵抗としての歴史の希望なのかもしれない。
 パレスチナの女性たちの姿を暖かく、また細やかに描き出す「ガーダ──パレスチナの詩」の広島での上映が、この一回限りで終わってしまうのは実にもったいない。女性をはじめ、もっともっと多くの人びとに見てもらいたい作品である。広島市内の映画館で、一週間でもよいから上映する可能性はないものだろうか。

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2006年6月13日 (火)

「ルート181」

 6月11日、パレスチナ人ミシェル・クレイフィとイスラエル人エイアル・シヴァンという二人の映像作家が監督した作品「ルート181──パレスチナ−イスラエル・旅の断章」を見る。上映会場となった広島市内の映画館(横川シネマ)には、椅子が足りなくなるほどの人が詰めかけていた。上映会を主催したグループのメンバーから聞いたところでは、200名近い入場者があったとのこと。あまり広く共有されているとは思えないパレスチナの状況を扱った映画にこれほどの人が集まるとは正直予想できなかった。広島の人びとの外へ向かう問題意識もまだまだ捨てたものではないということだろうか。ともかくこの上映会が、パレスチナの状況と問題がこれまで以上に広く共有される機会となったことは率直に喜びたい。
 映画「ルート181」のタイトルは、1947年の「国連決議181号」にもとづいている。その決議はパレスチナの分割線を定めるもので、この分割線が後にアラブ国家とユダヤ国家の境界線になることもうたっていた。しかし、1948年のイスラエル独立とそれに続く中東戦争の結果、この決議は反故にされてしまう。それが定めた境界線は、幻のものになってしまったのである。映画「ルート181」は、クレイフィとシヴァンの二人がこの幻の境界線を「ルート181」と名づけ、それをたどった旅の記録であるが、その映像はパレスチナの地から複数の声を届けながら、日本の現在の問題を鋭く照らし出している。
 「ルート181」上の土地は、イスラエルによって征服されている。かつてあったパレスチナ・アラブ人の集落は跡形もなく一掃され、そこにヘブライ語の地名が覆い被せられているのだ。あたかもアラブ人たちの生の記憶を消し去ろうとするかのように。そして、そこに住むユダヤ人たちは、自分がそこに他者を排除しながら生きていることを、二人の映像作家の前で正当化しようとする。神の約束や最初の開拓者たちの記憶を都合よく解釈することによって、そこがもともと自分の土地だったことを裏づける物語を捏造し、場合によってはそのために博物館のような施設まで建てたりするのである。その様子は、植民地支配をも利用して人びとを動員し、軍艦をはじめとする兵器を造り続けた軍需産業としての重工業産業の現在に至る存続を正当化しようとするかのように、いわゆる「ものつくり」の先達を礼賛しようとする博物館が建設されてしまう広島の状況とも二重写しになる。
 映画に登場するユダヤ人の多くは、そのようにひと続きの物語を作りあげることによって自分のアイデンティティと現在の生存を正当化する一方で、それがパレスチナのアラブ人の排除の上に成り立っていることを問いただされると、アラブ人への攻撃性を剥き出しにする。女性や子どもを含め箒で掃き出すように追放したことを、「弱い」アラブ人自身に責任があったことのように語る元軍人、アラブ人を「犬」や「癌」と呼んでその排除を正当化しようとする若い労働者。とりわけ新参の移民としてイスラエル社会のなかでも底辺に追いやられ、差別の対象ともなっている中東生まれのユダヤ人が、アラブ人への敵意を露わにすることによってイスラエル国民であることをことさらに自己主張しようとするさまは、日本でもいわゆる「勝ち組」になれるコースから外れてしまった人びとが、隣国の人びとへの敵意を剥き出しにしながら「国民」の虚像に必死でしがみつき、自分がマジョリティに属していることを何とかして確かめようとする様子にも重なってくる。そして、イスラエルにおいては、このように自分のアイデンティティの不確かさを他者に対する攻撃性によって埋め合わせようとする人びとが、やがて兵士となってパレスチナ人への直接的な暴力に手を染めることになるのだ。それによって、かつてユダヤ人がホロコーストのなかで被った暴力が、皮肉なことに今度はパレスチナ人へ向けて繰り返されることになるのである。
 そのことが実は、第一次中東戦争におけるイスラエルのパレスチナ・アラブ人居住地域の征服と占領以来、不断に繰り返されていたことも、映画は証言している。たとえばロッドと現在呼ばれているパレスチナ中部の街には、1948年当時にパレスチナ人を閉じ込める地区が造られていて、その地区はこともあろうに「ゲットー」と呼ばれていたという。ユダヤ人を閉じ込めていたゲットーが、ユダヤ人の手によって、パレスチナ人を閉じ込めるものとして再び造り出されたのだ。しかもロッドの「ゲットー」では、300人におよぶパレスチナ人がモスクに集められ、イスラエル人によって虐殺されたのである。それを目撃し、さらにはナチス・ドイツの絶滅収容所でユダヤ人特務班が同胞の遺体の処理を強いられたのとまったく同じように隣人たちの遺体の処理をさせられたのを証言する年老いたアラブ人の床屋が登場するシーンは、明らかにクロード・ランズマンの映画「ショアー」のなかの、絶滅収容所の生き残りアブラハム・ボンバが、床屋として髪を切りながら、ガス室に送られる直前のユダヤ人女性たちの髪を切らされたことを証言するシーンを思い起こさせようとするものであろう。クレイフィとシヴァンは、ボンバが経験したのと規模こそ異なれ、他者を絶滅させようとする点では同じ暴力が、ユダヤ人によって、それもホロコーストのわずか数年後に繰り返され、今も繰り返され続けていることを突きつけているのだ。カメラが映す、近隣アラブ諸国へのアラブ人の「移送」──それはユダヤ人の収容所への「移送」というかたちで用いられていた語だ──を訴える政治的スローガンもまた、戦慄を催すものだった。
 このように反復される暴力の中心的な担い手となっているのは当然ながらイスラエル国防軍の兵士たちであるが、そのなかの若い、哲学を学んでいてカフカを愛読するという一人に、監督たちは問いかける。「悪の陳腐さ」を知っているか。収容所への「移送」を取り仕切る責任者だったナチス・ドイツの高官アドルフ・アイヒマンの裁判を論じたハンナ・アーレントのルポルタージュの副題である。アーレントはそこで、組織の歯車として動くだけの凡庸な人間のルーティン・ワークこそが巨悪を担いうることを暴き出し、映画「ルート181」の監督の一人であるシヴァンは、アイヒマンがその凡庸さを露呈させる裁判の映像を映画「スペシャリスト」(1999年)のかたちで、「オフィスの犯罪」が横行する現代に突きつけたのだった。そしてシヴァンとクレイフィは、「悪の陳腐さ」というアーレントの言葉を引用することによって、イスラエル軍の若い兵士に、自分が上官の命令にしたがって仕事としてやっていることが、パレスチナ人に対する巨大な、圧倒的な、またパレスチナ人ひとりひとりの人格を否定するような暴力の一端を担うことであることにどれほど自覚的なのか、自覚的でないとすればお前はもう一人のアイヒマンではないのか、と問いかけているのである。その問いは日本の状況を問いただすものでもあろう。もしかすると「愛国心」や「国民の義務」が声高に語られるようになるなかで、日本では従順なアイヒマンたちが生産されてゆく機構が作り出されようとしているのではないだろうか。
 映画「ルート181」は、そのように「ユダヤ国家」の存立がパレスチナ人の排除と抑圧を構造化することを基盤にしていることを暴き出してゆくが、それはけっして一枚岩の悪としてのイスラエル像を呈示するひと続きの物語に解消されるものではない。まず、「ルート181」をたどる旅は絶えず寸断される。行程は鉄条網を張り巡らした境界や建設されつつある分離壁によって遮られ、道行く人との対話は戦闘機の爆音によって遮られるのだ。そして寸断された「旅の断章」から響いてくるのは、単一の声ではなく、複数の声なのである。イスラエル人のなかにもパレスチナ人との共存を望む人はいるし、とくに最後近くに登場するチュニジアから来たというユダヤ人女性は、人が毎日殺されてゆくのを聞いてはけっして自分の生活の安寧を享受できないと嘆いてもいる。他者の排除と抑圧の上に成り立つ「安全」の危うさと欺瞞に気づいている人びともいるのだ。その声は、「テロ対策」や「治安」などの名のもとに他者への暴力が恒常化し、遍在化しつつある状況のなかで見せかけの「平和」を享受する生活を問いただしてもいる。「ルート181」は、「非常事態」が常態化しつつある世界の状況をパレスチナから照らし出し、そのような世界に生きること自体を問う声をも響かせているのかもしれない。
 一見遠く思われるパレスチナから今ここを照らし出し、そこにある問題を抉り出すドキュメンタリー映画「ルート181」。その広島での上映は、できることなら今回の一回だけで終わらせたくはない。もっと多くの人びと、とりわけ若い人びとと、それが響かせる複数の声を共有したいものである。

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2006年5月14日 (日)

