ベルリン旅日記(2011年7月16日)

 疲れを取る意味もあり、寝坊してから少し遅めに朝食へ降りると、朝食会場のサロンは満席。これほどの観光客が泊まっていたのか、と思う。やはり観光シーズンであることを実感させられる。しばらく部屋で待って出直しても席は空かない。週末ということもあり、みなゆっくりと朝食を楽しんでいるのだろう。結局相席させてもらうことになった。
 今日は夕方に国立歌劇場で細川俊夫さんの『松風』の公演を見ることになっているが、それまでは空いている。そのあいだ絵を見たいと思って、ポツダム広場へ向かった。地下鉄に乗る前に、札を小銭に替えたいこともあって、近くの文学館内の書店に立ち寄り、アライダ・アスマンの記憶と歴史の関係を扱った一冊を買い求めた。いつもどおり地下鉄2番線に乗り換えてポツダム広場へ行こうとしたが、途中が工事中で、いったん12番線に乗り換えることに。いつもの倍の時間がかかった。
 新国立美術館をのぞいてみると、ドイツ語で»Moderne Zeiten«というテーマの特別展示があり、面白そうな印象を受けたので、見ることにする。どうやら、ベルリンでのチャップリン全作品の上映とも関連した収蔵作品展のようで、実際会場のなかで『モダン・タイムス』、すなわち»Moderne Zeiten«の一部も上映されていた。20世紀前半の絵画と同時代(Moderne Zeiten)との関わりに光を当てた展示で、都市、技術文明、貧困などの社会問題、戦争などと絵画の関わりを、テーマごとに探るもので、展示そのものは非常に興味深く、この時代のとくにドイツの絵画が、いかに同時代の動きに鋭く感応していたかが、ひしひしと伝わってくる。なかでも印象的だったのは、やはり「ポツダム広場」をはじめとするキルヒナーの作品。今回は、水浴に訪れた避暑地で、裸体の女性を自然の風景のなかに溶け込ませ、その身体性を自然の生命の力強さと一体化させている絵画が心に残った。同様のテーマでは、ブリュッケの一員だったミュラーの作品も、キルヒナーとは違った繊細さを示していて美しい。戦争や大戦間期の社会問題に踏み込んだものとしては、やはりディクスの作品が凄い。きわめて伝統的な手法が、戦争の無残さを、人間の醜さを、これでもかと抉り出している。他にクレーの美しい作品がいくつかあった。それもまた技術文明の発展に感応しながら夢想された世界を繰り広げるものだった。
 美術館を出た後、地下鉄は時間がかかるので、フィルハーモニーの裏からバスを乗り継いでホテルへ戻り、ひと休みした後、シラー劇場を間借り中の国立歌劇場へ向かう。ザヴィニー広場の駅をくぐって北上すれば、歩いて10分強で行ける距離である。そこで細川俊夫さんの新作のオペラ『松風』の公演を見たわけだが、これは能の名曲「松風」をオペラへ翻案したものである。ベルリン国立歌劇場で行なわれたそのベルリン初演の今日は中日だった。
 「松風」のような夢幻能において表現されるのは、過去が浸透した時間とひとまず言えようが、そのような時間が、今回の公演では緊張感に満ちた音楽と多彩な身体表現をもって説得的に表現されていた。とりわけ、死者と生者が共存する時間が自然の風景のなかにあることが強調されていたことが、『松風』の世界を豊かにしていたように思われる。なお本作品は、5月初旬にブリュッセルのモネ劇場で世界初演された後、すでにワルシャワとルクセンブルクで上演されている。とくに今回の公演では、一人のダンサーが、無数の黒い糸によって織りなされた網のような壁を少しずつ手前に引いてくることによって、夜の帳が降り、死者の魂が現われる世界が開けるのが表現されていた。深沈とした音楽に乗って、夜闇がだんだんと迫ってくる。そしてその奥からは、謡曲でも歌われるとおり、満月が顔をのぞかせている情景は、今回の演出において最も魅力的であった。また、その網のような壁を伝って降りてくる松風と村雨の姉妹の魂の二重唱は、『松風』の音楽の白眉だったように思われる。
 微かに響き始める波打ち際の水音で始まり、地謡のような合唱が、朝日を湛えた村雨の露の残る松のあいだを潮風が吹き抜ける風景を静かに歌うなか、息の音で表現される風の音が徐々に静まって幕切れを迎える『松風』は、どこか前作のオラトリオ「星のない夜」を思わせる。こちらの作品は、けっして美しいだけではない、どこかおぞましくさえある季節の廻りが予感させる、いつまでも続くかのように思われる、忘れっぽい人間の暴力の歴史の連続のなかで起きた、1945年の二つの凄惨な出来事、すなわちドレスデンの空襲と広島への原子爆弾の投下を想起するとともに、これらの犠牲者の魂の救済を祈る場がやはり自然の風景のなかにあることを暗示するものであったとするならば、新しいオペラ『松風』は、祈りの場が自然のなかにあるのはなぜかを示すものと言えよう。須磨の浦のような自然の風景のなかに、その振動に生者の身体が共振するなかに、死者の魂は回帰してくる。そのとき、その魂は現世への断ちがたい思いを抱いているのだ。立ち止まって、風のそよぎに耳を澄ますとき、そうした魂の奥底からの叫びが聞こえるかもしれない。須磨を訪れた僧のように静かに佇むこと、そうして自然と自分の身体が触れ合うばかりか、両者が相互に浸透し合っているのを感じ取るとき、自分のなかに死者の魂がふと姿を現わすのかもしれない。そして、3月11日の後の今こそ、そのような経験をつうじて、死者の声が聴き届けられなければならないのではないだろうか(本公演について詳しくは以下を参照されたい:http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Matsukaze_Berliner_Staatsoper_16072011.htm)。そうした思いを抱きながら、夜遅くホテルへ戻った。

