衆議院選挙の結果に関する南ドイツ新聞の記事試訳

 今回の総選挙の結果には暗然とするほかはないが、立ち止まっていても仕方がない。身近なところから、できるところから、命を大切にできる場を開いていくことを、それとともに命を蝕む力に抗うことを、少しずつ始めるしかないのだろう。暴力の歴史の傷が刻まれた東アジアに、生きる営みが響き合う空間を切り開くこと、それによって暴力の歴史が続くことを食い止めること、これがいっそう差し迫った課題となりつつあるように思われる。
 さて、今回本当は多いとは言えないものの、それでも相当数の人々が、命ではなく、「カネ」としか書きようのないものを選んだと言えようが、そのような選択を世界の多くのメディアは、日本のマス・メディアがけっして触れないその帰結を含めて危惧している。そのなかでも、南ドイツ新聞の東京からの報告記事(http://www.sueddeutsche.de/politik/parlamentswahl-in-japan-ruck-nach-rechts-in-die-vergangenheit-1.1552360)は、ここに至る歴史的な経緯を視野に入れながら、問題を簡潔に指摘していて興味深い。以下にその試訳を掲げておく。過去を踏まえながら今後への見通しを開くために、もし参考になる点があるとすれば幸いである。

南ドイツ新聞より【記事見出し】過去へ向かう右への急転
【リード文】
 筋金入りの国家主義者であるまでに保守的──東京の政治体制は、これまでどれも右寄りだったとはいえ、慎みというものがあった。これは今や過去の話である。選挙に勝った自民党の選挙戦は、悪意に満ちたトーンと極右の後押しによって特徴づけられるものであった。そして、安倍晋三という過去の日本を夢見る一人の男が、権力の座に就こうとしている。
【本文】
 日本は右傾化している。さらにいっそう右傾化の度を強めている。すでにこれまでも政治体制はずっと保守的だったし、それどころかほとんどが筋金入りの国家主義の体制ですらあった──今政権から退こうとしている野田佳彦首相にしてもそうである。しかし、これら過去の内閣はすべて慎みを保ってきた。
 このような空気は、今や過去のものである。かつての東京都知事で、独断専行で北京政府と島の領有権をめぐる争いに打って出た石原慎太郎は、中国に言及する際、公の場でも「支那」という侮蔑語を用いている。石原は、日本の核武装を進めたいという考えなうえに、赤い人民共和国と局所的に一戦を交えることも思案すべきと主張してはばからない。他の右翼ポピュリストと一緒になって、彼は悪意あるトーンと、極右主義者の応援とを選挙戦に持ち込み──さらにそれでも公の場に相応しく見える格好で振る舞っていたのである。
 それ以来、日本の首相の座に就くことになっている自民党の安倍晋三は、自分がどのように考えているか、とうとう演説で口できるようになっている。安倍が挫折を味わった、最初に総理大臣の職にあった時代(2006年9月から2007年9月まで)には、関係を調停するために中国を訪問しようという気を起こす余地がまだあった。
 そのようなことは、もはやほとんど想像できない。
 すでにその当時から、安倍は憲法を変えようと企んでいた。憲法の第9条は、日本がいかなる種類の戦争を行なうことも禁じている。許されるのは、固有の領土の自衛のみである。安倍は、この平和条項を廃止したいというだけではない。彼は人権を制限したいとも思っているし、男女の同権を定めた条項も抹消したいという考えでもある。それに、彼は外交においては、いわゆる河野談話──これによって日本は、第二次世界大戦中に日本軍が、十万人におよぶ若い女性を、朝鮮から、中国から、東南アジアから、性奴隷として戦場の慰安所へ連行したことを、公に認めている──を撤回したいと考えている。来たるべき総理大臣は、過去の日本を夢見ているのだ。
【特筆すべき対抗運動の不在】
 東京の政府は今日まで、日本の軍隊が第二次世界大戦中に犯した人道に反する犯罪を、深刻な反省をもって突き止めることを怠ってきた。むろん何人かの総理大臣は、むしろ持って回った言い方で謝罪の意を表わしてきたが、そのたびに他の政治家たちがこれを即座に台無しにしてきたのである。
 近年、中国と韓国は日本への圧力を強めてきている。日本は、過去の誤った歴史を総括しなければならないというのである。それに対する回答として、日本政府──政府は二十年間にわたりこの国を、長期にわたる危機的状況を脱出させることに成功していないのだが──は、ナショナリズムへ逃げ込んだのだ。多くの有権者が中国に対して腹を立てているとはいえ、有権者は国家主義的な日本をけっして望んではいない。
 特筆すべき左翼勢力は、日本にはもう長いこと存在しない。日本の政治家は、庶民の基本的な姿勢はとにかく保守的だと好んで公言する。その際政治家たちは、戦後強力な社会主義的な、共産主義的な政党があったことを、また強烈な学生運動があったことを忘れ去っている。このような左翼勢力は、雲散霧消したわけではない。それは一方では抑圧されて、他方では政治の主流に組み込まれて、窒息しているのだ。今日、CIAが資金を投じて右翼が政権を維持するよう手助けしたか、もうどれほど知られていることか。保守的な日本だけが、アジア大陸の直前にある頼りになる軍事基地なのである。
 フクシマ以後、原子力産業、科学、政治、それに主要メディアがいかに一つ屋根の下に群れているか──これが日本の「原子力村」である──がはっきりとした。闇取引が行なわれてきたのは、原子力政策の分野だけにとどまらない。大きなメディアは産業界に依存しているわけだが、両者は自民党という政党と骨絡みの関係にある──2009年の政権交代を、「野党が政権を獲った」と書き募るまでに。大メディアは──いかなる意味でも左翼ではない──民主党の首相である野田にけっしてチャンスを与えなかった。対抗的な公共圏は、日本にようやく徐々に芽生えようとしているところである。
2012年12月16日18:11、東京、クリストフ・ナイドハルト

