2006年9月11日 (月)

「9・11」に寄せられた二つの作品

 あの「9・11」のような夢を見た。勤め先の建物に飛行機が突っ込んだらしく、天井や壁が崩れ出したので、慌てて部屋の外に出て避難しようとしたところ、今度は逃げようとしている方向に正面からジャンボ機が突っ込んできたという夢。その後どうやって逃げたのかは憶えていないが、ややあって瓦礫の上に立ちつくしているところは何となく憶えている。どうやら夢のなかでは生き残ったらしい。
 それにしてもどうしてこんな夢を見たのだろう。5年前の今日からニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込む映像を何度となく見たのが、トラウマのように残っているのだろうか。あの「9・11」からちょうど5年になろうとするときにあまりにもよく似た夢を見るというのは、薄気味悪い感じもしなくはない。ともあれ今日でその事件からちょうど5年。ニューヨークでは、犠牲者のための盛大な追悼式典が催されるようだし、日本の民放でも、この日に合わせて、事件当日を検証し、かつ再現しようとする特集番組が組まれているようだ。映画の世界でも、事件から5周年を迎えるのを機会に、新たな視点から「9・11」と向きあおうとする作品が制作されているようで、先日その一つ「ユナイテッド93」を広島市内の映画館で見た。
 ポール・グリーングラス監督の作品「ユナイテッド93」は、2001年9月11日にハイジャックされた4機の旅客機のうちただ1機目標に到達しなかったユナイテッド93便が、ペンシルヴェニア州シャンクスヴィルに墜落するまでのあいだに、どのようにハイジャックされ、また操縦桿を奪還するために乗客たちがどのように闘ったのかを可能なかぎり緻密に描き出そうとしている。そのために無名の俳優、さらには現役の管制官として働いている人びとを相当な数で動員しているが、そのことは映画の迫真性を高めるのにかなりの効果を上げていたように思われる。また、前半の日常的な機上の風景の淡々とした描写と、後半の機内電話で愛する人に最後のメッセージを送ろうとする絶望的な光景の緊迫感に満ちた描写とのコントラストは、このハイジャック事件によっていったい何が奪われたのかを見る者にまざまざと突きつけてやまない。そして、航空管理当局に人が足りず、また大統領の不在のために空軍の対応も後手後手に回るさまを描いているあたりは、事件に対するホワイトハウスの無為無策を告発する狙いもあるのだろう。こうも悪条件が重なっているのを見せつけられると、「9・11」は、起こるべくして起こった、あるいはもしかして仕組まれていたのでは、とさえ思われてくる。
 全体として、だんだんと緊張感を高めながら緻密な再現を積み重ねてゆくグリーングラス監督の映画づくりの上手さが光る作品である。最後のあたりなど、飛行機が上下に激しく揺れるのと相まって、胃が捩れるかのような感覚をおぼえた。ただし、気になったのは、ハイジャック犯と闘った乗客があまりにも英雄的に描かれてしまっていることと、それに対してイスラム教徒のハイジャック犯の描き方は、あまりにも型にはまってしまっていること。4人のハイジャック犯のひとりひとりがそれぞれどのようなバックグラウンドをもっているのか、なぜ自分の命を犠牲にすることになるハイジャックの実行犯の一人になることを決意したのかをもう少し詳しく描いたなら、事件がなぜ起きたのか、という重い問いにも取り組むことができたはずである。冒頭のコーランを読むシーンは少しクリシェが過ぎる感じがした。
 さて、書かれたのはすでに一昨年のことであるが、リービ英雄の小説「千々にくだけて」(『千々にくだけて』講談社)は、「ユナイテッド93」とはある意味で正反対に、アメリカの外で「9・11」に遭遇し、それに翻弄される経験を描くことによって、「9・11」に向きあおうとする作品である。日本に定住しているリービ英雄自身と思われるエドワードという主人公が、ワシントンに住む母とニューヨークに住む妹に会うために、バンクーバー経由でアメリカへ入ろうとするが、「9・11」の事件が起きたために、バンクーバーで足止めされ、結局母親にも妹にも会えないまま日本へ戻ることになる。その数日間の経験が私小説風に実に淡々と描かれるわけだが、その描写に「島々や千々にくだけて夏の海」と松尾芭蕉が松島の海を歌った句の解釈のヴァリエーションが入り込んでくるのである。「千々にくだけて」いるのは、まずバンクーバー付近の多島海的な風景であり、世界貿易センタービルの建物であり、その崩壊とともに破れ散って、主人公の妹のアパートメントにまで飛んできたビジネスの書類であり、そして「9・11」以後の世界であろう。あるいは主人公をはじめとする人びとの心も「千々にくだけて」しまったのかもしれない。
 とりわけ惹かれたのが、テレビを通して聴こえてくる言葉をつぶさにとらえることによって、世界がこれからどのように分裂していくのかを、あるいはすでにどのような裂け目が世界のうちにあったのかを照らし出しているあたり。リービ英雄の言葉に対する鋭敏な感性が、「9・11」とそれに続く「対テロ戦争」の背景にあるものを、とりわけそこに潜む他者に対するまなざし、そしてそこに込められた憎悪をはじめとする情念を鋭く照らし出している。それ以外の描写が淡々としているだけに、その鋭さが際立つ感じがした。もし「千々にくだけて」しまった世界を、もう一度、そしてこれまでとは別の仕方でつなぎ合わせようと思うのならば、他者たちの、あるいは自分自身の他者へのまなざしを見つめ返しうるような、言葉の聴力を高めるところから始めなければならないのかもしれない。そんな感慨を抱かせる小説だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 4日 (金)

岡真理『棗椰子の木陰で』

 48時間の爆撃停止の期限が切れて、イスラエルによるレバノンへの、空と地上両方からの激しい攻撃が再開された。攻撃の激しさは増す一方だが、これは当初から防衛の範囲をはるかに越えている。空からの爆撃においては、非戦闘員を無差別に虐殺するもの以外の何ものでもないクラスター爆弾も使われたという。今朝の新聞には、病院を掃討するイスラエルの地上特殊部隊の写真も載っていた。そして、このような一方的な軍事攻撃の被害を受けるのは、カナの避難施設への爆撃が象徴するように、決まって子どもや年老いた人びとをはじめとする一般の市民である。レバノンでは900人に上る人びとが殺され、そのほとんどが民間の非戦闘員であるという。そして、今や100万人を超える人びとが、住み慣れた場所を追われ、難民となっているとも報じられている。
 そのような悲惨な状況を最も研ぎ澄まされた眼で見つめている一人がアラブ文学研究者の岡真理であるが、彼女がこの10年間、悪化の一途をたどるパレスチナとその周辺のアラブ世界の情勢を見つめながら、それに応える文学の力を問い続け、書き継いでいった論考を集めた一冊が最近出版された。『棗椰子の木陰で──第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社)である。この論集には、言葉を語り、語られた言葉を読むことを、そして語り、読む主体のアイデンティティを、正確な言葉づかいをもって一歩一歩突きつめ、それらについての従来の見方を、すなわち人びとの自明のよりどころとなっているものを突き崩し、その果てに文学の、そして言葉の可能性を切り開こうとする試みの軌跡が刻まれている。
 たとえば、いわゆる「グローバリゼーション」が進行するとともに富める者と貧しき者が引き裂かれるなかで、あるいはイスラエルとアラブ世界との緊張が高まるなかで、しばしば「異文化理解」や「多文化共生」といったことが叫ばれる。しかし、そのように「固有の」文化があらかじめ存在することを前提するかのような議論には、大きな落とし穴があることを岡は指摘している。「かつて帝国主義の時代、非西洋世界の文化は価値的に劣ったものとされ、西洋中心主義の世界観のなかで周縁化されてきた。現代においては、過去の西洋中心主義に対する批判として、非西洋世界の文化の自己主張がさかんになされるようになった。とりわけグローバリゼーションが進行する今、世界の一元化に対する文化的抵抗として多文化主義が主張されている。どの地方にも、その地方固有の文化、固有の価値観がある、アラブにはアラブ独自のイスラーム文化によって培われた経験と価値観が、アフリカにはアフリカの太陽と母なる大地によって育まれた生と価値観がある、という主張。西洋中心的な私たちの世界認識が批判され、解体されるのは良い。しかし、ここで注意したいのは、こうした本質主義的な地方主義に根ざした多文化主義は、依然として西洋=普遍、非西洋=特殊という構図が強固に存在するこの世界では、西洋中心主義的な世界認識を解体するどころか、むしろ強化することになりはしまいかということである。知の本質主義的地方主義に居直り、地方の文化的特殊性を強調する「原理主義」が、西洋=普遍とする西洋中心主義と共犯関係を結んでいることはつとに指摘されているとおりである」。
 では、酒井直樹が批判する「文化主義」とも重なりあうこの「本質主義的地方主義」を乗り越えてゆくどのような道筋があるのだろうか。岡は、「固有な」ものとして、自己のアイデンティティの基盤として自明視しているものを内側から解体することを提案している。たとえば「母語」。これを私たちは「固有の」言語として「自然に」話しているだろう。しかし、それはもとをただせば、「母」という他者の口から吹き込まれた「異物」なのだ。それを語ることは、核心においては一体化の享楽であるよりはむしろ分裂の「苦悶」なのではないか。そのことを岡は、トリニダート・トバコの詩人マルレーヌ・ヌルベーズ・フィリップの詩「言語の論理に関する言説」を解釈しつつ、説得的に示している。
 このことを洞察し、言語の物質性に躓きながら、他者の言語として自分が「母語」として話してきた言語を見つめなおすこと。岡によれば、このことのうちに言葉を話すことを他者に開かれた活動へ反転させる契機がある。「母語を母語として生きる者であろうと、母語なるものの他者性を、つねにすでに、生きている。これらのテクストが読者に要求するのは、言語の物質性を回復させ、私たちがそれに躓くことによって、母語なるものの、忘却されてあるこの生々しい他者性を想起することにほかならない。言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。/だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者に開かれたものにする、その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。私の躯のなかに吹き込まれたあなたの言葉が、私の呼気となって出てゆく、開かれた私の躯が反響板となって、あなたの言葉を、あなたのものではない他者の言葉を、誰のものでもない言葉を、私のことばとして、私たちの言葉として。誰のものでもない他者の言葉を分有する者として。苦悶であると同時に、歓びでもあるような」。
 「固有の」言語ではなく、他者の言語を分有していることを引き受け、複数性を自分自身のうちに刻印することによってこそ、他者たちのあいだで言葉を響きあわせることができる。「この世に居場所をもたない者たちの、死者たちの声」に耳を澄ませ、「正統性」の名のもとでのあらゆる排除の暴力を越えたところで、そのように掻き消されようとしている声に耳を澄ませ、それに応答することができるのだ。『千夜一夜物語』、ナワール・エル=サアダーウィーの『零度の女』、李良枝の『由煕』といった文学作品の精緻で批判的なレクチュールをつうじて、岡真理のエクリチュールは、これまで自己の母胎と見なしてきたものを突き崩した先に、他者と応えあう言葉を見いだすことへ読者をいざなおうとしている。
 ところで、『棗椰子の木陰で』には、1997年から2006年にかけて、パレスチナの出来事を中心に、ひとつひとつの出来事に応答しつつ、そこにある暴力と、それに対する抵抗を証言するクロニクルも収められている。それを書き継ぐことをつうじて、岡はアラブ世界の情勢を見すえつつ、そのなかで暴力的な抑圧に苦しむ人びとと連帯しようとしている。その姿を見つめながら、レバノンに対する不当な攻撃に対して、そしてその陰で今も進行しているガザへの暴力に対して、抗議の声をあげようとしない自分自身の今ここを、戦慄とともに見つめ返すべき時が来ているのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月31日 (水)

「辣韮のような存在」を映す鏡

 財政学を専攻する同僚のクラスと合同の1年生向けのゼミで、沢木耕太郎のルポルタージュ集『人の砂漠』(新潮文庫)に取り組むことになった。その掉尾を飾る「鏡の調書」は、岡山市奉還町で一人の老女が起こした詐欺事件を追っている。その事件とは、奉還町の人びとがみな「滝本キヨ」を名乗る80過ぎの老女によって3年近くにわたって騙され、彼女と付き合いのあった十数人が返済のあてのない600万円に及ぶ金を無心し続けたというものである。それにしても本名を片桐つるえというこの老女は、なぜこれほど長い間人びとを騙し続けることができたのだろう。この問いに答えるために事件の経緯をたどった沢木耕太郎は、事件が金儲けのために起こされたのではないことに行き当たる。「金持ちの素晴らしいおばあさん」として町中で認められている自分を演じ続けるための犯行だったのだ。そのことが「最上の張り合いとなっていた」のである。そして、東京から来た裕福で気風のよい老女の役を演じるために小奇麗に実なりを整え、詐欺を重ねてきた老女のことを、沢木は最終的にこう言い表わしている。「辣韮のような存在」。
 たしかに偽名を使い続け、いくつもの名前を行き来した片桐つるえは、「辣韮」さながらどこまで剥いても皮ばかりの、それどころか偽名を名乗ることで薄皮の一枚を他人に見せることに執着し続けた人物だったのかもしれない。しかし「辣韮のよう」なのは、果たしてこの詐欺をはたらいた老女だけなのだろうか。「世間」の評判を落とさないために「よき社員」を、「よき公僕」を、「よき親」を、果ては「よい生徒」や「よい子」までも演じ続けようとする人びともまた、「辣韮のよう」ではないか。いや、そう言う自分も、周囲の視線を気にしながら、社会からあてがわれた役割を演じるのに汲々とする「辣韮のような存在」ではないのだろうか。沢木耕太郎が描き出す片桐つるえの生きざまは、そのような問いを抱かせるものである。
 むろん、片桐つるえの奉還町の人びとを欺く手腕は、常人には真似できないほど見事である。「東京・銀座の煙草屋」という「眼新しさと馴染み深さが適度に入り混じった」役割の設定と、その信憑性を高める舶来煙草の手土産によって銀座から来た大金持ちの孤老であることを印象づけ、金を貸すことが途方もない見返りにつながる個人的なコネを強めることであるかのように期待させる心理作戦によって、町全体を「ほとんど集団催眠に近い完璧さで」騙すことに成功したのだ。もちろん騙すだけでなく、騙し続けるための手だても必要である。彼女は恩義を感じた人に対する付け届けを絶やさなかった。しかも、騙し取った金はもっぱら付け届けのために使われ、ほとんど自分の手許には残らなかったという。では、なぜそこまでして彼女は「金持ちの素晴らしいおばあさん」を演じることに固執したのだろう。この問いに向きあうなかで沢木耕太郎は、「滝本キヨ」という偽名のもとで奉還町の人びとに語られた人生が、「片桐つるえにあり得たかもしれない「また別の人生」への夢」と重なることを見抜く。「億万長者」であり、「島崎藤村の弟子だった」などといった嘘は、他人に騙されたのをきっかけに犯罪に手を染め、社会の底辺での生活を強いられてきた人生のなかで満たされなかった彼女の「夢」を表現していたのである。とはいえ、その「夢」は最後まで「夢」であり続けた。街中の人びとが彼女を「億万長者」と思ったところで、現実に「億万長者」になれるわけではないのだ。彼女は、それでも「億万長者」と思われることによって、「夢」の空虚さが埋められたかのような感触を得ようとしたのだろうか。
 そう考えるとき、大金持ちの孤老を演じ続けようとする片桐つるえの姿は、社会のなかで他人の視線に晒されながら生きるわたしたちの姿にも重なってくる。わたしたちはしばしば、「ひとかどの」とか「よい」とか認められるために身なりや立ち振る舞いを整え、ある理想化された「自分」の姿を装う。現実の自分がそれと重なっているわけではないのに。そうして「世間」で認められた自分を演じて満たされようとするわたしたちは、欺瞞に汚れた「辣韮」の皮にしがみついて生きていよう。しかし、その薄皮以外のところに「ほんとうの」自分などというものがあるのだろうか。「辣韮」をいくら剥いたところで剥いた皮が残るだけではないのか。だとすれば、そもそも「自分」とは何なのだろう。
 沢木耕太郎の「鏡の調書」は、一人の老女が起こした詐欺事件を追うことで、人はなぜ騙されるのかという問いに正面から向きあうばかりではない。それは、他人の視線に晒されながら社会のなかに生きる「自分」というものを映し出し、問いただす、それ自体が一枚の鏡のようなルポルタージュである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月14日 (日)