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「9・11」に寄せられた二つの作品

 あの「9・11」のような夢を見た。勤め先の建物に飛行機が突っ込んだらしく、天井や壁が崩れ出したので、慌てて部屋の外に出て避難しようとしたところ、今度は逃げようとしている方向に正面からジャンボ機が突っ込んできたという夢。その後どうやって逃げたのかは憶えていないが、ややあって瓦礫の上に立ちつくしているところは何となく憶えている。どうやら夢のなかでは生き残ったらしい。
 それにしてもどうしてこんな夢を見たのだろう。5年前の今日からニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込む映像を何度となく見たのが、トラウマのように残っているのだろうか。あの「9・11」からちょうど5年になろうとするときにあまりにもよく似た夢を見るというのは、薄気味悪い感じもしなくはない。ともあれ今日でその事件からちょうど5年。ニューヨークでは、犠牲者のための盛大な追悼式典が催されるようだし、日本の民放でも、この日に合わせて、事件当日を検証し、かつ再現しようとする特集番組が組まれているようだ。映画の世界でも、事件から5周年を迎えるのを機会に、新たな視点から「9・11」と向きあおうとする作品が制作されているようで、先日その一つ「ユナイテッド93」を広島市内の映画館で見た。
 ポール・グリーングラス監督の作品「ユナイテッド93」は、2001年9月11日にハイジャックされた4機の旅客機のうちただ1機目標に到達しなかったユナイテッド93便が、ペンシルヴェニア州シャンクスヴィルに墜落するまでのあいだに、どのようにハイジャックされ、また操縦桿を奪還するために乗客たちがどのように闘ったのかを可能なかぎり緻密に描き出そうとしている。そのために無名の俳優、さらには現役の管制官として働いている人びとを相当な数で動員しているが、そのことは映画の迫真性を高めるのにかなりの効果を上げていたように思われる。また、前半の日常的な機上の風景の淡々とした描写と、後半の機内電話で愛する人に最後のメッセージを送ろうとする絶望的な光景の緊迫感に満ちた描写とのコントラストは、このハイジャック事件によっていったい何が奪われたのかを見る者にまざまざと突きつけてやまない。そして、航空管理当局に人が足りず、また大統領の不在のために空軍の対応も後手後手に回るさまを描いているあたりは、事件に対するホワイトハウスの無為無策を告発する狙いもあるのだろう。こうも悪条件が重なっているのを見せつけられると、「9・11」は、起こるべくして起こった、あるいはもしかして仕組まれていたのでは、とさえ思われてくる。
 全体として、だんだんと緊張感を高めながら緻密な再現を積み重ねてゆくグリーングラス監督の映画づくりの上手さが光る作品である。最後のあたりなど、飛行機が上下に激しく揺れるのと相まって、胃が捩れるかのような感覚をおぼえた。ただし、気になったのは、ハイジャック犯と闘った乗客があまりにも英雄的に描かれてしまっていることと、それに対してイスラム教徒のハイジャック犯の描き方は、あまりにも型にはまってしまっていること。4人のハイジャック犯のひとりひとりがそれぞれどのようなバックグラウンドをもっているのか、なぜ自分の命を犠牲にすることになるハイジャックの実行犯の一人になることを決意したのかをもう少し詳しく描いたなら、事件がなぜ起きたのか、という重い問いにも取り組むことができたはずである。冒頭のコーランを読むシーンは少しクリシェが過ぎる感じがした。
 さて、書かれたのはすでに一昨年のことであるが、リービ英雄の小説「千々にくだけて」(『千々にくだけて』講談社)は、「ユナイテッド93」とはある意味で正反対に、アメリカの外で「9・11」に遭遇し、それに翻弄される経験を描くことによって、「9・11」に向きあおうとする作品である。日本に定住しているリービ英雄自身と思われるエドワードという主人公が、ワシントンに住む母とニューヨークに住む妹に会うために、バンクーバー経由でアメリカへ入ろうとするが、「9・11」の事件が起きたために、バンクーバーで足止めされ、結局母親にも妹にも会えないまま日本へ戻ることになる。その数日間の経験が私小説風に実に淡々と描かれるわけだが、その描写に「島々や千々にくだけて夏の海」と松尾芭蕉が松島の海を歌った句の解釈のヴァリエーションが入り込んでくるのである。「千々にくだけて」いるのは、まずバンクーバー付近の多島海的な風景であり、世界貿易センタービルの建物であり、その崩壊とともに破れ散って、主人公の妹のアパートメントにまで飛んできたビジネスの書類であり、そして「9・11」以後の世界であろう。あるいは主人公をはじめとする人びとの心も「千々にくだけて」しまったのかもしれない。
 とりわけ惹かれたのが、テレビを通して聴こえてくる言葉をつぶさにとらえることによって、世界がこれからどのように分裂していくのかを、あるいはすでにどのような裂け目が世界のうちにあったのかを照らし出しているあたり。リービ英雄の言葉に対する鋭敏な感性が、「9・11」とそれに続く「対テロ戦争」の背景にあるものを、とりわけそこに潜む他者に対するまなざし、そしてそこに込められた憎悪をはじめとする情念を鋭く照らし出している。それ以外の描写が淡々としているだけに、その鋭さが際立つ感じがした。もし「千々にくだけて」しまった世界を、もう一度、そしてこれまでとは別の仕方でつなぎ合わせようと思うのならば、他者たちの、あるいは自分自身の他者へのまなざしを見つめ返しうるような、言葉の聴力を高めるところから始めなければならないのかもしれない。そんな感慨を抱かせる小説だった。