辺見庸『自分自身への審問』

 辺見庸は、脳卒中に倒れて右半身が麻痺したばかりでなく、癌にも蝕まれつつある身体で書いた。おそらくは一語一語絞り出すようにして。しかも「自己自身への審問」というかたちで。彼の思考の強靱さは、病床で自分自身を問いただすほどだった、と言うべきなのだろうか。いや、その「審問」はむしろ、彼をその身体もろとも強靱さといったものを越えた次元へと導いているのではないか。
 辺見庸の新著『自己自身への審問』(毎日新聞社)は、脳卒中で半身の機能を失い、記憶の一部を失った自分自身の身体をさらけ出すところから始まっている。「襤褸のような」と彼が形容する、みずからの身体の剥き出しの姿を見つめるところに、新たな出発点を置こうとするのだ。「老いて病んだ自己身体に即して世界を眺める」。つまり、「なるたけ裸形を怖れず、幻影をまとわず、格好をつけずに風景に分け入る」こと。これがより衒いのない、ということはより深く身体経験にそくした彼の新たな思考のモットーなのである。
 とはいえ、病に蝕まれてまったく思うようにならない身体を前にして、「自死の衝動」が首をもたげてきていることも、辺見庸は否定しない。だからこそ、脳梗塞の末に自殺した江藤淳が最後に書き残した言葉のことも思い出される。しかし辺見は、江藤のように「自ら処決して形骸を断ずる」ことは選ばない。自死の権利を最終的なものとして留保しながら、自死が自分にとって可能であるかぎり、自己自身を、すなわち「自己身体に即して世界を眺める」思考を、表現し続けようとするのである。「形骸化しつつある自己身体を消滅させる前に、おつにすました者どもの面前で醜怪きわまる踊りの一つも踊ってみせて紳士淑女を仰天せしめよ」。むしろ思考がすでに「形骸」と化してしまっていた江藤のように「自裁」を選ぶのではなく、健常者には「形骸」と見えるものそれ自体を、さらにはその内部に湧きあがるものをさらけ出そうとするのだ。そのとき、いったい誰が「健常」なのかという問いも湧いてくることになる。
 脳卒中を経て「眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」へ向かい視界が反転する」のを経験した辺見は、「見る」ことの「不遜」をこれまで以上に強く感じるようになる。病院でつねに見られる立場にあるなかで、「一般に〈見られる〉ぼくの〈見る〉を想定していない」医師の「見る」まなざしに居心地の悪さを感じ、「〈見る者は見られない〉という関係性」に不遜なものを見て取っているのである。その関係を自明なものとして享受しているところに、辺見がそれに対する心の底からの嫌悪感を吐露してやまない「安手のシニシズム」の根があるのかもしれない。
 辺見は、第二次世界大戦後の世界についてハイデガーが語った「世界の夜の時代」という言葉を引いて、その「夜の時代」とは「まさに現在のこと」かもしれないと述べたうえで、そのような「神の不在をそれとして感じることができず、夜を昼と錯覚している時代、恥なき季節、徒労と失意の時代」では「チープなシニシズム」が伝播してゆくと指摘している。彼によると、そのシニシズム自体は古くからある低い声の笑いとして現われていた。日本では「人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると」、「必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます」。「何もしない自分を高踏的にみせたいのでしょうか。それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない放屁のような笑いなのでしょうか」。
 そして、今日そのように人を笑わせているのは、「資本」であるという。「ハイデガーの言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタルと市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です」。いわゆる「勝ち組」を含めて意識が資本によって収奪されてゆくなかで、その収奪された意識から「安手のシニシズム」の笑いが漏れているのだ。そのとき笑いを漏らす者には、「自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない」。そのようななかで、マジョリティに属しているという安心感に浸りつつ、まったく実質のない資本という虚無を追い求めるという、それこそ藤田省三が「全体主義の時代経験」のなかで資本主義のニヒリズムと呼んだ「妄」が全体を覆っていることを、病床の辺見は喝破しているのだ。こちらが「健常」どころではない。ゴヤの版画の題名さながら「すべては妄」であるなかで、ナルシスティック記憶の捏造をともなう記憶喪失が進行し、「市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産み出す無慈悲な場」であることも同時に忘却されているのだ。
 だとすれば、「自分自身への審問」とは、脳卒中に倒れて右半身が麻痺し、癌にも身体を蝕まれている者だけが行なわなければならないことなのだろうか。むしろ市場と連動する「腐った民主主義国家」の内部で消費生活と世界のスペクタクルを享受しながら生きている者は、わたし自身を含めてまず、自分自身の生きざまを、いや今ここに生きていることそれ自体を問いたださなければならないのではないか。自己の生存への審問を、スペクタクルの社会の内部で、つねに見ているのではなく、実はさまざまな権力装置によって見られていることの恥辱を「自己身体」で引き受けるところから始めなければならないのではないだろうか。辺見庸の「自分自身への審問」は「未完」となっている。辺見庸の自分自身への審問も、わたしたちの自分自身への審問も、まだ終わっていない。

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2006年4月29日 (土)

「ホテル・ルワンダ」

 1994年、「フツ族」による「ツチ族」のジェノサイドの嵐が吹き荒れるルワンダの首都キガリで、一人のホテル支配人が、1200人を超える「ツチ族」避難民を自分が経営するホテルに匿い、守り通す。昨日広島市内の映画館で見たテリー・ジョージ監督の映画「ホテル・ルワンダ」は、そのドラマを描き出すばかりではない。その映画は、ヨーロッパの植民地主義的近代がつくり出した「人種」という観念の恐るべき虚しさ、さらには「人種主義」を清算しないままに、ルワンダが地政学的に重要でないことがわかれば、そこで人種主義的ジェノサイドの危険に曝されている人びとをあまりにも簡単に見捨ててしまう、欧米を中心とする国際社会の身勝手さといった重い問題も見る者に突きつけている。そしてそれらの問題は、まだ何ひとつ解決されていない。
 映画は、現在の多数派である「フツ族」側のラジオの不気味な声で始まる。問題の元凶を「ツチ族」に押しつけ、敵意を煽る声。それがやがて100万人とも言われる犠牲者を出すジェノサイドへ一般の「フツ族」市民を駆り立てるプロパガンダの中心となる。とはいえ、もともと「フツ族」と「ツチ族」のあいだに大きな相違があるわけではない。かつての植民者であるベルギー人が、外見上のわずかな、当人たちも判別しがたいほどの差異にもとづいて恣意的に設けた「フツ族」と「ツチ族」の「人種的」な区別が、どちらかへの帰属を記した身分証明書や、政治の主導権をめぐる対立のかたちで反復されているのである。実際、現地に乗り込んだジャーナリストには、両者はまったく区別できない。植民地支配を容易にするために植民者がつくり出した「フツ族」と「ツチ族」を区別するまったく恣意的な見方が、今度は人種主義的ジェノサイドの論理として反復されるのだ。
 さて、「フツ族」と「ツチ族」の和平協定を結んだ大統領が何者かによって暗殺された後、そのジャーナリストは、キガリの街で一般の「ツチ族」市民が、同じく一般の「フツ族」市民を次々と虐殺する場面に遭遇する。その映像をたまたま目のあたりにしてしまったミル・コリン・ホテルの支配人ポール・ルセサバギナは愕然とさせられると同時に、その映像が欧米の国々で流れることにわずかな期待を寄せるのだった。しかしジャーナリストは言った。欧米の人びとは、怖いねと言うだけで、ディナーを続ける。
 事態はその通りだった。自分たちを救いにやって来たと思われたフランスとベルギーの軍隊は、実際には、ルワンダで孤立してしまった外国人を安全に避難させるために来たのである。地政学と暗黙の差別によってルワンダの人びとを見捨てるために、植民者たちが再びやって来たのだ。その軍隊が去った後は、1200人以上の避難民が隠れるホテルが、ほとんど無援の状態で取り残されることになる。そこからポール・ルセサバギナの活躍が本格的に始まる。彼は勇気を狡知を駆使して、つまりはあらゆる虚言と賄賂を使って、家族をはじめホテルに隠れる人びとを、命がけで守り通すのだ。
 そのさまはたしかに、ナチス・ドイツのジェノサイドから数多くのユダヤ人を守ったオスカー・シンドラーを思わせる。この映画が「ルワンダ版『シンドラーのリスト』」と呼ばれるゆえんである。そして、避難民を懸命に守る姿の描き方に、「シンドラーのリスト」と同種の一抹の美化がないわけではない。しかし、見る者が何よりも慎まなければならないのは、ポール・ルセサバギナの生き方を、「愛」といった耳当たりのよい言葉で包んで涙することであろう。むしろ、彼にそうした生き方をさせた背景にある問題を自分に突きつけられた問題として受けとめながら、その生き方の一端に自分自身の可能性を見て取るべきではないだろうか。
 映画の終わり近く、ポール・ルセサバギナは、自分の姪たちを難民キャンプで見つけ出してくれた赤十字職員に対してこう言う。わたしたちのホテルはいつでも開いています。その台詞は、かつて植民地主義を押し進めた欧米諸国と日本の政府の高官や、そこで表向き安寧に生きている者こそが言うべき台詞のようにも思われるのだ。
 ところで、ひと言だけ映画のつくりについて付け加えると、難民キャンプからタンザニアへ向かう、ポール・ルセサバギナとその家族を乗せたバスが遭遇するツチ族反乱軍の描き方には、これもどこか美化が入っているようで少し引っかかった。
 ちなみに映画「ホテル・ルワンダ」は、日本の映画配給会社の買い手がつかず、日本での公開が危ぶまれていたという。その現状を危惧した人びとが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」を立ち上げ、懸命な署名活動の結果、公開にこぎ着けたとか。今は「『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会」と名称を改めたその会の活動に感謝すると同時に、日本の映画配給会社が一つも名乗りをあげなかったことには暗澹とさせられざるをえない。
 「ホテル・ルワンダ」は、過去のドラマを感動的に描く映画ではない。それはむしろ現在の問題を突きつける映画である。それを考えるために、見なければならない。

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2006年4月28日 (金)