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ライプツィヒ&ドレスデン旅日記:11月5日

 朝食の後、ライプツィヒに研究滞在している知り合いの研究者と待ち合わせ、まずバッハゆかりのトーマス教会の傍らにある喫茶店カンドラーにて、コーヒーを飲みながら、ライプツィヒでの生活のことや、研究のことなどを話す。ここのバッハ・カフェなるコーヒー、アラビカ種の豆を使っているとのことだが、非常にマイルド。個人的にはもっと濃い味が好みだが、ここの名物とのこと。
 ひとしきり話した後、そろそろ昼食でも、ということになり、少し南に下ったところにある、有名なアウアーバッハス・ケラーと並ぶ伝統を誇るというテューリンガー・ホーフへ移動する。その途中、街を歩いていて思ったのだが、5年前に来たときよりも、地下駅の工事が進んでいるようで、街の見通しがずいぶん良くなっている。地下駅建設のために、市民に親しまれて来た、緑豊かな公園が破壊されて、猛烈な抗議が行なわれているシュトゥットガルトに比べれば、スムーズに工事が進んでいるとのことだが、それにも複雑な気持ちにならざるをえない。
 本やCDを売っている少し洒落た店で、ロッテ・レーニャがヴァイルを歌ったのを集めたCDを見つけ、買い求めた後、テューリンガー・ホーフでは、そろそろ出始めたジビエでも、ということで、薄く切った鹿肉を巻いてよく煮込んだ料理を食す。肉が柔らかいし、ブルーベリーの入ったソースとも良く合う。黒ビールともぴったりだ。久しぶりにまっとうなドイツ料理を食べたような気がする。
 知人といったん別れた後、街の中心にある造形美術館を訪れる。ここの目玉は、ライプツィヒ出身で19世紀に活躍した、マクス・クリンガーのモニュメンタルな彫刻と絵画のようだが、いかにも大げさで、壮大な勘違いの塊としか思えない。
 ここのコレクションそのものは、14世紀の作品から現代の作品までそれなりに充実していて、旧東独時代の絵画が見られるのも貴重だが、印象に残ったのは、まずオットー・ミュラーの恋人たちの絵。若さと儚さを同時に感じさせる。ココシュカによるジュネーヴの風景も美しい。ここに所蔵されている有名な作品の一つが、ベックリンの「死者の島」だが、これは少し前のはフリードリヒの無限へ開かれていく風景と好対照をなすように思えた。その他では、デ・ホーホの室内風俗画が、細密でありながら親密感を醸して素晴らしい。植民地出身の労働者ムラートの笑顔を捉えたハルスの肖像画も傑作だ。エル・グレコの、倉敷の大原美術館にあるのとまったく同じサイズと構図の受胎告知図を見つけ、驚いてしまった。
 美術館を後にし、部屋に戻って読み差しの本を読み進めた後、先の知人と再び落ち合って、行き着けというアイリッシュ・パブへ。飲みながら、研究の方向性などについて意見交換するうち、夜が更けていった。

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ベルリン旅日記:10月20日

 今日の夕方の飛行機でベルリンを発って帰国するので、スーツケースを引きずりながらベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーへ向かう。これまでほとんどずっと晴れていたのだが、今日ばかりは天気が悪く、朝から半ば霧雨のように小雨が降っていた。
 この日のベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムは、デートレフ・シュテッカーの基調講演で幕を開けた。「ウィトゲンシュタインを読むベンヤミン」と題されたその講演は、豊富な資料を駆使して、ベンヤミンがウィトゲンシュタインの存在を意識していたことを示していたが、二人の言語哲学に深く分け入るものではなかった。両者がともに、主観的な志向を越えたものとして言語をとらえようとしているのは確かだとしても、それが「体系」であるというシュテッカーの見解も首肯しがたいところである。言語の生成を活性化させようとするベンヤミンはとりわけ、言語を「体系」としてとらえる考えからは遠いはずだ。その講演が終わった後、ベンヤミンにおける聴覚的モティーフをテーマとする分科会に参加する。ベンヤミンのエッセイに描かれるノイズや音響が、時の流れを中断しながら想起を誘発していることを際立たせ、ベンヤミンにおける想起をそうした音への応答として描くアンヤ・レムケの発表がとりわけ印象的であった。書物における声の救出というモティーフを主題としたクリスティーネ・イヴァノヴィチは、発表の最後に、ベンヤミンの思い出をアドルノやブロッホといったかつての友人に語らせる自由ベルリン放送のインタヴューを、ややラップ風に編集したものを聴かせてくれた。会場は大受けであった。
 午前のプログラムが終わったところで会場を後にし、テーゲル空港へ向かう。フランクフルトから成田へ行く飛行機が取れなかったので、今回はエール・フランスの便でいったんパリへ向かい、パリから成田へ飛んだ。そのあいだベルリンの新聞ターゲスシュピーゲル紙を拾い読みしていたが、「ベルリンは貧しくない」、「それゆえ連邦政府の特段の補助を必要としない」という憲法裁判所の判断に対する反応がほとんどの紙面を占めている感じである。ベルリンが自活していかなければならないとすれば、文化事業や社会事業の「節約」が当然強いられるわけだが、なかでもまず問題となるのが社会福祉事業の縮小である。新たな経済的格差が社会を引き裂いていること、さらに希望をもてなくなった人びとが子どもを虐待したりといったことが毎日問題となっているだけに、社会福祉の緊縮は、こうした格差の問題を放置することとも見られかねない。他方で文化をより開かれたものにすること、つまり教育を受け、芸術に触れる機会を広げることもけっして軽視されるべきことではないはずだ。あるコラムのなかに、「本を読み、じっくりと考え、そして劇場へ出かける者は、貧しいかもしれないが「下層」ではない」と書いてあった。経済的な所得はけっして多くなくとも、生の芸術に触れ、生きることの奥行きを感じ、その意味を噛みしめることができること。そのことは、奥深いところで生きていることを喜び、生きることに希望をもつことにつながるはずだし、また「階級」や「階層」を突破しながら生きることを変えることにもつながるはずだ。その可能性は、ベルリンにおいてはある程度確保されていよう。そして、芸術の経験をつうじて生きることを内側から変成させる可能性をすべての人びとに対して開いてゆくことは、「格差社会」化が語られるようになって久しい日本に生きるわたしたちに今課せられている課題でもあろう。