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「ガーダ──パレスチナの詩」

 古居みずえ監督のドキュメンタリー「ガーダ──パレスチナの詩」を見る。上映会場となった原爆記念資料館の会議室は150人ほどのキャパシティだったが、中国新聞に監督を紹介する記事が出たためだろうか、雨天だったにもかかわらず、立ち見客が出るほどの盛況であった。
 作品は、ガーダというガザ在住の女性が、学問によって啓蒙された女性として、伝統的な慣習や女性の役割を押しつけられるのに反発しながらも、結婚し、子どもを産むなかで、苦難を生き抜き、抵抗を続けるパレスチナの女性としてのアイデンティティに目覚め、1948年以来のイスラエルの占領支配に苦しみながらも生活を守り続ける女性たちの記憶を一つの歴史として語り継ごうと決意し、ガザ周辺に住む老女たちを訪ねて回るさまを追っている。パレスチナの女性たちの日常の息づかいを、それを取り巻く空気とともに細やかに伝えるとともに、それ自体がイスラエルの圧政に対する抵抗となるような日常生活の力強さをも暖かく浮かびあがらせる映像が胸を打つ。
 古居みずえは、12年間にわたってガーダを追い続け、パレスチナの人びとの生活に密着しながら、500時間におよぶ映像を撮り貯めたという。そのなかから選りすぐられた2時間足らずの映像は、パレスチナの女性たちの息づかいのなかから、男性的視点からはなかなかとらえることのできないもう一つの抵抗の姿を浮かびあがらせている。家屋や農地を壊されてもそこで生活を守ることが、イスラエルの暴力に対する抵抗なのである。
 このドキュメンタリーが描き出しているのは、パレスチナの人びとの生活が歌に満ちていることである。結婚の祝宴のような場で人びとが歌い、そして踊るのはもちろんだが、けっしてそうしたハレの場だけに音楽があるわけではない。女性たちは、歌いながら生活を守っていると言ってもよいくらいだ。銃弾が飛び交うなか、女性たちは歌いながら菓子を作り、子どもをあやす。そして手を動かしつつ歌うなかに、かつての記憶が甦ってくる。そのように呼び覚まされてくる記憶をこそ、ガーダは聴き取り、語り継ごうとするのである。
 最も印象的だったのは、ガーダの義理の祖母が鎌を動かしながら、麦刈りの歌と思われる哀愁を帯びた歌を歌うシーン。刈り入れを真似ながら歌ううちに、イスラエルの侵攻によって故郷を追われた記憶が甦ってきて、彼女は涙にくれる。そのように、歌が時に涙とともに呼び起こす記憶を継ぎ合わせ、パレスチナの女性たちひとりひとりの身体的な生に根ざした記憶を描き出すこと、それはイスラエルのシオニズムのイデオロギーを形成する、ひと続きの国民的アイデンティティの物語とは異なったもう一つの歴史を提示することであろう。そして、このもう一つの歴史を書くことが、パレスチナの女性としてのガーダの抵抗なのである。
 ガーダがこのような抵抗に目覚めたのは、第二次インティファーダにおける幼い甥の死がきっかけだった。他の子どもたちと投石による抵抗に加わっていた甥は、イスラエル兵によって後ろから撃たれたのである。イスラエルの兵士は、逃げてゆく子どもの後頭部に銃弾を撃ち込んだのだ。映像は、そのような理不尽なイスラエルの暴力とそれに対するパレスチナの人びとの悲しみも描き出している。壊された家屋となぎ倒された果樹。その上に広がる青く澄み渡った空。古居みずえの「ガーダ」は、両者の落差のなかで悲しみを背負いながら、また歌うことで悲しみを他者と分かちあいながら生き抜く女性たちの息づかいを届けながら、もう一つの歴史の希望を感じさせる作品と言えよう。そこにあるのは、広島にいるわたしたちの抵抗としての歴史の希望なのかもしれない。
 パレスチナの女性たちの姿を暖かく、また細やかに描き出す「ガーダ──パレスチナの詩」の広島での上映が、この一回限りで終わってしまうのは実にもったいない。女性をはじめ、もっともっと多くの人びとに見てもらいたい作品である。広島市内の映画館で、一週間でもよいから上映する可能性はないものだろうか。

