2009年9月30日 (水)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記VIII

 荷造りをしてホテルをチェックアウトし、ツォー駅へ向けて歩く。13ユーロもする朝食はパスしたので、朝食代わりに通りがかりのソーセージ屋でカレー・ソーセージを食べる。パンを付けて1.35ユーロ。ホテルの朝食の10分の1だが、腹一杯になった。ソースもかなりスパイシーで美味しい。スーパーも見つけて土産のチョコレートを仕入れる。そうこうするうちにツォー駅に到着し、すぐに来たX9のバスでテーゲル空港へ。
 テーゲル空港に着いてしばらくしてもチェックイン・カウンターがなかなか開かないので待っていると、おじさんがやってきて周りと何やら相談した後、手書きの券を渡し始めた。何でも空港のコンピューター・システムがダウンしてしまっているとか。渡された手書きの搭乗券には席の番号も書いていないので、どうなっているのかと訊けば、好きなところに座ってよいとのこと。やれやれという感じだ。
 エコノミー・クラスの一番前の席に座り、コペンハーゲンへ向かう。空港でもらったTagesspiegel紙を広げると、ちょうど20年前の今日、プラハのドイツ大使館へ押し寄せた東ドイツ市民が列車で西ドイツへ入ったとのこと。当時西ドイツの外務大臣だったゲンシャーの手記が載っていた。刻々と変化する情勢に対応しながら、東ドイツの市民にこれほど親身に対応したのは、ゲンシャー自身が東側のハレから出て来たということも要因の一つだろう。非常に感動的な手記だった。
 コペンハーゲンに着いて、東京行きの便のゲートへ向かうと、すでに日本人が群れていてげんなりしてしまう。おまけに機内で隣に座ったのは、子連れの家族の一人で、これにもうんざりした。とても落ち着いて本を読んだりする気にならないうえに、がさごそとやかましくて眠れない。それに故障したヘッドフォンは、こちらから催促に行かないと取り替えてもらえないし、機内食も、行きよりはましながらけっして美味しくはない。今回の往復のフライトで、スカンジナビア航空の印象はかなり悪くなった。
 成田への到着は、予定よりも早まって9時を少し回った頃。おかげで10時の羽田行きのバスに乗れたし、羽田からの飛行機の予約も12時発に変更できた。ただ、羽田からの飛行機が遅れて、広島空港に到着したのは14時近くだった。向こうに何かを残してきたような、どこか落ち着かない気持ちで広島の街に降り立った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月29日 (火)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記VII

 今朝のレストランは、アメリカ人とおぼしき男たちの集団がいて騒々しい。それにしても、この連中はどうしてこうも不作法なのか。隣の椅子に足を乗せるし、皿に載せずにパンやハムを手づかみで取ってくるし、不愉快なことこの上ない。いそいそと朝食を済ませて部屋に戻ってだらだらとしながらネットでニュースを見たりしているうちに、チェックアウトの時間はいつだろうとふと気になって、ホテルの約款らしきものが書いてある冊子を開いてみると、何と9時から14時までの滞在に追加料金がかかるとある。慌てて荷物をまとめてチェックアウトし、ひとまずカジミエーシュ地区へ向かう。
 まず、一昨日見逃したガリシア・ユダヤ博物館の展示を見る。ホロコーストを生き延びたユダヤ人が、今は地図上に存在しないガリシア地方のユダヤ人共同体の生活を回想して描いた素朴な絵も興味深いが、ガリシア地方のユダヤ人共同体の信仰生活の痕跡や、ポグロムやホロコーストによるその破壊の痕跡などを写真で追った展示がいっそう興味深い。シナゴーグの廃墟や忘れ去られた墓碑などの写真が、共同体が根こそぎにされたことを物語っている。奥に設けられているメディア・センターでは、ちょうど第二次世界大戦が始まる頃のクラクフのユダヤ人の生活を記録した映画を見た。ユダヤ人がカジミエーシュ地区を拠点に生き生きと日常生活を営んでいる姿が映し出されている。英語の字幕が付いているが、ナレーターが語っているのはイディッシュ語のようだ。
 ガリシア・ユダヤ博物館を出た後は、近くにあるスタラ・シナゴーグの展示を見に行く。かつてシナゴーグを彩っていた祭具や古い宗教書が展示してあったが、それほど面白くはない。マイモニデスの書物の17世紀頃のアムステルダムだったかの版を見ることができた。シナゴーグを出た後、路面電車に乗って市街中心へ戻り、城内にあるチャルトリスキ美術館を訪れる。お目当てはもちろん、レオナルドの「白貂を抱く女性」の肖像。この美術館、チャルトリスキ家の宝物、甲冑や武具、エジプトやギリシアなどの古代美術、それに絵画と、かなり多彩な展示を誇っているが、やや散漫な感じもなくはない。もちろん展示物の数は膨大で、とくに古代美術はどうやってこれだけの数を集めたのだろうと思うくらい。絵画の展示はたしか5つくらいの部屋に分かれていたと思うが、レオナルドの「白貂を抱く女性」とレンブラントの「善きサマリア人のいる風景」以外はそれほど見るべきものはない。たしかにレオナルドの絵の静謐な美しさと精緻な表現には目を見張らせられる。レンブラントのどちらかと言うと珍しい風景画も、風景そのものが精神化されている印象を受ける。どこか神々しささえ感じる光の表現。
 ホテルへ戻ってスーツケースを引き取り、来たときと同じように中央駅から空港行きの電車に乗り、クラクフ空港からエア・ベルリンの飛行機でベルリンへ戻る。なぜか今回はジェットの機材。機内には行きと同じ顔ぶれも見られる。テーゲル空港に到着した後はX9のバスでツォー駅へ。駅から大通りをしばらく歩くとホテルが見つかった。今回のホテルは、アート・ホテル・ベルリン。現代美術で彩られた瀟洒な造りだ。部屋も比較的使いやすいし、無線LANが無料で使えるのも有り難い。ただ、朝食に別料金がかかるのが玉に瑕だ。部屋から友人に電話を入れ、ホテルの玄関で落ち合う。少し本屋を冷やかしてから、近くのレストランへ。友人が頼んだのはMaultascheという、南西ドイツのパイ料理で、私が頼んだのは日替わりの鶏肉料理。胸肉にシリアルのようなものをまぶして、からりと焼いたもの。店がだんだん騒々しくなってきたので、隣のワイン居酒屋へ場所を移してしばらく話す。現在のドイツの問題、日本の若い人たちの問題、街並みの問題など話は尽きず、店が閉まった後は近くのカフェへ。別れてホテルへ戻ったのは午前1時近かった。それにしても、ワイン酒場で飲んだドイツの赤ワインの美味しかったこと。今回の旅の疲れを癒す酒だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月28日 (月)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記VI

 オシフィエンチムまでの移動の時間を見込んで早めに起き、朝食に降りてみると、レストランには誰もいない。自分でコーヒーを注ぎ、パンやチーズを皿に盛って食べ始めると、ようやくおばさんが一人顔を出したが、食べ終わるまで他人の姿を見たのはそれっきり。不思議な気分で朝食を食べ終えた。ちなみに、コーヒーの味がどうもおかしい。コーヒーと想像するものと違うと言うか、何か代用コーヒーのような味がする。後でベルリンの友人に話を聞くと、ポーランドで普通に飲まれている、スターバックスのようなコーヒーチェーンではない喫茶店やホテルの朝食に出てくるのは、そのような味のコーヒーなのだそうだ。何でもポーランドの人は、この味でないと落ち着かないのだとか。こちらは朝から何とも落ち着かないのだけれども。
 身支度を調え、ペットボトルのミネラルウォーターとベルリンのスーパーで買っておいたチョコレートを鞄に詰めて、バスターミナルへ向かう。ターミナルの窓口でオシフィエンチムまでの往復切符を買おうとすると、運転手から買えとのこと。そして、次のバスは10分後に地下の8番乗り場から出るという。もう20分待たなければならないと思っていたのでありがたい話だが、それまでに調べていた時刻表には載っていない便なので、ターミナルの時刻表を見てみると、確かにそのバスもオシフィエンチムを通るようだ。乗り場へ行ってみると、ワゴン車のようなマイクロバスが止まっている。運転手のおじさんに、博物館には止まるのか、と尋ねてみると、乗れと合図をするので、9ズロチを払って乗り込む。しばらくすると、同じようにオシフィエンチムの博物館を目指す若者が次々と乗り込んできて、バスはすぐに満員となった。
 バスは、いくつかの停留所で止まりながらおよそ1時間半オシフィエンチムへと走った。途中の田舎道では相当飛ばしていたように思う。博物館の駐車場に着くと、運転手が「アウシュヴィッツ・ムゼウム」と大声を出して止まった。降りる際、運転手は親切にも帰りの時刻表まで渡してくれる。博物館の正面から入ってみると、みな窓口で金を払って、オーディオ・ガイドのような首から提げる受信機とヘッドフォンを受け取っている。変だなと思って、入口の係員に一人で来たのだが、と声をかけると、15時まではガイドの案内によるツアーでの参加が義務づけられているとのこと。仕方がないので、待ち時間が最も短い英語のツアーに参加することにして、窓口でチケットを買い求める。映画の料金を含めて33ズロチということは、日本円にすると1500円くらいか。ガイドの人件費を考えるなら高いとは言えない。もちろん日本での感覚からすればの話ではあるが。
 ガイドの声を受信する装置とヘッドフォン、それに英語でのツアーの参加者を示す緑色のシールを受け取って、すぐそばの映画の上映室に入ると、英語による映画の上映がちょうど始まったところだった。映画は、おもに収容所の解放後に連合国軍によって撮影された映像によって構成された20分ほどのもの。導入の役割を果たす啓蒙的なものと言えようか。それが終わると、上映室の横のドアも開いて、収容所の入口へ導かれる。どこかガス室の扉が開かれたような感覚をおぼえた。自分と同じように緑色のシールを胸に着けた集団と一緒になって待っていると、やがて英語のガイドが現われた。25、6人の二つのグループに分かれて出発。一人は若い男性で、私のグループを導くもう一人は、小柄な若い女性。早口ながらはっきりとした英語を話してくれる。混んでいないバラックを見つけながら誘導し、参加者全員が展示を見られるように歩く速さに配慮して先導し、要所要所で立ち止まって説明してくれる。説明も簡にして要を得たもので、好感を持てる。参加者が囚人の生きざまと死にざまを想像できるよう語りかけるとともに、参加者の質問にも丁寧に答えていた。他のグループと同じバラックに入ったときに、同じ場所で渋滞しないよう配慮してくれるのもありがたい。何よりも、アウシュヴィッツで起きたことを語り継ぎ、ここを訪れた人に伝えようとする熱意を感じる。こうした若いガイドが、例えば広島でも、もっともっと育っていくべきではないか。そして、老いを隠せない被爆者に代わって、そしてそのために、広島を訪れる若い人々に語りかけるべきではないだろうか。10名以上の団体には、こうした若いガイドの先導を義務づけるくらいしてもよいはずだ。
 博物館の展示は、当時から残っている遺物や当時の貴重な写真によって、収容所における暴力の歴史が、ひと目で視覚的に理解できるように展示が構成されていて、その点、かなり膨大な文章を読むことを強いるブーヘンヴァルト収容所跡の展示とは対照的である。もちろん、そのぶん事柄が単純化されている感じも否めない。たしかに、よく知られているように、死のバラックと呼ばれた監獄バラックの展示や、囚人から奪われた身の回りのものを集積した展示は衝撃的である。火葬された死者の灰を目の当たりにしたときには息が詰まった。死のバラックでは、身代わりとなって死んだコルベ神父が餓死させられた部屋も見ることができた。ガス室に接続したクレマトリウムは、ブーヘンヴァルト収容所のものよりもさらに大規模である。その下に広がる薄暗いガス室をのぞき込んだときには、その空気の重さに圧倒されるほかはなかった。鉛色の空気が充満している。ただし、そこは暗黒ではない。小さな煙突から地上の光が漏れてくるのだ。ただし、まさにその煙突の穴からツィクロンBの結晶が落とされたのである。
 博物館前の駐車場から出ているシャトルバスに乗って、まさに死の工場として機能したビルケナウ収容所の跡も見ることができた。アウシュヴィッツよりも小さな門をくぐると、バラックとその跡の列が、どこまで続くのか見通せないくらいに広がっている。残されたバラックでは、アウシュヴィッツよりもさらに劣悪な生活条件を実感できたし、ガス室での死か強制労働かへの選別の現場も目の当たりにすることができた。ガス室と火葬場の跡がユダヤ人特務班の蜂起のために破壊されたままになっているのも印象深い。その廃墟の傍らには、抽象的な石碑のメモリアルが設けられている。
 ガイドによるツアーが終わった後は、アウシュヴィッツへ戻り、ツアーで見ることのできなかった展示を見に行く。再びバラックが建ち並ぶなかを歩いていると、午前中は見かけなかった日本人の集団もいて、唯一の日本人公式ガイドである中谷剛さんとおぼしき男性が先導していた。各国ごとの展示では、シンティ=ロマの人々のための展示が最も印象深い。一人ひとりの生と死にも光を当てながら、アウシュヴィッツなどナチスの収容所における虐殺に極まる、ヨーロッパにおけるシンティ=ロマの人々の差別の歴史が、冷静な視線で描かれていたように思う。他の展示ではほとんど触れられることのない人種主義の問題が指摘されているのも興味深い。対照的に、最も古くからあると思われるポーランドの展示は、ゲットーの蜂起を称揚するなどして、ナショナリズムに傾斜している印象が強く、あまり共感できなかった。新しい展示はどれも、最新のテクノロジーを導入したり、現代美術のインスタレーションの手法を取り入れたりするなどして、工夫されている。そして、そうした展示の技法は、ここアウシュヴィッツで起きたことが、けっして過ぎ去ってはいないことを伝えているのだろう。ふと思ったのだが、ここにドイツの展示があったなら、ナチスを生んだ歴史の根底的な検証と、ナチズムに内在するレイシズムに対する心底からの反省と、ひいては犠牲者への真摯な哀悼の場になったのではないか。さらにそれは、現在も続く他者の差別と排除に対する反省の景気を与えるものになりうるのではないだろうか。もし、ソウルに、台北に、南京に、かつてそこで植民地支配の暴力の犠牲となった者が「日本人」と名指す者自身による、その暴力を検証し、反省する展示があったとしたら、と想像してみる。アウシュヴィッツの各国の展示をもう少しゆっくり見て回りたかったが、博物館の閉館時間も、帰りのバスの時間も迫ってきたので、帰りを急がざるをえなかった。
 帰りのバスは、大きな観光バスのようなバスで、ゆったりと座ることができた。クラクフのバスターミナルに着いたのは19時近く。駅の隣に最近できたと思われる、ガレリアというショッピングモールを見ていると、フランスのカルフールが入っていたので、そこで土産物を含めて少し買い物をしてからホテルへいったん戻り、夕食のために再び街へ出る。ガイドブックに載っていた、グルジア料理のチェーン店の一つが比較的リーズナブルな値段だったので、そこに入って、鶏肉を少しスパイシーに焼いたものに、バターで少し炒めたご飯が付いたものを食べる。小さなビールを入れて日本円で600円くらいか。特別美味くはないが、悪くはない。帰ってしばらくすると、身体中がだるい。一日中外を歩き回っていたのと、英語のガイドの説明を聴くのにそれなりに集中力の持続を要したのと、それから何よりも、あまりにも重いアウシュヴィッツとビルケナウの展示とに消耗しきってしまったのだろう。

Img_0397
Img_0405
Img_0407_2
Img_0414

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月27日 (日)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記V

 ホテルをチェック・アウトして、昼過ぎのクラクフ行きのフライトのためにテーゲル空港へ向かう。オリヴァー・プラッツは、空港行きの109番のバスが通るし、他にもかなりの数のメトロバスが通るので、意外に便利かもしれない。クラクフ行きのフライトは、エア・ベルリン。どこにチェックイン・カウンターがあるのかと思ったら、Cブロックという離れのような建物にカウンターがあった。メイン・ビルディングと高低差があるので、荷物が多いとやや不便。バスで運ばれた先に待っていたのはプロペラ機で少々不安になったが、さほど揺れることもなく1時間強でクラクフに到着。さっそく必要な現金を引き出そうとキャッシュ・ディスペンサーへ急いだが、空港の到着口付近の機械がどれもうまく使えず、結局手持ちの50ユーロをポーランドの通貨ズロチに両替することになる。185ズロチというのは良いレートなのかどうかはわからない。ともかく、いくつかあった空港の両替商の窓口にあったレートのなかでは良いほうだろう。あまり考えないことにして、自動販売機で中央駅までの電車の切符を買い、空港巡回バスで電車の駅まで乗せてもらう。着いたのはかなり寂れた、朽ちかけた屋根の待合所が雑草に囲われたホームにあるだけの駅で、これにも不安にさせられたが、ほどなくして不釣り合いに新しい電車がやって来た。15分ほどでクラクフの中央駅に到着。
 駅の地下道を抜けて駅前の広場に出ると、通りの向こうには、世界遺産に指定されているクラクフの旧市街が広がっている。確かに美しい街並みだ。ともかくホテルに入ろうと、駅の反対側の通りへ出ようとするが、歩行者の通り道がなかなか見あたらない。しばらくして、スロープで通じている地下道を通って路面電車の線路と車道を横断できることがわかった。地下道にはあちこちに物売りが立っている。
 アレクサンダーIIという名前のホテルは、駅からほど近い路地の奥にあって、怪しげな英語を話す小太りのおじさんが迎えてくれた。最上階のサン・ルーフのある部屋に通されたが、どうやっても電灯が点かない。おじさんに来てもらってあれこれ試したが直らず、結局一つ下の階の部屋に替えてもらった。天井の高い広々とした部屋で、少々贅沢な気分にさせられるが、ほどなくして部屋が鉄道の線路に面していることがわかる。電車が通るとそれなりに騒音がする。電車がそう頻繁には通らないのがせめてもの救いか。インターネットへの接続はLANケーブルによるもので、回線の状態はかなり良い。スカイプで4日ぶりに妻と話すことができた。
 ひと休みしてクラクフの街へ出てみる。まず、翌日のオシフィエンチム行きのバスが出るターミナルの場所を確かめようと、駅へ戻ってみる。駅舎のある反対側に、広島のバスセンターに似たようなバスターミナルがあった。再び地下道を通って駅の正面口に戻るが、その途中の至る所で、ドイツのブレーツェルをひと回り大きくしたようなパンを売っている。値段は安いもので1ズロチというから、日本円にして30円足らずか。試しに一つ買い求めてみた。列車の車中で読むために、ということだろうか。小説の古本を売る店がいくつも立ち並んでいるのも面白い。
 ウェブ・サイトの情報によれば、カジミエーシュ地区にあるガリシア・ユダヤ博物館が19時まで開いていて、19時半からはそこでヘンデルのオペラの公演があるとのこと。キオスクで市内交通の切符を買って、路面電車でカジミエーシュ地区へ向かう。路面電車は、プラハの街で見かけたの同じような型で親しみが持てる。一つ手前の停留所で降りてしまったようで、道に迷いかけたが、しばらく南へ歩いているうちに、カジミエーシュ地区への入り口に行き当たった。ユダヤ料理を出す店をはじめ、いくつもの飲食店が屋外に席を並べていて、かなりの数の観光客がそこでくつろいでいる。それを横目にさらに歩き、別の通りに出ると、かつてのゲットーがあった一角から少し外れたところにガリシア・ユダヤ博物館が見つかった。掲示を見ると、開館は18時までとあり、ウェブ・サイトの情報と違う。カウンターの女性に話を聞くと、実際もうすぐ閉館で、オペラ公演の準備をしなければならないとのこと。どうしたものかといったん外に出て、帰りの電車の時間を調べてみたら、22時過ぎまでしかない。もしオペラ公演が休憩も含めて3時間以上かかったとしたら、電車に間に合わないことになる。中央駅まで歩けない距離ではないし、タクシーを使う手もあるが、慣れない夜道を歩くのは危険だし、流しのタクシーを拾うのはリスクが高い。オペラを観るのも諦めて、再び電車で中心街へ戻ることにする。
 歩き回って腹が減ってきたので、買っておいたパンをかじってみる。これが相当に固い。なかなか噛み切れず、しばらくかじっているうちに顎が痛くなってしまった。路面電車に乗って、中央駅の一つ先の停留所で降り、厳めしいフロリアンスカ門を通ると、クラクフの旧市街が広がっている。マリア教会の横を通って織物会館の前の広場に出ると、ここでもたくさんの飲食店が屋外に席を並べている。それを冷やかしながら歩いて、目に付いたメニューを覗いてみると、これが結構な値段だ。まともな食事を一皿頼んだら、千円は下らないというところか。それ以外はテイク・アウトのファストフードという感じで、観光客ずれした街の空気を感じないではいられない。ちなみに、トルコ人のケバブ屋もあちこちに店を構えている。
 夜の旧市街に馴染めないまま、いったんホテルに戻ろうと歩いているうちに、駅のすぐ前にあるホテルのレストランが目に入った。メニューを見ると、旧市街の観光客相手の店に比べてずっとリーズナブルな値段。今日の夕食はここと決めて入ってみると、妙に英語の上手いおじさんが応対してくれた。薄暗いなかに使い込まれた木製のテーブルが並ぶ寂しげな雰囲気のなかで、二つもあるテレビが妙に明るい。一方のテレビではニュースを流していて、ドイツの総選挙でメルケル首相の率いる同盟が勝利を収め、社会民主党が歴史的な敗北を喫したこと、映画監督のロマン・ポランスキーが、30年前の少女暴行の容疑で逮捕されたことなどを報じていた。なかでもポランスキーの逮捕はポーランド人にとって衝撃的なニュースのようで、翌日の新聞はどれも一面でそのことを報じていた。もう一方のテレビに流れているのは、ポーランドのダンス・コンテストの番組。若い男女のペアが次々に出てきては踊って、これを審査員が講評するというもの。飲みに来ているカウンターの客の一人も席を立って、合わせて踊ったところを見ると、ポーランドではこの手の社交ダンスがポピュラーなのかもしれない。
 ところで、このバーともレストランとも点かない店で注文したのは、ポテトケーキにハンガリーのグラーシュをかけた一皿。少しスパイシーなグラーシュも、表面をかりっと焼いたポテトケーキも悪くない。ヴィーンやプラハでもそうだが、グラーシュを注文するとおおむね間違いはないようだ。飲み応えのあるビールと一緒に食べているうち、すっかり腹一杯になってしまった。これまでの旅の疲れもあって、ホテルに帰ってシャワーを浴びると、すぐに眠くなってしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月26日 (土)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記IV

 昨晩の帰りが遅かったこともあって身体が重いが、8時頃に何とか起き出して朝食を取り、身支度を調えて、前から訪れようと思っていたプレツェンゼー記念館を訪れる。地下鉄7番線から、市街の外周を回るSバーン(これは走っている)に乗り換えて、ボイセル通りの駅から運河のほうへ歩くと、10分ほどで記念館が見つかった。ここはナチスの刑務所と処刑場があった場所で、今も刑務所として使われている建物の隣で、処刑場の跡が記念館として公開されている。ナチスの時代、この場所で3000名におよぶ抵抗者たちが命を落としたのだ。通常ギロチンで執行されたという死刑の部屋も公開されていて、赤い旅団のメンバー8名──そのなかの最年少者はまだ17歳だったという──を見せしめのために絞首刑にした首吊り鈎が並ぶ下に、排水口へ向けて緩やかな傾斜のある冷たい床があるのが実に生々しく、ナチスの暴力の凄まじさが薄気味悪く迫ってくる。隣の部屋では、プレツェンゼーの刑務所の歴史と、ナチスによってここで処刑された抵抗者のうち主要な人々とを紹介する展示が行なわれていて、設置されているコンピューターでは、処刑された人々全員の名前を検索することができる。
 プレツェンゼー記念館を出て、ボイセル通りの駅へ戻り、空港と市街を結ぶ急行バスに乗って、ブランデンブルク門近くの「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」へ向かう。ピーター・アイゼンマンの設計による墓碑のようなブロックが立ち並ぶなかに足を踏み入れたことはあったが、地下の情報センターへは入ったことがなかったので、それを見てみようと思ったのだ。ブランデンブルク門に群がる観光客をかき分けて「メモリアル」のある場所にたどり着くと。ナチスの犠牲となった同性愛者たちのための記念碑の案内板が目に入った。「メモリアル」のある広場のちょうど向かい、ティーアガルテンへ少し入ったところにその記念碑は立っている。少しいびつな形をした角形のコンクリートの塊という感じであるが、それには覗き窓のようなものが付いていて、そこへ顔を向けると、内部にある画面で二人の男が口づけを交わしている。その行為自体の名誉を回復しようというものだろうが、少し虚を突かれたような印象も受ける。この同性愛者たちのための記念碑は、向かい側にあるユダヤ人のためのモニュメントに比べればとてもささやかなものではあるが、それがあることの意味はけっして小さいものではない。
 さて、この記念碑を後にして「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」へ向かう。びっしりと立ち並んでいる不揃いな高さのブロックを縫うようにして地下のインフォメーション・センターへの入り口へ向かうと、この虐殺の犠牲者一人ひとりの身に降りかかった出来事の重みがのしかかってくるかのように感じないわけにはいかない。迷路のつもりで駆け回っている若者にぶつかりそうになりながら通って、反対側の地下への入り口にたどり着くと、10人ほどの観光客が並んでいる。入り口で入場者を管理している女性からドイツ語のパンフレットをもらい、それを読みながらしばらく待っていると、5分ほどで入ることができた。地下に入ると、ユダヤ博物館で見かけたようなセキュリティ・チェック。それを通過して中へ入ると、案内と管理を担当しているのも、ユダヤ博物館で見たのとそっくりな若者たちである。ユダヤ系の関係筋を通して同様のシステムを導入したのだろうか。設立母体が異なるはずなので、少々不自然な感じもなくはない。
 展示そのものはかなり工夫されている。最初にポグロムから「最終的解決」に至るユダヤ人迫害の歴史の概要が、写真を交えて説明され、続く部屋には、ナチスの暴力が迫るなかで、あるいは収容所へ移送され、虐殺される直前に書かれた手記が、その翻訳とともに展示されるとともに、部屋の壁には各国ごとの犠牲者の数も掲げられている。こうして犠牲者一人ひとりの生の記録から出来事の全体への展望を開くというのは、過去の出来事の記憶のあり方として注目するべきものを含んでいよう。一人ひとりの個としての経験を消し去ることはできないし、その際に経験された出来事の総体を見つめ直すことも忘れてはならないのだから。ただし、ここでの展示に選ばれているのは、手記や手紙を書き残すことができた犠牲者だけであることも忘れられてはならないだろう。
 次の部屋では、いくつかのユダヤ人家族がヨーロッパ各地で営んでいた生活とその運命が写真や映像を交えて展示されている。それはヨーロッパのユダヤ人の生を、家族の日常から浮き彫りにするとともに、家族の離散と絶滅を具体的に描き出すものと言えよう。さらにその次の部屋では、これまでに歴史的な調査によって突き止められた、犠牲者一人ひとりの名前と、その人が死に至るまでの履歴が読み上げられている。すべて読み上げると、6年と8か月近くかかるという。その長さによって、犠牲の大きさがあらためて浮き彫りになるわけだが、一人ひとりの名前がこうして重視されるところには、ユダヤ的な伝統が介在していることを感じないではいられない。実際、名前と履歴のデータは、イスラエルのホロコースト記念施設ヤド・ヴァシェムの犠牲者記念ファイルにもとづいているという。もちろんヤド・ヴァシェムの調査には心からの敬意を表わしたいと思う。ただし、この施設の紹介が展示のなかでかなり大きなウェイトを占めることには、少し違和感を感じないわけにはいかない。展示の構成に大きく寄与した機関が文字情報のかたちで紹介され、その活動へ訪問者がアクセスできるようにするのは当然のこととしても、あくまで虐殺の歴史を振り返りつつその犠牲者を哀悼するためにあるはずの展示室の空間に、その機関の写真がいくつも掲げられるなら、展示そのもの意味が歪められてしまうのではないだろうか。このほかに、虐殺の舞台となった場所に関する、映像資料と証言の音声による展示もあった。
 少し割り切れない気持ちで「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」を後にすると、今日までホテルの朝食以外まともな食事をしていないことに気づき、通りがかったヴェトナム料理屋で遅い昼食を取ることにする。食べたのは、日本でいうサービスメニューとして掲げてあった、鶏肉を揚げたもの。まさに炒飯そっくりの焼飯が山盛りになっているのに載っていて、正直途中で飽きてしまった。ヴェトナム人と思われる店員の応対も気に入らない。
 途中のスーパーで買い物をしてからいったんホテルへ戻り、夕方からはベルリン・ドイツ・オペラでヴァーグナーの『タンホイザー』の公演を聴く。ドレスデン版による公演で、指揮はドナルド・ラニクルス。序曲から非常に力のこもった演奏で、期待が高まる。序曲の途中から、合唱が演じるヴェーヌスベルクの女性たちが裸を思わせる(舞台から遠い席で確認できなかったが、薄い肌色の衣装を着けているように見えた)姿で登場し、タンホイザーを誘惑する。そして序曲が終わるとともに、女性たちが誘惑する手を掲げながら奈落へ消えていくという演出。キルステン・ハームスによる演出は、全体として、ベルリン・ドイツ・オペラの上下の移動が自在な舞台を巧みに用い、かつ照明のイリュージョンも非常に効果的に駆使した演出だったが、舞台の上下動の際の騒音が少し気になった。騎士道的な恋愛が花咲く中世の世界を現代の視点から、現代の問題を照射するものとして捉える演出のコンセプトは、それなりに好感がもてるもので、基本的にはシンプルな装置と衣装によって舞台が構成されている。騎士の甲冑と馬を模した乗り物が仰々しすぎたのを除けば、違和感なく見ることができた。蝙蝠のような姿をした、ゴシック様式の教会の外壁に見られるような怪物が、人間の意識下の欲動を具現しているという見方も、説得的に表現されている。演出においてとりわけ興味深かったのは、第3幕でローマへ向かう巡礼の一行が病院のベッドから現われたこと。演出家へのインタヴューによれば、肉体的な快楽の園と言うべきヴェーヌスベルクと、精神的な騎士道的愛の世界であるヴァルトブルクとは、人間そのもののうちにある二つの側面を具現しているとのことだが、そうした見方にとって、身体的なものを否定しながら精神的な救いを集団で追い求める巡礼の姿は、どこか病的に映るのだろうか。ともあれ、幕切れの合唱が、ベッドから起き上がって、かつ女性たちも加わって歌われるのには、身体性の回復と身体を介した人間関係の再発見とを見る思いがした。ハームスは、そこに救済を見届けようとしたのかもしれない。とすれば、男性という同性の集団の巡礼が、タンホイザーを救済へと導くという解釈は否定されることになるし、ともすればナチズムの称揚にもつながりかねない、精神的なイデオロギーへの献身の賛美も斥けられることになろう。むしろ身体的な人間の生が他者との関係において再発見されるところに焦点が当てられることになるはずだ。実際、フィナーレにおいて憔悴したタンホイザーは、生きたエリーザベトの腕に抱かれることになる。
 歌手のなかでは、何とこのエリーザベトとヴェーヌスの二役を演じたペトラ・マリア・シュニッツァーが、この二つのパートを見事に歌いきっていた。体力的に相当困難なはずだが、最後まで声に疲れを見せることなく、美声を劇場全体に響かせていた。表現の振幅の大きさにも瞠目するべきものがある。タイトル・ロールを演じた、ペーター・ザイフェルトも、大きな体格を生かした力強い声と豊かな感情表現で、説得力のあるタンホイザー像を浮き彫りにしていた。とくに第3幕の「ローマ語り」の歌は感動的ですらあった。ヴォルフラムを演じたマルクス・ブリュック、ヘルマン公を演じたラインハルト・ハーゲンをはじめ他の歌手たちの歌唱にもほとんど隙がない。とりわけヴォルフラムの「夕星の歌」は、タンホイザーの「ローマ語り」に比肩しうる出来だった。
 今回の公演でとくに印象的だったのは、合唱の素晴らしさ。息を呑むようなピアニッシモから圧倒的なクライマックスまで、乱れることのないアンサンブルとハーモニーが貫かれていた。『タンホイザー』の出来を左右するのは合唱としばしば言われるが、ベルリン・ドイツ・オペラの合唱は、聴衆の耳を舞台の空気へしっかりと引きつけていた。舞台上の演技にも間然するところがない。指揮のラニクルスは、オーケストラから力強い響きを引き出していた。音楽の運びは手堅いながら、テンポにも推進力があり、バランスの取り方も巧みである。オーケストラも熱のこもった演奏で応えていた。この日の『タンホイザー』の公演では、オーケストラ、合唱、ソロの歌手、そして演出が一体となって、人間がその身体性において救済されるドラマを、きわめて説得的に構成していたのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月25日 (金)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記III

【ホテル・メゾン・オリヴァー・プラッツにて】
 ヴァイマールのホテルをチェック・アウトして、市街中心へ向かう。新美術館が開くのが11時なので、それまでレベッカ・ホルンのインスタレーションの展示場所を下見に行くが、地図に従って歩いて行き着いたのは、錆び付いた骨組みだけになったバスの車体が放置されている廃墟。普段は、市電の車庫だった建物を使って夜に演劇の公演が行なわれたりしているようだが、なかなか魅力的な会場かもしれない。それで、お目当てのインスタレーションはどこにあるのかと探してみると、貼り紙がしてあって、土曜と日曜の午後にしか公開されないとのこと。新美術館の受付の人に聞いても、同じ返事だった。期待していただけに非常に残念だ。
 通りがかりの古本屋をのぞいたりして開館時間を待ってから新美術館へ行き、そこで開催されているフランツ・エーリヒの回顧展を見る。最初に展示されていた、逮捕されて収監されているあいだに制作された水彩画のシリーズが、素朴ながら心を打つ。彼の恋人が差し入れた紙に書かれたとのことだが、その多くは全体的に明るく、穏やかな色調で、ほとんどの作品に鍵と錨がモチーフとして描かれている。鍵は当然ながら自由な世界へ出たいという願いを表わしているのだろうが、錨は何を表わしているのか。魚を魅力的に描いた一枚もあることからすると、広大な海原への憧れを表わしているのかもしれないし、自分の依って立つ足場のようなものを求めているのかもしれない。バウハウスで学んだであろう有機的に構築された画面構成のなかに、柔らかな静けさに満ちた世界が広がっている。
 エーリヒは、ブーヘンヴァルト収容所へ送られた後、インテリア・デザイナーとしてSSに重用されたようで、SSの住居やその家具のために膨大な設計図を残している。展覧会ではその一部が展示されていた。面従腹背のドキュメントと言えようか。もちろん図面を引く際、収容所の支配者の言いなりになってばかりだったわけではないだろう。調度品などの無駄を廃した設計は、バウハウスの精神に基づく抵抗のささやかな表われと言えるかもしれない。その抵抗が最もはっきりと表われているのが、言うまでもなく収容所の門に掲げられる「各人に各々自身のことを(Jedem das Seine)」の文字のタイポグラフィーであろう。展覧会ではヨースト・シュミットのモデルなどにもとづいて、エーリヒが用いた書体の由来が跡づけられるとともに、この箴言の由来も示されていた。それは次のようなローマ法に表われる正義の掟に由来するという。「正直に生きよ。他人を傷つけるなかれ。各人に各々のことを認めよ」。エーリヒの抵抗は、欺瞞の極致として掲げられる言葉を、その本来の意味へ投げ返そうとする試みだというのが、展覧会の主催者側の解釈のようである。
 展覧会ではそのほかに、エーリヒが戦後、東ドイツ時代に設計した放送局の建物を撮影場所に用いたヴィデオ・インスタレーションも展示されていた。インスタレーションは、アンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』から着想を得たもので、今は使われていないこの建物を、『惑星ソラリス』に出てくる過去の記憶を体現する「お客」のような女性が徘徊するのをカメラが追うというもの。その際に建物の細部が意味深く映し出されて興味深い。
 さて、ベルリン行きの特急が出る時間までまだしばらくあるので、ゲーテとシラーの像のある国民劇場の広場からほど近いバウハウス博物館を訪れる。バウハウス創立90年を記念してか、常設展はなく、バウハウスの歴史についての短いドキュメンタリー映画の上映と『新しい線(Die neue Linie:この「線」には「路線」、「進路」、身体の「輪郭線」といった意味が込められていよう)』という女性誌に関する特集展示のみ。バウハウス様式の表紙の書体をはじめとして、服のデザイン、インテリア、ライフ・スタイルの発信におけるバウハウスとの密接な関係に焦点が当てられていた。ナチスの支配下で、「自立した女性」から「民族の母」へ誌上の女性像が変貌していくのも興味深いが、正直なところ常設展を見たかった。20分ほどのドキュメンタリー映画も、バウハウスのさほど目新しいもののない紹介。グロピウス自身が話しているのはたしかに面白かったけれども。博物館を出た後は、近くのヘルダー教会を訪れ、クラーナハの祭壇画を見る。壮大な三幅対の絵が、祭壇一面に掲げられていて圧倒される。十字架上のイエスの描写も生々しい。飛び散った血が降りかかるのは聖別の徴か。祭壇の隣には、三つの時期に分けてルターを描いた肖像画もあった。
 教会を出て中央駅へ急ぎ、ブレーツェルと水を買い求めて、ベルリンへ向かう特急列車に乗る。ライプツィヒとドレスデンを往復する列車と違って車両は古く、車内もあまりきれいではない。車内はかなり混み合っていて、立っている人も多い。それをかき分けて予約した座席を見つけ、車掌さんの手を借りて荷物を棚に収めてやっと腰を落ち着けることができた。2時間と少し走り、数分の遅れでベルリンに到着。遅れたために、予定していた乗り継ぎの電車に乗れず、次の電車を探すのにひと苦労だった。Sバーンが走っていればこういうことはないのだけれども。
 ようやくポツダム行きの電車に乗り、シャルロッテンブルクの駅から歩いてホテルへ向かう。10分ほど探してホテルを見つけると、それはかなり古い建物のなかにあった。日本でいう三階がホテルになっているとのことで、そこまでスーツケースを持ち上げるのがひと苦労。ホテルの主人は気のいいおじさんで、部屋は大丈夫かなどといろいろ心配してくれる。部屋はそれほど大きくないが、不自由はない。古い建物ならではの内装も落ち着ける。一つ問題なのはインターネットの接続で、無線LANの電波がほとんど届いていない。メールの送受信とウェブ・サイトの閲覧以外は諦めたほうがいいだろう。荷解きをして、ひと息ついてから、今度はポツダム広場のフィルハーモニーへ向かう。オリヴァー広場からバスに乗り、ツォーロギッシャー・ガルテン駅で乗り換えて地下鉄2番線でポツダム広場へ。20分足らずで到着した。
 フィルハーモニーでは、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴く。指揮はインゴ・メッツマッハーで、曲目はマーラーの交響曲第3番。最初からしばらく響きにまとまりを欠き、金管楽器のミスも多くて心配したが、第1楽章の終わりあたりから調子に乗ってきた感じだ。とくに楽章のコーダの追い込みは、今まで聴いたなかで最も激しいものだった。第2楽章では、弦楽器の柔らかな響きがとりわけ魅力的。メッツマッハーがメロディを十分に歌わせていたのも好ましかった。第3楽章は、舞台裏からのポストホルンのソロを含め、いくつか危うい箇所があったものの、全体としては軽やかな歌の魅力と、針葉樹の森のように聳え立つ響きの壮大さを兼ね備えた演奏に仕上がっていた。この楽章でも弦楽器の奥行きのある、かつ肌触りの柔らかな響きがマーラーにふさわしい。第4楽章では、アンネ=ゾフィー・フォン・オッターが、ニーチェの「ツァラトゥストラの酔歌」の素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。声量が豊かなわけではないが、フィルハーモニーの広い空間のなかにすっと声を浸透させる歌唱力には瞠目させられる。第5楽章では、オルガンの前に陣取った少年合唱がしっかりと訓練されたハーモニーを聴かせてくれたし、女声合唱もそれ自体としてはまとまっていたのだが、オーケストラとのアンサンブルにずれが生じてしまったのが残念。第6楽章では、少しも急ぐことのないテンポで、柔らかなピアノから壮大なクライマックスへ至る大きなクレッシェンドが見事に構築されていた。ヴァイオリンをはじめとする弦楽器の繊細な響きと、豪壮とも言える金管楽器の響きとの対照が実に印象的である。ちょうど10年前に聴いたケント・ナガノ指揮による演奏に比べると、演奏の精度と響きの洗練の度合いは劣るかもしれないが、聴き応えという点ではそれに勝るとも劣らない演奏であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月24日 (木)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記II