辺見庸『自分自身への審問』

 辺見庸は、脳卒中に倒れて右半身が麻痺したばかりでなく、癌にも蝕まれつつある身体で書いた。おそらくは一語一語絞り出すようにして。しかも「自己自身への審問」というかたちで。彼の思考の強靱さは、病床で自分自身を問いただすほどだった、と言うべきなのだろうか。いや、その「審問」はむしろ、彼をその身体もろとも強靱さといったものを越えた次元へと導いているのではないか。
 辺見庸の新著『自己自身への審問』(毎日新聞社)は、脳卒中で半身の機能を失い、記憶の一部を失った自分自身の身体をさらけ出すところから始まっている。「襤褸のような」と彼が形容する、みずからの身体の剥き出しの姿を見つめるところに、新たな出発点を置こうとするのだ。「老いて病んだ自己身体に即して世界を眺める」。つまり、「なるたけ裸形を怖れず、幻影をまとわず、格好をつけずに風景に分け入る」こと。これがより衒いのない、ということはより深く身体経験にそくした彼の新たな思考のモットーなのである。
 とはいえ、病に蝕まれてまったく思うようにならない身体を前にして、「自死の衝動」が首をもたげてきていることも、辺見庸は否定しない。だからこそ、脳梗塞の末に自殺した江藤淳が最後に書き残した言葉のことも思い出される。しかし辺見は、江藤のように「自ら処決して形骸を断ずる」ことは選ばない。自死の権利を最終的なものとして留保しながら、自死が自分にとって可能であるかぎり、自己自身を、すなわち「自己身体に即して世界を眺める」思考を、表現し続けようとするのである。「形骸化しつつある自己身体を消滅させる前に、おつにすました者どもの面前で醜怪きわまる踊りの一つも踊ってみせて紳士淑女を仰天せしめよ」。むしろ思考がすでに「形骸」と化してしまっていた江藤のように「自裁」を選ぶのではなく、健常者には「形骸」と見えるものそれ自体を、さらにはその内部に湧きあがるものをさらけ出そうとするのだ。そのとき、いったい誰が「健常」なのかという問いも湧いてくることになる。
 脳卒中を経て「眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」へ向かい視界が反転する」のを経験した辺見は、「見る」ことの「不遜」をこれまで以上に強く感じるようになる。病院でつねに見られる立場にあるなかで、「一般に〈見られる〉ぼくの〈見る〉を想定していない」医師の「見る」まなざしに居心地の悪さを感じ、「〈見る者は見られない〉という関係性」に不遜なものを見て取っているのである。その関係を自明なものとして享受しているところに、辺見がそれに対する心の底からの嫌悪感を吐露してやまない「安手のシニシズム」の根があるのかもしれない。
 辺見は、第二次世界大戦後の世界についてハイデガーが語った「世界の夜の時代」という言葉を引いて、その「夜の時代」とは「まさに現在のこと」かもしれないと述べたうえで、そのような「神の不在をそれとして感じることができず、夜を昼と錯覚している時代、恥なき季節、徒労と失意の時代」では「チープなシニシズム」が伝播してゆくと指摘している。彼によると、そのシニシズム自体は古くからある低い声の笑いとして現われていた。日本では「人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると」、「必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます」。「何もしない自分を高踏的にみせたいのでしょうか。それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない放屁のような笑いなのでしょうか」。
 そして、今日そのように人を笑わせているのは、「資本」であるという。「ハイデガーの言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタルと市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です」。いわゆる「勝ち組」を含めて意識が資本によって収奪されてゆくなかで、その収奪された意識から「安手のシニシズム」の笑いが漏れているのだ。そのとき笑いを漏らす者には、「自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない」。そのようななかで、マジョリティに属しているという安心感に浸りつつ、まったく実質のない資本という虚無を追い求めるという、それこそ藤田省三が「全体主義の時代経験」のなかで資本主義のニヒリズムと呼んだ「妄」が全体を覆っていることを、病床の辺見は喝破しているのだ。こちらが「健常」どころではない。ゴヤの版画の題名さながら「すべては妄」であるなかで、ナルシスティック記憶の捏造をともなう記憶喪失が進行し、「市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産み出す無慈悲な場」であることも同時に忘却されているのだ。
 だとすれば、「自分自身への審問」とは、脳卒中に倒れて右半身が麻痺し、癌にも身体を蝕まれている者だけが行なわなければならないことなのだろうか。むしろ市場と連動する「腐った民主主義国家」の内部で消費生活と世界のスペクタクルを享受しながら生きている者は、わたし自身を含めてまず、自分自身の生きざまを、いや今ここに生きていることそれ自体を問いたださなければならないのではないか。自己の生存への審問を、スペクタクルの社会の内部で、つねに見ているのではなく、実はさまざまな権力装置によって見られていることの恥辱を「自己身体」で引き受けるところから始めなければならないのではないだろうか。辺見庸の「自分自身への審問」は「未完」となっている。辺見庸の自分自身への審問も、わたしたちの自分自身への審問も、まだ終わっていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月28日 (金)

植民地主義の反復と歴史認識の問題

 「領土」とは言うまでもなく、一定の境界によって囲まれた土地のことである。それはずっと昔なら、城壁の内側のことだったり、あるいは河川や山脈といった自然の城壁によって守られた内部だったりしたのだろう。今は「領土」と言えば、地図上に人為的に引かれた境界線の内側にある陸地のことである。
 ある土地を「領土」と定める境界線を地図上に引くとは、境界線の内側にあるその土地が「われわれ」の生存の場所であると、「われわれ」とは異質な「彼ら」に対して宣言することである。それは同時に境界線の内側にいる人びとに、同類ないし同胞としての「われわれ」のアイデンティティを、異質な「彼ら」との対比において自覚させ、さらにはひとりひとりではなく、「われわれ」なるものの生存の必要を知らしめることでもある。そのような「われわれ」の想像とともに生じるのが「国民国家」の「ナショナリズム」であり、それが排他的なものであるほかはないことは言うまでもない。そして、虚構の「われわれ」の生存の権益のために従来の境界を越えたところに新たな境界線を引き、そこに住んでいる人びとを従属させようとするとき、「ナショナリズム」は「植民地主義」となる。
 現在、日本と韓国のあいだで「領土」をめぐる議論がかまびすしい。韓国側が独島と呼び、日本側が竹島と呼ぶ小島は、いったいどちらのものなのか。日本側が、古くから日本の漁民の寄港地だったことを踏まえて明治期に島根県に編入したことの法的正当性を主張する一方、韓国側はそのことを、同時期に進められていた朝鮮半島の植民地主義的収奪の一環と主張し、双方とも譲らない。しかし、みずからの主張を譲らないなかで、双方とも小さな島の周辺の海域の漁業権益の独占を見すえているならば、双方の主張は「ナショナリズム」のそれであるにとどまらず、「われわれ」の生存の権益を外に求める「植民地主義」の色彩も帯びてくる。そのことに思い至るとき、おびただしい数のアジアの人びとを虐殺し、抑圧しながらアジア全体を戦争に巻き込んでいった近代日本の植民地主義的ナショナリズムが、実に皮肉な仕方で反復されているのを目のあたりにするようで、暗澹とせざるをえない。
 憎しみあう者たちは醜く似かよってくる。小さな島をめぐる憎悪が、植民地主義につながるナショナリズムの反復と応酬につながってしまっているのだ。そのことの最大の原因はやはり、かつて朝鮮半島を植民地支配した日本が、みずからの植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識を示しえていないことにある。韓国の大統領も指摘するように、「A級戦犯」を合祀し、植民地主義の戦争を美化する展示物を置く靖国神社を首相が詣でるというのは、本人がいかに内心の問題と弁明しようと、日本が植民地主義の過去を否定しない歴史認識を公にする行為なのである。これが政治家たちの「妄言」とともに繰り返されるなかでは、韓国の側も身構えてしまう。これまでの「謝罪」は嘘なのではないだろうか。現に日本の歴史教科書からは第二次世界大戦における日本の加害責任についての記述は減っているし、憲法改正の動きもあるではないか。韓国大統領が「謝罪に見合う行動を要求する」のも無理のないことである。だからといって、手段を選ばないナショナリズムが正当化されるわけではけっしてないのだけれども。
 では、植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識はありうるのだろうか。ありうるとすれば、それはどのような歴史認識なのだろうか。
 この問題を考えるうえで示唆的に思われたのが、講談社『本』別冊『RATIO』第1号に掲載された大澤真幸の論考「「靖国問題」と歴史認識」である。ここで大澤は、山田太一のドラマ「終りに見た街」を巧みに論じながら、「靖国問題」をめぐるいわゆる「右派」と「左派」の主張を見事に腑分けしている。高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)とともに、この問題を考えるうえで必ず参照されるべき重要な論考と言うべきであろう。
 大澤によれば、これまで歴史は「最後の審判」の視点から書かれてきた。歴史とは、大澤が「第三者の審級」と呼ぶ超越的な視点、すなわち神の視点を時間の外に設定し、その視点からそれぞれの出来事を意味づける「歴史神学」だったのだ。その「第三者の審級」に「右派」は自分の同胞の死者だけを置き、その期待に同胞たる「われわれ」は応えなければならないと、同胞の死者のみに感情移入する。これに対して「左派」は、「最後の審判」を文字どおりに受け取る。「第三者の審級」は無限の未来に待つ「超越的な救済者」の場なのだ。その「普遍的な正義」の視点から、あらゆる死者が裁きの場に呼び出されうるのでなければならない。したがって、死者を差別するのでなく、すべての死者を追悼の対象とするべきなのである。
 このような二つの立場の違いを明確にしたうえで、大澤は「左派」の主張に含まれる問題点も指摘している。「左派は、「普遍的な正義」の存在を前提にする立場であった。それは、無限の未来に──つまり人類と宇宙の歴史を全体として通覧できる位置に──、「最後の審判」を下す救済者を想定するのと、論理的には同じことに帰する。それに対して、右派は、言ってみれば、不完全な「最後の審判」を想定していることになる。というのも、右派は、全人類・全宇宙を視野に収める神の代わりに、特定の共同体のみを視野に収める死者を置くのであり、それは共同体が歴史的なアイデンティティを持続させる有限の時間幅の中でしか意味をもてないからである。その結果として、右派にとっては、死者=「第三者の審級」は、共同体が伝統的に保持してきた「善」を代表することになる。当然、それを阻害したり、傷つけたりする者は、「悪」であり、「敵」である。左派の「最後の審判」が、これとは異なった真正のものであることの端的な現れは、──戦死者の追悼という問題との関連で見た場合には──敵方の犠牲者をも追悼の対象に含めるべきだ、という主張の内に見て取ることができる。だが、先に示唆したように、敵をも追悼しようとすると、たちどころに困難にぶちあたることにもなる。「普遍的な正義」の中に包摂しようもない、根本的な「悪」が残ってしまうからである」。真正の「審判」を想定する主張も、神が悪を含む世界を創造したのはなぜなのか、という神学的ないし弁神論的難問にぶつかってしまうのである。
 そのことを確認しながら大澤はこう自問している。「歴史の渦中にある生成の契機を掬いだし、敗者を救済することができるような、そんな歴史認識の可能性はあるのか」。たしかに、自分が生きている現在を正当化するために特定の死者だけに感情移入し、「われわれ」の死者が顕彰されるような歴史を物語り、その他者を抑圧する従来の歴史認識ではけっしてなく、むしろ死者たちの記憶をひとつひとつ今に甦らせ、それぞれの出来事を「他でもありえた」可能性を含んだ、未完結の生成の相においてとらえかえし、そうして現在を揺り動かす歴史認識によってこそ、虚構の「われわれ」の自己正当化と深く結びついた植民地主義的ナショナリズムを乗り越えていくことができるにちがいない。だが、そのような歴史認識は、どうしたら可能なのか。神の無限性を想定しても、根本的な悪の問題に突き当たってしまうではないか。そこで大澤は、「全能の神と有限の神との対立」、すなわち「左派と右派」の対立が構成する「デッドロックを乗り越える、第三の立場」を、「神が悪をなしうるということ、したがって神が可謬的であるということ、これらのことを認めるところ」に求めている。「第三者の審級(神)そのものに悪が刻まれており、第三者の審級が破壊的な失敗をなしうるということ、それゆえ、第三者の審級が歴史の生成過程の中に巻き込まれているということ、このことを前提としたとき、歴史がまったく異なった相貌をもって現れるはずだ」。
 しかしながら、そのように「神=第三者の審級を歴史化し、歴史の渦中に投げ込む」とはどういうことだろう。それはどのような歴史認識のかたちとして現われてくるのだろうか。むしろ、それは歴史を認識する者のほうが、「最後の審判」の地点に立てないことを自覚しながら、ひとつひとつの過去を想起することではないか。そのことは、過去の出来事を現在の視点から完結させず、むしろ生成の相において今に甦らせることにつながるだろうし、またそれは神の可謬性よりは過去と現在の断絶を出発点とすることであるはずだ。人間があまりにも性急に神を歴史の渦中へ投げ込んだところよりは、人間が歴史を完結させることはできないのを胸に刻むところからのほうが、過去をその救済の可能性において想起できるはずである。フランツ・カフカが語ったように、希望はある、しかしそれはわたしたちのためのものではない、ということと、ヴァルター・ベンヤミンの『歴史の概念について』のなかの大澤が引いていない補遺にある「未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門だったのだ」ということとの緊張のなかで、歴史認識は試みられるべきであろう。
 こうした問題点を感じるとはいえ、大澤の論考が歴史認識の可能性を考えるうえで重要であることに変わりはない。そればかりでなく、それが喫緊の問題となる現在を照らし出している点にも注目すべきであろう。ちなみに大澤は、ドラマ「終りに見た街」にもう一度触れながら、論考をこう結んでいる。「主人公は、「終り」に、戦争の後に、つまり──戦争との関連において──最後の審判の立場に、自分はすでにいると思っていた。ところが、「終りに見た街」は、戦争の渦中の自分たち自身の現在(2005年)の街だったのである。超越的な位置から戦争の善・悪を判断していた主人公自身が、戦争の中に降り立っていたのだ」。「共謀罪」による訴追を可能にする法案や「教育基本法改正」案が、賛成の与党が大多数を占める国会に提出されようとしている現在が、「終りに見た街」の現在に急速に近づきつつあることは間違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2006年4月23日 (日)