植民地主義の反復と歴史認識の問題

 「領土」とは言うまでもなく、一定の境界によって囲まれた土地のことである。それはずっと昔なら、城壁の内側のことだったり、あるいは河川や山脈といった自然の城壁によって守られた内部だったりしたのだろう。今は「領土」と言えば、地図上に人為的に引かれた境界線の内側にある陸地のことである。
 ある土地を「領土」と定める境界線を地図上に引くとは、境界線の内側にあるその土地が「われわれ」の生存の場所であると、「われわれ」とは異質な「彼ら」に対して宣言することである。それは同時に境界線の内側にいる人びとに、同類ないし同胞としての「われわれ」のアイデンティティを、異質な「彼ら」との対比において自覚させ、さらにはひとりひとりではなく、「われわれ」なるものの生存の必要を知らしめることでもある。そのような「われわれ」の想像とともに生じるのが「国民国家」の「ナショナリズム」であり、それが排他的なものであるほかはないことは言うまでもない。そして、虚構の「われわれ」の生存の権益のために従来の境界を越えたところに新たな境界線を引き、そこに住んでいる人びとを従属させようとするとき、「ナショナリズム」は「植民地主義」となる。
 現在、日本と韓国のあいだで「領土」をめぐる議論がかまびすしい。韓国側が独島と呼び、日本側が竹島と呼ぶ小島は、いったいどちらのものなのか。日本側が、古くから日本の漁民の寄港地だったことを踏まえて明治期に島根県に編入したことの法的正当性を主張する一方、韓国側はそのことを、同時期に進められていた朝鮮半島の植民地主義的収奪の一環と主張し、双方とも譲らない。しかし、みずからの主張を譲らないなかで、双方とも小さな島の周辺の海域の漁業権益の独占を見すえているならば、双方の主張は「ナショナリズム」のそれであるにとどまらず、「われわれ」の生存の権益を外に求める「植民地主義」の色彩も帯びてくる。そのことに思い至るとき、おびただしい数のアジアの人びとを虐殺し、抑圧しながらアジア全体を戦争に巻き込んでいった近代日本の植民地主義的ナショナリズムが、実に皮肉な仕方で反復されているのを目のあたりにするようで、暗澹とせざるをえない。
 憎しみあう者たちは醜く似かよってくる。小さな島をめぐる憎悪が、植民地主義につながるナショナリズムの反復と応酬につながってしまっているのだ。そのことの最大の原因はやはり、かつて朝鮮半島を植民地支配した日本が、みずからの植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識を示しえていないことにある。韓国の大統領も指摘するように、「A級戦犯」を合祀し、植民地主義の戦争を美化する展示物を置く靖国神社を首相が詣でるというのは、本人がいかに内心の問題と弁明しようと、日本が植民地主義の過去を否定しない歴史認識を公にする行為なのである。これが政治家たちの「妄言」とともに繰り返されるなかでは、韓国の側も身構えてしまう。これまでの「謝罪」は嘘なのではないだろうか。現に日本の歴史教科書からは第二次世界大戦における日本の加害責任についての記述は減っているし、憲法改正の動きもあるではないか。韓国大統領が「謝罪に見合う行動を要求する」のも無理のないことである。だからといって、手段を選ばないナショナリズムが正当化されるわけではけっしてないのだけれども。
 では、植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識はありうるのだろうか。ありうるとすれば、それはどのような歴史認識なのだろうか。
 この問題を考えるうえで示唆的に思われたのが、講談社『本』別冊『RATIO』第1号に掲載された大澤真幸の論考「「靖国問題」と歴史認識」である。ここで大澤は、山田太一のドラマ「終りに見た街」を巧みに論じながら、「靖国問題」をめぐるいわゆる「右派」と「左派」の主張を見事に腑分けしている。高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)とともに、この問題を考えるうえで必ず参照されるべき重要な論考と言うべきであろう。
 大澤によれば、これまで歴史は「最後の審判」の視点から書かれてきた。歴史とは、大澤が「第三者の審級」と呼ぶ超越的な視点、すなわち神の視点を時間の外に設定し、その視点からそれぞれの出来事を意味づける「歴史神学」だったのだ。その「第三者の審級」に「右派」は自分の同胞の死者だけを置き、その期待に同胞たる「われわれ」は応えなければならないと、同胞の死者のみに感情移入する。これに対して「左派」は、「最後の審判」を文字どおりに受け取る。「第三者の審級」は無限の未来に待つ「超越的な救済者」の場なのだ。その「普遍的な正義」の視点から、あらゆる死者が裁きの場に呼び出されうるのでなければならない。したがって、死者を差別するのでなく、すべての死者を追悼の対象とするべきなのである。
 このような二つの立場の違いを明確にしたうえで、大澤は「左派」の主張に含まれる問題点も指摘している。「左派は、「普遍的な正義」の存在を前提にする立場であった。それは、無限の未来に──つまり人類と宇宙の歴史を全体として通覧できる位置に──、「最後の審判」を下す救済者を想定するのと、論理的には同じことに帰する。それに対して、右派は、言ってみれば、不完全な「最後の審判」を想定していることになる。というのも、右派は、全人類・全宇宙を視野に収める神の代わりに、特定の共同体のみを視野に収める死者を置くのであり、それは共同体が歴史的なアイデンティティを持続させる有限の時間幅の中でしか意味をもてないからである。その結果として、右派にとっては、死者=「第三者の審級」は、共同体が伝統的に保持してきた「善」を代表することになる。当然、それを阻害したり、傷つけたりする者は、「悪」であり、「敵」である。左派の「最後の審判」が、これとは異なった真正のものであることの端的な現れは、──戦死者の追悼という問題との関連で見た場合には──敵方の犠牲者をも追悼の対象に含めるべきだ、という主張の内に見て取ることができる。だが、先に示唆したように、敵をも追悼しようとすると、たちどころに困難にぶちあたることにもなる。「普遍的な正義」の中に包摂しようもない、根本的な「悪」が残ってしまうからである」。真正の「審判」を想定する主張も、神が悪を含む世界を創造したのはなぜなのか、という神学的ないし弁神論的難問にぶつかってしまうのである。
 そのことを確認しながら大澤はこう自問している。「歴史の渦中にある生成の契機を掬いだし、敗者を救済することができるような、そんな歴史認識の可能性はあるのか」。たしかに、自分が生きている現在を正当化するために特定の死者だけに感情移入し、「われわれ」の死者が顕彰されるような歴史を物語り、その他者を抑圧する従来の歴史認識ではけっしてなく、むしろ死者たちの記憶をひとつひとつ今に甦らせ、それぞれの出来事を「他でもありえた」可能性を含んだ、未完結の生成の相においてとらえかえし、そうして現在を揺り動かす歴史認識によってこそ、虚構の「われわれ」の自己正当化と深く結びついた植民地主義的ナショナリズムを乗り越えていくことができるにちがいない。だが、そのような歴史認識は、どうしたら可能なのか。神の無限性を想定しても、根本的な悪の問題に突き当たってしまうではないか。そこで大澤は、「全能の神と有限の神との対立」、すなわち「左派と右派」の対立が構成する「デッドロックを乗り越える、第三の立場」を、「神が悪をなしうるということ、したがって神が可謬的であるということ、これらのことを認めるところ」に求めている。「第三者の審級(神)そのものに悪が刻まれており、第三者の審級が破壊的な失敗をなしうるということ、それゆえ、第三者の審級が歴史の生成過程の中に巻き込まれているということ、このことを前提としたとき、歴史がまったく異なった相貌をもって現れるはずだ」。
 しかしながら、そのように「神=第三者の審級を歴史化し、歴史の渦中に投げ込む」とはどういうことだろう。それはどのような歴史認識のかたちとして現われてくるのだろうか。むしろ、それは歴史を認識する者のほうが、「最後の審判」の地点に立てないことを自覚しながら、ひとつひとつの過去を想起することではないか。そのことは、過去の出来事を現在の視点から完結させず、むしろ生成の相において今に甦らせることにつながるだろうし、またそれは神の可謬性よりは過去と現在の断絶を出発点とすることであるはずだ。人間があまりにも性急に神を歴史の渦中へ投げ込んだところよりは、人間が歴史を完結させることはできないのを胸に刻むところからのほうが、過去をその救済の可能性において想起できるはずである。フランツ・カフカが語ったように、希望はある、しかしそれはわたしたちのためのものではない、ということと、ヴァルター・ベンヤミンの『歴史の概念について』のなかの大澤が引いていない補遺にある「未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門だったのだ」ということとの緊張のなかで、歴史認識は試みられるべきであろう。
 こうした問題点を感じるとはいえ、大澤の論考が歴史認識の可能性を考えるうえで重要であることに変わりはない。そればかりでなく、それが喫緊の問題となる現在を照らし出している点にも注目すべきであろう。ちなみに大澤は、ドラマ「終りに見た街」にもう一度触れながら、論考をこう結んでいる。「主人公は、「終り」に、戦争の後に、つまり──戦争との関連において──最後の審判の立場に、自分はすでにいると思っていた。ところが、「終りに見た街」は、戦争の渦中の自分たち自身の現在(2005年)の街だったのである。超越的な位置から戦争の善・悪を判断していた主人公自身が、戦争の中に降り立っていたのだ」。「共謀罪」による訴追を可能にする法案や「教育基本法改正」案が、賛成の与党が大多数を占める国会に提出されようとしている現在が、「終りに見た街」の現在に急速に近づきつつあることは間違いない。

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2006年4月 4日 (火)

「白バラの祈り」

 マルク・ローテムント監督の映画「白バラの祈り──ゾフィー・ショル、最期の日々」を見る。昨年のベルリン映画祭で銀熊賞に輝いたドイツ映画である。反ナチ抵抗組織「白バラ」の紅一点だったゾフィー・ショルが、無益な戦争を続けるナチス政権の打倒を呼びかけるビラを撒いたのが発覚して逮捕されてから処刑されるまでの5日間のあいだに何を思い、またナチズムで凝り固まった大人たちに何を語りかけたのかを、新しい史料にもとづいて再構成し、力強くかつ細やかに描き出した見ごたえのある作品と言えよう。
 1943年2月18日、当時ミュンヘン大学の学生だった21歳のゾフィー・ショルは、兄のハンスとともに仲間と印刷したビラを大学構内で撒いたところをゲシュタポに捕らえられ、そのたった5日後には人民裁判で反逆罪による死刑の判決が下され、その日のうちに断頭台の露と消えている。逮捕から処刑に至る異常な早さは、当時の政権中枢がナチスの生誕の地であるミュンヘンに若者の抵抗運動が広がることをいかに恐れていたかを如実に物語っているが、その間の事情は長いこと闇に閉ざされていた。1990年代になってようやくかつての東ドイツにあったゲシュタポの捜査と尋問の記録が発見され、ゾフィー・ショルが最期の5日間に何を語ったのかを知り、またそもそも彼女がどのような女性であったのかをうかがい知ることができるようになったのである。
 ローテムント監督の映画「白バラの祈り」は、こうした経緯にもとづいて制作されたものである。この映画も、史料にもとづいて現代史を描く他のドイツ映画同様に手堅い作風を示しているが、この監督が登場人物に向けるまなざしはドイツ現代史を扱う他の監督よりも繊細であるように思われる。たとえば「ヒトラー最期の12日間」のように、人物像がどこかわかりやすく単純化されてしまうことはないのだ。とりわけゾフィー・ショルの多感さと心の揺れ動きを史料から再構成し、彼女の「若さ」として浮かびあがらせることに見事に成功している。そして、最終的に大人たちの前で堂々と自由を主張するに至る彼女の「若さ」を演じきったユリア・イェンチの演技にも、心からの称賛を送りたい。
 ゾフィー・ショルは映画の冒頭では、音楽を愛する若い女性として登場している。お気に入りはビリー・ホリデイの歌とシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」。とりわけシューベルトのイ長調の音楽から、彼女は自然の生命の躍動を聴き取り、命が輝き出る春の到来を予感している。彼女は生きることを心から愛していたのだ。そして彼女は生きることを真摯に愛した。だからこそ、ナチズムの恐怖に覆われた状況のなかで自分がいかに生きうるのかという問題に正面から向きあい、自由を切り開くことに身を捧げることを決断できたのではないか。ナチスが「生きるに値しない」と断じた生命もかけがえのないものと愛する彼女にとって、自由は自分だけのものではなかったと思われる。さらにそのような彼女の生命への愛は、一人のプロテスタントとしての信仰とも結びついている。独房の小さな窓から注いでくるドイツの冬には珍しい明るい日差しのなかに彼女は神の姿を求め、自分がまだ生きていることを感謝しながら、押し寄せる不安に打ち勝つ心の強さを願うのである。
 自由に身を捧げることを選んだとはいえ、ゾフィー・ショルは強靱な心を貫いたわけではない。尋問官に対しては当初、ふざけてばらまいてみただけだと、ビラを撒く政治的な意図を否認しているし、即日処刑されることがわかったときには、絶望のあまり叫ぶことしかできないのである。そのような彼女が、自由とは何か、また自由であるために今どうすることが必要かを考え、公の場でその考えを貫くことができたことに、「安全」といったものの名のもとで自由が閉ざされつつある時代のわずかな希望を見たい。人間を虚構のアイデンティティのうちに閉じ込める「品格」だの「武士道」だのではけっしてなく、ゾフィー・ショルの「若さ」をこそ、今自分自身のうちに見いださなければならないはずだ。そのためにも彼女を見なければならない。広島のサロンシネマで「白バラの祈り」が上映されるのは4月28日までである。

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2006年3月16日 (木)

