3月に読んだ和書

 3月の前半は、翻訳や原稿執筆に非常に忙しく、ほとんど本を読むことができなかった。その合間を縫ってようやく読めたのが、ロドルフ・ガシェの『いまだない世界を求めて』(月曜社)。以前から気になっていた、デリダの薫陶を受けたこの哲学者による日本語版オリジナルの論文集である。翻訳と解説が素晴らしく、このようなかたちでガシェの思想が紹介されるのは喜ばしい。作品の独特の現実性ないし出来事性を語るものとしてハイデガーの「芸術作品の根源」を読み解いた論文と、他者への応答としての責任の概念から、哲学そのものを捉え直そうとする論文とが感銘深かった。
 4月7日から広島でも、先頃交通事故のために急逝したテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』の追悼上映が始まるが、その予習も兼ねて読んだのが、村田奈々子の『物語 近現代ギリシャの歴史──独立戦争からユーロ危機まで』(中公新書)である。19世紀半ばのギリシアの独立運動以来、周囲の大国によって翻弄されてきたギリシアの苦悩の歴史を、政治史として浮き彫りにする。言語をめぐる対立が、ギリシアとは何か、という根本的な問いと結びついているあたりの叙述は興味深い。現代ギリシアの政治史の専門的な叙述に傾きがちなところがあるので、もう少し大局的な視点と、問題の掘り下げがあればと感じた。
 月末にヴィーンへ出かけるので、1848年のヴィーン革命のことを知ろうと読んだのが、良知力の書いた二冊の革命史論。いずれも、1848年の3月に始まり、10月の敗北に終わるヴィーン革命の歴史を、歴史に名を残さない人々の声や足跡を記した膨大な資料を渉猟して、革命史の見直しを迫る労作である。一冊は、『向う岸からの世界史──一つの四八年革命史論』(ちくま学芸文庫)。挫折に終わったこの革命の歴史を、同時代のベルリンの革命の動きと照らし合わせながら浮き彫りにし、さらに20世紀後半の移民をめぐる状況とも関連づける論集である。その叙述の舞台裏も明かされて興味深い。もう一冊は、『青きドナウの乱痴気』(平凡社ライブラリー)であるが、これは名著と言うべきであろう。労働者の権利を求める闘いがやがてハプスブルク帝国内での民族抗争へ転化していく様子が、ヴィーンの都市生活を文字どおり支えていた人々の声から浮き彫りにされる。革命に立ち上がったヴィーンを皇帝の軍隊から守ろうと戦って、クロアチア人の部隊を先兵とする皇帝軍によって虐殺されたのが、ボヘミアやポーランドからヴィーンへ流れ込んできた移民であったわけだが、こうした痛ましい歴史は今も繰り返されているように思えてならない。ちなみに、本書に掲載されている挿し絵のいくつかを、カール広場の傍らにあるヴィーン市の博物館で見ることができる。
 他にヴィーンへの旅へ向けて読んだのが、類い稀な芸術史家宮下誠が残した『クリムト──金色の交響曲』と岡田暁生の『楽都ウィーンの光と陰──比類なきオーケストラのたどった道』(いずれも小学館)。前者は、金細工から出発したクリムトの絵画を、日本の芸術との関わりや分離派という運動の理念にも目配りしつつ、世紀末ヴィーンのなかに生き生きと浮かび上がらせる佳篇。ベートーヴェン・フリースについての叙述は圧巻と言うべきであろう。風景画家としてのクリムトに注目している点にも共感できたし、作曲家マーラーと関連づける叙述も正鵠を射ている。また、巻末のクリムトの作品の地図は、この画家の絵を見にヴィーンを訪れる人にとって有益であろう。後者は、ヴィーン・フィルハーモニーというオーケストラの歴史を掘り起こすことを軸としながら、ヴィーンの音楽文化の発展と凋落とともに、移民の街であるがゆえに同時に人種差別の渦巻く街でもあるヴィーンの姿をも浮き彫りにする。スター指揮者として華々しく登場し、歌劇場やオーケストラをめぐる陰謀に翻弄されたマーラー、そしてプラーターの貧しい移民の家に生まれ育ったシェーンベルクという二人のユダヤ人に関する章はことに興味深い。巻末の年表や地図もなかなか有益だと思う。音楽の都としてのヴィーンの歴史は、第一次世界大戦以前の、すなわちハプスブルク帝政期のブルジョワジーの興隆に負っていて、これほどまでにヨハン・シュトラウスがヴィーンを代表をするものとしてこれほどまでに全面に押し出されるのは、その時代へのノスタルジーの表われなのだ。
 ヴィーン滞在中に読んだのは、アルトゥール・シュニッツラーの『夢小説・闇への逃走 他一篇』(池内紀他訳、岩波文庫)。無意識の欲動が、じわじわと、また退廃的な情緒も交えながら浮かび上がってくる。医師でもあったシュニッツラーならではの、人間の身体と心理への鋭い切り込みも印象的で、堕ちていく人間のなかで起きていることが、ひしひしと伝わってくる。これを読んで、クリムトやシーレを見て、シュテファン寺院裏手の飲み屋街へ消えるというヴィーンの過ごし方もあるかもしれない。ちなみに、フロイトはシュニッツラーの小説を読んで、自分が地道な研究を重ねて辿り着いた洞察に一挙に達していると、彼を羨んだということである。
 ヴィーンから帰る機内で読み終えたのが、吉田秀和の『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(中公文庫)。1967年秋からおよそ1年、ベルリンを拠点にヨーロッパに滞在したあいだ、著者が音楽を中心に接した芸術についての批評をまとめたものである。彼の確かな批評眼をあらためて痛感させられるとともに、批評の視点もかなり理論的に示されている。それはたしかに古典的な作品観に支えられたものであろうが、あらためて傾聴すべき論点も少なくない。「批評」や「評論」を掲げて書くすべての人に読まれるべきエッセイ集と思われる。
※ブクログという読書記録サイトの「まとめて紹介」機能を利用しています。

walterの本棚 - 2012年03月 (9作品)
3.11を心に刻んで
読了日:03月20日
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ヴィーンへの旅:2012年3月25日