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「ルート181」

 6月11日、パレスチナ人ミシェル・クレイフィとイスラエル人エイアル・シヴァンという二人の映像作家が監督した作品「ルート181──パレスチナ−イスラエル・旅の断章」を見る。上映会場となった広島市内の映画館(横川シネマ)には、椅子が足りなくなるほどの人が詰めかけていた。上映会を主催したグループのメンバーから聞いたところでは、200名近い入場者があったとのこと。あまり広く共有されているとは思えないパレスチナの状況を扱った映画にこれほどの人が集まるとは正直予想できなかった。広島の人びとの外へ向かう問題意識もまだまだ捨てたものではないということだろうか。ともかくこの上映会が、パレスチナの状況と問題がこれまで以上に広く共有される機会となったことは率直に喜びたい。
 映画「ルート181」のタイトルは、1947年の「国連決議181号」にもとづいている。その決議はパレスチナの分割線を定めるもので、この分割線が後にアラブ国家とユダヤ国家の境界線になることもうたっていた。しかし、1948年のイスラエル独立とそれに続く中東戦争の結果、この決議は反故にされてしまう。それが定めた境界線は、幻のものになってしまったのである。映画「ルート181」は、クレイフィとシヴァンの二人がこの幻の境界線を「ルート181」と名づけ、それをたどった旅の記録であるが、その映像はパレスチナの地から複数の声を届けながら、日本の現在の問題を鋭く照らし出している。
 「ルート181」上の土地は、イスラエルによって征服されている。かつてあったパレスチナ・アラブ人の集落は跡形もなく一掃され、そこにヘブライ語の地名が覆い被せられているのだ。あたかもアラブ人たちの生の記憶を消し去ろうとするかのように。そして、そこに住むユダヤ人たちは、自分がそこに他者を排除しながら生きていることを、二人の映像作家の前で正当化しようとする。神の約束や最初の開拓者たちの記憶を都合よく解釈することによって、そこがもともと自分の土地だったことを裏づける物語を捏造し、場合によってはそのために博物館のような施設まで建てたりするのである。その様子は、植民地支配をも利用して人びとを動員し、軍艦をはじめとする兵器を造り続けた軍需産業としての重工業産業の現在に至る存続を正当化しようとするかのように、いわゆる「ものつくり」の先達を礼賛しようとする博物館が建設されてしまう広島の状況とも二重写しになる。
 映画に登場するユダヤ人の多くは、そのようにひと続きの物語を作りあげることによって自分のアイデンティティと現在の生存を正当化する一方で、それがパレスチナのアラブ人の排除の上に成り立っていることを問いただされると、アラブ人への攻撃性を剥き出しにする。女性や子どもを含め箒で掃き出すように追放したことを、「弱い」アラブ人自身に責任があったことのように語る元軍人、アラブ人を「犬」や「癌」と呼んでその排除を正当化しようとする若い労働者。とりわけ新参の移民としてイスラエル社会のなかでも底辺に追いやられ、差別の対象ともなっている中東生まれのユダヤ人が、アラブ人への敵意を露わにすることによってイスラエル国民であることをことさらに自己主張しようとするさまは、日本でもいわゆる「勝ち組」になれるコースから外れてしまった人びとが、隣国の人びとへの敵意を剥き出しにしながら「国民」の虚像に必死でしがみつき、自分がマジョリティに属していることを何とかして確かめようとする様子にも重なってくる。そして、イスラエルにおいては、このように自分のアイデンティティの不確かさを他者に対する攻撃性によって埋め合わせようとする人びとが、やがて兵士となってパレスチナ人への直接的な暴力に手を染めることになるのだ。それによって、かつてユダヤ人がホロコーストのなかで被った暴力が、皮肉なことに今度はパレスチナ人へ向けて繰り返されることになるのである。
 そのことが実は、第一次中東戦争におけるイスラエルのパレスチナ・アラブ人居住地域の征服と占領以来、不断に繰り返されていたことも、映画は証言している。たとえばロッドと現在呼ばれているパレスチナ中部の街には、1948年当時にパレスチナ人を閉じ込める地区が造られていて、その地区はこともあろうに「ゲットー」と呼ばれていたという。ユダヤ人を閉じ込めていたゲットーが、ユダヤ人の手によって、パレスチナ人を閉じ込めるものとして再び造り出されたのだ。しかもロッドの「ゲットー」では、300人におよぶパレスチナ人がモスクに集められ、イスラエル人によって虐殺されたのである。それを目撃し、さらにはナチス・ドイツの絶滅収容所でユダヤ人特務班が同胞の遺体の処理を強いられたのとまったく同じように隣人たちの遺体の処理をさせられたのを証言する年老いたアラブ人の床屋が登場するシーンは、明らかにクロード・ランズマンの映画「ショアー」のなかの、絶滅収容所の生き残りアブラハム・ボンバが、床屋として髪を切りながら、ガス室に送られる直前のユダヤ人女性たちの髪を切らされたことを証言するシーンを思い起こさせようとするものであろう。クレイフィとシヴァンは、ボンバが経験したのと規模こそ異なれ、他者を絶滅させようとする点では同じ暴力が、ユダヤ人によって、それもホロコーストのわずか数年後に繰り返され、今も繰り返され続けていることを突きつけているのだ。カメラが映す、近隣アラブ諸国へのアラブ人の「移送」──それはユダヤ人の収容所への「移送」というかたちで用いられていた語だ──を訴える政治的スローガンもまた、戦慄を催すものだった。
 このように反復される暴力の中心的な担い手となっているのは当然ながらイスラエル国防軍の兵士たちであるが、そのなかの若い、哲学を学んでいてカフカを愛読するという一人に、監督たちは問いかける。「悪の陳腐さ」を知っているか。収容所への「移送」を取り仕切る責任者だったナチス・ドイツの高官アドルフ・アイヒマンの裁判を論じたハンナ・アーレントのルポルタージュの副題である。アーレントはそこで、組織の歯車として動くだけの凡庸な人間のルーティン・ワークこそが巨悪を担いうることを暴き出し、映画「ルート181」の監督の一人であるシヴァンは、アイヒマンがその凡庸さを露呈させる裁判の映像を映画「スペシャリスト」(1999年)のかたちで、「オフィスの犯罪」が横行する現代に突きつけたのだった。そしてシヴァンとクレイフィは、「悪の陳腐さ」というアーレントの言葉を引用することによって、イスラエル軍の若い兵士に、自分が上官の命令にしたがって仕事としてやっていることが、パレスチナ人に対する巨大な、圧倒的な、またパレスチナ人ひとりひとりの人格を否定するような暴力の一端を担うことであることにどれほど自覚的なのか、自覚的でないとすればお前はもう一人のアイヒマンではないのか、と問いかけているのである。その問いは日本の状況を問いただすものでもあろう。もしかすると「愛国心」や「国民の義務」が声高に語られるようになるなかで、日本では従順なアイヒマンたちが生産されてゆく機構が作り出されようとしているのではないだろうか。
 映画「ルート181」は、そのように「ユダヤ国家」の存立がパレスチナ人の排除と抑圧を構造化することを基盤にしていることを暴き出してゆくが、それはけっして一枚岩の悪としてのイスラエル像を呈示するひと続きの物語に解消されるものではない。まず、「ルート181」をたどる旅は絶えず寸断される。行程は鉄条網を張り巡らした境界や建設されつつある分離壁によって遮られ、道行く人との対話は戦闘機の爆音によって遮られるのだ。そして寸断された「旅の断章」から響いてくるのは、単一の声ではなく、複数の声なのである。イスラエル人のなかにもパレスチナ人との共存を望む人はいるし、とくに最後近くに登場するチュニジアから来たというユダヤ人女性は、人が毎日殺されてゆくのを聞いてはけっして自分の生活の安寧を享受できないと嘆いてもいる。他者の排除と抑圧の上に成り立つ「安全」の危うさと欺瞞に気づいている人びともいるのだ。その声は、「テロ対策」や「治安」などの名のもとに他者への暴力が恒常化し、遍在化しつつある状況のなかで見せかけの「平和」を享受する生活を問いただしてもいる。「ルート181」は、「非常事態」が常態化しつつある世界の状況をパレスチナから照らし出し、そのような世界に生きること自体を問う声をも響かせているのかもしれない。
 一見遠く思われるパレスチナから今ここを照らし出し、そこにある問題を抉り出すドキュメンタリー映画「ルート181」。その広島での上映は、できることなら今回の一回だけで終わらせたくはない。もっと多くの人びと、とりわけ若い人びとと、それが響かせる複数の声を共有したいものである。