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ベルリン旅日記:10月19日

 今日も午前中から国際ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムに参加する。午前中の基調講演を担当したベルント・ヴィッテは、文化的な記憶、そしてその伝承がいかにその媒体に依存しているかを論じていた。伝承の媒体が歴史的な人間の言語となり、それとともにたとえばユダヤ教のトーラーが無限に解釈可能となったことを「ディアスポラ」と結びつけていたあたりは興味深かったものの、物語的な伝承、印刷された文字、近代国家の記念碑的建築と変化していった記憶の媒体が、20世紀に至って文学となり、今やその注釈に文化的な記憶の伝承がかかっているとする議論は、制度的な学問としての文学研究の自己正当化を志向しているように思えて、ややついて行きがたい。
 ベンヤミンの哲学の反体系性をテーマとする分科会へ行ってみると、二つの発表がキャンセルされたようで、発表は一つだけ。若いベンヤミンのソクラテス批判を取り上げながら、ベンヤミンが評価するプラトン的対話を「トラクタート」の概念と結びつけようとするものだったが、対話ということとベンヤミン自身の方法とを接続されるためには、もう少し詰めておかなければならないことがあるように思われた。それに続いて昨日の発表者を交えて討論が行われた。若い研究者たちが今ベンヤミンを読む可能性を熱く論じあう姿に触れることができたのは貴重な経験だったし、またその該博な知識にも驚かされた。それに比べたら自分はまだまだ勉強不足である。
 いったん宿に戻って少し本を読んだりした後、今度は国立歌劇場のアポロザールへベンヤミン・フェスティヴァルの午後のプログラムを聴きに行く。室内楽の演奏会やオペラ公演のアフタートークの会場として用いられることの多いこのホールで、ジョルジョ・アガンベン、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ステファヌ・モーゼスという世界的に知られた三人の哲学者の講演が行なわれるわけである。
 会場で空席を見つけて座ると、一列後ろの女性が携帯電話で「アガンベンは病気よ」と話している。ジグリット・ヴァイゲルによれば、アガンベンは今朝になって突然来られないと連絡してきたとか。病気か仮病か定かではないが、アガンベンが今ベンヤミンについて何を語るか楽しみにしていただけに残念である。とはいえ、ディディ=ユベルマンの講演もモーゼスの講演も興味深かった。とくに、コソヴォで撮られた家長の死を悲しむ家族の写真をモデルに制作されたレリーフを例に用いながら、その未完結性によって一回的で特異なものの記憶を甦らせるイメージの可能性を論じたディディ=ユベルマンの講演は、現代にベンヤミンを生かす道を説得的に示していたように思う。「パサージュ」としての、あるいは「根源」としてのイメージ、その反復、そして複製のうちに一回的なものが新たに見いだされるのだ。それを媒介する「解読」は、ディディ=ユベルマンによると「イコノロジー」の対極にあるという。モーゼスの講演は、ベンヤミンのうちにユダヤ神秘主義の伝統の継承を見て取りながら、『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」に見られる「原聴取」の概念が代表する聴覚的なモティーフがベンヤミンの思考のうちに一貫して見られることを強調するもの。ベンヤミンとショーレムがバベルの塔の建設と結びつける堕罪とともに失われた根源的な真理を聴覚的に復元しようという志向が、ベンヤミンの思考を貫いているというのである。
 夜はフィルハーモニーへベルリン・フィルの演奏会を聴きに行く。指揮はサイモン・ラトルで、シューマンとブルックナーの第4交響曲というプログラム。シューマンの第4交響曲は、1841年の初稿で演奏された。ちなみにブルックナーは、1878/80年のノーヴァク版。シューマンの第4交響曲を、楽章のテンポがイタリア語で記されている初稿で演奏すること自体、ラトルのシューマンへのアプローチのありようを示しているのかもしれない。ラトルは、少なめの弦楽器の編成で見とおしのよい響きをつくりながら、リズムの躍動を強調していたように思う。とりわけ、第1楽章と終楽章の主部における音楽の生命感には瞠目させられたし、第1楽章のコーダへ向かうテンポの運びもスリリングであった。目まぐるしくテンポが変化するなかでも響きを濁らせることのないベルリン・フィルの合奏能力にも、あらためて驚嘆させられる。とはいえ、リズムの躍動に力点が置かれるぶん、音楽の横の流れは後退し、それとともにこのシューマンの作品全体を貫く、そこはかとなく暗い緊張感も薄れてしまう。ラトルの指揮だと、すべての音が表に出てしまって、シューマンの音楽に必要な響きの奥行きと潤いが失われてしまうのだ。それゆえ、どのフレーズもたしかによく歌われているのだけれど、表情がどこか明るすぎてしまう。第3楽章まで短調で書かれているのを忘れてしまうくらい。また、スケルツォとフィナーレには、音楽の流れに実によくはまったルバートが見られたが、表現として少し表面的な感じも否めない。生命感に満ちた、鮮やかな、しかしあまりにも晴朗なシューマンだった。
 ブルックナーでは、ラトルの細やかな音楽づくりが印象に残る。メロディーに応じてトレモロの伴奏にも実に細かくダイナミクスの変化が付けられていたし、転調に応じて響きもさっと表情を変える。それによって、「ロマンティック」と作曲者自身が呼んだこの作品に特徴的なメロディーの美しさが引き立つのである。朗々としたソロを聴かせてくれたホルンをはじめ、管楽器奏者の巧さも光る。いや、管楽器のソロ以上に輝いていたのは、ヴィオラ・セクションのアンサンブルであろう。一本の楽器で弾いているように聴こえるほどのまとまりを見せながら、温かい深みをもった響きで、第2楽章の長いメロディーを見事に歌いきっていた。その心に響く深い余韻も忘れがたい。
 ラトルは、シューマン以上にブルックナーを自分のものにしているようで、音楽の運びに余裕がある。基本的にゆったりとしたテンポを取りながらも、音楽の流れが停滞することはないし、逆にテンポが速められても、性急さを感じることはない。間の取り方も実に自然だった。響きは、シューマンのときと同様、晴朗な鮮やかさが支配的である。迫力あるフォルテのトゥッティの響きも、晴れやかで見とおしがよい。各セクションの動きも生き生きとしていて、そのことが音楽の躍動感を高めている。そのことがとりわけプラスにはたらいていると思われたのが、第3楽章のスケルツォ。リズムの躍動と響きの解像度をこれほどの水準で両立させた演奏は耳にしたことがない。第1楽章も、晴れやかな喜びに満ちていて、聴いていて心地がよい。しかし、第2楽章と第4楽章においては、シューマンのときと同様、響きのあまりの鮮明さが音楽の奥行きを減じてしまっているように聴こえた。フィナーレのコーダを聴いても、奥深いところから湧き上がってくるものにどこか欠けるのである。また、ラトルの響きの鮮明さと音楽づくりの細やかさが、ブルックナーの音楽に特有の素朴さないしは豪放さを奪ってしまっている感じも否めない。フィナーレには、几帳面さが音楽の力強さを損ねてしまっているところもあった。このように、音楽の奥行きやブルックナーらしさがいくぶん欠けていたし、またライヴゆえの惜しいミスもあったとはいえ、音楽の自然な流れ、生命感に満ちた音楽の力強い躍動、細やかな表情、そして響きの鮮明さを、これほどの完成度をもって兼ねそなえた演奏は、ラトルの指揮するベルリン・フィルならではのものであろう。最近のラトルに対しては「伝統的」な「ドイツ音楽」のプログラムへの取り組みに不熱心であるとの批判があるようだが、この日のシューマンとブルックナーの演奏は、ラトルにそのような批判を浴びせる人びとにとって、どのような回答と映っただろうか。