 今日から妻とヴィーンへの旅。ヴィーンを訪れるのは、新婚旅行のとき以来8年ぶりということになる。7時前に広島空港に着いてチェックイン。成田行きの便がオーストリア航空ともコードシェアしているためだろうか、成田からのヴィーン行きの便も同時にチェックインできて、荷物もスルーで預けられたのはありがたかった。9時半前に成田に着いてみると、南ウィングは、ものすごい人混みでごった返していて、出国審査場に通じる保安検査のゲートの前に長蛇の列ができている。本当は少しゆっくりしたかったが、すぐにこの列に並ばなければならなかった。おそらく今日から学校の春休みで、家族連れや卒業旅行で海外へ出る人々のちょっとした出国ラッシュになっているのだろう。
 オーストリア航空のヴィーン行きの直行便で、11時間のフライト。前回このキャリアを利用したのは、ヴィーン経由でドレスデンへ行った2004年の秋以来ということになるが、以来使っていなかった理由を思い出してきた。機内のエンターテインメントの内容が乏しく、機内食もあまり美味しくなかったのだ。妻は見る映画がないとこぼしていた。ラジオのクラシック音楽のプログラムも3時間ほどのサイクルで同じ曲を繰り返している。機内食は、グリルチキンのグラタン添えか「カツ丼」という「究極の」と言いたくなるような選択肢だった。特別不味いわけではないが、美味しくはない。他のキャリアに比べて全体の量を抑えてあるのと、カイザーゼンメルなどのパンが香ばしいのが嬉しい。機内では、岡田暁生の『楽都ウィーンの光と陰──比類なきオーケストラのたどった道』と良知力の『青きドナウの乱痴気』を読了。前者は、ヴィーン・フィルハーモニーというオーケストラの歴史を掘り起こすことを軸としながら、ヴィーンの音楽文化の発展と凋落と同時に、移民の街であり、そうであるがゆえに同時に人種差別の渦巻く街でもあるヴィーンの姿をも浮き彫りにする。スター指揮者として華々しく登場し、歌劇場やオーケストラをめぐる陰謀に翻弄されたマーラー、そしてプラーターの貧しい移民の家に生まれ育ったシェーンベルクに関する章はことに興味深い。巻末の年表や地図もなかなか有益だと思う。音楽の都としてのヴィーンの歴史は、第一次世界大戦以前の、すなわちハプスブルク帝政期のブルジョワジーの興隆に負っていることとともに、これほどまでにヨハン・シュトラウスがヴィーンを代表をするものとしてこれほどまでに全面に押し出されるのは、その時代へのノスタルジーの表われなのだ。後者は、1848年の3月に始まり、10月の敗北に終わるヴィーン革命の歴史を、歴史に名を残さない人々の声や足跡を記した膨大な資料を渉猟して、革命史の見直しを迫る労作。労働者の権利を求める闘いが、やがてハプスブルク帝国内での民族抗争へ転化していく様子が、ヴィーンの都市生活を文字どおり支えていた人々の声から浮き彫りにされる。革命に立ち上がったヴィーンを皇帝の軍隊から守ろうと最後まで戦い、クロアチア人の部隊を先兵とする皇帝軍によって虐殺されたのが、ボヘミアやポーランドからヴィーンへ流れ込んできた人々であったのは、実に痛ましいが、こうした歴史は今も繰り返されていよう。
 少し早くヴィーンへ到着し、空港からバスで市街へ向かう。バスが到着したシュヴェーデンプラッツの停留所のすぐ前に、かつてゲシュタポの本部が置かれていたところに設けられた記念碑が見えた。「けっして忘れない」と碑文にある。気温が20度を超えて暑かったので、ジェラートを食べてから地下鉄でホテルへ向かう。宿はノイアー・マルクトに隣接するオイローパ。便利な場所にあるが、部屋がケルンテン通りに面しているので、夜騒々しくないか心配だ。
 少し休んだ後、アン・デア・ヴィーン劇場へオッフェンバックのオペレッタ『ホフマン物語』を見に行く。ウィリアム・フリードキンの演出で、リッカルド・フリッツァ指揮のヴィーン交響楽団がピットに入った。劇中のホフマンが思いを寄せるプリマ・ドンナがアンナ役を歌うモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の上演を劇中劇のように背景に据えながら、ホフマンの恋の遍歴を、彼のなかの無意識の暗黒面が表われてくるプロセスとして描き出す演出で、ヴィデオを駆使した演出ながら、読み替えを打ち出すのかどうか少し煮え切らない印象で、また後半の運びがやや冗長──ただでさえこの作品の後半は、失恋話の繰り返しなだけに退屈になりやすいだろう──に思われた。最後に作家としての人生に戻るところで、ホフマンはノート・パソコンに向かった。
 歌手はいずれも高水準の歌唱を聴かせてくれたが、なかでも全曲を通してミューズ/ニクラウスを演じたロクサナ・コンスタンティネスクは、素晴らしかった。オランピアを歌ったマリー・エリクスメンもほぼ完璧な歌唱。主役のホフマンを歌ったクルト・シュトライトも巧みだったが、今ひとつパンチに欠ける印象だった。それ以外の役もほとんど隙がない。フリッツァ指揮のヴィーン交響楽団は、少し垢抜けたところや軽やかなリズム感が欲しいところもあったが、全体には力強く舞台を支えていて、聴き応えがあった。
 帰りがけ、あるバイスルに寄って軽く夕食をと思ったが、その店はもはやなく、結局市電の停留所のインビスでケバブなどを買い求めて宿へ戻る。ヴィーンにはずいぶんケバブを売る店とアメリカ系のファスト・フードのチェーン店が増えている。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月28日

 朝オスナブリュックを発って、ミュンスターへ向かう。特急に乗れば30分とかからない、ほとんど隣町である。まず、ミュンスターの旧市街へ向かって、ツーリスト・インフォメーションで市街地図をもらい、いざツヴィンガーへ、と意気込んだが、ほとんど空振りに終わった。下調べが不十分だったと言えばそれまでだけれども。ナチ時代に監獄というか、ほとんど処刑場のように用いられていて、当時のソヴィエト連邦とポーランドから連れて来られたおびただしい人々が殺されたこの場所には、レベッカ・ホルンのインスタレーション「対向する協奏」──原題のDas gegenläufige Konzertは、ひとまずこのように訳せるだろうか──が設置されていて、それをぜひ見たかったのだが、夏のあいだ、日曜の午後にだけ見られるようだ。そもそもこの建物も、日曜にしか公開されていないという。ヴァイマルと同じである。なお、ツヴィンガーの建物自体、ずっしりとのし掛かってくる印象だった。今は崩れかかっているところもあるようだが、分厚い壁で取り囲むかのような円形の石組みのところどころに小さな窓が開いていて、いかにも監獄の造りである。塞がれた入口からは冷たい風が漏れていた。
 肩を落として歩いていたら、いかにも古そうな教会が目に入った。ミュンスターは教会の街と言えるほど、市街中心の大聖堂をはじめ教会が多いが、使徒教会というこの教会はプロテスタントの教会という。しかし、建物そのものはやはり古く、内部空間を含め、初期ゴシック様式をよく残していて美しかった。そこを出て、旧市街を少し歩き回った先にピカソ美術館があったので、冷やかし程度に立ち寄ってみたが、エディ・ノヴァロという、ピカソをはじめ同時代の芸術家の写真を数多く残した写真家の仕事を中心にした特別展の最中という。ノヴァロの写真と、その撮影を機縁として彼に贈られた小品が展示の中核をなしていた。さまざまな芸術家の写真を見られるのは、それはそれで面白かったとはいえ、作品の展示としては貧弱だったと言わざるをえない。展示の最後に、ピカソの版画がわずかながらあった。闘牛など闘いを主題としたもの、愛を主題としたもの、そしてピカソの分身とも言えるミノタウロスを主題としたものに分類されていたが、愛の表現である最後の妻の肖像が印象に残った。
 ツヴィンガー行きが空振りに終わったため、もうしばらく間があったので、大聖堂の傍らの州立芸術・芸術史博物館も訪れてみた。ちょうど新しい建物への立て替えの準備中ということで、倉庫に集められた作品を覗くことができるというのも面白かったが、それ以上に、収蔵作品から選りすぐったものをテーマごとに配置し、時代を距てたなかで対話させるという展示が興味深かった。展示されていた作品のなかでは、何よりもアウグスト・マッケのアトリエを飾っていたという、フランツ・マルクの「楽園」の壁画が素晴らしかった。動物たちが自然の色調のなかに穏やかに溶け込んでいる。壁画は、油絵よりも柔らかな印象だ。他に、流行の服を飾ったショウ・ウィンドウを眺める女性たちを描いたマッケの作品も美しかった。これも柔らかな色彩の音楽を奏でてている。クレーの「聴く人」を見られたのも嬉しかった。聴く行為そのものをユーモラスに描いた小品だ。花が咲き乱れる庭を描いたエミール・ノルデの作品も鮮烈な印象を残した。
 こうした20世紀前半の作品、さらには20世紀後半の作品が、中世の祭壇画や彫刻、そしてルネサンスやバロックの絵画と対話するかたちで展示されている。同じテーマの表現法がどのように変わっているかを見るのも面白かったうえ、古い作品も見応えがあった。また、地元の古い芸術が大切にされているのもよく伝わってきた。このあたり、日本の美術館も学ぶべきではないだろうか。なお、この美術館では、他にエルンスト・マイスターという詩人の絵画作品がまとまったかたちで展示されていたし、ヨハンナ・ライヒという若い作家のヴィデオ・アートもなかなか興味深かった。
 本を少し見て駅へ戻る途中、市庁舎の裏手にある三十年戦争の終結を記念した広場に立ち寄った。その傍らには戦争と暴力の犠牲者に捧げるモニュメントがあった。広場にはまた、「対話による寛容」と題されたエドゥアルト・チリダの彫刻作品も置かれていた。幾何学的な金属の塊が対話するかのように向かい合っている。緊張感のある対話の表現と言えようか。それをつうじてこそ平和が実現されると語りかけるのかもしれない。少なくとも、360年以上前の出来事をたんに歴史化するのではなく、その意味を現代の問題として問おうとする姿勢が伝わる広場の造りと言えよう。それに触れるとき、日本の「平和都市」の公共空間のあり方も再考させられる。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月27日