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「ホテル・ルワンダ」

 1994年、「フツ族」による「ツチ族」のジェノサイドの嵐が吹き荒れるルワンダの首都キガリで、一人のホテル支配人が、1200人を超える「ツチ族」避難民を自分が経営するホテルに匿い、守り通す。昨日広島市内の映画館で見たテリー・ジョージ監督の映画「ホテル・ルワンダ」は、そのドラマを描き出すばかりではない。その映画は、ヨーロッパの植民地主義的近代がつくり出した「人種」という観念の恐るべき虚しさ、さらには「人種主義」を清算しないままに、ルワンダが地政学的に重要でないことがわかれば、そこで人種主義的ジェノサイドの危険に曝されている人びとをあまりにも簡単に見捨ててしまう、欧米を中心とする国際社会の身勝手さといった重い問題も見る者に突きつけている。そしてそれらの問題は、まだ何ひとつ解決されていない。
 映画は、現在の多数派である「フツ族」側のラジオの不気味な声で始まる。問題の元凶を「ツチ族」に押しつけ、敵意を煽る声。それがやがて100万人とも言われる犠牲者を出すジェノサイドへ一般の「フツ族」市民を駆り立てるプロパガンダの中心となる。とはいえ、もともと「フツ族」と「ツチ族」のあいだに大きな相違があるわけではない。かつての植民者であるベルギー人が、外見上のわずかな、当人たちも判別しがたいほどの差異にもとづいて恣意的に設けた「フツ族」と「ツチ族」の「人種的」な区別が、どちらかへの帰属を記した身分証明書や、政治の主導権をめぐる対立のかたちで反復されているのである。実際、現地に乗り込んだジャーナリストには、両者はまったく区別できない。植民地支配を容易にするために植民者がつくり出した「フツ族」と「ツチ族」を区別するまったく恣意的な見方が、今度は人種主義的ジェノサイドの論理として反復されるのだ。
 さて、「フツ族」と「ツチ族」の和平協定を結んだ大統領が何者かによって暗殺された後、そのジャーナリストは、キガリの街で一般の「ツチ族」市民が、同じく一般の「フツ族」市民を次々と虐殺する場面に遭遇する。その映像をたまたま目のあたりにしてしまったミル・コリン・ホテルの支配人ポール・ルセサバギナは愕然とさせられると同時に、その映像が欧米の国々で流れることにわずかな期待を寄せるのだった。しかしジャーナリストは言った。欧米の人びとは、怖いねと言うだけで、ディナーを続ける。
 事態はその通りだった。自分たちを救いにやって来たと思われたフランスとベルギーの軍隊は、実際には、ルワンダで孤立してしまった外国人を安全に避難させるために来たのである。地政学と暗黙の差別によってルワンダの人びとを見捨てるために、植民者たちが再びやって来たのだ。その軍隊が去った後は、1200人以上の避難民が隠れるホテルが、ほとんど無援の状態で取り残されることになる。そこからポール・ルセサバギナの活躍が本格的に始まる。彼は勇気を狡知を駆使して、つまりはあらゆる虚言と賄賂を使って、家族をはじめホテルに隠れる人びとを、命がけで守り通すのだ。
 そのさまはたしかに、ナチス・ドイツのジェノサイドから数多くのユダヤ人を守ったオスカー・シンドラーを思わせる。この映画が「ルワンダ版『シンドラーのリスト』」と呼ばれるゆえんである。そして、避難民を懸命に守る姿の描き方に、「シンドラーのリスト」と同種の一抹の美化がないわけではない。しかし、見る者が何よりも慎まなければならないのは、ポール・ルセサバギナの生き方を、「愛」といった耳当たりのよい言葉で包んで涙することであろう。むしろ、彼にそうした生き方をさせた背景にある問題を自分に突きつけられた問題として受けとめながら、その生き方の一端に自分自身の可能性を見て取るべきではないだろうか。
 映画の終わり近く、ポール・ルセサバギナは、自分の姪たちを難民キャンプで見つけ出してくれた赤十字職員に対してこう言う。わたしたちのホテルはいつでも開いています。その台詞は、かつて植民地主義を押し進めた欧米諸国と日本の政府の高官や、そこで表向き安寧に生きている者こそが言うべき台詞のようにも思われるのだ。
 ところで、ひと言だけ映画のつくりについて付け加えると、難民キャンプからタンザニアへ向かう、ポール・ルセサバギナとその家族を乗せたバスが遭遇するツチ族反乱軍の描き方には、これもどこか美化が入っているようで少し引っかかった。
 ちなみに映画「ホテル・ルワンダ」は、日本の映画配給会社の買い手がつかず、日本での公開が危ぶまれていたという。その現状を危惧した人びとが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」を立ち上げ、懸命な署名活動の結果、公開にこぎ着けたとか。今は「『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会」と名称を改めたその会の活動に感謝すると同時に、日本の映画配給会社が一つも名乗りをあげなかったことには暗澹とさせられざるをえない。
 「ホテル・ルワンダ」は、過去のドラマを感動的に描く映画ではない。それはむしろ現在の問題を突きつける映画である。それを考えるために、見なければならない。

