3月に読んだ和書

 3月の前半は、翻訳や原稿執筆に非常に忙しく、ほとんど本を読むことができなかった。その合間を縫ってようやく読めたのが、ロドルフ・ガシェの『いまだない世界を求めて』(月曜社)。以前から気になっていた、デリダの薫陶を受けたこの哲学者による日本語版オリジナルの論文集である。翻訳と解説が素晴らしく、このようなかたちでガシェの思想が紹介されるのは喜ばしい。作品の独特の現実性ないし出来事性を語るものとしてハイデガーの「芸術作品の根源」を読み解いた論文と、他者への応答としての責任の概念から、哲学そのものを捉え直そうとする論文とが感銘深かった。
 4月7日から広島でも、先頃交通事故のために急逝したテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』の追悼上映が始まるが、その予習も兼ねて読んだのが、村田奈々子の『物語 近現代ギリシャの歴史──独立戦争からユーロ危機まで』(中公新書)である。19世紀半ばのギリシアの独立運動以来、周囲の大国によって翻弄されてきたギリシアの苦悩の歴史を、政治史として浮き彫りにする。言語をめぐる対立が、ギリシアとは何か、という根本的な問いと結びついているあたりの叙述は興味深い。現代ギリシアの政治史の専門的な叙述に傾きがちなところがあるので、もう少し大局的な視点と、問題の掘り下げがあればと感じた。
 月末にヴィーンへ出かけるので、1848年のヴィーン革命のことを知ろうと読んだのが、良知力の書いた二冊の革命史論。いずれも、1848年の3月に始まり、10月の敗北に終わるヴィーン革命の歴史を、歴史に名を残さない人々の声や足跡を記した膨大な資料を渉猟して、革命史の見直しを迫る労作である。一冊は、『向う岸からの世界史──一つの四八年革命史論』(ちくま学芸文庫)。挫折に終わったこの革命の歴史を、同時代のベルリンの革命の動きと照らし合わせながら浮き彫りにし、さらに20世紀後半の移民をめぐる状況とも関連づける論集である。その叙述の舞台裏も明かされて興味深い。もう一冊は、『青きドナウの乱痴気』(平凡社ライブラリー)であるが、これは名著と言うべきであろう。労働者の権利を求める闘いがやがてハプスブルク帝国内での民族抗争へ転化していく様子が、ヴィーンの都市生活を文字どおり支えていた人々の声から浮き彫りにされる。革命に立ち上がったヴィーンを皇帝の軍隊から守ろうと戦って、クロアチア人の部隊を先兵とする皇帝軍によって虐殺されたのが、ボヘミアやポーランドからヴィーンへ流れ込んできた移民であったわけだが、こうした痛ましい歴史は今も繰り返されているように思えてならない。ちなみに、本書に掲載されている挿し絵のいくつかを、カール広場の傍らにあるヴィーン市の博物館で見ることができる。
 他にヴィーンへの旅へ向けて読んだのが、類い稀な芸術史家宮下誠が残した『クリムト──金色の交響曲』と岡田暁生の『楽都ウィーンの光と陰──比類なきオーケストラのたどった道』(いずれも小学館)。前者は、金細工から出発したクリムトの絵画を、日本の芸術との関わりや分離派という運動の理念にも目配りしつつ、世紀末ヴィーンのなかに生き生きと浮かび上がらせる佳篇。ベートーヴェン・フリースについての叙述は圧巻と言うべきであろう。風景画家としてのクリムトに注目している点にも共感できたし、作曲家マーラーと関連づける叙述も正鵠を射ている。また、巻末のクリムトの作品の地図は、この画家の絵を見にヴィーンを訪れる人にとって有益であろう。後者は、ヴィーン・フィルハーモニーというオーケストラの歴史を掘り起こすことを軸としながら、ヴィーンの音楽文化の発展と凋落とともに、移民の街であるがゆえに同時に人種差別の渦巻く街でもあるヴィーンの姿をも浮き彫りにする。スター指揮者として華々しく登場し、歌劇場やオーケストラをめぐる陰謀に翻弄されたマーラー、そしてプラーターの貧しい移民の家に生まれ育ったシェーンベルクという二人のユダヤ人に関する章はことに興味深い。巻末の年表や地図もなかなか有益だと思う。音楽の都としてのヴィーンの歴史は、第一次世界大戦以前の、すなわちハプスブルク帝政期のブルジョワジーの興隆に負っていて、これほどまでにヨハン・シュトラウスがヴィーンを代表をするものとしてこれほどまでに全面に押し出されるのは、その時代へのノスタルジーの表われなのだ。
 ヴィーン滞在中に読んだのは、アルトゥール・シュニッツラーの『夢小説・闇への逃走 他一篇』(池内紀他訳、岩波文庫)。無意識の欲動が、じわじわと、また退廃的な情緒も交えながら浮かび上がってくる。医師でもあったシュニッツラーならではの、人間の身体と心理への鋭い切り込みも印象的で、堕ちていく人間のなかで起きていることが、ひしひしと伝わってくる。これを読んで、クリムトやシーレを見て、シュテファン寺院裏手の飲み屋街へ消えるというヴィーンの過ごし方もあるかもしれない。ちなみに、フロイトはシュニッツラーの小説を読んで、自分が地道な研究を重ねて辿り着いた洞察に一挙に達していると、彼を羨んだということである。
 ヴィーンから帰る機内で読み終えたのが、吉田秀和の『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(中公文庫)。1967年秋からおよそ1年、ベルリンを拠点にヨーロッパに滞在したあいだ、著者が音楽を中心に接した芸術についての批評をまとめたものである。彼の確かな批評眼をあらためて痛感させられるとともに、批評の視点もかなり理論的に示されている。それはたしかに古典的な作品観に支えられたものであろうが、あらためて傾聴すべき論点も少なくない。「批評」や「評論」を掲げて書くすべての人に読まれるべきエッセイ集と思われる。
※ブクログという読書記録サイトの「まとめて紹介」機能を利用しています。

walterの本棚 - 2012年03月 (9作品)
3.11を心に刻んで
読了日:03月20日
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ヴィーンへの旅:2012年3月25日