目取真俊「水滴」

 機会があって目取真俊の「水滴」(文春文庫『水滴』所収)を再読した。目取真俊の芥川賞受賞作であるこの作品も、彼の他のいくつかの作品と同様に、未だ自然の豊饒さを残している沖縄の現在に沖縄戦の過去が突如として侵入してくるさまを描き出し、沖縄の地上戦における沖縄の人びとの苦難がまだけっして過ぎ去っていないことを読み手に突きつけているが、この作品において戦争の過去が入り込んでくるのは、人間の身体の内部である。生命の熱気でむせ返るような沖縄の六月に、主人公徳正の右足の膝下が突然、石灰質の水を含んで熟れた冬瓜のように肥大する。そして、右足の親指に小さく開いた傷口から漏れ出る水滴が、あたかもアンドレイ・タルコフスキーの映画で惑星ソラリスを包むあのソラリス物質のように、徳正が50年以上ものあいだ抑圧し続けてきた沖縄戦の経験を、彼の眼前に甦らせるのである。
 徳正の右足が膨らんで水を滴らせるようになると、夜ごとに沖縄戦で戦死した兵士たちが、当時そのままの傷ついた姿で代わる代わる現われ、親指から水を飲むようになる。そのなかには、首里の師範学校でともに学び、沖縄戦では鉄血勤皇隊員として行動をともにした石嶺の姿もあった。水を飲みに現われるのは、石嶺も含めて、徳正が生き残るために壕に残してきた兵士たちだったのである。
 艦砲射撃の砲弾の破片を受けて腹部に致命的な裂傷を負った石嶺をやっとのことで壕まで運び込んだその夜、徳正は部隊と一緒に南へ移動した。しかも壕を立ち去る際に徳正は、兵士の看護のために従軍していた女学生宮城ミネが石嶺の容態を気づかって手渡した水筒の水を、我慢できなくなって飲み干してしまったのだ。徳正は空になった水筒を置いて壕を去ったのである。
 この経験を徳正はずっと自分のなかに押し隠していた。石嶺の母親には、逃げる途中ではぐれて行方不明になったと嘘をついたし、平和教育の一環として子どもたちに戦争の経験を物語る際にも、石嶺を見捨てて生き延びたという真実に触れることはなかったのだ。さらに宮城セツが自決を遂げていたことを知ったときには、これで石嶺のことを知る者はいなくなったと安堵さえしたのである。徳正は一方で、過去を抑圧することによって生き残っていることを正当化しようとしていたのだ。しかし彼が他方で、嘘をつき続けるかたちで生き続けることに対して、後ろめたさも感じていたのは間違いない。だからこそ、セツが自決したのを聞いて以来酒量が増えた。自分のなかにある過去の痕跡を酒で洗い流そうとするかのように。
 時の流れを撹乱するかのように回帰してきて、徳正の右足から一心に水を飲む石嶺の姿は、このような嘘に満ちた徳正の生きざまを、徳正に見つめなおさせる。石嶺が今飲んでいるのは、今まで生き延びるために自分が飲んだ水なのだ。そのことに思い至り、戦慄をおぼえながらも、これまで抑圧してきたこの正当化しえない過去を正視し、自分の傷を担い続けることを心に決めるとき、時が再び速度を増して流れ始める。「自分が急速に老いていくのが分かった。ベッドに寝たまま、五十年余ごまかしてきた記憶と死ぬまで向かい合い続けなければならないことが恐かった」。
 徳正が自分のなかの癒えることのない傷を担い続け、そこから湧きあがる記憶に向き合い続けることを決心して以来、兵士たちは現われなくなり、右足の腫れも引いていった。それとともに沖縄の現在が再び前景にせり出してくる。沖縄の夏が帰ってくるのだ。徳正は裏庭の仏桑華の生垣の下に、大きく熟れた冬瓜を発見する。
 そのように自然の豊かさを残す一方で、沖縄には基地や本土に寄生しながら金を儲け、したたかに生き延びるもう一つの顔もある。徳正の従兄弟清裕は、沖縄のこうした一面を体現しているようだ。清裕は徳正の右足から滴る水が若々しい生命力を回復させるのに目をつけ、これを瓶詰めにして「奇跡の水」として売り、大金を儲ける。だが、その水は50数年前の若さを取り戻させるのにすぎず、時の流れが元に戻ると、それを飲んだ人びとの身体は一挙に50数年分老いてしまう。清裕は、それに怒った人びとによって最後には袋だたきにされてしまうのだ。そんな彼にしても、酒に溺れる徳正にしても、彼の妻ウシのように、生き続けるための習慣を確立させた女性の支えがなければ生きていけない。地に足を着けて生きる女性が、沖縄の今を支えていることも、この小説は示していよう。
 徳正、ウシ、清裕という三人の登場人物を軸に、現在の沖縄のすべてを凝縮させたような世界を開きつつ、目取真俊は、生き残ることのうちに拭いがたく染みついた、けっして正当化できない領域を読み手に突きつけている。アウシュヴィッツの生き残りであるプリーモ・レーヴィが『溺れる者と救われる者』(朝日新聞社)で指摘した、「灰色の領域」である。生き残るとは、死者を見殺しにし、踏み越えてゆくことである点に関しては、アウシュヴィッツの生き残りにしても例外ではないのだ。しかし、生き残りのトラウマと過去の複雑さをかたちづくるこの「灰色の領域」にしかと向きあい、死者との関係をみずから正してゆくことは、生きることの現在を少しずつ刷新することにもつながりうる。ある意味で人間らしく、酒を断つと誓ったのも束の間、また仲間と大酒を飲んでしまった徳正が、その翌朝に巨大な冬瓜を発見したことは、その希望を暗示しているのかもしれない。

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2006年1月27日 (金)

ザルツブルク旅日記:1月26日

 朝早くホテルをチェック・アウトして、行きと同様オーブスでザルツブルクの空港へ向かう。バスでは今回2つの演奏会のチケットを世話してくれた女性とも偶然出くわす。彼女によれば、この日300人におよぶ日本人がザルツブルクに着くとか。中央駅で降りた彼女のその後の苦労はいかばかりか。
 空港に到着し、チェック・インを済ませて外の様子をうかがっていたが、フランクフルトへ向かう飛行機がなかなか来ない。どうもフランクフルトが大雪で、なかなか飛べないようだ。それでも1時間遅れで来てくれてホッとする。それに乗り込んでフランクフルトへ向かい、関西空港行きの飛行機に間に合ったまではよかったのだが、その飛行機のエアコンが壊れてしまい、ロシア上空で今度はミュンヘンへ引き返す羽目になる。どうやら雪のなかでエアコンを酷使したのがたたったようだ。
 ミュンヘンに着いたところで、乗客全員バスに乗せられ、ミュンヘン郊外のシェラトン・アラベラ・ホテルに連れて行かれる。そこで1泊して、翌朝早くに再び関西空港へ向けて飛び立つというわけだ。こちらは翌日そのホテルで寝坊してしまい、空港行きのバスに危うく乗り遅れるところだった。
 ミュンヘンから関西空港行きの飛行機は、今度は無事に飛び立つ。天気に恵まれ、機上からはアルプスの尾根も見える。モーツァルトの250回目の誕生日にあたるわたしたちの3度目の結婚記念日を、アルプス越しにザルツブルクを望みながら、ルフトハンザの機上で祝うことになったわけである。
 機上では、あの分厚い『モーツァルト頌』(白水社)を読了。それを読み終えたときにあらためて脳裏に浮かびあがってくるのは、作曲家としてのモーツァルトが、「ぼくのこと好き」、と問いかけるのに、彼の生前にだれも応えらえれなかったという事実である。たしかに、ハイドンをはじめ彼の音楽を愛していた人びとはいた。しかし、その愛は、彼にこの世の幸せをもたらすに充分なものではなかったのだ。彼がヴィーンで才能を磨り減らし、過労で倒れ、ほぼ無一文の状態で共同墓地に投げ込まれた、という話は、そうした結末に至る筋だけは自分の将来のようで恐ろしい。それはともかく、モーツァルト週間の演奏会場の様子を見るかぎり、彼の音楽はますます聴かれていなくなっているのではないか。むしろ金持ちの自己満足的な消費の対象に成り果ててしまっているのではないだろうか。そういう光景を目のあたりにすると、結局だれも聴く耳をもっていないし、そういうなかで災厄が繰り返されてゆくのだ、と考えざるをえない。パレスチナの総選挙におけるハマスの勝利に対する欧米の対応や、ドイツで移民への侮辱的な尋問が義務づけられつつある状況を報ずる新聞記事を見ていると、そうした思いをますます強くせざるをえないところである。

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2006年1月19日 (木)

ベツレヘムの瓦礫の天使

 先日同僚が天使を見せてくれた。天使と言っても、天使の姿をかたどったオブジェである。ガラス片を金属の輪鉄のようなものでつなぎ止めてあって、ステンドグラスの一部を見るような感じ。同僚から聞いたところによれば、これはパレスチナの人びとのイスラエルの圧制に対するインティファーダに用いられたりなどして砕けたガラス瓶の破片を継ぎ合わせて作られた天使のオブジェで、パレスチナの子どもたちがこれを、アーティストの指導を受けながらで作っているのだという。
 このような活動を組織しているのが、現在ベツレヘムで活躍しているミトリ・ラヘブ牧師。彼はパレスチナのアラブ人であるが、キリスト教徒であり、ルター派のプロテスタントの牧師である。「パレスチナ人のクリスチャン」と言ってもピンと来ないかもしれないが、パレスチナの地では、ユダヤ教徒とムスリムが対立しているばかりでなく、ローマ帝国の時代からずっと、キリスト教のさまざまな宗派も共存してきたのだ。ラヘブ牧師は自分のことを、「四世紀まではパレスチナにおける宗教的マジョリティであった古代のパレスチナのクリスチャン共同体の末裔」と規定している。ちなみに、イエス・キリストの聖誕教会があるベツレヘムでは、クリスマスが12月25日ばかりでなく、1月6日(ギリシア正教会)と1月18日(アルメニア教会)にも祝われるとのことである。
 このラヘブ牧師の著書が1冊日本語に訳されている。『私はパレスチナ人クリスチャン』(山森みか訳、日本キリスト教団出版社)。現在のパレスチナにおける宗教的マイノリティとしての、またキリスト教内部の分裂の痕跡を残した、彼自身の複雑なアイデンティティや、祖父の代以来のルター派のクリスチャンとしての信仰を牧師として人びとに伝えようと決意するに至ったいきさつなどが述べられた後、聖書を今ここに生かそうとする彼の聖書解釈が、パレスチナのアラブ系住民が置かれている現状の分析にもとづいて、力強く語られている。ラヘブ牧師によれば、聖書とは何よりも現在の歴史的なリアリティを語るものであり、しかも「マイノリティについての書物」である。聖書のテクストは、マイノリティの人びとが置かれている現在の歴史的現実を照らし出すとともに、苦境に置かれた人びとに、そこで自分が何をなしうるのかを見つめなおさせるのだ。けっして復讐ではなく、正義、それも異質な、反目しあっている人びとのあいだに実現されるべき、来たるべき正義へ向けて。そのような正義のヴィジョンを、ラヘブ牧師は著書の最後に、「夢」として語っている。
 現在ラヘブ牧師は、イスラエルが建設している分離壁によって閉じ込められ、圧迫されるなかで、パレスチナの子どもたちにその「夢」を与える仕事に取り組んでいるようだ。アーティストと一緒に天使のオブジェを作る活動もその一環であろう。ガラスの天使は、子どもたちの「夢」の結晶でもあるのだ。それは、この世界をつくり変える希望を子どもたちに与えるとともに、ガラスを透して世界を別な可能性を秘めたものとして映し出すのではないだろうか。
 ヴァルター・ベンヤミンは、いわゆる「歴史哲学テーゼ」のなかで、進歩の暴風に煽られながら眼の前で瓦礫が積み上がってゆくのを凝視する「歴史の天使」の像を描いたが、ガラス片から作られた天使のオブジェは、言ってみれば「歴史の天使」が見つめる瓦礫のなかから生まれた天使である。朝日新聞の連載記事「そこにある壁」が浮き彫りにしたように、イスラエル政府が建造している分離壁のみならず、世界のあちこちで人びとのあいだに可視ないし不可視の「壁」が築かれつつある現在の状況のなかで、壁を越えて日本に届いたベツレヘムの瓦礫の天使が、壁を突き抜ける希望を人びとに与え、壁のこちら側とあちら側のあいだにひとすじの回路を開く媒介者として活躍することを願ってやまない。

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2005年12月31日 (土)