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ベルリン旅日記:10月18日

 今日からベンヤミン・フェスティヴァルが本格的に始まる。ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーで行なわれたその学会に午前中から参加した。午前中は、ジクリット・ヴァイゲルの基調講演を聴いた後、ベンヤミンの思想の反体系性をテーマとする分科会に参加した。ベンヤミンにおける「世俗化」の弁証法を論じたヴァイゲルの講演において興味深かったのは、余すところなく世俗化された世界が再び神話によって覆われているところに言わば「覚醒」としての世俗化をもたらす可能性を示すものとしてベンヤミンの神学的モティーフがあるという論点と、「覚醒」としての世俗化の言語のありようを彼の「翻訳」概念が示しているという論点である。楽園的な起源から隔絶されて歴史の舞台に登場した言語のその起源からの距離を測り、言語の神話化の不可能性を示す「試み」としての翻訳。またその「試み」のためにジャーナリスティックなメディアを動員したとも言えるカール・クラウスにベンヤミンが注目したことの意味も、あらためて考えてみなければならない。分科会の発表のなかでは、シュテファニー・ヴァルドウのものに教えられる点が多かった。ベンヤミンの「純粋言語」の概念は、カッシーラーが神話的な命名のはたらきとして論じているし、またブルーメンベルクが「絶対的メタファー」と呼んだものとも関連するという。三者の関係を論じた彼女の本を読んでみなければと思う。
 昼休みのあいだ、ウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿で開催されていた、20世紀のヨーロッパにおけるマイノリティの迫害、追放、亡命を主題とする展覧会を見る。追放反対センターという団体が主催したこの展覧会「強制された道──20世紀ヨーロッパにおける逃亡と追放」は、第一次世界大戦期のトルコによるアルメニア人の迫害と虐殺から、1990年代の旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」までを扱っていた。ナチスによるユダヤ人のホロコーストを取り上げる一方で、第二次大戦後の東欧における残留ドイツ人に対する迫害やユーゴスラヴィアに残留したイタリア人に対する迫害も扱うなど、目配りは利いているし、歴史的な記述も詳しかったのだけれども、当時のドキュメントの実物の展示が少なく、展示としてのインパクトに欠ける感は否めない。とはいえ、わずかな生活用品の展示は、追放されることが、これまでの生活を、それが沈殿させてきた記憶を、その原風景とともに剥奪されることなのだ、ということを印象づけてくれる。
 午後、再び科学アカデミーで基調講演と分科会に参加する。サミュエル・ウェーバーの基調講演は、ベンヤミンがさまざまな「可能性」、たとえば「翻訳可能性」、「解読可能性」、「認識可能性」などを提示することで何を狙っていたのかをテーマとするものだった。通常コミュニケーションの可能性と理解される「伝達可能性」を分有する可能性ないし能力と理解していたこと、またその可能性そのものを伝達する言語に、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」でいう「一回的で極端なもの」たちを配置し、また一回的ないし特異なものの存在を証言する力を認めていたことが興味深い。「世俗化」のモティーフをテーマとする分科会では、「もう一つの世俗化」を論じたアーヴィング・ヴォールファールトの発表が圧倒的な印象を残した。世俗宗教としての資本主義とナショナリズムの共犯、そして原理主義の跋扈によって再神話化が進む現代においてベンヤミンを読み、そこからこの神話の脱呪術化としての世俗化の可能性を引き出す一つの行き方を、力強く示していたように思う。ヴォールファールトは、「複製技術時代の芸術作品」において提示される「第二の技術」のうちに「第二の世俗化」の可能性を見ると同時に、言語をもって神話化された歴史の過程に介入し、その連続性を破砕する可能性も語っていた。それを具体的に構想することこそ、喫緊の課題であろう。
 ベンヤミン・フェスティヴァルの学会プログラムが終わった後、国立歌劇場でパーセルの「ディドとアエネアス」の公演を見る。ツアーに出ているシュターツカペレに代わってピットに入ったのは、ベルリン古楽アカデミー。アッティーロ・クレモネージが指揮をつとめた。ベルリン古楽アカデミーは、いつもながら素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれたが、今回の演奏ではとくに表情の豊かさが光った。ピアニッシモでも響きが痩せないので、安心して音楽に身を委せることができる。他方で、フォルテの鮮やかさも実に爽快である。歌手たちの歌唱もすぐれていた。とりわけベリンダを歌ったデボラ・ヨークの巧さと、ディドを歌ったオーロレ・ウゴリンの心のこもった歌とが印象に残る。ヴォーカルコンソート・ベルリンの合唱も、舞台で複雑な演技をこなすなかでも美しいハーモニーを聴かせていた。
 このように、演奏にはほぼ満足できたのだが、サーシャ・ワルツの演出と振り付けには、正直に言って最後まで付いて行けなかった。歌とダンスを別々に担当させるのはよいとしても、同じ役を演じる人物が二人同時に舞台に登場するのにはどうしても違和感をおぼえるし、まったく音楽のないところでディドとアエネアスの物語と関係のない挿話風のダンスと演技が延々と続くのには閉口させられた。ダンサーたちの踊りはよく訓練されているけれども、舞台全体がつねに雑然としてしまう。プロローグで用いられた、登場人物を水族館の魚のように見せるプールの意味は最後までわからなかった。ワルツの演出は、パーセルの「ディドとアエネアス」を今に甦らせることではなく、ダンサーたちのパフォーマンスを見せることを志向した演出だったのではないだろうか。かつて北とぴあの音楽祭で見た、ほとんど能の舞台を見るかのような演出のほうが、よほど作品にふさわしいと思われる。演奏がすぐれていただけに、舞台が「ディドとアエネアス」という作品の印象を散漫にしてしまっていたのは悔やまれる。