 今日から妻とヴィーンへの旅。ヴィーンを訪れるのは、新婚旅行のとき以来8年ぶりということになる。7時前に広島空港に着いてチェックイン。成田行きの便がオーストリア航空ともコードシェアしているためだろうか、成田からのヴィーン行きの便も同時にチェックインできて、荷物もスルーで預けられたのはありがたかった。9時半前に成田に着いてみると、南ウィングは、ものすごい人混みでごった返していて、出国審査場に通じる保安検査のゲートの前に長蛇の列ができている。本当は少しゆっくりしたかったが、すぐにこの列に並ばなければならなかった。おそらく今日から学校の春休みで、家族連れや卒業旅行で海外へ出る人々のちょっとした出国ラッシュになっているのだろう。
 オーストリア航空のヴィーン行きの直行便で、11時間のフライト。前回このキャリアを利用したのは、ヴィーン経由でドレスデンへ行った2004年の秋以来ということになるが、以来使っていなかった理由を思い出してきた。機内のエンターテインメントの内容が乏しく、機内食もあまり美味しくなかったのだ。妻は見る映画がないとこぼしていた。ラジオのクラシック音楽のプログラムも3時間ほどのサイクルで同じ曲を繰り返している。機内食は、グリルチキンのグラタン添えか「カツ丼」という「究極の」と言いたくなるような選択肢だった。特別不味いわけではないが、美味しくはない。他のキャリアに比べて全体の量を抑えてあるのと、カイザーゼンメルなどのパンが香ばしいのが嬉しい。機内では、岡田暁生の『楽都ウィーンの光と陰──比類なきオーケストラのたどった道』と良知力の『青きドナウの乱痴気』を読了。前者は、ヴィーン・フィルハーモニーというオーケストラの歴史を掘り起こすことを軸としながら、ヴィーンの音楽文化の発展と凋落と同時に、移民の街であり、そうであるがゆえに同時に人種差別の渦巻く街でもあるヴィーンの姿をも浮き彫りにする。スター指揮者として華々しく登場し、歌劇場やオーケストラをめぐる陰謀に翻弄されたマーラー、そしてプラーターの貧しい移民の家に生まれ育ったシェーンベルクに関する章はことに興味深い。巻末の年表や地図もなかなか有益だと思う。音楽の都としてのヴィーンの歴史は、第一次世界大戦以前の、すなわちハプスブルク帝政期のブルジョワジーの興隆に負っていることとともに、これほどまでにヨハン・シュトラウスがヴィーンを代表をするものとしてこれほどまでに全面に押し出されるのは、その時代へのノスタルジーの表われなのだ。後者は、1848年の3月に始まり、10月の敗北に終わるヴィーン革命の歴史を、歴史に名を残さない人々の声や足跡を記した膨大な資料を渉猟して、革命史の見直しを迫る労作。労働者の権利を求める闘いが、やがてハプスブルク帝国内での民族抗争へ転化していく様子が、ヴィーンの都市生活を文字どおり支えていた人々の声から浮き彫りにされる。革命に立ち上がったヴィーンを皇帝の軍隊から守ろうと最後まで戦い、クロアチア人の部隊を先兵とする皇帝軍によって虐殺されたのが、ボヘミアやポーランドからヴィーンへ流れ込んできた人々であったのは、実に痛ましいが、こうした歴史は今も繰り返されていよう。
 少し早くヴィーンへ到着し、空港からバスで市街へ向かう。バスが到着したシュヴェーデンプラッツの停留所のすぐ前に、かつてゲシュタポの本部が置かれていたところに設けられた記念碑が見えた。「けっして忘れない」と碑文にある。気温が20度を超えて暑かったので、ジェラートを食べてから地下鉄でホテルへ向かう。宿はノイアー・マルクトに隣接するオイローパ。便利な場所にあるが、部屋がケルンテン通りに面しているので、夜騒々しくないか心配だ。
 少し休んだ後、アン・デア・ヴィーン劇場へオッフェンバックのオペレッタ『ホフマン物語』を見に行く。ウィリアム・フリードキンの演出で、リッカルド・フリッツァ指揮のヴィーン交響楽団がピットに入った。劇中のホフマンが思いを寄せるプリマ・ドンナがアンナ役を歌うモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の上演を劇中劇のように背景に据えながら、ホフマンの恋の遍歴を、彼のなかの無意識の暗黒面が表われてくるプロセスとして描き出す演出で、ヴィデオを駆使した演出ながら、読み替えを打ち出すのかどうか少し煮え切らない印象で、また後半の運びがやや冗長──ただでさえこの作品の後半は、失恋話の繰り返しなだけに退屈になりやすいだろう──に思われた。最後に作家としての人生に戻るところで、ホフマンはノート・パソコンに向かった。
 歌手はいずれも高水準の歌唱を聴かせてくれたが、なかでも全曲を通してミューズ/ニクラウスを演じたロクサナ・コンスタンティネスクは、素晴らしかった。オランピアを歌ったマリー・エリクスメンもほぼ完璧な歌唱。主役のホフマンを歌ったクルト・シュトライトも巧みだったが、今ひとつパンチに欠ける印象だった。それ以外の役もほとんど隙がない。フリッツァ指揮のヴィーン交響楽団は、少し垢抜けたところや軽やかなリズム感が欲しいところもあったが、全体には力強く舞台を支えていて、聴き応えがあった。
 帰りがけ、あるバイスルに寄って軽く夕食をと思ったが、その店はもはやなく、結局市電の停留所のインビスでケバブなどを買い求めて宿へ戻る。ヴィーンにはずいぶんケバブを売る店とアメリカ系のファスト・フードのチェーン店が増えている。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月26日