2005年の終わりに

 2005年が暮れようとしている。阪神淡路大震災の衝撃とオウムのテロルに揺れた10年前の1995年とまったく同様に、自分たちの生活がいかに脆い地盤の上に築かれているのかを思い知らされた1年だった。そして、その1年のあいだに起きた2度の脱線事故は、規模こそ大きく異なるが、どちらとも、ひとりひとりのかけがえのない生命が守られるための最低限の倫理を確かめあうことなしに、利潤を獲得し、新自由主義的な競争に勝ち抜くための数値的なデータだけを追い求めることの危うさを突きつけていた。にもかかわらず、アメリカ主導のグローバリズムに追随し、その正義なき戦争における人殺しに加担し、新自由主義的な競争の原理を、そうした競争とは無縁なはずの領域にまで浸透させ、社会のなかの階級格差の拡大を自明視する流れが、とりわけ総選挙の結果とともに決定的になったのも確かである。
 そのような流れを、マス・メディアを介して心地よく響く言葉の数々がつくり出していることは、おそらく間違いない。滑らかで耳当たりのよい美辞麗句、それは何も語っていない。いかなるリアリティにも応えていないのだ。だからこそ滑らかなのだが、そうであるがゆえに人びとを惹きつけ、思考停止に陥らせる魔力だけは持ち合わせている。そして今、人びとは「改革」とか「安全」といった言葉の前で思考を停止させながら、破局へ向かう流れに巻き込まれようとしているように思えてならない。ほかならぬ自分の生きざまを思い描くより前に、ひとしなみに「公」だの「国益」だののための犠牲にされるというひとりひとりの破局は、もうすぐ眼の前まで来ているのかもしれない。
 このようにひとりひとりの破局へと突き進む流れに、自分なりにできる仕方で楔を打ち込まなければ、と思いつつも、結局思うような仕事ができないまま、新しい年を迎えようとしている。2006年には、今まで続けてきた仕事を形にする見通しがつけられるだろうか。状況は厳しくなる一方だが、やらなければならない。
 ヴァルター・ベンヤミンは、第一次世界大戦中からそれに続くドイツのインフレーションの時代にかけて、それぞれの言語が、けっして同類のあいだの意思疎通の道具にも、わかりやすい情報を伝達するための手段にも局限されえず、それゆえ「国語」の統一体としても固定されえないことを、言語それ自体のダイナミズムを取り出すことで示そうとしていたように思われる。彼によれば、言語はむしろ、自分とは深淵によって隔てられた他なるものとのあいだでつねに新たに語られる。ある種の「わかりやすさ」をはみ出してゆく異質なものに応答し、同じ立場に立つことのできない他者とのあいだにひと筋の回路を切り開こうとするなかでつねに新たにかたちづくられてゆくのだ。そのことを、ベンヤミンは当初、言語の純粋な「本質」にもとづいて説明しようとしていたが、後には、言語が同類のあいだの意思疎通と情報伝達の道具と化した「バベル」以後の「言語の混乱」のただなかに、それぞれの言語がそうした他者に応答する力を取り戻す可能性を探るようになる。ちょうどウィトゲンシュタインが、「論理形式」を示すことで言語の純化を図った後、「ざらざらとした大地」の上の「生活形式」に立ち戻ったように。ただしベンヤミンによれば、それぞれの言語が「バベル」以後の世界で言語が他者と応えあいながら生成するダイナミズムを取り戻すためには、それが囚われている「母語」の滑らかな流れに吃音をもたらすようなかたちで、その桎梏を解体しなければならない。そのきっかけとなるのも、他者の異質な言葉との遭遇である。このとき、それに応える言葉を、自分が自明に話していた言語を内側から突破するかたちで見いだすことが問題となるのだ。そして、そのような応答の言葉を見いだすとき、それぞれの言語は、他者とのあいだに回路を切り開く力を取り戻すことになる。
 では、このように、立ちどまらせ、自分が話してきた言語を見つめなおさせるような他者の言葉と出会い、それに応答する言葉を見いだすなかで、言語を他者とのあいだで、そこにある深淵の上で語り交わされるながら生成するものとして見つめなおす可能性を、もう少し具体的にどのように思い描けばよいのだろう。言わば、武満徹が語ったように「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」(年賀状に引いた『音、沈黙と測りあえるほどに』のなかの言葉)余地は、どのように開かれるのだろうか。こうした問題に取り組むことが、来たるべき年の最初の課題となりそうである。もし、「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」とは今どういうことなのか、自分の言葉にできたなら、破局に近づきつつある今の流れに向きあう自分の位置を確かめることができるのかもしれない。

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2005年11月11日 (金)

ケバプと「ほんとうのネオナチ」の問題

 ベルリンへ行くと、やはりかならず一度はトルコのケバプのお世話になる。ケバプといっても、鉄串に刺して焼くシシ・ケバプとかではなくて、「デナー・ケバプ」。牛肉や羊肉(他の肉も使われているかもしれない)の肉片をペタペタと鉄の心棒に貼りつけ、その心棒を回転させて(「デナー」の名はこのことに由来するとか)じっくりと炙ったのをナイフでそぎ落とし、野菜と一緒にカリッと焼き上げた厚手のピタパンのようなパンに入れ、ソースをかけたもの。野菜は、タマネギ、トマト、キュウリ、赤キャベツというのが一般的で、ソースにはニンニク、ハーブヨーグルト、チリといった種類がある。1個で満腹感が得られるし、何といっても肉と一緒に野菜をそこそこ食べられるのがいい。日本で「ドネル・ケバプ」という名前で知られているものとほぼ同じものである。そう言えば、東京では1個500円で売っていたが、ベルリンでは日本円にして200円から350円くらいが相場。このあいだの旅行の際には、地下鉄のリヒャルト・ヴァーグナー広場駅近くの店で1個買って、ホテルの部屋へ持ち帰って食べた。
 このデナー・ケバプを売る「インビス」(ファスト・フード店)が、ベルリンにはそれこそ至るところにある。そのほとんどが、トルコからの移民がいとなむ店であるが、辺見庸の『もの食う人びと』(角川文庫)によると、そうしたケバプ屋は東西ドイツの統一後に続々と増えていったという。原因は失業。外国人労働者として働いていたトルコ人たちを、ドイツの企業は、東ドイツ市民を優先的に雇用するため、あるいはそれを口実に外国人を差別し、解雇していった。そうして職を失ったトルコ人たちは、資金的にも技術的にも手っ取り早いケバブ屋経営に飛びついた、というわけである。そして、そこで売る「デナー・ケバプ」は、味もスパイスも控えめにし、「ドイツ化」してあるとか。その歴史は、「ドイツに適応しようとしてきたトルコ人の辛い歴史そのもの」だ、というあるトルコ人の表白を、辺見庸は引いている。
 その「辛い歴史」は今なお続いている。ベルリンを出発する日の朝刊に、ポツダムで政治家を含む市民の対抗デモ(日本で政治家が極右に対する対抗デモに加わることは考えにくいし、それはまたそれで問題である)が、ネオナチの大規模な行進を阻止した、という記事が載っていた。極右的な主張に反対して声を上げる市民たちがいる一方で、辺見庸によればケバプ屋の増大とともにその外国人排斥を表面化させたネオナチもまだまだ暗躍している。そればかりでなく、外国人の締め出しを主張する極右政党が、ザクセン州議会では議席まで獲得しているのだ。そして、最近の景気の慢性的な低迷と、未だ高い水準の失業率は、ドイツにおけるトルコ系移民への風あたりをさらに強めていよう。
 ベルリンを出発する日、バスで市街の北西にある空港へ向かう途中で、モアビットという地区を通った。それまでバスで通ってきた街と明らかに雰囲気の異なる、人通りがまばらで寂れた感じの、やや怪しげな店の建ち並ぶ街路がしばらく続く。そこは、多くの経済的に苦しい状況に追い込まれている移民たちが、肩を寄せ合うように住んでいる地区とのことである。そうしたモアビット地区で、パリの暴動に続くかのように、何台かの車が放火されたという。ベルリンの日刊紙のウェブ版は、パリの暴動に便乗した若者の悪ふざけ、と楽観的な見方を示していたが、おそらくは何よりもまず、一部の(そうであると信じたいが)ドイツ人の差別的なまなざし、あるいは高失業率の責任を押しつけるかのような敵意に満ちた態度に対する不満の噴出を示すものなのではないか。その不満が、ネオナチの暴力と同じかたちをとって現われてしまったのは、非常に残念なことだけれども。
 パリ北部で車に火を点けている若者たちのなかには、近くのシャルル・ド=ゴール空港での仕事を、「9・11」後に「保安」を理由にクビにされたり、あるいは求人に応募しようと電話しても、アラブ系の名前を名乗った瞬間に電話を切られたり、といったことを経験した若者も含まれているという。そして、彼らが求めているのは、まずフランス社会において「人間」として扱われることなのだ。だからこそ、彼らを「クズ」呼ばわりしたサルコジ内相がやり玉に上がっているのである。辺見庸の『もの食う人びと』には、「ほんとうのネオナチっていうのは」、「上流階級のドイツ紳士の心のなかにもあるんじゃないかな」、というトルコ人を恋人にもつドイツ人女性の言葉が引かれている。外国人排斥を黙認し、移民たちが「人間」扱いされない社会の構造を温存しようとする、そして何か事が起こればサルコジ内相のように本音を漏らすようなメンタリティこそが、真にネオナチ的だ、というわけである。夜の路上に立って、「SMS」(携帯電話のショート・メール)で連絡を取りあい、車に火を点けて回る若者たちが問いただしているのは、何よりもまずそうしたネオナチ的メンタリティなのではないか。そして、車に火を点けるというやり方がけっして正当化されえないのは当然だが、そうしてサルコジ内相の発言を指弾する彼らの問いは、その現場から遠く離れた日本にあっても、自分自身への問いかけとして受けとめなければならないものも含んでいるのではないだろうか。
 ところで、パリ北部に始まった移民の若者たちの暴動を報じていた新聞には、何やら腐った肉を売りさばいていた業者に強制捜査が入った、という記事も載っていた。それによると、一部の肉はすでにケバプ店などに売りさばかれていたとか。もしかするとこのあいだ食べたのも、と一瞬背筋が寒くなったが、幸い今のところ腹の具合は悪くない。

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2005年11月 4日 (金)