吉田秀和『ソロモンの歌・一本の木』

 現在も『レコード芸術』誌に魅力的な文章を寄せたり、NHK-FMの「名曲の楽しみ」でリヒャルト・シュトラウスについて語ったりといった活躍を続けている吉田秀和は、日本における音楽評論の草分けなどとしばしば称されるけれども、けっしていわゆる「音楽評論家」ではない。音楽が彼にとって中心的な芸術であるのは確かだが、彼は「音楽」を消費する文化産業のメカニズム──いわゆる「業界」──に組み込まれたかたちで消費を促進する言説を生産するだけの「評論家」とはまったく異なった次元で音楽を語っている。吉田は、音楽とは何か、それを演奏するとはどういうことなのか、そもそも芸術とは何か、そして芸術が息づく文化とはどのようなものなのか、といった根本的な問いに絶えず向きあいながら、音楽について、そればかりでなく、美術や文学について語っているのだ。そうすることで吉田は、現在も芸術を消費し続けるメカニズムと、それが機能する日本の土壌それ自体を問いただしているのである。そして、このような吉田の批評の位置を伝えるとともに、その批評の言葉が、書くことについての、あるいは文学についての、ひいては言葉それ自体についての深い思索にもとづいていることを知らせてくれるのが、最近講談社文芸文庫の一冊として出たエッセイ集『ソロモンの歌・一本の木』にほかならない。
 「あとがきにかえて」ということで新たに末尾に付された文章のなかで、吉田は、正宗白鳥のエッセイを再読して、「考えはどんなに違っていても、それを突破して読み手を痛撃する力をもつ言葉を書きつけることが可能だという事実を確認せずにはいられなかった」と語り、さらに「この力、こういう言葉を出現さす精神の働き、これこそ「文学」にほかならない」と述べている。吉田は、このような「文学」についての思想を出発点に、読み手を射ぬく力をもった言葉にみずからの「精神の働き」を結晶させることを、今も絶えず追い求めているのではないか。「文学は言葉以外の何物でもないが、それと同時に、これは思想の力の軌跡、あるいは結晶なのである」。もしかすると、吉田の批評の核心をなしているのは、「思想の力」の「結晶」としての「文学」なのかもしれない。そして、こうした意味での「文学」なき批評が、「批評」の名に値しないことも、彼は突きつけているのではないだろうか。
 吉田の「読み手を痛撃する力をもつ言葉」への情熱に火を点けたのが、若き日の中原中也、吉田一穂といった詩人との邂逅であったことも、『ソロモンの歌・一本の木』の冒頭に収められたいくつかのエッセイは教えてくれる。言葉の正確さとそこから生まれる鋭さ、これを吉田秀和はもしかすると酒に酔った中原中也の喧嘩ぶりを見ることからも学んでいるのかもしれない。それについて吉田はこう書いている。「そういう彼が、また、喧嘩をするとすさまじかった。私のいうのは口喧嘩である。目の前の相手を、一語一語、肺腑をつくように正確に攻撃する。その烈しさは、意地の悪さなんてものを通りこしていた」。その一方で吉田は、そのような中原の喧嘩が、実は「無限に対する「生」の主張の一つの形式」であることも見て取っていた。それをつうじて中原は、「宇宙との交感」を目指していたという。それも死に限りなく近いところで。吉田に言わせれば、中原は「生きている時に自分の死を見てしまった人間」なのである。
 吉田は、詩人たちとの交流をつうじて言葉を研ぎ澄ますばかりでなく、小説を読むことによって芸術をめぐる思索を深めてもいる。そうした経験の場として吉田が最も重要視しているのが、プルーストの『失われた時を求めて』のようである。それを読む経験について彼はこう書いている。「私は『失われし時を求めて』の中で、自分の生きてきた時間を溯り、溯る間にはじめて時間の流れを自覚的に捉える。私は自分に再会し、自分を意識する。この本に出てくる事件は空間的拡がりをもっており、それはまた私を拡げもするのだけれども、私がここで本当に知るのは、この《時間》の中であり、そこで私は《自分になる》のである。こういう《時》がなければ──時が流れ、私が私でないものに流れこみ、私でないものが私の中に流れ込んでくるのでなければ、私は永久に私に再会することはなく、自分になることもないだろう」。そして、表題作の一つ「ソロモンの歌」は、吉田がそのようにプルーストを読むなかで「私」が「自分になる」経験を、記憶が甦るその「時」をとらえるすぐれてプルースト的な「文学」に結晶させえたことを示している。吉田はそこで、引っ越しの日の朝の目覚めを思い起こすところから幼年期の記憶を甦らせ、それをつうじて「自己革命」の継続のただなかにある日本の現在を照らし出すとともに、芸術を息づかせるような文化の生命を取り戻すべく、今ここで「自分を根本的に検討し、再組織する必要」を語りかけているのである。そうした言葉が、「ソロモンの歌」が書かれてから35年以上が経った現在の日本にも光を投げかけていることは言うまでもない。
 吉田秀和の「批評」を構成するものとして、文学の経験と並んでもう一つ忘れてはならないのが、美術の経験である。『ソロモンの歌・一本の木』には、クレーの音楽性とでも言うべきものを見事に解き明かした、「クレーの跡」というエッセイが収められている。そこで吉田は、クレーの絵が「有機的に成長する」過程のうちに、無調の音楽が「非常な自由さと組織性」のバランスを保ちながらかたちづくられてくるプロセスに呼応するものを見て取ることによって、クレーの20世紀的な音楽性を照射すると同時に、その成長過程が「彼の好んだモーツァルトの音楽におけるように」、「線が天使に」なってゆくプロセスであることも示しているのだ。そして吉田は、クレーの天使たちが第二次世界大戦の始まる年に数多く生まれていることも忘れていない。「哀れな人間たちは、忘れっぽい天使が、ついうっかりしている間に、大変なことをおっぱじめ、幾千万という同類たちを殺戮しだしたのである」。
 第二次世界大戦を経験し、深い絶望のなかでなお創造し続けた芸術家として、吉田はもう一人、永井荷風を取り上げている。荷風の絶望は、近代日本への絶望である。明治期にフランスとアメリカへ渡り、人間ひとりひとりが「個」であることのうちに西欧文明の本質を見た荷風は、帰国後に日本人がその本質を何ひとつ学び取っていないことに直面させられるのである。そして第二次世界大戦の経験は、そうした日本への絶望を決定的なものにしたのだった。「現代の西洋文明輸入は皮相に止り、其の深き内容に至っては、日本人は決して西洋思想を喜ぶものではない」という言葉をはじめ、そうした絶望のなかから絞り出された荷風の言葉から、吉田は、日本の「西洋文明」をモデルにした「自己革命」と、それをつうじてヨーロッパの芸術を「芸術」として日本に根づかせることへの根本的な問いかけを聴き取っている。そして、「技術第一」の日本の音楽教育の問題を指摘するところから音楽について、芸術そのものについて、そしてそれが生きる場としての都市について徹底的に問い抜こうとしているのだ。吉田の「荷風を読んで」は、日本に生きる者、とりわけそこで芸術に携わる者に、「自分を根本的に検討し、再組織する必要」に目覚めさせるインパクトをもった芸術論ないし文学論として、最も重要なものの一つであろう。
 ところで吉田は、「荷風を読んで」のなかで「日本人」についてこう述べている。「日本人の最大の特徴は、外国の文物思想の浅薄な模倣をよろこぶ気持と、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない」。荷風は、「日本人」であろうとする者たちの根本的な「排外思想」を前に逃避した一人であったかもしれない。しかし、吉田はそうではないはずだ。彼の研ぎ澄まされた、それでいて居丈高なところは少しもない言葉づかいは、彼が批評を開かれたものととらえていること、さらには批評をつうじて芸術をめぐる対話の空間を開こうとしていることを示していよう。新たな耳で音楽を聴くことにいざなう吉田秀和の優しい言葉のうちに、芸術の開かれた場を「日本人」のあいだに切り開くことを目指す彼の不断の闘いを見て取らなければならないのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月16日 (木)

目取真俊「水滴」

 機会があって目取真俊の「水滴」(文春文庫『水滴』所収)を再読した。目取真俊の芥川賞受賞作であるこの作品も、彼の他のいくつかの作品と同様に、未だ自然の豊饒さを残している沖縄の現在に沖縄戦の過去が突如として侵入してくるさまを描き出し、沖縄の地上戦における沖縄の人びとの苦難がまだけっして過ぎ去っていないことを読み手に突きつけているが、この作品において戦争の過去が入り込んでくるのは、人間の身体の内部である。生命の熱気でむせ返るような沖縄の六月に、主人公徳正の右足の膝下が突然、石灰質の水を含んで熟れた冬瓜のように肥大する。そして、右足の親指に小さく開いた傷口から漏れ出る水滴が、あたかもアンドレイ・タルコフスキーの映画で惑星ソラリスを包むあのソラリス物質のように、徳正が50年以上ものあいだ抑圧し続けてきた沖縄戦の経験を、彼の眼前に甦らせるのである。
 徳正の右足が膨らんで水を滴らせるようになると、夜ごとに沖縄戦で戦死した兵士たちが、当時そのままの傷ついた姿で代わる代わる現われ、親指から水を飲むようになる。そのなかには、首里の師範学校でともに学び、沖縄戦では鉄血勤皇隊員として行動をともにした石嶺の姿もあった。水を飲みに現われるのは、石嶺も含めて、徳正が生き残るために壕に残してきた兵士たちだったのである。
 艦砲射撃の砲弾の破片を受けて腹部に致命的な裂傷を負った石嶺をやっとのことで壕まで運び込んだその夜、徳正は部隊と一緒に南へ移動した。しかも壕を立ち去る際に徳正は、兵士の看護のために従軍していた女学生宮城ミネが石嶺の容態を気づかって手渡した水筒の水を、我慢できなくなって飲み干してしまったのだ。徳正は空になった水筒を置いて壕を去ったのである。
 この経験を徳正はずっと自分のなかに押し隠していた。石嶺の母親には、逃げる途中ではぐれて行方不明になったと嘘をついたし、平和教育の一環として子どもたちに戦争の経験を物語る際にも、石嶺を見捨てて生き延びたという真実に触れることはなかったのだ。さらに宮城セツが自決を遂げていたことを知ったときには、これで石嶺のことを知る者はいなくなったと安堵さえしたのである。徳正は一方で、過去を抑圧することによって生き残っていることを正当化しようとしていたのだ。しかし彼が他方で、嘘をつき続けるかたちで生き続けることに対して、後ろめたさも感じていたのは間違いない。だからこそ、セツが自決したのを聞いて以来酒量が増えた。自分のなかにある過去の痕跡を酒で洗い流そうとするかのように。
 時の流れを撹乱するかのように回帰してきて、徳正の右足から一心に水を飲む石嶺の姿は、このような嘘に満ちた徳正の生きざまを、徳正に見つめなおさせる。石嶺が今飲んでいるのは、今まで生き延びるために自分が飲んだ水なのだ。そのことに思い至り、戦慄をおぼえながらも、これまで抑圧してきたこの正当化しえない過去を正視し、自分の傷を担い続けることを心に決めるとき、時が再び速度を増して流れ始める。「自分が急速に老いていくのが分かった。ベッドに寝たまま、五十年余ごまかしてきた記憶と死ぬまで向かい合い続けなければならないことが恐かった」。
 徳正が自分のなかの癒えることのない傷を担い続け、そこから湧きあがる記憶に向き合い続けることを決心して以来、兵士たちは現われなくなり、右足の腫れも引いていった。それとともに沖縄の現在が再び前景にせり出してくる。沖縄の夏が帰ってくるのだ。徳正は裏庭の仏桑華の生垣の下に、大きく熟れた冬瓜を発見する。
 そのように自然の豊かさを残す一方で、沖縄には基地や本土に寄生しながら金を儲け、したたかに生き延びるもう一つの顔もある。徳正の従兄弟清裕は、沖縄のこうした一面を体現しているようだ。清裕は徳正の右足から滴る水が若々しい生命力を回復させるのに目をつけ、これを瓶詰めにして「奇跡の水」として売り、大金を儲ける。だが、その水は50数年前の若さを取り戻させるのにすぎず、時の流れが元に戻ると、それを飲んだ人びとの身体は一挙に50数年分老いてしまう。清裕は、それに怒った人びとによって最後には袋だたきにされてしまうのだ。そんな彼にしても、酒に溺れる徳正にしても、彼の妻ウシのように、生き続けるための習慣を確立させた女性の支えがなければ生きていけない。地に足を着けて生きる女性が、沖縄の今を支えていることも、この小説は示していよう。
 徳正、ウシ、清裕という三人の登場人物を軸に、現在の沖縄のすべてを凝縮させたような世界を開きつつ、目取真俊は、生き残ることのうちに拭いがたく染みついた、けっして正当化できない領域を読み手に突きつけている。アウシュヴィッツの生き残りであるプリーモ・レーヴィが『溺れる者と救われる者』(朝日新聞社)で指摘した、「灰色の領域」である。生き残るとは、死者を見殺しにし、踏み越えてゆくことである点に関しては、アウシュヴィッツの生き残りにしても例外ではないのだ。しかし、生き残りのトラウマと過去の複雑さをかたちづくるこの「灰色の領域」にしかと向きあい、死者との関係をみずから正してゆくことは、生きることの現在を少しずつ刷新することにもつながりうる。ある意味で人間らしく、酒を断つと誓ったのも束の間、また仲間と大酒を飲んでしまった徳正が、その翌朝に巨大な冬瓜を発見したことは、その希望を暗示しているのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月18日 (水)