 今日から4泊6日でドイツを訪れる。今回の旅では、とくに三十年戦争終結の場であると同時にナチスの暴力の記憶も刻み込まれている二つの都市、オスナブリュックとミュンスターを訪れて、歴史的な場所や歴史的な記憶が集約された場所に芸術が介入することによって、過去を想起することがどのように喚起されるか、さらには過去を想起すること自体がどのように変化するかを、実際にその場所に足を踏み入れることで可能なかぎり確かめてみたい。それによって、今ここで歴史を紡ぎ出すことをどのように捉え返せるかを考える糸口を探ることができればと思う。
 まず、オスナブリュックでは、ダニエル・リベスキンドが設計したフェリックス・ヌスバウム美術館を訪れる予定である。ベルリンのユダヤ博物館に見られるように、複数の建物を交差させ、それによって作られる「ヴォイド」という空隙をもつ建物のなかに、アウシュヴィッツで虐殺されたこのオスナブリュック出身の画家の作品が数多く展示されているわけだが、そこで建築と美術がどのように共振しているか興味がある。リベスキンドの設計自体、どのようなコンセプトで、それがどのように実現されているのか、それとヌスバウムの絵画が、さらには彼の経験がどのように共鳴しているのか、そしてヌスバウムの絵画自体が、どのような強度をもって迫ってくるのか、見て来たいと思う。オスナブリュックでは、シナゴーグをはじめ、他の歴史的な場所も訪れておきたい。
 ミュンスターは日帰りで立ち寄るだけだが、ツヴィンガーと呼ばれる、かつてナチが政治犯の収容所に使っていたという建物に、現代美術作家のレベッカ・ホルンがインスタレーションを据え付けているのを見ておきたいと考えている。この建物の一室一室に、そこにある石の一つひとつに刻み込まれた、ナチの暴力の犠牲者たちの記憶が、その場でどのように想起されるだろうか。ホルンの作品そのものとともに興味深いところである。ミュンスター市街の各所には、ホルンの作品以外にも、野外の彫刻作品がいくつか置かれているという。そのいくつかも見て、古い街並みが美しいとされる歴史的な街ミュンスターが、アートの介入によってどのように変貌しうるのか、その経験とはどういうものか、考えてみたい。
 日本へ帰る前の日の夜には、デュッセルドルフの隣町に当たるデュイスブルクを訪れ、工場跡を劇場に改造した建物で、ルールトリエンナーレの一環として行なわれる、細川俊夫の『班女』の公演にも接することになっている。これも歴史的な場所で、三島由紀夫の近代能をもとにしたオペラがどのように響くのかも楽しみである。その予習を兼ね、機内ではまず三島の『近代能楽集』を読んだ。伝承されてきた謡曲を土台にしながら、それを巧みに現代のドラマに翻案しながらも、その登場人物に、時空の交錯する夢幻能の世界を現出させる詩的な台詞を語らせる手腕には、やはり唸らせられないではいられない。そのひと言によって、何気ない日常的な場面に、死者とその浮かばれる思いがふと現われたり、正気と狂気、あるいは夢とうつつの境目がぼやけたりするのだ。「班女」もさることながら、「卒塔婆小町」など傑作だと思う。20世紀後半のホーフマンスタールとでも形容したいような三島の一面を示していよう。
 今回、成田からミュンヘンを経由してデュッセルドルフへ行き、そこから鉄道でオスナブリュックへ向かったのだが、ミュンヘン行きの機内ではもう一冊、吉田秀和の『時の流れのなかで』を読む。『音楽芸術』誌に34年にわたって連載されてきた批評を選りすぐったもの。音楽そのものについての深い理解については言うまでもないが、絵画、ひいては芸術そのものへの鋭い洞察も、具体的な展覧会に接したときの経験などをもとに示されている。セザンヌとマネの絵画の経験を土台に、絵画におけるマチエールを、画家の生と結びつけながら重視するあたりは興味深い。さらに、この批評選集に関して特筆すべきは、吉田のしなやかな思考が、芸術の領域だけにとどまっていないことである。チャーチルの「鉄のカーテン」という言葉を例に、歴史を語る言葉について論じた一節など、眼を開かせられる思いで読んだ。日本文化についての批評には、現代にも当てはまるところがいくつも含まれているのではないだろうか。批評としてのエッセイとは何かということを考えるうえで必読の一冊と思われる。
 それにしても、今回の旅では悪霊に取り憑かれたようにうまく事が運ばない。ケチの付き始めは成田空港の滑走路手前で飛行機が急停止したこと。嫌な予感がしたが、案の定タイヤの空気圧不足が判明したとのこと。その整備と給油で1時間ほど成田出発が遅れてしまった。そのためミュンヘンでは、予定していた接続便には乗れず、その次のデュッセルドルフ行きに乗ることになった。それに間に合って、初めて降り立ったデュッセルドルフ空港では、大急ぎで鉄道の駅と空港を結ぶスカイトレインに乗り、何とかデュイスブルクで特急に連絡する電車に乗り込めたまではよかったのだけれども、デュイスブルクの手前で人身事故があったようで、いつまで経っても予約していたハンブルク行きの特急が来ない。おそらく自殺だろう。3時間近く遅れてようやくやって来た特急も、半分はドルトムント止まりとなり、席を予約していた者もみな、後方の車両に乗り換えさせられた。これが事故を起こした当の電車なのかもしれない。結局オスナブリュックに着いたのは、午前2時過ぎ。ドイツ鉄道が発行したタクシー・クーポンを同じ方向の乗客と乗り合いで使い、ホテルまでタクシーで行けたのは、不幸中の幸いだった。移動が丸一日になってしまい、本当に疲れ果ててしまった。

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ベルリン旅日記(2010年1月8日)

 朝食を済ませて外に出てみるとやはり非常に寒い。ホテルからツォー駅まで歩くが、雪が踏み固められて凍りついた足下が滑りやすいので、おそらく普段の倍近く時間がかかってしまう。ツォー駅からSバーンで中央駅まで行って降り立つと、歩く人が少ないせいか、歩道がさらに雪深い。そのような道をしばらく歩いて、ヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフへ向かう。見ればシュプレーの河面もところどころ凍っている。このような気候は、ポツダムが最も寒かったとき以来だろうか。
 ヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフに着くと、訪問申し込みのメールに返事をくれた職員の方が温かく迎えてくれた。会議中にもかかわらず、少し時間を割いてデータベースの使い方を説明してくれる。備え付けのコンピューターには、全集、書簡全集、自筆の草稿、関連の資料の類がすべてPDFのファイルで収められていて、これを自由に見られるという仕組み。全集各巻の巻末に関連資料として収録されている手書きの草稿のもとの姿は、じかに眼にする機会の少ないものだし、それがさらに現在刊行中の新全集の基になっているだけに非常に興味深いが、やはりなかなか判読は困難。それでも、晩年の歴史哲学に関する草稿を見てみると、他人からの手紙の便箋の裏側などにびっしりと書き込まれている。書くことすらもきわめて困難な状況のなかで、最終的に「歴史の概念について」の20のテーゼに結晶する思想が紡ぎ出されていたことが偲ばれる。
 アルヒーフにはベンヤミンに関する研究書の類も集められていて、日本にいてはなかなか現物に触れることのできない二次文献も手に取ることができる。主にドイツ語にものだが、これほど多くの研究書がベンヤミンについて書かれているのかとあらためて驚かされる。そのいくつかを手に取って拾い読みしたり、全集のデータベースで検索をかけたりしてみた。ベンヤミンの全集は、アドルノの全集のようにデータベースが市販されていないので、ここのコンピューターを使えることは、行く行くは便利にちがいない。それと持ち込んだパソコンとを使いながら、これから書く原稿の構想を練って午後まで過ごす。そうこうするうち、何人もの人が閲覧室に入ってきて、それぞれ机に陣取って仕事に取り組んでいる。ベンヤミン研究の相変わらずの活況を示しているのだろうか。
 アルヒーフを辞して宿に戻ろうとすると、職員の方が呼び止めて、日本語の訳書をはじめダブって在庫のある書籍があるから持って行かないか、とのこと。ありがたい申し出なので倉庫へ連れて行ってもらうと、これまた膨大な在庫。そのなかの一角にそうした書籍があったが、残念ながらほとんど手許にあるものばかり。テーマごとのアンソロジーは持っていなかったので、それだけ少しもらって行く。アルヒーフを使わせてもらったうえにお土産までいただいた格好で恐縮なことだ。ともあれ、今後の研究滞在で使わせてもらうのにもよいきっかけになったのではないだろうか。
 宿へ帰って友人と落ち合い、書店を案内してもらう。連れて行ってもらった近くの店は、思想と文学を専門とする書店で、狭いながらも非常に充実した品揃え。店の主人に、ベンヤミン・アルヒーフで面白く思った一冊の研究書のことを尋ねると、現在在庫はないが、注文すれば明日の朝には届くという。ドイツの書籍流通のシステムの便利さにも驚かされる。それを注文して、明日他の書籍と一緒に引き取ることにした。
 大きな書店に寄って新刊をひと通り見て回った後、シュヴァーベン地方の料理を出すレストランで夕食。シュペツレという当地のパスタを七面鳥の肉やチーズと一緒にグラタン風に焼いた料理をリースリングの赤とともに。朝食の後何も食べていないので、熱いソースが腹に浸みる。さまざまな話に花が咲いて、閉店まで居座ってしまった。帰り道にはさらにうっすらと雪が降り積もっていた。