 機内であまり眠れなかったうえ、昨晩も寝るのが遅くなったので、起きられるか不安だったが、9時前に何とか起きることができた。朝食の後、さっそくフェリックス・ヌスバウム美術館を訪れるべく出かけた。オスナブリュックの街は、ヨーロッパの古い街の多くがそうであるように、かつて城壁だったリング状の大通りに囲まれている。それに沿ってしばらく歩くと、アルテ・シナゴーグ通りに行き当たった。1938年のいわゆる「水晶の夜」のポグロムによって破壊されたシナゴーグの跡には、皮肉にも、と言うべきか、警察署が建っているが、今はその傍らにシナゴーグの破壊とオスナブリュックから消されたユダヤ人を記憶するモニュメント(警告碑:Mahnmal)が置かれている。
 シナゴーグ跡から少し北へ歩くと、すぐにフェリックス・ヌスバウム美術館が見えてきた。ダニエル・リベスキンドが設計したその建物は、三つの異なった素材を外装に用いた建物が不規則に交差するように建っていて、異彩を放っている。美術館では、ヌスバウムの作品などを展示する常設展と並行するかたちで、チェコ生まれの現代芸術家ダニエル・ペシュタの作品展も同時に開催されていた。エントランスを入るとすぐに、血と誕生を象徴する彼のインスタレーションと立体作品にぶつかることになる。とくに血からの誕生を表わす立体作品は強烈な印象を与えるが、ナチスがそこから「人種」という虚構を読み取ったものを、もとの多義性と可塑性へ送り返すようでもあった。
 ヌスバウムの作品の展示は、部屋ごとをテーマに分けながら、ゆるやかに彼の生涯をたどる仕組みになっていた。最初の部屋には、彼の亡命以前の作品を中心に展示されている。解説によると、ヌスバウムは、ブリュッケの名の下にに集った表現主義の画家たち同様、ゴッホによってインスパイアされる──それはヌスバウムの絵画が時に見せる強い表現力に表われているかもしれない──とともに、アンリ・ルソーの生きものたちへの愛に満ちた素朴さも愛したという。1930年に描かれたという「集団の肖像(Bildnisgruppe)」は、ルソー的な素朴さがユダヤ的とも言える率直さと合致した作品と言えようが、ヌスバウムはやがてルソー的な要素を、アイロニカルに、時には自分自身への皮肉も込めて、作品に盛り込むようになる。後者の点がとくに強く表われているのが、1937年の「兄弟と一緒の自画像(Selbstbildnis mit Bruder)」であろう。兄弟の像を前後に並べ、高らかに笑う弟の姿を、もう一方の愁いに満ちた自画像が半分隠している。その様子自体が、ヌスバウムの絵画の自画像なのかもしれない。そして後に見るように、自画像こそ、彼が苦しく、また恐怖に囲まれた状況にあっても芸術家としての矜恃を保つ場であった。
 最初の部屋には、ヌスバウムの父親の肖像が置かれていて、知性に満ちた父親への尊敬の念とともに、画家の鋭い観察眼──そこにはモディリアーニを思わせるところもある──を感じさせる見事な作品と映った。そこには自分の旧作が画中画として引用されているが、引用の技法もまた、ヌスバウムの芸術を特徴づけるものと言えよう。これも後に見るように、彼は自画像などを、より大きな規模の作品にたびたび引用している。なお、亡命以前の作品としては、ユトリロを思わせる構図の風景画とともに、ユダヤ人の男女の肖像とともに、オスナブリュックのシナゴーグの内部空間を描いた「二人のユダヤ人(Die beide Juden)」(1926年)が興味深い。とくに女性の表情からは強い意志を感じる。この絵は、当地のユダヤ人の教団報にも載ったという。
 次の部屋のテーマとなっていたのが静物画であった。解説によると、ヌスバウムは静物画によって「見かけは無垢の世界」を描こうとしたと語っていたそうだが、そこには見かけの無垢さ、あるいは無害さを突き抜けて、ヌスバウムの心理状態が色濃く表われている。そのことをいきなり突きつけられた思いで見たのが、1943年に描かれた「アフリカの彫刻のある風景(Stillleben mit aflikanischem Skulptur)」であった。画面の中央には、アフリカから輸入されたと思われる素朴な木彫の人物像が置かれているが、そのところどころが壊れている。しかも、その彫像はちょうど首吊りのような格好で支えられているのだ。その背後にはモノクロームの楽園的な風景。失われた楽園の光景と言うべきだろうか。ヌスバウムの絶望と死に対する恐怖の両方が表われた静物画と言えようが、それでも画面が完全にユーモアを失っていないところには、観察者としての画家の存在を感じる。静物画ではほかに、黒で覆われた「猫のいる静物画(Stillleben mit Katze)」(1941年)も眼を惹いた。亡命先で息を潜める画家の心境を表わしているのだろうか。
 今回ヌスバウムの作品をまとまったかたちで見て、彼の芸術の多面性に触れることができたのも収穫だった。彼はベルリン時代の末期に、映像作家と協力して、ユーモラスで、少し奇想天外なところのあるアニメーション映画を作ろうと企てていたようだ。また、同時代の人々の心理に深く分け入ってそれを寓意的に、かつユーモラスに描く、優れて風刺的とも言える絵画を、雑誌(Querstand誌)の表紙に寄せてもいる。こうした活動のあいだ、ヌスバウムは画家として地歩を築く手応えを得ていたかもしれない。しかしその道は閉ざされていく。彼のベルリンのアトリエは火災(ナチスの放火とも言われる)に遭い、150点に及ぶという作品を失った。そして、ヒトラーの政権掌握とともに、亡命を余儀なくされることになる。そのことを暗示するかのように、美術館の展示空間は徐々に狭まっていった。このあたりに忘却にこうする美術館というリベスキンドの建築構想と、ヌスバウムの生涯との呼応を感じることができるのかもしれない。
 さて、次の部屋には、ヌスバウムの亡命時代の自画像がまとめて展示されていた。そのどれもが、彼の生に対する態度と芸術の両方を凝縮された仕方で表わしているように思われたが、なかでも手で口を覆った「アトリエの自画像(Selbstbildnis im Atelier)」(1937年)は、亡命の境涯で画家として語ること──すなわち表立って自分を表現することを──禁じられている状況と、その状況に戦いて言葉を失っていることを一つながらに表わしているように見えた。画面の右下の隅が塗り残されているのが痛々しい。この自画像と同じ年には、「シュルレアリスティックな風景の自画像(Selbstbildnis in surrealer Landschaft)」も生まれている。近代的な都市の鉄塔のあいだから、目をぐっと見開いた画家の顔がのぞいている。この絵は、ほぼ同時期に描かれた靉光の「眼のある風景」を思わせるところがある。ヌスバウムの作品は、物質の量感が迫ってくるかのように塊を彫り出す靉光のマチエールとは対照的に、きわめて禁欲的な画面を呈しているが、両者の芸術には、時代を見通す眼差しを追究する点でどこか通底するものがあるように思えてならない。自画像ではもう一つ、「イーゼルの傍らの自画像(Selbstbildnis an der Stafferei)」(1943年)も印象的だった。イーゼルの前では、画家が澄んだ眼でこちらを見つめているが、その手には楯のようにパレットが握られている。創作の場の静けさを暴力から守ろうとする、せめてもの抵抗だろうか。イーゼルの前の机には、三本の壜が置かれ、その一本には髑髏の印のラベルが貼られている。そこに入っているのは、自殺用の毒薬にちがいない。芸術家として死ぬことをも辞さない覚悟を静かに、そしてそうであるがゆえにぎくりとさせる仕方で表わした作品である。
 自画像が集められた一室には、同時にほとんど無数と言ってよいシリコンで取った顔型──安部公房の『他人の顔』を思い起こさせる──を並べて中空に漂わせたペシュタのインスタレーションも置かれていた。ペルソナの漂いとでも言えようか。素顔を隠す仮面であることと、自分自身を響き出させることのあいだで揺れ動く顔そのもののありかたに踏み込みながら、それこそ無数の自画像を描いたとも言えるヌスバウムの芸術との対話を試みた作品と言える。それを展示することで、現代の表現とヌスバウムの半世紀以上前の表現が相互に照射し合う空間が生まれていたことは、造形作品の展示を考えるうえでも実に示唆的に思えた。
 自画像に続いては、1940年代の比較的規模の大きな作品が展示されていた。画家の最期の時期の透徹した眼差しによって貫かれた作品ばかりである。最初に目に入ったのは、ヌスバウムが敵性外国人として収容所に囚われたときの経験を土台に描かれた「サン・シプリアンの囚人たち(Gefangene in Saint Cyprien)」(1942年)。肩を落とした囚人たちの特徴的な姿を、フラ・アンジェリコの画面を思わせるような静かで緻密ななタッチで、伝統的な「四つの気質」の主題に即して寓意的に描いている。その1年後から制作されたとされる「呪われた者たち(Die Verdammten)」(1944年)の画面は、後期ゴシックから16世紀にかけてのフランドルの──ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの名を思い起こさずにはいられなかった──祭壇画、それも殉教者を描く祭壇画のように、絶望して死を待つユダヤ人たちの群像を、廃墟と化した街のなかに描いている。実際その背後には棺桶を担ぐ死神が近づいているのだ。そしてその群像のなかに、ヌスバウムは、あの「ユダヤ人の身分証をもつ自画像」を引用しているのである。ヌスバウムの顔は、じっとこちらを見つめ、憔悴しきったユダヤ人が死に追いやられていく状況を見通そうとするかのようだ。このように、死の恐怖に取り囲まれ、生存そのものが困難な状況に置かれながら、あくまでその状況を見通し、それに画家として立ち向かおうとするヌスバウムの矜恃のうちに、フランドルのもう一人の画家と相通じるものを見て取らないわけにはいかない。ピーテル・ブリューゲルである。絞首台の上の小鳥として自分を画面に描き入れた彼もまた、同時代に生きる人々の姿を寓意的に描き、その生命力を肯定しながら、人々を取り巻く状況を見通していた。ヌスバウムには、20世紀のブリューゲルのような側面があるとまでは言えるかもしれない。それを彼が亡命したフランドルで身につけたのではないか。ブリューゲル的な観察者の存在を、「手回しオルガン師(Orgelmann)」(1943年)にも見て取ることかもしれないが、この作品はさらに謎めいている。死に覆われ、破壊された街のなかにオルガン師が独り佇んでいるが、そのオルガンのパイプもまた人骨である。彼は人々の死を見届け、その骨を拾ってきたのか、それとも死を奏でる死神の友なのか。
 ヌスバウムの最期の作品と言われているのが、「死の勝利(Triumph des Todes)」(1944年)である。これはひとまず、中世以来の「死の舞踏」のモティーフを借りながら、人間がもたらした人間の文化の破滅を描いた作品と言えよう。ラッパやクラリネット──軍楽隊で使われる楽器ばかりだ──を手にした骸骨たちが高らかに「死の勝利」を奏でる下で破壊されているのは、書物、楽譜、タイプライター、フィルム、パレット、観測器具など、どれも広い意味でアートに関わる品々ばかり。世界の広大さを測りながら、そこに生きることをその奥底から表現してきた文化が滅び去っていくさまを突きつけて止まない。そして、それが同時代の出来事であることを、画家はそれとなく示唆している。作品が完成した日付である「1944年4月18日」の文字が新聞の日付として描かれているのである。死神がクラリネットを吹く背後では、機関砲の砲口がクラリネットと同じ方向を向いている。ちなみに、この作品と同じ年に、ホルクハイマーとアドルノは亡命先のカリフォルニアで『啓蒙の弁証法』を著わしている。それが論じている、啓蒙が野蛮へと堕していく過程でまき散らされる暴力を、ヌスバウムの「死の勝利」ほどに克明に描き出した作品を知らない。
 続く展示室には、ダニエル・ペシュタの作品がまとまったかたちで展示されていた。それもまた、ヌスバウムの芸術との対話として展示されているようで、端的に「フェリックス・ヌスバウムのための天使」と題された作品以上に、「天使たちが生き残る」と題された作品が、先ほどの「死の勝利」に呼応する作品と言えるかもしれない。原子爆弾か水素爆弾のものであろうキノコ雲のなかへ、内側からすでに灰と化した無数の人々が吸い込まれていく。そのなかに、画面に貼り付けられた格好の白い人物像がいくつか見られるが、それは生き残った天使のようでもあり、核爆発によって殺された人々の変容したした姿のようでもある。ペシュタという作家は、記憶の揺らぎや人間の自己同一性の不確かさに関心があるようで、遺伝的なものや写真による同一性の確認を揺さぶる作品がいくつか展示されていた。チェコ出身で、民主化のための地下活動にも関わった経験もあるという。今後注目してよい作家かもしれない。
 別の一室には、ヌスバウムの「折り畳み本(Faltbuch)」(1933年)と、リベスキンドによる美術館の設計構想が並べられていた。リベスキンドは、ほとんど抽象画のようなこのヌスバウムの作品からインスピレーションを得て、「出口のない美術館」、また「絵のように建てられた建物」として美術館を構想したという。ここ以外に、ヌスバウムの作品とリベスキンドの建築が直接対話する場面は見られなかったとはいえ、ヌスバウムの生涯と芸術をリベスキンドなりに汲み取ってこの美術館が設計されていることは、内部空間を歩いていてよく伝わってくる。建物が交差することによって生まれる空間には、廃墟にあったと思われる石材を組み合わせて、十字が造られていた。それもだんだんと苔むしている。それもまた廃墟を思わせるが、そうすると、ここにあるのは廃墟、ないしは儚さの表現を含み込んだ建築なのかもしれない。
 フェリックス・ヌスバウム美術館を出て、旧市街をしばらく歩くと、エーリヒ=マリア・レマルク博物館が見つかった。『西部戦線異状なし』で知られるこの作家の生涯と作品を紹介していたが、彼の作品はナチスによる焚書に遭ったという。なお、この博物館は平和センターを兼ねていて、ロビーでは、広島と長崎の資料館の資料を用いて小さな「原爆展」が開かれていた。原爆の被害を伝える展示に、ドイツで、しかもドイツ語で再会するのは不思議な感じだが、遠くで起こった場所のことを進んで展示する姿勢には学ぶべきものがあろう。それに、ヌスバウム美術館が造られたこと自体、ナチスの時代とそのなかで跋扈した人種主義の暴力に対する真摯な反省を抜きにしては考えられない。しかも、そこに今展示されているペシュタの作品は、人種主義を現在の問題として問うてもいる。ちなみに、オスナブリュックには、暴力に立ち向かうモニュメントが街の至る所に置かれている。むろん、現在の街から暴力の問題が一掃されてはいないようではあるけれども。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月26日