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「白バラの祈り」

 マルク・ローテムント監督の映画「白バラの祈り──ゾフィー・ショル、最期の日々」を見る。昨年のベルリン映画祭で銀熊賞に輝いたドイツ映画である。反ナチ抵抗組織「白バラ」の紅一点だったゾフィー・ショルが、無益な戦争を続けるナチス政権の打倒を呼びかけるビラを撒いたのが発覚して逮捕されてから処刑されるまでの5日間のあいだに何を思い、またナチズムで凝り固まった大人たちに何を語りかけたのかを、新しい史料にもとづいて再構成し、力強くかつ細やかに描き出した見ごたえのある作品と言えよう。
 1943年2月18日、当時ミュンヘン大学の学生だった21歳のゾフィー・ショルは、兄のハンスとともに仲間と印刷したビラを大学構内で撒いたところをゲシュタポに捕らえられ、そのたった5日後には人民裁判で反逆罪による死刑の判決が下され、その日のうちに断頭台の露と消えている。逮捕から処刑に至る異常な早さは、当時の政権中枢がナチスの生誕の地であるミュンヘンに若者の抵抗運動が広がることをいかに恐れていたかを如実に物語っているが、その間の事情は長いこと闇に閉ざされていた。1990年代になってようやくかつての東ドイツにあったゲシュタポの捜査と尋問の記録が発見され、ゾフィー・ショルが最期の5日間に何を語ったのかを知り、またそもそも彼女がどのような女性であったのかをうかがい知ることができるようになったのである。
 ローテムント監督の映画「白バラの祈り」は、こうした経緯にもとづいて制作されたものである。この映画も、史料にもとづいて現代史を描く他のドイツ映画同様に手堅い作風を示しているが、この監督が登場人物に向けるまなざしはドイツ現代史を扱う他の監督よりも繊細であるように思われる。たとえば「ヒトラー最期の12日間」のように、人物像がどこかわかりやすく単純化されてしまうことはないのだ。とりわけゾフィー・ショルの多感さと心の揺れ動きを史料から再構成し、彼女の「若さ」として浮かびあがらせることに見事に成功している。そして、最終的に大人たちの前で堂々と自由を主張するに至る彼女の「若さ」を演じきったユリア・イェンチの演技にも、心からの称賛を送りたい。
 ゾフィー・ショルは映画の冒頭では、音楽を愛する若い女性として登場している。お気に入りはビリー・ホリデイの歌とシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」。とりわけシューベルトのイ長調の音楽から、彼女は自然の生命の躍動を聴き取り、命が輝き出る春の到来を予感している。彼女は生きることを心から愛していたのだ。そして彼女は生きることを真摯に愛した。だからこそ、ナチズムの恐怖に覆われた状況のなかで自分がいかに生きうるのかという問題に正面から向きあい、自由を切り開くことに身を捧げることを決断できたのではないか。ナチスが「生きるに値しない」と断じた生命もかけがえのないものと愛する彼女にとって、自由は自分だけのものではなかったと思われる。さらにそのような彼女の生命への愛は、一人のプロテスタントとしての信仰とも結びついている。独房の小さな窓から注いでくるドイツの冬には珍しい明るい日差しのなかに彼女は神の姿を求め、自分がまだ生きていることを感謝しながら、押し寄せる不安に打ち勝つ心の強さを願うのである。
 自由に身を捧げることを選んだとはいえ、ゾフィー・ショルは強靱な心を貫いたわけではない。尋問官に対しては当初、ふざけてばらまいてみただけだと、ビラを撒く政治的な意図を否認しているし、即日処刑されることがわかったときには、絶望のあまり叫ぶことしかできないのである。そのような彼女が、自由とは何か、また自由であるために今どうすることが必要かを考え、公の場でその考えを貫くことができたことに、「安全」といったものの名のもとで自由が閉ざされつつある時代のわずかな希望を見たい。人間を虚構のアイデンティティのうちに閉じ込める「品格」だの「武士道」だのではけっしてなく、ゾフィー・ショルの「若さ」をこそ、今自分自身のうちに見いださなければならないはずだ。そのためにも彼女を見なければならない。広島のサロンシネマで「白バラの祈り」が上映されるのは4月28日までである。