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ベルリン旅日記(2010年1月7日)

 前回ベルリンを訪れたのが昨年の9月の末だったので、およそ3か月でまた舞い戻ってくることになる。前回あまり時間が取れず、仕事のための本を読んだり、書店を物色したりすることができなかったので、今回は図書館と書店へ行くために来たようなもの。3泊4日の短い滞在である。その間に、ヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフや国立図書館にこもったり、友人に書店を案内してもらったりする予定。
 ヨーロッパは寒波が覆っているということで、飛行機の遅れが心配されたが、定刻通りに飛んでくれた。飛行機のなかで寝ておこうと思ったのだが、思うように眠れない。そのようななか読んだのが、小沼純一の編集による『武満徹エッセイ選』(ちくま学芸文庫)。個とその根底にある悲しみから響き出て他者へ向かう音についての省察が、生と死についての深い洞察や、国家権力に対する鋭い批判に結びついている点にあらためて感銘を受ける。手荷物の鞄に入れておいてよかったと思う。
 飛行機がヨーロッパの上空に入って機内が明るくなったので窓を開けてみる。いつもは通路側の席を取るのだが、今回は窓側しか取れなかった。窓には雪の結晶が付着している。それを見て、初めてヨーロッパへ旅行に出たときのことを思い出した。そのときも窓側の席に座って、シベリアの上空を飛ぶ飛行機の窓に付いた雪の結晶を、その無数の形を飽かず眺めていたのだった。乗り継ぎ地点であるフランクフルトへ近づくと、眼下には一面の銀世界が広がっている。寒いところへやって来たものだ。
 ますます迷宮のようなフランクフルトでベルリン行きの飛行機へ乗り継いで、ベルリンに着いたのは19時過ぎ。バスに乗って、クアフュルステンダムの途中の停留所で降りて少し歩いたら、ホテルがすぐに見えた。通りには雪が積もっていて歩きにくいし、当然ながらかなり肌寒い。明日からのことが思いやられる。宿はとくに特筆するべきことのない中級クラスのホテルだが、無線LANが無料で使えるのが嬉しい。予約に付いていた、カレーソーセージのクーポンをもらったので、部屋で荷解きをしてから、夕食にそれを食べにレストランへ。フライドポテト付きのそれを食べてみると、ケチャップソースのトマト味が利きすぎて、カレーソーセージと言うよりは、トマトソーセージに近い。これに関しては屋台で食べるに限るということだろうか。部屋へ戻ってシャワーを浴びると、疲れと眠気が襲ってきた。

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「9・11」に寄せられた二つの作品

 あの「9・11」のような夢を見た。勤め先の建物に飛行機が突っ込んだらしく、天井や壁が崩れ出したので、慌てて部屋の外に出て避難しようとしたところ、今度は逃げようとしている方向に正面からジャンボ機が突っ込んできたという夢。その後どうやって逃げたのかは憶えていないが、ややあって瓦礫の上に立ちつくしているところは何となく憶えている。どうやら夢のなかでは生き残ったらしい。
 それにしてもどうしてこんな夢を見たのだろう。5年前の今日からニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込む映像を何度となく見たのが、トラウマのように残っているのだろうか。あの「9・11」からちょうど5年になろうとするときにあまりにもよく似た夢を見るというのは、薄気味悪い感じもしなくはない。ともあれ今日でその事件からちょうど5年。ニューヨークでは、犠牲者のための盛大な追悼式典が催されるようだし、日本の民放でも、この日に合わせて、事件当日を検証し、かつ再現しようとする特集番組が組まれているようだ。映画の世界でも、事件から5周年を迎えるのを機会に、新たな視点から「9・11」と向きあおうとする作品が制作されているようで、先日その一つ「ユナイテッド93」を広島市内の映画館で見た。
 ポール・グリーングラス監督の作品「ユナイテッド93」は、2001年9月11日にハイジャックされた4機の旅客機のうちただ1機目標に到達しなかったユナイテッド93便が、ペンシルヴェニア州シャンクスヴィルに墜落するまでのあいだに、どのようにハイジャックされ、また操縦桿を奪還するために乗客たちがどのように闘ったのかを可能なかぎり緻密に描き出そうとしている。そのために無名の俳優、さらには現役の管制官として働いている人びとを相当な数で動員しているが、そのことは映画の迫真性を高めるのにかなりの効果を上げていたように思われる。また、前半の日常的な機上の風景の淡々とした描写と、後半の機内電話で愛する人に最後のメッセージを送ろうとする絶望的な光景の緊迫感に満ちた描写とのコントラストは、このハイジャック事件によっていったい何が奪われたのかを見る者にまざまざと突きつけてやまない。そして、航空管理当局に人が足りず、また大統領の不在のために空軍の対応も後手後手に回るさまを描いているあたりは、事件に対するホワイトハウスの無為無策を告発する狙いもあるのだろう。こうも悪条件が重なっているのを見せつけられると、「9・11」は、起こるべくして起こった、あるいはもしかして仕組まれていたのでは、とさえ思われてくる。
 全体として、だんだんと緊張感を高めながら緻密な再現を積み重ねてゆくグリーングラス監督の映画づくりの上手さが光る作品である。最後のあたりなど、飛行機が上下に激しく揺れるのと相まって、胃が捩れるかのような感覚をおぼえた。ただし、気になったのは、ハイジャック犯と闘った乗客があまりにも英雄的に描かれてしまっていることと、それに対してイスラム教徒のハイジャック犯の描き方は、あまりにも型にはまってしまっていること。4人のハイジャック犯のひとりひとりがそれぞれどのようなバックグラウンドをもっているのか、なぜ自分の命を犠牲にすることになるハイジャックの実行犯の一人になることを決意したのかをもう少し詳しく描いたなら、事件がなぜ起きたのか、という重い問いにも取り組むことができたはずである。冒頭のコーランを読むシーンは少しクリシェが過ぎる感じがした。
 さて、書かれたのはすでに一昨年のことであるが、リービ英雄の小説「千々にくだけて」(『千々にくだけて』講談社)は、「ユナイテッド93」とはある意味で正反対に、アメリカの外で「9・11」に遭遇し、それに翻弄される経験を描くことによって、「9・11」に向きあおうとする作品である。日本に定住しているリービ英雄自身と思われるエドワードという主人公が、ワシントンに住む母とニューヨークに住む妹に会うために、バンクーバー経由でアメリカへ入ろうとするが、「9・11」の事件が起きたために、バンクーバーで足止めされ、結局母親にも妹にも会えないまま日本へ戻ることになる。その数日間の経験が私小説風に実に淡々と描かれるわけだが、その描写に「島々や千々にくだけて夏の海」と松尾芭蕉が松島の海を歌った句の解釈のヴァリエーションが入り込んでくるのである。「千々にくだけて」いるのは、まずバンクーバー付近の多島海的な風景であり、世界貿易センタービルの建物であり、その崩壊とともに破れ散って、主人公の妹のアパートメントにまで飛んできたビジネスの書類であり、そして「9・11」以後の世界であろう。あるいは主人公をはじめとする人びとの心も「千々にくだけて」しまったのかもしれない。
 とりわけ惹かれたのが、テレビを通して聴こえてくる言葉をつぶさにとらえることによって、世界がこれからどのように分裂していくのかを、あるいはすでにどのような裂け目が世界のうちにあったのかを照らし出しているあたり。リービ英雄の言葉に対する鋭敏な感性が、「9・11」とそれに続く「対テロ戦争」の背景にあるものを、とりわけそこに潜む他者に対するまなざし、そしてそこに込められた憎悪をはじめとする情念を鋭く照らし出している。それ以外の描写が淡々としているだけに、その鋭さが際立つ感じがした。もし「千々にくだけて」しまった世界を、もう一度、そしてこれまでとは別の仕方でつなぎ合わせようと思うのならば、他者たちの、あるいは自分自身の他者へのまなざしを見つめ返しうるような、言葉の聴力を高めるところから始めなければならないのかもしれない。そんな感慨を抱かせる小説だった。