 今日から4泊6日でドイツを訪れる。今回の旅では、とくに三十年戦争終結の場であると同時にナチスの暴力の記憶も刻み込まれている二つの都市、オスナブリュックとミュンスターを訪れて、歴史的な場所や歴史的な記憶が集約された場所に芸術が介入することによって、過去を想起することがどのように喚起されるか、さらには過去を想起すること自体がどのように変化するかを、実際にその場所に足を踏み入れることで可能なかぎり確かめてみたい。それによって、今ここで歴史を紡ぎ出すことをどのように捉え返せるかを考える糸口を探ることができればと思う。
 まず、オスナブリュックでは、ダニエル・リベスキンドが設計したフェリックス・ヌスバウム美術館を訪れる予定である。ベルリンのユダヤ博物館に見られるように、複数の建物を交差させ、それによって作られる「ヴォイド」という空隙をもつ建物のなかに、アウシュヴィッツで虐殺されたこのオスナブリュック出身の画家の作品が数多く展示されているわけだが、そこで建築と美術がどのように共振しているか興味がある。リベスキンドの設計自体、どのようなコンセプトで、それがどのように実現されているのか、それとヌスバウムの絵画が、さらには彼の経験がどのように共鳴しているのか、そしてヌスバウムの絵画自体が、どのような強度をもって迫ってくるのか、見て来たいと思う。オスナブリュックでは、シナゴーグをはじめ、他の歴史的な場所も訪れておきたい。
 ミュンスターは日帰りで立ち寄るだけだが、ツヴィンガーと呼ばれる、かつてナチが政治犯の収容所に使っていたという建物に、現代美術作家のレベッカ・ホルンがインスタレーションを据え付けているのを見ておきたいと考えている。この建物の一室一室に、そこにある石の一つひとつに刻み込まれた、ナチの暴力の犠牲者たちの記憶が、その場でどのように想起されるだろうか。ホルンの作品そのものとともに興味深いところである。ミュンスター市街の各所には、ホルンの作品以外にも、野外の彫刻作品がいくつか置かれているという。そのいくつかも見て、古い街並みが美しいとされる歴史的な街ミュンスターが、アートの介入によってどのように変貌しうるのか、その経験とはどういうものか、考えてみたい。
 日本へ帰る前の日の夜には、デュッセルドルフの隣町に当たるデュイスブルクを訪れ、工場跡を劇場に改造した建物で、ルールトリエンナーレの一環として行なわれる、細川俊夫の『班女』の公演にも接することになっている。これも歴史的な場所で、三島由紀夫の近代能をもとにしたオペラがどのように響くのかも楽しみである。その予習を兼ね、機内ではまず三島の『近代能楽集』を読んだ。伝承されてきた謡曲を土台にしながら、それを巧みに現代のドラマに翻案しながらも、その登場人物に、時空の交錯する夢幻能の世界を現出させる詩的な台詞を語らせる手腕には、やはり唸らせられないではいられない。そのひと言によって、何気ない日常的な場面に、死者とその浮かばれる思いがふと現われたり、正気と狂気、あるいは夢とうつつの境目がぼやけたりするのだ。「班女」もさることながら、「卒塔婆小町」など傑作だと思う。20世紀後半のホーフマンスタールとでも形容したいような三島の一面を示していよう。
 今回、成田からミュンヘンを経由してデュッセルドルフへ行き、そこから鉄道でオスナブリュックへ向かったのだが、ミュンヘン行きの機内ではもう一冊、吉田秀和の『時の流れのなかで』を読む。『音楽芸術』誌に34年にわたって連載されてきた批評を選りすぐったもの。音楽そのものについての深い理解については言うまでもないが、絵画、ひいては芸術そのものへの鋭い洞察も、具体的な展覧会に接したときの経験などをもとに示されている。セザンヌとマネの絵画の経験を土台に、絵画におけるマチエールを、画家の生と結びつけながら重視するあたりは興味深い。さらに、この批評選集に関して特筆すべきは、吉田のしなやかな思考が、芸術の領域だけにとどまっていないことである。チャーチルの「鉄のカーテン」という言葉を例に、歴史を語る言葉について論じた一節など、眼を開かせられる思いで読んだ。日本文化についての批評には、現代にも当てはまるところがいくつも含まれているのではないだろうか。批評としてのエッセイとは何かということを考えるうえで必読の一冊と思われる。
 それにしても、今回の旅では悪霊に取り憑かれたようにうまく事が運ばない。ケチの付き始めは成田空港の滑走路手前で飛行機が急停止したこと。嫌な予感がしたが、案の定タイヤの空気圧不足が判明したとのこと。その整備と給油で1時間ほど成田出発が遅れてしまった。そのためミュンヘンでは、予定していた接続便には乗れず、その次のデュッセルドルフ行きに乗ることになった。それに間に合って、初めて降り立ったデュッセルドルフ空港では、大急ぎで鉄道の駅と空港を結ぶスカイトレインに乗り、何とかデュイスブルクで特急に連絡する電車に乗り込めたまではよかったのだけれども、デュイスブルクの手前で人身事故があったようで、いつまで経っても予約していたハンブルク行きの特急が来ない。おそらく自殺だろう。3時間近く遅れてようやくやって来た特急も、半分はドルトムント止まりとなり、席を予約していた者もみな、後方の車両に乗り換えさせられた。これが事故を起こした当の電車なのかもしれない。結局オスナブリュックに着いたのは、午前2時過ぎ。ドイツ鉄道が発行したタクシー・クーポンを同じ方向の乗客と乗り合いで使い、ホテルまでタクシーで行けたのは、不幸中の幸いだった。移動が丸一日になってしまい、本当に疲れ果ててしまった。