【ホテル・カイザリン・アウグスタにて:朝食後】
 コペンハーゲンからの飛行機が定刻にベルリン・テーゲル空港に到着したので、無事にヴァイマール行きの電車に乗り継ぐことができたが、中央駅での待ち時間を持てあましてしまった。何しろ空港から中央駅まで、たった10分強だったのだから。おまけに、前回のワールド・カップの際に開業した新しい中央駅は、ポツダム広場のアルカーデンのようなショッピングモールの底が抜けて駅になっている──どうしてこうも似ているのだろう──という感じで、入っているのはどこにでもあるような店ばかり。
 そんな店にわざわざ入る気にもならないので、新聞(Tagesspiegel紙)を買って、ホームのベンチに座る。新聞を開いてまず目に入ったのは、グスターヴォ・ドゥダメルの写真。9月の芸術週間には、彼をはじめ、クルト・マズア、ベルナルト・ハイティンク、そして当然ながらサイモン・ラトルといった指揮者がショスタコーヴィチの交響曲を振ったようで、新聞の文化面にはその報告が載っていた。とりわけ、ラトル指揮のベルリン・フィルハーモニーによる交響曲第4番の演奏は呼び物だったようだ。ショスタコーヴィチ演奏の世代交代ないし刷新に焦点を当てた報告になっていて、彼の交響曲を演奏するのにもはや独裁者の経験は必要ない、われわれはショスタコーヴィチを再発見しつつある、といった趣旨のことが書いてあった。少し表面的な見方のような気がしてならない。問題は「再発見」の中身ではないか。
 日本からするとほぼ一月遅れでこちらも総選挙のようで、政治面を占めるのは選挙関係の記事ばかり。こちらでも減税とそのための財源といったことが争点になっているようだが、注目されているのは、社会民主党(SDP)から分離した左派や、かつてのDDRの社会主義統一党の流れを汲む左派政党の動向。シュレーダー政権下から押し進められた新自由主義的なポリシーの浸透によって、また昨今の経済危機によって生活に痛手を受けた人々の受け皿になるかどうか。政治面にはこのほかに、ベルリンのリヒテンベルクの選挙区からパレスチナ人の女性が、自由民主党(FDP)の候補として立つということで、彼女のインタヴュー記事が出ていた。1面に出ていた、パレスチナの和平を新たな路線で押し進めるためにオバマがアッバスとネタニヤフを握手させた、という記事と緩やかなつながりを感じる。
 さて、ベルリンを訪れた旅行客にとってもっとも気になるのは、Sバーンの今後。整備不良が発覚して、現在市街の路線のほとんどが運休状態。新聞によると、28日の月曜日には、市街中心を貫通する路線の一部が復旧するようだ。そんな記事を読みながら、ようやくやって来た電車のなかに座っていると、さすがに疲れが出てうとうととしてしまう。ハレの駅で同じ大部屋にいた旅客がみな降りてしまって、とうとう一人になってしまった。こんなところで寝過ごしてしまっては大変なので、ナウムブルクを過ぎたあたりから立って待つ。待つこと20分、ようやくヴァイマールに到着。親切な女性に夜間出口を教えてもらって出てみると、すぐにホテルが見えた。今ひとつやる気のない夜番のおじさんがすぐに部屋に通してくれる。通された部屋は、バスタブもない今ひとつの部屋だが、この値段なら仕方のないところか。ちなみに、部屋のフロアには「パウル・クレー」という名前が付いていて、複製画と通り一遍の説明の書かれたプレートが廊下に架かっている。
【ホテル・カイザリン・アウグスタにて:夜】
 朝食後、駅前のバス停からバスに乗って、ブーヘンヴァルト収容所跡へ向かう。霧雨のような雨が降って肌寒い。途中にオベリスクという名のバス停があったので、何がオベリスクなのだろうと思って見てみると、それはパリで見たオベリスクの形をしたブーヘンヴァルト収容所の警鐘碑だった。後に収容所内の展示から、それが当初収容所に入ってすぐのところに建っていたことがわかる。バスがもうしばらく走ったところで外を見ると、鉄道の引き込み線の線路が残っている。逮捕されて、あるいは他の収容所から「移送」された者たちは、まずこの線路に乗り入れた車両からブーヘンヴァルトに降り立ったのだろう。鉄路が残っていることは、人の手で人──ただしこちらはナチスが「人間」とは認めなかった人──がここへ運ばれていたことをしっかりと印象づける。
 ブーヘンヴァルト。ブナの森。その場所は、名前が示すように深い緑の森に囲まれて現われた。時計の付いた門の向こうに収容所の跡が広がっている。門のすぐ脇にあるのは、「壕」と呼ばれていた独房の列。そこは凄まじい拷問とその末の殺害の現場だった。囚人たちは窓の鉄格子に鎖でつながれるなどして、座ったり、横たわったりすることを禁じられていたという。暖房のヒーターさえ拷問の凶器に使われたという独房は、狭い廊下を挟んで立ち並んでいる。そのいくつかには、その独房で殺されたと特定される人物のポートレートや遺品が展示されていたが、そこには訪問者によって花などが捧げられていた。折り鶴がいくつか見られたのは日本人によるものだろうが、取り返しのつかない暴力が行使された現場に、判を押したように折り鶴が置かれるのは場違いな感じがする。
 監獄施設を出て、かつては高圧の電流が流れる鉄条網で囲われていた収容所の内部へ入る。アウシュヴィッツの収容所の門に「労働は自由にする」と書かれているのはよく知られているが、ここブーヘンヴァルトの収容所の門には、「各人に各々自身のことを(Jedem das Seine)」と記されている。各人にそれぞれの本分を発揮することを許す、といった意味をもつラテン語の格言に由来し、本来は各人の人格を尊重することを義務づけるはずのこの言葉を、ナチスの親衛隊は、各人が各々の責務を果たせ、といった意味へとねじ曲げたにちがいない。ちなみにこの文句の書体のデザインを命じられたのは、バウハウスの学生だった政治犯フランツ・エーリヒで、その書体は、ナチスによって踏みにじられたバウハウスの師ヨースト・シュミットへの傾倒を、抵抗の意味を込めて示しているという。
 収容所の敷地内には、囚人たちを収容していたバラックの建物はもう残っていない。わずかに残った煉瓦の土台からその位置がうかがい知られる程度である。囚人たちは、囚われた理由や人種によって別々のブロックに分けられていて、どのブロックにどのような人々が収容されていたかはおおよそ特定できるようだ。そのいくつかには記念碑が建てられているが、なかでも目を引くのは廃墟のように石柱が立ち並んでいる中央付近の一角。近づいてみると、これは収容所で犠牲となったシンティ=ロマの人々を哀悼するモニュメントである。まちまちの方向へ聳える低い石柱には、それぞれナチスの収容所があった地名が記されていて、シンティ=ロマの人々がそこで犠牲になった、あるいはそこからブーヘンヴァルトへ移送されてきた場所を示している。その一つには赤い薔薇が手向けられていた。そこからさらに奥へ行くと、犠牲になった同性愛者に捧げる記念碑、エホバの証人や兵役拒否者で犠牲になった人々の記念碑が見られる。
 収容所の一番奥に目を遣ると、建物の土台のような形をしたモニュメントがある。それは「小バラック(Das kleine Lager)」と呼ばれていた収容施設の犠牲者に捧げられたもので、このバラックには、とりわけ大戦末期に、アウシュヴィッツをはじめポーランドなどの収容所から送られてきたユダヤ人をはじめとする人々が、劣悪な衛生状態のもと、すし詰めに収容されて、緩慢な虐殺の場──なかには「地獄のバラック」と呼ばれたブロックもあったという──ともなった。ソヴィエトの赤軍によって解放された収容所を視察に訪れた連合国の代表団が、ナチスの暴虐の証拠として公開した、飢えて衰弱しきった姿の元囚人たちの写真が撮られたのもこのバラックだった。しかしその後、バラックの建物は放置され、荒廃の一途をたどったようだ。東西ドイツの統一後にようやく現在のモニュメントが建設され、そこにはこの「小バラック」に収容された人々のことが各言語で記されている。
 そこからかつての鉄条網沿いにしばらく歩くと、大きな建物が見えるが、これは囚人から奪った衣服や装飾品などが貯蔵されていた倉庫で、そこには現在、収容所の歴史を、当時の遺物や犠牲者たちの遺品とともに概観できる展示がある。その隣には消毒施設があり、そこには現在、囚人として収容されていた人々が、収容中に作った、あるいは解放後に制作した芸術作品、さらにはこの収容所に触発されて作られた現代の作家たちの芸術作品が展示されている。抵抗の表現の一つとして収容生活のなかで作られた作品も胸を打つが、解放後に収容所のことを伝えようとして作られた作品も印象深い。たとえ生き残って収容所のことを語ったとしても誰も信じてくれまいとうそぶいた親衛隊員の話がプリーモ・レーヴィによって伝えられているが、それに抗して、さらには言語を絶する状況を伝えるために、生き残りたちは新たな表現方法を模索しなければならなかったという。それは、それ自体語りえないことを記憶するときに、いや証言することそれ自体に課せられる課題ではないだろうか。そして、記憶する表現のありようを模索することは、今なお課題であり続けているにちがいない。犠牲者一人ひとりの顔と名前が、その生の記憶とともに迫ってくるかのようなインスタレーションも興味深い。
 このように芸術作品が展示されているかつての消毒施設を出て、今度は収容所の歴史の展示へ向かう。収容所の成り立ちと仕組み、収容所での生活とそこでの親衛隊の暴力、それに対するさまざまな抵抗、大戦末期の、「強制労働による虐殺」と呼ばれた収容所外労働、解放と収容所の終わり、といったセクションに分かれていて、それぞれの展示は重い鉄のケースに収められている。ここで行なわれたことの重さをそれ自体として感じさせる展示である。基本的には記録文書をはじめドキュメントにもとづいた展示で、生存者の証言なども引用されてある。印象的だったことを拾ってみると、強制収容所がヴァイマール近郊に設けられたのは、ナチスを、そしてナチズムを、ヴァイマール共和国の誕生の地に植えつける狙いもあったようだ。また、生存そのものが暴力に対する抵抗であるなかで、それぞれの技能を生かしたさまざまな抵抗の方法が収容所内で編み出され、組織されていったのも興味深い。生存と抵抗のための連帯があったこともうかがえる。それから、ドイツにとって戦況が悪くなると、囚人たちが兵器生産のための労働に駆り出されたわけだが、おもにイギリスへ向けて発射されたV1ロケットの製作も囚人たちの手で行なわれていたようで、その残ったエンジン部が展示されていた。実物の展示では他に、移動可能な絞首台、死体を運んだというワゴンが生々しい。大戦末期には、過酷な労働と栄養状態の悪化から死んでゆく囚人が増えることになるが、そのなかには『集合的記憶』の著者であるモーリス・アルヴァックスも含まれていたという。
 上の階でたまたま展示していた写真をひと通り見て、ついにクレマトリウムへ。それは収容所の門にほど近い場所に建てられている。このことがすでに、収容所に住むことなく虐殺されていった者たちの存在を物語っていよう。死因を隠蔽するための工作が医師の手で行なわれていたという部屋と、医師の控え室とを通り抜けたところでドアを開けると、思わず息を飲んだ。暴力の犠牲となって死んだ人々を焼き続けた窯が口を開けている。名を奪われ、声を奪われ、身体を奪われ、命を奪われた者たちが、このなかで骨となり、灰となり、煙となっていったのだ。暴力の極点を間近にして言葉を失うほかはない。
 さて、クレマトリウムは地下へも入れるようになっていて、そこは基本的には死体置き場だが、同時に処刑場としても使われていて、絞首革を掛ける鈎が今も残されている。そこに佇むと、無数の死がのしかかってくるかのような空気の重さを感じないではいられない。死体を火葬窯の前へ持ち上げるリフトが、この場所の禍々を、これでもかと言うほどに強調している。いたたまれなくなって地上にあがると、さらに馬小屋に入れるようになっている。そこも虐殺の舞台となった場所だ。8000人に及ぶソヴィエト・ロシア軍の捕虜がここで射殺されたという。
 重い気持ちを引きずりながら外へ出ると、すでに時刻は午後4時を過ぎている。残された時間を使って、戦後ブーヘンヴァルト収容所がソヴィエト・ロシアの収容所として使われていた歴史の展示を見ることにした。1950年までのあいだに、劣悪な環境と栄養状態のために多くの者が多くの者が命を落としたばかりか、ロシア本土での強制労働へ送られた者もいたことがわかる。ただ、そのことは東ドイツ時代にはタブーだったとのこと。統一後にようやくその真実の解明が始まったようだが、それはややもすればナチスの暴力を相対化してしまう危険も含んでいる。そのような困難も見据えながら、過去の出来事と向き合わなければならないのは間違いないし、その作業はまだ緒に就いたばかりなのだろう。
 とくに印象深かった芸術作品の展示のカタログを買い求め、1時間に1本しかないバスに乗ってヴァイマールの市街中心へ戻る。本当はレベッカ・ホルンのインスタレーションを見たかったのだが、間に合いそうにないので、市外をしばらくぶらついてから、図書館のホールで行なわれるというバウハウスについての講演を聴くことにする。バウハウスがヴァイマールに創立されて今年で90周年。そのため、さまざまな催しが行なわれるようだが、この講演もその一環と言えようか。「ユートピアの誕生」と題された講演はバウハウスの創立に焦点を当てたもので、バウハウスは、当然ながらヴァルター・グロピウスを父として、19世紀後半のイギリスに端を発する、工芸の実践と教育を重視する新たな芸術運動を母として、壮大な総合的建築という理念、このユートピアを志向する共同体的実践の場として生まれたという趣旨のもので、とくに目新しい内容のものではない。「バウハウス・スタイル」の世界化に抗して、バウハウスの初期の精神を確認しようという、郷土愛のこもった講演なのかもしれないが、正直それほど面白くはなかった。ただ、バウハウスという芸術運動における「建てる」ことの意味は、ベンヤミンの「経験と貧困」におけるガラス建築の理念と接続させながら、かつハイデガーの同じ主題での講演と対照させながら、掘り下げる必要があるかもしれない。ディスカッションの途中で会場を後にし、スーパーで飲み物を買い求めてバスで宿へ帰る。さすがに疲れ切ってしまった。

Img_0348
Img_0374
Img_0368

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月23日 (水)

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記I

【成田空港にて】
 広島空港の保安検査が大変な混雑だったせいもあって、およそ10分の遅れで成田空港に到着。それにしても、広島空港のあの混みようはいったい何だったのだろう。「シルバーウィーク」と喧伝された連休のUターンラッシュだろうか。それにしては帰るのが早過ぎる気もしないではない。明日まで使って東京で遊ぼうとでもいうのだろうか。ともあれ、7:35発の二つの東京行きは両方とも満席だったろう。おかげでチェックイン・カウンターの前にも、保安検査場の前にも長蛇の列。もう少し間隔を開けて出発できないものか。チェックインの際に前に並んでいた、シカゴ経由でオハイオの田舎へ遊びに行くというおじさんが言っていたように、6時台から飛ばすことも不可能ではないはずだ。もちろん、そんなフライトに乗るのは個人的には願い下げだけれども。空港職員に申し出なければ、もしかすると成田行きのフライトに間に合わなかったかもしれない。
 さて、これからスカンジナビア航空でコペンハーゲンを経由してベルリンへ飛び、ベルリンに降り立ったら今度は鉄道でヴァイマールへ向かう。ヴァイマール到着は日付が変わって0:45となかなかハードな移動になるが、限られた日程のなかで一日かけてブーヘンヴァルト収容所跡を見て回るためには致し方ないところ。明日はブーヘンヴァルト収容所跡と附設の博物館をしっかり見ることにしよう。ナチズムが、そのイデオロギーにもとづく法が「人間」と認めなかった者たちから、名を奪い、声を奪い、身体を奪い、その果てに生命を奪い去った暴力の現場の廃墟を。この暴力の痕跡を。そして、この暴力の記憶が、今どのように想起され、表象されているのかを。第二次世界大戦後もソヴィエト・ロシアの刑務所として使われたというこの収容所を覆い尽くした暴力の凄惨さに思いをいたすとともに、その暴力の現場だった場所で記憶が、とりわけ集合的な記憶がどのように機能しているのかも見届けてきたい。ヴァイマール市街へ戻った後は、ヴァイマール市電車庫跡に展示されているというレベッカ・ホルンの「ブーヘンヴァルトのためのコンサート」をぜひ見てみたいものである。この記憶の芸術は、ブーヘンヴァルトの名を知る者に、どのような記憶を喚起するだろうか。
 成田空港へ着いてみると、コペンハーゲン行きのフライトは30分の遅れとのこと。おかげで慌てずに金策を整えられたし、コペンハーゲンでの乗り継ぎには十分な時間があるので、旅程そのものに支障はないが、これからの旅の多難を予感させなくもない。どういうことが待ち構えているかわからない──とくにポーランドへは初めてなので、一抹の不安がある──が、まずは気力を充実させなければ。
【コペンハーゲン・カストルプ国際空港にて】
 出発は30分以上遅れたのに、コペンハーゲンに着いたのは定刻の10分も前。追い風に乗ったということだが、それにしても早い。スカンジナビア航空のパイロットは時にこういうことをしてくれる。離着陸もすこぶるスムーズだ。パイロットの技量の水準がかなり高いのだろう。
 そのあたりが変わらないのは嬉しいことだが、機内サーヴィスの水準が下がったことは否めない。それが如実に表われるのはやはり機内食。前回使ったとき、それなりに好印象だっただけに、今回はかなりがっかりとさせられた。昼食に出てきたのは、漬け物の巻き寿司とバッテラを盛り合わせたのを前菜代わりに、和風とも中華風ともつかない中途半端な味の鶏肉の煮込みに、ショッキングなことに幕の内弁当のようなご飯を付け合わせた一皿。夕食は、お決まりの伸びきって固まったそばに、ソースのべっとりついたメンチカツの挟まったサンドイッチ。そしてデザートは、シロップをたっぷり吸った缶詰フルーツに、何とグリコのポッキーときたものだ。凄まじい取り合わせで不味いばかりでなく、野菜不足な上に、食後感が悪い。おまけに、機内のエンターテインメント・プログラムが不具合を起こして、二度もリセットしていたのも、個人的にはほとんど影響を受けなかったとはいえ、印象を悪くしたし、キャビン・アテンダントが概してつっけんどんで、命令口調だったのも感じが悪い。それに、どうも日本人と北欧人とではサーヴィスに差があるように思えてならない。同じ側のデンマーク人には食事が早く供され、しかもメニューに選択の余地があるのはどういうことなのか。
 それから、エコノミー・クラスでは、アルコール飲料は2本までは無料で提供されるが、それから先は有料(1杯につき4ユーロ:約540円)とのこと。機内で大酒を飲むつもりはないので、それ自体はかまわないのだが、何となく印象が悪い。これもコスト削減の一環で、運賃を安く保つための努力としてご理解ください、という言い分なのだろう。昨年の石油高騰に、金融恐慌に端を発する世界的な不況の煽りを食って、スカンジナビア航空がこうしたコスト削減策を打ち出さざるをえなかったのは理解できるとしても、そのしわ寄せが最終的に行き着くのが、経済的な危機に生身で曝されているはずのエコノミー・クラスの乗客であるというのは釈然としない。支払い能力の有り余っているビジネス・クラスの乗客に、それなりの金を払わせて、それなりのサーヴィスを提供すればよい話ではないか。その余裕がないのなら、エコノミー・クラスで出張すればよいことだ。ビジネス・クラスとエコノミー・クラスを隔てる赤いカーテンがいつになく分厚く見えた。
 さて、ベルリンまでのフライトまではあと2時間。予定通りにテーゲルに着いて、無事ヴァイマール行きの特急に乗れるだろうか。空港から中央駅までは、TXLのバスで直行できるようだ。それにしても、このコペンハーゲンの空港、乗り継ぎ先の便のゲート番号が出るのがいつも遅い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 8日 (日)

ベルリン放送交響楽団演奏会

 2月7日、岩国駅近くにあるシンフォニア岩国で開催されたベルリン放送交響楽団の演奏会を聴く。指揮は、このオーケストラの音楽監督を務めるマレク・ヤノフスキ。この組み合わせ、今から4年ほど前にベルリンのフィルハーモニーで聴いたことがある。そのときはR・シュトラウスのアルプス交響曲で、フィルハーモニーの舞台を埋め尽くす大編成のオーケストラが見事なアンサンブルを聴かせてくれたのだった。その記憶もあって楽しみに出かけた。
 プログラムはすべてベートーヴェンの中期作品で、最初に演奏されたのは「エグモント」序曲。ヤノフスキは、最近しばしば見られるように、ピリオド楽器での演奏を意識して弦楽器の人数を減らしたり、ピリオド楽器の奏法を取り入れたりはしない。フル編成のオーケストラをしっかりと鳴らしきる。それがむしろ小気味よいくらいだった。序奏部での弦楽器のユニゾンは、各セクションの緊密なアンサンブルと相まって、風圧が伝わってくるような響きで、そう、このような響きを聴きたかったのだ、と思ったくらい。とはいえ、緻密な構成力に定評のあるヤノフスキのこと、けっして豪放さを強調する方向へ走ることはない。バスがどっしりと座ったピラミッド型の音響をベースに、ダイナミクスの違いをきちんと描き分けていたのが印象的だった。そのバスが肺腑をえぐるようにクレッシェンドを主導するのが、この作品にはとくにふさわしく、主部のクライマックスの悲劇性をより深いものにしていたように思う。内声部のリズムの躍動感も素晴らしく、それが音楽に推進力を与えるとともに、壮麗なコーダをより感動的なものにしていたのではないだろうか。一曲目からして聴き応え充分であった。
 次にヴァイオリン協奏曲が演奏されたが、独奏を担当した樫本大進は、第二楽章まではとても小さく見えた。第一楽章では、オーケストラの響きの深さに、樫本の表現が拮抗しえていなかったように見える。独奏が登場する最初の上昇音型のパッセージからして、高音が今ひとつ輝かない。オーケストラがトゥッティで演奏するなかで弾くときなど、自分の音を引き立たせようとすればするほど、表現が縮こまってしまったように見える。細部に工夫の跡が見られるだけに惜しまれる。ようやくカデンツァに入って、解き放たれたかのように、伸びやかな音で素晴らしい技量を聴かせてくれた。第二楽章以降は、オーケストラの響き自体が少し薄くなることもあって、樫本の音は輝かしさを増したように思う。とくにフィナーレは、全体として感興と躍動感に満ちた演奏に仕上がっていた。ただ、緩徐楽章での樫本の表現はいささか表面的に流れた感があり、伴奏のオーソドックスなアプローチと対比して少しちぐはぐな印象を受けた。もしかするとそのあたりが、第一楽章で「小さく」なってしまった要因かもしれない。
 さて、休憩後に演奏されたのは第5交響曲。全体として、フォルテとフォルティッシモの音量を明確に区別しながら、引き締まった響きとテンポで全体を運んでいたが、実際に聴いているあいだは、そのような演奏として対象化されている印象はまったく受けない。あの単純な動機を積み重ねることで構成された音楽に自然に身を委せ、リズムの躍動を肌で感じ、それがクライマックスへ突き進むのに胸を熱くすることができた。そのように音楽そのものが伝わるのは、ヤノフスキとベルリン放送交響楽団の楽員が、このあまりにも知られた作品の内実を共有しているからだろう。両者は特別なことは何ひとつしていない。ただ、書かれている音をこの両者なりに音にしきっているだけである。そのことが、音楽そのものの構成によって生そのものの力強さと一体となったベートーヴェンの音楽として、聴衆の心を動かしうることを、あらためて実感させられた。とりわけ、内声部でリズムを刻む一音一音もおろそかにすることなく弾ききって音楽に献身する姿には心打たれる。また、全曲を通してファゴットが素晴らしい演奏を聴かせてくれた。これを含めたバスの声部が、一歩一歩大地を踏みしめながらクライマックスへとひた走る音楽の推進力とリズムの躍動感を支えていたことはいうまでもない。これほど堅固でありながら、音楽の喜びに満ちたベートーヴェンが聴けることは、めったにあることではないだろう。
 アンコールには、第8交響曲の第2楽章が演奏された。こちらは、先の曲よりも解き放たれた感じで、楽員たちもいっそう伸び伸びと演奏していたように見える。感興に満ちた素晴らしい演奏だった。
 これほどのベートーヴェンが聴けるのに、聴衆が少なかった(前二列くらいごっそり空いていた)のは非常に惜しまれる。また、この会場に海外のオーケストラが来るのは4年半ぶりとのこと。ホールの響きはそう悪くないだけに、これも寂しい気がしてならない。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月30日 (金)

広島Van弦楽四重奏団第3回演奏会を聴いて

 広島交響楽団の弦楽器奏者で構成される広島Van弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲演奏シリーズは、今最も楽しみにしている演奏会の一つである。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲が16曲すべて演奏されること自体、きわめて稀なことであるうえ、その実演に接するなかでこそ、作曲家が弦楽四重奏曲という非常に抽象度の高い形式に込めた深い思索を、あるいは情熱やユーモアを、肌で感じることができるのだから。そして、回を追うごとにアンサンブルが成熟していくのに立ち会える喜びも、このシリーズならではのものであろう。
 去る5月18日に行なわれた第3回演奏会では、第4番(ハ短調作品18の4)と第13番(変ロ長調作品130)の二曲が取り上げられたが、とくに後者の変ロ長調の四重奏曲の演奏からは、アンサンブルの成熟が一つの充実した音楽に結実しているのを聴き取ることができた。アレグロの楽章では、後期作品の厳格な形式性を保ちながらリズムが躍動し、緩徐楽章では、豊かな響きのなかに深々とした歌が浮かび上がる。この第13番の演奏によって、四重奏団のベートーヴェンの作品へのアプローチも明確になったのではないだろうか。奇を衒うことなく、ひとつひとつの音をしっかりと響かせることによって、音楽そのものに語らせようとするアプローチ。それによってこそ、ベートーヴェンが弦楽四重奏のために書いた最も美しい楽章と言われるカヴァティーナが深沈と響くし、晩年の彼独特のほろ苦いユーモアも、皮相に流れることがない。
 情熱をもって各フレーズを明確に描き取っていく鄭英徳のヴァイオリンがひときわ印象に残るが、それを支える各声部の充実ぶりにも目を見張らされる。もう一歩踏み込んだ表現を求めたい箇所もないではなかったが、これほど完成度の高いベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲の演奏に接することができたことを、まずは率直に喜びたい。また、広響の忙しいスケジュールの合間を縫って、ベートーヴェンの作品に真摯に取り組む四人に、心からの敬意を表したい。弦楽四重奏を志す者が一度は登ってみたいと思う険しく聳え立つ山の頂を、手を携えて目指す四人を応援しながら、16曲の弦楽四重奏曲を聴き通す歩みをこれからも続けようと考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月17日 (日)

ザルツブルクとミュンヘンへの旅

 このウェブログに一年以上も何も書かなかった。物理的に書く時間がまったくなかったわけではないけれども、自由に書きたいことを書くだけの心の余裕がなかったのだ。昨年は、原稿の執筆、学会での発表、翻訳の仕事、ヒロシマ平和映画祭をはじめとする広島での文化的な活動(第2回となるヒロシマ平和映画祭2007については公式ウェブ・サイトをご参照いただきたい)、そしてもちろん講義をはじめ大学の仕事で非常に慌ただしかった(こうした活動の記録についてはわたしのウェブ・サイトの記録をご参照いただきたい)。さらに7月には、初めての子どもである娘の美音が生まれ、子育てにも忙しくなってしまったのだ(美音の成長記録についてはこちらのウェブログを)。そうした忙しさに振り回されてしまった、というのが正直なところである。たしかにこうした忙しさのなかに、これからの仕事の糧となる貴重な経験があったのは間違いないのだけれども、今のところそれを反芻するだけの気持ちの余裕をもつことが未だできていない。何よりも、昨年中に読んだ本、聴いた演奏会、足を運んだ展覧会、そして今までになく数多く見た映画についての考えをまとめることができないでいるのが悔やまれてならない。
 2008年もそのような慌ただしさを引きずったまま始まってしまい、早いものでもう50日が経とうとしている。そのようなか、後期の講義が終わったところで、妻とミュンヘンとザルツブルクへの短い旅行へ出かけた。主たる目的はザルツブルクで毎年モーツァルトの誕生日の1月27日を中心に行われる音楽祭モーツァルト週間のいくつかの演奏会を聴くことで、今回は2泊3日の滞在期間中に4つの演奏会を聴くことができた。なかでも最近活躍のめざましいマルク・ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの演奏会は鮮烈な印象を残した(モーツァルト週間2008の演奏会の報告についてはわたしのウェブ・サイトをご参照いただきたい)。
 今回の旅行ではフライトに成田からのミュンヘン行き直行便を使い、到着した日と出発する前の日にはミュンヘンに泊まった。ミュンヘンとザルツブルクの間は特急列車で1時間半ほどと近いし、妻がミュンヘンの街を見たことがなかったからである。ミュンヘンでは、空いた時間を利用して、古典絵画の宝庫とも言うべきアルテ・ピナコテークと、カンディンスキーをはじめとする「青騎士」の精華が展示されているレーンバッハハウス・ギャラリーを訪れた。前者ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンの祭壇画の静謐な美しさや、デューラーをはじめとするドイツ古典絵画の力強さに打たれ、後者ではマルクの動物をモティーフとした絵の色彩のユートピア的とも言うべき美しさに心を動かされた。ちなみに、レーンバッハハウス・ギャラリーの各展示室の内装は、それ自体が現代美術家によるインスタレーションのようになっていた。20世紀の古典を21世紀の今と呼応させようというのだろうか。
 ミュンヘンを発つ前の夜には、ガスタイク文化センター内のフィルハーモニーで、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴いた。指揮はドイツの中堅マルクス・シュテンツで、前半は現代イギリスの作曲家トーマス・アデスの「アシュラ」、後半はハイドンの第22番と第100番の交響曲というプログラムであった。最初のアデスの曲が始まる前に、指揮のシュテンツがマイクを手に、曲の構成を聴衆に紹介していた。なかなかウィットに富んだコメントで、これなら現代音楽を聴き慣れていない聴衆も作品の世界に入って行きやすいだろう。演奏そのものも、今のミュンヘン・フィルの機能性を最大限に生かしたもので、リズムの躍動感と響きの見通しのよさを見事に両立させていた。
 後半の最初に演奏された、「哲学者」という表題で親しまれるハイドンの第22番の交響曲では、管楽器として珍しく2本のコーラングレが加わり、第一楽章ではそれとホルンの対話が聴きどころとなるが、シュテンツは両者を舞台の両端に配して、山を隔てて呼応しあうかのような対話を際立たせていた。それ以外の楽章の音楽の運びは、きびきびとしていて聴いていて心地よい。
 最後に演奏された第100番の「軍隊」交響曲の演奏は、基本的にはオーソドックスなアプローチで洗練された様式性を提示するものであるが、ところどころでハッとさせる間を取ったりして、かなり強烈な諧謔を表現するものでもあった。フィナーレの高揚感も素晴らしく、ハイドンを聴く喜びを存分に味わわせてくれる演奏だったと言える。一つ全体的に気になったのは、ホールの残響が非常に長いせいか、ひとつひとつの音のエッジがぼやけてしまったこと。それによって曲の輪郭も少し曖昧になってしまったように思えてならない。
 演奏会のはねた後、聖母教会近くのニュルンベルク風の焼きソーセージを食べさせる店に立ち寄ったが、これが強烈にバイエルン的な雰囲気を押し出す店でまったく落ち着けない。バイエルンよりはベルリンやその周辺の街のほうが、わたしにはしっくりくるようだ。

| | コメント (0)

2006年11月25日 (土)