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岡真理『棗椰子の木陰で』

 48時間の爆撃停止の期限が切れて、イスラエルによるレバノンへの、空と地上両方からの激しい攻撃が再開された。攻撃の激しさは増す一方だが、これは当初から防衛の範囲をはるかに越えている。空からの爆撃においては、非戦闘員を無差別に虐殺するもの以外の何ものでもないクラスター爆弾も使われたという。今朝の新聞には、病院を掃討するイスラエルの地上特殊部隊の写真も載っていた。そして、このような一方的な軍事攻撃の被害を受けるのは、カナの避難施設への爆撃が象徴するように、決まって子どもや年老いた人びとをはじめとする一般の市民である。レバノンでは900人に上る人びとが殺され、そのほとんどが民間の非戦闘員であるという。そして、今や100万人を超える人びとが、住み慣れた場所を追われ、難民となっているとも報じられている。
 そのような悲惨な状況を最も研ぎ澄まされた眼で見つめている一人がアラブ文学研究者の岡真理であるが、彼女がこの10年間、悪化の一途をたどるパレスチナとその周辺のアラブ世界の情勢を見つめながら、それに応える文学の力を問い続け、書き継いでいった論考を集めた一冊が最近出版された。『棗椰子の木陰で──第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社)である。この論集には、言葉を語り、語られた言葉を読むことを、そして語り、読む主体のアイデンティティを、正確な言葉づかいをもって一歩一歩突きつめ、それらについての従来の見方を、すなわち人びとの自明のよりどころとなっているものを突き崩し、その果てに文学の、そして言葉の可能性を切り開こうとする試みの軌跡が刻まれている。
 たとえば、いわゆる「グローバリゼーション」が進行するとともに富める者と貧しき者が引き裂かれるなかで、あるいはイスラエルとアラブ世界との緊張が高まるなかで、しばしば「異文化理解」や「多文化共生」といったことが叫ばれる。しかし、そのように「固有の」文化があらかじめ存在することを前提するかのような議論には、大きな落とし穴があることを岡は指摘している。「かつて帝国主義の時代、非西洋世界の文化は価値的に劣ったものとされ、西洋中心主義の世界観のなかで周縁化されてきた。現代においては、過去の西洋中心主義に対する批判として、非西洋世界の文化の自己主張がさかんになされるようになった。とりわけグローバリゼーションが進行する今、世界の一元化に対する文化的抵抗として多文化主義が主張されている。どの地方にも、その地方固有の文化、固有の価値観がある、アラブにはアラブ独自のイスラーム文化によって培われた経験と価値観が、アフリカにはアフリカの太陽と母なる大地によって育まれた生と価値観がある、という主張。西洋中心的な私たちの世界認識が批判され、解体されるのは良い。しかし、ここで注意したいのは、こうした本質主義的な地方主義に根ざした多文化主義は、依然として西洋=普遍、非西洋=特殊という構図が強固に存在するこの世界では、西洋中心主義的な世界認識を解体するどころか、むしろ強化することになりはしまいかということである。知の本質主義的地方主義に居直り、地方の文化的特殊性を強調する「原理主義」が、西洋=普遍とする西洋中心主義と共犯関係を結んでいることはつとに指摘されているとおりである」。
 では、酒井直樹が批判する「文化主義」とも重なりあうこの「本質主義的地方主義」を乗り越えてゆくどのような道筋があるのだろうか。岡は、「固有な」ものとして、自己のアイデンティティの基盤として自明視しているものを内側から解体することを提案している。たとえば「母語」。これを私たちは「固有の」言語として「自然に」話しているだろう。しかし、それはもとをただせば、「母」という他者の口から吹き込まれた「異物」なのだ。それを語ることは、核心においては一体化の享楽であるよりはむしろ分裂の「苦悶」なのではないか。そのことを岡は、トリニダート・トバコの詩人マルレーヌ・ヌルベーズ・フィリップの詩「言語の論理に関する言説」を解釈しつつ、説得的に示している。
 このことを洞察し、言語の物質性に躓きながら、他者の言語として自分が「母語」として話してきた言語を見つめなおすこと。岡によれば、このことのうちに言葉を話すことを他者に開かれた活動へ反転させる契機がある。「母語を母語として生きる者であろうと、母語なるものの他者性を、つねにすでに、生きている。これらのテクストが読者に要求するのは、言語の物質性を回復させ、私たちがそれに躓くことによって、母語なるものの、忘却されてあるこの生々しい他者性を想起することにほかならない。言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。/だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者に開かれたものにする、その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。私の躯のなかに吹き込まれたあなたの言葉が、私の呼気となって出てゆく、開かれた私の躯が反響板となって、あなたの言葉を、あなたのものではない他者の言葉を、誰のものでもない言葉を、私のことばとして、私たちの言葉として。誰のものでもない他者の言葉を分有する者として。苦悶であると同時に、歓びでもあるような」。
 「固有の」言語ではなく、他者の言語を分有していることを引き受け、複数性を自分自身のうちに刻印することによってこそ、他者たちのあいだで言葉を響きあわせることができる。「この世に居場所をもたない者たちの、死者たちの声」に耳を澄ませ、「正統性」の名のもとでのあらゆる排除の暴力を越えたところで、そのように掻き消されようとしている声に耳を澄ませ、それに応答することができるのだ。『千夜一夜物語』、ナワール・エル=サアダーウィーの『零度の女』、李良枝の『由煕』といった文学作品の精緻で批判的なレクチュールをつうじて、岡真理のエクリチュールは、これまで自己の母胎と見なしてきたものを突き崩した先に、他者と応えあう言葉を見いだすことへ読者をいざなおうとしている。
 ところで、『棗椰子の木陰で』には、1997年から2006年にかけて、パレスチナの出来事を中心に、ひとつひとつの出来事に応答しつつ、そこにある暴力と、それに対する抵抗を証言するクロニクルも収められている。それを書き継ぐことをつうじて、岡はアラブ世界の情勢を見すえつつ、そのなかで暴力的な抑圧に苦しむ人びとと連帯しようとしている。その姿を見つめながら、レバノンに対する不当な攻撃に対して、そしてその陰で今も進行しているガザへの暴力に対して、抗議の声をあげようとしない自分自身の今ここを、戦慄とともに見つめ返すべき時が来ているのかもしれない。