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ベルリン旅日記(2011年7月16日)

 疲れを取る意味もあり、寝坊してから少し遅めに朝食へ降りると、朝食会場のサロンは満席。これほどの観光客が泊まっていたのか、と思う。やはり観光シーズンであることを実感させられる。しばらく部屋で待って出直しても席は空かない。週末ということもあり、みなゆっくりと朝食を楽しんでいるのだろう。結局相席させてもらうことになった。
 今日は夕方に国立歌劇場で細川俊夫さんの『松風』の公演を見ることになっているが、それまでは空いている。そのあいだ絵を見たいと思って、ポツダム広場へ向かった。地下鉄に乗る前に、札を小銭に替えたいこともあって、近くの文学館内の書店に立ち寄り、アライダ・アスマンの記憶と歴史の関係を扱った一冊を買い求めた。いつもどおり地下鉄2番線に乗り換えてポツダム広場へ行こうとしたが、途中が工事中で、いったん12番線に乗り換えることに。いつもの倍の時間がかかった。
 新国立美術館をのぞいてみると、ドイツ語で»Moderne Zeiten«というテーマの特別展示があり、面白そうな印象を受けたので、見ることにする。どうやら、ベルリンでのチャップリン全作品の上映とも関連した収蔵作品展のようで、実際会場のなかで『モダン・タイムス』、すなわち»Moderne Zeiten«の一部も上映されていた。20世紀前半の絵画と同時代(Moderne Zeiten)との関わりに光を当てた展示で、都市、技術文明、貧困などの社会問題、戦争などと絵画の関わりを、テーマごとに探るもので、展示そのものは非常に興味深く、この時代のとくにドイツの絵画が、いかに同時代の動きに鋭く感応していたかが、ひしひしと伝わってくる。なかでも印象的だったのは、やはり「ポツダム広場」をはじめとするキルヒナーの作品。今回は、水浴に訪れた避暑地で、裸体の女性を自然の風景のなかに溶け込ませ、その身体性を自然の生命の力強さと一体化させている絵画が心に残った。同様のテーマでは、ブリュッケの一員だったミュラーの作品も、キルヒナーとは違った繊細さを示していて美しい。戦争や大戦間期の社会問題に踏み込んだものとしては、やはりディクスの作品が凄い。きわめて伝統的な手法が、戦争の無残さを、人間の醜さを、これでもかと抉り出している。他にクレーの美しい作品がいくつかあった。それもまた技術文明の発展に感応しながら夢想された世界を繰り広げるものだった。
 美術館を出た後、地下鉄は時間がかかるので、フィルハーモニーの裏からバスを乗り継いでホテルへ戻り、ひと休みした後、シラー劇場を間借り中の国立歌劇場へ向かう。ザヴィニー広場の駅をくぐって北上すれば、歩いて10分強で行ける距離である。そこで細川俊夫さんの新作のオペラ『松風』の公演を見たわけだが、これは能の名曲「松風」をオペラへ翻案したものである。ベルリン国立歌劇場で行なわれたそのベルリン初演の今日は中日だった。
 「松風」のような夢幻能において表現されるのは、過去が浸透した時間とひとまず言えようが、そのような時間が、今回の公演では緊張感に満ちた音楽と多彩な身体表現をもって説得的に表現されていた。とりわけ、死者と生者が共存する時間が自然の風景のなかにあることが強調されていたことが、『松風』の世界を豊かにしていたように思われる。なお本作品は、5月初旬にブリュッセルのモネ劇場で世界初演された後、すでにワルシャワとルクセンブルクで上演されている。とくに今回の公演では、一人のダンサーが、無数の黒い糸によって織りなされた網のような壁を少しずつ手前に引いてくることによって、夜の帳が降り、死者の魂が現われる世界が開けるのが表現されていた。深沈とした音楽に乗って、夜闇がだんだんと迫ってくる。そしてその奥からは、謡曲でも歌われるとおり、満月が顔をのぞかせている情景は、今回の演出において最も魅力的であった。また、その網のような壁を伝って降りてくる松風と村雨の姉妹の魂の二重唱は、『松風』の音楽の白眉だったように思われる。
 微かに響き始める波打ち際の水音で始まり、地謡のような合唱が、朝日を湛えた村雨の露の残る松のあいだを潮風が吹き抜ける風景を静かに歌うなか、息の音で表現される風の音が徐々に静まって幕切れを迎える『松風』は、どこか前作のオラトリオ「星のない夜」を思わせる。こちらの作品は、けっして美しいだけではない、どこかおぞましくさえある季節の廻りが予感させる、いつまでも続くかのように思われる、忘れっぽい人間の暴力の歴史の連続のなかで起きた、1945年の二つの凄惨な出来事、すなわちドレスデンの空襲と広島への原子爆弾の投下を想起するとともに、これらの犠牲者の魂の救済を祈る場がやはり自然の風景のなかにあることを暗示するものであったとするならば、新しいオペラ『松風』は、祈りの場が自然のなかにあるのはなぜかを示すものと言えよう。須磨の浦のような自然の風景のなかに、その振動に生者の身体が共振するなかに、死者の魂は回帰してくる。そのとき、その魂は現世への断ちがたい思いを抱いているのだ。立ち止まって、風のそよぎに耳を澄ますとき、そうした魂の奥底からの叫びが聞こえるかもしれない。須磨を訪れた僧のように静かに佇むこと、そうして自然と自分の身体が触れ合うばかりか、両者が相互に浸透し合っているのを感じ取るとき、自分のなかに死者の魂がふと姿を現わすのかもしれない。そして、3月11日の後の今こそ、そのような経験をつうじて、死者の声が聴き届けられなければならないのではないだろうか(本公演について詳しくは以下を参照されたい:http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Matsukaze_Berliner_Staatsoper_16072011.htm)。そうした思いを抱きながら、夜遅くホテルへ戻った。

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ベルリン旅日記(2011年7月15日)