「シラノ・ド・ベルジュラック」広島公演

 11月22日、広島市内のアステールプラザ中ホールで行なわれた、新国立劇場と静岡県舞台芸術センター(SPAC)の共同制作による「シラノ・ド・ベルジュラック」の公演を見に行く。演出は、SPACの芸術総監督を務める鈴木忠志。鈴木は、基本的にはエドモン・ロスタンの原作の戯曲を下敷きとしながらも、そこに自由な翻案を付け加えることによって、一つの生き方の美学が提示される舞台を、力強く表現しようとしていた。とりわけ「武士道」的な「男」の「心意気」の美しさと、それを際立たせる「和」の美とが強調されていたが、それを額面どおりに受け取ってしまうなら、ロスタン描くシラノのうちに鈴木が見て取ったもののアクチュアリティを見損なってしまうことになろう。
 鈴木の演出では、大きな鼻をもち、それにコンプレックスを抱く剣豪シラノは日本人の姿をしている。日本人喬三の幻想がそのまま「シラノ・ド・ベルジュラック」になるというのが舞台の基本的な設計なのだ。それゆえ、登場人物の名は原作のフランス人の名前ではあるが、その服装も立ち振る舞いも江戸末期を思わせる。実際シラノが率いるのは、新撰組のような「青年隊」であり、その一人として、シラノが密かに思いを寄せるロクサアヌを恋する美貌の青年クリスチャンが登場するのである。
 シラノは、女性を前にすると言葉を失ってしまうクリスチャンの代わりに恋文を書き送り、やがてその恋文ゆえにロクサアヌはクリスチャンを愛するようになる。しかし、クリスチャンは、危険を冒して戦場へやってきたロクサアヌの言葉を聞いて、彼女が愛しているのは自分ではなく、シラノの言葉であることを悟り、みずから進んで戦死してしまう。その後、ロクサアヌが尼寺へ入って14年の歳月が経ったある日、彼女がシラノの許を訪れて、クリスチャンの告別の手紙を見せると。シラノはその手紙をそらんじている。クリスチャンから送られたすべての愛の手紙の書き手はシラノであり、シラノこそが彼女を愛していたのである。
 しかし、そのことをシラノはロクサアヌにけっして告白しない。その秘密を棺桶にもって入ること、それこそが「武士」の「男」の「心意気」なのだとシラノは、幕切れ近くの決め台詞を吐くのだが、それは現在の人間から失われつつあるものの所在を指し示しているのかもしれない。地球規模の情報通信網が日常生活に浸透したなかに生きる人間は、情報を発信し、他人とコミュニケーションを取り結ぶことで、自分を絶えずさらけ出している。そうして自分を見えるものにすることによって、情報通信網をつうじて身体のすみずみを、さらには身体をその内側から統御しようとする権力の枠組みにますます深く絡め取られてしまうのだ。こうして人間は、自由を謳歌しているように思いつつ、自由である余地を確実に狭めているのである。そのような状況において自由は、秘密を語らないこと、そうして見えない領域を残すこと、つまり他者にとって他者であり続けることのうちにこそある。シラノの最後の独白は、そのことを暗示しているように思われるのだ。とすれば、この舞台が提示しているのは、けっしてステレオタイプ化された「武士道」の「心意気」などではない。それはむしろ、一つの自由な生存の美学を示しているのである。
 こうした生存の美学を表現するのに動員された身体表現も、舞台装置も、全体的には非常に洗練されたものであったが、個人的にはやや過剰と思われるところもあった。まず、今や「スズキ・メソッド」とも呼ばれる方法で訓練された俳優たちの身体表現は、驚くほどの完成度を示していたけれども、どこか様式化されすぎていて、恋物語の表現としては堅苦しい印象は否めない。それが絶えずまくし立てるかのような文語調の台詞と組み合わさると、舞台からの表現の押し出しがあまりにも強くなってしまい、観客の側が劇の世界へ入るのが難しくなってしまう。また、舞台後景に咲き乱れる花はほんとうに必要だったのだろうか。満開の桜があるだけでもよかったのではないか。あまりにステレオタイプ化された日本的ジェンダーや「和」のイメージを強調するような演出も気になったところである。それから、「シラノ」の純愛と「椿姫」のそれを重ね合わせたい鈴木の気持ちもわからないではないが、音楽は尺八とヴァイオリンの独奏だけでよかったのではないだろうか。
 「スズキ・メソッド」による様式化された身体表現や発声法は、「シラノ・ド・ベルジュラック」の恋よりはむしろ狂気(終演後のアフター・トークで鈴木は、戯曲の主人公は殺人犯を含む犯罪者か狂人だと語っていた)を描くのに向いているように思う。静岡で見た「リアの物語」では、身体表現と台詞が狂気の鬼気迫る表現に結実していた。シェイクスピアの「リア王」を下敷きにした細川俊夫のオペラを、広島で鈴木の演出と作曲者細川自身の指揮で見てみたいと思うのはわたしだけだろうか。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006年10月21日 (土)

ベルリン旅日記:10月20日

 今日の夕方の飛行機でベルリンを発って帰国するので、スーツケースを引きずりながらベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ向かう。これまでほとんどずっと晴れていたのだが、今日ばかりは天気が悪く、朝から半ば霧雨のように小雨が降っていた。
 この日のベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムは、デートレフ・シュテッカーの基調講演で幕を開けた。「ウィトゲンシュタインを読むベンヤミン」と題されたその講演は、豊富な資料を駆使して、ベンヤミンがウィトゲンシュタインの存在を意識していたことを示していたが、二人の言語哲学に深く分け入るものではなかった。両者がともに、主観的な志向を越えたものとして言語をとらえようとしているのは確かだとしても、それが「体系」であるというシュテッカーの見解も首肯しがたいところである。言語の生成を活性化させようとするベンヤミンはとりわけ、言語を「体系」としてとらえる考えからは遠いはずだ。その講演が終わった後、ベンヤミンにおける聴覚的モティーフをテーマとする分科会に参加する。ベンヤミンのエッセイに描かれるノイズや音響が、時の流れを中断しながら想起を誘発していることを際立たせ、ベンヤミンにおける想起をそうした音への応答として描くアンヤ・レムケの発表がとりわけ印象的であった。書物における声の救出というモティーフを主題としたクリスティーネ・イヴァノヴィチは、発表の最後に、ベンヤミンの思い出をアドルノやブロッホといったかつての友人に語らせる自由ベルリン放送のインタヴューを、ややラップ風に編集したものを聴かせてくれた。会場は大受けであった。
 午前のプログラムが終わったところで会場を後にし、テーゲル空港へ向かう。フランクフルトから成田へ行く飛行機が取れなかったので、今回はエール・フランスの便でいったんパリへ向かい、パリから成田へ飛んだ。そのあいだベルリンの新聞ターゲスシュピーゲル紙を拾い読みしていたが、「ベルリンは貧しくない」、「それゆえ連邦政府の特段の補助を必要としない」という憲法裁判所の判断に対する反応がほとんどの紙面を占めている感じである。ベルリンが自活していかなければならないとすれば、文化事業や社会事業の「節約」が当然強いられるわけだが、なかでもまず問題となるのが社会福祉事業の縮小である。新たな経済的格差が社会を引き裂いていること、さらに希望をもてなくなった人びとが子どもを虐待したりといったことが毎日問題となっているだけに、社会福祉の緊縮は、こうした格差の問題を放置することとも見られかねない。他方で文化をより開かれたものにすること、つまり教育を受け、芸術に触れる機会を広げることもけっして軽視されるべきことではないはずだ。あるコラムのなかに、「本を読み、じっくりと考え、そして劇場へ出かける者は、貧しいかもしれないが「下層」ではない」と書いてあった。経済的な所得はけっして多くなくとも、生の芸術に触れ、生きることの奥行きを感じ、その意味を噛みしめることができること。そのことは、奥深いところで生きていることを喜び、生きることに希望をもつことにつながるはずだし、また「階級」や「階層」を突破しながら生きることを変えることにもつながるはずだ。その可能性は、ベルリンにおいてはある程度確保されていよう。そして、芸術の経験をつうじて生きることを内側から変成させる可能性をすべての人びとに対して開いてゆくことは、「格差社会」化が語られるようになって久しい日本に生きるわたしたちに今課せられている課題でもあろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月20日 (金)

ベルリン旅日記:10月19日

 今日も午前中から国際ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムに参加する。午前中の基調講演を担当したベルント・ヴィッテは、文化的な記憶、そしてその伝承がいかにその媒体に依存しているかを論じていた。伝承の媒体が歴史的な人間の言語となり、それとともにたとえばユダヤ教のトーラーが無限に解釈可能となったことを「ディアスポラ」と結びつけていたあたりは興味深かったものの、物語的な伝承、印刷された文字、近代国家の記念碑的建築と変化していった記憶の媒体が、20世紀に至って文学となり、今やその注釈に文化的な記憶の伝承がかかっているとする議論は、制度的な学問としての文学研究の自己正当化を志向しているように思えて、ややついて行きがたい。
 ベンヤミンの哲学の反体系性をテーマとする分科会へ行ってみると、二つの発表がキャンセルされたようで、発表は一つだけ。若いベンヤミンのソクラテス批判を取り上げながら、ベンヤミンが評価するプラトン的対話を「トラクタート」の概念と結びつけようとするものだったが、対話ということとベンヤミン自身の方法とを接続されるためには、もう少し詰めておかなければならないことがあるように思われた。それに続いて昨日の発表者を交えて討論が行われた。若い研究者たちが今ベンヤミンを読む可能性を熱く論じあう姿に触れることができたのは貴重な経験だったし、またその該博な知識にも驚かされた。それに比べたら自分はまだまだ勉強不足である。
 いったん宿に戻って少し本を読んだりした後、今度は国立歌劇場のアポロザールへベンヤミン・フェスティヴァルの午後のプログラムを聴きに行く。室内楽の演奏会やオペラ公演のアフタートークの会場として用いられることの多いこのホールで、ジョルジョ・アガンベン、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ステファヌ・モーゼスという世界的に知られた三人の哲学者の講演が行なわれるわけである。
 会場で空席を見つけて座ると、一列後ろの女性が携帯電話で「アガンベンは病気よ」と話している。ジグリット・ヴァイゲルによれば、アガンベンは今朝になって突然来られないと連絡してきたとか。病気か仮病か定かではないが、アガンベンが今ベンヤミンについて何を語るか楽しみにしていただけに残念である。とはいえ、ディディ=ユベルマンの講演もモーゼスの講演も興味深かった。とくに、コソヴォで撮られた家長の死を悲しむ家族の写真をモデルに制作されたレリーフを例に用いながら、その未完結性によって一回的で特異なものの記憶を甦らせるイメージの可能性を論じたディディ=ユベルマンの講演は、現代にベンヤミンを生かす道を説得的に示していたように思う。「パサージュ」としての、あるいは「根源」としてのイメージ、その反復、そして複製のうちに一回的なものが新たに見いだされるのだ。それを媒介する「解読」は、ディディ=ユベルマンによると「イコノロジー」の対極にあるという。モーゼスの講演は、ベンヤミンのうちにユダヤ神秘主義の伝統の継承を見て取りながら、『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」に見られる「原聴取」の概念が代表する聴覚的なモティーフがベンヤミンの思考のうちに一貫して見られることを強調するもの。ベンヤミンとショーレムがバベルの塔の建設と結びつける堕罪とともに失われた根源的な真理を聴覚的に復元しようという志向が、ベンヤミンの思考を貫いているというのである。
 夜はフィルハーモニーへベルリン・フィルの演奏会を聴きに行く。指揮はサイモン・ラトルで、シューマンとブルックナーの第4交響曲というプログラム。シューマンの第4交響曲は、1841年の初稿で演奏された。ちなみにブルックナーは、1878/80年のノーヴァク版。シューマンの第4交響曲を、楽章のテンポがイタリア語で記されている初稿で演奏すること自体、ラトルのシューマンへのアプローチのありようを示しているのかもしれない。ラトルは、少なめの弦楽器の編成で見とおしのよい響きをつくりながら、リズムの躍動を強調していたように思う。とりわけ、第1楽章と終楽章の主部における音楽の生命感には瞠目させられたし、第1楽章のコーダへ向かうテンポの運びもスリリングであった。目まぐるしくテンポが変化するなかでも響きを濁らせることのないベルリン・フィルの合奏能力にも、あらためて驚嘆させられる。とはいえ、リズムの躍動に力点が置かれるぶん、音楽の横の流れは後退し、それとともにこのシューマンの作品全体を貫く、そこはかとなく暗い緊張感も薄れてしまう。ラトルの指揮だと、すべての音が表に出てしまって、シューマンの音楽に必要な響きの奥行きと潤いが失われてしまうのだ。それゆえ、どのフレーズもたしかによく歌われているのだけれど、表情がどこか明るすぎてしまう。第3楽章まで短調で書かれているのを忘れてしまうくらい。また、スケルツォとフィナーレには、音楽の流れに実によくはまったルバートが見られたが、表現として少し表面的な感じも否めない。生命感に満ちた、鮮やかな、しかしあまりにも晴朗なシューマンだった。
 ブルックナーでは、ラトルの細やかな音楽づくりが印象に残る。メロディーに応じてトレモロの伴奏にも実に細かくダイナミクスの変化が付けられていたし、転調に応じて響きもさっと表情を変える。それによって、「ロマンティック」と作曲者自身が呼んだこの作品に特徴的なメロディーの美しさが引き立つのである。朗々としたソロを聴かせてくれたホルンをはじめ、管楽器奏者の巧さも光る。いや、管楽器のソロ以上に輝いていたのは、ヴィオラ・セクションのアンサンブルであろう。一本の楽器で弾いているように聴こえるほどのまとまりを見せながら、温かい深みをもった響きで、第2楽章の長いメロディーを見事に歌いきっていた。その心に響く深い余韻も忘れがたい。
 ラトルは、シューマン以上にブルックナーを自分のものにしているようで、音楽の運びに余裕がある。基本的にゆったりとしたテンポを取りながらも、音楽の流れが停滞することはないし、逆にテンポが速められても、性急さを感じることはない。間の取り方も実に自然だった。響きは、シューマンのときと同様、晴朗な鮮やかさが支配的である。迫力あるフォルテのトゥッティの響きも、晴れやかで見とおしがよい。各セクションの動きも生き生きとしていて、そのことが音楽の躍動感を高めている。そのことがとりわけプラスにはたらいていると思われたのが、第3楽章のスケルツォ。リズムの躍動と響きの解像度をこれほどの水準で両立させた演奏は耳にしたことがない。第1楽章も、晴れやかな喜びに満ちていて、聴いていて心地がよい。しかし、第2楽章と第4楽章においては、シューマンのときと同様、響きのあまりの鮮明さが音楽の奥行きを減じてしまっているように聴こえた。フィナーレのコーダを聴いても、奥深いところから湧き上がってくるものにどこか欠けるのである。また、ラトルの響きの鮮明さと音楽づくりの細やかさが、ブルックナーの音楽に特有の素朴さないしは豪放さを奪ってしまっている感じも否めない。フィナーレには、几帳面さが音楽の力強さを損ねてしまっているところもあった。このように、音楽の奥行きやブルックナーらしさがいくぶん欠けていたし、またライヴゆえの惜しいミスもあったとはいえ、音楽の自然な流れ、生命感に満ちた音楽の力強い躍動、細やかな表情、そして響きの鮮明さを、これほどの完成度をもって兼ねそなえた演奏は、ラトルの指揮するベルリン・フィルならではのものであろう。最近のラトルに対しては「伝統的」な「ドイツ音楽」のプログラムへの取り組みに不熱心であるとの批判があるようだが、この日のシューマンとブルックナーの演奏は、ラトルにそのような批判を浴びせる人びとにとって、どのような回答と映っただろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月19日 (木)

ベルリン旅日記:10月18日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが本格的に始まる。ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーで行なわれたその学会に午前中から参加した。午前中は、ジクリット・ヴァイゲルの基調講演を聴いた後、ベンヤミンの思想の反体系性をテーマとする分科会に参加した。ベンヤミンにおける「世俗化」の弁証法を論じたヴァイゲルの講演において興味深かったのは、余すところなく世俗化された世界が再び神話によって覆われているところに言わば「覚醒」としての世俗化をもたらす可能性を示すものとしてベンヤミンの神学的モティーフがあるという論点と、「覚醒」としての世俗化の言語のありようを彼の「翻訳」概念が示しているという論点である。楽園的な起源から隔絶されて歴史の舞台に登場した言語のその起源からの距離を測り、言語の神話化の不可能性を示す「試み」としての翻訳。またその「試み」のためにジャーナリスティックなメディアを動員したとも言えるカール・クラウスにベンヤミンが注目したことの意味も、あらためて考えてみなければならない。分科会の発表のなかでは、シュテファニー・ヴァルドウのものに教えられる点が多かった。ベンヤミンの「純粋言語」の概念は、カッシーラーが神話的な命名のはたらきとして論じているし、またブルーメンベルクが「絶対的メタファー」と呼んだものとも関連するという。三者の関係を論じた彼女の本を読んでみなければと思う。
 昼休みのあいだ、ウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿で開催されていた、20世紀のヨーロッパにおけるマイノリティの迫害、追放、亡命を主題とする展覧会を見る。追放反対センターという団体が主催したこの展覧会「強制された道──20世紀ヨーロッパにおける逃亡と追放」は、第一次世界大戦期のトルコによるアルメニア人の迫害と虐殺から、1990年代の旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」までを扱っていた。ナチスによるユダヤ人のホロコーストを取り上げる一方で、第二次大戦後の東欧における残留ドイツ人に対する迫害やユーゴスラヴィアに残留したイタリア人に対する迫害も扱うなど、目配りは利いているし、歴史的な記述も詳しかったのだけれども、当時のドキュメントの実物の展示が少なく、展示としてのインパクトに欠ける感は否めない。とはいえ、わずかな生活用品の展示は、追放されることが、これまでの生活を、それが沈殿させてきた記憶を、その原風景とともに剥奪されることなのだ、ということを印象づけてくれる。
 午後、再び科学アカデミーで基調講演と分科会に参加する。サミュエル・ウェーバーの基調講演は、ベンヤミンがさまざまな「可能性」、たとえば「翻訳可能性」、「解読可能性」、「認識可能性」などを提示することで何を狙っていたのかをテーマとするものだった。通常コミュニケーションの可能性と理解される「伝達可能性」を分有する可能性ないし能力と理解していたこと、またその可能性そのものを伝達する言語に、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」でいう「一回的で極端なもの」たちを配置し、また一回的ないし特異なものの存在を証言する力を認めていたことが興味深い。「世俗化」のモティーフをテーマとする分科会では、「もう一つの世俗化」を論じたアーヴィング・ヴォールファールトの発表が圧倒的な印象を残した。世俗宗教としての資本主義とナショナリズムの共犯、そして原理主義の跋扈によって再神話化が進む現代においてベンヤミンを読み、そこからこの神話の脱呪術化としての世俗化の可能性を引き出す一つの行き方を、力強く示していたように思う。ヴォールファールトは、「複製技術時代の芸術作品」において提示される「第二の技術」のうちに「第二の世俗化」の可能性を見ると同時に、言語をもって神話化された歴史の過程に介入し、その連続性を破砕する可能性も語っていた。それを具体的に構想することこそ、喫緊の課題であろう。
 ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムが終わった後、国立歌劇場でパーセルの「ディドとアエネアス」の公演を見る。ツアーに出ているシュターツカペレに代わってピットに入ったのは、ベルリン古楽アカデミー。アッティーロ・クレモネージが指揮をつとめた。ベルリン古楽アカデミーは、いつもながら素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれたが、今回の演奏ではとくに表情の豊かさが光った。ピアニッシモでも響きが痩せないので、安心して音楽に身を委せることができる。他方で、フォルテの鮮やかさも実に爽快である。歌手たちの歌唱もすぐれていた。とりわけベリンダを歌ったデボラ・ヨークの巧さと、ディドを歌ったオーロレ・ウゴリンの心のこもった歌とが印象に残る。ヴォーカルコンソート・ベルリンの合唱も、舞台で複雑な演技をこなすなかでも美しいハーモニーを聴かせていた。
 このように、演奏にはほぼ満足できたのだが、サーシャ・ワルツの演出と振り付けには、正直に言って最後まで付いて行けなかった。歌とダンスを別々に担当させるのはよいとしても、同じ役を演じる人物が二人同時に舞台に登場するのにはどうしても違和感をおぼえるし、まったく音楽のないところでディドとアエネアスの物語と関係のない挿話風のダンスと演技が延々と続くのには閉口させられた。ダンサーたちの踊りはよく訓練されているけれども、舞台全体がつねに雑然としてしまう。プロローグで用いられた、登場人物を水族館の魚のように見せるプールの意味は最後までわからなかった。ワルツの演出は、パーセルの「ディドとアエネアス」を今に甦らせることではなく、ダンサーたちのパフォーマンスを見せることを志向した演出だったのではないだろうか。かつて北とぴあの音楽祭で見た、ほとんど能の舞台を見るかのような演出のほうが、よほど作品にふさわしいと思われる。演奏がすぐれていただけに、舞台が「ディドとアエネアス」という作品の印象を散漫にしてしまっていたのは悔やまれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月18日 (水)

ベルリン旅日記:10月17日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが始まる。そこで、まずベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ行き、参加登録を済ませる。参加料の30ユーロを払うと、すべての講演会に通用するパスとA5判のプログラムが渡された。領収書を書いてもらっているあいだも、いろいろ苦情が舞い込んできて、フェスティヴァルを組織する側はさっそく大変そうである。
 その足で、ブランデンブルク門のすぐ脇のパリ広場にある芸術アカデミーを訪れる。そこで開催されている「ベンヤミンのアルシーヴ」と題された展覧会を見るためである。ベンヤミンのマニュスクリプト、彼が収集した絵葉書、彼が論じた玩具やパリのパサージュの写真などから構成されていたが、マニュスクリプトを見て驚いた。ベンヤミンが書く文字の小ささは噂には聞いていたが、これほどだとは思わなかった。ミネラルウォーターの広告が載ったホテルのメモ用紙と思われる紙に、あるいはレストランの勘定書きの裏面に重要なテクストが、5ミリ四方ほどの文字でびっしりと書き込まれている。また、同様に小さな文字で書かれた読んだ本のリスト、論文の構成に関するメモなどからは、彼の仕事の驚くべき緻密さがうかがえる。ベンヤミンの思考の空間の極微の緻密さに圧倒される展覧会であった。
 芸術アカデミーの本屋で、今となっては貴重と思われるベンヤミンに関する文献を手に入れ、いったんホテルの部屋に戻った後、今度は国立図書館へ行って、展覧会でもそのタイプ稿が展示されていた履歴書で影響を受けたとベンヤミンが語っている、エルンスト・レヴィという言語学者の「老いたゲーテの言語」という論文を読む。共同体のなかで習得した言語から出発しながらそれを独自の仕方で変容させ、「個人の言語」を形成してゆくさまが、ゲーテの『ファウスト』の第二部にそくして示されている。デリダなら「絶対的特有言語」と呼ぶであろうこの「個人の言語」が、また別の言語類型と類似しているのを発見するところに、この言語学者の本領があるのかもしれないが、ベンヤミンは、こうして詩的な言語が独特の仕方で言語そのものを変成させるところに関心をもったのかもしれない。このレヴィの論文以外に、ハイム・シュタインタールという言語学者が編んだフンボルトの言語哲学に関する著作のアンソロジーを借り出し、シュタインタールの序文を読む。フンボルトについて深い洞察を示しているとベンヤミンがショーレムに語っているものである。シュタインタールのフンボルト観が端的に表われているところを書き抜いておいた。
 何か食べようと図書館のカフェテリアに入ると、今日のおすすめということで、ジャガイモとズッキーニの入ったスペイン風オムレツを四角く切ったようなものが出ている。これを「グラタン」というのだそうな。このようなカフェテリアではお約束の厳めしいおばさんにそれを頼むと、巨大な一切れを皿に載せてくれた。すっかり腹一杯になってしまったのは言うまでもない。
 図書館を出て向かいのフィルハーモニーへ行き、当日券を買って、室内楽ホールでフィルハーモニア・クァルテットの演奏会を聴く。今年生誕百周年を迎えるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を全曲演奏するツィクルスの3回目として開かれたこの日の演奏会では、彼の第9番から第12番までの4曲の弦楽四重奏曲が演奏された。これらの弦楽四重奏曲はいずれも、1962年に初演された第13番の交響曲「バビ・ヤール」と第14番の交響曲「死者の歌」の間に書かれている。キューバ危機、アンドレイ・サハロフやアレクサンダー・ソルジェニツィンの迫害といった出来事によって、フルシチョフ時代の「雪解け」が幻想であったことが露呈しつつあった時期である。その時期にショスタコーヴィチ自身も、「バビ・ヤール」交響曲において、反ユダヤ主義、女性の抑圧、出世主義などを強烈に皮肉ったエフゲニー・イェフトゥシェンコの詩を用いたことで当局の批判を浴び、心身ともに弱っていた。そのようなショスタコーヴィチの苦悩が、これらの弦楽四重奏曲の苦渋と皮肉に満ちた形式に結晶していることは容易に見て取ることができよう。暖かなハーモニーはすぐに色褪せ、社会主義リアリズムを思い起こさせる民謡風の旋律はずたずたに引き裂かれる。
 そのようなショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を、フィルハーモニア・クァルテットは、驚くべき明晰さと充実した響きをもって演奏していた。第10番の弦楽四重奏曲のスケルツォのような荒れ狂う音楽においても、けっして響きが混濁することはない。他方で、亡くなったベートーヴェン・クァルテットのヴァイオリン奏者に捧げられた、ベートーヴェンの第3交響曲の葬送行進曲の主題の断片を自由に展開させたとも言うべき第11番の弦楽四重奏曲のエレジーをはじめ、悲哀に満ちた音楽も、説得力をもって迫ってくる。第1ヴァイオリンのダニエル・スタブラヴァがポーランドで抑圧的な体制を経験したことがショスタコーヴィチの音楽と響きあっているのだろうか。第12番の弦楽四重奏曲の十二音技法を思わせる展開も間然とするところがない。もう少し重苦しさと鋭さがあっても、と思うところもなくはなかったが、これほどの完成度をもってショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が演奏されることは、きわめて稀なことであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月17日 (火)

ベルリン旅日記:10月16日

 夕方まで国立図書館にこもって勉強する。ベンヤミンとハイデガーがフンボルトの言語哲学をどのように読んでいるかをまず調べてみると、読んでいるテクストが少し異なっているようだ。また、ベンヤミンに関しては、彼とフンボルトを伝えた言語学者が書いたものも見てみる必要がありそうだ。その著作が図書館に所蔵されていないか調べてみると、何冊かあるうちの1冊は戦争で失われたかもしれないとのこと。空襲と市街戦でこの街が一度は一面の廃墟と化したことがあらためて思い出される。
 それが用意されるまで時間がかかるので、その間ハイデガーの言語論を2篇読む。ハイデガーは、ベンヤミンと同様に言語を、語るはたらきにおいて、また名づけるはたらきからとらえようとしているが、それを遂行する言葉を、「伝説」とも重なる「言うこと」として、存在の出来事への聴従のうちに根づかせようとしている。その消息に分け入るなら、ハイデガーとベンヤミンの対蹠点を見いだすこともできるだろう。他方で、ハイデガーの「言語への道」には、ノヴァーリスへの言及とともに、言語が自己自身を語るはたらきに注目するという、ベンヤミンとハイデガーの共通の出発点も示されているように思う。
 買い物をして、いったん部屋へ帰った後、歩いてユダヤ博物館へ行く。そこで開催されている「故郷と亡命──1933年以後のドイツ・ユダヤ人の移住」を見るためである。1933年にヒトラーのナチが政権を掌握して以後、ユダヤ人への迫害が強まってゆくなか、ユダヤ人たちがどこへ、またどのように生存の場所を求めたか、またそこでどのように生きていたかが、さまざまなドキュメントともに示されていた。ユダヤ人たちの移住先は、イギリスやアメリカ、あるいはパレスチナばかりでなく、遠くは中国やラテン・アメリカにまでおよんだ。そこで、ドイツ文化に根ざした生活を立てなおそうとする逞しい努力の跡を見ることもできれば、逆に自殺に追い込まれた人びとのことを報じる記事も展示されている。全体として、亡命すること、そして亡命先で生き続けることの苦難のさまざまな局面に触れることのできる展示であった。そのなかに、ヴァルター・ベンヤミンについての展示も見つけた。アメリカへの移住を受け入れるホルクハイマーの手紙と、自殺を図ったベンヤミンの最後の言葉を書きつけたグルラント夫人のメモが展示されていたのが興味深い。そのピレネー越えを導いたリーザ・フィトコの肉声も聴くことができた。
 部屋に帰ってテレビを点けると暗いニュースばかり。ドイツにおいても経済的な格差が広がりを見せるなか、「下層」という言葉をめぐって論争が起きている様子。社会厚生大臣は、「一つの社会」を保つことの重要性を強調していたが、社会の溝は確実に広がっているようで、職に就く見込みのない親が自分の子どもを虐待して死なせてしまうといった事件も起きている。その一方で、ネオナチ勢力がじわじわと広がってもいるようで、東部の各州では、議会に議席を得てもいる。東北部のメクレンブルク・フォアポンメルンでは、議会の初日から極右議員とのあいだでさっそく騒動がもち上がったようだ。ブランデンブルクでは、ネオナチの集会活動を規制する法律を作ろうという動きがあるという。ポツダムの中央駅でネオナチの行進に遭遇したときの恐怖が脳裏に甦った。また、それとともに、ユダヤ博物館に掲げられていた、世界の平和──それ社会のそれでもあろう──と心の平和を両立させることの重要性を説く、ヘルマン・コーエンの言葉が思い出された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月16日 (月)

ベルリン旅日記:10月15日

 今日は日曜で図書館が休みなので、久しぶりにポツダムを訪れることにする。目的は、サン・スーシ宮殿のなかの絵画館を見ること。冬のあいだ閉まっているので、一昨年滞在したときには見ることができなかったのである。ポツダム中央駅から695番のバスに乗ってサン・スーシ宮殿の前で降り、宮殿の入り口へ行ってみると、まだそれほど寒くないせいか、たくさんの観光客でごった返している。目につくのはイタリア人と中国人。どういうことなのだろう。
 この絵画館には、カラヴァッジョの作品が1枚ある。1600年頃の作という「不信心のトマス」。イエスの復活を信じることができないトマスが、磔刑の際にイエスが脇腹に負った傷に手を触れる驚愕の瞬間に、鋭い光を投げかける絵である。これ以外に、リューベンスやファン・ダイクの絵がいくつかあるのだが、正直に言ってカラヴァッジョ以外にはほとんど眼を惹く絵がない。むしろこの絵画館において見るべきは、バロック宮殿の絵画展示のありようなのだろう。たしかに、黄金がちりばめられた天井と大理石の床のあいだに所狭しと絵が架けられているさまは、壮観ではある。
 絵画館を出ると、宮殿の丘を降りて、歩いてポツダムの街へ出る。ルイーゼ広場を通ってポツダムの目抜き通りとも言うべきブランデンブルク通りに入ると、一昨年のことを思い出し、何だか懐かしい感じがする。近くにスーパーができるまでバスで通ったスーパーも、全部1ユーロで古本を売る本屋も健在である。いまだに工事中のところもあるが、一昨年滞在したときよりは少し街に活気がある印象である。電車通りになっているエーベルト通りに出て、パン屋の隣のケバプ屋でケバプを食べる。何でもここは、わたしもポツダム滞在時にときどき朝食用のパンを買っていたそのパン屋からパンを仕入れているとか。たしかに普通のケバプ用のパンより噛みごたえがある感じ。食べているとトルコ系の移民の2世か3世と思われる子どもが二人入ってきて、今日だけケバプを2ユーロにまけてくれとせがんでいた。「今日だけだよ」と応じるケバプ屋の主人の姿が少し微笑ましい。
 電車でベルリンへ戻る。急行電車からSバーンへ乗り換えるついでに、ワールドカップに合わせて開業した新しいベルリンの中央駅をのぞいてみるが、他の駅と同じような店ばかり入っていて、あまり代わり映えがしない。乗り換えたSバーンで、博物館島へ向かう。目的は博物館ではなく、その周辺で週末ごとに開かれている蚤の市。ここの市には古本を売る店が多く出ている。掘り出し物はないかと奥の方から見てゆくが、今回は収穫がなかった。
 宿に戻ってひと休みした後、フィルハーモニーへベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴きに行く。指揮は、今年生誕百周年を迎える作曲家ショスタコーヴィチの息子であるマキシム・ショスタコーヴィチ。ロッシーニの「ウィリアム・テル」の序曲とそれを引用したショスタコーヴィチの第15番の交響曲のあいだに、モーツァルトの第1番のヴァイオリン協奏曲が挟まるというプログラム。
 最初のロッシーニの序曲は、オーケストラの力量を示すにはうってつけの作品であるが、その演奏においてドイツ交響楽団は、ベルリン・フィルと比べても大きな遜色のない実力のほどを示していた。冒頭のチェロのアンサンブルも、コーラングレとフルートの掛け合いも決まっているし、ギャロップの推進力にもわくわくさせるものがある。あまりにも使い古されたこの曲が、新鮮に響く力強い演奏であった。
 続いて演奏されたモーツァルトの最初のヴァイオリン協奏曲に関しては、正直に言って首をかしげざるをえなかった。マクシム・ショスタコーヴィチが指揮するオーケストラの伴奏の雄弁さに比べて、ヴァイオリン独奏を担当したアラベラ・シュタインバッハーの音楽があまりにも皮相に聴こえたからである。彼女は、ユリア・フィッシャーなどとならぶドイツのヴァイオリン界の期待の新星と聞くが、それにしては音楽に奥行きがない。すぐれた技巧をもっていることは間違いないが、音に深みがなく、音楽づくりにも余裕がないのだ。もしかしたら、この曲をまだものにしていないのかもしれない。アンコールとして演奏されたパガニーニのメドレー風の小品は、実に伸び伸びと弾いていたのだから。どちらかというとロマン派以後の技巧的な作品で実力を発揮できそうな様子である。
 最後に演奏されたショスタコーヴィチの最後の交響曲であるが、これはたしかマクシム・ショスタコーヴィチ自身が初演したのではなかっただろうか。それだけに曲を完全に自分のものにしているようで、間然とするところがない。早めのテンポを基調として、ロッシーニの「ウィリアム・テル」やヴァーグナーの「ヴァルキューレ」の断片をはじめとして、引用された断片が別の音楽によって掻き消されたり、変容したりするさまを説得的に表現していた。悲痛な旋律も感傷に流れることなく、重い硬質の響きで迫ってきたのも、この作品にふさわしいことのように思われる。室内楽的なパッセージ、あるいは第二楽章のチェロの独奏をはじめとする独奏部では、ドイツ交響楽団の各奏者がその実力を発揮していた。とりわけ、チェロとピッコロのソロが印象に残る。シンフォニストであることから、さらには交響曲というジャンルからの別れを告げるような終結部は、シニカルな軽さをもってではなく、その別れの意味を考えさせるような重みをもって響いた。父親の辛酸を知る実の息子ならではの終結部のとらえかたなのかもしれない。聴衆の盛んな喝采──ドイツ交響楽団の聴衆はいつも熱い──に対して、父親が書いたスコアを掲げるマクシム・ショスタコーヴィチの姿が心に残った。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年10月15日 (日)