芸術史を見つめなおす新書二題

 講義のネタが見つかるかもしれないなどと思いつつ、最近出た芸術史に関する新書を2冊読んでみたが、どちらもなかなか興味深い。1冊は宮下誠の『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)で、もう1冊は岡田暁生の『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書)。著者は二人とも、40代半ばの気鋭の芸術史学者である。また、二人の著者はいずれも、21世紀の現在において絵画を、あるいは「クラシック」音楽をとらえなおす自分自身の位置を確かめるべく、20世紀の絵画の歴史へ、そして西欧音楽の歴史へとまなざしを向けている。それゆえ両者とも、客観的な歴史記述を装うことなく、むしろこれらの芸術史が、今ここで自分自身の視点からとらえなおした芸術史であることを前面に押し出している。そのことが、二つの新たな芸術史の叙述をより刺激的なものにしていることは間違いない。とはいえ、二人の著者の歴史の描き方は対照的である。
 まず、宮下誠の『20世紀絵画』は、「絵画とは何か」という本質的な問いに向きあうことから始めている。それによれば、対象を描くとはそれを欲望することであり、絵画とはその欲望の表象である。そして、世界の合理的な記号化が進むにつれ、リアルな「もの」それ自体への欲望が絵画の革新をもたらすようになるという。つまり、20世紀のキュビスムや新即物主義の運動は一面で、そうした欲望を映し出しているのだ。さらに、宮下によれば、20世紀までの絵画を支配してきた遠近法とは、世界を「人間」の視点から解釈する、一つの世界解釈のシステムないし言語であり、遠近法にもとづいて描かれた絵画は、世界を遠近法的に見よ、という命令を含んでいる。しかも、そこにはすでに三次元空間の二次元空間への「抽象」が含まれているのだ。20世紀までの西欧の遠近法的絵画は、ある種の「抽象」にもとづく特殊な「具象画」だったのである。そのリアリティが崩壊したのを前にして、画家たちは新たな世界解釈のシステムを、絵画の言語を産み出すことを迫られる。宮下はそのような視点から、マネ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ピカソ、カンディンスキー、マレーヴィチらの主要な作品を1枚ずつ取り上げ、その魅力も論じつつ、20世紀における「抽象絵画」の成立を描き出している。その描き方には、ところどころ「西洋」と「東洋」の安易な二分法へ傾くきらいもなくはないとはいえ、非常に説得力がある。
 しかしながら、宮下によると「抽象絵画」は20世紀絵画の終着点ではない。「抽象」の模索と同時並行的に、またその成立の後に、「具象」への回帰ないし新たな「具象」の探究が行なわれているのである。宮下はこのことを、ドイツ語圏の20世紀の絵画をおもに取り上げながら描き出している。とりわけわたし自身ライプツィヒの新しい美術館を訪れたときには正直ついて行けなかった旧東ドイツの絵画を論じた部分は、この書の白眉である。宮下によれば、その「わかりやすさ」は「考える」ことを見る者に求めている。「考える」とはおそらく、自分が世界を見るその見方を問いなおすことであろう。もしかすると、もはやそうした思考を抜きに絵画を見ることはできないのかもしれない。
 さて、宮下の絵画史が絵画の20世紀をいくつもの亀裂を含んだまま描き出すのに対して、岡田暁生の『西洋音楽史』は「通史」である。それは、「西洋音楽史」全体を一望する一つの視点を提示するものなのだ。とはいえ、そこにあるのは現在に至る連続的な「音楽史」の流れを教科書的に通覧する叙述ではなく、現在の視点から「中世音楽」とは何か、「ルネサンス音楽」とは何か、「バロック音楽」とは何か、といった問いに正面から向きあうことによって、「クラシック音楽」の歴史にいくつもの断裂線を書き込む叙述である。
 まず、今日「クラシック音楽」と呼ばれている「芸術音楽」の定義が興味深い。岡田によれば、「芸術音楽」とは「書かれた=設計された音楽」のことである。一定の「構成=設計(コンポジション)」にもとづいて書き残されたのが西欧の「芸術音楽」であり、「西洋音楽史」とはその歴史なのだ。岡田はそのように「芸術音楽」とその歴史をとらえる立場から、「中世音楽」、「ルネサンス音楽」、「バロック音楽」などに特有の「構成=設計」のありようを、実にわかりやすく説明している。また、そうした相異なる「構成=設計」が、時代ごとに「音楽」がどのように成立していたか、つまり演奏され受容されていたのか、ということと密接に結びついていることも説得的に描き出している。
 岡田の音楽史の叙述のなかで最も興味深かったのは、彼が専門とする19世紀の矛盾を抉り出している一章である。彼によれば、19世紀には純粋な音楽が追求され、音楽が宗教的な装いさえ帯びるようになる一方で、産業革命とブルジョワ社会の成熟が進むなかで、音楽の通俗化と商品化が進行した。このことが、現在における、消費される「ポピュラー音楽」と芸術的な「クラシック音楽」の分裂、さらには「クラシック」内部における、スター信仰とカルト的探究の分裂を用意したのである。しかしながら、岡田に言わせると、同時に人びとは、「ポピュラー」のうちにも「クラシック」のうちにも、何か宗教的な「カタルシス」を追い求めている。ロマン派の時代同様、音楽が「神なき時代の宗教」であることが求められているのだ。そのような現代の「感動中毒」のうちに、岡田は「現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候」を見て取っている。おそらくそれは相当に深刻な危機であろうが、どのような危機と岡田は見ているのだろう。
 それはさておき、岡田によれば、さまざまな様式へ分裂しているばかりでなく、繰り返し再演されるというかたちで残ることもない現代音楽の「歴史」を叙述することは難しい。現代音楽は、従来のような「公式」の「芸術音楽」であることをやめて「一種のサブカルチャー」になっているからである。たしかにそうであろう。そして、この「非公式」芸術の歴史を描くためには「通史」を描くのとは別の叙述の仕方が求められるにちがいない。「通史」へのまなざしからこぼれ落ちてしまうものを瓦礫から拾い上げるまなざしが必要なのだ。このような微細なものを「公式」のものに亀裂を穿つアクチュアリティにおいて取り出すまなざしこそが求められていると思うゆえに、個人的に芸術史の描き方としては、岡田の「通史」的な叙述より、宮下のモザイク的な叙述のほうに共感をおぼえる。とはいえ、両者の叙述にはともに──講義のネタになりそうな部分ばかりでなく──新たに学ばされた点やあらためて考えさせる論点が実に豊富に盛り込まれていたのは確かである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年12月22日 (木)

音楽書二題:ベルリン歌劇場史とショスタコーヴィチの評伝

 最近読んでみて面白かった音楽書を2冊紹介しておきたい。1冊は、菅原透の『ベルリン三大歌劇場──激動の公演史』で、もう1冊は、ローレル・E・ファーイの『ショスタコーヴィチ──ある生涯』(藤岡啓介/佐々木千恵訳)。どちらも、アルファベータという音楽書を中心に重要な文献をいくつも世に送り出している出版社の「叢書・20世紀の芸術と文学」シリーズの中の1冊である。2冊ともかなりの大部で(とくにファーイの『ショスタコーヴィチ』は、本文が2段組みで350ページ以上ある)読むのに骨が折れたが、その労に見合う読みごたえがあったのも確かである。
 現在ベルリンでは、ウンター・デン・リンデンの州立歌劇場、ドイツ・オペラ、コーミッシェ・オーパーという三つの歌劇場が競い合っているが、菅原透の『ベルリン三大歌劇場』は、ドイツ・オペラの前身である市立オペラ、もしくは今は失われた、コーミッシェ・オーパーのモデルとなった二つの歌劇場、当初王立だったリンデン・オーパー、そして今はその伝説だけが残っているクロル・オーパーの、それらが第二次世界大戦末期の空襲で焼失するまでに至るおもに20世紀の激動の公演史を、詳細に、また生き生きと描き出した好著である。やや歴史小説風の語り口には好みが分かれようが、舞台上でどのような公演が繰り広げられ、またその裏でどのような綱引きがあったのか、実に小気味よく描かれている。1929年頃にベルリンのイタリア大使館で撮影されたとされる、ブルーノ・ヴァルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーという5人の、今となっては伝説的な指揮者が顔を揃えた写真があるが、当時ベルリンでこの5人が、リンデン・オーパーで、市立オペラで、クロル・オーパーで、あるいは一大ブームを巻き起こしたイタリアからの客演者として、実際にどのように活躍していたのかが、膨大な資料を駆使してドラマティックに浮かびあがっているし、またその裏でリヒャルト・シュトラウスが、作曲家として、また指揮者として、いかに巧みに立ち回っていたのかも細かく記されている。当時の公演プログラムやポスターの図版、そして舞台写真を交えながら、これらの指揮者と協働した演出家や舞台美術家の演出のありようが、生き生きと描かれているし、今やそのほとんどが忘れ去れてしまった戦前の重要な歌手たちの活躍ぶりが、写真を交えて描かれているのも、資料として実に貴重である。とはいえ何よりも興味深かったのは、斬新な舞台で当時賛否両論の渦を巻き起こし、アドルノも擁護の評を寄せた「フィデリオ」の公演で知られる、クロル・オーパーの公演史である。今は跡形もないが、1920年代の終わりには、当時の新しい芸術運動の一大拠点であったこの歌劇場の苦難の歴史が、当時その音楽監督だったクレンペラーの活躍を中心に詳細に描き出されているのに、初めて触れることができた。その歴史は、新しい芸術運動を発信する媒体としてオペラを考えようとするとき、つねに参照されなければならないはずである。
 ところで、2006年に生誕100年を迎えることになる作曲家ショスタコーヴィチの新しい評伝、ファーイの『ある生涯』は、同時代人の自伝や手記、語録、書簡など、集められるだけの資料を駆使して、多角的な視点からショスタコーヴィチの生涯の各局面をつぶさに描き出している。それによってファーイの評伝は、たとえばソロモン・ヴォルコフの『証言』が浮かびあがらせるように「反ソヴィエト的」であるとかいった、強いイデオロギー的色彩をもったショスタコーヴィチ像が突出させるのを避けることができているばかりでなく、彼がソヴィエト政権時代を生き抜くことを可能にした、彼の多面性をまんべんなく浮かびあがらせることにも成功している。また、彼がムラヴィンスキー、オイストラフ、ロストロポーヴィチといった音楽家たちとどのように交わり、作品の初演を準備したか、あるいは第4交響曲の場合のように、初演を取り下げたか、といったことが細かく描かれているのも興味深い。今挙げた第4交響曲が代表するように、ショスタコーヴィチは、一面で交響曲をはじめとする既成のジャンルを限界にまで追いつめるアヴァンギャルドであり続けようとした。しかし、同時に他面では、けっしてそうしたジャンルも、それをメロディによって構成することも、けっして放棄しなかったし、十二音技法にも反対し続けた。そうしたショスタコーヴィチ自身の両面が、1930年代と40年代に訪れた危機が代表するように、彼をソヴィエト政権と衝突させたし、政権の求める作品を書いてこれらの危機を切り抜けることも可能にしたのだ。そのように、彼が二枚舌であったが、それでも同時に一枚舌でもあり続けたことを、ファーイは、同時代人にも証言させながら、多角的にかつ一本筋の通った仕方で描き出している。そのことがこの評伝に、ずしりとした読みごたえをもたらしているのだろう。もちろんそこに時代の重いドキュメントが詰まっていることも間違いない。
 さて、ここに紹介した2冊の音楽書、巻末の資料も実に充実している。菅原透の『ベルリン三大歌劇場』には、クロル・オーパー、市立オペラ、リンデン・オーパーの詳細な公演記録が収められているし、ファーイの『ある生涯』(ただし改訂新版のみ)には、評伝に登場した人物を紹介した人名事典が収められている。これらの資料にも、これからたびたび教えられることがあるにちがいない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月11日 (金)

ケバプと「ほんとうのネオナチ」の問題

 ベルリンへ行くと、やはりかならず一度はトルコのケバプのお世話になる。ケバプといっても、鉄串に刺して焼くシシ・ケバプとかではなくて、「デナー・ケバプ」。牛肉や羊肉(他の肉も使われているかもしれない)の肉片をペタペタと鉄の心棒に貼りつけ、その心棒を回転させて(「デナー」の名はこのことに由来するとか)じっくりと炙ったのをナイフでそぎ落とし、野菜と一緒にカリッと焼き上げた厚手のピタパンのようなパンに入れ、ソースをかけたもの。野菜は、タマネギ、トマト、キュウリ、赤キャベツというのが一般的で、ソースにはニンニク、ハーブヨーグルト、チリといった種類がある。1個で満腹感が得られるし、何といっても肉と一緒に野菜をそこそこ食べられるのがいい。日本で「ドネル・ケバプ」という名前で知られているものとほぼ同じものである。そう言えば、東京では1個500円で売っていたが、ベルリンでは日本円にして200円から350円くらいが相場。このあいだの旅行の際には、地下鉄のリヒャルト・ヴァーグナー広場駅近くの店で1個買って、ホテルの部屋へ持ち帰って食べた。
 このデナー・ケバプを売る「インビス」(ファスト・フード店)が、ベルリンにはそれこそ至るところにある。そのほとんどが、トルコからの移民がいとなむ店であるが、辺見庸の『もの食う人びと』(角川文庫)によると、そうしたケバプ屋は東西ドイツの統一後に続々と増えていったという。原因は失業。外国人労働者として働いていたトルコ人たちを、ドイツの企業は、東ドイツ市民を優先的に雇用するため、あるいはそれを口実に外国人を差別し、解雇していった。そうして職を失ったトルコ人たちは、資金的にも技術的にも手っ取り早いケバブ屋経営に飛びついた、というわけである。そして、そこで売る「デナー・ケバプ」は、味もスパイスも控えめにし、「ドイツ化」してあるとか。その歴史は、「ドイツに適応しようとしてきたトルコ人の辛い歴史そのもの」だ、というあるトルコ人の表白を、辺見庸は引いている。
 その「辛い歴史」は今なお続いている。ベルリンを出発する日の朝刊に、ポツダムで政治家を含む市民の対抗デモ(日本で政治家が極右に対する対抗デモに加わることは考えにくいし、それはまたそれで問題である)が、ネオナチの大規模な行進を阻止した、という記事が載っていた。極右的な主張に反対して声を上げる市民たちがいる一方で、辺見庸によればケバプ屋の増大とともにその外国人排斥を表面化させたネオナチもまだまだ暗躍している。そればかりでなく、外国人の締め出しを主張する極右政党が、ザクセン州議会では議席まで獲得しているのだ。そして、最近の景気の慢性的な低迷と、未だ高い水準の失業率は、ドイツにおけるトルコ系移民への風あたりをさらに強めていよう。
 ベルリンを出発する日、バスで市街の北西にある空港へ向かう途中で、モアビットという地区を通った。それまでバスで通ってきた街と明らかに雰囲気の異なる、人通りがまばらで寂れた感じの、やや怪しげな店の建ち並ぶ街路がしばらく続く。そこは、多くの経済的に苦しい状況に追い込まれている移民たちが、肩を寄せ合うように住んでいる地区とのことである。そうしたモアビット地区で、パリの暴動に続くかのように、何台かの車が放火されたという。ベルリンの日刊紙のウェブ版は、パリの暴動に便乗した若者の悪ふざけ、と楽観的な見方を示していたが、おそらくは何よりもまず、一部の(そうであると信じたいが)ドイツ人の差別的なまなざし、あるいは高失業率の責任を押しつけるかのような敵意に満ちた態度に対する不満の噴出を示すものなのではないか。その不満が、ネオナチの暴力と同じかたちをとって現われてしまったのは、非常に残念なことだけれども。
 パリ北部で車に火を点けている若者たちのなかには、近くのシャルル・ド=ゴール空港での仕事を、「9・11」後に「保安」を理由にクビにされたり、あるいは求人に応募しようと電話しても、アラブ系の名前を名乗った瞬間に電話を切られたり、といったことを経験した若者も含まれているという。そして、彼らが求めているのは、まずフランス社会において「人間」として扱われることなのだ。だからこそ、彼らを「クズ」呼ばわりしたサルコジ内相がやり玉に上がっているのである。辺見庸の『もの食う人びと』には、「ほんとうのネオナチっていうのは」、「上流階級のドイツ紳士の心のなかにもあるんじゃないかな」、というトルコ人を恋人にもつドイツ人女性の言葉が引かれている。外国人排斥を黙認し、移民たちが「人間」扱いされない社会の構造を温存しようとする、そして何か事が起こればサルコジ内相のように本音を漏らすようなメンタリティこそが、真にネオナチ的だ、というわけである。夜の路上に立って、「SMS」(携帯電話のショート・メール)で連絡を取りあい、車に火を点けて回る若者たちが問いただしているのは、何よりもまずそうしたネオナチ的メンタリティなのではないか。そして、車に火を点けるというやり方がけっして正当化されえないのは当然だが、そうしてサルコジ内相の発言を指弾する彼らの問いは、その現場から遠く離れた日本にあっても、自分自身への問いかけとして受けとめなければならないものも含んでいるのではないだろうか。
 ところで、パリ北部に始まった移民の若者たちの暴動を報じていた新聞には、何やら腐った肉を売りさばいていた業者に強制捜査が入った、という記事も載っていた。それによると、一部の肉はすでにケバプ店などに売りさばかれていたとか。もしかするとこのあいだ食べたのも、と一瞬背筋が寒くなったが、幸い今のところ腹の具合は悪くない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月18日 (火)