ベルリン旅日記:11月3日

 夜のうちに雨が降ったようで、道路が濡れていたが、だんだんと晴れてきた。今日は午後にポツダム大学へ行くので、その前にいくつか用事を済ませようとフリードリヒ通りの駅へ向かう。まず、2月までのポツダム滞在の後で完成した、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人追悼記念碑」を訪れる。ブランデンブルク門のすぐ南の、かつて東ドイツの国境警備隊が地雷を敷設していた土地に造られたこのいわゆる「ホロコースト記念碑」は、ジャーナリストのレア・ロッシュが中心になって結成された市民団体が、ベルリン州政府と連邦議会を巻き込むかたちで、また学者、ジャーナリスト、芸術家、政治家の熱い議論の末に、17年をかけて実現させたものとのこと(影書房『前夜』第5号所収の梶村太一郎の論文「つまずきの石」を参照)。今やベルリンの新名所と化している。高さがどれも異なる無数の直方体の石柱がぐにゃぐにゃとした床面の上にひしめいていて、そのような石柱の森のなかに入ると何とも言えない圧迫感に襲われるのだが、子どもたちにとっては絶好のかくれんぼの場所である。走り回る子どもたちがはしゃぐ声と、それを追いかける親の叫び声があちこちで聞こえ、正直なところ静かに、犠牲となったユダヤ人たちが、すでに戦争直前の日常生活でも感じていたであろう圧迫感を身に受ながら、「ヨーロッパのユダヤ人」の虐殺とはいったい何だったのか、と考える雰囲気ではない。地下の展示を見てみようかとも思ったが、並ばないと入れない様子だったので、今回は諦める。それはともかく、この記念碑が国会議事堂の眼の前にあることは、この過去の忘却に重い楔を打ち込むものと言えよう。このような楔を政府の側も引き受けようとしている点は、忘却の進む日本の状況とやはり対照的と言わざるをえない。
 フリードリヒ通りのドゥスマンで本を買い求めた後、電車に乗ってポツダムへ向かう。ポツダム大学に着いて、今年の2月まで世話になった教授と再会し、そのゼミに顔を出した。ゼミとはいえ、ものすごい数の学生で、多くの学生は、近くの教室から椅子を持ち込んで座っていた。ヘーゲルの美学がテーマで、おもにいわゆる「芸術終焉論」を中心に、ヘーゲルによる芸術の歴史的、社会的、さらには哲学的位置づけが問題になっていた。ゼミの後は、同じゼミに出席していた、今年わたしと同じようにポツダム大学で研究している知人と再会し、ドイツでの研究生活などについて大学のカフェテリアで話をする。
 ベルリンへ帰った後、宿に荷物を放り込んでから国立歌劇場へ向かい、「白鳥の湖」の公演を見る。ヴラディミール・マラーホフが見事にジークフリートを踊っていた。堂々としていて、かつしなやかな身のこなしは、貫録さえ感じさせる。ジャンプも高く、衰えをまったく感じさせない。白鳥のオデットと黒鳥のオディーレを踊ったポリーナ・セミオノーヴァもすばらしい。オデットのときには、指先まで使って悲しみを表現していたし、またオディーレのときには実に鮮やかな踊りを見せてくれた。ジークフリートとの、一方はオデットでの、他方はオディーレでのパ・ド・ドゥはこの日の白眉であった。この二人以外の踊り手も、けっして遜色のない踊りを見せていたし、白鳥のアンサンブルも美しい。オーケストラの音色にもう少し繊細さがあれば、と思うところもあったが、重い硬質の響きは、やや粗削りなところもある「白鳥の湖」のスコアにふさわしかったのではないか。ヴァイオリンのソロも大変な力演を聴かせていた。何よりも印象的だったのは、オデットをはじめとする白鳥たちも、ジークフリートも靄に包まれた湖の底へ消えてゆき、後には陰謀を仕組んだ彼の母親の苦悩だけが残るという救いのない結末。それは、それまでの典型的なバレエの世界の華やかさをも否定するかのようであった。

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2005年11月 3日 (木)

ベルリン旅日記:11月2日

 11月のベルリンとは思えない爽やかな青空の広がったのを幸いに、まずはヴァルター・ベンヤミンのベルリンでの住家を訪ねて回ることにした。最初に見つけたのは、彼が幼年時代を過ごしたクアフュルステン通り154番地の家。外壁はやや落ち着きのないピンク色に塗り直されていたが、建物そのものは当時のまま残っているようだ。1階部分が薬局として使われているが、4階建ての立派な邸宅。ここから小さなヴァルターは、召使いの女性に手を引かれながら、ティーアガルテンへ散歩に出かけたりしたのだろうか。それはともかく、この建物自体は豪奢な造りなのだが、周辺にはもうかつてのヴェステンの高級住宅街の面影はない。すぐ近くでは、トルコからの移民たちが八百屋やレストランをたくましく営んでいるし、安っぽい衣料品を売るチェーン店も建っている。
 次に訪れたのは、マグデブルク広場4番地の生家。建物は跡形もなく取り壊されてしまっていて、その後に無味乾燥な造りの集合住宅が建っている。ただその向かいには、昔からあると思われる小さな公園があった。もしかしたらその公園を、乳母車に乗せられた赤ん坊のヴァルターが、両親とともに訪れたこともあったかもしれない。今は幼稚園児たちの遊び場になっているようで、小さな子どもたちがかわいらしい遊具を使ってはしゃぎ回っていた。
 マグデブルク広場から、ベンヤミンが『1900年頃のベルリンの幼年時代』のなかで触れているベンドラー橋を渡り、日本を含めた各国の大使館が建ち並ぶヒロシマ通りを抜けて、かつて皇帝の狩り場だったベルリン市民の公園ティーアガルテンに入る。ここでは、ちょっとした森林浴も楽しみながら、『1900年頃のベルリンの幼年時代』の「ティーアガルテン」の章に書かれているベンヤミンの足跡をたどることにして、まずはフリードリヒ=ヴィルヘルム三世とその妻ルイーゼの像を探す。それらは、運河にほど近い、金網に囲われた(ウサギが逃げないように、ということらしい)一角にあったが、像そのものは意外と慎ましやかな感じである。しかし、ベンヤミンが触れているように、台座にはずいぶん凝った彫刻が施されている。とくにルイーゼ像の台座に彫られている、幾人もの男女が愛しあう神話的な情景は、小さなヴァルターの胸を高鳴らせたこともあったろう。そう言えば「ティーアガルテン」の章に、「愛」という言葉が、やがて否定されるべき想像的なものとして登場していた。
 皇帝夫妻の像のある一角を出て、戦勝記念塔へ向けて歩く。少しひんやりとした空気が心地よい。前の晩に雨がぱらついたせいか、空気がそれほど乾燥していないのも嬉しいところ。ゆっくり10分ほど歩いたら、戦勝記念塔が見えてきた。トンネルを通って塔のすぐ近くまで行き、下からけばけばしい壁画を眺めた後、再びトンネルを通って、6月17日通りに出る。ティーアガルテンの駅から電車に乗って、1912年からベンヤミン家が住んだ家のあるグルーネヴァルトへ行こう、と考えたのだ。
 15分ほど電車に乗った後、グルーネヴァルトの駅に到着する。実は、グルーネヴァルトへ行ったのは、もう一つ目的があった。この駅の17番ホームを見ることである。この17番ホームからは、1941年から1945年にかけて、おびただしい数のユダヤ人たちが、ポーランドやチェコといった当時のナチス・ドイツの占領地に造られた収容所へと「移送」されていた。今日それを忘れないために、もはや列車の発着に使われなくなったこのホームには、いつ、何人のユダヤ人が、ここからどこへ連れ去られていったのかが書かれた、金属製の銘板が並べられている。やはりヴァンゼー会議の行なわれた1942年1月以降、「移送」はだんだんと大規模になっていて、1943年には、これまで数百人までだったのが、千人以上の単位で、おもにアウシュヴィッツへと「移送」されている。この狭いホームに、行き先も、その後の運命も告げられることなく集められた千人以上もの人びとがひしめくさまは、凄まじいものであったことは想像に難くない。しかも、その後は貨物のように封印列車に詰め込まれて、そこから何日も立ったまま、飲食も排泄も許されない状態で運ばれてゆくのだ。グルーネヴァルト駅の17番ホーム、そこはかつて人間の顔が組織的に引き剥がされる場所だったのである。今はひっそりとしているそのホームに置かれた銘板の一枚に、一輪の赤いバラがたむけられていた。
 古めかしい造りの駅を出てしばらく歩くと、1912年以後ベンヤミンの家族が住んでいた家があったとされる通りにたどり着いた。今日リヒャルト・シュトラウス通りと呼ばれているその通りにあった邸宅は、第二次世界大戦中の空襲によって焼けてしまったという。残念ながら、その痕跡を探し出すことはできなかった。この近辺は昔から高級住宅街だったようで、庭も大きい豪奢な邸宅が今でも立ち並んでいて、通りにはかつてそこに住んでいたであろう名士たちの名が付けられている。シュトラウス以外の音楽家では、レオ・ブレッヒやヴィルヘルム・フルトヴェングラーといった、戦前のベルリンの顔だった指揮者の名が見られた。
 リヒャルト・シュトラウス通りをとぼとぼと歩いているうち、ブリュッケ美術館へ行ってみようと思いつく。この表現主義のための美術館を、ベルリンの中心街から離れていることもあって、今まで訪れたことがなかったのだ。そこからかなり距離があったのだが、地図を頼りに歩いて20分ほどでたどり着く。カール・シュミット=ロットルフの戦後の作品を集めた回顧展が開かれていた。キルヒナーやノルデにくらべて印象の薄い画家だったのだけれども、こうしてじっくり見ていると、今挙げた二人にはない魅力も感じ取ることができる。いくつかの風景画と静物画が気に入った。どの作品も、画家のまなざしと、対象の光彩との親密な対話によって貫かれているように思う。そして、その光彩をあたかもモティーフとなる対象そのものから発せられているかのように力強く描きとることで、対象にしっかりとした存在感をもたらしているようだ。シュミット=ロットルフは、最後まで抽象画に手を染めることはなかった。
 ブリュッケ美術館を出た後、バスと電車を乗り継いで、ザヴィニー広場の駅へ行く。その広場から伸びるカルマー通りの3番地に、ベンヤミンはギムナジウム時代に住んでいたのである。そこには、周りのモダンな建物からちょっと浮いた感じで、古い造りの邸宅が建っていた。当時の建物がそのまま残っているのだろう。どういうわけか、ここも薬に縁があって、今は薬剤関係の事務所として使われている。ここからベンヤミンは近くの学校へ通っていたのだが、だんだんと適応できなくなってしまうのである。そうして彼は、グスタフ・ヴィネケンの学校へ移り、青年運動へのめり込んでゆくのだが、そうした活動家ベンヤミンのベルリンでの足跡をたどることは、今回かなわなかった。
 付近の書店をいくつかのぞいてみた後、いったん宿へ戻り、夜はその近くにあるベルリン・ドイツ・オペラへ、クルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」を見に行く。さすがに歩き疲れたのと時差ボケが相まって、集中力を欠いてしまったのが悔やまれるが、オペラを内側から破壊しようとするこの作品の起爆力の一端を感じることはできた。カラン・アームストロングの寡婦のベグビック、ニコラ・ベラー・キャルボーンのジェニー、それにデイヴィッド・スタールという指揮者の率いる管弦楽がいずれも好演を聴かせていた。とりわけヴァイル特有の怪しげな影を含んだ響きは、そう簡単に出せるものではないだろう。マハゴニー市に近づいていたハリケーンがそれた後、享楽への欲望が噴出する際の猥雑な鮮やかさを放つ響きがとりわけ印象的だった。ギュンター・クレーマーの演出は、客席の第一列に男性の合唱団員を配して、マハゴニーへの欲望が聴衆自身の欲望でもあることを意識させながら、この理想の歓楽街の興亡を描くというもの。マハゴニーの享楽に酔う男たちすべてにミッキーマウスの面をかぶらせる一方、ドイツの国旗をモティーフにした天幕を張るあたりは、政治的なバランスへの配慮を示すものか、それとも「グローバル化」した世界における享楽の姿を描き出そうというものだろうか。あまりにも衣裳などが一律に揃えられているあたり、どうも単調な感じがして退屈するところもあったが、最後の場面ではその単調さが逆に、消費による快楽の追求が、異質な者の排除と、それによる軍隊的な画一性とに結びつくのをうまく描くのにつながっていたようにも思う。ともかく、ブレヒトとヴァイルの共同作業による最もオペラらしく見えるオペラ「マハゴニー市の興亡」によって、二人がどのように「オペラ」を内側から爆破し、それに興ずるわたしたちの生活をどのように問いただそうとしたのか、もう少し探ってみる必要があるだろう。とりわけ興味深いのは、古いナンバー付きのオペラの様式が、オペラの展開のモンタージュ映画的な非連続性と結びついている点である。ここが「マハゴニー」であることを突きつける上演は、今日どのようにすれば可能だろうか。