ベルリン旅日記:10月14日

 朝から国立図書館にこもって文献を読む。まず、昨日読みかけたハーマンの『美学提要』をひとまず最後まで読み通す。この困難なテクストについて見とおしがついたとはとても言えないが、「言語一般および人間の言語について」におけるベンヤミンのアダムによる事物の命名についての記述、あるいは人間の堕罪の後に沈黙してしまった自然を救い出すために詩人がいるという言い方に何らかのインスピレーションを与えたのでは、と思われる箇所にぶつかった。その後、1917年のショーレム宛の書簡のなかで言及される、フランツ・フォン・バーダーの宗教哲学に関する著作を読んでみることにする。書庫から出してきてもらったのは、1853年に出たという、古めかしいことを通り越した分厚い本。それに収められた、モリトールという人物に宛てた書簡のかたちでかかれた論文をベンヤミンは読んでいたのである。さっそく読んでみたが、ヒゲ文字ではないとはいえ、キリスト教神秘主義の臭いがぷんぷんと漂う論調で、なかなかテクストに入っていけない。とはいえ、ベンヤミンが手紙のなかで挙げている以外にも、彼の発想につながると思われる箇所を見つけることができた。このあたりは1917年の「来たるべき哲学のプログラムについて」でもテーマになることだが、言語の記号への「堕落」を、啓蒙主義的な自然支配の問題と結びつけ、それが人間を逆に締めつけていることへの危機感を、あるいはそうした状況からの突破口を言語のうちに求めようといる発想を、ベンヤミンは、ハーマンやバーダーと共有していたのは確かなのかもしれない。
 夜、コーミッシェオーパーへモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』の上演を見に行く。今年春のシュトゥットガルト歌劇場の引っ越し公演における同じモーツァルトの『魔笛』の演出でも話題を呼んだ、ピーター・コンヴィチュニーの演出に興味があったのだ。このオペラ・ハウスの恒例として、ドイツ語による上演である。
 コンヴィチュニーの演出に興味があったとはいえ、最初にぐっと惹きつけられたのは音楽である。ピリオド楽器による演奏に勝るとも劣らない切れ味のアコードで序曲の序奏が始まると、やがて柔らかな管楽器のハーモニーが、舞台を包む涼やかな空気のように立ちのぼってくる。そして序曲の主部に入ると、弓がよく弾んだ弦楽器の音がリズムを刻み、聴き手の心をいやがうえにもかき立てるのである。
 今回の上演を指揮したマルクス・ポシュナーという指揮者、まだずいぶん若いように見受けられるが、かなりの手腕の持ち主と思われた。ピリオド楽器の奏法を生かした鋭さを随所で引き出しながら、オーケストラの各セクションが一体となるようなアンサンブルを統率し、芳醇な、それでいて見とおしのよい響きをコーミッシェオーパーのピットから立ちのぼらせていた。このピットの指揮台にしばしば立つキリル・ペトレンコも、モーツァルト指揮者としてすぐれた手腕を発揮していたけれども、ポシュナーのモーツァルトへの適性は彼以上のものであろう。何といっても響きのバランスの取りかたが素晴らしい。ゆったりとした音楽においては、バスによってしっかりと支えられた響きが香気とともに漂っていた。軍隊に徴集されたと嘘をつくフェランドとグリエルモが二人の恋人に別れを告げる場面では、夜の香気が舞台を包むのである。
 歌手たちも、ドン・アルフォンゾを演じたディートリヒ・ヘンシェル以外聞いたことのない名前の歌手たちばかりだったが、いずれもそれぞれに与えられたアリアをほぼ完璧に歌いこなすばかりでなく、このオペラの命ともいうべき重唱でも、息の合ったアンサンブルを聴かせていた。なかでも印象的だったのは、デスピーナを演じたゲルトルート・オッテンタール。この女中の役はたいてい、若い、おきゃんなところのある歌手が演じるのだけれども、オッテンタールは見るからに相当なベテランである。しかし、デスピーナはほんとうは、恋愛の挫折を幾度も経験した人生のベテランのはずなのだ。そして、こと恋に関して年季の入ったところをドン・アルフォンゾと組んで、若い二組の恋人に見せてやらなければならないはずだ。このことをオッテンタールは、見事な声のコントロールで力強く主張していた。
 さて、幕切れも間近となったところで、ドン・アルフォンゾが、女の浮気さを自分の手で証明してしまった二人の男を舞台の手前に連れて行くと、緞帳が下りてくる。そして三人で、「みんなそうするものさ!」──ドイツ語の歌詞は「女はみなそうしたものさ」ではなく、「女」にかぎらず「みんなそうするものさ」となっていた──と叫ぶと、どこからか拍手喝采の音が流れてきて、聴衆もそれにつられて拍手してしまう。やがてそこにデスピーナが、二人の女性を連れて割って入り、二人は新しい恋人と結婚する用意ができていると告げる。その光景を見て、これはただでは済むまい、と思っていたら、やはり最後にどんでん返しが待っていた。二人の若い女性の貞節を試す芝居の種明かしが終わると、今度は本来誰と誰が結婚するはずだったのか誰もわからなくなり、ついには台本をもった舞台監督まで舞台に呼び出されると、フェランドが突然結婚式のテーブルの上に立ち上がって、「おれはグリエルモと結婚する!」と叫ぶのである。コンヴィチュニーがプログラムに収められたインタヴューで述べているところによれば、台本には最終的に誰と誰が結ばれるのか、はっきりと書かれていないのだ。だから、二人の男が結ばれることもありうるのである。恋心は、誰に対しても燃え上がる。彼によれば、モーツァルトはそのことを、オペラの音楽で肯定しているのである。
 舞台では、フェランドとグリエルモが結婚することになったまま、結婚式の祝宴が再開され、登場人物たちは客席へ降りてくる。すると、合唱がテーブルクロスになっていた紙を広げるのだが、そこには物事を「少しは哲学的にご覧なさい!」──あるいは「お考えなさい!」──と大書してある。その文句は、相手を取り違えた恋人たちが最後には元の鞘に戻るというハッピー・エンドを期待する聴衆ばかりでなく、恋について教訓を与えようとした哲学者ドン・アルフォンゾとデスピーナにも向けられているにちがいない。そう、人間は恋について何も学ぶことはないのである。
 実際、四人の若者たちは、結局何も学ばない。コンヴィチュニーの演出では、四人はいつも相手のぬいぐるみの人形をもっていて、ドン・アルフォンゾとデスピーナはそれをことあるごとに取り上げようとする。お前たちが恋をしているのはお人形さんとしての相手なのだと言わんばかりに。しかし四人は、自分たちの浮気さと盲目を突きつけられても、教訓をわが身に刻もうとはしないのである。芝居の種明かしと、それに対する驚愕を、四人は結婚式のテーブルの上で、人形劇のかたちで演じるだけなのだ。その一方で、新しい相手が現われると、四人はいずれも相手に対して何か応えずにはいられない。そのときに新たな恋心が炎のように燃え立つこともありうるのだ。そこにこそ現実があることを、コンヴィチュニーは示していたように思われる。
 『コジ・ファン・トゥッテ』のドイツ語の副題は「恋人たちの学校」であるが、コンヴィチュニーはその「学校」を、聴衆を含めて、人間が恋について何も学ばないことを学ぶ場に変えている。この教訓なき教訓劇とも言うべきドラマのために、彼はブレヒト的な、文字による異化効果を、序曲の最中からふんだんに用いて、観客のなかば自嘲的な笑いを誘っていた。「みんなそうするものさ」というプラカードが緞帳のあいだから差し出されると、そこに「女は」ばかりでなく、「男は」とか、「猫は」とか、あるいは「消しゴムは」とか書かれたプラカードが次々と差し出されるのである。そして、文字とならんで異化効果を発揮していたのが、レチタティーヴォの伴奏にチェンバロではなく、ハンマーフリューゲルが用いられたことである。その硬い音色とともに歯切れよく繰り出されるドイツ語の台詞は、聴衆が期待するであろう『コジ・ファン・トゥッテ』の甘ったるいイメージを打ち砕いていた。コンヴィチュニーは、ドイツ語ででしかできない『コジ・ファン・トゥッテ』を、人間の真実を仮借なく突きつけるとともに、それを音楽で救い出すオペラとして、今に甦らせていたのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月14日 (土)

ベルリン旅日記:10月13日

 今日から昼間は文献を読むことに専念しようと、ポツダム広場のフィルハーモニーの向かいにある国立図書館の建物へ出かけ、利用を申し込む。利用料金は1か月10ユーロで年間25ユーロと、年間利用のほうが断然得なのだが、1年間のうちにベルリンへ戻ってくることはほとんどありえないので、仕方なく1か月の利用を申し出た。
 申し込みを済ませると、小さな利用券がもらえる。これを使って書庫の本を注文できるのだが、ベルリンへ来るまでにほとんど何も準備ができなかったので、読んでおきたい文献がほとんど絞られていない。ともかく、ベンヤミンの初期の言語論「言語一般および人間の言語について」で引用されているハーマンの著作や書簡を読んで、ベンヤミンの言語論の発想の源を探ることから始めることにする。ベンヤミンの著作集にしても、ハーマンの著作集にしても、注文するまでもなく、直接手に取って読むことのできる主要文献が並んでいる本棚に並んでいる。今日はハーマンの著作と書簡に取り組むことにした。ベンヤミンが引用した箇所の前後の文脈もたどってみると、ベンヤミンの発想の背景が暗示されているようで興味深い。書簡に関しては、ベンヤミンの著作集の編者註に、と言うよりもそこでベンヤミンが用いたとされるハーマンのアンソロジーに、書誌的な混乱があるようで、しばらく振り回された。久しぶりにドイツ語のいわゆるヒゲ文字をたどることになる。久しぶりだったせいか、しばらく眼が馴れない。
 18時過ぎまで図書館で勉強した後、ポツダム広場のショッピング・センターの地下にあるスーパーで、ミネラル・ウォーターをはじめホテルの部屋で飲み食いする品々を買い込んで、いったん部屋に戻る。ホテルとポツダム広場とのあいだの距離は、徒歩でだいたい10分強というところだろうか。途中には政府関係の大きな建物も建ち並んでいる。そう言えば、午前中出かけるときに、現在財務省となっている建物の壁に、巨大な社会主義リアリズムの壁ががあるのを見つけて、ギョッとさせられた。そう。このあたりはかつて東側だったのだ。
 夜、フィルハーモニーでベルリン・フィルの定期演奏会を聴く。曲はJ・S・バッハのミサ曲ロ短調(BWV. 232)だった。指揮はロジャー・ノリントンで、合唱はRIAS室内合唱団。最近活躍のめざましいノリントンがバッハ畢生の大作にどのように挑むのか、楽しみなところである。
 客席に入って舞台を眺めると、弦楽器群が馬蹄形に並べられている。指揮台も、指揮者用の譜面台も見あたらない。ではノリントンはどうするのだろう、と思いながら見ていたら、彼は、合唱が入るときには、弦楽器の輪のなかに入って指示を出し、独唱歌手のアリアやデュエットのあいだは、舞台のいちばん手前にヴァイオリン奏者の椅子の余りのように置かれた椅子にちょこんと座って、必要最小限の指示だけを与えていた。彼の譜面台はないので、当然すべて暗譜である。
 実際、ノリントンはこの巨大なミサ曲のすべてを手中に収めていた。そして、それとともに彼は、このミサ曲のあまりにも厳密と思われる形式が、生命のダイナミズムをその精髄において表現しているのを見て取っているようだ。基本的に楽天的で、またピリオド楽器の奏法を生かした──実際、弦楽器奏者はほとんどヴィブラートをかけていない──切れ味鋭いノリントンの解釈は、とりわけ生命の躍動を生きることの喜びとともに鮮やかに表現するところで、その美質をいかんなく発揮していたように思われる。グロリアが、キリストの地上への復活が、サンクトゥスが、これほど輝かしく響いたことがあるだろうか。この作品の演奏において、生きていることへの喜びがこれほど屈託なく表現されたことがあっただろうか。ノリントンがバッハのロ短調のミサ曲のうちに見ていたのは、少なくとも居丈高に屹立する巨大な神への捧げ物ではない。彼にとってその作品は、むしろ地上の被造物すべてに捧げられた、この地上に生きていることへの讃歌なのではないだろうか。
 したがって、そこにある対位法にしても、彼にとってはけっして抽象的な形式ではなく、絶え間なく躍動する生命が応えあうのと一体となった形式のようである。この曲におけるノリントンの指揮は、各曲の冒頭以外ほとんど拍子を出さない。むしろ、異なった生命が応えあうのを活気づかせるために強調すべき点を全身で表現することに重点を置くものである。少しビッグ・バンドか何かの指揮にも似ていなくはなかったのだけれども。ともあれ、そのような指揮によって、躍動する生命の呼応が、一つの音楽の高まりに結実してゆくのを聴くのは、感動的ですらあった。
 逆にキリエや、クレドのなかのイエスの磔刑を描く一節のように、地上の被造物の儚さを嘆きながら神の哀れみを求める深刻な箇所も、音が短く切られ、言葉の区切りが際立たせられることによって、逆に切々と胸に迫る祈りとして響いていたように思う。グロリアやアニュス・デイの最後の平和への祈りには、もう少し内側から湧きあがるものがあっても、とも感じたが、全曲の祈りが注ぎ込まれているとも言ってよいこの音楽が、これほど燦然と響いたのは耳にしたことがない。
 このような輝かしく、また鮮やかなバッハのミサ曲の演奏を支えていたのが、ラトル時代の若いベルリン・フィルの機動性であったことは言うまでもないが、それ以上に特筆すべきは、ベルリン・フィルのきびきびとした演奏が、RIAS室内合唱団と透明な響きと一体となっていたことである。時にそれぞれの声部が一人の歌手の声のように聴こえるくらいによく訓練されたこの合唱団の声は、力強く、そしてけっして混濁することなく響きわたる。また、バスによってしっかりと支えられた響きには、安心して身を委せることができる。演奏全体のこれほどの完成度は、この合唱団なくしてはけっして望みえなかっただろう。
 独唱歌手のなかでは、テノールのジョン=マーク・エンスリーとバスのデートレフ・ロートが印象的に残る。エンスリーのまっすぐに響きわたる力強い声は、最初から耳を惹いたし、またロートの真摯さも光る。グロリアのなかのバスのアリアは、狩のホルンを担当したラデク・バボラクの巧みな演奏と相まって、アリアのなかでは白眉の出来を示していたように思う。この二人に対して、ソプラノのスザンナ・グリトンとカウンター・テノールのデヴィッド・ダニエルスの歌唱は、今ひとつこちらへ迫ってこない感じ。とりわけダニエルスの声は、カウンター・テノールには珍しくとても自然だっただけに、惜しまれる気がする。もしかすると、歌手の背後で聴いたせいかもしれないけれども。
 この日、ベルリンのフィルハーモニーで聴いた、どこまでも澄んだ響きと切れ味鋭いアーティキュレーションで、生命の絶え間ない躍動を表現し、この世に生きることの喜びを力強く歌い上げるバッハの演奏。それはもしかすると、バッハがその晩年の大作に一人の人間として込めたものを、世俗的で普遍的なものとして今に響き出させるものだったのかもしれない。ノリントンとベルリン・フィルによるバッハの演奏が、現代の楽器奏法と歌唱法でバッハの作品にアプローチする一つの可能性を力強く示していたのは間違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月13日 (金)

ベルリン旅日記:10月12日

 今日から20日までベルリンに滞在する。第一の目的は、雑用から離れて研究のための文献を読み、考えること。だいたい毎日国立図書館に通い、場合によってはまる一日そこに閉じこもることになりそうだ。ベンヤミンがパリの図書館でしたことの真似事を、ベンヤミンについてやろうというわけである。ただ、そうでもしないととても勉強などできないのが現在の広島での状況でなのだ。この滞在期間に、言語を、それを語る活動の相においてとらえ、また意思疎通の手段となるたんなる記号としてでなく、語るはたらきとともに表現の媒体として生成するものとしてとらえるドイツの言語哲学の伝統からベンヤミンとハイデガーの言語哲学が生じてきたこととともに、両者のコントラストを示すことによって、ベンヤミンの言語哲学の可能性を提示しようとする自分自身の立場を浮かびあがらせるような論文の下準備をできれば、と思っている。
 ベルリンへ来た第二の目的は、17日から始まる「国際ベンヤミン・フェスティヴァル」のいくつかの催しに参加すること。アガンベン、ディディ=ユベルマン、サム・ウェーバー、そして多和田葉子の師でもあったジグリット・ヴァイゲルといった、日本でも名前が知られている学者たちの講演に接することができるのを期待している。わざわざこの時期にベルリンへ来たのもそのためである。ちなみに「フェスティヴァル」なので、講演やシンポジウムばかりでなく、展覧会や映画上映、さらには日本人によるダンス・パフォーマンスも、その枠内で催されるという。
 三つ目の目的として、やはり音楽を聴いたり、絵を見たりといったことがあるのも、白状しておかなければならない。フランクフルトでベルリン行きの飛行機を待つあいだ読んでいた『南ドイツ新聞』によれば、来週から博物館島のボーデ美術館が新装なって開館するとのこと。写真を見るかぎり、王宮のコレクションのような展示である。週末には、懐かしいポツダムを訪れて、サン・スーシ宮殿の絵画館のカラヴァッジョも見ておきたい。音楽は、ベルリン・フィルの演奏会のほか、オペラの公演などに接する予定。
 ベルリン行きの飛行機がフランクフルトへ来るのが遅れて、そのあいだ待合室に山と積まれた新聞を読んで暇を潰していたが、どの新聞もやはり北朝鮮の核実験の政治的な影響を論じている。日本での報道と異なるのは、北朝鮮とアメリカの関係がクローズアップされていること。どのようなコンテクストのなかで「核」というカードが切られたのかを考えさせてくれる。文化面では、ナチの親衛隊に所属していたことを最近になって自伝で告白したギュンター・グラスをめぐる騒動が相変わらず続いている様子が報じられているし、『南ドイツ新聞』は、今週の土曜に生誕百周年を迎えるハンナ・アーレントが、戦後ドイツへ旅行したときに、ケーニヒスベルク時代の彼女のギリシア語の教師で、後にナチ党員として教育のナチ化に向けて動くことになる人物と再会したことを取り上げていた。ネオナチ勢力も暗躍を続けているようである。ベルリンのユダヤ系のサッカー・チームは、試合中にネオナチと思われる観客から繰り返し反ユダヤ主義的な野次を浴びせられたことを理由に、試合を途中でボイコットしたとか。
 ベルリンに到着したのは午後8時過ぎ。ホテルにたどり着いたのは結局9時前のことだった。長旅の疲れがこれまでたまっていたのと合わせて出たのか、何もする気にならない。空港で買ったチョコレートをかじりながら新聞やテレビを見ているうちに眠くなってしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月12日 (木)

アルベルト・ジャコメッティ展

 先日、京都からの帰りがけに神戸に立ち寄り、兵庫県立美術館で開かれていた「アルベルト・ジャコメッティ展──矢内原伊作とともに」を見に行った。展覧会の最終日にようやく間に合ったというところである。
 ジャコメッティを日本に紹介した哲学者矢内原伊作との交友を中心に据えながら、矢内原がジャコメッティの不断の試みとしての芸術のうちに見て取った、「見えるがままに描く」ことの追求を、140点近くの作品によって展望させようとする展覧会であった。一人の人間が現にそこに存在していることそれ自体を極限にまで研ぎ澄まされたかたちで屹立させ、見る者を立ちどまらせずにおかない彫像の数々とともに、そこに至るまでのあまりにも執拗と言うほかない試みの足跡を示すデッサンも数多く出品されていた。個人的には、どちらかというと彫刻作品をもっと数多く見たかった気もしないではないが、これほどの数のジャコメッティの作品を、その創造の過程──そこに矢内原は居合わせることになるのだ──とともに見ることができたのは、得難い機会だったことは間違いない。
 それにしても、ジャコメッティにとって「見える」とはどういうことだったのだろう。それはたとえば、ある人物が「矢内原伊作として」見えているということではないのだろう。それは少なくとも「見たい」ものを見ているということではないはずだ。ジャコメッティは初期に、「不快なもの」の彫像を制作している。昆虫の幼虫のような胴体に、こちらを睨みつけるような眼をもった顔がついた、不気味な生き物。その彫像を敢えて制作するとはどういうことなのだろう。悪夢の残滓を形象化したかに見えるこの作品を、シュルレアリスムの影響の産物と片づけることはできないのではないか。それはむしろ、ジャコメッティにとって「見える」とはどういうことだったのかを暗示してはいないだろうか。ジャコメッティにとって「見える」とは、見たくなくとも、どうしても見えてしまう、眼前に立ち現われてきてしまうということのように思われるのである。
 1947年に制作された、極端に長くとがった「鼻」の彫像も、ジャコメッティにとっての「見える」ことそれ自体を象徴しているように見える。彼にとって「見える」とは同時に、彼を傷つけること、すなわち彼のなかにトラウマを残すことのようにも思われるのだ。トラウマ的な記憶の痕跡から反復衝迫的に産み出されてくる無意志的な記憶の像は、けっして全体的なものではない。だからこそジャコメッティは「頭蓋を欠いた頭部」(1958年頃)を制作することもできたのだろう。また、記憶の像が断片として現われてくるとは、記憶される過去と記憶する現在のあいだに埋めることのできない隔たりがあるということでもある。その絶対的な距離のなかで過去が現前してくることをも、ジャコメッティは形象化しようとしたようだ。彼が制作した極小の彫像の小ささは、その距離を示しているのであろう。
 記憶の像が眼前に立ち現われてくるままに描き取ろうとすること、それは他方でどうしても「見えるがまま」に描くことではなく、現われてくるものを「見える」姿のうちに囲い込むことにならざるをえない。ジャコメッティはそのことも自覚していたように見える。1950年に制作された「檻」は、彼自身の芸術の暴力性を映し出す作品でもあるのではないか。それを自覚しながら、ジャコメッティは、自分を突き刺すように「見える」ことに対して、どこまでも忠実であろうとしたようだ。それは、「見える」さまを見届けるまなざしを研ぎ澄ますことでもあろう。そして彼は、自分を刺すように何かが、あるいは何者かが見えてくることを極限まで突きつめることによって、存在することの精髄に迫ろうとしたのではないだろうか。その厳しい歩みを支えたのが、矢内原であり、弟のディエゴであり、妻のアネットであったのかもしれない。この三人の魅力的な彫像を見ることができたのも、今回の展覧会の収穫の一つであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月11日 (水)

ひろしまオペラルネッサンス公演『フィガロの結婚』によせて

 去る10月7日と8日に、広島市のアステールプラザ大ホールにて、広島市のひろしまオペラ推進委員会が主催するひろしまオペラルネッサンスの年に一度の公演として、モーツァルトの『フィガロの結婚』が上演された。指揮はデリック・イノウエ、演出は岩田達宗が担当した。
 岩田達宗の演出は、舞台上の無駄な大道具を一切廃して、歌手たちの舞台上での立ち振る舞いに聴衆の視線を集中させるもの。舞台上の舞台とも言うべき黒の床には、椅子やベッドなどが置かれているだけである。扉の開け閉めなども身ぶりだけで表現される。そのような抽象性の高い岩田の演出において特筆すべきは、歌手たちの立ち振る舞いが音楽の動きと一体となっていることである。初日と2日目で歌手が異なる以上、細かい身ぶりは変わってくるし、ある程度歌手自身のアイディアを生かしていると思われるところも見られたが、両日とも、音楽の起伏が、またそれが表現する感情の浮き沈みが、身体的な表現と一つになるような演出が示されていたのではないか。モーツァルトのスコアとダ・ポンテのリブレットをしっかりと読み込み、そこから読み取った普遍的な内実を、歌手の身ぶりを中心に据えた舞台に結晶させ、今に問いかける演出と言えようか。それによって、『フィガロの結婚』というオペラに込められたものが、一つの力となって、よりストレートに伝わってくるように思われた。
 岩田の演出がドラマの中心に位置づけているのは、伯爵夫人である。彼女の命がけの愛の芝居が、最後に伯爵との、そして『フィガロの結婚』に登場するすべての人びとのあいだの和解をもたらすところに光が当てられているのだ。伯爵夫人の他者への愛と信が際立たされることによって、『フィガロの結婚』は、あらゆる壁や境界を越えたところにある和解の希望を今に語りかける作品として立ち現われてくる。イスラエル政府が築いている分離壁が代表するように、人びとのあいだに可視ないし不可視の壁が新たに築かれつつある今こそ演じられるべき作品として。
 初日に伯爵夫人を演じた尾崎比佐子は、伯爵ばかりでなく、すべての登場人物を包み込むような暖かい存在感を示しながら、抜群の安定感ですべてのパートを歌いきっていた。他方、2日目に演じた乗松恵美は、澄んだまっすぐな声で、モーツァルトの旋律の美しさとともに、伯爵夫人の夫への愛の一途さを際立たせていた。彼女が伯爵に赦しを与える、終幕のあのオペラ全体のなかで最も美しい瞬間が、これほど胸に迫るものとして聴こえたことがあっただろうか。
 歌手たちのなかで出色の出来を示していたのは、初日にスザンナを演じた柳清美。軽やかでありながら力強く響きわたる明るい声ですべてのパートをほぼ完璧に歌いきり、茶目っ気に満ちたスザンナの若さを、けっして大きいとは言えない身体から劇場全体に放射していた。これに対して2日目にスザンナを演じた楠永陽子は、安定感のある歌唱と実に巧みな演技で、スザンナの、知恵者で通っていたフィガロをはるかに凌駕する機知を際立たせていた。『フィガロの結婚』の女性たちとしてマルチェリーナの存在も忘れることはできない。とりわけ2日目にこの役を演じた藤井美雪は、非常に難しく、またそうであるがゆえに省略されることの多い終幕のアリアを、このオペラにおける女性の勝利を象徴するものとして見事に歌っていた。
 男性歌手たちのなかで特筆すべきは、アルマヴィーヴァ伯爵を歌った小島克正。力強い声で伯爵の虚勢と酷薄さを際立たせながら、嫉妬に駆られて罠にはまってゆくさまも、余裕をもって演じていた。2日目に伯爵を歌った石原雄介は、どちらかと言うと伯爵の浮気なところを、ユーモアたっぷりに際立たせていたように思う。初日にフィガロを演じたリー・ヨングは、情熱的な演技で、権力の不正に対して激昂し、スザンナに対してはいわれのない嫉妬を燃やしてしまう、実に人間的なフィガロの姿を浮かびあがらせていたように思う。他方、2日目にフィガロを演じた迎肇徳は、鮮やかな歌唱と巧みな演技で、機知で難局を切り抜ける知恵者としてのフィガロの存在感を際立たせていた。それ以外のバルトロやドン・バジリオといった脇役たちにもほとんど隙がない。ケルビーノのなかで大人びたところと幼さが混在し、せめぎあっているのを描き出した長谷川美恵子の歌唱も印象に残る。
 指揮のデリック・イノウエは、速めのテンポを基調としたきびきびとした音楽の運びで、躍動感に満ちたモーツァルトを聴かせてくれた。このように、18世紀末に書かれたテクストから現在の希望を引き出す演出と、その希望を生き生きと響かせる音楽が一体となった、非常に完成度の高い『フィガロの結婚』の上演だったにもかかわらず、聴衆が2日合わせて1500人ほどでしかなかったのは実に残念である。オペラの上演に足を運ぶということが広島の街に文化として根づいていないことが、あらためて突きつけられたということなのだろう。オペラをこの街で生かそうとするなら、そしてそのことを広島の外へ発信していこうとするなら、オペラをすべての人びとに開かれた、現在進行中の芸術運動と位置づけ、そこにさまざまな芸術ジャンルを巻き込み、新たな聴衆を、オペラの創造の新たな可能性とともに開拓していかなければならないのではないだろうか。広島においてオペラという総合芸術は、まだ芸術運動の核となりえていない。
 15日には、新国立劇場の地域オペラ招聘事業の一環として、広島の、いやヒロシマの『フィガロの結婚』が、選りすぐりのキャストで、新国立劇場の中劇場で上演されるという。この東京公演の成功が、広島のオペラが外へ開かれた、そして外から人びとを呼び込む芸術運動へ生まれ変わる転機となることを願ってやまない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月16日 (土)

藤田嗣治展

 広島空港で東京行きの飛行機に乗り込もうとしたら、通路のあちこちに、現在広島県立美術館で開催されている「藤田嗣治展」の広告がぶら下がっているのが目に入った。広島県が相当に梃入れして宣伝しているということなのだろうか。
 今年は藤田嗣治の生誕120年の記念の年に当たるということで、彼の大規模な回顧展が日本各地を巡回している。それが今広島に来ているというわけなのだが、最初の開催地となった東京では、藤田の画業全体を網羅するほぼ初めての回顧展ということで話題を呼び、かなり多くの観客を集めたようだ。わたしも先日、広島での展覧会を見に行ってきたところである。
 日本初公開の作品を含め、初期から晩年にわたる藤田の作品を、これだけまとまったかたちで見ることができるのは、たしかに貴重な機会だったにちがいない。しかし、正直に言って、これほど絵を見る喜びの少なかった展覧会は珍しい。絵を見たという充実感がまったくなかったのだ。むしろ、何かをなぞっているのを延々と見せつけられたような虚しさだけが残った。
 もちろん、藤田の線描の巧みさは認めなければならない。対象の形態をさっととらえ、猫の毛が波打つさまをも、精緻に、かつ生き生きと描き出す腕は、非凡という以上のものである。しかし、その描線は、どこか見る者が喜ぶであろうものを当て込んで、それをなぞっているように見えるのだ。しかも、格好のよい「フジタ」のそれとして見せようという衒いも、描線から感じないわけにはいかない。
 たとえば、「タピスリーの裸婦」が代表するような藤田の「乳白色の肌」を産むことになる、あの、色と色のあわいを実に細かに見分け、塗り分ける色彩感覚も、たしかにそれはそれで凄いものなのだろう。だが、その感覚にしても、どこか衒いをもって、当時のオリエンタリズム的なまなざしを満足させるであろうものをなぞっているように思われてならない。1930年代に入ると、藤田の画面に強い色彩が導入されてくるが、これは正直なところ、フォーヴや表現主義の平凡な真似事にしか見えなかった。
 こうした藤田の画才と、色や線の試行錯誤を繰り返した画業の集大成が、「アッツ島玉砕」をはじめとする一連の戦争画だったことは、皮肉と言うほかない。これらの死の唯美主義化のうちに、それまでの藤田のすべてがあると言っても過言ではないだろう。そして、そうした死への総動員へ向けた政治の唯美主義化への明白な加担でもあるような作品においても、藤田は、彼の思う「日本人」が見たいであろうものを、相変わらずなぞっているように見えるのだ。
 晩年の一連の宗教画をはじめとする戦後の作品は、絵としてはほとんど見るに堪えなかった。高級少女漫画のような画面から伝わってくるのは、フランスに、そしてカトリックに帰属したいという強烈な欲動である。もしかすると、藤田の「なぞる」手を動かしていたのは、この帰属への欲動だったのかもしれない。彼は、あるアイデンティティに帰属し、安住することを求めて、自分の同胞が望むであろうものをなぞり続けた画家だったのだろうか。
 しかしながら、藤田の手は、晩年になっても同時に、ほかならぬあのダンディな「フジタ」あるいは「藤田」を見せようともしている。そのような衒いは、彼をある一つのアイデンティティに溶かし込むことを、最後まで妨げ続けたにちがいない。藤田は、戦後フランスに帰化し、カトリックに入信してもなお異邦人だったのではないだろうか。とすれば、藤田嗣治という画家を、帰属への欲動とダンディズムのあいだで引き裂かれた異邦人と呼ぶこともできよう。
 それにしても、藤田嗣治が今これほど注目を集めるのはどういうことなのだろう。日本人たちは、心のなかにぽっかりと空いた穴を埋めてくれる何かを求めてさまよう自分自身のロマンティックな似姿を藤田のうちに見て、共感をおぼえているのだろうか。藤田の名が話題を集めていることには、「日本」的なものへの批判を差し挟むことのない、あるいは批判を許さない「好感」が日本列島を覆っていることと重なりあうものがある気がして、薄気味が悪い。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年8月 1日 (火)

石見銀山を訪れる

 ようやく梅雨の明けた日曜日、世界遺産への登録を申請している石見銀山へ出かけた。思ったよりも遠くはなく、広島市内の自宅から車で、高速道路を使わなくても2時間足らずの距離。11時半頃に出て、午後1時過ぎには石見銀山公園の駐車場に到着した。
 まずは腹ごしらえということで、大森の街の入り口にある「御前そば」という蕎麦屋に入って、割子そばを食す。松江の蕎麦屋が出すものに比べてかなり素朴な感じの割子そば。あまり腰が強くなく、少しぼそぼそした感じで、個人的には今ひとつ。石見地方の蕎麦は、出雲蕎麦とはまたちがった打ち方で作られているのだろうか。それにしてもこの蕎麦屋、ハワイアン風にアレンジされた「ウルトラマン」シリーズのテーマ・ソング(「ウルトラマン・セブン」の歌の冒頭をウクレレが奏でるのを想像してほしい)を始終流していたのは店主の趣味だろうか。
 腹ごしらえがすんだところで、近くにある羅漢寺を訪れ、銀山での事故や苛酷な労働のために命を落とした人びとの慰霊と祖先の供養のために彫られたという五百羅漢を見る。まず寺に入ると、秘仏の降三世明王と大元帥明王が公開されていると案内された。本堂の奥を見れば異様にけばけばしい極彩色の木彫が眼に飛び込んでくる。どちらも江戸中期の木彫のようだが、目のあたりをリアルに作ろうとしているのが逆にキッチュな感じ。両明王に踏みつぶされている怪獣のほうが、どこかユーモラスで魅力的だ。
 さて、五百羅漢像のほうは、寺の道を挟んだ向かいの崖に掘られた石窟に安置されているが、これには圧倒された。どこも飾ったところのない素朴な石像ながら、造形がぎこちないわけではなく、むしろ洗練された造形のなかで人間の喜怒哀楽を生き生きと表現している。徳川吉宗の時代に、温泉津の石工坪内平七とその一門の石工が彫り始めたとのこと。確かな技術で、衒いのない人間の姿が彫り出されている。羅漢とは、人間と仏の中間の存在なのだとか。その五百の姿は、人間のすべてを象徴するのかもしれない。人間のすべてを表現するかのように、さまざまな表情と姿態を見せる石像たちが、狭く、薄暗い石窟のなかに所狭しと並んでいる。左右の石窟に、250体ずつの羅漢像が安置されていた。
 羅漢寺を後にして、ひところは銀の取り引きで栄えた大森の街へ入る。1800年の大火で、街はほぼすべて消失してしまったとのことなので、そう古い建物が残っているわけではない。近代初期の街並みが残っているという感じだろうか。洋館風の建物もあるし、古い看板やブリキの広告板が木の壁に打ち付けられているのも見られるので、明治か大正へタイム・スリップしたような気がする。
 大森の街に残るいくつかの古い建物は公開されていて、まず代官所の役人の家だったという旧河島家住宅を訪れる。武家屋敷らしい質実剛健な造り。これに対して、重要文化財に指定されているという熊谷家の屋敷は、一つの城のような豪奢な造り。銀の掛け屋として財を成し、酒造業をはじめさまざまな事業を手がけた石見有数の商家の屋敷は、大きな土蔵をひけらかすかのように造られた広い客間がある一方で、こぢんまりとした茶室もそなえている。いくつかの部屋には、往時の商売と生活を偲ばせる展示もあった。全体的に、武家の家よりも明るい色調で統一されていたようだ。
 これら二つの屋敷のあいだでは、かなり以前に廃業したと思われる理髪店の戸が開け放たれていた。のぞいてみると、古い革張りの椅子が土間に鎮座している。かつてどんな紳士がこの椅子に座っていたのだろうか。また、小高い丘のようなところには、もうすでに廃寺となっているとおぼしき寺もあり、その門の両側では、一本の木から彫り出した仁王像が踏ん張って睨みを利かせている。かなりの大きさで、ぎょっとさせられた。
 大森の集落の端のほうにあるかつての代官所は、今は石見銀山資料館となっている。なかなか立派な平屋の代官所だが、石庭の奥に抜け穴が隠されているのが面白い。百姓や鉱山労働者の一揆から逃れるためだろうか。資料館の展示は、銀が最も多く採掘され、大森の街が栄えた江戸初期の鉱山と鉱山街の歴史に焦点を絞ったものと言えようか。とくに灰吹法という手法で銀がどのように抽出されたのかを示す展示が面白い。鉛との比重の違いを利用した巧みな手法だったことがわかる。また、石見の銀は大航海時代のヨーロッパの注目も集めていて、そのことが当時の地図からもわかるし、鉄砲やキリスト教が伝来したのも、石見の銀に惹かれたヨーロッパ人の波が日本列島へ打ち寄せるなかでの出来事だったとか。たしかに16世紀のヨーロッパの世界地図にも石見銀山とおぼしき場所は記されている。当時の航海者の実感としては、「ジパング」は黄金の国ではなく、銀の島だったのかもしれない。
 石見銀山の隆盛を描こうとする資料館の展示では、鉱山労働者の苦難は今ひとつよく伝わってこない。それは今や「間歩」と呼ばれる坑道の岩肌から読み取るほかないのだろうか。最後に訪れた龍源寺間歩は、鉱山労働の厳しさをわずかに伝えているように思われた。狭い道路を通った先を少し登ったところにある入り口からは、白い靄とともにひんやりとした空気が漂っている。少し坑道のなかへ入ってみると、それが湧き水のせいだということがわかった。岩肌のあちこちから水が染み出ているし、足下ではちょろちょろと水が流れている。あちこちに垂直に掘られた細い穴があったが、そこから絶えず水を汲み上げなければ、銀を掘り出すどころではなかったようである。水を汲むのは銀を削り出すより、心理的にも体力的にも厳しい仕事だったにちがいない。
 江戸時代の初期にシルバー・ラッシュに湧いた石見銀山も、徐々に採掘量が落ち、鉱山町もさびれていったという。そんな石見銀山の鉱山労働者たちは、どこから来て、ここでどのように生き、そして死んでいったのだろう。石見銀山が世界遺産に指定されるかどうかはともかく、まずは鉱山労働者たちの生きざまを、ウォーラーステインの言う「世界システム」の植民地主義的な拡大が進みつつあった世界の広い文脈のなかに位置づけながら浮き彫りにする努力をするべきではないか。大航海時代のヨーロッパにも知られた石見銀山の世界的な意義を強調したいなら、なおさらのことである。今の大森地区は、若い人びとを呼び寄せてこ洒落た店やギャラリーを開かせるなどして、街の若返りと観光地化を優先させているように見える。それも街の活性化のためには欠かせないとはいえ、銀山の歴史をとらえなおす努力も同時に続けなければ、石見銀山は現在の日本と世界を、とりわけそこにある資本主義の問題を照らし出す輝きを失うことになろう。ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」が坑道の岩壁のなかへさらに深く埋め込まれてゆくことを危惧させられた石見銀山への旅であった。
Imgp0608_1
Imgp0618_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月22日 (土)