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「辣韮のような存在」を映す鏡

 財政学を専攻する同僚のクラスと合同の1年生向けのゼミで、沢木耕太郎のルポルタージュ集『人の砂漠』(新潮文庫)に取り組むことになった。その掉尾を飾る「鏡の調書」は、岡山市奉還町で一人の老女が起こした詐欺事件を追っている。その事件とは、奉還町の人びとがみな「滝本キヨ」を名乗る80過ぎの老女によって3年近くにわたって騙され、彼女と付き合いのあった十数人が返済のあてのない600万円に及ぶ金を無心し続けたというものである。それにしても本名を片桐つるえというこの老女は、なぜこれほど長い間人びとを騙し続けることができたのだろう。この問いに答えるために事件の経緯をたどった沢木耕太郎は、事件が金儲けのために起こされたのではないことに行き当たる。「金持ちの素晴らしいおばあさん」として町中で認められている自分を演じ続けるための犯行だったのだ。そのことが「最上の張り合いとなっていた」のである。そして、東京から来た裕福で気風のよい老女の役を演じるために小奇麗に実なりを整え、詐欺を重ねてきた老女のことを、沢木は最終的にこう言い表わしている。「辣韮のような存在」。
 たしかに偽名を使い続け、いくつもの名前を行き来した片桐つるえは、「辣韮」さながらどこまで剥いても皮ばかりの、それどころか偽名を名乗ることで薄皮の一枚を他人に見せることに執着し続けた人物だったのかもしれない。しかし「辣韮のよう」なのは、果たしてこの詐欺をはたらいた老女だけなのだろうか。「世間」の評判を落とさないために「よき社員」を、「よき公僕」を、「よき親」を、果ては「よい生徒」や「よい子」までも演じ続けようとする人びともまた、「辣韮のよう」ではないか。いや、そう言う自分も、周囲の視線を気にしながら、社会からあてがわれた役割を演じるのに汲々とする「辣韮のような存在」ではないのだろうか。沢木耕太郎が描き出す片桐つるえの生きざまは、そのような問いを抱かせるものである。
 むろん、片桐つるえの奉還町の人びとを欺く手腕は、常人には真似できないほど見事である。「東京・銀座の煙草屋」という「眼新しさと馴染み深さが適度に入り混じった」役割の設定と、その信憑性を高める舶来煙草の手土産によって銀座から来た大金持ちの孤老であることを印象づけ、金を貸すことが途方もない見返りにつながる個人的なコネを強めることであるかのように期待させる心理作戦によって、町全体を「ほとんど集団催眠に近い完璧さで」騙すことに成功したのだ。もちろん騙すだけでなく、騙し続けるための手だても必要である。彼女は恩義を感じた人に対する付け届けを絶やさなかった。しかも、騙し取った金はもっぱら付け届けのために使われ、ほとんど自分の手許には残らなかったという。では、なぜそこまでして彼女は「金持ちの素晴らしいおばあさん」を演じることに固執したのだろう。この問いに向きあうなかで沢木耕太郎は、「滝本キヨ」という偽名のもとで奉還町の人びとに語られた人生が、「片桐つるえにあり得たかもしれない「また別の人生」への夢」と重なることを見抜く。「億万長者」であり、「島崎藤村の弟子だった」などといった嘘は、他人に騙されたのをきっかけに犯罪に手を染め、社会の底辺での生活を強いられてきた人生のなかで満たされなかった彼女の「夢」を表現していたのである。とはいえ、その「夢」は最後まで「夢」であり続けた。街中の人びとが彼女を「億万長者」と思ったところで、現実に「億万長者」になれるわけではないのだ。彼女は、それでも「億万長者」と思われることによって、「夢」の空虚さが埋められたかのような感触を得ようとしたのだろうか。
 そう考えるとき、大金持ちの孤老を演じ続けようとする片桐つるえの姿は、社会のなかで他人の視線に晒されながら生きるわたしたちの姿にも重なってくる。わたしたちはしばしば、「ひとかどの」とか「よい」とか認められるために身なりや立ち振る舞いを整え、ある理想化された「自分」の姿を装う。現実の自分がそれと重なっているわけではないのに。そうして「世間」で認められた自分を演じて満たされようとするわたしたちは、欺瞞に汚れた「辣韮」の皮にしがみついて生きていよう。しかし、その薄皮以外のところに「ほんとうの」自分などというものがあるのだろうか。「辣韮」をいくら剥いたところで剥いた皮が残るだけではないのか。だとすれば、そもそも「自分」とは何なのだろう。
 沢木耕太郎の「鏡の調書」は、一人の老女が起こした詐欺事件を追うことで、人はなぜ騙されるのかという問いに正面から向きあうばかりではない。それは、他人の視線に晒されながら社会のなかに生きる「自分」というものを映し出し、問いただす、それ自体が一枚の鏡のようなルポルタージュである。