安部公房『他人の顔』

 機会があって、安部公房の『他人の顔』(新潮文庫)を久しぶりに再読した。主人公自身を含めたさまざまな「他人」たちの視線が集まる「表面」として「顔」を浮かびあがらせ、さらにはその「表面」と「内面」なるものの区別を無意味にすることによって、「自己」というものをその根底から揺さぶる小説である。
 化学研究者として研究所のなかで一定の地位を得ている主人公の男にとって、液体酸素の不意の爆発によって自分の顔にできたケロイド痕は、「蛭の巣」であり、顔に穿たれた「深い洞穴」にほかならなかった。彼はそれを地肌と見まがうほどに精巧な「仮面」で埋めようとする。物語の大部分は、そのための孤独な暗闘を妻へ向けて綴った彼の手記によって構成されているが、安部は、そこに日常的な空間を言わばさっと異境化しながらその骨組みを浮かびあがらせる洞察をちりばめると同時に、主人公が一定のジェンダーを背負った「男」としての自分に囚われ続けていることを、手記のうちにさらけ出させてもいる。
 それにしても、顔の「洞穴」はなぜ「仮面」によって埋められなければならなかったのか。それは何よりも主人公が妻との関係を回復したかったからである。彼が顔に包帯を巻いて生活するようになって以来、妻とのあいだを支配していたのは、「あのこわれた楽器のような沈黙」だったのだ。彼は「自分と他人を結ぶ通路」をもう一度切り開くべく、仮面の制作に没頭する。そして、他人の顔から顔型を取り、柔らかい高分子樹脂の仮面を作りあげ、それを着けて街を出歩くようになると、だんだんと彼の仮面制作を衝き動かしていた欲望が浮かびあがってくるのである。その欲望とは性欲にほかならなかった。彼が回復したいのは妻との性的な関係だったのである。だからこそ仮面の男は、妻の好むような顔つきをした、ちょっとした伊達男でなければならなかったのだ。主人公は、妻を誘惑できる「他人の顔」を身に着けようとしたのである。
 彼は化学者らしくこの「他人の顔」を、一貫して一つの物的な対象として見ている。人間の顔をさまざまな特徴に分解し、それを組み合わせることによって作りあげられた顔とは、あくまで妻との関係を取り戻すための道具にすぎないのである。だからこそ、彼は仮面の顔に引きずられてしまう自分に気づくときに苛立ってしまうのだ。彼は、「他人の顔」を「仮面」として対象化することによって、「化学者」であり、「男」である自分を保持しようとする。そしてそのためには、「仮面」と「自分」との関係はいつか清算されなければならない。彼は、他人との通路としての「顔」の重要性を認めつつも、そこから隔てられたところに「ほんとう」の自分があることを信じてやまないのである。
 しかしながら妻のほうは、そのような「表面」としての「仮面」と、「内面」としてある「自分」との区別を認めていない。仮面の男の誘いに乗った彼女は、「他人の顔」という新しい顔をした夫を、まさに自分の夫として受け容れた。彼女は、新しい顔を見せるところに夫自身の姿を認めたのである。そして、そのことを知らず、妻は仮面の男に誘惑されたのであり、自分は妻に裏切られたのだ、と信じ込んでいる男は、彼女に言わせれば、「顔は人間同士の通路だなどと言いながら、税関の役人みたいに、自分の扉のことしか考えない、巻き貝のようなあなた」、でしかない。
 そのように顔の現われと自己の所在を同一視する彼女の考えを徹底させるなら、「表情」というものが、他者がそれを認め、それに呼応するところで初めてある一つの表情として意味をもつように、ひとりひとりの自己も顔において現われるとともに、それを他者が認めるところに生まれる、ということになるのだろうか。さらには、自己は「内面」に「存在する」のではなく、他者とのあいだに「生成」するのであり、顔とはそのような自己の媒体である、ということにもなるのかもしれない。だとすれば、「顔」はどこに位置づけられるのか。「他者」の哲学者エマニュエル・レヴィナスが述べていたように、それは他者それ自身がその無限の他者性において顕現する場として、どこにも位置づけられないのだろうか。少なくとも主人公の妻にとっては、人工の皮膚をもった顔面でも、その人自身の姿を示す「顔」でありえたのだ。当初劇で用いられる「仮面」を意味し、後に「人格」や神の「位格」を意味するようになった「ペルソナ」という語はそれ自体、「それを通して (per) 」何かが「鳴り響く (sonare) 」ことを意味している。少なくとも、人間の顔の固定された表面としての側面ではなく、「おもて」を示すことで他者に対して鳴り響き、語りかける顔のはたらきに注目しながら、自己のありようを問いなおすべきなのだろう。主人公の手記の後に挿入された妻からの手紙は、そのような問いの契機をもたらすものと考えられる。さらにその後に置かれている、主人公がかつて正視できなかった映画の物語は、ゲーテの『親和力』に挿入されたノヴェレのようであると同時に、ケロイド痕と「広島」という固有名詞を結びつけることによって、「他人の顔」に対する読者のまなざしを問題化してもいる。
 さて、この妻からの手紙を読んだ主人公は、「仮面」の顔ではなしえなかった真の「行為」のために、いったん捨てた仮面を再び被って外へ出る。彼はどのような「顔」で「行為」へ赴こうとしているのだろうか。その「行為」の物語は未だ書かれていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 7日 (金)

熊野純彦『差異と隔たり』

 まだその一部を拾い読みしたにすぎなかった熊野純彦の論文集『差異と隔たり──他なるものへの倫理』(岩波書店)を再読した。労働の産物のみならず自己の生命も「所有」の対象であり、人間はそれに対する自己決定権を有するという「私的所有論」、歴史とは出来事が終わった後で物語られるものであり、物語る現在の視点から──過去が実際どうであったかにかかわりなく──構成されるところにあるとする反実在論的な「歴史の物語り論」、そして言語とはすでにある記号どうしの差異の体系であり、言葉を話すとはその体系を織りなすコードに従属することにほかならないという「記号論的」で「静態的」な言語論のそれぞれに、レヴィナス他者論の視点から楔を打ち込もうとする熊野の議論は、現在自己の身体と生命、自己の来歴ともなる歴史、そしてみずからが語る言語に関して、それらを手にすることが必然的に孕むはずの他者との関係へのまなざしを欠いた、ある主体の一方的な決定と操作だけがものを言うかのような現在の状況にも切り込もうとするものであるばかりではない。その議論は何よりも、死に抗って生命を自己につなぎ止めること、過ぎ去ったことを想起し、語り出そうとすること、そして言葉を語ることそれ自体のうちに、自己とは絶対的に隔たった他者への回路を穿つことによって、それらのいとなみをより根源的な次元へ立ちかえらせ、そこに他者とのあいだにある倫理を考える余地を切り開こうとするものであるように思われる。
 熊野は「所有する」ことを主題化するにあたり、まず「所有する」ことそれ自体を可能にする原初的な、ある意味では当然至極な条件を浮かびあがらせている。その条件とは、「私は、私にいくらかは近しいが、私そのものではない対象だけを、私のものとして所有することが可能である」、というものである。この「私にいくらかは近しいが、私そのものではない対象」として今日クローズ・アップされているのが「身体」ということになろうが、熊野によれば、「身体を自己所有の対象と考えるとき、ひとはなぜか、身体が病んで、痛みに苦しみ、老い、やがて死んでゆくことを忘れはててしまっているかにおもわれる」。身体が病むときにこそ、それをあらためて自分のものにすることが痛切に問題となるはずなのに。しかも、その身体は、労働においては他者と「間身体的」に機能し、それ自体として他者に触れられる対象である。そればかりか、とくに病に苦しむとき、身体はそのさまざまな欠乏を、他者に配慮してもらわなければならない。
 このような身体の「自己所有」の不可能性が最もラディカルに浮かびあがるのは、やはり自分が死ぬときである。所有とは死を先送りする努力であるが、それは最終的には先送りできない。しかも、その死はけっして「私」に現前することなく、所有を擦り抜けてゆく。「私の死亡をたしかめ、私の生じたいを閉じることができるのは、他者にかぎられる」のである。そして、死の対極にある自己の生誕もまた、所有の彼方にある不可能な「贈与」の出来事なのだ。そのことを見つめなおすとき、身体として存在することに由来するさまざまな欠乏を埋め、死を繰り延べようとする「所有」一般の努力を、またそれをつうじて自分が生き存えることそれ自体を、自分の手をつねに逃れてゆく他者との倫理的な関係において問いなおすことが要請されるのである。
 さて、熊野は、いわゆる「過去の想起説」にもとづく「歴史の物語り論」を検討するに際し、その「想起説」自体のうちに、それが排除しようとする「過去としての過去」がひそかに回帰しているのに着目している。想起が、たんなる想像ではなく、まさに「想起」であると自己を了解するところに、「過ぎ去ったものそれ自体が、亡霊のように」回帰し、「想起が過去を定義する」という主張を侵食しているのである。それゆえ、その始まりにおいて「喪の儀礼そのものとむすんだ〈追憶〉にほかならない」歴史の物語りは、「それ自体としては反復不可能で、現在へと回収不可能な生」であるような過去を繰り返し物語るいとなみであるばかりでなく、そのような過去が、「遙かな差異そのままに、私の現在にかかわってくる」ところから始まるものなのではないだろうか。隔絶した過去がそのようなものとして現在に食い込んでくるところ、またそれに「無関心であることができない」ところに歴史は始まる。とすれば、その物語りはけっして完結することはありえないし、見せかけの完結はつねに欺瞞であろうことになろう。歴史をいくつかの一貫した筋立てに解消しようとするある種の「物語り論」が見すごしかねないこうした論点を、熊野は指摘しているのである。
 けっして現在に回収できない過ぎ去ったものが現在を侵食しているのに遭遇し、それに対して無関心でいられないとき、現在は他者の痕跡の場と化す。熊野によると、その痕跡はけっして癒えることのない「傷痕としての過去」を回帰させるものとして、現在の外部から予測しえないかたちで到来し、現在を、またそのリアリティを構成している来歴の物語を根底から揺さぶるのである。ベンヤミンは、その「物語作者」のうちに「死は、物語作者が報告しうるすべてを承認する」と書きつけるとき、その「承認」のうちにこうした現在の動揺を見て取ってはいなかっただろうか。だからこそ彼は「無意志的記憶」に注目し、現在と過ぎ去ったことが遭遇する恣意的でない瞬間に歴史の構成が始まると述べることができたのではないだろうか。それはさておき、熊野の議論によって、現在が過ぎ去った他者の痕跡の場と化す今こそが歴史そのものの原点であることが明らかになったとすれば、彼が述べているように、そうした他者への「祈り」を含んだ、新たな歴史の物語りのありようが問われなければならないことになろう。熊野は、そのような問題意識を、ここでは言語への問いに接続させている。  熊野は、今日ともすればあまりにも規範的ないし記号論的に取り押さえられがち言語のうちに他者と応えあう回路を開き、言語をめぐる経験の深みを計測するために、まずレヴィナスが取り出した言語における「語ること」と「語られたこと」の区別とも重なるような言語の両義性を指摘している。「言語がこの私よりも前に存在し、私はすでに存在する語と規則を用いてなにごとかを語りだす以上、すべてはかつてすでに繰り返し語られたものである。他方では、私がいま特定の状況で、特定のことばによって、現前する他者にたいしてなにかを伝えようとするかぎり、いっさいはいまだ語られたことがないはずなのだ」。発話の「繰り返し語られたもの」を反復するという側面ばかりを強調するなら、言語がつねに他者へ向けて語られることが見すごされてしまう。そして、この点に注目するなら、「ことばを習いおぼえたばかりの子どもであれ、既成的なコードにほとんど搦めとられてしまっているかにみえるおとなであれ、ひとは、発話の連鎖を継続しようとするそのつど、ことばが生まれようとする現場に立ちあうことができる」ことが確認されるのである。  ここにあるのは、熊野に言わせれば、他者とのあいだにある一般性へ向けた言語の生成である。一個の名詞を言挙げることであっても、言葉を語るとはつねに、他者との関係を更新するような呼びかけと贈与を含んだかたちで、「いまだかつて語られたことのないもの」を語り出すことなのである。そのような経験とともにある言語の本質を体現しているのが、熊野によれば「固有名」にほかならない。「固有名」は、言語が何ごとかを語る前に他者への呼びかけであることを示しているのである。「他者に呼びかけるために、まず発せられる固有名は、その意味では、ことばそのものの原型をかたどっているといわなければならない。呼びかけとしての固有名、特定の他者を呼び止めるための表現は、文法的な品詞としての固有名にさきだって、言語それ自体を可能にしているのである」。このような洞察は、言語の本質を「名」のうちに見て取ったベンヤミンの思考の消息を思い起こさせずにおかない。  熊野によれば、固有名のように呼びかけられる言葉は、同時に「あてどない祈り」である。それが、一つの言葉として他者に届く保証はどこにもないのだ。にもかかわらず、今ここにいる自分は、自分がけっして立つことのできないそこへ言葉を届けようとする。届かなければ届かないほど、その欲望は増大することさえある。それは何よりも、自己と他者のあいだに埋めることのできない隔たりがあるからである。他者はつねに言葉を擦り抜けてゆくし、また言葉を語ろうとするとき、他者がつねに先に呼びかけていて、言葉はそれにけっして追いつくことができないのだ。「世界の移ろいと揺らぎは、なまえを与えられぬままに生起し、ほどなく消え去ってゆく」こと、そして他者の呼びかけに応えようとするときにそこにあるのは、もはや取り戻しようもなく過ぎ去った他者の痕跡でしかないこと。これが言葉を語ることを不可能にしながら可能にし、さらには衝き動かしているのだ。言語をめぐるベンヤミンの思考を「世界の受難史」に応ずるアレゴリーへ差し向けたのとおそらくは同じこのような洞察に、他者に応答し、そして呼びかける言語のありようを問う熊野の思考は達しているのである。そしてその到達点こそ、彼にとっては他者とのあいだにあるべき倫理的関係を主題化する思考の出発点なのであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月28日 (水)