「パウル・クレー──創造の物語」展

 祝日の月曜のことだが、佐倉の川村記念美術館で開催されていた「パウル・クレー──創造の物語」展を訪れた。「日本におけるドイツ年」の一環として開催されたこの展覧会は、デュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン美術館、ハノーファーのシュプレンゲル美術館、そしてヴッパータールのフォン・デア・ハイト美術館というドイツ北西部の3つの美術館のクレーのコレクションに、日本国内にあるクレーの作品を加えて展示するもの。クレーの故国スイスに並ぶとされるこれら3つの美術館の充実したコレクションを中心に構成されたこの展覧会は、最初期の風刺的なエッチングから、最晩年の、まったく無駄のない画面構成のなかに暖かな静謐さを感じさせる作品まで網羅することによって、画家としてのクレーの仕事を一望させるばかりでなく、5つのテーマのもとに作品を配することによって、クレーの創造の核心にあるものへも迫ろうとしていた。
 「光の絵」と題された第1部は、1910年代までの初期の作品によって、クレーがモノクロームの世界を脱して、光に満ちた世界を色彩的に構成し始めるに至るまでの作風の変遷を描き出していた。それが示すのは、神の世界創造の原理でもある光を、クレーが最初期から追求していることである。風刺的なエッチングに取り組んでいた若きクレーは、黒の描線によって地上の現実を照らし出す光を画面にもたらそうとしていたのだ。その光は、苦い鋭さを放ちながら、人間社会の矛盾を歪んだ寓意像のかたちで抉り出す。世俗の王冠を前に身をかがめる一方で、他人を前にしてはみずからの優位を主張するといった人間の醜悪さをアイロニーとともに浮かびあがらせるクレーの「作品1」の版画集「インヴェンション」は、ゴヤの「ロス・カプリチョス」と比べて見たらどのように映るだろうか。
 そのように苦渋に満ちたまなざしと鋭い黒の描線をもって人間社会の矛盾を照らし出す光を追い求めていたクレーは、1910年代には、光に満ちた世界を、水彩で色彩豊かに、かつ抽象的に構築し始める。ロベール・ドローネーの作風に触れたこと、そしてよく知られているチュニジアでの光の啓示は、人間社会の深奥へ突き入っていたクレーのまなざしを、豊かな光彩と広がりをもった世界へ向けて開いていったようだ。そしてクレーは、線描画家から、そのような世界を画面のうちに色彩をもって再創造する画家に変貌することを決意したのかもしれない。神が世界を創造する光の強烈な放射を、力強い線の動きと一体となった色彩によって描き出そうとする「はじめに光ありき」は、そのマニフェストのようにも見える。
 「自然と抽象」と題された第2部は、クレーにおける経験的な自然の観察と抽象的な画面構成の緊密な関係に焦点を絞るものであった。経験的な世界の要素の幾何学的なものへの抽象ではなく、世界を経験的なものとして成り立たせている世界そのものの躍動を画面上に構成し、可視化するクレーの抽象は、絵画空間のなかに時間的な動きをもたらすにちがいない。クレーの絵に音楽があるのは、一面ではそれが時間を絵にしているからではないだろうか。
 この音楽を一枚の譜面にも見えるようなかたちに構成しているように見えるのが、「駱駝(リズミカルな樹々の風景のなかの)」である。赤を基調とする柔らかで暖かな色彩のなかに駱駝のようで駱駝に見えない動物の姿が溶け込んでゆくなかから、いくつもの声部と拍子をもった音楽を鳴り響かせようとしているかのようだ。また、これも赤を基調とした絵であるが、「バラの庭」においては、ひとつひとつの形態の動きと画面全体の色彩の諧調が見事に結びついていよう。そこでは、石積みの建築物の石の隙間から力強く花を咲かせ、光を放射するようなバラの花が、暖かな光によって照らし出された石の建築物によって覆われた風景に動きを与えている。バラが一輪また一輪と咲くなかで、石の階梯が色の諧調をなしているのである。
 クレーは、このように音楽を聴き出すようにして自然の生命へまなざしを注ぎながらも、同時代の社会的現実からけっしてまなざしを逸らしてはいない。第一次世界大戦による物心両面での破壊の悲惨さを一つの風景に凝縮させたかのような「破壊された街」は、このことを証し立てるものだろう。蝋燭の希望の灯が消えてしまった世界を、真っ赤な太陽がじりじりと照らし、廃墟を剥き出しにするさまを描くこの絵は、慰めなき世界を凝視するクレー自身のまなざしも同時に描いているのかもしれない。これと好対照をなすのが、暖かな光で照らし出された空間のなかに古代ギリシアの円柱を思わせるような建築物の断片を配し、瓦礫から何かが少しずつ造り上げられようとしていることを感じさせる「再構築」だろうか。
 ところで、自然の形態と画面の構成とが見事に結びついた作品として、もう一枚「蛾の踊り」にも触れておきたい。虫とも鳥ともつかない形態を浮かびあがらせ、その羽根の動きを描き出す震える線の動きが、青を基調とする画面全体の色彩の配置と緊密に結びついている。中心に描かれた生き物の踊りが空間を響かせているかのようだ。
 第3部は「エネルギーの造形」と題して、自然の事物が内側から自己を生成させる生命の躍動を画面上に描き出すクレーの創造を作品によって照らし出そうとしている。この第3部では、2枚の対照的なモノクロームの絵に魅かれた。1枚は「螺旋状にねじれた花II」。画面の右上、右下、そして左下から伸びてくる線をたどってゆくと、闇のなかに密やかに咲く花の形態に行き着くが、その花を描き出す螺旋状の線は、別の花ともつながっている。暗闇のなかで静かに応えあう生命のいとなみを描き出すようでいて、画面全体は闇のなかへ沈み込みながら、見る者の心を静め、沈思へと誘う。この闇のなかに沈潜してこそ、自然の生命に耳が開かれるのかもしれない。
 もう1枚のモノクロームの絵とは、死の前年に描かれた「シュユップ」という奇妙な画題をもった作品。魚類や爬虫類の鱗を思わせる形態が画面を覆い、嵐のように渦巻いている。その荒々しい動きは、「皮膚硬化症」と診断されたクレー自身の身体に現われた病魔の動きから見て取られたものであるという。病に苦しみながらも、自分自身の身体を蝕んでゆく自然の動きと対峙し、それを描き取ろうとする画家としてのクレーの姿が、その苦悩とともに伝わってくる作品。
 「イメージの遊び場」と題された第4部に配された作品はどれも、震動しながら既成のさまざまな境界線を揺り動かし、空間のなかに「遊び場」を開くクレーの線の魅力を発揮している。見ていて笑みを浮かべずにいられないような作品が多い。「窓辺のマリオネット」という作品に描き出されているのは、E・T・A・ホフマンの「砂男」に登場する窓辺の自動人形のようだ。柔らかな紫を基調とする色彩の諧調に包まれるなか、人形が涙を流し始めているようにも見える。「赤い鳥の物語」においては、線の動きがさまざまな生き物の形態への想像をかき立てる。画面の右上に描かれた赤い鳥(のような生き物)は、これからどのような生き物と出会うのだろう。鯨だろうか。それとも自分の何倍も大きな鳥だろうか。
 最後の第5部は、晩年のクレーの作品の画面を「物語る風景」として提示している。病魔に冒され、自由が利かなくなったクレーの手が、けっして直線的にではなく、緊張に満ちた震えを孕みつつ、行きつ戻りつしながら、あるいは線と線を縺れ合わせながら描く線。それは空間と時間を多層的に分節しながらイメージを産み出し、見る者に語りかけてくる。それは線が文字を思わせるようなかたちで空間を区切っているからかもしれない。そのような文字がイメージと、さらには画面全体の色彩の諧調と見事に結びついている作品として、「石板の花」を挙げておきたい。薄緑の石に刻まれたさまざまな記号が、花を咲かせるように、赤や青の色を帯びて浮かびあがる。しかし、記号をかたちづくる線そのものは、硬い石のなかへ沈み込んでゆくようにも見える。色と線の緊張。これが画面に独特の静けさをもたらしているのではないか。そして、静けさのなかで有機質の音と無機質の音が応えあっているかのようだ。
 そう、晩年のクレーの作品はどれも静けさによって貫かれている。ただし、その静けさは、冷えきった静けさではない。どこか暖かさを感じさせる静けさである。そして、その暖かさをもたらしているのは、時に生命あるものへの優しいまなざしであったり、時に醜悪な人間の生きざまをアイロニーを交えつつ受けとめようとするまなざしであったりするのだろう。とはいえそのまなざしも、自分自身へ向かうときには、厳しさを増しているように思われる。寓意的な自画像のように見える「忘れっぽい祝宴の席もはててから」の画面においては、晩年のクレーがしばしば手がけた天使像を思わせる形象が、自分自身へと沈潜している。そしてその姿は、寒色を基調とする硬質の静けさのうちに静止している。自分自身を厳しく見すえるクレーの透徹したまなざしを感じさせる作品である。
 最後に置かれていた死の年の「隣の家」は、クレーの現世への別れの挨拶のようにさえ見える。そこでは、隣の家へ遊びに行く子どもとなったクレーが、彼岸への扉を開こうとしているのではないか。落ち着いた緑と茶を基調としながら、微妙にちがった色を格子状のブロックに配することで、家々とその背景を構成する画面は、静かな暖かさに満ちている。クレーは、自分のこれまでの生きざまを受けとめながら、彼岸へ赴こうとしているのだろうか。
 このように、暖かな静けさによって貫かれているのは、もしかすると何も晩年の作品だけではないのかもしれない。振り返ってみると、今回の展覧会で見たクレーの絵のなかに、騒々しく自己主張したり、居丈高になったりするものは一枚もない。何よりもまず静けさによって貫かれているからこそ、クレーの画面は、何かを響かせ、語りかけてくるのではないだろうか。その無調の響きの源にある静けさ。それをもたらしているのは、クレーの透徹した耳をもった眼、生命の囁きを聴き取るまなざしであろう。それは彼の創造の核心をなすものの一つではないだろうか。今回訪れた「パウル・クレー──創造の物語」展は、初期から晩年までのクレーの優れた作品を数多く見せてくれるばかりでなく、このようなクレーの創造の核をなすものにまで思考をいざなう展覧会だったと言えよう(以上、http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Paul_Klee_17072006.htmより抄録)。
 ちなみに川村記念美術館は現代美術の充実したコレクションを誇っていて、なかでもマーク・ロスコの作品は独立した部屋を設けて展示してある。底なしに深い黒や赤が塗りこめられた作品が立ち並ぶその部屋に足を踏み入れると、自分を吸い込むものが迫ってくるような感じがして眩暈をおぼえる。クレーの絵を見るのとはまったく対照的な経験であった。それ以外では、シャガールの大きな油絵も印象的。東京の中心からはかなり離れてはいるものの、何か展覧会があるごとに足を運ぶ価値のある美術館の一つである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 9日 (日)

「ピカソとモディリアーニの世界」展

 ひろしま美術館で開催されているリール近代美術館所蔵品による展覧会「ピカソとモディリアーニの時代」を訪れる。リール近代美術館のコレクションは、キュビスムをはじめとする20世紀前半の芸術運動のよき理解者だったロジャ・デュティュとジャン・マジュレルというコレクターのコレクションにもとづいているとのことであるが、とりわけキュビスム期のピカソと、同じ頃に人間存在の本質へ向かうまなざしを研ぎ澄ませていたモディリアーニのすぐれた作品が集められているのが眼を惹く。
 モディリアーニの作品のなかでは、やはりルネサンスの宗教画を思わせるような母子像が印象的。彼の作品には珍しく、親密な雰囲気を漂わせているが、母と子の絆の精髄に迫ろうとするかのようなまなざしはやはり鋭い。一切の虚飾を廃した静謐な表現は、ラファエロよりはメムリンクのような北方ルネサンスの画家の宗教画を思い起こさせる。
 今回見ることのできたキュビスム期のピカソの作品のなかでは、二個のりんごを中央に配した静物画が最も完成度の高い作品に思われた。落ち着いた色彩の見事な配置が、求心力のある画面の構成と、りんごをはじめ描かれた物体の確かな質感に結実している。ピカソの作品としては、迷いのない闊達な筆さばきで、彼らしい力強さを鮮やかに示す、晩年の女性像も印象的だった。
 キュビスムと言えばブラックも忘れてはならない。ピカソとともにキュビスムを主導していた時期の作品がいくつか展示されていたが、なかでも大聖堂を中心とする街の風景を面の集合体として再構成した作品は、渋い色を基調とする画面のなかに多彩な色彩を秘めていて、見ていて飽きがこない。
 今回の展覧会では、こうしたキュビスムを一つの軸とする20世紀前半のフランスの画家の作品ばかりでなく、シュルレアリスムの影響を受けたスペインの画家ミロの作品も展示されていた。なかでも、ヒトラーが政権を掌握した1933年に絵画の力強さをみずからの手で取り戻そうとするかのように描かれた「絵画」が、ミロの作品には珍しく、重い印象を残す。
 さて、今回の展覧会の最大の収穫は、何と言っても、かなり性格の異なったクレーの二つの作品を見ることができたことである。「十七種の香辛料」は、南国の鮮烈にして豊饒な風景の光彩を、17種類の香辛料の色彩の豊かさに重ねあわせ、モザイク状に構成している。クレーの南国を凝縮させているかのような一枚。見事に区分された領域のあいだを色彩がさざめくように移り変わってゆくなかで、数字が(1から17までの数字が描かれていたが、15が欠けていたのはなぜだろう)踊っているかのようだ。他方で、「のみこまれた島」は、水没した島を魚たちが遊び場にしている様子を、青の静かなグラデーションのなかに描き出している。比較的浅い海を思わせる青の層の重なりあいは、時を止めたかのような静けさと涼しさを感じさせるが、これが濃い青の単色で描かれた魚たちが遊ぶさまと好対照をなしている。そして、このコントラストが、見る者の微笑を誘うような遊びを画面にもたらしているのではないだろうか。「のみこまれた島」は、今回の展覧会で見たなかで最も気に入った一枚である。これ以外に、オレンジを基調として柔らかな運動とともにゆったりとした音楽を感じさせるカンディンスキーの「コンポジション」も傍らに展示されていて、クレーの二つの作品とともに一つの世界をかたちづくっているかのようだった。
 今回訪れた「ピカソとモディリアーニの世界」展は、20世紀前半の芸術運動を展望しながら、すぐれた作品にも触れることのできる貴重な機会と思われた。暗く落とした会場の照明も好ましいが、キャプションによる説明が中途半端に過剰だったように思われる。主催者側に、20世紀前半の美術の動きに見とおしを得てもらい、抽象画アレルギーとでも言うべきものを払拭しようといった啓蒙的意図があるのなら、もっと体系的で立ち入った説明があってもよかっただろうし、個々の作品を見せることに徹するというのではあれば、過剰な説明は不要であろう。それから、これはことあるごとに述べていることだが、一週間ずっと17時に閉館というのは、多忙に働く人びとを美術から排除するのと同じことである。せめて金曜だけでも20時まで開館させることを、広島市の美術館に関係する人びとに切に望む。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月17日 (土)

武満徹|Visions in Time展

 最晩年の武満徹が芸術総監督を務めたオペラシティのアート・ギャラリーで、武満の没後10年を記念して開催されている展覧会「Visions in Time展」を訪れる。同時代の美術からインスピレーションを受けながら、あるいは同時代の芸術家たちと実際に協働しながら作品を産み出し、また同時代の映画をはじめとする映像作品の制作にも積極的にコミットしながら、独自の、また普遍的な広がりをもった音の世界を切り開いていった作曲家の創造の軌跡を描き出そうとする展覧会。その展示は、武満の自筆譜と、刺激を与えあった同時代の芸術家の作品とを対位法的にと言うべきか、一つの空間に並べ、響きあわせることで、武満の音楽が響き出てくる場の息吹をそこに甦らせようとしていた。
 なかでも武満の世界のなかにいることを強く感じさせられたのは、「美術家との交感」と題されたセクション。ルドンやクレーの作品とともに、そこから着想を得た武満の作品の自筆譜が展示されているうえ、その演奏をヘッドフォンで聴くこともできる。眼を閉じ、人間の弱さをさらけ出しつつ、内省の静けさへ沈潜してゆく姿を祝福するルドンの絵を前にしながら、ピーター・ゼルキンの弾く「閉じた眼」を聴くことができるのだ。あるいは、イサム・ノグチの作品を見つめながら、彼の追悼のために書かれたフルート独奏のための「巡り」を聴くこともできる。そうして、武満の音楽の世界がルドンやノグチの作品の世界と響きあう地点に思いを馳せようとするとき、武満の切り開いた世界の広がりをひときわ強く感じるのである。
 ノグチやミロの彫刻作品からほど近いところには、武満自身が描いた絵も展示されていた。それを、クレーの東方風の「大聖堂」の絵──今回展示されていたなかでやはり最も魅力的な絵──と見比べると、クレーがそれぞれ独自の響きをもったひとつひとつの色を緻密に配置することによって暖かな音に満ちた世界を構成しているのに対して、武満は一つの色の濃淡の豊かさを画面の躍動につなげ、生命の流動の豊饒さを表現しようとしているように見える。そのあたりが、武満の世界の水ないし海との親和性を暗示しているのかもしれない。
 武満の音楽と並べられていた造形芸術作品のなかでもう一つ魅力的に思われたのが、ノグチの「死すべきもの」。全身で重力を受けるように沈み込んでゆくように苦悩に沈むさまが、逆に力強い存在感を示している。他に楽譜へと転生するムナーリの作品、他の芸術家とのコラボレーションによって産み出された図形楽譜、さらには同時代の芸術家が腕を振るってデザインした演奏会のポスターなども展示されていたが、どれも一つの芸術運動を時代に刻印しようとする力強さに満ちている。そうした作品が次々と産み出されていた時代の息吹を伝える武満徹の回顧展と言えるのではないだろうか。翻って今へ目を向けると、一つの時代を開くような同時代の芸術作品が、他のジャンルとの協働のなかから生まれてくることは少なくなったような気もして寂しい。この回顧展から、どれほどの数の芸術家が、自分の創作活動が他者のそれと響きあう可能性を読み取っただろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月23日 (日)

吉田秀和『ソロモンの歌・一本の木』

 現在も『レコード芸術』誌に魅力的な文章を寄せたり、NHK-FMの「名曲の楽しみ」でリヒャルト・シュトラウスについて語ったりといった活躍を続けている吉田秀和は、日本における音楽評論の草分けなどとしばしば称されるけれども、けっしていわゆる「音楽評論家」ではない。音楽が彼にとって中心的な芸術であるのは確かだが、彼は「音楽」を消費する文化産業のメカニズム──いわゆる「業界」──に組み込まれたかたちで消費を促進する言説を生産するだけの「評論家」とはまったく異なった次元で音楽を語っている。吉田は、音楽とは何か、それを演奏するとはどういうことなのか、そもそも芸術とは何か、そして芸術が息づく文化とはどのようなものなのか、といった根本的な問いに絶えず向きあいながら、音楽について、そればかりでなく、美術や文学について語っているのだ。そうすることで吉田は、現在も芸術を消費し続けるメカニズムと、それが機能する日本の土壌それ自体を問いただしているのである。そして、このような吉田の批評の位置を伝えるとともに、その批評の言葉が、書くことについての、あるいは文学についての、ひいては言葉それ自体についての深い思索にもとづいていることを知らせてくれるのが、最近講談社文芸文庫の一冊として出たエッセイ集『ソロモンの歌・一本の木』にほかならない。
 「あとがきにかえて」ということで新たに末尾に付された文章のなかで、吉田は、正宗白鳥のエッセイを再読して、「考えはどんなに違っていても、それを突破して読み手を痛撃する力をもつ言葉を書きつけることが可能だという事実を確認せずにはいられなかった」と語り、さらに「この力、こういう言葉を出現さす精神の働き、これこそ「文学」にほかならない」と述べている。吉田は、このような「文学」についての思想を出発点に、読み手を射ぬく力をもった言葉にみずからの「精神の働き」を結晶させることを、今も絶えず追い求めているのではないか。「文学は言葉以外の何物でもないが、それと同時に、これは思想の力の軌跡、あるいは結晶なのである」。もしかすると、吉田の批評の核心をなしているのは、「思想の力」の「結晶」としての「文学」なのかもしれない。そして、こうした意味での「文学」なき批評が、「批評」の名に値しないことも、彼は突きつけているのではないだろうか。
 吉田の「読み手を痛撃する力をもつ言葉」への情熱に火を点けたのが、若き日の中原中也、吉田一穂といった詩人との邂逅であったことも、『ソロモンの歌・一本の木』の冒頭に収められたいくつかのエッセイは教えてくれる。言葉の正確さとそこから生まれる鋭さ、これを吉田秀和はもしかすると酒に酔った中原中也の喧嘩ぶりを見ることからも学んでいるのかもしれない。それについて吉田はこう書いている。「そういう彼が、また、喧嘩をするとすさまじかった。私のいうのは口喧嘩である。目の前の相手を、一語一語、肺腑をつくように正確に攻撃する。その烈しさは、意地の悪さなんてものを通りこしていた」。その一方で吉田は、そのような中原の喧嘩が、実は「無限に対する「生」の主張の一つの形式」であることも見て取っていた。それをつうじて中原は、「宇宙との交感」を目指していたという。それも死に限りなく近いところで。吉田に言わせれば、中原は「生きている時に自分の死を見てしまった人間」なのである。
 吉田は、詩人たちとの交流をつうじて言葉を研ぎ澄ますばかりでなく、小説を読むことによって芸術をめぐる思索を深めてもいる。そうした経験の場として吉田が最も重要視しているのが、プルーストの『失われた時を求めて』のようである。それを読む経験について彼はこう書いている。「私は『失われし時を求めて』の中で、自分の生きてきた時間を溯り、溯る間にはじめて時間の流れを自覚的に捉える。私は自分に再会し、自分を意識する。この本に出てくる事件は空間的拡がりをもっており、それはまた私を拡げもするのだけれども、私がここで本当に知るのは、この《時間》の中であり、そこで私は《自分になる》のである。こういう《時》がなければ──時が流れ、私が私でないものに流れこみ、私でないものが私の中に流れ込んでくるのでなければ、私は永久に私に再会することはなく、自分になることもないだろう」。そして、表題作の一つ「ソロモンの歌」は、吉田がそのようにプルーストを読むなかで「私」が「自分になる」経験を、記憶が甦るその「時」をとらえるすぐれてプルースト的な「文学」に結晶させえたことを示している。吉田はそこで、引っ越しの日の朝の目覚めを思い起こすところから幼年期の記憶を甦らせ、それをつうじて「自己革命」の継続のただなかにある日本の現在を照らし出すとともに、芸術を息づかせるような文化の生命を取り戻すべく、今ここで「自分を根本的に検討し、再組織する必要」を語りかけているのである。そうした言葉が、「ソロモンの歌」が書かれてから35年以上が経った現在の日本にも光を投げかけていることは言うまでもない。
 吉田秀和の「批評」を構成するものとして、文学の経験と並んでもう一つ忘れてはならないのが、美術の経験である。『ソロモンの歌・一本の木』には、クレーの音楽性とでも言うべきものを見事に解き明かした、「クレーの跡」というエッセイが収められている。そこで吉田は、クレーの絵が「有機的に成長する」過程のうちに、無調の音楽が「非常な自由さと組織性」のバランスを保ちながらかたちづくられてくるプロセスに呼応するものを見て取ることによって、クレーの20世紀的な音楽性を照射すると同時に、その成長過程が「彼の好んだモーツァルトの音楽におけるように」、「線が天使に」なってゆくプロセスであることも示しているのだ。そして吉田は、クレーの天使たちが第二次世界大戦の始まる年に数多く生まれていることも忘れていない。「哀れな人間たちは、忘れっぽい天使が、ついうっかりしている間に、大変なことをおっぱじめ、幾千万という同類たちを殺戮しだしたのである」。
 第二次世界大戦を経験し、深い絶望のなかでなお創造し続けた芸術家として、吉田はもう一人、永井荷風を取り上げている。荷風の絶望は、近代日本への絶望である。明治期にフランスとアメリカへ渡り、人間ひとりひとりが「個」であることのうちに西欧文明の本質を見た荷風は、帰国後に日本人がその本質を何ひとつ学び取っていないことに直面させられるのである。そして第二次世界大戦の経験は、そうした日本への絶望を決定的なものにしたのだった。「現代の西洋文明輸入は皮相に止り、其の深き内容に至っては、日本人は決して西洋思想を喜ぶものではない」という言葉をはじめ、そうした絶望のなかから絞り出された荷風の言葉から、吉田は、日本の「西洋文明」をモデルにした「自己革命」と、それをつうじてヨーロッパの芸術を「芸術」として日本に根づかせることへの根本的な問いかけを聴き取っている。そして、「技術第一」の日本の音楽教育の問題を指摘するところから音楽について、芸術そのものについて、そしてそれが生きる場としての都市について徹底的に問い抜こうとしているのだ。吉田の「荷風を読んで」は、日本に生きる者、とりわけそこで芸術に携わる者に、「自分を根本的に検討し、再組織する必要」に目覚めさせるインパクトをもった芸術論ないし文学論として、最も重要なものの一つであろう。
 ところで吉田は、「荷風を読んで」のなかで「日本人」についてこう述べている。「日本人の最大の特徴は、外国の文物思想の浅薄な模倣をよろこぶ気持と、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない」。荷風は、「日本人」であろうとする者たちの根本的な「排外思想」を前に逃避した一人であったかもしれない。しかし、吉田はそうではないはずだ。彼の研ぎ澄まされた、それでいて居丈高なところは少しもない言葉づかいは、彼が批評を開かれたものととらえていること、さらには批評をつうじて芸術をめぐる対話の空間を開こうとしていることを示していよう。新たな耳で音楽を聴くことにいざなう吉田秀和の優しい言葉のうちに、芸術の開かれた場を「日本人」のあいだに切り開くことを目指す彼の不断の闘いを見て取らなければならないのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 4日 (火)

「白バラの祈り」

 マルク・ローテムント監督の映画「白バラの祈り──ゾフィー・ショル、最期の日々」を見る。昨年のベルリン映画祭で銀熊賞に輝いたドイツ映画である。反ナチ抵抗組織「白バラ」の紅一点だったゾフィー・ショルが、無益な戦争を続けるナチス政権の打倒を呼びかけるビラを撒いたのが発覚して逮捕されてから処刑されるまでの5日間のあいだに何を思い、またナチズムで凝り固まった大人たちに何を語りかけたのかを、新しい史料にもとづいて再構成し、力強くかつ細やかに描き出した見ごたえのある作品と言えよう。
 1943年2月18日、当時ミュンヘン大学の学生だった21歳のゾフィー・ショルは、兄のハンスとともに仲間と印刷したビラを大学構内で撒いたところをゲシュタポに捕らえられ、そのたった5日後には人民裁判で反逆罪による死刑の判決が下され、その日のうちに断頭台の露と消えている。逮捕から処刑に至る異常な早さは、当時の政権中枢がナチスの生誕の地であるミュンヘンに若者の抵抗運動が広がることをいかに恐れていたかを如実に物語っているが、その間の事情は長いこと闇に閉ざされていた。1990年代になってようやくかつての東ドイツにあったゲシュタポの捜査と尋問の記録が発見され、ゾフィー・ショルが最期の5日間に何を語ったのかを知り、またそもそも彼女がどのような女性であったのかをうかがい知ることができるようになったのである。
 ローテムント監督の映画「白バラの祈り」は、こうした経緯にもとづいて制作されたものである。この映画も、史料にもとづいて現代史を描く他のドイツ映画同様に手堅い作風を示しているが、この監督が登場人物に向けるまなざしはドイツ現代史を扱う他の監督よりも繊細であるように思われる。たとえば「ヒトラー最期の12日間」のように、人物像がどこかわかりやすく単純化されてしまうことはないのだ。とりわけゾフィー・ショルの多感さと心の揺れ動きを史料から再構成し、彼女の「若さ」として浮かびあがらせることに見事に成功している。そして、最終的に大人たちの前で堂々と自由を主張するに至る彼女の「若さ」を演じきったユリア・イェンチの演技にも、心からの称賛を送りたい。
 ゾフィー・ショルは映画の冒頭では、音楽を愛する若い女性として登場している。お気に入りはビリー・ホリデイの歌とシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」。とりわけシューベルトのイ長調の音楽から、彼女は自然の生命の躍動を聴き取り、命が輝き出る春の到来を予感している。彼女は生きることを心から愛していたのだ。そして彼女は生きることを真摯に愛した。だからこそ、ナチズムの恐怖に覆われた状況のなかで自分がいかに生きうるのかという問題に正面から向きあい、自由を切り開くことに身を捧げることを決断できたのではないか。ナチスが「生きるに値しない」と断じた生命もかけがえのないものと愛する彼女にとって、自由は自分だけのものではなかったと思われる。さらにそのような彼女の生命への愛は、一人のプロテスタントとしての信仰とも結びついている。独房の小さな窓から注いでくるドイツの冬には珍しい明るい日差しのなかに彼女は神の姿を求め、自分がまだ生きていることを感謝しながら、押し寄せる不安に打ち勝つ心の強さを願うのである。
 自由に身を捧げることを選んだとはいえ、ゾフィー・ショルは強靱な心を貫いたわけではない。尋問官に対しては当初、ふざけてばらまいてみただけだと、ビラを撒く政治的な意図を否認しているし、即日処刑されることがわかったときには、絶望のあまり叫ぶことしかできないのである。そのような彼女が、自由とは何か、また自由であるために今どうすることが必要かを考え、公の場でその考えを貫くことができたことに、「安全」といったものの名のもとで自由が閉ざされつつある時代のわずかな希望を見たい。人間を虚構のアイデンティティのうちに閉じ込める「品格」だの「武士道」だのではけっしてなく、ゾフィー・ショルの「若さ」をこそ、今自分自身のうちに見いださなければならないはずだ。そのためにも彼女を見なければならない。広島のサロンシネマで「白バラの祈り」が上映されるのは4月28日までである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年4月 2日 (日)

「伊藤健壱アニメーション展」と「おわりの風景、またはじまりの風景」展

 久しぶりに広島市現代美術館を訪れる。妻のリクエストで「伊藤健壱アニメーション展:I. TOON CAFE」を見に行くことにしたわけである。
 現代美術館は比治山という小高い山の上にあるのだが、ここは桜の名所でもある。週末ということもあって、たくさんの花見客が車座になっていた。しかし肝心の桜は、肌寒い日が続いたせいでまだ咲き始めという感じ。桜の花より花見客のほうが多かったかもしれない。
 さて、「伊藤健壱アニメーション展」は、NHK教育の人気シリーズ「ニャッキ」の作者であり、また数多くのCMを手がけていることもあって、アニメーションやグラフィックに興味があると思われる若者や家族連れでにぎわっていた。「アニメーション・ビエンナーレ」が開かれる「アニメの街」として広島市を印象づけたい市当局の思惑と、今後の企画のためにも収益をあげておきたいという美術館側の思惑とが透けて見える企画である。
 展示そのものに見るべきものは多くないが、アニメーションの制作過程が、製作段階ごとに使われる素材や道具などとともに細かく示されていて、とりわけそれにかかわる仕事に就きたいと思っている若い人にとっては非常に興味深かったと思われる。作品としてはやはり「ニャッキ」が、小さな虫の視点から見た世界をなかなか見事に構成していて、日常的な世界の別の相貌を楽しませてくれるうえ、子どもの変身や模倣の願望を素直に表現していて面白い。それ以外の作品はやや作り込みすぎている印象を受ける。立体映像を見られるコーナーがあったり、出口の前には、パソコンを使って簡単なアニメーションを制作できるコーナーも設けられたりしていて、かなり幅広い客層が楽しめる展示の構成になっていた。それはそれでたまにはよいのかもしれないが、伊藤健壱というアニメーション作家の作品の現代美術としてのインパクトをどう伝えたいのかは、展示から見えてこない。それをどう伝えるかに、ある意味で現代美術館自身の美術館としての位置づけもかかっていると思うのだが、どうだろうか。
 正直なところ興味深かったのは、この企画展より、所蔵作品で構成された「おわりの風景、またはじまりの風景」のほうだった。とりわけ草間彌生の「よみがえる魂」とギュンター・ユッカーの「灰の人」に惹きつけられた。どちらも灰を作品世界の基本モティーフとしている。前者は、灰そのものが生命を吹き込まれたかのように蠕動するさまを、深い黒の地に描かれた無数の、そしてどれも大きさの異なる白い斑点の配置によって見事に描き出している。例によって画面の次元性を見失わせる襞によって絵画であることを否定しつつ、眩暈を起こさせる仕方で画面をはみ出してゆく生命のうごめきを伝えている。後者は、カンバスを灰で覆ったなかに墜落してゆく人の姿を浮かびあがらせるもの。画面に接着された灰に付けられた筋を見ると、人が灰のなかへ吸い込まれてゆくように思われてくる。ユッカーは、人間そのものが灰のなかに消滅しかねない危機を見ているのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月17日 (金)

東京−ベルリン/ベルリン−東京展

 出張の合間に東京六本木の森美術館で開催されている「東京−ベルリン/ベルリン−東京展」を訪れる。19世紀末から21世紀の現在に至るまでのベルリンと東京の芸術交流の歴史を、絵画、写真、建築、工業デザイン、ライヴ・パフォーマンスといった側面から描き出そうとする実に意欲的な展覧会である。自分に残された2時間ほどではとても充分に作品を見ることができないくらい見ごたえがあった。
 19世紀も終わりにさしかかった頃、新興の明治政府は、ベルリンから建築家を招いて政権の中枢をなす官庁街を日比谷に整備しようとする一方、森鴎外をはじめ若い学者や芸術家をベルリンへ派遣し、当時最新の学問や技術を学ばせたり、新しい芸術の息吹に触れさせたりしていた。そうした公的な交流を背景にしながら、日本の芸術家たちが深いところでドイツの芸術運動からインスピレーションを得ていたことを、最初の数室の展示は示していた。
 ベルリンで作曲を学んでいた山田耕筰と同じくベルリンでデザインを学んでいた斎藤佳三が、表現主義の発信基地とも言うべきシュトゥルム画廊の委託を受けて、第一次世界大戦の始まる1914年に日比谷美術館で開催した表現主義の木版画の展覧会を開いている。今回の展覧会ではそれが半ば再現されていたが、これをきっかけにして、表現主義の運動が日本にも徐々に浸透し始め、またドイツの絵画の潮流が日本でも知られるようになる。そうした動きを受けた日本の芸術家たちの作品が興味深い。
 たとえば岸田劉生はすでにデューラーの人物画を範としつつも、表現主義的な内面の発露を画面にもたらそうとしているし、また萬鉄五郎、東郷青児、普門暁といった芸術家の作品には、「青騎士」の画家たちの影響が色濃く表われている。萬はカンディンスキー風のコンポジションを試みているし、東郷の初期の女性像は、カンディンスキーと見まがうばかりの抽象性と色彩の構築性を示している。また神原泰は、画面に音楽的な運動を生命の流動として導入した作品を残しているし、普門の作品では鹿の姿がマルケの描く馬のように自然の生命の躍動と、そこにある色彩の運動のなかに溶け込もうとしている。
 ところで、最初の展示室には、ドイツ表現主義絵画を代表する一人エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーの作品も数点展示されていた。今回展示されているキルヒナーの作品はどれも見ごたえがある。何と言っても「ポツダム広場」は、アウラを剥ぎ取られた都市の情景をそこにある速度とともに鋭く描き出しながら、そこに娼婦と思われる女性のこちらを見つめ返すような一瞬の姿を刻印する傑作である。その女性の緑がかった肌の色は、一瞬にして儚く消え去ってゆくものが閃かせるアウラを放つかのようであり、また街路の緑は、いったん神話的なアウラを剥ぎ取られた都市が、再び無限の迷宮を内に宿した自然へと廃墟化しつつあるのを示しているかのようだ。
 さて、ドイツと日本の芸術交流の場としてもう一つ挙げなければならないのは、芸術とそれにもとづく生活空間の再構成、さらには世界変革をも目指した芸術運動としてのバウハウスである。バウハウスの美術学校に留学し、そのエネルギーを日本に持ち帰ろうとした日本人がいた一方で、ブルーノ・タウトは、ナチスによってドイツを追われた後日本に住みつき、その風土を生かした、かつバウハウス的に簡素で洗練された生活空間のデザインを日本に根づかせようと試みてもいた。そうした彼の試みについては、今後再評価が進むかもしれない。また、モニュメンタルな外観によって見る者を威圧するのではなく、人間の生活の場としての内部空間を、それぞれ異なった生活をいとなむ身体性にもとづきながら無駄を削ぎ落としたかたちで再構成し、それにもとづいて建築それ自体を組み立てなおそうとしたこの時代のバウハウス的建築も、バブルの再来とばかりに大都市にいくつもの巨大オフィスビルが建てられている今こそ再評価されるべきであろう。そのように生活空間を内部から再構成することを目指す建築や工芸のデザインにも触れることができたのも、今回の展覧会の収穫だった。
 バウハウスの運動は、ナチスによって押し潰されてしまうが、そうしたナチズムの暴力に対するジョージ・グロスらの風刺的抵抗の絵画も展示されていたし、あるいはファシズムによる政治の唯美主義に貢献したドイツと日本双方のフォト・ジャーナリズムの動きが当時の雑誌などによって描き出されていたのも興味深い。また、第二次世界大戦の敗戦を経験した両国のなかに、戦争の犠牲を神話化するかのような具象画が現われているのは、敗戦の後、両国の人びとがともにその虚構の自己同一性を慰撫する物語を求めていたことを示していよう。そして、それに対する誘惑は未だ死に絶えていない。こうした絵画の問題は、現在の問題でもあるのだ。
 今回の展覧会では、1960年代以降東京とベルリンがともに国際的なフルクサス

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月21日 (火)