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ベルリン旅日記:10月16日

 夕方まで国立図書館にこもって勉強する。ベンヤミンとハイデガーがフンボルトの言語哲学をどのように読んでいるかをまず調べてみると、読んでいるテクストが少し異なっているようだ。また、ベンヤミンに関しては、彼とフンボルトを伝えた言語学者が書いたものも見てみる必要がありそうだ。その著作が図書館に所蔵されていないか調べてみると、何冊かあるうちの1冊は戦争で失われたかもしれないとのこと。空襲と市街戦でこの街が一度は一面の廃墟と化したことがあらためて思い出される。
 それが用意されるまで時間がかかるので、その間ハイデガーの言語論を2篇読む。ハイデガーは、ベンヤミンと同様に言語を、語るはたらきにおいて、また名づけるはたらきからとらえようとしているが、それを遂行する言葉を、「伝説」とも重なる「言うこと」として、存在の出来事への聴従のうちに根づかせようとしている。その消息に分け入るなら、ハイデガーとベンヤミンの対蹠点を見いだすこともできるだろう。他方で、ハイデガーの「言語への道」には、ノヴァーリスへの言及とともに、言語が自己自身を語るはたらきに注目するという、ベンヤミンとハイデガーの共通の出発点も示されているように思う。
 買い物をして、いったん部屋へ帰った後、歩いてユダヤ博物館へ行く。そこで開催されている「故郷と亡命──1933年以後のドイツ・ユダヤ人の移住」を見るためである。1933年にヒトラーのナチが政権を掌握して以後、ユダヤ人への迫害が強まってゆくなか、ユダヤ人たちがどこへ、またどのように生存の場所を求めたか、またそこでどのように生きていたかが、さまざまなドキュメントともに示されていた。ユダヤ人たちの移住先は、イギリスやアメリカ、あるいはパレスチナばかりでなく、遠くは中国やラテン・アメリカにまでおよんだ。そこで、ドイツ文化に根ざした生活を立てなおそうとする逞しい努力の跡を見ることもできれば、逆に自殺に追い込まれた人びとのことを報じる記事も展示されている。全体として、亡命すること、そして亡命先で生き続けることの苦難のさまざまな局面に触れることのできる展示であった。そのなかに、ヴァルター・ベンヤミンについての展示も見つけた。アメリカへの移住を受け入れるホルクハイマーの手紙と、自殺を図ったベンヤミンの最後の言葉を書きつけたグルラント夫人のメモが展示されていたのが興味深い。そのピレネー越えを導いたリーザ・フィトコの肉声も聴くことができた。
 部屋に帰ってテレビを点けると暗いニュースばかり。ドイツにおいても経済的な格差が広がりを見せるなか、「下層」という言葉をめぐって論争が起きている様子。社会厚生大臣は、「一つの社会」を保つことの重要性を強調していたが、社会の溝は確実に広がっているようで、職に就く見込みのない親が自分の子どもを虐待して死なせてしまうといった事件も起きている。その一方で、ネオナチ勢力がじわじわと広がってもいるようで、東部の各州では、議会に議席を得てもいる。東北部のメクレンブルク・フォアポンメルンでは、議会の初日から極右議員とのあいだでさっそく騒動がもち上がったようだ。ブランデンブルクでは、ネオナチの集会活動を規制する法律を作ろうという動きがあるという。ポツダムの中央駅でネオナチの行進に遭遇したときの恐怖が脳裏に甦った。また、それとともに、ユダヤ博物館に掲げられていた、世界の平和──それ社会のそれでもあろう──と心の平和を両立させることの重要性を説く、ヘルマン・コーエンの言葉が思い出された。

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ベルリン旅日記:10月12日

 今日から20日までベルリンに滞在する。第一の目的は、雑用から離れて研究のための文献を読み、考えること。だいたい毎日国立図書館に通い、場合によってはまる一日そこに閉じこもることになりそうだ。ベンヤミンがパリの図書館でしたことの真似事を、ベンヤミンについてやろうというわけである。ただ、そうでもしないととても勉強などできないのが現在の広島での状況でなのだ。この滞在期間に、言語を、それを語る活動の相においてとらえ、また意思疎通の手段となるたんなる記号としてでなく、語るはたらきとともに表現の媒体として生成するものとしてとらえるドイツの言語哲学の伝統からベンヤミンとハイデガーの言語哲学が生じてきたこととともに、両者のコントラストを示すことによって、ベンヤミンの言語哲学の可能性を提示しようとする自分自身の立場を浮かびあがらせるような論文の下準備をできれば、と思っている。
 ベルリンへ来た第二の目的は、17日から始まる「国際ベンヤミン・フェスティヴァル」のいくつかの催しに参加すること。アガンベン、ディディ=ユベルマン、サム・ウェーバー、そして多和田葉子の師でもあったジグリット・ヴァイゲルといった、日本でも名前が知られている学者たちの講演に接することができるのを期待している。わざわざこの時期にベルリンへ来たのもそのためである。ちなみに「フェスティヴァル」なので、講演やシンポジウムばかりでなく、展覧会や映画上映、さらには日本人によるダンス・パフォーマンスも、その枠内で催されるという。
 三つ目の目的として、やはり音楽を聴いたり、絵を見たりといったことがあるのも、白状しておかなければならない。フランクフルトでベルリン行きの飛行機を待つあいだ読んでいた『南ドイツ新聞』によれば、来週から博物館島のボーデ美術館が新装なって開館するとのこと。写真を見るかぎり、王宮のコレクションのような展示である。週末には、懐かしいポツダムを訪れて、サン・スーシ宮殿の絵画館のカラヴァッジョも見ておきたい。音楽は、ベルリン・フィルの演奏会のほか、オペラの公演などに接する予定。
 ベルリン行きの飛行機がフランクフルトへ来るのが遅れて、そのあいだ待合室に山と積まれた新聞を読んで暇を潰していたが、どの新聞もやはり北朝鮮の核実験の政治的な影響を論じている。日本での報道と異なるのは、北朝鮮とアメリカの関係がクローズアップされていること。どのようなコンテクストのなかで「核」というカードが切られたのかを考えさせてくれる。文化面では、ナチの親衛隊に所属していたことを最近になって自伝で告白したギュンター・グラスをめぐる騒動が相変わらず続いている様子が報じられているし、『南ドイツ新聞』は、今週の土曜に生誕百周年を迎えるハンナ・アーレントが、戦後ドイツへ旅行したときに、ケーニヒスベルク時代の彼女のギリシア語の教師で、後にナチ党員として教育のナチ化に向けて動くことになる人物と再会したことを取り上げていた。ネオナチ勢力も暗躍を続けているようである。ベルリンのユダヤ系のサッカー・チームは、試合中にネオナチと思われる観客から繰り返し反ユダヤ主義的な野次を浴びせられたことを理由に、試合を途中でボイコットしたとか。
 ベルリンに到着したのは午後8時過ぎ。ホテルにたどり着いたのは結局9時前のことだった。長旅の疲れがこれまでたまっていたのと合わせて出たのか、何もする気にならない。空港で買ったチョコレートをかじりながら新聞やテレビを見ているうちに眠くなってしまった。

