福岡アジア美術館の「アジアをつなぐ──境界を生きる女たち」展と大分での「青木涼子、ふるさとで舞う」

 朝早い新幹線に乗って福岡へ向かう。福岡へ行くのは久しぶりであるが、今回の目的は福岡アジア美術館で開催されている「アジアをつなぐ──境界を生きる女たち 1984–2012」展を見ること。アジアの女性アーティストによる美術作品を集めてその表現の現在を映し出すこの展覧会を、知り合いのアーティストが出品していることもあり、どうしても見てみたかったのである。
 因習に、それに拠りかかって自己保存を図る権力に身体の内奥から搦め捕られて、ある「女」であることを強いられている自分、それに自分自身で向き合うなかから生まれる表現、その率直かつ緻密な表現を、例えば中国の林天苗の「卵#3」に見ることができるかもしれない。作家自身と思われる人の身体から、無数の糸によって作られた無数の卵が、糸を引きながら吐き出されている。卵子を産むことがすでにして無数の糸に絡みつけられることでもあることを、執拗なまでに突き詰めることが、見事な構成に結実している。そのような表現の源にあるのは、「家」に、あるいは「女」であることに閉ざされることに対する身体的な次元での違和感と抵抗であろうが、その際に、閉ざされるなかで手を染めざるをえない「伝統的」な手仕事を逆手に取るしたたかとも言える行き方も示されているのは興味深い。韓国のイースギョンの「翻訳された壺」は、陶器を修復する伝統的な工法を習得することをつうじて、あらゆる規範を超えて自己増殖する身体を表現したものと言えよう。モンゴルのダグヴァサンブー・ウーリーンツヤの「わたしは凧」は、伝統的なモンゴルの絵画の技法を駆使しながら、男女が絡み合い、摑み合いもする地上を離れて飛翔することへの憧れを「わたし」が飛ばす「わたし」としての凧によって、非常に洗練されたかたちで表現している。
 アジアに生まれた女性として生きることの表現は、移り住んだ先で新しい生活を営むことにまつわる苦悩としても掘り下げられている。そのなかで非常に印象的だったのは、インド出身のザリナ・ハシミによる移民の寂寥を抽象的な表現に結晶させた作品。表現そのものが非常に魅力的だったのは、韓国のソン・ヒョンソクの水彩作品。何と静かでかつパトスを内に秘めた筆触だろうか。バングラデシュのニルーファル・チャマンの作品は、結ばれ、よじられる存在であることを、身体そのものの可塑性に力強く転化させていた。
 これら以外に印象的な作品もあったのだが、それ以上に印象的だったのはキュレーションの見事さ。テーマをしっかりと腑分けしながら掘り下げている。そして、カタログも、数多くのエッセイが収められているうえ、資料としても充実している。
 アジア美術館を出てから、地下鉄で天神へ移動し、高速バスで大分へ。九州道が鳥栖まで混んでいてやきもきさせられたが、何とか10分ほどの遅れで大分に到着。大分では、当地のiichiko総合文化センター内にある音の泉ホールで、「青木涼子、ふるさとで舞う──能とであう、20世紀の弦楽四重奏」と題した、アルディッティ弦楽四重奏団が能楽師の青木涼子と共演した演奏会を聴いた。少し驚かされたのが、アルディッティ弦楽四重奏団がヤナーチェクとラヴェルの古典的な作品を、非常に深い共感をもって演奏していたこと。先日聴いた現代の作品の鮮烈な表現も、このような古典的な作品への深い理解から生まれているのだ。ただし、けっして情緒に流れることなく、作品のテクスチュアを実に緻密かつ音楽的に浮き彫りにしていた。ラヴェルの弦楽四重奏曲にはもう少し広がりを求めたい気もしたが、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」では不穏な情動の蠢きが完璧に表現されていた。
 細川俊夫の「沈黙の花」では、大分出身の青木涼子の能舞が加わったが、その構成が非常によく練られていたのが非常に興味深い。彼女は、作品を二部構成と捉え、前半を人の姿で、後半を夢幻の世界の花の精の姿で静かに舞っていた。花を見るという人間的な行為が、花そのものに沈潜し、花の生命と共振するさまを目の当たりにするようで、その点、音楽の精神とも共鳴していた。この舞台のために新たにデザインされた衣裳も、華やかでありながら散る花の儚さも感じさせ、音楽に相応しい。
 このような花を見る魂の変容は、続くケージの作品の演奏とともに行なわれた献花への良い橋渡しにもなっていた。ここでも青木涼子が舞ったが、少し躍動感と合間に謡いも交えて、ケージが表現する四季との対話を試みていた。ケージの弦楽四重奏曲は、音を非常に切り詰めた、時に周囲に耳を澄ますような音楽なので、能舞の足を踏む音が入っても気にならないどころか、むしろケージが聴こうとしていた音の一つのようにすら聴こえる。慈照寺の花方である朱寶による生花は、大ぶりの竹を軸に、ススキやヒガンバナ、それに薔薇を配して、秋を凝縮した見事なもの。薔薇が入って華やかさを増しながら全体が締まるのが意外に面白かったが、朱寶によると薔薇そのものは中国に由来するとのことで、今回は中国産の落ち着いた色彩の花を使ったそうである。舞台を眺めていて、ケージのたゆたうような音楽から、舞いと花が湧き出てくるかのような印象を受けた。静かに満たされたような思いを抱きながら、大分を後にすることができた。