高橋哲哉『国家と犠牲』

 わたしが今ここに生きていることはけっして正当化されえない。ここに場所を占めるとは、他者たちから生きる場所を奪うことであり、今何かを食べて命をつなぐとは、他の生きものを殺すことであり、さらにはそれをもとに作られた食べものを用意してくれる他者たちを搾取することでもありえよう。わたしがその立場に立つことのできない他者は、時にこうした自己保存の暴力を問いただす者としてわたしの眼前に立ち現われてくる。そして、たとえその他者の問いかけに真摯に応えようとしたとしても、わたしは他者の立場に立つことはできない以上、その他者に対する責任を果たしきることはできないし、またその他者に対する責任を引き受けるなら、わたしはそれ以外の他者たちとの関係をやはり暴力的な仕方でなおざりにせざるをえない。このこともまた、けっして正当化されえないのだ。わたしはその暴力を問いただす他者の呼びかけに再び応えなければならない。
 このように考えるとき、わたしはそれぞれ特異な他者たちに普遍的に応えることをまだあきらめてはいない。そしてカントはすでに、特異な他者たちに普遍的に応えようとする行為へ一歩を踏み出そうとするところに、「理性的存在者」としての「人間」の「自由」と、「道徳的」でありうる希望とを見ていたのではなかったか。あるいはレヴィナスは、わたしが特異な他者に対して「無関心でいられない」ときにわたしのうちに開かれる「応答可能性」のうちに、「根源的社会性」を見届けるとともに、ラディカルな「平和」の可能性を見て取っていたのではないだろうか。
 とはいえ、このようにそれぞれ特異な他者たちとの関係のなかでけっして正当化されえない仕方で生きるとは、たしかに厳しいことであり、割り切れないことではある。カントが「道徳的」であろうとする「理性的存在者」であるにつきない「人間」の深層に「根源悪」として見て取っていたように、今ここに生きている──社会的にお仕着せられたものであるはずの──自分を、あまりにも性急な「最終的解決」によって正当化したい欲望が、人びとのなかでうごめいていることもまた否定できない。そして、他者が自分のための「犠牲」になることを自分のために神聖化し、それによってもたらされる他者の悲惨を覆い隠し、疑似的な「最終的解決」を今生きている者たちのなかにもたらすレトリックとして絶えず持ち出されるのが、「犠牲の論理」にほかならない。それは「論理」であり、「レトリック」である。自己正当化の論理として首尾一貫性を追求するかぎりでは、それは「論理」であろう。しかし、それはつねに他者の悲惨を隠蔽しながら虚構の「われわれ」をつくり出し、その「われわれ」を説得する「レトリック」なのだ。このようなレトリックとしての「犠牲の論理」は、第二次世界大戦のあいだには「ユダヤ人問題の最終的解決」をもたらそうとする、いわゆる「ホロコースト」──この語はかつてユダヤ教の「犠牲」そのものを表わしていた──を引き起こしたし、今でも「国家」とその「国民」の自己保存のための「尊い犠牲」を産み出し続けている。
 このように「自己」正当化のレトリックとして今なお機能し続ける「犠牲の論理」の構造を、「生け贄」の「神聖化」(サクリファイス)というその宗教的起源から解き明かすとともに、その論理が「国家」を束ねていること、とりわけ軍隊をもつ近代国家を「国民国家」として構成していること、そしてその点で「犠牲の論理」が、日本も含め世界じゅうに遍在しているのを明快に示しているのが、高橋哲哉の近著『国家と犠牲』(NHKブックス)である。この著書は、思想書としては空前のベストセラーとなった彼の『靖国問題』(ちくま新書)のバックボーンをなしている思想を、より広いコンテクストで展開させることによって、悲惨な戦場での兵士たちの無惨な戦死からその悲惨さも無惨さも拭い去り、戦死を神聖で崇高な死に変え、非業の死を遂げる兵士を送り出してまで押し進めた侵略戦争の責任の所在を隠蔽しながら、兵士の遺族の感情を慰撫するばかりでなく、国民を「名誉の戦死」へ駆り立てていった「靖国の論理」がいかに根深いものであるかを読者に突きつけている。「自衛」の軍隊による「テロ対策」や「安全保障」を訴えるなら、すでに他の人びとを殺し、また他の人びとのために殺されるための人間の集団を作るという不正に手を染めながら、その不正を隠蔽する「犠牲の論理」を生きてしまうことになるし、「靖国の論理」で戦死者の「平和と繁栄のための尊い犠牲」を語る首相のもとで、その「自衛」への国民への動員を可能にするような政治が押し進められるのを容認するならば、自分自身が死へ向けて動員されることを同時に容認してしまうことになる。「犠牲の論理」とは、他者への不正を一方的に正当化し、他者への暴力を恒常化しながら、ひとりひとりを死へと駆り立て、そうしてある虚構の「われわれ」の自己保存を図るレトリックにほかならない。それは今ここに生きているわたしたちをいつでも虜にしかねないのだ。たとえ宗教的なよりどころをもっていたとしても、その宗教自体が──かつて聖なる生け贄を神に捧げていたものとして、あるいは語源的に人びとを束ねるものとして──「犠牲の論理」を含みもっているかぎりは、国家による犠牲の論理に巻き込まれかねない。高橋は、「殉国即殉教」を説いてみずから「靖国の論理」との共犯関係に身を置いた日本のキリスト者のことを取り上げるとともに、長崎への原爆投下によって殺された浦上地区の人びとを戦争終結のための「尊い犠牲」とし、原爆投下自体を「神の摂理」と神聖化することで、無差別殺戮をもたらした原爆投下の責任ばかりでなく、それを招いた天皇をはじめ日本国家中枢の責任をも隠蔽してしまったカトリック教徒永井隆の言説にも、鋭い分析を加えているのである。
 では、「犠牲の論理」の外部はあるのだろうか。高橋はデリダの『死を与える』を引きながら、「人は絶対的犠牲から逃れられない」、「他の他者を、他の他者たちを犠牲にすることなしには、ある他者への呼びかけ、要求、責務、それどころか愛に対しても応えられない」、と述べている。この「絶対的犠牲」がある構造の内部で、決断しなければならないのだ。そのことは何も、犠牲なき国家や社会がありえないことを意味しない。特異な他者に普遍的に応えようとすること、それは同時にあらゆる犠牲の廃棄という「不可能なもの」を欲望することである。その欲望にもとづいて、現実に犠牲なき国家や社会を目指してゆくことができるのである。それが具体的にどのように他者およびその他の他者たちに対する責任を引き受けて倫理的な決断を下すことでありうるのか、どのような実践でありうるのかは、『国家と犠牲』の最終章だけでは、今ひとつ明らかではない。おそらくそうした問題の考察にはもう一書が必要であろうし、またその問題は読者自身に課せられた問題でもあろう。
 高橋によると、魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を呼び覚ますとともに、魯迅自身、そうした犠牲にもとづく「人食い」の社会のなかで生きてきたことに絶望している。わたしたちも、自分自身が「人食い」の社会に生きていることに戦慄を覚えるところから始めなければならないのかもしれない。高橋哲哉の『国家と犠牲』は、そのきっかけに満ちているばかりでなく、わたしたちのなかに「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせる思考の可能性も示している。それは、犠牲の外部を目指す責任ある生への問いを呼び起こす書物なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年9月23日 (金)

言語論二題

 先週から今週にかけて、二冊の言語論を読み終えた。もっともそのうちの一冊は、言語論というよりはむしろ詩学と呼んだほうがよいのかもしれないけれども。
 一冊は、以前から気になっていた管啓次郎の『オムニフォン──〈世界の響き〉の詩学』(岩波書店)である。表題が示すとおり、彼が翻訳してきた詩や小説についての文学論的なエッセイが集められた著作であるが、その至るところに鋭い言語論的洞察がちりばめられていて、わたしにとってはどちらかというとそちらのほうが興味深い。とはいえ、文学論としても面白く読めたことは確かで、とりわけフェルナンド・ペソア論は、彼がさまざまな異名で書いた実際の詩作品がいくつも載せられていたこともあって、実に魅力的であった。この詩人の重要性、そしてその詩の魅力を詩的に伝えてくれる文章である。そして、その末尾に管が置いている、「自分であることは牢獄」と歌う「私は逃亡者」という詩は、異名の詩人ペソアの詩作そのものを歌うものであると同時に、管自身の思索のモットーであろう。
 ところで、言語論として興味深いのはまず、「オムニフォン」という言語に対する態度を論じた冒頭のエッセイである。「近代」の顔を示すものとして1492年という年号を呈示する発想も示唆に富むが、それ以上に、この年から本格的に始まることになる植民地主義的「近代」の力によって、アフリカの海岸から引き剥がされ、カリブ海の島々に連れられて来たディアスポラの人びとが産み出してきた、そして今も産み出されつつあるクレオール言語を媒体として文学作品を書いている作家たちが、みずからを「世界の響き」に育てあげようとしていることを論じているあたりがやはり注目に値しよう。
 管によると、クレオール言語で書くということは、異質な言葉たちが隣り合い、ぶつかりあう多島海に身を置くことである。そうすることで、カリブ海の作家たちは、それら異質な諸言語のどれもが、世界の豊饒さを受けとめるのになくてはならないことを洞察したのだ。「世界の多様性は、世界のすべての言語を必要とする」。そして、言語の群島の作家たちは、一つの言語で語るときに、他のすべての言語がかたわらに佇んでいることも意識している。管に言わせれば、「オムニフォン」とは、そのようにして「あらゆる言葉が同時に響きわたる言語空間で生きる」こと、またその「決意」なのである。それにもとづいて、「理解できない言葉の不透明性をうけいれ、それに耐えつつ、それを尊重し、その来歴を想像し、新たな「列島」を構成しうる可能性を探ろう」とすること、これは「アングロフォン」の資本主義が世界を覆いつつある状況と同時に、日本の列島を一つの「日本語」ないし「国語」という虚像が包もうとしている状況に対抗するかたちで、今まさに試みられなければならないことだろう。そのことはむろん、管自身が指摘しているように、数えることのできる個々の言語や方言を尊重することではない。むしろ、それらの言語の閉鎖性ないし排他性を解体して、そこにある響きを、さまざまな言語のあいだで聴き出そうとすることである。では、それを具体的にどのように実践しうるのだろう。多和田葉子の行き方はその実践の一つの方向性を示すものかもしれないが、これは他人任せにしてよいことではなく、今ここで語るわたし自身の問題である。
 もう一つ言語論として面白かったのが、「エコソフィア」の詩人たちとともにヤキ族の詩的言語を論じた「花、野、世」である。そこで管は、その詩的言語がそれ自体一つの「殺し」であると同時に、それが生きてゆくための現実の「殺し」を思い出させつつ、殺されたものの再生を祈るものであることに触れている。その指摘は、言語自体の暴力性とともに、その自己言及性、さらにはその詩的な表現力を思い起こさせる。語ることは、語られるものを殺すことであるが、まさにこの殺害によって、語られるものを甦らせることもできるのである。
 このように管の言語論はさまざまな示唆に富むとはいえ、あとがきに代えて置かれた「島と翻訳」というエッセイに含まれているベンヤミン批判は、やはり看過するわけにはいかない。そこで管は、「翻訳者の課題」でベンヤミンが導入している「純粋言語」の概念に対して、「そんな唯一の、真理の、沈黙の純粋言語がありうると考える」というのには「とても賛成できない」と述べている。「徹底的にローカルな言語質の群れの上に、そんな純粋言語のレベルを想定すること自体に、ぼくは反発を覚える。それは大陸の、どこかに中心と頂点をもたずにいられない「帝国」の発想だ」、というのである。とはいえ、そのように管が断言するときに忘れられているのは、ベンヤミンが、この「純粋言語」が取り戻しがたく失われているところ、すなわちバベル以後の状況を直視するところから、「翻訳者の課題」の議論を始めていることである。「多くの言語をひとつの真の言語に積分するというモティーフ」をもって翻訳者が翻訳を行なったとしても、けっして「純粋言語」に達することはできないし、また翻訳者がみずからの課題として遂行すべきとされる諸言語の「補完」とは、実のところ、「文字どおり」翻訳することでそれぞれの言語のうちに不協和をもたらし、その言語を動揺させ、他の言語と響きあう可能性へ向けて、「英語」、「ドイツ語」と数え上げうる言語を解体してゆくことである。とすれば、「多くの言語をひとつの真の言語に積分する」とは、あらゆる言語が、その「近代」的な桎梏を突破しながらモザイク状に響きあう、それこそ「オムニフォン」的な言語のありようを目指すものなのではないだろうか。それに、「純粋言語」の概念をただ「帝国」的なものとして打ち捨ててしまうことは、その概念をもってベンヤミンが語ろうとしている言語そのものの創造力や表現力を見すごしてしまうことにもなるだろう。
 こうした問題を感じるとはいえ、管の『オムニフォン』が、「世界の響き」に呼応しうるような言語の実践の可能性を、「ピジンという生き方」としても指し示す、魅力的な著作であることに変わりはない。それはわたしたちを複数の言語へ、さらには「オムニフォン」の世界へといざなうのである。
 さて、最近読んだもう一冊の言語論とは、半ばそのタイトルだけに惹かれて古本を注文した、竹内芳郎の『言語・その解体と創造』(筑摩書房)である。絵について絵を描くことはできないが、言語については言語で語ることができるというメルロ−ポンティの洞察──それがほんとうに明察であるかどうかには、いわゆる「モダン・アート」の動きを考えるならちょっと首をかしげてしまうが──にもとづいて、言語が自己言及的に、日常言語から、文学的言語と理論的言語という二つのメタ・レヴェルへ階層化する必然性を述べて、当時も今も死に体を晒している「言論」の地位を理論的に確保したうえで、構造主義的な、さらにはそれ以後の言語論を批判的に検討し、「言論」が体現すべき「社会的伝達性」を本質とする言語の主体的で革命的な変成の普遍的な可能性を語る論理をチョムスキーの変換生成文法の理論のうちに求める竹内の執拗な議論は、たしかに今となっては時代がかって見えるし、また「文化革命」に言語を動員しようかという粘着質の熱さには、ついて行きかねるという思いも禁じえない。しかし、言語そのものの「非現実性」および「疎外」を論じているあたりは、傾聴に値するだろうし、またいち早くデリダのエクリチュール論に対して詳細な批判的論評を加えている点も興味深い。
 竹内のこの言語論で何よりも面白かったのは、ドゥルーズとガタリによる「マイナー文学論」を先取りするかのような議論を展開しているあたりである。竹内は、かつての支配者の言語であり、自分から同胞の言葉を奪った日本語で書く在日朝鮮人の言葉づかいに、この「日本語」のうちに不協和をもたらし、それを内側から解体してゆくようなポテンシャルを見て取っているのである。「在日朝鮮人作家たちの場合」には、「国語の既成性に発話の直接的な自己表出性を対置させただけではどうにもならぬこと、むしろ、己れの発話そのものさえ己れの〈内語〉となった敵の国語によって占拠されてしまっている以上、一旦は己れを徹底的に他者化し、敵の国語をそのまま受容しつつその逆用をもって敵の国語自体を破壊するという、詐術に充ちた迂路を経なければ自己発見すらもできぬことが、したたかに体験されているのである」。そのように、スピヴァックふうに言えば、一つの言語を「学び捨てる」ことでその言語を内側から、そこに潜在する未聞の響きへ向けて解体し、「国語」であるといった言語の「近代」的桎梏を乗り越えてゆく、そうして他者とのあいだに新たな関係を築いてゆく可能性を、言語そのもののうちに見いだすことに、竹内が成功しているとは言いがたい。とはいえ竹内は、言語そのものの「非現実性」と「疎外」ゆえに、言語のうちに住まうことはできないこと、そしてそのことが「語る」可能性に転じうることに気づいていたようである。そして、彼によれば、「国語」の重圧を感じ、自分の言語に違和感をおぼえるところにこそ、言語の創造的な変成の出発点があるのだ。「言語創造の場そのものでも働くコトバの社会的既成性の重圧(……)を自覚的にひき受ける覚悟のない言語観は、どんなに革命的意図に貫かれていても、所詮は真のコトバの創造を基礎づけるには至らぬであろう」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月14日 (水)