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岡真理『棗椰子の木陰で』

 48時間の爆撃停止の期限が切れて、イスラエルによるレバノンへの、空と地上両方からの激しい攻撃が再開された。攻撃の激しさは増す一方だが、これは当初から防衛の範囲をはるかに越えている。空からの爆撃においては、非戦闘員を無差別に虐殺するもの以外の何ものでもないクラスター爆弾も使われたという。今朝の新聞には、病院を掃討するイスラエルの地上特殊部隊の写真も載っていた。そして、このような一方的な軍事攻撃の被害を受けるのは、カナの避難施設への爆撃が象徴するように、決まって子どもや年老いた人びとをはじめとする一般の市民である。レバノンでは900人に上る人びとが殺され、そのほとんどが民間の非戦闘員であるという。そして、今や100万人を超える人びとが、住み慣れた場所を追われ、難民となっているとも報じられている。
 そのような悲惨な状況を最も研ぎ澄まされた眼で見つめている一人がアラブ文学研究者の岡真理であるが、彼女がこの10年間、悪化の一途をたどるパレスチナとその周辺のアラブ世界の情勢を見つめながら、それに応える文学の力を問い続け、書き継いでいった論考を集めた一冊が最近出版された。『棗椰子の木陰で──第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社)である。この論集には、言葉を語り、語られた言葉を読むことを、そして語り、読む主体のアイデンティティを、正確な言葉づかいをもって一歩一歩突きつめ、それらについての従来の見方を、すなわち人びとの自明のよりどころとなっているものを突き崩し、その果てに文学の、そして言葉の可能性を切り開こうとする試みの軌跡が刻まれている。
 たとえば、いわゆる「グローバリゼーション」が進行するとともに富める者と貧しき者が引き裂かれるなかで、あるいはイスラエルとアラブ世界との緊張が高まるなかで、しばしば「異文化理解」や「多文化共生」といったことが叫ばれる。しかし、そのように「固有の」文化があらかじめ存在することを前提するかのような議論には、大きな落とし穴があることを岡は指摘している。「かつて帝国主義の時代、非西洋世界の文化は価値的に劣ったものとされ、西洋中心主義の世界観のなかで周縁化されてきた。現代においては、過去の西洋中心主義に対する批判として、非西洋世界の文化の自己主張がさかんになされるようになった。とりわけグローバリゼーションが進行する今、世界の一元化に対する文化的抵抗として多文化主義が主張されている。どの地方にも、その地方固有の文化、固有の価値観がある、アラブにはアラブ独自のイスラーム文化によって培われた経験と価値観が、アフリカにはアフリカの太陽と母なる大地によって育まれた生と価値観がある、という主張。西洋中心的な私たちの世界認識が批判され、解体されるのは良い。しかし、ここで注意したいのは、こうした本質主義的な地方主義に根ざした多文化主義は、依然として西洋=普遍、非西洋=特殊という構図が強固に存在するこの世界では、西洋中心主義的な世界認識を解体するどころか、むしろ強化することになりはしまいかということである。知の本質主義的地方主義に居直り、地方の文化的特殊性を強調する「原理主義」が、西洋=普遍とする西洋中心主義と共犯関係を結んでいることはつとに指摘されているとおりである」。
 では、酒井直樹が批判する「文化主義」とも重なりあうこの「本質主義的地方主義」を乗り越えてゆくどのような道筋があるのだろうか。岡は、「固有な」ものとして、自己のアイデンティティの基盤として自明視しているものを内側から解体することを提案している。たとえば「母語」。これを私たちは「固有の」言語として「自然に」話しているだろう。しかし、それはもとをただせば、「母」という他者の口から吹き込まれた「異物」なのだ。それを語ることは、核心においては一体化の享楽であるよりはむしろ分裂の「苦悶」なのではないか。そのことを岡は、トリニダート・トバコの詩人マルレーヌ・ヌルベーズ・フィリップの詩「言語の論理に関する言説」を解釈しつつ、説得的に示している。
 このことを洞察し、言語の物質性に躓きながら、他者の言語として自分が「母語」として話してきた言語を見つめなおすこと。岡によれば、このことのうちに言葉を話すことを他者に開かれた活動へ反転させる契機がある。「母語を母語として生きる者であろうと、母語なるものの他者性を、つねにすでに、生きている。これらのテクストが読者に要求するのは、言語の物質性を回復させ、私たちがそれに躓くことによって、母語なるものの、忘却されてあるこの生々しい他者性を想起することにほかならない。言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。/だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者に開かれたものにする、その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。私の躯のなかに吹き込まれたあなたの言葉が、私の呼気となって出てゆく、開かれた私の躯が反響板となって、あなたの言葉を、あなたのものではない他者の言葉を、誰のものでもない言葉を、私のことばとして、私たちの言葉として。誰のものでもない他者の言葉を分有する者として。苦悶であると同時に、歓びでもあるような」。
 「固有の」言語ではなく、他者の言語を分有していることを引き受け、複数性を自分自身のうちに刻印することによってこそ、他者たちのあいだで言葉を響きあわせることができる。「この世に居場所をもたない者たちの、死者たちの声」に耳を澄ませ、「正統性」の名のもとでのあらゆる排除の暴力を越えたところで、そのように掻き消されようとしている声に耳を澄ませ、それに応答することができるのだ。『千夜一夜物語』、ナワール・エル=サアダーウィーの『零度の女』、李良枝の『由煕』といった文学作品の精緻で批判的なレクチュールをつうじて、岡真理のエクリチュールは、これまで自己の母胎と見なしてきたものを突き崩した先に、他者と応えあう言葉を見いだすことへ読者をいざなおうとしている。
 ところで、『棗椰子の木陰で』には、1997年から2006年にかけて、パレスチナの出来事を中心に、ひとつひとつの出来事に応答しつつ、そこにある暴力と、それに対する抵抗を証言するクロニクルも収められている。それを書き継ぐことをつうじて、岡はアラブ世界の情勢を見すえつつ、そのなかで暴力的な抑圧に苦しむ人びとと連帯しようとしている。その姿を見つめながら、レバノンに対する不当な攻撃に対して、そしてその陰で今も進行しているガザへの暴力に対して、抗議の声をあげようとしない自分自身の今ここを、戦慄とともに見つめ返すべき時が来ているのかもしれない。