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Hiroshima Happy New Ear XIIを聴いて

 新しい音楽への耳を開く広島での現代音楽の演奏会シリーズHiroshima Happy New Earの第12回の演奏会には、現代の音楽そのものをリードしてきたと言っても過言ではないアルディッティ弦楽四重奏団が来演した。この弦楽四重奏団の演奏には、CD──ラッヘンマンの弦楽四重奏曲を集めたものは、あらためて凄いと思う──やラジオの放送などで親しんできたのだけれでも、生の演奏に接する機会はどういうわけかこれが初めてのこと。それゆえとても楽しみにしていたのだが、期待にたがわぬ素晴らしい演奏だった。以前にディオティマ弦楽四重奏団の演奏を聴いたときに、これは一つの事件だと人に語ったことがあったが、それを上回る衝撃を受けたと言ってよい。凄まじいまでの凝縮度をもった音の塊が、恐ろしいまでの解像度をもって迫ってくるのだ。
 とくに最後に演奏された、クセナキスのテトラスで聴いた音の凝縮されたエネルギーは、この四重奏団の緊密なアンサンブルによってしか表現されえないものだろう。アリストテレスに因んで言うならば、きわめて質料的な音の素材が、おのずから発展し、凄まじい生命力を発揮していた。同時にそれが緻密な論理にもとづいていることも感じないではいられない。ロゴスに裏打ちされた、ディオニュソス的な音の躍動をアルディッティ弦楽四重奏団は聴かせてくれた。
 とはいえ、今回この弦楽四重奏団の演奏に接して驚かされたのは、音の素材が激しく運動する楽節と、それがぴたりと止んで静まる楽節との対比である。とくに静けさの深さは恐ろしいほどだ。最初に聴いたリゲティの弦楽四重奏曲第2番の演奏で聴かせた静かな響きには、深淵に吸い込まれそうな思いがした。その静けさから湧き上がる音の運動は、リゲティが影響を受けたバルトークの作品以上に、飼い馴らされていない自然の蠢きを感じさせる。
 今回細川俊夫の作品が二曲演奏されたが、まず「沈黙の花」の演奏は、この作品が傑作であることを申し分なく伝える密度の濃い演奏だった。力強く打ち込まれた音が命の花を空間に開きながら、やがて消え去っていくさまが、驚くべき振幅をもって表現されるとともに、その線が擦れていく動きがきわめて緻密に表現されていた。垂直的に打ち込まれ、空間に線を描いていくのがだんだんと静まって消え去っていく、どこか命の儚さを感じさせる曲の推移には、マーラーの交響曲第9番の最終楽章を思い起こさせられる。
 日本初演となった細川の弦楽四重奏のための「書」は六つの短い曲から成るが、その演奏ではとくに最後の二つの曲における息の長い歌が印象的だった。書においては擦れや滲みをなすような動きが、歌う息遣いと深い感情の共鳴として響いていたように思う。なお、最後の曲は、細川のオペラ『班女』のなかの花子のアリアを素材にしているとのことである。
 この夜聴いたアルディッティ弦楽四重奏団の演奏は、曲のテクスチュアを緻密に読み取ることを、崇高なまでの強度をもった現代の音楽の表現と見事に結びつけたものであった。それを聴きながら、アドルノが、技術でもある芸術がそれ自身の論理を尽くした果てに自然との和解がありうることを、思い起こすとともに、そこに至るミメーシスが音楽においては、アルディッティ弦楽四重奏団がしたような優れた演奏をつうじてのみ実現されうるのかもしれないとも考えさせられた。その緻密な解釈と緊密なアンサンブルのなかから、音の運動が、歌う息のめぐらしが、おのずから立ち上ってくるのである。
 そのことと同時に、この夜聴いた鮮烈な表現に至る弦楽四重奏の伝統も感じないではいられなかった。リゲティの作品は明らかにバルトークの弦楽四重奏曲第4番を意識したものであろうし、クセナキスの作品も、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲の、断片的なモティーフを展開させる傾向なしには生まれなったのではないか。それに細川の「書」は全体として、例えばヴェーベルンが書いた弦楽四重奏のための楽章を思い起こさせる。アルディッティ四重奏団が、このような弦楽四重奏の伝統を背景に、弦楽四重奏と新しい音楽の可能性をどのように切り開いていくのか、これからも注視していきたい。