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2005年9月28日 (水)

高橋哲哉『国家と犠牲』

 わたしが今ここに生きていることはけっして正当化されえない。ここに場所を占めるとは、他者たちから生きる場所を奪うことであり、今何かを食べて命をつなぐとは、他の生きものを殺すことであり、さらにはそれをもとに作られた食べものを用意してくれる他者たちを搾取することでもありえよう。わたしがその立場に立つことのできない他者は、時にこうした自己保存の暴力を問いただす者としてわたしの眼前に立ち現われてくる。そして、たとえその他者の問いかけに真摯に応えようとしたとしても、わたしは他者の立場に立つことはできない以上、その他者に対する責任を果たしきることはできないし、またその他者に対する責任を引き受けるなら、わたしはそれ以外の他者たちとの関係をやはり暴力的な仕方でなおざりにせざるをえない。このこともまた、けっして正当化されえないのだ。わたしはその暴力を問いただす他者の呼びかけに再び応えなければならない。
 このように考えるとき、わたしはそれぞれ特異な他者たちに普遍的に応えることをまだあきらめてはいない。そしてカントはすでに、特異な他者たちに普遍的に応えようとする行為へ一歩を踏み出そうとするところに、「理性的存在者」としての「人間」の「自由」と、「道徳的」でありうる希望とを見ていたのではなかったか。あるいはレヴィナスは、わたしが特異な他者に対して「無関心でいられない」ときにわたしのうちに開かれる「応答可能性」のうちに、「根源的社会性」を見届けるとともに、ラディカルな「平和」の可能性を見て取っていたのではないだろうか。
 とはいえ、このようにそれぞれ特異な他者たちとの関係のなかでけっして正当化されえない仕方で生きるとは、たしかに厳しいことであり、割り切れないことではある。カントが「道徳的」であろうとする「理性的存在者」であるにつきない「人間」の深層に「根源悪」として見て取っていたように、今ここに生きている──社会的にお仕着せられたものであるはずの──自分を、あまりにも性急な「最終的解決」によって正当化したい欲望が、人びとのなかでうごめいていることもまた否定できない。そして、他者が自分のための「犠牲」になることを自分のために神聖化し、それによってもたらされる他者の悲惨を覆い隠し、疑似的な「最終的解決」を今生きている者たちのなかにもたらすレトリックとして絶えず持ち出されるのが、「犠牲の論理」にほかならない。それは「論理」であり、「レトリック」である。自己正当化の論理として首尾一貫性を追求するかぎりでは、それは「論理」であろう。しかし、それはつねに他者の悲惨を隠蔽しながら虚構の「われわれ」をつくり出し、その「われわれ」を説得する「レトリック」なのだ。このようなレトリックとしての「犠牲の論理」は、第二次世界大戦のあいだには「ユダヤ人問題の最終的解決」をもたらそうとする、いわゆる「ホロコースト」──この語はかつてユダヤ教の「犠牲」そのものを表わしていた──を引き起こしたし、今でも「国家」とその「国民」の自己保存のための「尊い犠牲」を産み出し続けている。
 このように「自己」正当化のレトリックとして今なお機能し続ける「犠牲の論理」の構造を、「生け贄」の「神聖化」(サクリファイス)というその宗教的起源から解き明かすとともに、その論理が「国家」を束ねていること、とりわけ軍隊をもつ近代国家を「国民国家」として構成していること、そしてその点で「犠牲の論理」が、日本も含め世界じゅうに遍在しているのを明快に示しているのが、高橋哲哉の近著『国家と犠牲』(NHKブックス)である。この著書は、思想書としては空前のベストセラーとなった彼の『靖国問題』(ちくま新書)のバックボーンをなしている思想を、より広いコンテクストで展開させることによって、悲惨な戦場での兵士たちの無惨な戦死からその悲惨さも無惨さも拭い去り、戦死を神聖で崇高な死に変え、非業の死を遂げる兵士を送り出してまで押し進めた侵略戦争の責任の所在を隠蔽しながら、兵士の遺族の感情を慰撫するばかりでなく、国民を「名誉の戦死」へ駆り立てていった「靖国の論理」がいかに根深いものであるかを読者に突きつけている。「自衛」の軍隊による「テロ対策」や「安全保障」を訴えるなら、すでに他の人びとを殺し、また他の人びとのために殺されるための人間の集団を作るという不正に手を染めながら、その不正を隠蔽する「犠牲の論理」を生きてしまうことになるし、「靖国の論理」で戦死者の「平和と繁栄のための尊い犠牲」を語る首相のもとで、その「自衛」への国民への動員を可能にするような政治が押し進められるのを容認するならば、自分自身が死へ向けて動員されることを同時に容認してしまうことになる。「犠牲の論理」とは、他者への不正を一方的に正当化し、他者への暴力を恒常化しながら、ひとりひとりを死へと駆り立て、そうしてある虚構の「われわれ」の自己保存を図るレトリックにほかならない。それは今ここに生きているわたしたちをいつでも虜にしかねないのだ。たとえ宗教的なよりどころをもっていたとしても、その宗教自体が──かつて聖なる生け贄を神に捧げていたものとして、あるいは語源的に人びとを束ねるものとして──「犠牲の論理」を含みもっているかぎりは、国家による犠牲の論理に巻き込まれかねない。高橋は、「殉国即殉教」を説いてみずから「靖国の論理」との共犯関係に身を置いた日本のキリスト者のことを取り上げるとともに、長崎への原爆投下によって殺された浦上地区の人びとを戦争終結のための「尊い犠牲」とし、原爆投下自体を「神の摂理」と神聖化することで、無差別殺戮をもたらした原爆投下の責任ばかりでなく、それを招いた天皇をはじめ日本国家中枢の責任をも隠蔽してしまったカトリック教徒永井隆の言説にも、鋭い分析を加えているのである。
 では、「犠牲の論理」の外部はあるのだろうか。高橋はデリダの『死を与える』を引きながら、「人は絶対的犠牲から逃れられない」、「他の他者を、他の他者たちを犠牲にすることなしには、ある他者への呼びかけ、要求、責務、それどころか愛に対しても応えられない」、と述べている。この「絶対的犠牲」がある構造の内部で、決断しなければならないのだ。そのことは何も、犠牲なき国家や社会がありえないことを意味しない。特異な他者に普遍的に応えようとすること、それは同時にあらゆる犠牲の廃棄という「不可能なもの」を欲望することである。その欲望にもとづいて、現実に犠牲なき国家や社会を目指してゆくことができるのである。それが具体的にどのように他者およびその他の他者たちに対する責任を引き受けて倫理的な決断を下すことでありうるのか、どのような実践でありうるのかは、『国家と犠牲』の最終章だけでは、今ひとつ明らかではない。おそらくそうした問題の考察にはもう一書が必要であろうし、またその問題は読者自身に課せられた問題でもあろう。
 高橋によると、魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を呼び覚ますとともに、魯迅自身、そうした犠牲にもとづく「人食い」の社会のなかで生きてきたことに絶望している。わたしたちも、自分自身が「人食い」の社会に生きていることに戦慄を覚えるところから始めなければならないのかもしれない。高橋哲哉の『国家と犠牲』は、そのきっかけに満ちているばかりでなく、わたしたちのなかに「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせる思考の可能性も示している。それは、犠牲の外部を目指す責任ある生への問いを呼び起こす書物なのである。

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2005年8月21日 (日)

「近代」を問いただす新書二題

 鹿児島へ帰省しているあいだ、最近出た新書を二冊読み終えた。
 一冊は徐京植の『ディアスポラ紀行──追放された者のまなざし』(岩波書店)。「近代の奴隷貿易、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリズムなど、何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔」と定義される「ディアスポラ」たちの生の痕跡を、あるいは彼/彼女たちが受けた暴力の痕跡を、現代美術をはじめ、音楽、文学など芸術作品のうちに、あるいは芸術家たちの生きざまのうちに探る、ロンドン、光州、カッセルなどへの旅の軌跡を描くエッセイである。自明な家郷をもたず、自分は何者なのか、自分が話す言葉はいかなる言語なのかをつねに問いつづけなければならず、それゆえ生につなぎ止める絆は弱く、存在証明と死のあいだを漂いつづけなければならない一人の「ディアスポラ」、すなわち在日朝鮮人二世として、徐はここで、こうした「ディアスポラ」たちの生の痕跡を読み解くことをつうじて、「国民国家」や「植民地主義」の「近代」の歪みや矛盾を鋭く照らし出すとともに、その先に「植民地主義やレイシズムが押し付けるすべての理不尽が起こってはいけないところ」としての「真実のくに」というユートピアを遠望している。
 そのような徐の省察をたどりながら、彼がヴァーグナーの音楽にアンビヴァレントな感情を抱きつつ惹かれていること、最近そのヒロシマ賞受賞展を見たシリン・ネシャットが光州ビエンナーレでもグランプリを獲得していることなどを知ったのだけれども、とくに印象に残ったのは、パウル・ツェランの詩作に寄せた一節である。徐は、ツェランがみずからの詩を「投壜通信」にたとえていることに触れて、それは「いま目の前にいるドイツ語を解する人々に自分の詩が受け容れられることはほとんど期待していないということではないか」と指摘している。自分のホームページに「投壜通信」というタイトルを付けているわたし自身にもそうした思いがないかと訊かれるなら、とても否認できない。たしかに「国語」としての「日本語」を話す「日本人」に読んでもらいたいなどとはまったく思わない。いつか誰かが書いたものを拾ってくれるかもしれない。その誰かがそういう「日本人」である必要はどこにもないのだ。
 徐によると、ツェランは「生まれ育った多言語・多文化の領域(多様な言語文化が息づいていた故郷のチェルノヴィッツ)が諸国家の暴力によって破壊され、精神的なきずなとしての「母語の共同体」が消滅した後も、詩人は母語そのものを自らの「母国」とし、また、詩を書くという行為そのものを「母国」として、終わりのない放浪を続けた」。わたしは、そのあてどない旅のあいだも、ツェランはその「母語」を、それとともに詩作という「母国」をつねに問いなおしては生成させ続けていた、と考えたい。だからこそ、その旅は「終わりのない放浪」なのではないか。そしてそう考えるとき、「母語」、「母国」といった言い方にはやはり違和感をおぼえる。とはいえ、ツェランの詩作についての徐の省察は、このようなあてどのない「ディアスポラ」の旅の軌跡のうちに、「近代」の桎梏を突き抜ける可能性が秘められていることを気づかせるとともに、現実には彼のいう「ディアスポラ」ではない自分が、その可能性を引き受けて終わりのない旅へ一歩を踏み出すことを勇気づけるものだった、と言わなければならない。
 ところで、鹿児島で読んだもう一冊の新書は、目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK生活人新書)である。こちらは、今も続く「日本」の「近代」によって「本土」のための犠牲にされつづけている沖縄人、それも肉親から60年前の沖縄戦の記憶を継承する沖縄人の視点から、今や「戦後」でも「戦前」でもなく、「戦時」にほかならない今につながる「日本」の「近代」の問題を、厳しく問いただすとともに、目取真俊という作家の創作活動の背景もうかがわせる一冊である。
 今なお「本土」の「防波堤」として、日本全体の75パーセントの米軍基地を抱える沖縄に身を置くとき、日本がアメリカの「テロとの戦争」に自衛隊の対外派遣をもって加担する今が、「戦時」にほかならないことが浮かびあがってくる。そして、その今と沖縄戦の過去を関係づけるとき、軍隊が市民をけっして守らないことを露呈させ、あまりにも多くの沖縄の若者を「国のため」の死に追いやった沖縄戦の問題が何ひとつ解決されていないことも見とおされてくる。そう、沖縄戦はほんとうは終わっていないのだ。では、「戦後60年」の今を「戦後ゼロ年」にするためにはどうすればよいのか。まずは沖縄戦が露わにした問題が解決されていないこと、否、それどころか「基地問題」というかたちで沖縄の人びとのうちに抱え込まれたままだということを見抜かなければならない。現在に戦争の過去を──場合によっては身体のうちに──執拗に差し挟み、時の流れを寸断する目取真俊の小説の書き方は、それを見とおすきっかけをもたらそうとするものなのかもしれない。
 もう一つ目取真がここで照らし出しているのは、沖縄を「癒しの島」として喧伝するイデオロギーが、沖縄が抱えている問題を覆い隠すばかりか、沖縄を「捨て石」とし、犠牲にすることを可能にしてきた沖縄の人びとに対する「本土住民」による差別を隠蔽するイデオロギーにほかならないことである。さらに彼は、このイデオロギーによる沖縄文化の神話化が、天皇制を神話化するナショナリズム、さらには文部科学省が押し進めようとする「心の教育」による「国のため」に命を捧げる「国民」の訓育とも共犯関係にある、ということも指摘している。
 目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』。沖縄を訪れるなら、その前に必ず読んでおかなければならない一冊と思われる。