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石見銀山を訪れる

 ようやく梅雨の明けた日曜日、世界遺産への登録を申請している石見銀山へ出かけた。思ったよりも遠くはなく、広島市内の自宅から車で、高速道路を使わなくても2時間足らずの距離。11時半頃に出て、午後1時過ぎには石見銀山公園の駐車場に到着した。
 まずは腹ごしらえということで、大森の街の入り口にある「御前そば」という蕎麦屋に入って、割子そばを食す。松江の蕎麦屋が出すものに比べてかなり素朴な感じの割子そば。あまり腰が強くなく、少しぼそぼそした感じで、個人的には今ひとつ。石見地方の蕎麦は、出雲蕎麦とはまたちがった打ち方で作られているのだろうか。それにしてもこの蕎麦屋、ハワイアン風にアレンジされた「ウルトラマン」シリーズのテーマ・ソング(「ウルトラマン・セブン」の歌の冒頭をウクレレが奏でるのを想像してほしい)を始終流していたのは店主の趣味だろうか。
 腹ごしらえがすんだところで、近くにある羅漢寺を訪れ、銀山での事故や苛酷な労働のために命を落とした人びとの慰霊と祖先の供養のために彫られたという五百羅漢を見る。まず寺に入ると、秘仏の降三世明王と大元帥明王が公開されていると案内された。本堂の奥を見れば異様にけばけばしい極彩色の木彫が眼に飛び込んでくる。どちらも江戸中期の木彫のようだが、目のあたりをリアルに作ろうとしているのが逆にキッチュな感じ。両明王に踏みつぶされている怪獣のほうが、どこかユーモラスで魅力的だ。
 さて、五百羅漢像のほうは、寺の道を挟んだ向かいの崖に掘られた石窟に安置されているが、これには圧倒された。どこも飾ったところのない素朴な石像ながら、造形がぎこちないわけではなく、むしろ洗練された造形のなかで人間の喜怒哀楽を生き生きと表現している。徳川吉宗の時代に、温泉津の石工坪内平七とその一門の石工が彫り始めたとのこと。確かな技術で、衒いのない人間の姿が彫り出されている。羅漢とは、人間と仏の中間の存在なのだとか。その五百の姿は、人間のすべてを象徴するのかもしれない。人間のすべてを表現するかのように、さまざまな表情と姿態を見せる石像たちが、狭く、薄暗い石窟のなかに所狭しと並んでいる。左右の石窟に、250体ずつの羅漢像が安置されていた。
 羅漢寺を後にして、ひところは銀の取り引きで栄えた大森の街へ入る。1800年の大火で、街はほぼすべて消失してしまったとのことなので、そう古い建物が残っているわけではない。近代初期の街並みが残っているという感じだろうか。洋館風の建物もあるし、古い看板やブリキの広告板が木の壁に打ち付けられているのも見られるので、明治か大正へタイム・スリップしたような気がする。
 大森の街に残るいくつかの古い建物は公開されていて、まず代官所の役人の家だったという旧河島家住宅を訪れる。武家屋敷らしい質実剛健な造り。これに対して、重要文化財に指定されているという熊谷家の屋敷は、一つの城のような豪奢な造り。銀の掛け屋として財を成し、酒造業をはじめさまざまな事業を手がけた石見有数の商家の屋敷は、大きな土蔵をひけらかすかのように造られた広い客間がある一方で、こぢんまりとした茶室もそなえている。いくつかの部屋には、往時の商売と生活を偲ばせる展示もあった。全体的に、武家の家よりも明るい色調で統一されていたようだ。
 これら二つの屋敷のあいだでは、かなり以前に廃業したと思われる理髪店の戸が開け放たれていた。のぞいてみると、古い革張りの椅子が土間に鎮座している。かつてどんな紳士がこの椅子に座っていたのだろうか。また、小高い丘のようなところには、もうすでに廃寺となっているとおぼしき寺もあり、その門の両側では、一本の木から彫り出した仁王像が踏ん張って睨みを利かせている。かなりの大きさで、ぎょっとさせられた。
 大森の集落の端のほうにあるかつての代官所は、今は石見銀山資料館となっている。なかなか立派な平屋の代官所だが、石庭の奥に抜け穴が隠されているのが面白い。百姓や鉱山労働者の一揆から逃れるためだろうか。資料館の展示は、銀が最も多く採掘され、大森の街が栄えた江戸初期の鉱山と鉱山街の歴史に焦点を絞ったものと言えようか。とくに灰吹法という手法で銀がどのように抽出されたのかを示す展示が面白い。鉛との比重の違いを利用した巧みな手法だったことがわかる。また、石見の銀は大航海時代のヨーロッパの注目も集めていて、そのことが当時の地図からもわかるし、鉄砲やキリスト教が伝来したのも、石見の銀に惹かれたヨーロッパ人の波が日本列島へ打ち寄せるなかでの出来事だったとか。たしかに16世紀のヨーロッパの世界地図にも石見銀山とおぼしき場所は記されている。当時の航海者の実感としては、「ジパング」は黄金の国ではなく、銀の島だったのかもしれない。
 石見銀山の隆盛を描こうとする資料館の展示では、鉱山労働者の苦難は今ひとつよく伝わってこない。それは今や「間歩」と呼ばれる坑道の岩肌から読み取るほかないのだろうか。最後に訪れた龍源寺間歩は、鉱山労働の厳しさをわずかに伝えているように思われた。狭い道路を通った先を少し登ったところにある入り口からは、白い靄とともにひんやりとした空気が漂っている。少し坑道のなかへ入ってみると、それが湧き水のせいだということがわかった。岩肌のあちこちから水が染み出ているし、足下ではちょろちょろと水が流れている。あちこちに垂直に掘られた細い穴があったが、そこから絶えず水を汲み上げなければ、銀を掘り出すどころではなかったようである。水を汲むのは銀を削り出すより、心理的にも体力的にも厳しい仕事だったにちがいない。
 江戸時代の初期にシルバー・ラッシュに湧いた石見銀山も、徐々に採掘量が落ち、鉱山町もさびれていったという。そんな石見銀山の鉱山労働者たちは、どこから来て、ここでどのように生き、そして死んでいったのだろう。石見銀山が世界遺産に指定されるかどうかはともかく、まずは鉱山労働者たちの生きざまを、ウォーラーステインの言う「世界システム」の植民地主義的な拡大が進みつつあった世界の広い文脈のなかに位置づけながら浮き彫りにする努力をするべきではないか。大航海時代のヨーロッパにも知られた石見銀山の世界的な意義を強調したいなら、なおさらのことである。今の大森地区は、若い人びとを呼び寄せてこ洒落た店やギャラリーを開かせるなどして、街の若返りと観光地化を優先させているように見える。それも街の活性化のためには欠かせないとはいえ、銀山の歴史をとらえなおす努力も同時に続けなければ、石見銀山は現在の日本と世界を、とりわけそこにある資本主義の問題を照らし出す輝きを失うことになろう。ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」が坑道の岩壁のなかへさらに深く埋め込まれてゆくことを危惧させられた石見銀山への旅であった。
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「ガーダ──パレスチナの詩」