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辺見庸『自分自身への審問』

 辺見庸は、脳卒中に倒れて右半身が麻痺したばかりでなく、癌にも蝕まれつつある身体で書いた。おそらくは一語一語絞り出すようにして。しかも「自己自身への審問」というかたちで。彼の思考の強靱さは、病床で自分自身を問いただすほどだった、と言うべきなのだろうか。いや、その「審問」はむしろ、彼をその身体もろとも強靱さといったものを越えた次元へと導いているのではないか。
 辺見庸の新著『自己自身への審問』(毎日新聞社)は、脳卒中で半身の機能を失い、記憶の一部を失った自分自身の身体をさらけ出すところから始まっている。「襤褸のような」と彼が形容する、みずからの身体の剥き出しの姿を見つめるところに、新たな出発点を置こうとするのだ。「老いて病んだ自己身体に即して世界を眺める」。つまり、「なるたけ裸形を怖れず、幻影をまとわず、格好をつけずに風景に分け入る」こと。これがより衒いのない、ということはより深く身体経験にそくした彼の新たな思考のモットーなのである。
 とはいえ、病に蝕まれてまったく思うようにならない身体を前にして、「自死の衝動」が首をもたげてきていることも、辺見庸は否定しない。だからこそ、脳梗塞の末に自殺した江藤淳が最後に書き残した言葉のことも思い出される。しかし辺見は、江藤のように「自ら処決して形骸を断ずる」ことは選ばない。自死の権利を最終的なものとして留保しながら、自死が自分にとって可能であるかぎり、自己自身を、すなわち「自己身体に即して世界を眺める」思考を、表現し続けようとするのである。「形骸化しつつある自己身体を消滅させる前に、おつにすました者どもの面前で醜怪きわまる踊りの一つも踊ってみせて紳士淑女を仰天せしめよ」。むしろ思考がすでに「形骸」と化してしまっていた江藤のように「自裁」を選ぶのではなく、健常者には「形骸」と見えるものそれ自体を、さらにはその内部に湧きあがるものをさらけ出そうとするのだ。そのとき、いったい誰が「健常」なのかという問いも湧いてくることになる。
 脳卒中を経て「眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」へ向かい視界が反転する」のを経験した辺見は、「見る」ことの「不遜」をこれまで以上に強く感じるようになる。病院でつねに見られる立場にあるなかで、「一般に〈見られる〉ぼくの〈見る〉を想定していない」医師の「見る」まなざしに居心地の悪さを感じ、「〈見る者は見られない〉という関係性」に不遜なものを見て取っているのである。その関係を自明なものとして享受しているところに、辺見がそれに対する心の底からの嫌悪感を吐露してやまない「安手のシニシズム」の根があるのかもしれない。
 辺見は、第二次世界大戦後の世界についてハイデガーが語った「世界の夜の時代」という言葉を引いて、その「夜の時代」とは「まさに現在のこと」かもしれないと述べたうえで、そのような「神の不在をそれとして感じることができず、夜を昼と錯覚している時代、恥なき季節、徒労と失意の時代」では「チープなシニシズム」が伝播してゆくと指摘している。彼によると、そのシニシズム自体は古くからある低い声の笑いとして現われていた。日本では「人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると」、「必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます」。「何もしない自分を高踏的にみせたいのでしょうか。それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない放屁のような笑いなのでしょうか」。
 そして、今日そのように人を笑わせているのは、「資本」であるという。「ハイデガーの言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタルと市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です」。いわゆる「勝ち組」を含めて意識が資本によって収奪されてゆくなかで、その収奪された意識から「安手のシニシズム」の笑いが漏れているのだ。そのとき笑いを漏らす者には、「自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない」。そのようななかで、マジョリティに属しているという安心感に浸りつつ、まったく実質のない資本という虚無を追い求めるという、それこそ藤田省三が「全体主義の時代経験」のなかで資本主義のニヒリズムと呼んだ「妄」が全体を覆っていることを、病床の辺見は喝破しているのだ。こちらが「健常」どころではない。ゴヤの版画の題名さながら「すべては妄」であるなかで、ナルシスティック記憶の捏造をともなう記憶喪失が進行し、「市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産み出す無慈悲な場」であることも同時に忘却されているのだ。
 だとすれば、「自分自身への審問」とは、脳卒中に倒れて右半身が麻痺し、癌にも身体を蝕まれている者だけが行なわなければならないことなのだろうか。むしろ市場と連動する「腐った民主主義国家」の内部で消費生活と世界のスペクタクルを享受しながら生きている者は、わたし自身を含めてまず、自分自身の生きざまを、いや今ここに生きていることそれ自体を問いたださなければならないのではないか。自己の生存への審問を、スペクタクルの社会の内部で、つねに見ているのではなく、実はさまざまな権力装置によって見られていることの恥辱を「自己身体」で引き受けるところから始めなければならないのではないだろうか。辺見庸の「自分自身への審問」は「未完」となっている。辺見庸の自分自身への審問も、わたしたちの自分自身への審問も、まだ終わっていない。