 細川俊夫さんの新作の歌劇『松風』の公演を見るために、ベルリンへ向かった。公演は16日の夜、ベルリン国立歌劇場(シラー劇場)にて。18日の月曜日が祝日なので、3泊5日で行くことができたのだった。ただ、ベルリンへ行くと決めたのがやや遅かったので、航空券がなかなか取れず、往路は結局仁川経由の便を手配してもらった。乗り継ぎだけながら、初めての韓国である。広島からアシアナ航空の仁川行きに乗り、仁川でルフトハンザのミュンヘン行きに乗り換え、ミュンヘンからベルリンまでは1時間足らずのフライト。仁川が梅雨前線の影響か、かなりの雨で、ミュンヘンへの出発が遅れ、やきもきさせられたが、ベルリンへのフライトには間に合った。ミュンヘン行きの機内食にビビンパが出てきて、コチュジャンが付いてきたのにはさして驚かなかったが、着陸前のパスタの食事にもコチュジャンが同じように付いてきたのには少し驚かされた。そういう習わしなのだろうか。ベルリンに20時過ぎに着いたら少し肌寒い。
 機内で読んだのは、白洲正子の『能の物語』(講談社文芸文庫)と原民喜の『夏の花』(岩波文庫)。前者は、「井筒」、「熊野」、「隅田川」など、能の名作21篇の謡曲を、物語として語り直したもの。基本的に七五調の韻文で書かれ、背景の叙述や情景の描写が省略された謡曲のテクストを、描写的な散文へ翻訳し、作品世界へ読者を誘う。その際、謡曲に一部が引用される和歌が、原作へと言わば訳し戻され、それに最小限の注釈が付されていることが、それぞれの物語を味わい深いものにしている。白洲正子の端正で陰影豊かな文体も、「能の物語」に相応しい。謡曲を散文へと渡すことによって、生死の境を越えたところにある夢幻能の世界へ誘う好著であるが、「松風」が取り上げられていなかったのが少し残念。
 ここのところ夏ごとに読み返している原民喜の『夏の花』であるが、今年は先日『映像の芸術』を読んだ佐々木基一の解説の付いた岩波文庫版を、ドイツへの機内で読むことになった。原自身の編集による能楽書林版(そうすると読んだ本二冊がともに能に関わりがあったことになる)を再現したもので、「燃エガラ」という詩や、「小さな村」などの小説なども収められている。あらためて原の透徹した眼差しに打たれるが、「夏の花」三部作が、原爆の惨劇を戦争という文脈のなかにしっかりと位置づけていることは、もう少し強調されてもよいのではないだろうか。それは原が、軍都廣島で軍人相手の商売をしていた商店に生まれたからこそ可能なのかもしれない。今回初めて読んだ「昔の店」という掌編には、何人もの従業員を抱える大きな軍御用達の商店で育った原の幼年時代が、アンビヴァレントな思いを込めて描かれている。ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」と照らし合わせてみたい作品である。
 今回読み直して一つ気がついたのが「頑張る」という語の用法。原の使い方に従えば、「頑張る」のはまず軍人であり、軍人はまた非戦闘員に「頑張る」ことを強いるのだ。壇上に頑張って、防空演習に集まった住民を睥睨し、防空要員として広島に頑張ることを住民に強いるのだ。そのさまが描かれる「壊滅の序曲」の世界が、今ここと符合するように思えてならない。節電を頑張ることを、それどころか福島の人々は、被曝の危険が大きい場所に頑張ることをも強いられるこの夏の後に、「福島で原子炉の爆発が起き、大量の放射性物質がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった」と書くことになるのだろうか。「脱原発」をめぐる日本の状況は、ドイツのメディアでも大きく取り上げられていた。こちらのほうが、それぞれの政治家の立場は明確に描かれている。

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Tremolo Angelos「ホシハ チカニ オドル──Dialogues in the Dark 2011」公演に触れて

 身体表現者大槻オサムとヴァイオリニスト谷本仰が結成したパフォーマンス・ユニットとも言うべきTremolo Angelosの公演「ホシハ チカニ オドル──Dialogues in the Dark 2011」に接することができた。人工の太陽とも言うべき核エネルギーが発する放射能によって命を奪われた死者をはじめとする、理不尽に死に追いやられたばかりか、歴史から消し去られ、忘却の淵へと葬り去れた死者たちの声を聴き出し、響き出させ、闇のなかに輝かせるとともに、その星座から、この死者たちを抹殺していくのとは別の物語を紡ぎ出させようという試みという。二人の戦慄する天使たちの戦きのなかから、小田実の言う「難死」を強いられた者たちの声の谺がどのように響いてくるのか、期待を胸に会場へ赴いた。
 会場のカフェ・テアトロ・アビエルトの内部は、あちこちに写真が掲げてあったり、ノートパソコンのディスプレイ上でビデオクリップや写真のスライドショーが流れていたりといった具合に、それ自体が一つのインスタレーションのように構成されている。そこに映し出されているのは、チェルノブイリや旧ユーゴスラヴィア、あるいはイラクやガザで、放射能や軍事力によって理不尽な死を強いられた人たちの記憶であったり、沖縄の高江や山口の祝島で、軍隊と資本の暴力に抗して命をつなぐ闘いを続けている人々の記録であったりする。それらのイメージが発する光が闇に包まれて、公演が始まった。
 舞台は、「闇」、「身」、「光」の三つの場で構成されており、最初の「闇」は、一部には「日本の原子力開発の歴史の汚点」とも評される東海村の事故が穿つ「歴史」の闇を見据え、そのなかから事故の犠牲となった死者の声を響き出させるもの。家族に語りかける優しい語り口のなかから、この「歴史」の欺瞞とともに、放射能によって生命体、ないしは有機体としての再生力をもった組成がずたずたにされていくことへの恐怖が抉り出されてくる。その犠牲者が幻視する天使のような白い形姿──人工の太陽を直視した際に網膜に焼き付いたのだろうか──のたゆたうような舞いも胸を締めつける。
 「身」と題された次の場には、ニガヨモギ、すなわちチェルノブイリの森の精が登場する。「身」という文字は、命を抱く身体、とくに妊娠した女性の身体を象徴しているとのことであるが、この森の精の最初の身振りは、死者たちの命の痕跡をかき集めようとするかのようだ。そのような、これまた一人の天使のような精が、分厚いコンクリートの「石棺」のなかに封じ込められた、チェルノブイリ原子力発電所の事故の犠牲者と対話を繰り広げる。その傍らに、化石化した人の顔のような仮面が置かれているのが印象的。その顔に森の精が親しみを込めて語りかける。すると死者の声が聞こえてくるのだ。死者が目覚め、語り残したことを、顔を通して森に響かせる──「人格」を意味するpersonという英語の語は、仮面劇の仮面を意味するラテン語のpersonaを語源としており、その語はさらに「それを通して (per) 」あるものが「響く (sonare) 」ことを意味する──のである。その死者の言葉の一つに、森と一つになりたいという希望を表明するものがあった。森の精によると、その可能性は、劣化したコンクリートの亀裂としてすでに開かれているという。そのひび割れから骨片の一つでも土に落ち、そこから草が生えるなら、その希望は成就するのである。
 事故後のチェルノブイリで植物が自生し、森をなすまでになっていること自体に希望を見る向きがあるようだが、私はそれは違うと思う。そこにあるのは、コンクリートの棺が皮肉な仕方で象徴するように、不朽であろうとする人間の歴史的な営為に、仮借なく腐敗と衰滅をもたらす、自然の生命の営みにほかならない。それが穿つ歴史の亀裂から、核という人工の太陽を生み出し、生命を破壊するのとはまったく別の仕方で、自然と関わり合う可能性の光が漏れ出てくるのである。
 最後の「光」の場は、エピローグのような短い場だが、非常に強い印象を残す。「大地がぼくらに閉じていく」と始まるマフムード・ダルウィーシュの詩が、谷本と大槻のあいだで応唱のように朗読されたのには、心を打たれた。「大地がぼくらに閉じていく」というのは、東海村の犠牲者が夢に見た閉じていく闇に通じるだろうし、「ぼくらの血がオリーヴを植えるのだ」という詩句は、チェルノブイリの死者の森になりたいという希望に連なる。これまで舞台に蘇った死者の記憶が今、イスラエルの圧倒的な軍事的暴力によって「難死」を強いられたパレスチナ人の記憶と応え合うのだ。やがて、大槻は一人の天使のような姿になって、化石の仮面を慈しむように白い布で包んだ後、羽ばたくように舞台上方へ、名残り惜しげに去っていく。すると、生者と死者の記憶を映す会場の展示の光が少しずつ点っていった。その様子はまさに、闇のなかに星たちが光るかのようであった。そのあいだに一つの星座を見て取るなら、今も無数の「難死」者を生み出し続けている歴史とは別の物語を、紡ぎ出せるかもしれない。「光」という文字は、松明を掲げる人の姿を表わすそうだが、そのような文字を冠した最後の場面は、もう一つの物語の可能性を観る者に語りかけるものだったのかもしれない。
 全体を通して、大槻の一つひとつの命への暖かい共感に満ちた身体表現が印象的だった。なかでも、包んだり、かき抱いたりする行為に、慈しみと同時に、遭遇した個としての命を、どこまでも引き受けて生きようとする身振りを見て取ったとき、感動を覚えずにはいられなかった。そこに、イトー・ターリが2009年の冬に広島の原爆ドームの前で見せた身体表現に通じるものを感じたのは、おそらく私だけではなかっただろう。さらに、最後に登場する天使の羽には、星たちが抱かれている。ヴァルター・ベンヤミンが語る「歴史の天使」の羽根が進歩の強風に煽られて、未来へと後ずさりさせられるのに対して、ここに降り立った天使は、無数の命をかき抱いて未来を開こうとするのだ。そのような天使を現出させるに至る大槻の身体表現に呼応する谷本のヴァイオリンも、表現の振幅が大きく、舞台上の世界に奥行きをもたらしていた。電気的な効果を駆使して、激しいリズムや放射能の威力を表現する凄まじいノイズを音にするところも印象的だったが、何よりも心を打ったのは、やや抑えた表現で切々と歌われた哀切な歌である。大槻と谷本の二人の戦慄する天使は、それ自体が応唱によって構成された一つの歌のような舞台に結実する身体的表現の振動のなかから、死者たちの声の谺を歴史の闇のなかに響き出させ、星座のように応え合わせる可能性を、力強く示していたように思う。「ホシハ チカニ オドル」の舞台は、ベンヤミンが述べるように、「敵は勝つことを止めていない」、また「死者たちまでもが安全ではない」今ここの状況において、「難死」した死者たちの一人ひとりと応え合うなかから、「難死」の歴史とは別の物語を紡ぎ、もう一つの世界を想像し、創造する糸口が、歴史の闇のなかに萌していることを、暗示していたのではないだろうか。