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3月に読んだ和書

 3月の前半は、翻訳や原稿執筆に非常に忙しく、ほとんど本を読むことができなかった。その合間を縫ってようやく読めたのが、ロドルフ・ガシェの『いまだない世界を求めて』(月曜社)。以前から気になっていた、デリダの薫陶を受けたこの哲学者による日本語版オリジナルの論文集である。翻訳と解説が素晴らしく、このようなかたちでガシェの思想が紹介されるのは喜ばしい。作品の独特の現実性ないし出来事性を語るものとしてハイデガーの「芸術作品の根源」を読み解いた論文と、他者への応答としての責任の概念から、哲学そのものを捉え直そうとする論文とが感銘深かった。
 4月7日から広島でも、先頃交通事故のために急逝したテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』の追悼上映が始まるが、その予習も兼ねて読んだのが、村田奈々子の『物語 近現代ギリシャの歴史──独立戦争からユーロ危機まで』(中公新書)である。19世紀半ばのギリシアの独立運動以来、周囲の大国によって翻弄されてきたギリシアの苦悩の歴史を、政治史として浮き彫りにする。言語をめぐる対立が、ギリシアとは何か、という根本的な問いと結びついているあたりの叙述は興味深い。現代ギリシアの政治史の専門的な叙述に傾きがちなところがあるので、もう少し大局的な視点と、問題の掘り下げがあればと感じた。
 月末にヴィーンへ出かけるので、1848年のヴィーン革命のことを知ろうと読んだのが、良知力の書いた二冊の革命史論。いずれも、1848年の3月に始まり、10月の敗北に終わるヴィーン革命の歴史を、歴史に名を残さない人々の声や足跡を記した膨大な資料を渉猟して、革命史の見直しを迫る労作である。一冊は、『向う岸からの世界史──一つの四八年革命史論』(ちくま学芸文庫)。挫折に終わったこの革命の歴史を、同時代のベルリンの革命の動きと照らし合わせながら浮き彫りにし、さらに20世紀後半の移民をめぐる状況とも関連づける論集である。その叙述の舞台裏も明かされて興味深い。もう一冊は、『青きドナウの乱痴気』(平凡社ライブラリー)であるが、これは名著と言うべきであろう。労働者の権利を求める闘いがやがてハプスブルク帝国内での民族抗争へ転化していく様子が、ヴィーンの都市生活を文字どおり支えていた人々の声から浮き彫りにされる。革命に立ち上がったヴィーンを皇帝の軍隊から守ろうと戦って、クロアチア人の部隊を先兵とする皇帝軍によって虐殺されたのが、ボヘミアやポーランドからヴィーンへ流れ込んできた移民であったわけだが、こうした痛ましい歴史は今も繰り返されているように思えてならない。ちなみに、本書に掲載されている挿し絵のいくつかを、カール広場の傍らにあるヴィーン市の博物館で見ることができる。