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「ヌヴェール」という地名の符合

 必要があってヴァルター・ベンヤミンの生涯の足跡を調べていたら、「ヌヴェール」という地名にぶつかった。
 1939年、友人たちの度重なる忠告や脱出の誘いがあったにもかかわらず、亡命先のパリにとどまって国立図書館に通い、『パサージュ論』のための仕事を続けていたベンヤミンは、9月に第二次世界大戦が始まると、「敵性外国人」として、フランス政府当局によってまずパリ郊外のコロンブ競輪場に造られた収容所に入れられ、10日後にはさらに「志願労働者キャンプ」という名前のついたニエーヴル県ヌヴェールの収容所に移されている。
 彼は、フランス人の友人たちが力をつくしてくれたおかげで2か月後には解放されるが、それまでの期間彼はヌヴェールの収容所の劣悪な環境のなかで、シガレット三本を報酬とする野外哲学講座を開いたりして過ごしていた。あるいは、外出許可の腕章を得るために、「最高水準の」文芸雑誌の刊行を企てたりもした。これによってベンヤミンは三度目の雑誌の挫折を味わうことになるのだけれども。
 ジャック・デリダが2002年のアドルノ賞受賞記念講演『フィシュ』(逸見龍生訳、白水社)で取り上げることになる、「詩を《fichu》に変えることが問題なのだ」というひと言を含んだグレーテル・アドルノ(アドルノ夫人)宛の手紙をベンヤミンが書くのも、このヌヴェールの収容所でのことである。ともかくヌヴェールでの2か月間は、亡命生活の苦しさによってすでにかなり衰弱していたベンヤミンの身体に深刻なダメージを与えた。そのことを自覚してか、パリに戻ったベンヤミンは、思想的遺言とも言うべき「歴史の概念について」(「歴史哲学テーゼ」)を書き下ろすのである。
 そうしたベンヤミンの生きざまをたどりながら、「ヌヴェール」という地名に既視感をおぼえていた。どこかで聞いたことがあるのだけれども、何の機会だったか。
 しばらくしてふと思い出した。あの女性の出身地ではないか。
 その女性というのは、アラン・レネ監督の映画「ヒロシマ、モナムール」(邦題:「二十四時間の情事」、1959年)の主人公の一人のこと。マルグリット・デュラスの脚本によるこの映画で、日本人の建築家と8月6日の広島での24時間をともに過ごすフランス人の女優が、自分の生まれ育った街として「ヌヴェール」という地名を挙げているのである。
 生まれはフランスのどこか、という問いの答えとしてこの地名を耳にした岡田英次演じる建築家は、「ヌヴェール」の響きがすっかり気に入ってしまい、「ヌヴェール」と何度も繰り返す。すると、それに触発されるように、エマニュエル・リヴァ演じる女優は、ヌヴェールの辛い記憶を思い起こし、それを振り絞るように少しずつ語り始めるのである。その女優は、まだ少女だった第二次世界大戦中に、ヌヴェールに占領軍として駐留していたナチス・ドイツの兵士と恋に落ちてしまった。そして、戦争終結とともにフランスが解放されると、その罪の見せしめに、同胞の女性たちによって髪を切り落とされてしまうのだ。ベンヤミンが収容所に監禁された数年後のことである。
 ちなみに「ヒロシマ、モナムール」を見たのは昨年の11月のことだったが、映画館へ向かう際に路面電車に乗った。その電車は、見るからに年季の入った一台だったが、車内をよく見ると1945年8月6日に被爆した電車とのこと。これも何かとの符合だろうかと、その時はいろいろ思いをめぐらせてしまった。新聞によると、この「被爆電車」もまもなく現役を引退するようだ。歴史の「動く」痕跡が、街から姿を消してゆくわけである。そのことが記憶の退化と符合するものでなければよいのだけれども。

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エレニの叫びと音楽というユートピア

 先日、広島市内の映画館でテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』が再上映されていたのを見に行った。アンゲロプロスの作品らしく、息の長いショットで映像美をじっくりと味わわせてくれる映画であることをあらためて実感させられるが、その映画がゆったりとしたテンポで語りかけてくるのは、20世紀のギリシアの苦難の歴史を一身に背負っているかのような女性エレニの痛ましい生涯である。オデッサから逆難民として帰還したギリシア人のリーダー格だったスピロスの葬列の筏舟の一団が、薄暗く曇ったなかを静かに川を下ってゆくとりわけ美しいシーンには、切々と苦難の歴史を物語るこの映画の時空間が凝縮されていたのかもしれない。
 みなしごとなってオデッサから帰還したエレニの生涯を描くこの映画は、国家への反逆者を匿った疑いで監獄を転々とするあいだに、まず内縁の夫を沖縄戦で失った──エレニの幼なじみで、後に恋人となるアレクシスは、音楽家として羽ばたくチャンスをアメリカに求めた後、家族を呼び寄せるために米軍の移民部隊に加わっていたのだった──うえに、第二次世界大戦後の内戦で双子の息子まで亡くしてしまった彼女の慟哭によって締めくくられる。最後の子どもの遺骸を見つけた生涯の難民エレニは、もはや愛する者が一人もいなくなってしまったことを思い知り、見る者を突き刺すような叫び声を上げて泣くのだ。
 そのようなエレニの慟哭のシーンは、一面で『否定弁証法』におけるアドルノの言葉を思い出させるものである。「永遠に続く苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を表現する権利を持っている」(三島憲一訳)。エレニはまだ泣き叫ぶことができるし、永遠に続くかのような苦悩を背負った彼女には、そうする当然の権利があると思われる。それに、彼女の慟哭は、映画を見る者の胸に、彼女が生きた証を刻み込むことだろう。しかし、他面でエレニはもう泣き叫ぶことしかできないのかもしれない。叫びにしかならない彼女の思いを受けとめることができるのだろうか。そうして、どこかしら彼女と同じ苦難を味わった難民たちの生の歴史に思いを馳せることができるだろうか。映画館を出た後で、エレニの叫び声がどこか別の場所で反響しているのに耳を澄ませなければならないのかもしれない。
 ところで、エレニの涙をたたえているかのような雲に覆われた映画の空間のなかに、一つだけ心を和ませてくれる場所がある。テサロニキの難民居住区域「白布の丘」にある廃墟、通称「音楽の溜まり場」である。エレニとアレクシスがスピロスの手から逃れるのを手伝ったヴァイオリン弾きニコス──彼が後に反逆者として追われることになるのだ──は、アレクシスのアコーディオン演奏の才を認め、そこへ案内する。すると、仕事を待ってそこに集う音楽家たちが、アレクシスとエレニを音楽で歓待するのである。そのシーンは、廃墟のなかに一つの、現実の歴史からすれば文字どおりのユートピアを開くかのようだった。
 音楽は時としてユートピアを現出させることができる。そのような考えを抱かせるきっかけをもたらすものとして、ここでは1枚のDVDを挙げておきたい。それは、指揮者として、またピアニストとして、八面六臂の活躍を続けているダニエル・バレンボイムと、音楽への造詣も深かった思想家エドワード・サイードとが協働して創設した、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラのジュネーヴでのライヴ録音を収録したCD(Warner Classics 2564 62190-5)に付いてくるもので、そこにはジュネーヴでの演奏会の模様のほかに、ヴァイマールとセヴィリアでのワークショップとリハーサルの様子を記録したドキュメンタリーと、ユダヤ人バレンボイムとアラブ系の知識人サイードの対談とが収められている。
 ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラは、パレスチナ自治区を含むアラブ諸国とイスラエルの才能ある若い音楽家たちによって構成されている。現実の世界では、アラブ人とユダヤ人の関係は険悪な状態が続いている。パレスチナ=アラブ人の居住地域とユダヤ人入植地のあいだに建設が進んでいる「分離壁」は、何よりもそのことを象徴していよう。しかもイスラエルのシャロンが病に倒れ、パレスチナ自治評議会の選挙でハマスが勝利を収めて以降、両者の和解への道筋はますます見定めがたくなっている。そのような困難な状況を乗り越えて、アラブ人とユダヤ人の若い音楽家が一つのオーケストラを、弦楽器セクションにあっては同じプルトを形成し、同じ一つの音楽をつくりあげようとするのである。
 ワークショップとリハーサルをオーケストラの創設者たちの話も交えながら記録したドキュメンタリー「レッスンズ・イン・ハーモニー」には、イスラム世界への憧れをうたった『西東詩集(ウェスト=イースタン・ディヴァン)』の作者ゲーテゆかりのヴァイマールにおける最初のワークショップで、アラブ人とユダヤ人の音楽家がところどころでぶつかりあいながらも、一つの音楽へ向けてだんだんと心を一つにしてゆくさまが生き生きと映し出されている。オーケストラが奏でる音楽は、たしかにまだ粗削りではあるけれども、プロフェッショナルなオーケストラの演奏からなかなか聴くことのできない若々しい力に漲っている。対話をつうじて若い音楽家たちの心を一つにしてゆく、バレンボイムとサイードをはじめとする指導者たちの力量も特筆すべきであろう。
 争いが絶えず、エレニのような難民を日々生み出しているこの世界のなかに、音楽というユートピアを一瞬現出させるかのようなウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ。その活動が、日本でももっと知られるようになって、その支援者が増えれば、と思うと同時に、「平和文化都市」にして「オペラの街」であるここ広島で、現実の政治情勢のなかでは対立しあう国々や諸民族出身のアーティストたちで一つのオペラをつくりあげることができたら、とふと考えた。