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細川俊夫「開花の時」世界初演

 花を見ることは、現に咲いている花の目に見える美しさを愛でることに終わりがちである。つまり、見る者に安らぎをもたらすような花の形態や色彩にのみ心を奪われてしまい、花が一つの生命の活動を表現していることを忘れてしまうのだ。しかし、一つひとつかけがえのない生命の営みを思う視点に立つならば、一輪の花が開くことは、無数の力の場とも言うべき宇宙のなかで行なわれる、緊張に満ちた運動にほかならない。自然界の葛藤のただなかからこそ、一輪の花は立ち現われ、唯一無二の生命をしばし輝かせるのである。
 このような一輪の花の開花の運動を、けっして外から分割されえない「時」の持続において響かせようとしたのが、細川俊夫の新作「開花の時(Moment of Blooming)」なのかもしれない。この作品は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、アムステルダム・コンセルトヘボウ、そしてロンドンのバービカン・センターの共同委嘱作品として書かれ、ベルリン・フィルの首席ホルン奏者シュテファン・ドールに捧げられている。2011年2月10日から12日にかけてサイモン・ラトルの指揮により行なわれたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で、この新しいホルン協奏曲は世界初演の「時」を迎えた。その三日目に立ち会うことができた。
 ホルン協奏曲「開花の時」は、独奏ホルンに二管編成のオーケストラ、それに客席上方に配された二本のホルン、それぞれ一本のトランペット、トロンボーンのために書かれている。作曲者自身が初演に寄せたコメントによれば、独奏ホルンは一輪の蓮の花を具現し、金管楽器の響きによってぐるりと囲まれることになるホールは、全体としてその蓮の花が咲く一つの池をなすのだが、実際演奏は、ひっそりとした池のある風景を思い起こさせる密やかな、それでいて瑞々しい静けさとともに始まった。響きと一つになりたくなるような魅惑的なピアニッシモである。そのなかに、日の光を受けて水面が煌めくのを思わせる鈴の音が響き、生命の息吹が通い始める。その息吹を管楽器奏者の息の音が表現しているわけだが、そのなかから独奏ホルンの音がすっと立ち現われてくる。蓮の生命の営みが始まるのだ。
 独奏を担当したシュテファン・ドールは、ホルンという楽器の幅広い表現力を存分に生かして、蓮の茎や葉が、そして蕾が水底の土壌から伸びてくる運動を実に雄弁に表現していた。ただし、一つの池のなかでそのようにして生きる蓮は一本ではありえない。一輪の蓮の花が開こうとするとき、もういくつもの蓮が生い育ちつつある。あたかも一つの生命に呼応するかのように。そのありさまを、客席に配された二本のホルンが、独奏のエコーを響かせるように表現するわけだが、それがまさに蓮の命が通い合うかのように、よく溶け合った音色で響いたのには驚かされた。オーケストラのなかの緊密なアンサンブルが、フィルハーモニーの広大な空間で生きている。
 蓮の茎と葉が土壌のカオスから──作曲者のコメントに、「泥土の混沌なしに花が天空をさして咲くことはけっしてありえないはずだ」という印象的な言葉があった──もがき出てくるのに、さまざまな生命が呼応し、音楽が高まっていくが、池という生命の営まれる場にあるのは、調和ばかりではない。弦楽器の不吉なコル・レーニョが嵐の訪れを告げ、やがて猛烈な強風が、今にも咲きそうな蓮に吹きつける。そして池を囲む山から吹き下ろすかのような全オーケストラの下降音型に抗して、何とか頭を持ち上げて立とうとする蓮を表現する独奏ホルンとの葛藤が繰り広げられるのだ。
 それが頂点に達すると、時の流れが断ち切られたかのように、静寂が訪れる。そして、充実した、垂直的な高さをもった静けさが空間を満たすなか、独奏ホルンが柔らかに響く。そのときあたかも、蓮が茎を天空へ向けてすっくと伸ばしながら、今まさに己の花を咲かせようとする瞬間が、音となって響いているかのようだった。この作品の白眉とも言うべき「開花の時」である。その開花を優しく包むように音楽がしばし高まった後、静かに曲が閉じられると、一輪の花としてみずからを輝かせるに至る生命への共感に、会場全体が包まれたように見えた。
 ところで、細川俊夫はそのような蓮の生命の営みに、人間の生の営みを重ね合わせているようでもある。その生命も自己自身を表現する。そして、世阿弥の『風姿花伝』が示すように、その表現はしばしば花になぞらえられるのだ。この花としての表現が、泥土のなかからもがき出ることを、また激しい嵐のなかでも矜恃を保って初めてみずからを輝かせられることを、蓮の花をモティーフとしたこのホルン協奏曲は暗示しているのかもしれない。その矜恃とは、作曲家としての細川にとっては、自然と人間の今は失われた照応関係を、音楽のうちに求めようとする姿勢にほかならない。それを貫き、自然と一つになろうとする人間の祈り──細川によると、蓮の蕾は祈る人間の手に似ている──を音楽にする独自の語法を細川が完全に花開かせつつあることを、新作「開花の時」は示していよう。そのような作品が、ベルリンの聴衆に温かく受け容れられたことを、まずは心から喜びたい。そして、この作品ができるだけ早く日本で、とくに広島で鳴り響くことを願ってやまない。
 ちなみに、この優れて自己言及的な作品は、一つの約束が29年遅れで果たされたことを示すものでもある。1982年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団創立百周年を記念する作曲コンクールに、細川は「プレリューディオ」で優勝したが、そのとき優勝者に与えられるはずだった委嘱作品の仕事は、複雑な事情で結局与えられずじまいだったのだ。奇妙なことに、ベルリンのジャーナリズムは、そのことに何ら言及していないようである。昨日の初演は、これから新聞紙上などでどのように報じられ、批評されるのだろうか。

※本記事は、以下のサイトに掲載されているサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会評の抜粋によって構成されています。
http://homepage.mac.com/nob.kakigi/RattleBPh_12022011.htm

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Hiroshima Happy New Ear VIII