 他にヴィーンへの旅へ向けて読んだのが、類い稀な芸術史家宮下誠が残した『クリムト──金色の交響曲』と岡田暁生の『楽都ウィーンの光と陰──比類なきオーケストラのたどった道』(いずれも小学館)。前者は、金細工から出発したクリムトの絵画を、日本の芸術との関わりや分離派という運動の理念にも目配りしつつ、世紀末ヴィーンのなかに生き生きと浮かび上がらせる佳篇。ベートーヴェン・フリースについての叙述は圧巻と言うべきであろう。風景画家としてのクリムトに注目している点にも共感できたし、作曲家マーラーと関連づける叙述も正鵠を射ている。また、巻末のクリムトの作品の地図は、この画家の絵を見にヴィーンを訪れる人にとって有益であろう。後者は、ヴィーン・フィルハーモニーというオーケストラの歴史を掘り起こすことを軸としながら、ヴィーンの音楽文化の発展と凋落とともに、移民の街であるがゆえに同時に人種差別の渦巻く街でもあるヴィーンの姿をも浮き彫りにする。スター指揮者として華々しく登場し、歌劇場やオーケストラをめぐる陰謀に翻弄されたマーラー、そしてプラーターの貧しい移民の家に生まれ育ったシェーンベルクという二人のユダヤ人に関する章はことに興味深い。巻末の年表や地図もなかなか有益だと思う。音楽の都としてのヴィーンの歴史は、第一次世界大戦以前の、すなわちハプスブルク帝政期のブルジョワジーの興隆に負っていて、これほどまでにヨハン・シュトラウスがヴィーンを代表をするものとしてこれほどまでに全面に押し出されるのは、その時代へのノスタルジーの表われなのだ。
 ヴィーン滞在中に読んだのは、アルトゥール・シュニッツラーの『夢小説・闇への逃走 他一篇』(池内紀他訳、岩波文庫)。無意識の欲動が、じわじわと、また退廃的な情緒も交えながら浮かび上がってくる。医師でもあったシュニッツラーならではの、人間の身体と心理への鋭い切り込みも印象的で、堕ちていく人間のなかで起きていることが、ひしひしと伝わってくる。これを読んで、クリムトやシーレを見て、シュテファン寺院裏手の飲み屋街へ消えるというヴィーンの過ごし方もあるかもしれない。ちなみに、フロイトはシュニッツラーの小説を読んで、自分が地道な研究を重ねて辿り着いた洞察に一挙に達していると、彼を羨んだということである。
 ヴィーンから帰る機内で読み終えたのが、吉田秀和の『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(中公文庫)。1967年秋からおよそ1年、ベルリンを拠点にヨーロッパに滞在したあいだ、著者が音楽を中心に接した芸術についての批評をまとめたものである。彼の確かな批評眼をあらためて痛感させられるとともに、批評の視点もかなり理論的に示されている。それはたしかに古典的な作品観に支えられたものであろうが、あらためて傾聴すべき論点も少なくない。「批評」や「評論」を掲げて書くすべての人に読まれるべきエッセイ集と思われる。
※ブクログという読書記録サイトの「まとめて紹介」機能を利用しています。