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植民地主義の反復と歴史認識の問題

 「領土」とは言うまでもなく、一定の境界によって囲まれた土地のことである。それはずっと昔なら、城壁の内側のことだったり、あるいは河川や山脈といった自然の城壁によって守られた内部だったりしたのだろう。今は「領土」と言えば、地図上に人為的に引かれた境界線の内側にある陸地のことである。
 ある土地を「領土」と定める境界線を地図上に引くとは、境界線の内側にあるその土地が「われわれ」の生存の場所であると、「われわれ」とは異質な「彼ら」に対して宣言することである。それは同時に境界線の内側にいる人びとに、同類ないし同胞としての「われわれ」のアイデンティティを、異質な「彼ら」との対比において自覚させ、さらにはひとりひとりではなく、「われわれ」なるものの生存の必要を知らしめることでもある。そのような「われわれ」の想像とともに生じるのが「国民国家」の「ナショナリズム」であり、それが排他的なものであるほかはないことは言うまでもない。そして、虚構の「われわれ」の生存の権益のために従来の境界を越えたところに新たな境界線を引き、そこに住んでいる人びとを従属させようとするとき、「ナショナリズム」は「植民地主義」となる。
 現在、日本と韓国のあいだで「領土」をめぐる議論がかまびすしい。韓国側が独島と呼び、日本側が竹島と呼ぶ小島は、いったいどちらのものなのか。日本側が、古くから日本の漁民の寄港地だったことを踏まえて明治期に島根県に編入したことの法的正当性を主張する一方、韓国側はそのことを、同時期に進められていた朝鮮半島の植民地主義的収奪の一環と主張し、双方とも譲らない。しかし、みずからの主張を譲らないなかで、双方とも小さな島の周辺の海域の漁業権益の独占を見すえているならば、双方の主張は「ナショナリズム」のそれであるにとどまらず、「われわれ」の生存の権益を外に求める「植民地主義」の色彩も帯びてくる。そのことに思い至るとき、おびただしい数のアジアの人びとを虐殺し、抑圧しながらアジア全体を戦争に巻き込んでいった近代日本の植民地主義的ナショナリズムが、実に皮肉な仕方で反復されているのを目のあたりにするようで、暗澹とせざるをえない。
 憎しみあう者たちは醜く似かよってくる。小さな島をめぐる憎悪が、植民地主義につながるナショナリズムの反復と応酬につながってしまっているのだ。そのことの最大の原因はやはり、かつて朝鮮半島を植民地支配した日本が、みずからの植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識を示しえていないことにある。韓国の大統領も指摘するように、「A級戦犯」を合祀し、植民地主義の戦争を美化する展示物を置く靖国神社を首相が詣でるというのは、本人がいかに内心の問題と弁明しようと、日本が植民地主義の過去を否定しない歴史認識を公にする行為なのである。これが政治家たちの「妄言」とともに繰り返されるなかでは、韓国の側も身構えてしまう。これまでの「謝罪」は嘘なのではないだろうか。現に日本の歴史教科書からは第二次世界大戦における日本の加害責任についての記述は減っているし、憲法改正の動きもあるではないか。韓国大統領が「謝罪に見合う行動を要求する」のも無理のないことである。だからといって、手段を選ばないナショナリズムが正当化されるわけではけっしてないのだけれども。
 では、植民地主義的ナショナリズムを乗り越えるような歴史認識はありうるのだろうか。ありうるとすれば、それはどのような歴史認識なのだろうか。
 この問題を考えるうえで示唆的に思われたのが、講談社『本』別冊『RATIO』第1号に掲載された大澤真幸の論考「「靖国問題」と歴史認識」である。ここで大澤は、山田太一のドラマ「終りに見た街」を巧みに論じながら、「靖国問題」をめぐるいわゆる「右派」と「左派」の主張を見事に腑分けしている。高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)とともに、この問題を考えるうえで必ず参照されるべき重要な論考と言うべきであろう。
 大澤によれば、これまで歴史は「最後の審判」の視点から書かれてきた。歴史とは、大澤が「第三者の審級」と呼ぶ超越的な視点、すなわち神の視点を時間の外に設定し、その視点からそれぞれの出来事を意味づける「歴史神学」だったのだ。その「第三者の審級」に「右派」は自分の同胞の死者だけを置き、その期待に同胞たる「われわれ」は応えなければならないと、同胞の死者のみに感情移入する。これに対して「左派」は、「最後の審判」を文字どおりに受け取る。「第三者の審級」は無限の未来に待つ「超越的な救済者」の場なのだ。その「普遍的な正義」の視点から、あらゆる死者が裁きの場に呼び出されうるのでなければならない。したがって、死者を差別するのでなく、すべての死者を追悼の対象とするべきなのである。
 このような二つの立場の違いを明確にしたうえで、大澤は「左派」の主張に含まれる問題点も指摘している。「左派は、「普遍的な正義」の存在を前提にする立場であった。それは、無限の未来に──つまり人類と宇宙の歴史を全体として通覧できる位置に──、「最後の審判」を下す救済者を想定するのと、論理的には同じことに帰する。それに対して、右派は、言ってみれば、不完全な「最後の審判」を想定していることになる。というのも、右派は、全人類・全宇宙を視野に収める神の代わりに、特定の共同体のみを視野に収める死者を置くのであり、それは共同体が歴史的なアイデンティティを持続させる有限の時間幅の中でしか意味をもてないからである。その結果として、右派にとっては、死者=「第三者の審級」は、共同体が伝統的に保持してきた「善」を代表することになる。当然、それを阻害したり、傷つけたりする者は、「悪」であり、「敵」である。左派の「最後の審判」が、これとは異なった真正のものであることの端的な現れは、──戦死者の追悼という問題との関連で見た場合には──敵方の犠牲者をも追悼の対象に含めるべきだ、という主張の内に見て取ることができる。だが、先に示唆したように、敵をも追悼しようとすると、たちどころに困難にぶちあたることにもなる。「普遍的な正義」の中に包摂しようもない、根本的な「悪」が残ってしまうからである」。真正の「審判」を想定する主張も、神が悪を含む世界を創造したのはなぜなのか、という神学的ないし弁神論的難問にぶつかってしまうのである。
 そのことを確認しながら大澤はこう自問している。「歴史の渦中にある生成の契機を掬いだし、敗者を救済することができるような、そんな歴史認識の可能性はあるのか」。たしかに、自分が生きている現在を正当化するために特定の死者だけに感情移入し、「われわれ」の死者が顕彰されるような歴史を物語り、その他者を抑圧する従来の歴史認識ではけっしてなく、むしろ死者たちの記憶をひとつひとつ今に甦らせ、それぞれの出来事を「他でもありえた」可能性を含んだ、未完結の生成の相においてとらえかえし、そうして現在を揺り動かす歴史認識によってこそ、虚構の「われわれ」の自己正当化と深く結びついた植民地主義的ナショナリズムを乗り越えていくことができるにちがいない。だが、そのような歴史認識は、どうしたら可能なのか。神の無限性を想定しても、根本的な悪の問題に突き当たってしまうではないか。そこで大澤は、「全能の神と有限の神との対立」、すなわち「左派と右派」の対立が構成する「デッドロックを乗り越える、第三の立場」を、「神が悪をなしうるということ、したがって神が可謬的であるということ、これらのことを認めるところ」に求めている。「第三者の審級(神)そのものに悪が刻まれており、第三者の審級が破壊的な失敗をなしうるということ、それゆえ、第三者の審級が歴史の生成過程の中に巻き込まれているということ、このことを前提としたとき、歴史がまったく異なった相貌をもって現れるはずだ」。
 しかしながら、そのように「神=第三者の審級を歴史化し、歴史の渦中に投げ込む」とはどういうことだろう。それはどのような歴史認識のかたちとして現われてくるのだろうか。むしろ、それは歴史を認識する者のほうが、「最後の審判」の地点に立てないことを自覚しながら、ひとつひとつの過去を想起することではないか。そのことは、過去の出来事を現在の視点から完結させず、むしろ生成の相において今に甦らせることにつながるだろうし、またそれは神の可謬性よりは過去と現在の断絶を出発点とすることであるはずだ。人間があまりにも性急に神を歴史の渦中へ投げ込んだところよりは、人間が歴史を完結させることはできないのを胸に刻むところからのほうが、過去をその救済の可能性において想起できるはずである。フランツ・カフカが語ったように、希望はある、しかしそれはわたしたちのためのものではない、ということと、ヴァルター・ベンヤミンの『歴史の概念について』のなかの大澤が引いていない補遺にある「未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門だったのだ」ということとの緊張のなかで、歴史認識は試みられるべきであろう。
 こうした問題点を感じるとはいえ、大澤の論考が歴史認識の可能性を考えるうえで重要であることに変わりはない。そればかりでなく、それが喫緊の問題となる現在を照らし出している点にも注目すべきであろう。ちなみに大澤は、ドラマ「終りに見た街」にもう一度触れながら、論考をこう結んでいる。「主人公は、「終り」に、戦争の後に、つまり──戦争との関連において──最後の審判の立場に、自分はすでにいると思っていた。ところが、「終りに見た街」は、戦争の渦中の自分たち自身の現在(2005年)の街だったのである。超越的な位置から戦争の善・悪を判断していた主人公自身が、戦争の中に降り立っていたのだ」。「共謀罪」による訴追を可能にする法案や「教育基本法改正」案が、賛成の与党が大多数を占める国会に提出されようとしている現在が、「終りに見た街」の現在に急速に近づきつつあることは間違いない。

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