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ユンカーマン監督と「日本国憲法」

 8月6日、被爆60年の日の平和祈念式典が行われた平和公園の川向かいにある中国新聞社へ、ジャン・ユンカーマン監督の映画「日本国憲法」を見に行く。見に来ている人の数は少ない。どういう宣伝の仕方をしたのか、と思うが、広島にいると、東京なら満員御礼になりそうなイベントがガラガラというケースは少なくない。もっともこれが、広島の人びとの憲法と映画への関心の低さをそのまま映し出すものだとすれば由々しき問題だろう。
 映画のなかには、鹿児島で一度その話を聴いたことのあるベアテ・シロタ−ゴードンのような憲法起草に関わった人びと、日高六郎のような憲法発布までのプロセスを見届けた日本人、ジョン・ダワーをはじめ日本の戦後を見つめてきたアメリカの知識人、さらには日本を見つめるアジアの知識人や活動家が出演していた。それぞれの視点から「日本国憲法」を語っていた彼/彼女たちが共通して指摘していたのは、「憲法改正」問題が──「靖国問題」と同様に──けっして日本国内の問題ではない、ということである。憲法第9条は、日本が明治期以来、とりわけ1931年以降1945年まで行なってきた戦争の過ちを認め、もはやそのような戦争を行なう国家にならないことを、世界へ向けて、なかんずくアジアの国々へ向けて宣誓するものだった。それを変えることは、対外的にどのようなことを意味するのか。映画に出演していた人びとの多くが、アジアの人びとの不安をかき立て、アジア地域の緊張を高め、平和を壊す危険を指摘していた。
 さて、ある意味で映画以上に印象的だったのが、上映に引き続いて行なわれたユンカーマン監督の講演だった。彼が「チョムスキー9・11」や「日本国憲法」のようなドキュメンタリーを撮り始めることの出発点にあるのは、ベトナム戦争、とりわけそれに対する反戦運動にコミットした経験であるという。彼はそのことを引き合いに出しながら、「戦争が終わると忘却が始まる」という言葉を引いて、アメリカが30年後にベトナム戦争と同じ過ちをイラクで繰り返していることを批判していたが、その言葉は9条の精神を捨て去ろうとしているわたしたちに向けられたものとして受けとめられなければなるまい。
 さらにユンカーマン監督は、「原爆の図」を描いた丸木位里のことを取材した映画「業火」のことも語ってくれた。丸木は地獄を描いた絵のなかに、ヒトラーや日本の戦時中の権力者ばかりでなく、自分自身も描き込んでいた。それはなぜかと尋ねたユンカーマンに対し、丸木は、自分は戦争を止められなかったから、と答えたという。彼の一連の画業は、彼自身の政治的責任の深い自覚にももとづいていたのだ。そのような丸木の経験を、わたしたちは苦く噛みしめなければならない。歴史的な戦前と決別することなく「戦後」が「戦前」になった今を招き寄せた、自分自身の責任を正視しなければならないのだ。そして、あの9・11に衆議院議員と政権を選ぶわたしたちひとりひとりの政治的責任はきわめて重いと言わなければならない。

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