walterの本棚 - 2012年03月 (9作品)
3.11を心に刻んで
読了日:03月20日
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ヴィーンへの旅:2012年3月29日

 今日は曇って肌寒い。昨日までの晴天とは対照的だ。朝食の後、美術史美術館へ向かう。朝のうちは絵画のギャラリーは観光客の団体でごった返すので、まず古代エジプトやギリシア、ローマなどの美術品を見る。ギリシアのアンフォラの一つに、オレステスとエレクトラによるアイギストス殺害の場面があったのに目が留まった。ここでもクリムト生誕150周年ということで、彼が手がけた壁画を、特設の橋に上って近くから見られるようになっている。若いクリムトによる古代エジプトからルネサンスまでの各時代および時期の美術の美しい寓意。
 絵画では、まずジョルジョーネによる若い女性の肖像画や謎めいた若い戦士の肖像画の静けさに惹かれる。アルチンボルドによる「水」の寓意画は、彼が事物のモンタージュによって構成した顔のなかで、おそらく最もグロテスクだろう。顔のなかで無数の魚と海獣が口を開けている。カラヴァッジョでは、「薔薇の冠の聖母」のような大規模な作品よりも、ゴリアテの首を摑むダヴィデの像のような中規模の作品に彼らしさが強く表われているように思われる。
 美術館内のカフェで軽い昼食をとった後で見たフランドルとオランダの絵画では、何と言ってもロヒール・ファン・デル・ウェイデンによる十字架の祭壇画が素晴らしい。風景描写、人物の造形、そして哀しみの表現が、どれも研ぎ澄まされて静謐な画面の完璧な構成に結晶している。この祭壇画と並んで、ハンス・メムリンクの慈愛に満ちた祭壇画が置かれていたのが非常に興味深かった。こちらも前者に劣らず魅力的だ。柔らかな光景のなかに、慈しみそのものと言えるような聖母子像が静かに浮かび上がる。事物の質感を醸す細部の緻密な表現も優れている。
 この美術館が誇るブリューゲルのコレクションは、本当に見飽きることがない。共感に満ちた観察眼によって、愚かですらあるような人々の生きざまが躍動する。今回は「農民の結婚式」を描いた一枚がとくに魅力的に思われた。フェルメールの「絵画芸術」の寓意は、ある瞬間を永遠の相の下に描く彼の芸術の完成された姿を示すものの一つだろう。どこまでも緻密に描き込まれた画面のなかで、天使に仕立てられたモデルの服のラピスラズリによる服の青と唇の金色の一点が、窓からの光に映え、画家のアトリエの光景を開く。それと前景の重みのあるカーテンの対照も非常に巧みだ。レンブラントでは、後期の息子ティトゥスの肖像が魅力的だ。今回、万霊節を描いた大規模な作品をはじめとして、デューラーの作品を数多く見られたのも嬉しかった。ヴェネツィアの女性の肖像はとくに傑作と思う。
 部屋で少し休んだ後、夜はコンツェルトハウスにてハーゲン弦楽四重奏団の演奏会を聴く。前半は、ベートーヴェンの第6番の弦楽四重奏曲とヴェルディの歌劇「ルイザ・ミラー」からの数曲を弦楽四重奏に編曲したもの。ベートーヴェンでは、冒頭の楽章でヴァイオリンのルーカス・ハーゲンの音が、音程が定まらないままひっくり返ることが何度かあって、おやと思わされたが、全体的にはこの作品を特徴づける長調と単調の対比を見事に生かした演奏だったと思われる。沈み込むような単調の響きから、生気に満ちた長調の旋律が浮かび上がってくる瞬間の美しいこと。とくにフィナーレは、何度繰り返される沈欝なアダージョと、沸き立つようなリズムのアレグロとの対比が際立って、とても魅力的だった。ヴェルディの弟子というエマヌエーレ・ムズィオなる作曲家による、ヴェルディ中期の「ルイザ・ミラー」のいくつかのナンバーの編曲は、思ったよりも楽しめた。アリアの旋律の魅力と、その伴奏のオーケストレーションのツボを抑えたと言ってよい編曲で、旋律とリズム双方の躍動感がよく引き出されている。ヴェロニカ・ハーゲンのヴィオラの柔らかな音が旋律を担当するとき、とくに曲が魅力的に思われた。
 休憩の後は、モーツァルトの「ホフマイスター」弦楽四重奏曲。ヴァイオリンとヴィオラのための変ロ長調の二重奏曲の変奏曲の旋律に似た、カノン風の旋律の掛け合いが、非常に親密な雰囲気を醸すのと、アダージョで清澄な世界がどこまでも広がるのとの対照が素晴らしく、インティメートな室内楽を掘り下げることで作品の精神に近づこうとするこの四重奏団のアプローチが、見事に生きた演奏だったと思う。澄んだ響きのなかにモーツァルトの音楽の様式性が自然に生きているのも素晴らしい。ハーゲン弦楽四重奏団は、カメラータ・ザルツブルクとともに、モーツァルトの演奏の伝統を、絶えず新しい息を音楽に吹き込みながら今に伝えている、貴重なグループの一つと言えよう。アンコールは、おそらく同じ作曲家によるヴェルディのアリアの編曲もの。これも軽やかな旋律とリズムの躍動が生きた魅力的な作品と演奏だった。