「ヌヴェール」という地名の符合

 必要があってヴァルター・ベンヤミンの生涯の足跡を調べていたら、「ヌヴェール」という地名にぶつかった。
 1939年、友人たちの度重なる忠告や脱出の誘いがあったにもかかわらず、亡命先のパリにとどまって国立図書館に通い、『パサージュ論』のための仕事を続けていたベンヤミンは、9月に第二次世界大戦が始まると、「敵性外国人」として、フランス政府当局によってまずパリ郊外のコロンブ競輪場に造られた収容所に入れられ、10日後にはさらに「志願労働者キャンプ」という名前のついたニエーヴル県ヌヴェールの収容所に移されている。
 彼は、フランス人の友人たちが力をつくしてくれたおかげで2か月後には解放されるが、それまでの期間彼はヌヴェールの収容所の劣悪な環境のなかで、シガレット三本を報酬とする野外哲学講座を開いたりして過ごしていた。あるいは、外出許可の腕章を得るために、「最高水準の」文芸雑誌の刊行を企てたりもした。これによってベンヤミンは三度目の雑誌の挫折を味わうことになるのだけれども。
 ジャック・デリダが2002年のアドルノ賞受賞記念講演『フィシュ』(逸見龍生訳、白水社)で取り上げることになる、「詩を《fichu》に変えることが問題なのだ」というひと言を含んだグレーテル・アドルノ(アドルノ夫人)宛の手紙をベンヤミンが書くのも、このヌヴェールの収容所でのことである。ともかくヌヴェールでの2か月間は、亡命生活の苦しさによってすでにかなり衰弱していたベンヤミンの身体に深刻なダメージを与えた。そのことを自覚してか、パリに戻ったベンヤミンは、思想的遺言とも言うべき「歴史の概念について」(「歴史哲学テーゼ」)を書き下ろすのである。
 そうしたベンヤミンの生きざまをたどりながら、「ヌヴェール」という地名に既視感をおぼえていた。どこかで聞いたことがあるのだけれども、何の機会だったか。
 しばらくしてふと思い出した。あの女性の出身地ではないか。
 その女性というのは、アラン・レネ監督の映画「ヒロシマ、モナムール」(邦題:「二十四時間の情事」、1959年)の主人公の一人のこと。マルグリット・デュラスの脚本によるこの映画で、日本人の建築家と8月6日の広島での24時間をともに過ごすフランス人の女優が、自分の生まれ育った街として「ヌヴェール」という地名を挙げているのである。
 生まれはフランスのどこか、という問いの答えとしてこの地名を耳にした岡田英次演じる建築家は、「ヌヴェール」の響きがすっかり気に入ってしまい、「ヌヴェール」と何度も繰り返す。すると、それに触発されるように、エマニュエル・リヴァ演じる女優は、ヌヴェールの辛い記憶を思い起こし、それを振り絞るように少しずつ語り始めるのである。その女優は、まだ少女だった第二次世界大戦中に、ヌヴェールに占領軍として駐留していたナチス・ドイツの兵士と恋に落ちてしまった。そして、戦争終結とともにフランスが解放されると、その罪の見せしめに、同胞の女性たちによって髪を切り落とされてしまうのだ。ベンヤミンが収容所に監禁された数年後のことである。
 ちなみに「ヒロシマ、モナムール」を見たのは昨年の11月のことだったが、映画館へ向かう際に路面電車に乗った。その電車は、見るからに年季の入った一台だったが、車内をよく見ると1945年8月6日に被爆した電車とのこと。これも何かとの符合だろうかと、その時はいろいろ思いをめぐらせてしまった。新聞によると、この「被爆電車」もまもなく現役を引退するようだ。歴史の「動く」痕跡が、街から姿を消してゆくわけである。そのことが記憶の退化と符合するものでなければよいのだけれども。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 9日 (木)

広島県立美術館の「エルミタージュ美術館」展

 雪のちらつくなか、広島県立美術館で開催されている「エルミタージュ美術館」展を見に行く。サンクト・ペテルスブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されている作品のごく一部をみせるこの展覧会は、「フランドル絵画とヨーロッパ工芸の精華」というサブ・タイトルのとおり、ダフィート・テニールス(子)の風俗画を中心にバロック期のフランドル地方の絵画と、16世紀から19世紀初頭までの陶磁器を中心とする工芸品の数々とを展示するものになっていた。1月に見た兵庫県立美術館における「アムステルダム国立美術館」展のように、絵画のなかに実際に描かれている工芸品を展示するといった仕掛けがなく、絵画と工芸品のつながりを強く感じさせる展示でなかったのは残念だけれども、たとえばナポレオンの妻ジョゼフィーヌのために注文された豪奢な食器セットの絵付けが、フランドルやネーデルランドの風俗画が描くのとまったく同じ画題を、同じような画風で描いているのを見ると、バロックの風俗画が、エルミタージュの基礎を築いたエカテリーナ2世をはじめ各国の王侯貴族によっていかに好まれていたのかを感じ取ることができる。
 正直なところ、展示されている絵画のなかにこれと言って凄い絵があったわけではないが、今回の展覧会が「知られざる巨匠」としてフィーチャーしているテニールスの作品をまとめて見ることができたのは、やはり大きな収穫だった。テニールスは、等身大の庶民、とりわけ農民たちの生きざまを、その風俗も含めて生き生きと描き出すことのできた、ピーテル・ブリューゲル(父)以来の画家であった。とはいえ、ブリューゲルとは異なってテニールスは、時に滑稽であったり、醜悪であったりする人びとの姿に、ことさらに道徳的な意味を込めようとはしていない。むしろひとりひとり異なった表情や身ぶりを、あるいはその身の周りにある細々とした日常の道具類、楽器をはじめ享楽のための小道具を、温かいまなざしをもってありのままに描き出そうとしているように見える。そのようなまなざしが注がれることによって、垢抜けない農民の顔が、あるいは桶のような日々の暮らしの道具が、生き生きと輝き始めるのだ。
 そのようなテニールスの特質が最もすぐれたかたちで発揮されていると思われた作品として、「農民の婚礼」という絵とともに、農村の祭りを描いた2枚の絵を挙げておきたい。それ以外では、やや珍しい集団肖像画である「アントワープ市射手組合」の屋外でのセレモニーを描いた絵は、市民階級の自負とその街への誇りを生き生きと描いているように見えるし、庶民の厨房のなかで世界を構成する「四大元素」が表現できるという発想も、テニールスならではのものと思われた。他方、この画家は自然の風景を描くのはあまり得意でなかったようで、自然の風景を背景としなければならない場合には、時にそれを描くのが得意な他の画家の助力をあおがなければならなかった様子である。
 テニールスの作品以外では、ヤン・ブリューゲルの家族の肖像と推測されているアンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画(展覧会の広告にも用いられている一枚)が、よく練られた構図のなかに人の表情に生気をもたらす光のマジックを組み込んでいて、なかなか印象的。ジョルジュ・ド・ラトゥールの「いかさま師」を思い起こさせずにおかない構図で掏摸の場面を描いた「手相占い」も、明暗の対比の際立たせ方までド・ラトゥールに似ていて面白いが、画面はそれほど緊迫感に満ちてはいない。工芸品では、木片の組み合わせでだまし絵のように遠近感をもたらすドイツの寄せ木細工の精巧さに瞠目させられた。
 今回は、学生たちを連れてこの「エルミタージュ美術館展」を身に行ったのだが、美術にこれまで触れるチャンスが少なかった学生も、テニールスの風俗画を楽しんで見ていた様子だった。とくに女性の学生は、小さく描かれたパンケーキをほおばる子どもに「かわいい」と声を上げながら見入っていた。この展覧会は、凄い作品に出会えるわけではないけれども、ネーデルランドの絵画にはない明るさと温かさをもって庶民の等身大の姿を描くテニールスの世界に触れるよいチャンスであることは確かなようである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 8日 (水)

エレニの叫びと音楽というユートピア

 先日、広島市内の映画館でテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』が再上映されていたのを見に行った。アンゲロプロスの作品らしく、息の長いショットで映像美をじっくりと味わわせてくれる映画であることをあらためて実感させられるが、その映画がゆったりとしたテンポで語りかけてくるのは、20世紀のギリシアの苦難の歴史を一身に背負っているかのような女性エレニの痛ましい生涯である。オデッサから逆難民として帰還したギリシア人のリーダー格だったスピロスの葬列の筏舟の一団が、薄暗く曇ったなかを静かに川を下ってゆくとりわけ美しいシーンには、切々と苦難の歴史を物語るこの映画の時空間が凝縮されていたのかもしれない。
 みなしごとなってオデッサから帰還したエレニの生涯を描くこの映画は、国家への反逆者を匿った疑いで監獄を転々とするあいだに、まず内縁の夫を沖縄戦で失った──エレニの幼なじみで、後に恋人となるアレクシスは、音楽家として羽ばたくチャンスをアメリカに求めた後、家族を呼び寄せるために米軍の移民部隊に加わっていたのだった──うえに、第二次世界大戦後の内戦で双子の息子まで亡くしてしまった彼女の慟哭によって締めくくられる。最後の子どもの遺骸を見つけた生涯の難民エレニは、もはや愛する者が一人もいなくなってしまったことを思い知り、見る者を突き刺すような叫び声を上げて泣くのだ。
 そのようなエレニの慟哭のシーンは、一面で『否定弁証法』におけるアドルノの言葉を思い出させるものである。「永遠に続く苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を表現する権利を持っている」(三島憲一訳)。エレニはまだ泣き叫ぶことができるし、永遠に続くかのような苦悩を背負った彼女には、そうする当然の権利があると思われる。それに、彼女の慟哭は、映画を見る者の胸に、彼女が生きた証を刻み込むことだろう。しかし、他面でエレニはもう泣き叫ぶことしかできないのかもしれない。叫びにしかならない彼女の思いを受けとめることができるのだろうか。そうして、どこかしら彼女と同じ苦難を味わった難民たちの生の歴史に思いを馳せることができるだろうか。映画館を出た後で、エレニの叫び声がどこか別の場所で反響しているのに耳を澄ませなければならないのかもしれない。
 ところで、エレニの涙をたたえているかのような雲に覆われた映画の空間のなかに、一つだけ心を和ませてくれる場所がある。テサロニキの難民居住区域「白布の丘」にある廃墟、通称「音楽の溜まり場」である。エレニとアレクシスがスピロスの手から逃れるのを手伝ったヴァイオリン弾きニコス──彼が後に反逆者として追われることになるのだ──は、アレクシスのアコーディオン演奏の才を認め、そこへ案内する。すると、仕事を待ってそこに集う音楽家たちが、アレクシスとエレニを音楽で歓待するのである。そのシーンは、廃墟のなかに一つの、現実の歴史からすれば文字どおりのユートピアを開くかのようだった。
 音楽は時としてユートピアを現出させることができる。そのような考えを抱かせるきっかけをもたらすものとして、ここでは1枚のDVDを挙げておきたい。それは、指揮者として、またピアニストとして、八面六臂の活躍を続けているダニエル・バレンボイムと、音楽への造詣も深かった思想家エドワード・サイードとが協働して創設した、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラのジュネーヴでのライヴ録音を収録したCD(Warner Classics 2564 62190-5)に付いてくるもので、そこにはジュネーヴでの演奏会の模様のほかに、ヴァイマールとセヴィリアでのワークショップとリハーサルの様子を記録したドキュメンタリーと、ユダヤ人バレンボイムとアラブ系の知識人サイードの対談とが収められている。
 ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラは、パレスチナ自治区を含むアラブ諸国とイスラエルの才能ある若い音楽家たちによって構成されている。現実の世界では、アラブ人とユダヤ人の関係は険悪な状態が続いている。パレスチナ=アラブ人の居住地域とユダヤ人入植地のあいだに建設が進んでいる「分離壁」は、何よりもそのことを象徴していよう。しかもイスラエルのシャロンが病に倒れ、パレスチナ自治評議会の選挙でハマスが勝利を収めて以降、両者の和解への道筋はますます見定めがたくなっている。そのような困難な状況を乗り越えて、アラブ人とユダヤ人の若い音楽家が一つのオーケストラを、弦楽器セクションにあっては同じプルトを形成し、同じ一つの音楽をつくりあげようとするのである。
 ワークショップとリハーサルをオーケストラの創設者たちの話も交えながら記録したドキュメンタリー「レッスンズ・イン・ハーモニー」には、イスラム世界への憧れをうたった『西東詩集(ウェスト=イースタン・ディヴァン)』の作者ゲーテゆかりのヴァイマールにおける最初のワークショップで、アラブ人とユダヤ人の音楽家がところどころでぶつかりあいながらも、一つの音楽へ向けてだんだんと心を一つにしてゆくさまが生き生きと映し出されている。オーケストラが奏でる音楽は、たしかにまだ粗削りではあるけれども、プロフェッショナルなオーケストラの演奏からなかなか聴くことのできない若々しい力に漲っている。対話をつうじて若い音楽家たちの心を一つにしてゆく、バレンボイムとサイードをはじめとする指導者たちの力量も特筆すべきであろう。
 争いが絶えず、エレニのような難民を日々生み出しているこの世界のなかに、音楽というユートピアを一瞬現出させるかのようなウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ。その活動が、日本でももっと知られるようになって、その支援者が増えれば、と思うと同時に、「平和文化都市」にして「オペラの街」であるここ広島で、現実の政治情勢のなかでは対立しあう国々や諸民族出身のアーティストたちで一つのオペラをつくりあげることができたら、とふと考えた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年1月27日 (金)

ザルツブルク旅日記:1月26日

 朝早くホテルをチェック・アウトして、行きと同様オーブスでザルツブルクの空港へ向かう。バスでは今回2つの演奏会のチケットを世話してくれた女性とも偶然出くわす。彼女によれば、この日300人におよぶ日本人がザルツブルクに着くとか。中央駅で降りた彼女のその後の苦労はいかばかりか。
 空港に到着し、チェック・インを済ませて外の様子をうかがっていたが、フランクフルトへ向かう飛行機がなかなか来ない。どうもフランクフルトが大雪で、なかなか飛べないようだ。それでも1時間遅れで来てくれてホッとする。それに乗り込んでフランクフルトへ向かい、関西空港行きの飛行機に間に合ったまではよかったのだが、その飛行機のエアコンが壊れてしまい、ロシア上空で今度はミュンヘンへ引き返す羽目になる。どうやら雪のなかでエアコンを酷使したのがたたったようだ。
 ミュンヘンに着いたところで、乗客全員バスに乗せられ、ミュンヘン郊外のシェラトン・アラベラ・ホテルに連れて行かれる。そこで1泊して、翌朝早くに再び関西空港へ向けて飛び立つというわけだ。こちらは翌日そのホテルで寝坊してしまい、空港行きのバスに危うく乗り遅れるところだった。
 ミュンヘンから関西空港行きの飛行機は、今度は無事に飛び立つ。天気に恵まれ、機上からはアルプスの尾根も見える。モーツァルトの250回目の誕生日にあたるわたしたちの3度目の結婚記念日を、アルプス越しにザルツブルクを望みながら、ルフトハンザの機上で祝うことになったわけである。
 機上では、あの分厚い『モーツァルト頌』(白水社)を読了。それを読み終えたときにあらためて脳裏に浮かびあがってくるのは、作曲家としてのモーツァルトが、「ぼくのこと好き」、と問いかけるのに、彼の生前にだれも応えらえれなかったという事実である。たしかに、ハイドンをはじめ彼の音楽を愛していた人びとはいた。しかし、その愛は、彼にこの世の幸せをもたらすに充分なものではなかったのだ。彼がヴィーンで才能を磨り減らし、過労で倒れ、ほぼ無一文の状態で共同墓地に投げ込まれた、という話は、そうした結末に至る筋だけは自分の将来のようで恐ろしい。それはともかく、モーツァルト週間の演奏会場の様子を見るかぎり、彼の音楽はますます聴かれていなくなっているのではないか。むしろ金持ちの自己満足的な消費の対象に成り果ててしまっているのではないだろうか。そういう光景を目のあたりにすると、結局だれも聴く耳をもっていないし、そういうなかで災厄が繰り返されてゆくのだ、と考えざるをえない。パレスチナの総選挙におけるハマスの勝利に対する欧米の対応や、ドイツで移民への侮辱的な尋問が義務づけられつつある状況を報ずる新聞記事を見ていると、そうした思いをますます強くせざるをえないところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月26日 (木)

ザルツブルク旅日記:1月25日

 午前中はモーツァルテウムの大ホールでユベール・スダーンが指揮するモーツァルテウム管弦楽団の演奏会を聴く。前半にジャンルカ・カシオーリの独奏でモーツァルトのヘ長調のピアノ協奏曲(KV. 459)が演奏された。彼の演奏は、きわめて繊細で、細かな表情の変化を示す。とりわけ転調に対してきわめて敏感に反応する。しかし、たとえばクララ・ハスキルの演奏のように、不健康に胸を締めつけられるような感じを抱かせることはない。健康的な細やかさを示すピアノの演奏と言えようか。それがこの曲に実によくマッチしている。カシオーリの演奏は、両端楽章では天衣無縫の飛翔を聴かせるし、緩徐楽章では晴れやかな音で香気を漂わせるような歌を聴かせてくれる。独奏が非常に細かなルバートを多用するために伴奏がついて行けていない箇所があったのは残念だが、モーツァルトを聴く喜びを素直に味わわせてくれる演奏だったのではないだろうか。今回の旅行中に聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏のなかでは、最もすぐれたものだったと思う。
 休憩後のメンデルスゾーンのイタリア交響曲の演奏は取りたてて強い印象を与えるものではなかったが、たとえばおよそ1年前に京都で聴いたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏に較べれば、はるかに明るく、晴れやかな演奏に仕上がっていたのではないだろうか。リズムの切れ味が鋭いが、ところどころ楽節の処理が粗くなってしまったところがあったのは残念。全体としては、引き締まった、どちらかというとザルツブルク的な晴れやかさを示す演奏だった。
 午後、かつての救貧院を用いた、祝祭大劇場近くの玩具博物館を訪れる。とりわけラテルナ・マギカという昔の投影装置の展示が興味深い。映画が登場する以前に別の世界へいざなうものとして、ヴァルター・ベンヤミンのラジオ講演をつうじてのみ知っていたこの装置が、実際いかに造られ、またいかに機能していたのかを見ることができたのは大きな収穫だった。簡単に言えば、万華鏡と蝋燭による投影装置を組み合わせたものと言えようか。ここから、実写の映画とアニメーションの両方に道が開かれている。
 この博物館には、古い玩具以外に多くの古楽器も展示されている。ベルリンの楽器博物館ほどではないが、展示されている楽器の種類はかなり豊富。怪獣の顔をしたコントラファゴットなどとくに微笑ましい。モーツァルトの時代にどのような演奏がおこなわれていたのか、実際の楽器を見ながら想像できるのも、この博物館の展示の魅力であろう。あわせてビーバーをはじめとする、ザルツブルクを代表する作曲家の肖像も展示されているし、たとえば彼の作曲した作品で、展示されているヴィオラ・ダ・モーレがどのように響くのかも、録音で聴くことができる。もしかすると、ザルツブルク市内の博物館のなかではいちばん魅力的かもしれない。訪れる人は少ないけれども。
 夜は、州立劇場でモーツァルトの初期のオペラ・ブッファ「偽の女庭師」を見る。早々に売り切れていたこの公演のチケットも、ザルツブルク在住の女性に手配してもらった。指揮はアイヴァー・ボルトンで、演出は、ベルリンで「コジ・ファン・トゥッテ」や「トゥーランドット」の演出を見たことのあるドリス・デリエ。嫉妬に駆られたある伯爵によって、その伯爵が死んだと思うほどに重傷を負った別の伯爵の令嬢が、庭師になりすましてある代官の許に身を寄せるところから物語が始まるのだが、彼女の演出ではその庭が、郊外によくあるホーム・センターのガーデニングのコーナー。この令嬢は、そこの店員として働くことになった、というわけである。それだけでも、古典的な演出を期待した金持ちの年寄りの神経を逆なでするには十分であろう。日本からモーツァルト生誕250周年のガラ・コンサートを見にやって来た成り金の老夫婦たちは、すっかり出鼻を挫かれた様子だ。こちらとしては、もう笑いがこみ上げてくるのを抑えられない。
 ストーリーは王侯貴族の込み入った色恋沙汰なのだけれども、冷めた目で見ればソープ・ドラマにおける男女の絡みと何ら変わるところはない。そう考えれば、デリエの設定は、この若きモーツァルトのオペラを現代に行かすうえではまことに適切だったと思われるが、同じ手が他の作品にも同様に通用するか、と言われれば、首をかしげざるをえない。とはいえ、登場人物を血だらけにしてしまう食虫植物をはじめ、若い観客を喜ばせる装置は事欠かないし、それに全部値段が付いているあたりも、どれもネット上で売りに出せるものに囲まれている現代の生活を鋭く照らし出していよう。まずは成功した演出なのではないか。
 歌手のなかでは、ヴィオランテを歌ったアレクサンドラ・ラインプレヒトが出色の出来を示していた。ラミーロを歌ったルクサンドラ・ドノーゼの表現も胸を打つ。ヴォオランテに惚れるドン・アンキーゼを歌ったジョン・グラハム=ホールとその小間使いセルペッタを歌ったアドリアンナ・クツェローヴァは実に巧みだが、ベルフィオーレ伯爵を歌ったジョン・マーク・エンスリーとアルミンダを歌ったヴェロニク・ジェンスはやや弱い感じ。アイヴァー・ボルトンの指揮するモーツァルテウム管弦楽団は、午前中に聴いたのと同じオーケストラか、と思うくらい魅力的(実際ほとんど別のメンバー)。とくに弦楽器が、初期のモーツァルトにふさわしい切れ味鋭い表現を聴かせていた。管楽器も実に巧みだが、とくにナチュラル・ホルンとナチュラル・トランペットがミスなく吹いていたのには驚嘆させられる。全体として、初期のモーツァルトの魅力を現代に甦らせる演奏にに仕上がっていたのでないだろうか。

IMGP0606

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月25日 (水)

ザルツブルク旅日記:1月24日

 凄まじい寒さのなか、まずミラベル宮殿のオランジュリーを改装したバロック美術館で少し絵を見る。バロック期の小人の漫画のような版画が特集されていて面白い。リューベンスやティエポロがぽつぽつとあったけれども、正直言って大した絵はない。個人のコレクションを展示しているらしい。
 その後午前中は、モーツァルテウムの大ホールで、アンドラーシュ・シフのピアノを中心とした室内楽の演奏会を聴く。冒頭に彼の独奏で、モーツァルトがグルックのオペラのアリアの主題を用いて作曲した変奏曲(KV. 455)が演奏されたが、これが実に楽しい。しっかりした音で各変奏の表情を明確に描き出しながら、やや即興的に諧謔も加えつつ弾き進めてゆく。これまで聴いてきたのとはひと味ちがったモーツァルトの顔を見せてくれた。続いて、第41番に数えられる変ホ長調のヴァイオリン・ソナタ(KV. 481)とト長調のピアノ・トリオ(KV. 496)が演奏されたが、シフのピアノの音が少し強すぎる気もしなくはない。この2曲では、エーリヒ・ヘブラートの手堅いヴァイオリンの演奏も光る。休憩後には、クラリネットとヴィオラとピアノのための「ケーゲルシュタット・トリオ」(KV. 498)が演奏された。イェルク・ヴィドマンの伸び伸びしたクラリネットが印象的。それに対して塩川悠子のヴィオラの音は、ヴィオラを本職としないせいか、少し弱い。シフが二人をニュアンス豊かな音でサポートしていた。とりわけ日本ではなかなか触れることのできない、親密な雰囲気に満ちた室内楽の演奏会であった。
 午後は、旧市街の美術館めぐり。まず、ザルツブルクの大司教のあまりにも豪華なレジデンツをひととおり回った後、その上にあるギャラリーへ。シュヴェリーンで見た、カレル・ファブリティウスの、祈るハガルのもとに天使が現われる情景を描いた一枚と再会する。祈る姿に焦点を合わせたこの絵はなかなかの作品だと思う。それと彼の師であったレンブラントによる老婆の絵が眼を惹く。それ以外にバロックの風景画や風俗画がかなり数多く展示されていたけれども、ハッとさせられるような凄い作品にはなかなかめぐりあえない。通常の展示に加えて、冬景色を描いた作品を、時代ごとの冬の風俗とともに展示する特集展示があった。アーフェルカンプが氷上の遊びを生き生きと描いていた。
 レジデンツのギャラリーを出た後、いかにも観光客向けと思われるレストランで中途半端な味付けのグラーシュ(ハンガリー風の牛のシチュー)を食べてから、今度はルペルティヌムという現代美術館へ。キルヒナーやクリムトの風景画に加え、ココシュカの絵を見ることができた。とりわけ赤が揺らめくキルヒナーの絵が印象的。それ以外に、生活空間にあふれる映像的イメージによってつくられる現代のヴァーチャルなリアリティを抉り出す、同時代のアーティストたちの作品も特集されていた。写真をモデルに描いた作品のなかには面白いものもいくつかあったが、ゲルハルト・リヒターの作品のように凄いものがあるわけではない。
 夜は、再びモーツァルテウムの大ホールで、マーク・ウィグルスワースの指揮するカメラータ・アカデミカの演奏会を聴く。前半にショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番をルドルフ・バルシャイが編曲した室内交響曲が演奏されたが、これが凄かった。澄みきったピアニッシモの音が折り重なってゆくラルゴに続いては、凄まじい音で疾走する激烈なアレグロが続く。ヴァイオリンが6人とはとても思えない音だ。しかもけっして響きが混濁することはない。若いメンバーが多いうえ、アンサンブルがしっかりしているので、澄んだ響きの切れ味鋭いフォルテが聴かれる。それが容赦なく打ち込まれてゆくのだ。ウィグルスワースの音楽の運びも実に手堅い。最後のピアニッシモが消え入った後には会場全体が静寂に包まれた。しばらく後にブラヴォーの声が上がったことは言うまでもない。
 休憩後にはモーツァルトの変ホ長調の交響曲(KV. 543)が演奏された。ピリオド楽器の響き(実際ナチュラル・ホルンとナチュラル・トランペットが用いられていた)を生かしながら手堅く組み立てられた、見事な演奏だったと思う。ウィグルスワースが、音楽自体のダイナミズムを生かすかたちで音楽を運んでいたのがとりわけ好ましい。第1楽章と第2楽章の主題は、晴れやかな響きで柔らかに演奏されていた。第2楽章の響きにもう少し奥行きがあればとも思ったが、木管楽器のメロディがたゆたいながら折り重なってゆくあたりは充分に美しい。第3楽章と第4楽章のリズムも実に生き生きとしている。フィナーレにおける弦楽器の各奏者の力演も光る。全体として、カメラータ・アカデミカの演奏は、一昨日のヴィーン・フィルの演奏よりもはるかにすぐれた出来を示していたのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月24日 (火)

ザルツブルク旅日記:1月23日

 午前中はモーツァルテウムの大ホールで内田光子とハーゲン弦楽四重奏団の演奏会を聴く。そこでのモーツァルトのト短調のピアノ四重奏曲(KV. 478)の演奏は、これを聴けただけでもザルツブルクまでやって来た甲斐があった、とさえ思われるほどの素晴らしいものであった。
 何よりも内田光子のピアノの存在感が際立つ。ひとつひとつのフレーズが、いやそれどころかひとつひとつの音が、音楽的な必然性で漲っている。冒頭のトゥッティに続くピアノ独奏によるパッセージからして、聴き手の胸をぐっとつかむ魅力に満ちているのだ。内田はひとつひとつのパッセージを、控えめにペダルを用いつつ、澄んだ音で、また十分に考えられたフレージングで歌い込んでゆくが、それでいて音楽が停滞したりすることはない。第一楽章は、モーツァルトの「歌うアレグロ」のなかに、厳しさと優美さを、ニュアンスの無限の変化をたたえながら交錯させつつ駆け抜けてゆく。第二楽章の歌は、この演奏の白眉を示すもの。澄みきった音で切々と歌われる主題を聴いて涙せずにいられようか。ピアノを支えるハーゲン兄弟の清澄な響きも耳を惹く。フィナーレでは、泣きながらの微笑みとデモーニッシュな情熱が交錯するさまが見事に表現されていた。内田光子のピアノとハーゲン兄弟の掛け合いが、目眩く表情の変化を描き出していたように思われる。
 ハーゲン弦楽四重奏団の演奏においては、前回聴いたときも、ヴィブラートを控えた音による澄んだ響きと研ぎ澄まされた表現が心に残ったが、今回はそうしたこの四重奏団の特徴が、モーツァルトにふさわしいどこか密やかな親密さと、表現の冴えに結びついていたのではないだろうか。最初に演奏された「プロシア王」セットの第1番に数えられる弦楽四重奏曲は、澄んだ響きで軽やかに音楽が運ばれるなかに、冴えた表現を示していた。この曲では、クレメンス・ハーゲンのチェロの堂々とした歌も印象的。彼は以前に較べて(体格的にも?)風格を増しているように思われる。
 休憩を挟んでシューマンのピアノ五重奏曲が演奏されたが、こちらは起伏の激しいドラマティックな演奏に仕上がっていた。内田光子も、モーツァルトとは弾き方を変えて、ロマンティックなスケールの大きさを表現していた。とりわけ第二楽章における、両端の密やかさと中間部の激しさの対照がそうした印象をもたらしていたように思う。ここではヴェロニカ・ハーゲンのヴィオラの真摯な表現が際立っていた。第一楽章では、ブリラントなトゥッティの後にさっと雰囲気が変わって、ピアノに始まる優しい歌が連綿と続いてゆくのが実に魅力的。このように全体的に、ドラマティックな起伏の激しさを示しているが、けっして響きが混濁して音楽が重くなることはない。むしろ、冬のザルツブルクの晴れた日の空を思わせる、澄んだ晴れやかさに貫かれた演奏だった。
 演奏会の後は、旧市街のゲトライデ小路にあるモーツァルトの生家を訪れる。通常の展示に、現代美術のアーティストによるインスタレーションが組み合わせてあったが、ややキッチュな印象は拭えない。ここの展示物も、やや傷んできている感じがする。モーツァルトのオペラの古い演出のための絵や、初演当時のチラシなどは興味深く見ることができた。
 その後、ザルツブルクの大聖堂を見てから、フランツィスカーナー教会へ。ミヒャエル・パッヒャーの温かみのある優しさを放つ聖母子の木彫の像と再会する。教会を出た後は、フェストゥングスバーンというケーブルカーに乗って、ホーエンザルツブルク城塞へ向かう。晴れていたため、城塞からザルツブルク街を見渡せたのはよかった。雪に覆われた街を、日に映えて輝くザルツァッハとともに一望する。しかし寒い。城塞の内部では、妙なトイレの付いた大司教の居室やオーストリア国防軍の兵器などが展示されていたけれども、これといって面白いものはない。正直退屈させられた。
 夜は、軽い食事をとった後、マリオネット劇場を訪れる。フィレンツ・フィリチャイ指揮の名盤を用いて、モーツァルトの「後宮からの誘拐」が上演されていた。太っちょのオスミンを含め人形の身のこなしが妙に軽やかなのが気にならなくもないのだけれども、人形遣いは実に見事。とはいえ、録音に合わせて動く人形の立ち振る舞いだけを見ていると、だんだんと眠くなってしまうのも確かで、ところどころ居眠りしてしまった。これまでの疲れがピークに達していたのかもしれない。

IMGP0593 IMGP0594

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月23日 (月)

ザルツブルク旅日記:1月22日

 午前中はモーツァルテウムの大ホールで、ピアニストのアンドラーシュ・シフが、モーツァルトのピアノ協奏曲の全曲演奏のために編成したカペラ・アンドレア・バルカの演奏会を聴く。どの作品の演奏を聴いても、シフと演奏することに対するメンバーの喜びがストレートに伝わってくる。常時一緒に活動しているグループではないので、一つのセクションが一つの楽器に聴こえるようなアンサンブルの精度は求むべくもないが、ピリオド楽器風の素朴な響きを生かしながら洗練された表現を聴かせるあたりがとくに魅力的なグループ。
 シフとカペラ・アンドレア・バルカのコンビの魅力が最もよく生かされていたのは、シフの弾き振りによるト長調のピアノ協奏曲(KV. 453)の演奏においてであったと思われる。ベーゼンドルファーで弾くシフの独特のやや硬質の音とオーケストラの着飾るところのない響きとが組み合わさって、温かみのある軽やかさが生まれていた。緩徐楽章の演奏は、モーツァルトを聴く喜びをじっくりと味わわせてくれるし、フィナーレの演奏は、個々の局面の表情を明確につけながら一気に聴かせる。全体として、モーツァルトのピアノ協奏曲のなかでもとくにチャーミングなこの曲の新たな魅力を照らし出す演奏だったのではないだろうか。聴衆のアンコールに応えて、フィナーレの最後のプレストの部分が再度演奏された。
 休憩後の「ジュピター」交響曲の演奏も聴かせる。シフは一貫して内声部の動きを強調していたが、そのために響きがけっして弱々しくならないし、またリズムの躍動感も生まれている。力強く晴れやかな響きで感興の高まりを素直に表現した演奏と言えようか。速めのテンポによるフィナーレの演奏のところどころに合奏の綻びがあったのは残念だったが、そのコーダでヴァイオリンの晴れやかなピアノの響きが張りつめるなかにフーガの主題が回帰してきたときには、胸に熱いものがこみ上げてきた。
 演奏会が終わった後、旧市街へ出て、地元の人びとが集っているレストランで昼食をとった。少し辛い味付けの肉の煮込みに、クネーデル(ふすまの大きな団子のようなもの)やスペツェレ(素朴なパスタのようなもの)を付け合わせたものを食べて、妻と二人すっかり腹一杯になってしまったが、その眼の前で一組の母娘が、よりによってダイエット・コークを飲みながら、巨大なシュニッツェル(カツレツ)やザウアーブラーテン(酢漬け牛肉のロースト)を食べ始めたのには驚いた。よけい胃がもたれてきたような気がする。
 その後、ザルツブルク・カード(市内交通乗り放題なうえ博物館などに見せるだけで入れる便利なカード)を手に入れようとするが、日曜日だったためにモーツァルト広場のツーリスト・インフォーメーションも閉まっていて、なかなか手に入らない。ホテル・ブリストルのフロントで何とか手に入れ、その向かいにある青年時代のモーツァルトの住家を訪れる。10年前に訪れたときにくらべ、楽器をはじめ展示物がずいぶん傷んでいるような気がするのは気のせいだろうか。くすんだ展示室と、妙にきらびやかなミュージアム・ショップとの対照が複雑な気持ちにさせる。
 夜は祝祭大劇場で、ニコラウス・アーノンクールが指揮するヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。ハイドンとモーツァルトの作品が2曲ずつ演奏されたが、アーノンクールの、とくにモーツァルトへの辛口のアプローチが際立つ演奏。前半に、第14番に数えられる変ホ長調のピアノ協奏曲(KV. 449)が演奏されたが、通常甘美に響く緩徐楽章冒頭の旋律も、彼の手にかかると、フレーズの襞を際立たせながら、きりっと引き締まった表情を呈する。フィナーレの演奏は、鋭いアクセントで辛口のユーモアを示していた。このように明確な方向性を打ち出すアーノンクールの指揮に対して、この曲で独奏を務めたレイフ・オヴェ・アンスネスのピアノはまったく冴えない。必要以上に軽いタッチでさらさらと弾き進めるが、ひとつひとつの音からまったく必然性が感じられないのだ。休憩後に演奏されたハイドンのト長調のピアノ協奏曲には退屈させられた。
 最後にモーツァルトのト短調の交響曲(KV. 550)が演奏されたが、アーノンクールとヴィーン・フィルの今回の演奏は、この作品のデモーニッシュな劇性を最大限に強調したものと言えよう。かなり速めのテンポで音楽が運ばれるなかに、鋭いアクセントが容赦なく打ち込まれてゆく。両端楽章の展開部や再現部に見られる目まぐるしい転調は、苦しみ悶えるさまを呈しているかのようだった。とはいえ、オーケストラがヴィーン・フィルなので、全体としてニュアンスが豊かで、モーツァルトを聴いているのだ、という気にさせられる。とりわけ、アンダンテの最後の和音は夢のように美しかった。ところどころ、らしからぬ合奏の乱れが聴かれたのは実に残念。もしかしたらまだ練習不足で、アーノンクールの意図がよく浸透していなかったのかもしれない。
 宿に戻って、吉田秀和の『モーツァルトを求めて』(白水社)を読了。この本に収録されている、彼がモーツァルト生誕二百周年の年に書いた論考「モーツァルト──その生涯、その音楽」ほどに、モーツァルトという人間とその音楽の本質を、それにふさわしい形式で叙述した文章を知らない。それから、吉田秀和にとっても、モーツァルトの創作活動の根幹をなすのはピアノ協奏曲というジャンルであり、「ジュノーム」という綽名で知られる変ホ長調のピアノ協奏曲(KV. 271)のうちには、吉田にとってのモーツァルトの原風景があるようだ。今回のザルツブルクへの旅では、ピアノ協奏曲は後もう1曲、ヘ長調のもの(KV. 479)を聴くことになっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月22日 (日)