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2005年8月11日 (木)

守中高明の『法』

 前から気になっていた守中高明の『法』(岩波書店)をようやく読むことができた。法そのものについてだけでなく、法と言語のかかわりとともに、法をめぐる自己と他者の関係をも、現代的なコンテクストのなかで考えさせる読みごたえのある一冊と言えよう。とりわけ、現代日本における法、とりわけ憲法をめぐる深刻な問題を含んだ状況を批判的に浮かびあがらせながら、法自体に内在する力ないし暴力を見すえたうえで、法をその可能性において問題化している点が印象に残る。
 ハート、ルーマン、デリダの法理論を突き合わせて、法についての現代的な議論のコンテクストを浮かびあがらせたなかで、ベンヤミンの「暴力批判論」を読みかえし、彼が「神的暴力」と呼ぼうとした、法の内側からその自己措定的にして自己保存的な「神話的暴力」を中断させる力を「市民的不服従」のうちに探る守中の思考は、さらに現代の日本のなかで不服従の「原−形象」アンティゴネーのように生きる可能性を見届けようとする。守中は、国旗と国歌の強制やいわゆる「有事法制」など、現代日本における、国家権力の犠牲となる「国民」の訓育が押し進められつつある状況を象徴する問題を抉り出したうえで、それに対する非暴力的抵抗の可能性を、「歓待の掟」にもとづいて「来たるべき正義」を求める法の脱構築のうちに求めるのである。
 他者を歓待するとき、他者を迎え入れる者の自己が、そのアイデンティティが動揺させられ、さらにその言語、とりわけその母語の同化の暴力が問いただされる。そして、レヴィナスが指摘するように、「言語活動の本質とは友愛と歓待である」ことを見つめなおすことが迫られるのである。その際、この「友愛と歓待」を実践する翻訳の可能性が問われなければならないのは言うまでもない。それは、差し迫った問題でもある。脱−固有化としての「歓待の掟」は今日本で、難民たちの歓待というかたちで実現されなければならないのだ。さらに守中高明は、歓待への問いを、死刑への問いへ結びつけてゆく。「同害刑罰」という「計算」の彼方にある他者との関係、とくに赦しという観点から、日本に今も権力の存続のために生き存えている死刑が問いただされなければならないのだ。
 このように、法をめぐるアクチュアルな問題を浮かびあがらせながら、法そのものについての省察というかたちでそれに立ち向かおうとする守中高明の強靱にして繊細な思考は、前著『脱構築』のときと同様、ベンヤミンにもとづいて言語をその可能性において問う自分自身の思考を現代のコンテクストのなかに位置づけ、問いただす大きな刺激となった。
 最後にこの『法』のなかで最も印象深い言葉を引いておきたい。「「市民的不服従」の賭札はいたるところにある。クレオーンの法に叛き、来たるべき真実の法の到来に賭けてひとすじの弔いの砂をさらさらと落としたあのアンティゴネーの白い指先は、われわれの未来に属しているのである」。

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2005年8月 9日 (火)

ユンカーマン監督と「日本国憲法」

 8月6日、被爆60年の日の平和祈念式典が行われた平和公園の川向かいにある中国新聞社へ、ジャン・ユンカーマン監督の映画「日本国憲法」を見に行く。見に来ている人の数は少ない。どういう宣伝の仕方をしたのか、と思うが、広島にいると、東京なら満員御礼になりそうなイベントがガラガラというケースは少なくない。もっともこれが、広島の人びとの憲法と映画への関心の低さをそのまま映し出すものだとすれば由々しき問題だろう。
 映画のなかには、鹿児島で一度その話を聴いたことのあるベアテ・シロタ−ゴードンのような憲法起草に関わった人びと、日高六郎のような憲法発布までのプロセスを見届けた日本人、ジョン・ダワーをはじめ日本の戦後を見つめてきたアメリカの知識人、さらには日本を見つめるアジアの知識人や活動家が出演していた。それぞれの視点から「日本国憲法」を語っていた彼/彼女たちが共通して指摘していたのは、「憲法改正」問題が──「靖国問題」と同様に──けっして日本国内の問題ではない、ということである。憲法第9条は、日本が明治期以来、とりわけ1931年以降1945年まで行なってきた戦争の過ちを認め、もはやそのような戦争を行なう国家にならないことを、世界へ向けて、なかんずくアジアの国々へ向けて宣誓するものだった。それを変えることは、対外的にどのようなことを意味するのか。映画に出演していた人びとの多くが、アジアの人びとの不安をかき立て、アジア地域の緊張を高め、平和を壊す危険を指摘していた。
 さて、ある意味で映画以上に印象的だったのが、上映に引き続いて行なわれたユンカーマン監督の講演だった。彼が「チョムスキー9・11」や「日本国憲法」のようなドキュメンタリーを撮り始めることの出発点にあるのは、ベトナム戦争、とりわけそれに対する反戦運動にコミットした経験であるという。彼はそのことを引き合いに出しながら、「戦争が終わると忘却が始まる」という言葉を引いて、アメリカが30年後にベトナム戦争と同じ過ちをイラクで繰り返していることを批判していたが、その言葉は9条の精神を捨て去ろうとしているわたしたちに向けられたものとして受けとめられなければなるまい。
 さらにユンカーマン監督は、「原爆の図」を描いた丸木位里のことを取材した映画「業火」のことも語ってくれた。丸木は地獄を描いた絵のなかに、ヒトラーや日本の戦時中の権力者ばかりでなく、自分自身も描き込んでいた。それはなぜかと尋ねたユンカーマンに対し、丸木は、自分は戦争を止められなかったから、と答えたという。彼の一連の画業は、彼自身の政治的責任の深い自覚にももとづいていたのだ。そのような丸木の経験を、わたしたちは苦く噛みしめなければならない。歴史的な戦前と決別することなく「戦後」が「戦前」になった今を招き寄せた、自分自身の責任を正視しなければならないのだ。そして、あの9・11に衆議院議員と政権を選ぶわたしたちひとりひとりの政治的責任はきわめて重いと言わなければならない。

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2005年8月 7日 (日)

幸運という名の女性

  先月末、二度にわたってコロンビア大学のキャロル・グラックの話を聴くことができた。日本近代史を専攻し、日本語を巧みに操る彼女は、一般向けの講演では、日本語で講演したうえ、明確な日本語で会場からの質問に応じていた。そして、広島国際会議場で行われたシンポジウムの折には、これまた明確な英語で、平和へ向けてヒロシマの記憶を普遍化する希望を決然と語りかけていた。そうした彼女の学者としての態度、とりわけどのような質問も真摯に受けとめようとする態度には感銘を受けるとともに、学ばせられた。
 二度にわたる講演のなかで、彼女が一貫して強調していたのは、ヒロシマにまつわる単純化された内向きの「被害者」物語を乗り越え、それを解体して、普遍的に、人類へ向けて平和を呼びかけるようなヒロシマの「パブリック・メモリー」を形成する可能性である。その責任をとりわけ若い世代が引き受けていけるために考慮しなければならない条件を彼女は三つ挙げていた。第一は、戦争や原爆の記憶はその地域を越えなければならない、ということ。第二は、歴史を語る枠組みを広げ、一つの戦争をたの戦争と結びつけること。第三は、ナショナル・メモリーないしナショナル・ヒストリーという制約を乗り越えて、さまざまな記憶が響きあうのを聴き出すこと。
 第二の条件に関して、わたしは、彼女の同僚だったエドワード・サイードが『知識人とは何か』のなかで述べていたことを思い出す。そこで彼は、一つの苦難の出来事を、他の苦難の出来事と結びつけながら、そこに或る問題を人類の問題として提起することの重要性を語っていたのだ。また、第三の条件に関しては、テッサ・モーリス−スズキが語っている「歴史の真摯さ」を思い出す。単純なひと続きの「国民の歴史」を解体して、それが抑圧するさまざまな記憶の配置を、その複雑さを捨象することなく描き出していかなければならない。そうした条件を踏まえながら、「未来を記憶する」こと。キャロル・グラックのこの言い方を、わたしなりにパラフレーズするなら、わたしたちの未来へ向けて、さまざまな記憶の抗争をはじめ歴史的プロセスにまつわる複雑さをけっして捨象することなく、過去の出来事を地域を越えた普遍性へ向けて記憶してゆくこと、そうして世界的な「パブリック・メモリー」を形成すること、ということになると考えられる。それをつうじてこそ、「ヒロシマ」も「ホロコースト(ショアー)」に比肩する普遍性を獲得するのかもしれない。このような彼女の話を聴いたのにもとづいて、「ヒロシマ」を記憶することについて考えてみたことは、以下のURLに掲載しておいた。http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Memory_of_Hiroshima.htm
 ところで、講演の後、彼女と個人的にいろいろ話をすることができたのは大きな幸運だった。ヴァルター・ベンヤミンについてのわたしの仕事に大きな関心を示してくれたし。シンポジウムの後でいくつか論文を渡したら喜んでくれた。
 それからしばらくして、彼女からメールが届いた。「このあいだは、あなたの仕事の話も聞けて嬉しかったわ。あなたのハイデガーとベンヤミンについてのエッセイも楽しみにしているのよ」。同封しそこねたその古い論文を探し出して送ったことは言うまでもない。
 ちなみにキャロル・グラックのファミリー・ネームGluckは、もとはドイツ語で「幸運」や「幸せ」を意味する語だろう。幸運という名の女性との出会い、大切に胸に刻んでおかなければならない。

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