味覚と記憶、そして手仕事としての発明

 プルーストのあのマドレーヌのことを持ち出すまでもなく、味覚というのは記憶を喚起する不思議な力をもっている。しかも、思い出された過去の味覚が、過去の経験を思い起こさせることさえありうるのだ。最近読んでみてなかなか面白かった小説ウーヴェ・ティムの『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』(原題は『カレーソーセージの発見』、浅井晶子訳、河出書房新社)のなかで、後にカレーソーセージを「発見」することになるハンブルクの女性レーナのところに転がり込んだ脱走兵ブレーマーは、おそらくは精神的なストレスのために味覚を失っているにもかかわらず、かつてインドでカレーを食べて、当時陥っていた抑鬱から立ち直った話をレーナに生き生きと語って聞かせる。そしてレーナは、そんな彼のことをふと思い出したがために、けっして必要ではなかったカレー粉を手に入れ、偶然にカレーソーセージを発明することになる。さらにブレーマーは、立ち寄ったレーナの屋台で彼女のカレーソーセージを口にすることで、失っていた味覚を取り戻すのである。
 そのような物語を、作者のティムは、年老いて屋台を閉め、老人ホームに入っていたレーナから、屋台の常連客の一人でカレーソーセージのルーツに興味津々な「僕」に聞き出させるかたちで紡ぎ出している。したがって、語り手が「僕」になったり、レーナになったりするのだが、そのように、この二人を中心とする複数の視点から、ヒトラーがエヴァ・ブラウンと結婚した日に始まる、第二次世界大戦末期から、ドイツの敗戦を経て、戦後の復興期に至る、ハンブルクとそこでの「カレーソーセージの発見」を中心としたドイツの歴史を、ティムは物語ってゆく。そうして彼は、一つの視点だけを絶対視することなく、言わば複眼的にこの歴史を描いているのだが、それを通じて彼が最も愛情を込めて生き生きと描き出しているのは、やはりレーナという女性の姿である。
 レーナは一面では確かな現実感覚をもって、戦争末期以来の混乱をたくましく生き抜いた「強い」女性である。しかし、それでいてけっして実直さを失うことはないし、何よりもファシズムと、それと無関係ではない男性の理不尽な横暴に屈することなく自分自身に誠実であろうとするあたりには、爽快感すらおぼえる。彼女は、時にヒトラーの手先に対して歯に衣着せない言葉を浴びせるが、何よりも圧巻なのは、出戻りのくせに横柄な夫を叩き出す場面であろう。とはいえ、レーナは他面で実に情にもろい。ひょんなことから知りあった、二十ほども年下の兵士に恋心を抱き、彼をかくまってしまうし、ハンブルクが降伏しても、出て行ってもらいたくないがために、降伏の事実を告げずに、この兵士を半ば監禁してしまう。そして、大喧嘩の末に彼が出て行った後も、彼のことが忘れられず、そのことが先に述べたように、彼女にカレー粉をもたらすのである。そのような現実感覚と感情の大きな振幅のうちに、レーナという女性の魅力があるのだろう。
 そのように、比較的若かった──と言ってもすでに四十を過ぎていたわけだが──レーナも魅力的ながら、年老いて盲目となったレーナの記憶力にも驚かされる。部屋のどこに何があるのか、コーヒーを二杯分淹れるために何をしなければならないか完璧に記憶していて、彼女を訪れた「僕」の前に、いつもきっちり同量のコーヒーを二杯運んでくるし、編み目を指で数えて複雑な絵柄のセーターを編み上げてしまうのである。そのセーターを完成させて間もなくレーナはこの世を去ってしまうのだけれども。
 おそらくこのような驚くべき記憶力と、味覚をはじめとする感覚は、彼女のなかで相互に補完しあうかたちで、緊密に関係していたことだろう。味覚は記憶力を喚起し、記憶力は味覚を鋭く研ぎ澄ませたのではないか。そして、両者の相互補完的な関係が、今手許にある乏しい材料からの、プリコラージュのような手仕事としての発明の才を、レーナにもたらしたのではないだろうか。ティムによるカレーソーセージ発見譚においてレーナは、記憶と味覚が相互に喚起しあうなかで、「どんぐりコーヒー」を、「にせの蟹スープ」を、そしてついにはカレーソーセージを、手近な乏しい材料の組み合わせのうちに見いだしていったと考えられるのである。
 この発見に至るまでの経緯を、ティムは実に淡々とした文体で物語っている。その後の展開には、やや性急で、またありきたりなところもなくはないのだけれども、大げさになりすぎることのない語り口は、戦争末期から戦後の復興期に至るドイツの歴史のさまざまな側面──これをティムは何人かの、これまた面白い登場人物に代表させている──に、読者が冷静に向きあうことを可能にするものなのかもしれない。訳文も読みやすい。
 蛇足ながら、カレーソーセージについてひと言。やはりこれは「カレーソーセージ」と書くと、何となく力が抜けてしまう。やはりドイツ語で「Currywurst」、せめて「カリーヴルスト」とでも言わないと、わたしとしては味とともに紙皿に載ったその姿が思い浮かばないし、食べようという気にもならない。とはいえ、大した料理ではなくて、どちらかと言うとジャンク・フードの部類に属する。焼いたソーセージを鋏や機械でぶつ切りにして紙皿に盛り、それにケチャップをたっぷりとかけ、そこにカレー粉を振れば出来上がり。プラスチックのフォークで、基本的には立って──多くの場合屋外で──食する。と言ってしまうと身も蓋もないかもしれないが、このケチャップがただのトマトケチャップではない。ドイツのスーパーに置いてある「カリーケチャップ」を使うとそれらしい味がするが、それを使えばよいというものでもなく、さまざまな香辛料の組み合わせで──ほんとうはこのあたりが「カレー」の妙味なのだろう──オリジナリティをもったケチャップソースを作って、味を競うことができるようだ。これもティムが『カレーソーセージの発見』で教えてくれたことである。
 これまでは、1949年にベルリンのカント通りの角でヘルタ・ホイヴァーがカレーソーセージの屋台を開いたのが、その始まりということになっていたのだけれども、ティムのこの小説以来、小説の主人公であるハンブルクのレーナ・ブリュッカーも、その発明者として注目されるようになったようである。ちなみに、彼女が発明者ということになると、カレーソーセージの誕生は2年早まって1947年ということになる。
 ちなみに、今住んでいる広島のお好み焼きも、戦後の復興期に産まれた名物料理のようだ。これを食べて育ったわたしの妻は、ベルリンでカレーソーセージがいたく気に入って、発つ直前にもそれを食べていた。カレーソーセージとお好み焼きを比較してみるのも面白いかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 7日 (水)

石原吉郎の問い

 最近講談社文芸文庫から出た『石原吉郎詩文集』を、重い感銘をもって読み終えた。石原吉郎が自分自身に向けていた問いが、読んだわたしの肩にずしりとのしかかっているように思われてならない。
 この『詩文集』には、まず石原が「もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動」と「失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志」をもって書いた詩の精選が収められているが、なかでも「事実」と題された一篇において示される、起きてしまったことを、その「事実」が「うすわらい」を始めるまでに凝視するまなざしは、読む者を突き刺すほどの鋭さをもっている言えよう。そのように事実をその内側から照射するようなまなざしをもって、石原は、代表作とされる「葬式列車」を書いたのだろう。その詩では、名前を失って「まっ黒なかたまり」と化した人間の群れ──そのなかに石原自身も交じっていたかもしれない──が、貨車に投げ込まれ、運ばれてゆくなかで、生きたまま「屍臭」を放ち始め、亡霊と化してゆくさまが、凄まじいまでの鋭さをもって、しかし静かさに貫かれた筆致で描き出されているのである。
 起きてしまった「事実」へのそのような鋭いまなざしをもつこと、それは石原の言葉で言えば、彼自身の「位置」に立つことにほかならない。石原は、8年間ものシベリア抑留を経験しながら、けっして声高に他人を告発することなく、静かに自分自身の「位置」に立とうとした。しかも、彼はそのこと自体に仮借のない問いを向けたのである。詩の後に収められた評論を含む散文、そしてとりわけ彼が断続的に綴った日記ふうのノートは、自分の「位置」に立つことへの問いに向きあい続ける石原の歩みを示すものといえよう。
 みずからの「位置」に立つことを問うとは、石原にとってはとくに、詩を書く自分自身の言葉と、言葉を語る自分が、他ならぬ自分であることとを問うことであった。それに、この二つの問いは不可分だったのである。彼が言語をつねに「失語」とのかかわりで問題にしていたことはよく知られていようが、「失語」に陥るとは、石原によると、「ことばの主体がすでにむなしい」がゆえに、「ことばに見はなされる」ことなのだ。それゆえに、「ことば」を問うとは、つねに「ことば」を語る「主体」としての自己のあり方を問うことなのである。
 とすれば、石原にとって「ことば」とは、それを語る者自身を他者へ向けて差し出すものであることになろう。実際彼は「失語と沈黙のあいだ」という文章のなかで、「ことばはじつは、一人が一人に語りかけるものだと私は考えます」、と述べているのである。さらに自分の詩を、こう「ひとすじの呼びかけ」と規定している。「ひとすじの呼びかけに、自分自身のすべての望みを託せると思ったからです。ひとすじの呼びかけと私がいうのは、一人の人間が、一人の人間にかける、細い橋のようなものを、心から信じていたためでもあります」。このような、詩を「投壜通信」と規定するパウル・ツェランを思わせる身ぶりで、石原は、言語が第一次的に他者への「ひとすじの呼びかけ」であることを指摘するのである。彼によれば、そのことを忘却するとき、人間は──たとえ饒舌に話しているように見えても──言葉を語る自己とともに言語そのものを失うのだ。そのような危険を身をもって経験しながら、石原は自分の「ことば」に厳密であろうとした。彼が照らし出した言語の深層を踏まえながら、この言葉を銘記しておかなければならないのだろう。「言葉は厳密にもちいねばならぬ。詩を書くことが生きることへの確証であるなら」。
 このようにみずからの言葉を研ぎ澄ませながら、石原は自分自身を、その孤独において問い詰めていった。そのことを衝き動かすきっかけになったのは、シベリアにおける抑留生活と、そこでの鹿野武一という徹底的な「ペシミスト」との出会いであったようだ。それをつうじて石原は、「自己という存在」が「徹底的な例外であって、徹底的に例外でない」ことを洞察する。彼によれば、自分自身であろうとするとき、この二つの相矛盾した命題のあいだにある断層を孤独のなかで目のあたりにしなければならないのだ。そこにある「絶望」を、キルケゴールは「死に至る病」と呼んだ、と石原は言うかもしれない。そして、自分が自分であろうとする「絶望」のなかに浮かびあがる孤独、それを石原は数ある状態のなかの一つとは考えていなかった。「孤独ということは〈存在〉と同義なのだ」。人間は、「はじめから孤独のなかに居り、一歩も孤独からでていないのだ」。
 石原は、そのような人間にとって本質的とも言える孤独を美化しようとはしなかった。孤独のなか、自分自身であり続けようとするとき、他の人間は、自分に対する脅威として立ち現われることもある。そして、そのように他者を敵視するところから、他者との関係を築くこともできるのだ。そのような孤独への深い洞察が、他者との関係への冷徹なまなざしに結びついている。石原は、ノートのなかにこう書きつけることもできたのだ。「理解しあい、手をにぎりあうことだけが連帯なのではない。にくみあい、ころしあうこともまた連帯である」。
 このような、石原を彼自身の「位置」に追い込む、言語とそれを語る自己への鋭い洞察、そしてそれに結びついた彼の問いは、「立ちどまる」ことから始まっている。その重要性について、彼はこう語っている。「私が立ちどまるとき、私は階段を一つ降りる。生きることがそれだけ深くなるのだ。なぜなら、立ちどまる時だけ私は生きているのだから」。わたしも立ちどまるところから始めなければならないのかもしれない。そうすると、彼の問いがずしりとのしかかってくるのも確かなのだけれども。
 最後に、石原が1956年の9月11日に、ノートにこのような言葉を書きつけていたのを紹介しておきたい。「敵を恐れるな──やつらは君を殺すのが関の山だ。/友を恐れるな──やつらは君を裏切るのが関の山だ。/無関心なひとびとを恐れよ──やつらは殺しも裏切りもしない。だが、やつらの沈黙という承認があればこそ、この世には虐殺と裏切りが横行するのだ」(ヤセンスキイ『無関心な人びとの共謀』より)。饒舌に映る「沈黙という承認」が近づくかに見えるなか迎える次の9月11日に向けて、銘記しておきたい言葉である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月31日 (水)

ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』

 ジョルジョ・アガンベンの『開かれ──人間と動物』(岡田温司+多賀健太郎訳、平凡社)を、遅ればせながら読み終えた。ベンヤミンの思想に関心をもつわたしにとってはとりわけ刺激に富んだ著作であった。
 この『開かれ』においてアガンベンは、あらゆる政治体制のうちに内在化されるかたちで晩年のフーコーが言う「生政治」が全世界を覆いつつある状況の内部に、その「生政治」が機能不全に陥る可能性を探っていると考えられる。つまり、絶えず「人間」と「非人間」を分割し、「人間」であるか、それともたんなる「動物」であるかを決定し、そうして──アガンベンに言わせれば「開かれざるもの」を「開く」ことによって──暴露された「剥き出しの生」を管理し、一定のかたちで生き残らせる、言わば「収容所」を含み込んだ「生権力」の支配が常態化している状況のただなかに、「例外状態」が、その力がおよびえない場所が、ひとつひとつの生そのもののうちに開かれる可能性を探ろうとしているのではないか。そしてその場所の名こそ、「開かれ」にほかならないだろう。
 この「開かれ」についての考察が、ここでのアガンベンの中心的な課題であることは言うまでもないが、このハイデガーが「人間」のうちに見て取り、「動物」に認めなかった世界への「開かれ」の真相が示されるのは、アガンベンによれば、ハイデガーが「形而上学の根本諸概念」についての講義において長大な考察を充てている「倦怠」、それも「深き倦怠」においてである。なすべきことをもたず、気晴らしだけを求める「倦怠」のなかで、人間は存在者の「閉ざされに開かれている」。そのことを指摘するハイデガーは図らずも、彼にしてみれば人間に固有の「開かれ」が、「開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない」のに触れているのである。「開かれや存在の自由は、暴露されざるものそのものの顕現であり、開かれを見ないヒバリの宙づりにして生け捕りなのである。動物の放心とは、人間界とその開かれの中心に象嵌された宝石にほかならない。「存在者が存在する」という驚異とは、露顕せざるもののうちに曝されることによって生物のうちに生起する「本質的な震撼」をつかまえることにほかならないのだ。実際、開かれは、この意味で、不合理な説明なのである。つまり、開かれにおいて賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである」。
 そのように、世界への「開かれ」が実は、存在者の「閉ざされ」に曝されることであり、「人間」と「非人間」の区別が宙づりにされる場面を指し示していることに触れながらも、アガンベンによれば、ハイデガーは「人間」と「動物」の関係の不可能な決定のうちに「民族」の歴史的命運を見るとともに、その命運が芸術作品のうちに示されると語っている。これに対してベンヤミンは、芸術作品のうちに、「おのれ自身へと送り返された」、「いかなる昼も待望することのない」自然の「救出された夜」の表現を見ている。それはハイデガーの言う「露顕せざるもの」を、そのようなものとして救い出す可能性を示しているのだ。さらに、ハイデガーが指摘するように「芸術」と同じ起源をもつ「技術」は、ベンヤミンによると、「人間」が「自然を支配する」ためのものではなく、「自然と人類のあいだの関係を支配する」ものでありうるのだ。アガンベンは、その「関係」のうちに、「人間」と「非人間」を区別する決定を「静止状態」において宙吊りにする「星座」を見て取っている。そして、その「星座」をなす「隙間=戯れ」を、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」において語っている「自然と人間の協働=共同遊戯」と重ねあわせたい、という誘惑に駆られるのは、わたしだけだろうか。
 アガンベンが『開かれ』の冒頭で取り上げる、13世紀のヘブライ語聖書の写本に描かれる動物の頭部をもつ義人たちの形象、それは「人間と動物のいずれをも存在外へと存在せしめ、本来的に救うことのできない存在のうちで救済を果たす「大いなる無知」の形象」であるという。その「大いなる無知」が、「生政治」に覆われたこの世界のなかで、具体的にどのようなかたちで実現されうるのか、あるいはそれによってどのような「星座」が形成されうるのか、さらにはそれによって、どのように「生権力」が停止され、「救われざる残余」が救済されうるのか。この点は、アガンベンは明らかにしていない。これを衝いて彼を「修辞的」と批判することもできようが、「大いなる無知」の可能性を考えることに読み手をいざなうだけでも、彼の『開かれ』には大きなインパクトがあると言うべきであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月21日 (日)

「近代」を問いただす新書二題

 鹿児島へ帰省しているあいだ、最近出た新書を二冊読み終えた。
 一冊は徐京植の『ディアスポラ紀行──追放された者のまなざし』(岩波書店)。「近代の奴隷貿易、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリズムなど、何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔」と定義される「ディアスポラ」たちの生の痕跡を、あるいは彼/彼女たちが受けた暴力の痕跡を、現代美術をはじめ、音楽、文学など芸術作品のうちに、あるいは芸術家たちの生きざまのうちに探る、ロンドン、光州、カッセルなどへの旅の軌跡を描くエッセイである。自明な家郷をもたず、自分は何者なのか、自分が話す言葉はいかなる言語なのかをつねに問いつづけなければならず、それゆえ生につなぎ止める絆は弱く、存在証明と死のあいだを漂いつづけなければならない一人の「ディアスポラ」、すなわち在日朝鮮人二世として、徐はここで、こうした「ディアスポラ」たちの生の痕跡を読み解くことをつうじて、「国民国家」や「植民地主義」の「近代」の歪みや矛盾を鋭く照らし出すとともに、その先に「植民地主義やレイシズムが押し付けるすべての理不尽が起こってはいけないところ」としての「真実のくに」というユートピアを遠望している。
 そのような徐の省察をたどりながら、彼がヴァーグナーの音楽にアンビヴァレントな感情を抱きつつ惹かれていること、最近そのヒロシマ賞受賞展を見たシリン・ネシャットが光州ビエンナーレでもグランプリを獲得していることなどを知ったのだけれども、とくに印象に残ったのは、パウル・ツェランの詩作に寄せた一節である。徐は、ツェランがみずからの詩を「投壜通信」にたとえていることに触れて、それは「いま目の前にいるドイツ語を解する人々に自分の詩が受け容れられることはほとんど期待していないということではないか」と指摘している。自分のホームページに「投壜通信」というタイトルを付けているわたし自身にもそうした思いがないかと訊かれるなら、とても否認できない。たしかに「国語」としての「日本語」を話す「日本人」に読んでもらいたいなどとはまったく思わない。いつか誰かが書いたものを拾ってくれるかもしれない。その誰かがそういう「日本人」である必要はどこにもないのだ。
 徐によると、ツェランは「生まれ育った多言語・多文化の領域(多様な言語文化が息づいていた故郷のチェルノヴィッツ)が諸国家の暴力によって破壊され、精神的なきずなとしての「母語の共同体」が消滅した後も、詩人は母語そのものを自らの「母国」とし、また、詩を書くという行為そのものを「母国」として、終わりのない放浪を続けた」。わたしは、そのあてどない旅のあいだも、ツェランはその「母語」を、それとともに詩作という「母国」をつねに問いなおしては生成させ続けていた、と考えたい。だからこそ、その旅は「終わりのない放浪」なのではないか。そしてそう考えるとき、「母語」、「母国」といった言い方にはやはり違和感をおぼえる。とはいえ、ツェランの詩作についての徐の省察は、このようなあてどのない「ディアスポラ」の旅の軌跡のうちに、「近代」の桎梏を突き抜ける可能性が秘められていることを気づかせるとともに、現実には彼のいう「ディアスポラ」ではない自分が、その可能性を引き受けて終わりのない旅へ一歩を踏み出すことを勇気づけるものだった、と言わなければならない。
 ところで、鹿児島で読んだもう一冊の新書は、目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK生活人新書)である。こちらは、今も続く「日本」の「近代」によって「本土」のための犠牲にされつづけている沖縄人、それも肉親から60年前の沖縄戦の記憶を継承する沖縄人の視点から、今や「戦後」でも「戦前」でもなく、「戦時」にほかならない今につながる「日本」の「近代」の問題を、厳しく問いただすとともに、目取真俊という作家の創作活動の背景もうかがわせる一冊である。
 今なお「本土」の「防波堤」として、日本全体の75パーセントの米軍基地を抱える沖縄に身を置くとき、日本がアメリカの「テロとの戦争」に自衛隊の対外派遣をもって加担する今が、「戦時」にほかならないことが浮かびあがってくる。そして、その今と沖縄戦の過去を関係づけるとき、軍隊が市民をけっして守らないことを露呈させ、あまりにも多くの沖縄の若者を「国のため」の死に追いやった沖縄戦の問題が何ひとつ解決されていないことも見とおされてくる。そう、沖縄戦はほんとうは終わっていないのだ。では、「戦後60年」の今を「戦後ゼロ年」にするためにはどうすればよいのか。まずは沖縄戦が露わにした問題が解決されていないこと、否、それどころか「基地問題」というかたちで沖縄の人びとのうちに抱え込まれたままだということを見抜かなければならない。現在に戦争の過去を──場合によっては身体のうちに──執拗に差し挟み、時の流れを寸断する目取真俊の小説の書き方は、それを見とおすきっかけをもたらそうとするものなのかもしれない。
 もう一つ目取真がここで照らし出しているのは、沖縄を「癒しの島」として喧伝するイデオロギーが、沖縄が抱えている問題を覆い隠すばかりか、沖縄を「捨て石」とし、犠牲にすることを可能にしてきた沖縄の人びとに対する「本土住民」による差別を隠蔽するイデオロギーにほかならないことである。さらに彼は、このイデオロギーによる沖縄文化の神話化が、天皇制を神話化するナショナリズム、さらには文部科学省が押し進めようとする「心の教育」による「国のため」に命を捧げる「国民」の訓育とも共犯関係にある、ということも指摘している。
 目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』。沖縄を訪れるなら、その前に必ず読んでおかなければならない一冊と思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月11日 (木)

守中高明の『法』

 前から気になっていた守中高明の『法』(岩波書店)をようやく読むことができた。法そのものについてだけでなく、法と言語のかかわりとともに、法をめぐる自己と他者の関係をも、現代的なコンテクストのなかで考えさせる読みごたえのある一冊と言えよう。とりわけ、現代日本における法、とりわけ憲法をめぐる深刻な問題を含んだ状況を批判的に浮かびあがらせながら、法自体に内在する力ないし暴力を見すえたうえで、法をその可能性において問題化している点が印象に残る。
 ハート、ルーマン、デリダの法理論を突き合わせて、法についての現代的な議論のコンテクストを浮かびあがらせたなかで、ベンヤミンの「暴力批判論」を読みかえし、彼が「神的暴力」と呼ぼうとした、法の内側からその自己措定的にして自己保存的な「神話的暴力」を中断させる力を「市民的不服従」のうちに探る守中の思考は、さらに現代の日本のなかで不服従の「原−形象」アンティゴネーのように生きる可能性を見届けようとする。守中は、国旗と国歌の強制やいわゆる「有事法制」など、現代日本における、国家権力の犠牲となる「国民」の訓育が押し進められつつある状況を象徴する問題を抉り出したうえで、それに対する非暴力的抵抗の可能性を、「歓待の掟」にもとづいて「来たるべき正義」を求める法の脱構築のうちに求めるのである。
 他者を歓待するとき、他者を迎え入れる者の自己が、そのアイデンティティが動揺させられ、さらにその言語、とりわけその母語の同化の暴力が問いただされる。そして、レヴィナスが指摘するように、「言語活動の本質とは友愛と歓待である」ことを見つめなおすことが迫られるのである。その際、この「友愛と歓待」を実践する翻訳の可能性が問われなければならないのは言うまでもない。それは、差し迫った問題でもある。脱−固有化としての「歓待の掟」は今日本で、難民たちの歓待というかたちで実現されなければならないのだ。さらに守中高明は、歓待への問いを、死刑への問いへ結びつけてゆく。「同害刑罰」という「計算」の彼方にある他者との関係、とくに赦しという観点から、日本に今も権力の存続のために生き存えている死刑が問いただされなければならないのだ。
 このように、法をめぐるアクチュアルな問題を浮かびあがらせながら、法そのものについての省察というかたちでそれに立ち向かおうとする守中高明の強靱にして繊細な思考は、前著『脱構築』のときと同様、ベンヤミンにもとづいて言語をその可能性において問う自分自身の思考を現代のコンテクストのなかに位置づけ、問いただす大きな刺激となった。
 最後にこの『法』のなかで最も印象深い言葉を引いておきたい。「「市民的不服従」の賭札はいたるところにある。クレオーンの法に叛き、来たるべき真実の法の到来に賭けてひとすじの弔いの砂をさらさらと落としたあのアンティゴネーの白い指先は、われわれの未来に属しているのである」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 9日 (火)

管啓次郎と翻訳

 最近読んで面白かった本のなかに、管啓次郎の『コヨーテ読書──翻訳・放浪・批評』がある。最近では移民や亡命者たちの作品を中心に、アメリカのマイノリティの文学の翻訳を手がけている彼の、言語への深い洞察にもとづいて翻訳すること自体を論じたエッセイとともに、生活に根ざしたマイノリティたちの文学の世界への想像力をかき立てるエッセイの数々も収められていて、久しぶりに読書の楽しみを味わうことができたし、また言語について考える刺激も得られた。何よりも、言語の、というよりも言葉を語ることの深層に翻訳を見届け、また翻訳を通過すること、さらに言えば翻訳を経験することを、文学にとって根源的な経験として語っている点に共感する。
 「翻訳人、新しいヨナたち」と題されたエッセイで、彼は白鳥正宗と小林秀雄に触れながらこう述べている。「ここで「翻訳」という言葉に、少なくともふたつの層を区別したほうがいいかもしれない。積極的に翻訳をおこなうことを活動の中心にすえる決意をする批評家がここで念頭に置く翻訳が、そのもっとも根源的な層においては、単に外国語で語られた思弁の反復や理論の適用などではないことは、明らかだろう。あらゆる思考の発生の瞬間にある翻訳──見慣れないもの、徹底して異質なものを稲妻の閃光のうちに見とり、本当には語りえないその残像を言葉で包囲しながら、暴力的に切りつめ、精密さを断念しつつ文の網にすくいとってゆく行為──に、彼はここでふれている。/そうした翻訳にとっては、じつはオリジナルが外国語か自国語かというちがいは、結局どちらでもいい。けれども同時に、通常の意味での「翻訳」という行為がもつ圧倒的な厚みと力を無視することはできない。外国語と格闘し、あるいはその翻訳文(それはすでに一種の外国語だ)を苦労しつつ読むという抵抗に満ちた迂回を経てはじめて、人は自国語内の翻訳というぎこちなく苛立たしい経験さえも発見できるのだ、いかに多くの言葉が、われわれにとっては見慣れないものであることか。あるいは、その見慣れなさが突如として流れる水晶の輝きをおび、われわれの生に(たとえそれ自体は無意味であっても)輝かしい読点を打つことか。そうした経験がたしかにあると信じられるからには、小林のいう「翻訳文学者」を単に「文学者」と呼んでもさしつかえないだろう。それは異質な思考、異質な言葉のアレンジメントを、ある言語に注入しようと試みる者のことだ。「国語」の安定に奉仕し、飼い馴らされた文章の整然としたふるまいのみを期待する者は、「文学」という経験の動揺にはそもそも何の関係もない。あるいは「翻訳」という迂回がないところに、「文学」はない」。とても長い引用になってしまったが、翻訳についてのまれに見る深い洞察を示す言葉として、引いておきたかった次第である。
 このような言語の生成の根源に翻訳を見届け、その視点からいわゆる翻訳を見つめなおす洞察を、管は自身の実践に活かしている。彼は、マイノリティの文学者が英語、スペイン語、ポルトガル語といった複数の言語を行き来しながら自分の世界を織りなす言語を生成させているさまを、みずからが行なう翻訳のうちにすくい取ろうと試みているのだ。その作業日誌とも呼ぶべきエッセイも、じつに興味深い。
 「一つの言語(たとえば英語)で書いていようとも、その英語使用の影で表面化せずにとどまっている時間的・空間的コンテクストと、そこに響きわたる他のさまざまな言葉を、救出しようとする態度」としての「オムニフォン」を論じた管の近著も読んでみたいと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (1)