 古居みずえ監督のドキュメンタリー「ガーダ──パレスチナの詩」を見る。上映会場となった原爆記念資料館の会議室は150人ほどのキャパシティだったが、中国新聞に監督を紹介する記事が出たためだろうか、雨天だったにもかかわらず、立ち見客が出るほどの盛況であった。
 作品は、ガーダというガザ在住の女性が、学問によって啓蒙された女性として、伝統的な慣習や女性の役割を押しつけられるのに反発しながらも、結婚し、子どもを産むなかで、苦難を生き抜き、抵抗を続けるパレスチナの女性としてのアイデンティティに目覚め、1948年以来のイスラエルの占領支配に苦しみながらも生活を守り続ける女性たちの記憶を一つの歴史として語り継ごうと決意し、ガザ周辺に住む老女たちを訪ねて回るさまを追っている。パレスチナの女性たちの日常の息づかいを、それを取り巻く空気とともに細やかに伝えるとともに、それ自体がイスラエルの圧政に対する抵抗となるような日常生活の力強さをも暖かく浮かびあがらせる映像が胸を打つ。
 古居みずえは、12年間にわたってガーダを追い続け、パレスチナの人びとの生活に密着しながら、500時間におよぶ映像を撮り貯めたという。そのなかから選りすぐられた2時間足らずの映像は、パレスチナの女性たちの息づかいのなかから、男性的視点からはなかなかとらえることのできないもう一つの抵抗の姿を浮かびあがらせている。家屋や農地を壊されてもそこで生活を守ることが、イスラエルの暴力に対する抵抗なのである。
 このドキュメンタリーが描き出しているのは、パレスチナの人びとの生活が歌に満ちていることである。結婚の祝宴のような場で人びとが歌い、そして踊るのはもちろんだが、けっしてそうしたハレの場だけに音楽があるわけではない。女性たちは、歌いながら生活を守っていると言ってもよいくらいだ。銃弾が飛び交うなか、女性たちは歌いながら菓子を作り、子どもをあやす。そして手を動かしつつ歌うなかに、かつての記憶が甦ってくる。そのように呼び覚まされてくる記憶をこそ、ガーダは聴き取り、語り継ごうとするのである。
 最も印象的だったのは、ガーダの義理の祖母が鎌を動かしながら、麦刈りの歌と思われる哀愁を帯びた歌を歌うシーン。刈り入れを真似ながら歌ううちに、イスラエルの侵攻によって故郷を追われた記憶が甦ってきて、彼女は涙にくれる。そのように、歌が時に涙とともに呼び起こす記憶を継ぎ合わせ、パレスチナの女性たちひとりひとりの身体的な生に根ざした記憶を描き出すこと、それはイスラエルのシオニズムのイデオロギーを形成する、ひと続きの国民的アイデンティティの物語とは異なったもう一つの歴史を提示することであろう。そして、このもう一つの歴史を書くことが、パレスチナの女性としてのガーダの抵抗なのである。
 ガーダがこのような抵抗に目覚めたのは、第二次インティファーダにおける幼い甥の死がきっかけだった。他の子どもたちと投石による抵抗に加わっていた甥は、イスラエル兵によって後ろから撃たれたのである。イスラエルの兵士は、逃げてゆく子どもの後頭部に銃弾を撃ち込んだのだ。映像は、そのような理不尽なイスラエルの暴力とそれに対するパレスチナの人びとの悲しみも描き出している。壊された家屋となぎ倒された果樹。その上に広がる青く澄み渡った空。古居みずえの「ガーダ」は、両者の落差のなかで悲しみを背負いながら、また歌うことで悲しみを他者と分かちあいながら生き抜く女性たちの息づかいを届けながら、もう一つの歴史の希望を感じさせる作品と言えよう。そこにあるのは、広島にいるわたしたちの抵抗としての歴史の希望なのかもしれない。
 パレスチナの女性たちの姿を暖かく、また細やかに描き出す「ガーダ──パレスチナの詩」の広島での上映が、この一回限りで終わってしまうのは実にもったいない。女性をはじめ、もっともっと多くの人びとに見てもらいたい作品である。広島市内の映画館で、一週間でもよいから上映する可能性はないものだろうか。

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