ザルツブルク旅日記:1月21日

 夕刻にザルツブルク空港に降り立った。飛行機の窓から見るザルツブルクの街はすでに一面の銀世界。こちらへ向かう飛行機に乗り継いだフランクフルトとは大違いである。アルプスの麓にあるためか、ここはオーストリアのなかでもとくに寒さが厳しいようだ。ちなみにザルツブルクの空港はスキー客でごった返していた。幸いなことに外へ出てもそれほど寒さを感じない。
 オーブスと呼ばれる当地のトロリーバスに乗って、一路ミラベル広場近くのホテルへ。エレベーターをはじめ設備にやや古さを感じさせるが悪くはない。部屋は十分に広いし、書き物ができる机も備わっている。
 荷解きをしたところで、まだ確保できていないモーツァルト週間の二つの演奏会のチケットの手配を依頼している現地在住の女性と連絡を取る。ちなみに彼女は、ザルツブルクで旅行エージェントを営んでいるとのこと。ずっと気になっていた23日の演奏会のチケットは、明日の夕方にホテルに届けてくれるとの話でひと安心する。それから、彼女によれば、東京でずいぶん雪が積もったため、成田からザルツブルクへ向かう予定の旅行客がみな成田で足止めを食らっているようである。なかには明日からモーツァルト週間の演奏会を聴く予定のツアー客もいるとか。とすれば、関西空港から出発したわたしたちは相当に幸運だったわけだ。
 とはいえ、まる一日以上にわたる長旅にはさすがにくたびれてしまった。広島という街のヨーロッパへのアクセスの悪さをまたしても痛感させられたかたちだ。出発する日の朝の始発の新幹線でもフランクフルト行きのフライトには間に合うのだが、広島駅までの公共交通機関が動いていない。というわけで、前の晩に夜行バスに乗って大阪へ向かったのだが、これが身体にこたえたようだ。
 フランクフルトへのフライトのあいだ、吉田秀和が選んで訳した『モーツァルトの手紙』(講談社学術文庫)を読んでいた。一貫して神への篤い信仰が表明されているが、それはモーツァルトが熱心なカトリックであったことよりもむしろ、彼が、たとえどれほど苛酷であろうとも、遭遇した現実を誠実に受けとめようという信念をもっていたことを暗示しているのではないだろうか。そうした彼の誠実さを最も感動的なかたちで示しているのが、パリにおける母の客死を姉たちに報告するあの有名な手紙であろう。ちなみに──俗っぽい言い方をするなら──より神に近いところで神を愛していたモーツァルトにとっては、ザルツブルクの大司教もヴォルテールも我慢ならなかったようだ。
 手紙における楽器や演奏法に関するモーツァルトの評言も、彼の音楽観を生き生きと伝えていて面白いが、最も共感させられたのは、徐々にみずからの才能を自覚し始めたモーツァルトが、それを生かそうと苦闘するさまである。弟子をとらなければ生活できないが、弟子をとれば取るほど作曲に専念できる時間は削られていくと愚痴をこぼしているあたり──才能のことはともかく──身につまされる。とまれ、モーツァルトが青年期以来嫌悪してやまなかったザルツブルクに、彼の作品を聴くために来てしまったわけだ。モーツァルト週間の演奏会のなかで、彼が駆け抜けるように生きた生涯のなかから生まれた作品のうちに、新たな美を発見できるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月20日 (金)

10年ぶりのザルツブルクへ

 明日から5泊6日の予定でザルツブルクへ出かける。とはいえ、広島に住んでいるため、今晩のうちに出なければならない。そう言えば午後から雪模様との天気予報が出ていた。国内の移動がやや心配である。
 この時期にザルツブルクへ行くのはほかでもない。当地で開催される「モーツァルト週間」の演奏会をいくつか聴くためである。ザルツブルクでは毎年、1月27日のモーツァルトの誕生日を中心に「モーツァルト週間」と銘打った音楽祭が開催されていて、モーツァルトの作品を中心とする充実した内容の演奏会が毎日催されている。オーケストラとしては、ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団と当地のカメラータ・アカデミカやモーツァルテウム管弦楽団が参加し、ハーゲン弦楽四重奏団やピアノの内田光子といった実力のある室内楽団体やソリストも数多く参加する。今年は、モーツァルト生誕250年を祝う記念の年なので、誕生日の27日には名だたるソリストがヴィーン・フィルハーモニーと共演する大規模なガラ・コンサートも企画されているが、これは聴かない。何しろチケットの入手がきわめて困難なうえに、値段も非常に高い。それに金持ちが集うなかに交じってお祭り気分で音楽を聴くなどというのは、とても考えられないことである。
 今年は、アーノンクールが指揮するヴィーン・フィルハーモニーの演奏会や内田光子とハーゲン弦楽四重奏団が共演する室内楽の演奏会をはじめ、7つの演奏会を聴く予定。ピアノでは内田光子以外に、レイフ・オヴェ・アンスネスやアンドラーシュ・シフといったところの演奏を聴くので、聴き較べが楽しみなところ。歌劇「偽の女庭師」をはじめ、なかなか耳にすることのできないモーツァルトの作品に触れられるのも得がたい機会である。親密な雰囲気のなかでの室内楽の演奏も楽しみだ。
 思えば、海外へ旅行するようになったのは、今からちょうど10年前にザルツブルクへ同じ「モーツァルト週間」の演奏会を聴きに行ったのが最初である。そのときは雪が積もっていて、ミラベル庭園が一面の銀世界だった。天気予報によると、滞在中ほとんど雪のようなので、同じ風景を眼にすることになるのかもしれない。ちなみに10年前「モーツァルト週間」を訪れたときには、まだカルロ・マリア・ジュリーニやシャーンドル・ヴェーグが健在だったし、またハーゲン弦楽四重奏団が若々しい演奏を聴かせてもくれた(そのときのことについては、http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Mozartwoche_1996.htm を参照)。今回はどんな演奏に出会えるだろうか。モーツァルトの生誕250年の年に、その作品に新たな生命を吹き込む演奏に触れられるのを楽しみにしているところである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年1月19日 (木)

ベツレヘムの瓦礫の天使

 先日同僚が天使を見せてくれた。天使と言っても、天使の姿をかたどったオブジェである。ガラス片を金属の輪鉄のようなものでつなぎ止めてあって、ステンドグラスの一部を見るような感じ。同僚から聞いたところによれば、これはパレスチナの人びとのイスラエルの圧制に対するインティファーダに用いられたりなどして砕けたガラス瓶の破片を継ぎ合わせて作られた天使のオブジェで、パレスチナの子どもたちがこれを、アーティストの指導を受けながらで作っているのだという。
 このような活動を組織しているのが、現在ベツレヘムで活躍しているミトリ・ラヘブ牧師。彼はパレスチナのアラブ人であるが、キリスト教徒であり、ルター派のプロテスタントの牧師である。「パレスチナ人のクリスチャン」と言ってもピンと来ないかもしれないが、パレスチナの地では、ユダヤ教徒とムスリムが対立しているばかりでなく、ローマ帝国の時代からずっと、キリスト教のさまざまな宗派も共存してきたのだ。ラヘブ牧師は自分のことを、「四世紀まではパレスチナにおける宗教的マジョリティであった古代のパレスチナのクリスチャン共同体の末裔」と規定している。ちなみに、イエス・キリストの聖誕教会があるベツレヘムでは、クリスマスが12月25日ばかりでなく、1月6日(ギリシア正教会)と1月18日(アルメニア教会)にも祝われるとのことである。
 このラヘブ牧師の著書が1冊日本語に訳されている。『私はパレスチナ人クリスチャン』(山森みか訳、日本キリスト教団出版社)。現在のパレスチナにおける宗教的マイノリティとしての、またキリスト教内部の分裂の痕跡を残した、彼自身の複雑なアイデンティティや、祖父の代以来のルター派のクリスチャンとしての信仰を牧師として人びとに伝えようと決意するに至ったいきさつなどが述べられた後、聖書を今ここに生かそうとする彼の聖書解釈が、パレスチナのアラブ系住民が置かれている現状の分析にもとづいて、力強く語られている。ラヘブ牧師によれば、聖書とは何よりも現在の歴史的なリアリティを語るものであり、しかも「マイノリティについての書物」である。聖書のテクストは、マイノリティの人びとが置かれている現在の歴史的現実を照らし出すとともに、苦境に置かれた人びとに、そこで自分が何をなしうるのかを見つめなおさせるのだ。けっして復讐ではなく、正義、それも異質な、反目しあっている人びとのあいだに実現されるべき、来たるべき正義へ向けて。そのような正義のヴィジョンを、ラヘブ牧師は著書の最後に、「夢」として語っている。
 現在ラヘブ牧師は、イスラエルが建設している分離壁によって閉じ込められ、圧迫されるなかで、パレスチナの子どもたちにその「夢」を与える仕事に取り組んでいるようだ。アーティストと一緒に天使のオブジェを作る活動もその一環であろう。ガラスの天使は、子どもたちの「夢」の結晶でもあるのだ。それは、この世界をつくり変える希望を子どもたちに与えるとともに、ガラスを透して世界を別な可能性を秘めたものとして映し出すのではないだろうか。
 ヴァルター・ベンヤミンは、いわゆる「歴史哲学テーゼ」のなかで、進歩の暴風に煽られながら眼の前で瓦礫が積み上がってゆくのを凝視する「歴史の天使」の像を描いたが、ガラス片から作られた天使のオブジェは、言ってみれば「歴史の天使」が見つめる瓦礫のなかから生まれた天使である。朝日新聞の連載記事「そこにある壁」が浮き彫りにしたように、イスラエル政府が建造している分離壁のみならず、世界のあちこちで人びとのあいだに可視ないし不可視の「壁」が築かれつつある現在の状況のなかで、壁を越えて日本に届いたベツレヘムの瓦礫の天使が、壁を突き抜ける希望を人びとに与え、壁のこちら側とあちら側のあいだにひとすじの回路を開く媒介者として活躍することを願ってやまない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月18日 (水)

芸術史を見つめなおす新書二題

 講義のネタが見つかるかもしれないなどと思いつつ、最近出た芸術史に関する新書を2冊読んでみたが、どちらもなかなか興味深い。1冊は宮下誠の『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)で、もう1冊は岡田暁生の『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書)。著者は二人とも、40代半ばの気鋭の芸術史学者である。また、二人の著者はいずれも、21世紀の現在において絵画を、あるいは「クラシック」音楽をとらえなおす自分自身の位置を確かめるべく、20世紀の絵画の歴史へ、そして西欧音楽の歴史へとまなざしを向けている。それゆえ両者とも、客観的な歴史記述を装うことなく、むしろこれらの芸術史が、今ここで自分自身の視点からとらえなおした芸術史であることを前面に押し出している。そのことが、二つの新たな芸術史の叙述をより刺激的なものにしていることは間違いない。とはいえ、二人の著者の歴史の描き方は対照的である。
 まず、宮下誠の『20世紀絵画』は、「絵画とは何か」という本質的な問いに向きあうことから始めている。それによれば、対象を描くとはそれを欲望することであり、絵画とはその欲望の表象である。そして、世界の合理的な記号化が進むにつれ、リアルな「もの」それ自体への欲望が絵画の革新をもたらすようになるという。つまり、20世紀のキュビスムや新即物主義の運動は一面で、そうした欲望を映し出しているのだ。さらに、宮下によれば、20世紀までの絵画を支配してきた遠近法とは、世界を「人間」の視点から解釈する、一つの世界解釈のシステムないし言語であり、遠近法にもとづいて描かれた絵画は、世界を遠近法的に見よ、という命令を含んでいる。しかも、そこにはすでに三次元空間の二次元空間への「抽象」が含まれているのだ。20世紀までの西欧の遠近法的絵画は、ある種の「抽象」にもとづく特殊な「具象画」だったのである。そのリアリティが崩壊したのを前にして、画家たちは新たな世界解釈のシステムを、絵画の言語を産み出すことを迫られる。宮下はそのような視点から、マネ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ピカソ、カンディンスキー、マレーヴィチらの主要な作品を1枚ずつ取り上げ、その魅力も論じつつ、20世紀における「抽象絵画」の成立を描き出している。その描き方には、ところどころ「西洋」と「東洋」の安易な二分法へ傾くきらいもなくはないとはいえ、非常に説得力がある。
 しかしながら、宮下によると「抽象絵画」は20世紀絵画の終着点ではない。「抽象」の模索と同時並行的に、またその成立の後に、「具象」への回帰ないし新たな「具象」の探究が行なわれているのである。宮下はこのことを、ドイツ語圏の20世紀の絵画をおもに取り上げながら描き出している。とりわけわたし自身ライプツィヒの新しい美術館を訪れたときには正直ついて行けなかった旧東ドイツの絵画を論じた部分は、この書の白眉である。宮下によれば、その「わかりやすさ」は「考える」ことを見る者に求めている。「考える」とはおそらく、自分が世界を見るその見方を問いなおすことであろう。もしかすると、もはやそうした思考を抜きに絵画を見ることはできないのかもしれない。
 さて、宮下の絵画史が絵画の20世紀をいくつもの亀裂を含んだまま描き出すのに対して、岡田暁生の『西洋音楽史』は「通史」である。それは、「西洋音楽史」全体を一望する一つの視点を提示するものなのだ。とはいえ、そこにあるのは現在に至る連続的な「音楽史」の流れを教科書的に通覧する叙述ではなく、現在の視点から「中世音楽」とは何か、「ルネサンス音楽」とは何か、「バロック音楽」とは何か、といった問いに正面から向きあうことによって、「クラシック音楽」の歴史にいくつもの断裂線を書き込む叙述である。
 まず、今日「クラシック音楽」と呼ばれている「芸術音楽」の定義が興味深い。岡田によれば、「芸術音楽」とは「書かれた=設計された音楽」のことである。一定の「構成=設計(コンポジション)」にもとづいて書き残されたのが西欧の「芸術音楽」であり、「西洋音楽史」とはその歴史なのだ。岡田はそのように「芸術音楽」とその歴史をとらえる立場から、「中世音楽」、「ルネサンス音楽」、「バロック音楽」などに特有の「構成=設計」のありようを、実にわかりやすく説明している。また、そうした相異なる「構成=設計」が、時代ごとに「音楽」がどのように成立していたか、つまり演奏され受容されていたのか、ということと密接に結びついていることも説得的に描き出している。
 岡田の音楽史の叙述のなかで最も興味深かったのは、彼が専門とする19世紀の矛盾を抉り出している一章である。彼によれば、19世紀には純粋な音楽が追求され、音楽が宗教的な装いさえ帯びるようになる一方で、産業革命とブルジョワ社会の成熟が進むなかで、音楽の通俗化と商品化が進行した。このことが、現在における、消費される「ポピュラー音楽」と芸術的な「クラシック音楽」の分裂、さらには「クラシック」内部における、スター信仰とカルト的探究の分裂を用意したのである。しかしながら、岡田に言わせると、同時に人びとは、「ポピュラー」のうちにも「クラシック」のうちにも、何か宗教的な「カタルシス」を追い求めている。ロマン派の時代同様、音楽が「神なき時代の宗教」であることが求められているのだ。そのような現代の「感動中毒」のうちに、岡田は「現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候」を見て取っている。おそらくそれは相当に深刻な危機であろうが、どのような危機と岡田は見ているのだろう。
 それはさておき、岡田によれば、さまざまな様式へ分裂しているばかりでなく、繰り返し再演されるというかたちで残ることもない現代音楽の「歴史」を叙述することは難しい。現代音楽は、従来のような「公式」の「芸術音楽」であることをやめて「一種のサブカルチャー」になっているからである。たしかにそうであろう。そして、この「非公式」芸術の歴史を描くためには「通史」を描くのとは別の叙述の仕方が求められるにちがいない。「通史」へのまなざしからこぼれ落ちてしまうものを瓦礫から拾い上げるまなざしが必要なのだ。このような微細なものを「公式」のものに亀裂を穿つアクチュアリティにおいて取り出すまなざしこそが求められていると思うゆえに、個人的に芸術史の描き方としては、岡田の「通史」的な叙述より、宮下のモザイク的な叙述のほうに共感をおぼえる。とはいえ、両者の叙述にはともに──講義のネタになりそうな部分ばかりでなく──新たに学ばされた点やあらためて考えさせる論点が実に豊富に盛り込まれていたのは確かである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年1月 7日 (土)

神戸のアムステルダム国立美術館展

 神戸の兵庫県立美術館で開催されている「アムステルダム国立美術館展」を見に行く。「オランダ絵画の黄金時代」と題されたこの展覧会、アムステルダム国立美術館の大規模な改修工事に合わせて企画された、世界を巡回する展覧会で、日本ではここ神戸だけで開催されるとのこと。フェルメールの「恋文」が見られるうえ、オランダへ行くのはいつのことになるのかわからないので、妻と出かけることにしたしだいである。
 「オランダ絵画の黄金時代」ということで考えられているのは、オランダがスペインからの独立を勝ち取ってゆく背後で商業をいとなむ市民階級が台頭し、そのニーズに応じた絵画が花開く17世紀のことである。17世紀のオランダの画家と言えば、先に名前を挙げたフェルメールをはじめ、レンブラント、ハルス、ライスダール、デ・ホーホといったところが思い浮かぶが、彼らの作品をそれぞれ数点含めた17世紀の絵画に同時代の工芸作品を合わせた90点ほどが展示されていた。グラスや銀器など展示されていた工芸作品の多くは、展示されている絵画に実際に登場するもので、静物画や風俗画のなかに描かれる当時の生活のなかで用いられているさまと、300年を超える時を経て残されているさまとを見比べるのは、それはそれで興味深かったのだけれども、個人的にはもう少し多くの絵を見たかった気もしないではない。
 今回見た絵のなかで最も気に入ったのは、ヤーコプ・ファン・ライスダールの「ベントハイム城」。前景に倒木や岩を配して、自然の猛々しさと時の移ろいを演出し、その背後に城郭をそれに抗うかのように屹立させるドラマティックな構図は、彼が描く風車を中心とする風景のように、人力を越えた自然の力、それがもたらす人為的なものの儚さ──同時代の画家たちがしばしば描き出した「世の虚しさ(ヴァニタス)」──をしかと受けとめるとともに、それに押し流されることなく、自然のダイナミズム、時の移ろい、さらにはそれを耐えて存えるものを描き取ることのできる視点を確保しようとする画家の意志を感じさせる。
 フランス・ハルスのタッチの無駄のなさにも、今回あらためて感嘆させられた。当時のオランダの富裕層の夫妻の一対の肖像画において、ハルスは妻のほうを静かに、ただし実に人間的な温かさを感じさせる表情の動きを交えて描く一方、夫のほうは自由闊達な表情の動きの一瞬をとらえるかたちで描いている。こちらを振り向いた一瞬の自信に満ちた表情が、スナップ・ショットさながら、素早く、まったく無駄のないタッチで描き取られているのである。この夫の肖像は、妻のと並べられたとき、夫の自由な市民としての活動力をいっそう際立たせていたにちがいない。
 カレル・ファブリティウスに帰属するとされる「洗礼者ヨハネの斬首」を見られたのも、今回の収穫の一つ。彼の絵とは、昨年1月以来の対面となったが、ヨハネの首を求めるサロメの表情を光のなかに浮かびあがらせる筆遣いに、どこか師のレンブラントとは異なった細やかさを感じる。その師匠のレンブラントの作品のなかでは、「青年期の自画像」が印象的(妻も気に入った1枚)。自画像を、生乾きの絵の具を引っ掻いて髪の質感を出すといった実験の場にしたような絵ではあるが、どこか憂いを漂わせる若さが魅力的に描かれている。
 今回のお目当てであったフェルメールの「恋文」は、実際に眼の前にしてみると、他のフェルメールの作品、とくに初期の作品にくらべて細密さの点で劣るように思われ、いささかもの足りない。とはいえ、周りに配されたデ・ホーホらの作品と並べてみると、この「恋文」が卓越した仕方でオランダの風俗画の伝統に連なろうとしてることが、うすうすと感じ取られる。後期の作品に属する「恋文」は、人物をも画面の一要素に還元し、事物の細部を、その光彩を、どこまでも緻密に描き取って、やや冷たさを感じさせるまでに静かな画面を構成するこれまでの画風を離れ、人物の一瞬の生き生きとした表情をとらえることを、室内の調度の緻密な描写を両立させようとする画風への移行を示す一枚かもしれない。フェルメールはその頃、人間的な温かみを感じさせる、より風俗画にふさわしい様式を──もしかすると経済的な理由もあって──模索していたのではないだろうか。そうして、時間を画面に導入しようとしているように思われるのである。
 17世紀のオランダの絵画はそれより南方の絵画にくらべてもの静かであり、緻密な描写によって貫かれている。オランダの画家たちは、「世の虚しさ」を暗示しようとする静物画家が代表するように、その描写によって仮借なき時の移ろいを表現しようとしていた。17世紀のオランダの絵画における空間と時間の静かな交錯。神戸の「アムステルダム国立美術館展」は、このさらに掘り下げられなければならないテーマを、わたしに与えてくれた。b93
b51

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 4日 (水)

ひろしま美術館の「プラート美術の至宝展」

 昨日、ひろしま美術館で開催されている「プラート美術の至宝展」を見に行った。フィレンツェから15キロほど離れたトスカーナ地方の小都市プラートの市立美術館に所蔵されている作品を中心に、初期ルネッサンスからバロックまでのおもに宗教画を、街のアイデンティティの象徴となっている「聖母マリアの聖帯」伝説と絡めながら展示するもの。そのため、大きな作品にはそれを図像学的にわかりやすく分析したパネルが添えられていて、絵の構成を読み解きながら観覧できるようになっている。実に親切な仕掛けなのだけれども、多くの来場者が、実際の作品そっちのけでパネルに見入っていた。
 「聖母マリアの聖帯」というのは、マリアの被昇天の際に聖トマスに託されたとされる帯。これをプラートの商人が故郷へ持ち帰り、教会に寄託すると、人びとの信仰を集めるようになり、街の結束の中心になったとのこと。これが今でも街の聖堂に保管されているのだが、その聖堂を飾るのがボッティチェリの師にあたるフィリッポ・リッピの壁画。今回の展示の中心も、このリッピの宗教的な主題の板絵であった。
 リッピの作品は、これまでにもあちこちで目にしていたのだけれども、あまり印象に残っていない。今回あらためてその作品と向きあってみると、たしかに人物像はどこか初期のボッティチェリの人物像を思わせる。おそらくボッティチェリは、リッピのしなやかな曲線による優美な人物表現から多くを学んだのだろう。同じ画僧であったフラ・アンジェリコの描くやや厳めしい人物像にくらべ、リッピの人物像は身体美や感情の温かさを際立たせていて、優しい印象を与える。とはいえ、ボッティチェリらもう少し後の世代の作品にくらべると細部の詰めが甘く、人物表現自体も完成されていない感じがする。こうした過渡期的な画風とそれがもたらす画面の散漫さが、これまでリッピの作品の印象が薄かった原因なのかもしれない。
 今回の展覧会では、リッピとその工房が手がけた大きな作品として、「身につけた聖帯を使徒トマスに授ける聖母および聖グレゴリウス、聖女マルゲリータ、聖アウグスティヌス、トビアスと天使」と「聖ユリアヌスをともなう受胎告知」が展示されていたが、聖母を中心とする華やかな群像画である前者よりも、後者のほうが画面構成が洗練されていて気に入った。人物表現もこちらのほうがはるかに精緻である。
 これらの作品以外で印象に残ったのは、ベルナルド・ダッディによるアルカイックながらも人物の生き生きとした表情が際立つテンペラの板絵と、ドナテッロの作として伝わる小さな聖母子像の彫刻。後者は深沈としながら親密な関係のなかに見る者を引き込む魅力を放っていた。
 それ以外の作品は、小ラファエロと呼びたくなるラッファエッリーノ・デル・ガルボの「聖母子と幼き洗礼者ヨハネ」をはじめ、どれもエピゴーネン的なところを漂わせる作品ばかりで、今ひとつ惹かれない。カラヴァッジョやリベーラの影響が見られる作品も見られたが、どれもこの二人自身の作品にくらべると、鋭さや彫りの深さの点ではるかに劣ると言わざるをえないのだ。
 それにしてもこの展覧会の主題は、リッピを中心とする初期ルネッサンスの宗教画の世界なのだろうか、それとも「聖帯伝説」をめぐるプラートの街の美術史なのだろうか。前者に焦点を絞ったほうが、これまで実際に触れる機会の少なかった板絵の世界に眼を開かれた、という強い印象がもたらされたように思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 3日 (火)

厳島神社の舞楽

 昨日、妻と宮島の厳島神社へ初詣でにではなく、舞楽を見に行った。厳島神社の平舞台では折々に舞楽が演じられるが、昨日も「二日祭」にちなんで二曲の舞楽が「奉奏」されていた。宮島までたどり着くのに思いのほか時間がかかってしまったため、一曲目の「萬歳楽」は見られなかったが、二曲目の「延喜楽」は何とか見ることができた。
 厳島神社の舞楽に初めて触れたのは、昨年の秋のことだった。アメリカ人の知人に誘われて出かけたのだが、身近なところにあるものには、えてしてそのように気づかされるものである。以来、バレエを趣味とする妻は舞楽独特の所作に興味をもった様子で、昨日も見に行くことになったしだいである。
 笙と笛を中心とする奏楽が、ミニマル・ミュージックを思わせる仕方でゆったりと繰り返されるなかに太鼓の音が響くと、さまざまな飾りをつけた華やかな衣裳を着けて、踊り手たちが順に平舞台へしずしずと上がってゆく。そこで独特の規則性をもったステップを踏みながら、また時に両足を踏ん張っての揃いのポーズでアクセントをつけながら、平安時代から伝わるとされる曲が舞われるわけである。そのさまは欧米人のエキゾティシズムを喚起したばかりでなく、舞踊家と作曲家をはじめ、多くの芸術家にインスピレーションを与えてきたのだろう。わたしには黛敏郎が作曲した「BUGAKU」くらいしか思い浮かばないが、舞楽を紹介してくれた知人によれば、舞踊家のジョージ・バランシーンは、ニューヨーク・バレエで舞楽の所作を取り入れた「BUGAKU」なる作品をつくったとか。
 舞楽の上演に接しながら、わたしはどちらかというとガムランを思わせるところもなくはない奏楽のほうに耳を惹かれる。聞けば、踊りやそのための衣裳や仮面には、中国ばかりでなくインドに端を発するものもあるという。どうやら舞楽は、「日本」独特の「伝統文化」と言うより、むしろ古代の人びとの海を越えての移動がもたらした文化の混淆の産物と言えそうである。それは他のさまざまな場所とつながりをもちながら、その場所での独自性をかたちづくる、文化そのものの雑種的な生成を体現しているのかもしれない。
 昨日の舞楽は、緑を基調とした衣裳が日に映えるさまは美しかったものの、四人の踊り手のアンサンブルが今ひとつで舞台が締まらない感じ。日が暮れてから、松明の明かりのなかで仮面を着けての舞いを見たほうが楽しめるにちがいない、というのが妻とわたしの率直な感想である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 2日 (月)

「モーツァルト・イヤー」の幕開けに

 昨晩と今晩、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の「ジルヴェスター・コンサート」とヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニューイヤー・コンサート」の両方を、衛星中継で最初から最後まで見てしまった。ほかに取りたてて見るべきものがないとはいえ、暇なことと言うべきか、物好きと言うべきか。
 今年がモーツァルト生誕250年の記念の年だということで、どちらの演奏会でもそれぞれ独自の趣向でモーツァルトの作品が取り上げられていたが、奇しくもと言うべきか、どちらの演奏会でも「フィガロの結婚」の序曲が演奏されていた。ベルリン・フィルの大晦日の演奏会は、日本の時間ではすでに年の明けた深夜に中継されたので、日本でそれを見ていた人にしてみれば、「モーツァルト・イヤー」はサイモン・ラトルの指揮するベルリン・フィルによるこの序曲の演奏をもって幕を開けたことになる。
 ラトルによる「フィガロ」の序曲の解釈は、どちらかというと遅めのテンポのなかで、ピリオド楽器による演奏を思わせる鋭いアクセントや楽譜に印刷されていないダイナミクスの変化を細かくつけて、モダン楽器によってモーツァルトの音楽に清新な息吹をもたらそうとするもの。リズムがきびきびと躍動しているので、遅めのテンポとはいえ音楽はけっして停滞しないし、第二主題も、茶目っ気を醸し出しつつエレガントに歌わせている。しかしながら、こうした委曲をつくした表現が上滑りしてしまっている感も否めない。演奏会の中ほどで取り上げられた「プラハ」交響曲の演奏を聴いたときにも思ったのだが、ラトルの解釈は、モーツァルトの書いた音楽に潜在するダイナミズムや魅力を発見させる箇所も多いのだが、同じように細かくダイナミクスやテンポに変化をつけるアーノンクールやヴェーグの解釈ほどには説得力を感じさせないのだ。オーケストラの編成が大き過ぎて、響きを引き締めきれなかったこともあるのかもしれない。ちなみに、エマニュエル・アックスを独奏に迎えた「ジュノーム」協奏曲の演奏では、凝った伴奏がピアノ独奏の平凡さを引き立てていた。
 これに対して、マリス・ヤンソンスが指揮するヴィーン・フィルによる「フィガロ」の序曲の演奏は、速めのテンポによる正攻法のもの。ヤンソンスは、しっかりと組み立てられた響きのなかでリズムを躍動させ、音楽を前へ前へと運んでゆく。そのように推進力に富んだ音楽の運びは、聴いていて爽快ではあるが、猪突猛進気味の感もなくはない。細かい表情は、ほぼ各奏者の自主性に任されているようで、そのため音楽の優美さは後退していた。ヤンソンスという指揮者は、誠実で質実剛健な音楽の組み立てのなかで躍動感と推進力に富んだ音楽の運びを示し、オーケストラを豪快に響かせるのは実に巧みだけれども、瀟洒なメロディを細やかに歌わせるのはあまり得意ではないのかもしれない。ワルツよりポルカの多い選曲はそのせいかしらん。しかし、今回の「ニューイヤー・コンサート」の選曲が、忘れられていた曲と有名な曲を巧みに織りまぜた、聴き手を楽しませてくれる選曲だったのも確かである。とくにヨーゼフ・ランナーの「モーツァルト党」を聴けたのは嬉しかった。この曲、今年一年アンコール・ピースなどとして世界中でヒットするのではないだろうか。
 それにしても、ラトルとベルリン・フィルによる「フィガロ」の序曲の演奏にしても、ヤンソンスとヴィーン・フィルによる同じ曲の演奏にしても、らしからぬ乱れ(前者では冒頭に奏者の勘違いとおぼしき乱れが、後者では曲の終わりに指揮者の意図とオーケストラの意図のずれが聴かれた)があったのはどういうことだろう。今年一年の多難の予兆でなければよいのだけれども。この「モーツァルト・イヤー」はむしろ、ベルリン・フィルの演奏会で最後に取り上げられた「フィガロ」の最終場面の演奏においてひときわ強調されていた謝罪と赦しが人びとの新たな絆を築き、それがこれまでの苦難を乗り越える礎となる年になってほしいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月31日 (土)

2005年の終わりに

 2005年が暮れようとしている。阪神淡路大震災の衝撃とオウムのテロルに揺れた10年前の1995年とまったく同様に、自分たちの生活がいかに脆い地盤の上に築かれているのかを思い知らされた1年だった。そして、その1年のあいだに起きた2度の脱線事故は、規模こそ大きく異なるが、どちらとも、ひとりひとりのかけがえのない生命が守られるための最低限の倫理を確かめあうことなしに、利潤を獲得し、新自由主義的な競争に勝ち抜くための数値的なデータだけを追い求めることの危うさを突きつけていた。にもかかわらず、アメリカ主導のグローバリズムに追随し、その正義なき戦争における人殺しに加担し、新自由主義的な競争の原理を、そうした競争とは無縁なはずの領域にまで浸透させ、社会のなかの階級格差の拡大を自明視する流れが、とりわけ総選挙の結果とともに決定的になったのも確かである。
 そのような流れを、マス・メディアを介して心地よく響く言葉の数々がつくり出していることは、おそらく間違いない。滑らかで耳当たりのよい美辞麗句、それは何も語っていない。いかなるリアリティにも応えていないのだ。だからこそ滑らかなのだが、そうであるがゆえに人びとを惹きつけ、思考停止に陥らせる魔力だけは持ち合わせている。そして今、人びとは「改革」とか「安全」といった言葉の前で思考を停止させながら、破局へ向かう流れに巻き込まれようとしているように思えてならない。ほかならぬ自分の生きざまを思い描くより前に、ひとしなみに「公」だの「国益」だののための犠牲にされるというひとりひとりの破局は、もうすぐ眼の前まで来ているのかもしれない。
 このようにひとりひとりの破局へと突き進む流れに、自分なりにできる仕方で楔を打ち込まなければ、と思いつつも、結局思うような仕事ができないまま、新しい年を迎えようとしている。2006年には、今まで続けてきた仕事を形にする見通しがつけられるだろうか。状況は厳しくなる一方だが、やらなければならない。
 ヴァルター・ベンヤミンは、第一次世界大戦中からそれに続くドイツのインフレーションの時代にかけて、それぞれの言語が、けっして同類のあいだの意思疎通の道具にも、わかりやすい情報を伝達するための手段にも局限されえず、それゆえ「国語」の統一体としても固定されえないことを、言語それ自体のダイナミズムを取り出すことで示そうとしていたように思われる。彼によれば、言語はむしろ、自分とは深淵によって隔てられた他なるものとのあいだでつねに新たに語られる。ある種の「わかりやすさ」をはみ出してゆく異質なものに応答し、同じ立場に立つことのできない他者とのあいだにひと筋の回路を切り開こうとするなかでつねに新たにかたちづくられてゆくのだ。そのことを、ベンヤミンは当初、言語の純粋な「本質」にもとづいて説明しようとしていたが、後には、言語が同類のあいだの意思疎通と情報伝達の道具と化した「バベル」以後の「言語の混乱」のただなかに、それぞれの言語がそうした他者に応答する力を取り戻す可能性を探るようになる。ちょうどウィトゲンシュタインが、「論理形式」を示すことで言語の純化を図った後、「ざらざらとした大地」の上の「生活形式」に立ち戻ったように。ただしベンヤミンによれば、それぞれの言語が「バベル」以後の世界で言語が他者と応えあいながら生成するダイナミズムを取り戻すためには、それが囚われている「母語」の滑らかな流れに吃音をもたらすようなかたちで、その桎梏を解体しなければならない。そのきっかけとなるのも、他者の異質な言葉との遭遇である。このとき、それに応える言葉を、自分が自明に話していた言語を内側から突破するかたちで見いだすことが問題となるのだ。そして、そのような応答の言葉を見いだすとき、それぞれの言語は、他者とのあいだに回路を切り開く力を取り戻すことになる。
 では、このように、立ちどまらせ、自分が話してきた言語を見つめなおさせるような他者の言葉と出会い、それに応答する言葉を見いだすなかで、言語を他者とのあいだで、そこにある深淵の上で語り交わされるながら生成するものとして見つめなおす可能性を、もう少し具体的にどのように思い描けばよいのだろう。言わば、武満徹が語ったように「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」(年賀状に引いた『音、沈黙と測りあえるほどに』のなかの言葉)余地は、どのように開かれるのだろうか。こうした問題に取り組むことが、来たるべき年の最初の課題となりそうである。もし、「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」とは今どういうことなのか、自分の言葉にできたなら、破局に近づきつつある今の流れに向きあう自分の位置を確かめることができるのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年演奏会回顧など

 先ほど広島市内の映画館で久しぶりにゴダールの「勝手にしやがれ」を見た。スクリーンで見られるのはこれが最後とのこと。この映画の終わり近く、惹かれあいながらすれ違い続ける二人の心を一瞬通い合わせるかのように流れるのが、モーツァルトのクラリネット協奏曲。そう言えば来年はモーツァルト生誕250年の記念の年である。1年を通していやというくらいモーツァルトの作品を聴くことになるかもしれないが、それに新たな生命を吹き込む演奏に出会えるだろうか。
 さて、今年聴いた演奏会を、日本国内で聴いたものにかぎって振り返ってみると、最も大きな感銘を受けたのは、2月に京都コンサートホールで聴いた、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会。このコンビによる最後のツアーということになったが、それまで両者がいかに緊密な関係を築いてきたかを実感させてくれる、説得力あるブルックナーの第7交響曲の演奏を聴かせてくれた。木造りの教会建築の味わいをもった、暖かくてどっしりとしたゲヴァントハウス管弦楽団の響きのなかに、作品の造形を無理のない流れのなかに浮かびあがらせようとするブロムシュテットの解釈が浸透していたように思う。ドレスデン国立管弦楽団との録音(DENON)より雄大なスケールをもちながら、けっして清新さを失うことのない第7交響曲の演奏であった。
 4月にはアクロス福岡で、ブロムシュテットとゲヴァントハウス管弦楽団のコンビとはある意味で好対照をなす、ミシェル・プラッソン指揮のパリ管弦楽団の演奏に触れることができた。とりわけドビュッシーの「海」では、パッセージごとに細かく表情をつけたり、ひと区切りごとにわずかな間を置いたりといった細工が、波の自然なたゆたいやさざめきを感じさせることに見事に結びついていたように感じられる。プラッソンの言わば芸人としての巧みさと、パリ管弦楽団の柔軟さとが呼応しあうなかから、気品ある遊びを含んだ響きが聴こえてくるのに、文字どおり酔わされた。
 秋には、すでにこの欄でも紹介したように、まず9月に倉敷市民会館で、大野和士指揮のベルギー王立歌劇場管弦楽団の演奏会を聴くことができた。大野の最近の充実ぶりを感じさせる、堂に入ったラヴェルとマーラーが印象に残る。10月には、岡山シンフォニーホールでのリッカルド・ムーティ指揮のヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会も訪れた。引き締まったリズムが躍動するなかから、シューベルトならではの歌が広がってゆく。シューベルトの有名な2つの交響曲に若々しい情熱を吹き込むとともに、最近の両者の相性のよさも印象づける演奏であった。
 広島で聴いた演奏会のなかでは、7月の被爆60年を記念した「未来への追憶」と10月のオペラルネッサンス公演が忘れがたい。前者では、細川俊夫の「ヒロシマ、声なき声」が圧倒的な印象を残した。被爆の凄惨さが新たな音楽言語をもって、言わば内側から抉り出された後に、平和への祈りが自然の静けさと溶けあってゆく。後者では、プッチーニの「三部作」のうち、「修道女アンジェリカ」と「ジャンニ・スキッキ」が取り上げられたが、人間の生をその全幅にわたって舞台上にすくい上げようとする演出と、歌手たちの力演が一体となっていた。いずれも、なぜ今広島でこの作品なのか、という問いに真摯に向きあうなかからつくり出された演奏会だったし、何よりもそのことが成功につながっていたと考えられる。
 モーツァルト生誕250年の年には、まずは、なぜ今モーツァルトのこの作品なのか、という問いに対する何らかの答えを含んだ演奏を聴いてみたい。そうした演奏であってこそ、モーツァルトの音楽に新たな生命を吹き込むことができるのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月30日 (金)