 音楽の深み、それは音楽が最初に湧き出てくる場所へ通じていよう。ただし、それはどこか遠くに、生きることから離れた場所にあることはないはずだ。もしかすると、この源泉は案外身近なところ、いや自分自身のうちにあるのかもしれない。世界に触れ、世界と共振する身体。その息遣いから音楽は最初に響いてくるのではないか。そして、そのとき音楽は歌として響き出るのではないだろうか。「音楽の深みへ」というテーマの下、ヴィオラの今井信子とピアノの伊藤恵を迎えて行なわれたHiroshima Happy New Earの第8回演奏会は、シューマン、ブラームス、武満徹、細川俊夫という、時代も様式も異にする作曲家たちの音楽が、同じ深みから、湧き上がる感情ととともに震え、響く身体の息遣いから歌として生まれいるという点で通底していることを、ヴィオラとピアノの親密にして緊密な響き合いのなかに示していたように思う。その場に、これまでになく多くの聴衆が立ち会ったことも喜ばしい。
 最初に演奏されたのは、シューマンの幻想小曲集(作品73)。本来クラリネットのために書かれたパートをヴィオラのそれに編曲したヴァージョンでの演奏だった。今井信子のヴィオラは、シューマンの愁いを帯びた独特の旋律が抑えがたく湧き上がるのを、そのまま解放するというよりは、旋律を愛おしむかのように、そしてそのなかに込められた思いを慈しむかのように、大事に歌っていた。また、「生き生きと、軽やかに」という指示のある中間の楽章でも、音楽が収まるべきところに収まる感じがするのは、シューマンの音楽に通じた伊藤恵のピアノに因るところも大きいのかもしれない。伊藤のピアノで聴くと、シューマンが何気なく書いたに思える音の連鎖も実に意味深く響く。最終楽章は、心の奥底から燃え立つ「炎をもって」演奏されたが、これはヴィオラで演奏してこそ可能なように思われた。
 続いて、武満徹の二つのヴィオラのための作品が演奏された。まず、ヴィオラとピアノのための「鳥が道に降りてきた」。独特の静けさと風景の広がりが、武満の晩年様式とでも言うべきものを感じさせる。武満がこの曲について語っているところによれば、それが開くのは白日の庭の風景。そこに鳥たちが降りてきてさざめく。なかでも印象的なのが、ピアノの奏でる鳥の声であるが、それはメシアンのそれとも、バルトークのそれとも異なっている。伊藤恵のピアノで聴くと、それは本当に神秘的に響いた。それに耳を傾けるかのように、ヴィオラが奏でるもう一羽の鳥は、風景のなかをたゆたうかのように、ゆったりと羽ばたく。その運動がまさに歌として、自然な息遣いで演奏されたのは、武満に相応しいし、その音楽に通暁した今井であればこそ可能なことだったのではないか。
 次に演奏されたのは、ヴィオラ協奏曲「ア・ストリング・アラウンド・オータム」。今回は細川俊夫がピアノとヴィオラのために編曲したヴァージョンで演奏された。今井はこの曲に並々ならぬ思い入れがあるようで、しばし虚空を見つめて心を曲に集中させた後、ほぼ暗譜で演奏した。最初に伊藤恵のピアノが、苦悩する魂の深淵を開くかのように低音に力を込め、その重く、深い響きのなかから、すぐに後期の武満のそれと判る旋律線が、静かに浮かび上がる。それに乗ってヴィオラが歌い始めるのだが、その歌はまさに「秋を巡るひとすじの弦」の表題に相応しく、秋の豊穣さと共鳴するかのように豊かだ。しかしその豊かさが、ある種のヴィルトゥオジティを誇る演奏家の音にありがちなように、飽和して押しつけがましくなることがないのは、今井の音楽の懐の深さを示すものだろう。今井のヴィオラの音は、基本的にはとても豊かで、その点が武満のこの作品とよく調和するのだが、同時に自然な息遣いのなかから響いて、楽器の音を楽音の響きで埋めてしまわないので、ふっと何気なく歌い出される武満の歌の本質的なところとも、響き合うように思われる。もしかすると、今回細川俊夫によるピアノ伴奏への編曲版で聴いたからこそ、微細な音色の変化が聴き取られて──オーケストラの豊かな響きが実際に空間を埋めているなかでは、それは少し難しい──、そう思ったのかもしれない。
 さて、休憩後に演奏されたのは、まず細川俊夫の「リートII」。もとはフルートとピアノのために書かれた「リート」の編曲版である。彼がシューベルトのリート(歌曲)を思いながら、今音楽において歌がどのように可能か、という根源的な問いに、音楽をもって向き合った作品と言えよう。そのことは細川にとって、歌そのものが湧き上がる源泉に立ち返ることを意味していたようだ。ヴィオラは空間に声を響かせる行為そのものを表現するかのように、すっとひと筋の音を響かせ、ピアノは声が歌となる源となる情動の深みに迫ろうとするかのように、強く深い響きを打ち込んでいく。そして、ヴィオラのパートの流動性とピアノのそれの垂直性とが絡み合うかたちで音楽が展開していくのだが、ここでは伊藤恵のピアノの豊かで深い響きが、音楽の基調を決定していたように思えた。そしてその響きのなかから、身をよじらせるように激しい感情を歌にしようとする今井のヴィオラとの関係は非常に緊密で、そのため作品に相応しい緊張感を最後まで持続していた。
 次いで、ヘンデルの歌劇『リナルド』のなかの代表的なアリア「私を泣かせてください」を、細川俊夫がヴィオラ独奏に編曲した一曲が演奏された。ヴィオラ演奏の実に多様な技法を駆使して、アリアの有名な旋律が奏でられるが、それをつうじて歌が息遣いそのものであることを感じ取ることができる。それよりも印象的だったのが、アリアに先立つレチタティーヴォの部分。ヴィオラは、ヴァイオリンともチェロともちがい、歌うだけでなく、語ることもできるのだ。
 最後に演奏されたのは、ブラームスのヴィオラ・ソナタ第2番変ホ長調(作品120の2)だった。ほの暗い情熱を感じさせる第1番と異なって、優美かつ滋味深い旋律に満ちたこの作品は、現在の今井の成熟した音で聴きたい曲である。冒頭の旋律からして、伸びやかでありながら、愛おしむような温かみに満ちている。そして、晩年のブラームスならではのたゆたうような動きも、非常に味わい深い。今回の演奏でとくに印象的だったのは中間の楽章。情熱的な主旋律と、中間部のコントラストをくっきりと際立たせながら、全体の構成感を保っているあたり、ライヴならではの音楽の広がりと、音楽そのものの成熟を同時に感じさせる。とりわけ、最後に主部に戻る直前に現われる、悲哀に満ちたヴィオラの旋律が切々と歌われたのには心を打たれた。変奏曲形式の終楽章では、ヴィオラとピアノの親密なアンサンブルが印象的。柔らかな平静さが支配するなか、温かみに満ちた旋律や、熱を内に秘めた動機が紡ぎ出されてくるあたり、ブラームスが最後にたどり着いた境地も垣間見る思いだ。曲の終わり近く、コーダへ向けて音楽が高まっていく契機となるピアノの動機が、本当に深いところから、じわっと熱を帯びて響き始めたとき、ブラームスを、しかもシューマンと親交があった頃から音楽の根本は変わらないブラームスを聴いているのだ、という思いを強くした。今回の演奏で、ブラームスのこのソナタがこれほどの奥行きをもって響いたのは、伊藤恵のピアノがあったからこそであろう。豊かで、成熟した慈愛に満ちた名演奏だった。この組み合わせで、ブラームスの二つのヴィオラ・ソナタを録音する予定はないのだろうか。それが可能なら、藤井美雪のアルトが歌う、ブラームスの二曲の、ヴィオラのオブリガート付きの歌曲も加えてほしい。
 アンコールに演奏されたのは、細川俊夫がヴィオラとピアノのために編曲したバッハのコラール「人よ、汝の罪の大きさを嘆け」だった。静かに切々と歌われるコラールを、今井が語ったところによれば、哲学者の森有正が生涯愛好していたという。森は、直接的で反射的な体験ではなく、遭遇した物事を深くみずからの内面で捉え返す経験の重要性を繰り返し説いたのだが、そんな森の思想が、この演奏会を聴くことについても当てはまることを暗示するかのような選曲と言えよう。今井信子と伊藤恵の親密にして緊密なアンサンブルは、音楽を、耳と心を響かせ合いながら深く聴くことを迫る。そうして音楽をまさに経験しながら、音楽が最初に歌として湧き出てくる深み、シューマンも、ブラームスも、武満も、細川もそこに立ち返ろうとしていた深みに近づくことへ、この演奏会は全体として聴き手を誘うものであったのではないだろうか。そして、その深みに、歌が息遣いとともに響き始めるところに、最も近いところにある楽器の一つがヴィオラであることを、今回あらためて実感させられた。だからこそ、音楽とは何かという問いに真摯に向き合う現代の作曲家が、ヴィオラのために作品を書くのだろう。これを機会に広島でも、ヴィオラという楽器への関心が高まってほしいものである。

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