2005年美術展回顧など

 一昨日、東京へ行ったついでに京橋のブリヂストン美術館を久しぶりに再訪した。所蔵作品を用いて「印象派と20世紀の美術」というテーマの展示が行なわれていたが、そのせいか、以前に訪れたときより展示作品が充実しているように感じられる。名高いセザンヌの「サント=ヴィクトワール山」や、以前から好きだったルオーの「郊外のキリスト」もさることながら、今回見たなかで最も惹きつけられたのは、クレーの「島」。一筆書きのような線が入り組むなかに「パルナソス山へ」のように配された色彩の音楽的な運動が、島並をつくったり水面のさざめきをつくったりしているさまが眼を楽しませる。
 さて、今年見た美術展を、日本国内で見たものにかぎって振り返ってみると、まず東京で見たもので最も感銘深かったのはやはり国立西洋美術館の「ジョルジュ・ド・ラトゥール展」である。フェルメールと並んで現存作品数の少ないこの画家の作品をあれほどまとまったかたちで見られただけでも非常に貴重な機会だったが、フェルメールとはまったく異なった静けさに貫かれた画面の闇のなかに極限的にまで研ぎ澄まされた人物像を浮かびあがらせるド・ラトゥールの世界は、今年最大の発見だったと言ってよい。そのなかで人物のフォルムを浮かびあがらせる光は、どこか救いを感じさせる。
 東京ではほかに、国立近代美術館で「ゴッホ展」を、そして東京都美術館では「プーシキン・コレクション展」を見たが、かなりの人混みだったこともあって、「ド・ラトゥール展」ほどの大きな感銘は受けなかった。とはいえ、「ゴッホ展」でオランダのリアルな絵画表現の伝統をわがものとするところから出発して、だんだんと見えるものから見ること自体へと表現の重心を移してゆくゴッホの作風の変遷をたどることができたのは面白かったし、そこではまた「カフェテリア」の絵をはじめ「見る」ことの表現が一つの世界に結晶した美しい絵にも出会うことができた。
 現在住んでいる広島で見た展覧会のなかでは、以前にこの欄でも報告した、広島市現代美術館の「シリン・ネシャット展」とひろしま美術館の「香月泰男展」がとくに感銘深かった。シリン・ネシャットの雄弁でありながらどこか静けさを感じさせる映像作品が、鋭く男性と女性のあいだにある問題を抉り出したり、あるいは両者の協働のユートピア的な可能性を幻想的に描き出したりしているのに触れて、映像と結びつくことの多くなった現代美術の一つの可能性を感じ取ることができたし、またシベリア抑留の極限状態で見た世界を、声高なメッセージで覆い隠すのではなく、みずからの様式を練り上げることで静かに作品世界に結晶させようとする香月泰男の画風も今年の発見の一つである。それから、現代美術館で見た「草間彌生展」も忘れられない。恐ろしいまでに緻密で執拗なドットの配置によって空間を次元性から解放する、眩暈を起こさせるような平面作品も印象的だったが、どこか叙情性を感じさせる仕方で光を鏡面や水面に無限に映すインスタレーションは、これまで知らなかった彼女の一面を告げるものだった。
 来年は、まず神戸で「アムステルダム美術館展」を見る予定。聞けば、ベルンのパウル・クレー・センターの開館を記念して、「クレー展」が国内を巡回するとか。今から楽しみである。
 ところで、今年は夏に久留米の石橋美術館も訪れたので、ブリヂストン財団の美術館を二つとも訪れたことになる。どちらの展示も実に充実していたが、今年は、こうした一定のコレクションを保有する美術館が、開館時間も含めて展示の仕方を工夫したり(夕方5時閉館というのは、美術は有閑マダムの消費財と言っているようなものである)、講演会や演奏会を定期的に催したりすることで、地元の美術ファンに、常設展へ年間を通して何度も足を運んでもらえるようにしたり、若い世代がより気軽に美術を楽しんでもらえるようにしたりすることも、芸術を生活のなかにより深く根づかせるための喫緊の課題であることも、地方都市に住んでいて強く感じさせられた一年でもあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月22日 (木)

音楽書二題:ベルリン歌劇場史とショスタコーヴィチの評伝

 最近読んでみて面白かった音楽書を2冊紹介しておきたい。1冊は、菅原透の『ベルリン三大歌劇場──激動の公演史』で、もう1冊は、ローレル・E・ファーイの『ショスタコーヴィチ──ある生涯』(藤岡啓介/佐々木千恵訳)。どちらも、アルファベータという音楽書を中心に重要な文献をいくつも世に送り出している出版社の「叢書・20世紀の芸術と文学」シリーズの中の1冊である。2冊ともかなりの大部で(とくにファーイの『ショスタコーヴィチ』は、本文が2段組みで350ページ以上ある)読むのに骨が折れたが、その労に見合う読みごたえがあったのも確かである。
 現在ベルリンでは、ウンター・デン・リンデンの州立歌劇場、ドイツ・オペラ、コーミッシェ・オーパーという三つの歌劇場が競い合っているが、菅原透の『ベルリン三大歌劇場』は、ドイツ・オペラの前身である市立オペラ、もしくは今は失われた、コーミッシェ・オーパーのモデルとなった二つの歌劇場、当初王立だったリンデン・オーパー、そして今はその伝説だけが残っているクロル・オーパーの、それらが第二次世界大戦末期の空襲で焼失するまでに至るおもに20世紀の激動の公演史を、詳細に、また生き生きと描き出した好著である。やや歴史小説風の語り口には好みが分かれようが、舞台上でどのような公演が繰り広げられ、またその裏でどのような綱引きがあったのか、実に小気味よく描かれている。1929年頃にベルリンのイタリア大使館で撮影されたとされる、ブルーノ・ヴァルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーという5人の、今となっては伝説的な指揮者が顔を揃えた写真があるが、当時ベルリンでこの5人が、リンデン・オーパーで、市立オペラで、クロル・オーパーで、あるいは一大ブームを巻き起こしたイタリアからの客演者として、実際にどのように活躍していたのかが、膨大な資料を駆使してドラマティックに浮かびあがっているし、またその裏でリヒャルト・シュトラウスが、作曲家として、また指揮者として、いかに巧みに立ち回っていたのかも細かく記されている。当時の公演プログラムやポスターの図版、そして舞台写真を交えながら、これらの指揮者と協働した演出家や舞台美術家の演出のありようが、生き生きと描かれているし、今やそのほとんどが忘れ去れてしまった戦前の重要な歌手たちの活躍ぶりが、写真を交えて描かれているのも、資料として実に貴重である。とはいえ何よりも興味深かったのは、斬新な舞台で当時賛否両論の渦を巻き起こし、アドルノも擁護の評を寄せた「フィデリオ」の公演で知られる、クロル・オーパーの公演史である。今は跡形もないが、1920年代の終わりには、当時の新しい芸術運動の一大拠点であったこの歌劇場の苦難の歴史が、当時その音楽監督だったクレンペラーの活躍を中心に詳細に描き出されているのに、初めて触れることができた。その歴史は、新しい芸術運動を発信する媒体としてオペラを考えようとするとき、つねに参照されなければならないはずである。
 ところで、2006年に生誕100年を迎えることになる作曲家ショスタコーヴィチの新しい評伝、ファーイの『ある生涯』は、同時代人の自伝や手記、語録、書簡など、集められるだけの資料を駆使して、多角的な視点からショスタコーヴィチの生涯の各局面をつぶさに描き出している。それによってファーイの評伝は、たとえばソロモン・ヴォルコフの『証言』が浮かびあがらせるように「反ソヴィエト的」であるとかいった、強いイデオロギー的色彩をもったショスタコーヴィチ像が突出させるのを避けることができているばかりでなく、彼がソヴィエト政権時代を生き抜くことを可能にした、彼の多面性をまんべんなく浮かびあがらせることにも成功している。また、彼がムラヴィンスキー、オイストラフ、ロストロポーヴィチといった音楽家たちとどのように交わり、作品の初演を準備したか、あるいは第4交響曲の場合のように、初演を取り下げたか、といったことが細かく描かれているのも興味深い。今挙げた第4交響曲が代表するように、ショスタコーヴィチは、一面で交響曲をはじめとする既成のジャンルを限界にまで追いつめるアヴァンギャルドであり続けようとした。しかし、同時に他面では、けっしてそうしたジャンルも、それをメロディによって構成することも、けっして放棄しなかったし、十二音技法にも反対し続けた。そうしたショスタコーヴィチ自身の両面が、1930年代と40年代に訪れた危機が代表するように、彼をソヴィエト政権と衝突させたし、政権の求める作品を書いてこれらの危機を切り抜けることも可能にしたのだ。そのように、彼が二枚舌であったが、それでも同時に一枚舌でもあり続けたことを、ファーイは、同時代人にも証言させながら、多角的にかつ一本筋の通った仕方で描き出している。そのことがこの評伝に、ずしりとした読みごたえをもたらしているのだろう。もちろんそこに時代の重いドキュメントが詰まっていることも間違いない。
 さて、ここに紹介した2冊の音楽書、巻末の資料も実に充実している。菅原透の『ベルリン三大歌劇場』には、クロル・オーパー、市立オペラ、リンデン・オーパーの詳細な公演記録が収められているし、ファーイの『ある生涯』(ただし改訂新版のみ)には、評伝に登場した人物を紹介した人名事典が収められている。これらの資料にも、これからたびたび教えられることがあるにちがいない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 7日 (月)

ベルリン旅日記:11月6日

 荷造りをして宿を引き払った後、ポツダム広場へ向かい、昨日同様楽器博物館で「美的経験の諸言語」をテーマとする学会に参加する。日曜日ということもあって電車の本数が少なかったのと、荷物を預けるコインロッカーを探すのに少し手間取ったのとでずいぶん遅刻してしまったが、最初の講演者がまだまだ熱弁をふるっていた。ルーマンのシステム理論などを下敷きに独自の「認知美学」とも言うべき理論を展開しているバツォン・ブロックという学者とか。ロスコなどを例に、ユダヤ系の芸術家が図像化禁止の掟を芸術的形象によって表現しているといった話はわからないではないものの、錯覚が知覚の明証性を前提としており、有意味であるとは騙されうることであるというテーゼを振りかざして、芸術は知覚の普遍性を表現すると述べ立てるのは、芸術を陳腐化するのに思えてならない。ブロックは、延々と制限時間を1時間近くオーバーして話し続けていた。その後の発表も、それに対する応対に終始した観があるが、それに対抗しうる明確な立場を打ち出しえていたとはとても言い難い。それは何よりも言語の位置づけ、さらに言えば「言語とは何か」という問いを言語哲学的に、芸術言語との関係を視野に入れながら理論的に掘り下げる作業が欠落しているからであろう。昨日も含めて、今回の学会で聴いた発表は、どれ一つとして、言語化を拒むものでもありうる強度をもった美的経験とその言語化との緊張関係を表現しえていなかったように思う。
 楽器博物館を出て、最後に発表したポツダム滞在中の知り合いと別れた後、ユダヤ博物館の近くに新たにオープンしたベルリン・ギャラリーへ向かう。そこで開催されている「表現主義の誕生」展を見ようと考えたのである。日曜日ということもあって、ギャラリーはかなり混んでいた。常設展として、20世紀初頭以後のドイツの表現主義、新即物主義、ダダから、現在存命中の芸術家たちの作品まで、多彩な作品が展示されていたが、そのなかには、フェリックス・ヌスバウムの作品やオットー・ディクスの作品も含まれていた。苦境に置かれた人間の困窮を包み隠さず描き出すことで、描かれた人間を画面上に屹立させるディクスによる詩人の肖像もさることながら、自画像であることを否定するかのように、自分自身の顔の上半分を画面の外に追いやったヌスバウムの1942年の自画像がとくに印象的。まったく無駄のないタッチで生存の危機に直面している人間の姿が、それが抱いている不安とともに鋭く描き出されている。やがてアウシュヴィッツへ送られ、そこで抹殺されることになる画家による、極限的にまで研ぎ澄まされた画面である。
 さて、お目当ての「表現主義の誕生」展は、常設展の一つ上のフロアで開催されていた。ホドラー、ムンクといった画家の影響のもと、従来のアカデミックな絵画のありようを真っ向から否定し、生の躍動とそこから噴出する感情を描ききるような表現を目指す集団として、ドレスデンに「ブリュッケ」が結成された時期から、キルヒナーらがベルリンへ移って、表現主義的な技法を大都市に生きる人間の生きざまを描きとるのに生かすようになるまでの作品が展示されていた。エミール・ノルデ、エーリヒ・ペヒシュタイン、カール・シュミット=ロットルフといった、「ブリュッケ」に加わった(ことのある)画家たちの作品の魅力を再発見することもできたが、最も強烈な印象を残したのはやはりエルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーの作品である。
 最初に眼を惹いたのは、1911年のドレスデンでの展覧会で「ブリュッケ」の画家たちを揺さぶったゴッホの影響のもと、補色どうしがぶつかりあうなかに女性像を、その皮膚の強烈な輝きとともに浮かびあがらせる裸体像。昨日見たピカソとはまた違った仕方で、キルヒナーも古典的な輪郭をはみ出してゆく身体性に接近しようと試み、はみ出してゆく動きをぎらりとした肌の光彩というかたちで画面に定着させているように見える。人物像のなかで最も印象的だったのは、「フランツルの肖像」。大胆に緑に塗られた顔面に浮かびあがる微笑みかける表情には魅了される。緑のなかから黒い眼と赤い唇を浮かびあがらせるというアイディアは、ゴッホらとの対話をつうじて独自の自由な色彩の配し方を模索するなかから生まれたものであろう。描き方はまったく対照的ながら、フェルメールの「ターバンの少女」と並んで魅力的な若い女性の肖像と呼びたいくらいの一枚。ところで、フェルメールの肖像画もそうなのかもしれないが、キルヒナーの「フランツルの肖像」が描きとっているのは、瞬間的な表情の変化、ここでは微笑みかけるという動きである。キルヒナーは、瞬間的な動きを描きとることにつねに関心を寄せていた。実際彼は、膨大なスナップ・ショット的スケッチを残している。あるいは、「ブリュッケ」の「表現主義」とは、古典的な輪郭をはみ出してゆく動きへの関心を示すものであり、なかでもキルヒナーはその運動の瞬間を画面に定着させるために、絶えず画家としての眼のシャッター・スピードを高めようとしていた、と言うべきなのだろうか。このようなキルヒナーの瞬間への関心は、やはりベルリンという大都市における生の速度を描きとることに生かされている。今回、以前に新ナショナル・ギャラリーで見た「ポツダム広場」とともに、ブリュッケ美術館に所蔵されている「ベルリンの街路の情景」を見ることができたのは幸運だった。どちらの絵でも、往来の速度のなかに、着飾った人びとの姿が、どこか儚さを感じさせる仕方で鋭く抉り出されている。1910年代のベルリンを、それを貫く未曾有の速度とともに描きとった傑作である。このように、都市における生へを見つめる一方で、キルヒナーは自然への、その躍動への憧れを失うことはなかった。彼が生涯にわたって好んで用いた緑は、それを象徴しているのかもしれない。都市生活を描いたキルヒナーの絵のなかでその緑が見事に生かされているのが、野外のカフェに座る女性を描いた一枚。もしかするとそのカフェは、今は跡形もなく失われた共和国広場のクロルのそれかもしれない。ベルリン・ギャラリーを出て、フリードリヒ通りの駅に預けた荷物を引き取った後、現在ドイツ政府の中枢があるその共和国広場の近辺を、テーゲル空港行きのバスで通過した。シュプレーの河畔に、カメラを提げた観光客のシルエットが浮かびあがっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 6日 (日)

ベルリン旅日記:11月5日

 午前中から夕方にかけて、「美的経験の諸言語」というテーマの学会に参加する。日本の科学研究費補助金のように補助金の出る「特別研究領域」の年次集会として開催された学会である。会場は、フィルハーモニーの隣の楽器博物館のなかにあるクルト・ザックス・ホール。午前中に聴いたのは、1920年代の演劇におけるアヴァンギャルドな演劇、とりわけその舞台における台本のテクストと、マルチ・メディア的な舞台設計との結びつきを論じた発表、新聞をはじめとするマス・メディアにおける造形芸術の批評の動向と、それが自己検閲的に判断力を失っていることを批判する発表、そして音楽におけるポピュラーとクラシックの二項対立を脱構築することで現代音楽におけるアドルノの言説のヘゲモニーを打ち破ろうとする発表である。午後には、20世紀の建築史における、文学の動向や芸術運動のさまざまなマニュフェストと建築の関係について論じた講演に続いて、テクストとして書かれた舞台の理想を実際の演出において実現させようとする現代演劇の試みを論じた発表、シェーンベルク以後の音楽における、音楽の語法の設計としての作曲家の言語的なプログラムとその音楽的な実現の関係を論じた発表、そして現代のいわゆる芸術映画がさまざまな禁忌を自己検閲的に掲げるプログラムによって、芸術としての権威を獲得していることを暴き出す発表を聴いた。いずれも、芸術作品の制作とその批評の両方における、美的な経験と、テクストとして書かれる言語との関係の具体的な様相についての歴史的な記述としては興味深かったものの、理論的な掘り下げという点ではもの足りない。それにしても、批評を論じてベンヤミンの名前に一度も触れないというのはどういうことだろうか。
 学会の昼休みに、会場の近くにある新ナショナル・ギャラリーへピカソ展を見に行く。パリのピカソ美術館に所蔵されている主要な作品が展示されているということで、かなり混雑していた。実際、初期の絵から晩年の作品に至るまで、かなりの数の作品が展示されていた。「青の時代」の自画像をはじめ有名な作品も多かったが、今まで知らなかったピカソの一面を示す作品も展示されている。彼が点描を試みたことがあったとは知らなかった。具象的に人間像を彫りだす初期の作品から、過剰なまでに身体の豊饒さを強調する晩年の作品まで、ピカソの創作の足どりをたどって気づくのは、やはり彼が人間、とりわけ女性の身体を、その野生の豊かさにおいて描き出そうという試みを生涯にわたって続けていることである。20世紀を迎えてすぐにピカソは、従来の具象的な人間像が、もはや人間の身体性を表現しえなくなっていることに気づいたようだ。その後彼は、面を組み合わせることで、あるいは肉の塊を構成することで、自分が惹かれ続けた身体の「野生」に近づこうとするのである。女性の肖像画としては1920年代にピカソの妻であったオルガの肖像が印象的。あまりに美しく書かれた彼女の姿の傍らに見られる無造作な書き込みは、この絵が具象的な完結性をみずから否定しようとする身ぶりのように見える。朝鮮戦争中の1951年1月にあった虐殺事件を、ゴヤを思わせる手つきで描き残そうとする絵も忘れがたい。
 夜はコーミッシェ・オーパーへヤナーチェクのオペラ「イェヌーファ」の公演を見に行く。この作品の上演に接するのは初めてだが、今年の2月に国立歌劇場で見た「カーチャ・カバノヴァー」に続いて、歌と語りが交錯するなかで、ひとつのメロディとしての完結が絶えず否定されるヤナーチェクの音楽の緊迫感に惹きつけられる。ベルクの音楽と並んでオペラにおける、いや「オペラ」を越える音楽の可能性を示すものと言えよう。ヴィリー・デッカーの演出は、二人の男に翻弄されるなかで最初の子どもを失い、やがて新たな愛に目覚めるイェヌーファの生きざまと並んで、彼女の子どもを殺してしまう継母が強さと弱さの両方を示すさまにも光を当てている。荒涼としてシンプルな舞台のデザインも作品にふさわしいと思われる。キリル・ペトレンコの指揮するオーケストラは、実に力のこもった演奏で、心の底からの叫びと情景描写が一体となるかのような響きを聴かせていた。フォルティッシモの凄まじい強度とピアニッシモの緊張感。重要なヴァイオリンの独奏も力強い。それにしてもペトレンコという指揮者の実力は、もっと広く認められてもよいだろう。歌手のなかでは、イェヌーファを歌ったシネアド・ムルハイムと、イェヌーファの継母役を歌った、ヘドヴィヒ・ファスベンダー(ブリギッテ・ファスベンダーと関係があるのだろうか)が印象的。とりわけ後者は、継母の両面を見事に表現しきって、大きな喝采を浴びていた。ヤナーチェクのオペラの重要性を再確認できたことは、今回のベルリン滞在の大きな収穫であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 5日 (土)

ベルリン旅日記:11月4日

 朝の5時半に宿を出て電車でヴァイマールへ向かう。フリードリヒ・シラーの没後200年を記念する学会に出席するためである。6時過ぎにベルリンを出て、ヴァイマールに搗いたのは9時過ぎ。何とか10時からの講演に間に合った。会場はバウハウス大学内のかつてバウハウスのアトリエとして使われていたというホール。天井が採光のためにガラス張りで、柔らかな光が入ってくる。「バウハウス」の名を冠した大学らしく、このホールがある建物以外にも、壁もすべてガラス張りの建物が並んでいる。
 講演はおもにシラーのテクストを解釈しながら、演劇の原題における可能性を論じるもの。前日に行なわれたジャック・ランシエールの講演を前提にして、それに対する応答というかたちで展開される箇所もあって、ついて行くのが難しいところもあったが、わたしにとっては現代における舞台芸術の意味と位置について考えるまたとない機会であった。シラー自身の議論のなかで彼が顕揚する「美的教育」が挫折することを示し、演劇の芸術美と教育的効果が両立しえないことを証明しながら、美的次元と、教育的ないし倫理的な次元との緊張を表現することで、自己反省的に自己形成を遂げるものとして演劇をとらえかえす講演や、世界の規範的なメカニズムないしエコノミーと主体性のあいだの深淵を開く熱狂が噴出する場として演劇を見つめなおそうとする講演など。ルソー的な一般意志のありようを批判しながら、来たるべき民主主義の可能性が示される場として演劇をとらえなおそうとする議論もあったが、その場合の聴衆あるいは大衆とは何か。あるいは、ある舞台演出を例に、俳優の演技による言語形成を論じる議論において、言語形成の場として何が考えられているのか。批評眼をもった聴衆による言語への翻訳なのか、あるいはそれを含めた演劇の舞台なのか。自問することも多い。それにしても、日本では考えられないくらい、劇作家として、美学者として、シラーが高く評価されている。
 夕方、学会の会場を出てベルリンへの帰途につく。大学近くのバス停でバスを待っていたら、一緒にバスを待っていたおばあさんが、虹が出ていると教えてくれた。見ているうちにだんだんと鮮やかな七色に変わってきた。おばあさんは、めったに見れるものではないと感嘆していた。わたしも実際に見るのは何年ぶりのことだろう。
 ほんとうはベルリンへ帰ってから、コンツェルトハウスでユン・イサンの没後10周年を記念する演奏会を聴くつもりだったのだが、ベルリンへ向かう電車が遅れてしまい、聴けずじまい。非常に残念だったが、いいかげん休め、ということかもしれない。少しCDを買ってから帰途につく。宿に着いたら、やはりまともに立っていられないくらい疲れ果ててしまっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 4日 (金)

ベルリン旅日記:11月3日

 夜のうちに雨が降ったようで、道路が濡れていたが、だんだんと晴れてきた。今日は午後にポツダム大学へ行くので、その前にいくつか用事を済ませようとフリードリヒ通りの駅へ向かう。まず、2月までのポツダム滞在の後で完成した、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人追悼記念碑」を訪れる。ブランデンブルク門のすぐ南の、かつて東ドイツの国境警備隊が地雷を敷設していた土地に造られたこのいわゆる「ホロコースト記念碑」は、ジャーナリストのレア・ロッシュが中心になって結成された市民団体が、ベルリン州政府と連邦議会を巻き込むかたちで、また学者、ジャーナリスト、芸術家、政治家の熱い議論の末に、17年をかけて実現させたものとのこと(影書房『前夜』第5号所収の梶村太一郎の論文「つまずきの石」を参照)。今やベルリンの新名所と化している。高さがどれも異なる無数の直方体の石柱がぐにゃぐにゃとした床面の上にひしめいていて、そのような石柱の森のなかに入ると何とも言えない圧迫感に襲われるのだが、子どもたちにとっては絶好のかくれんぼの場所である。走り回る子どもたちがはしゃぐ声と、それを追いかける親の叫び声があちこちで聞こえ、正直なところ静かに、犠牲となったユダヤ人たちが、すでに戦争直前の日常生活でも感じていたであろう圧迫感を身に受ながら、「ヨーロッパのユダヤ人」の虐殺とはいったい何だったのか、と考える雰囲気ではない。地下の展示を見てみようかとも思ったが、並ばないと入れない様子だったので、今回は諦める。それはともかく、この記念碑が国会議事堂の眼の前にあることは、この過去の忘却に重い楔を打ち込むものと言えよう。このような楔を政府の側も引き受けようとしている点は、忘却の進む日本の状況とやはり対照的と言わざるをえない。
 フリードリヒ通りのドゥスマンで本を買い求めた後、電車に乗ってポツダムへ向かう。ポツダム大学に着いて、今年の2月まで世話になった教授と再会し、そのゼミに顔を出した。ゼミとはいえ、ものすごい数の学生で、多くの学生は、近くの教室から椅子を持ち込んで座っていた。ヘーゲルの美学がテーマで、おもにいわゆる「芸術終焉論」を中心に、ヘーゲルによる芸術の歴史的、社会的、さらには哲学的位置づけが問題になっていた。ゼミの後は、同じゼミに出席していた、今年わたしと同じようにポツダム大学で研究している知人と再会し、ドイツでの研究生活などについて大学のカフェテリアで話をする。
 ベルリンへ帰った後、宿に荷物を放り込んでから国立歌劇場へ向かい、「白鳥の湖」の公演を見る。ヴラディミール・マラーホフが見事にジークフリートを踊っていた。堂々としていて、かつしなやかな身のこなしは、貫録さえ感じさせる。ジャンプも高く、衰えをまったく感じさせない。白鳥のオデットと黒鳥のオディーレを踊ったポリーナ・セミオノーヴァもすばらしい。オデットのときには、指先まで使って悲しみを表現していたし、またオディーレのときには実に鮮やかな踊りを見せてくれた。ジークフリートとの、一方はオデットでの、他方はオディーレでのパ・ド・ドゥはこの日の白眉であった。この二人以外の踊り手も、けっして遜色のない踊りを見せていたし、白鳥のアンサンブルも美しい。オーケストラの音色にもう少し繊細さがあれば、と思うところもあったが、重い硬質の響きは、やや粗削りなところもある「白鳥の湖」のスコアにふさわしかったのではないか。ヴァイオリンのソロも大変な力演を聴かせていた。何よりも印象的だったのは、オデットをはじめとする白鳥たちも、ジークフリートも靄に包まれた湖の底へ消えてゆき、後には陰謀を仕組んだ彼の母親の苦悩だけが残るという救いのない結末。それは、それまでの典型的なバレエの世界の華やかさをも否定するかのようであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 3日 (木)

ベルリン旅日記:11月2日

 11月のベルリンとは思えない爽やかな青空の広がったのを幸いに、まずはヴァルター・ベンヤミンのベルリンでの住家を訪ねて回ることにした。最初に見つけたのは、彼が幼年時代を過ごしたクアフュルステン通り154番地の家。外壁はやや落ち着きのないピンク色に塗り直されていたが、建物そのものは当時のまま残っているようだ。1階部分が薬局として使われているが、4階建ての立派な邸宅。ここから小さなヴァルターは、召使いの女性に手を引かれながら、ティーアガルテンへ散歩に出かけたりしたのだろうか。それはともかく、この建物自体は豪奢な造りなのだが、周辺にはもうかつてのヴェステンの高級住宅街の面影はない。すぐ近くでは、トルコからの移民たちが八百屋やレストランをたくましく営んでいるし、安っぽい衣料品を売るチェーン店も建っている。
 次に訪れたのは、マグデブルク広場4番地の生家。建物は跡形もなく取り壊されてしまっていて、その後に無味乾燥な造りの集合住宅が建っている。ただその向かいには、昔からあると思われる小さな公園があった。もしかしたらその公園を、乳母車に乗せられた赤ん坊のヴァルターが、両親とともに訪れたこともあったかもしれない。今は幼稚園児たちの遊び場になっているようで、小さな子どもたちがかわいらしい遊具を使ってはしゃぎ回っていた。
 マグデブルク広場から、ベンヤミンが『1900年頃のベルリンの幼年時代』のなかで触れているベンドラー橋を渡り、日本を含めた各国の大使館が建ち並ぶヒロシマ通りを抜けて、かつて皇帝の狩り場だったベルリン市民の公園ティーアガルテンに入る。ここでは、ちょっとした森林浴も楽しみながら、『1900年頃のベルリンの幼年時代』の「ティーアガルテン」の章に書かれているベンヤミンの足跡をたどることにして、まずはフリードリヒ=ヴィルヘルム三世とその妻ルイーゼの像を探す。それらは、運河にほど近い、金網に囲われた(ウサギが逃げないように、ということらしい)一角にあったが、像そのものは意外と慎ましやかな感じである。しかし、ベンヤミンが触れているように、台座にはずいぶん凝った彫刻が施されている。とくにルイーゼ像の台座に彫られている、幾人もの男女が愛しあう神話的な情景は、小さなヴァルターの胸を高鳴らせたこともあったろう。そう言えば「ティーアガルテン」の章に、「愛」という言葉が、やがて否定されるべき想像的なものとして登場していた。
 皇帝夫妻の像のある一角を出て、戦勝記念塔へ向けて歩く。少しひんやりとした空気が心地よい。前の晩に雨がぱらついたせいか、空気がそれほど乾燥していないのも嬉しいところ。ゆっくり10分ほど歩いたら、戦勝記念塔が見えてきた。トンネルを通って塔のすぐ近くまで行き、下からけばけばしい壁画を眺めた後、再びトンネルを通って、6月17日通りに出る。ティーアガルテンの駅から電車に乗って、1912年からベンヤミン家が住んだ家のあるグルーネヴァルトへ行こう、と考えたのだ。
 15分ほど電車に乗った後、グルーネヴァルトの駅に到着する。実は、グルーネヴァルトへ行ったのは、もう一つ目的があった。この駅の17番ホームを見ることである。この17番ホームからは、1941年から1945年にかけて、おびただしい数のユダヤ人たちが、ポーランドやチェコといった当時のナチス・ドイツの占領地に造られた収容所へと「移送」されていた。今日それを忘れないために、もはや列車の発着に使われなくなったこのホームには、いつ、何人のユダヤ人が、ここからどこへ連れ去られていったのかが書かれた、金属製の銘板が並べられている。やはりヴァンゼー会議の行なわれた1942年1月以降、「移送」はだんだんと大規模になっていて、1943年には、これまで数百人までだったのが、千人以上の単位で、おもにアウシュヴィッツへと「移送」されている。この狭いホームに、行き先も、その後の運命も告げられることなく集められた千人以上もの人びとがひしめくさまは、凄まじいものであったことは想像に難くない。しかも、その後は貨物のように封印列車に詰め込まれて、そこから何日も立ったまま、飲食も排泄も許されない状態で運ばれてゆくのだ。グルーネヴァルト駅の17番ホーム、そこはかつて人間の顔が組織的に引き剥がされる場所だったのである。今はひっそりとしているそのホームに置かれた銘板の一枚に、一輪の赤いバラがたむけられていた。
 古めかしい造りの駅を出てしばらく歩くと、1912年以後ベンヤミンの家族が住んでいた家があったとされる通りにたどり着いた。今日リヒャルト・シュトラウス通りと呼ばれているその通りにあった邸宅は、第二次世界大戦中の空襲によって焼けてしまったという。残念ながら、その痕跡を探し出すことはできなかった。この近辺は昔から高級住宅街だったようで、庭も大きい豪奢な邸宅が今でも立ち並んでいて、通りにはかつてそこに住んでいたであろう名士たちの名が付けられている。シュトラウス以外の音楽家では、レオ・ブレッヒやヴィルヘルム・フルトヴェングラーといった、戦前のベルリンの顔だった指揮者の名が見られた。
 リヒャルト・シュトラウス通りをとぼとぼと歩いているうち、ブリュッケ美術館へ行ってみようと思いつく。この表現主義のための美術館を、ベルリンの中心街から離れていることもあって、今まで訪れたことがなかったのだ。そこからかなり距離があったのだが、地図を頼りに歩いて20分ほどでたどり着く。カール・シュミット=ロットルフの戦後の作品を集めた回顧展が開かれていた。キルヒナーやノルデにくらべて印象の薄い画家だったのだけれども、こうしてじっくり見ていると、今挙げた二人にはない魅力も感じ取ることができる。いくつかの風景画と静物画が気に入った。どの作品も、画家のまなざしと、対象の光彩との親密な対話によって貫かれているように思う。そして、その光彩をあたかもモティーフとなる対象そのものから発せられているかのように力強く描きとることで、対象にしっかりとした存在感をもたらしているようだ。シュミット=ロットルフは、最後まで抽象画に手を染めることはなかった。
 ブリュッケ美術館を出た後、バスと電車を乗り継いで、ザヴィニー広場の駅へ行く。その広場から伸びるカルマー通りの3番地に、ベンヤミンはギムナジウム時代に住んでいたのである。そこには、周りのモダンな建物からちょっと浮いた感じで、古い造りの邸宅が建っていた。当時の建物がそのまま残っているのだろう。どういうわけか、ここも薬に縁があって、今は薬剤関係の事務所として使われている。ここからベンヤミンは近くの学校へ通っていたのだが、だんだんと適応できなくなってしまうのである。そうして彼は、グスタフ・ヴィネケンの学校へ移り、青年運動へのめり込んでゆくのだが、そうした活動家ベンヤミンのベルリンでの足跡をたどることは、今回かなわなかった。
 付近の書店をいくつかのぞいてみた後、いったん宿へ戻り、夜はその近くにあるベルリン・ドイツ・オペラへ、クルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」を見に行く。さすがに歩き疲れたのと時差ボケが相まって、集中力を欠いてしまったのが悔やまれるが、オペラを内側から破壊しようとするこの作品の起爆力の一端を感じることはできた。カラン・アームストロングの寡婦のベグビック、ニコラ・ベラー・キャルボーンのジェニー、それにデイヴィッド・スタールという指揮者の率いる管弦楽がいずれも好演を聴かせていた。とりわけヴァイル特有の怪しげな影を含んだ響きは、そう簡単に出せるものではないだろう。マハゴニー市に近づいていたハリケーンがそれた後、享楽への欲望が噴出する際の猥雑な鮮やかさを放つ響きがとりわけ印象的だった。ギュンター・クレーマーの演出は、客席の第一列に男性の合唱団員を配して、マハゴニーへの欲望が聴衆自身の欲望でもあることを意識させながら、この理想の歓楽街の興亡を描くというもの。マハゴニーの享楽に酔う男たちすべてにミッキーマウスの面をかぶらせる一方、ドイツの国旗をモティーフにした天幕を張るあたりは、政治的なバランスへの配慮を示すものか、それとも「グローバル化」した世界における享楽の姿を描き出そうというものだろうか。あまりにも衣裳などが一律に揃えられているあたり、どうも単調な感じがして退屈するところもあったが、最後の場面ではその単調さが逆に、消費による快楽の追求が、異質な者の排除と、それによる軍隊的な画一性とに結びつくのをうまく描くのにつながっていたようにも思う。ともかく、ブレヒトとヴァイルの共同作業による最もオペラらしく見えるオペラ「マハゴニー市の興亡」によって、二人がどのように「オペラ」を内側から爆破し、それに興ずるわたしたちの生活をどのように問いただそうとしたのか、もう少し探ってみる必要があるだろう。とりわけ興味深いのは、古いナンバー付きのオペラの様式が、オペラの展開のモンタージュ映画的な非連続性と結びついている点である。ここが「マハゴニー」であることを突きつける上演は、今日どのようにすれば可能だろうか。

IMGP0551 IMGP0579 IMGP0584

| | コメント (0) | トラックバック (1)