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ヴィーンへの旅:2012年3月28日

 ボッシュの「最後の審判」の祭壇画を見ようと造形芸術アカデミーの美術館へ出かけるが、折悪しくちょうど今日から修復のために見られないとのこと。それ以外の絵はそれほど魅力的ではないが、ライスダールの風景画を、人物像の交じった初期から晩年までいくつか見られたのは嬉しかった。とくに橋のある冬景色の絵は、小さいながらよい作品だと思う。あと見るべきところがあると思われたのは、レンブラントの初期作品くらいだろうか。
 少し南に下って、ナッシュマルクトをのぞいてみるが、オーストリアの人が経営している露店はもうほとんど見られず、トルコ人などが経営する、ファスト・フードを兼ねたものが多い。どうやら観光客向けの市場に変わったようで、客引きの声が煩わしい。オリーブを少し買い求めて出た。昼食は市場のなかの食堂ではなく、近くに見つけたサイゴンというヴェトナム料理屋にて。鶏肉のフォーを食べたが、なかなかよいスープの味。タピオカのデザートも付いて7ユーロ足らずならまずまずだ。
 午後はグラーベンやコールマルクトあたりの街路を散策するが、それにしても観光客が多い。コールマルクトのデーメルで、ザッハートルテを食す。以前は、この甘いケーキにさらに生クリームなんて、と思っていたが、凝縮された甘さのトルテにクリームを付けると、甘味がまろやかになって食べやすい。刺激的なまでに甘いところも一つの魅力ではあるのだけれども。それ以外に、菫の花弁を砂糖漬けにしたものも買い求めた。その後、部屋に帰ってしばらく休んだ。無意識の欲動がじわじわと染み出てくるさまを描くシュニッツラーの掌編を読む。
 夜は国立歌劇場でバレエの公演を見る。演目は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』をチャイコフスキーの音楽に乗せてバレエに仕立てたもの。ボリス・エイフマンという人の構成と振り付けによるもので、人物の心理を鋭く抉り出す舞台として、すでに評判で、東京の国立劇場でも取り上げられるとか。チャイコフスキーの音楽からは、弦楽セレナードや「悲愴」や「マンフレッド」の交響曲からの一部、数曲のバレエ音楽などが演奏された。少し粗いところや管楽器のミスが耳に付いたが、オーケストラは迫力のある演奏を聴かせていた。ダンサーのなかでは、アンナと恋に落ちる将校ヴロンスキーを演じた青年が魅力的だったように思う。それにしても、バレエの観客はなぜこうも行儀が悪いのか。カーテンコールで口笛を吹くばかりか、フラッシュをたいて写真を撮る。オペラではそういう客は見かけないのに。
 帰りがけ、劇場の近くのレストランで軽い夕食。焼いたソーセージのほか、ターフェルシュピッツをマリネにした一品を食べるが、これがまずまずの味。店付きの老音楽家がツィンバロンで「さくらさくら」など日本の歌を弾いてくれたが、これは要らないサーヴィスだった。

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ヴィーンへの旅:2012年3月27日

 それにしてもよい天気だ。日差しが眩しい。今までヨーロッパで体験したことのない春の陽気である。公園の緑が映え、若者たちが座っておしゃべりを楽しんでいる。今日の午前中は、ベルヴェデーレ宮殿の上宮で、クリムトやシーレの作品を中心に絵を見る。かつて下宮に展示されていた近代絵画や中世の美術がすべて上宮に移ってきたせいだろうか、以前よりもクリムト作品の展示は縮小されていたように思う。彼の生誕150年の記念の年だというのに奇妙なことだ。あの「接吻」だけが赤い特別の壁に掛けられて、展示室の真ん中あたりに据えられていて、そこに観光客の人だかりができている。
 クリムトの作品では、絵画と工芸の融合を成し遂げたいわゆる黄金期の作品よりも、身体の運動性が高まるとともに新たな色彩表現が模索される晩年の作品のほうが魅力的に思われる。「アダムとイヴ」そして未完に終わった「花嫁」あたりは、身体表現と色彩表現が生気を帯びながら融合している。そしてより率直な喜びを感じられる。  昼時に観光客が減ったところで「接吻」をよく見てみると、女性の黄金の衣服の裾から藤の花か下に垂れる木の葉のようなものが垂れ下がっているのが目に付いた。そこに注目しているうちに、この作品が、男女の至福に包まれた瞬間というよりは、自然と人間、そして美術と工芸の結合を象徴しているように思われてくる。もしかするとこれは、ユーゲントスティルそのものの寓意でもあるのかもしれない。同じ部屋には、「水蛇」や「フリッツァ・リードラーの肖像」など、黄金期を代表する作品のほかに、美しい風景画──とくに農家の庭を描いたものなど、花々が実に生き生きとしている──もいくつかあって、それを見ているうちに一つ気がついたことがあった。アッター湖畔の風景を描いたものが一点あったのだが、それを見ると湖畔には木々の緑が豊かに生い茂っている。そうすると、昨日レオポルド美術館で見たアッター湖の水面を描いた絵の緑がかった青は、木の葉の緑が水面に映った色なのかもしれない。それにしても、まさに世紀末に描かれた「ソーニャ・クニプスの肖像」のアウラのような香気は何なのか。
 しかし、今はクリムトよりもシーレの絵のほうに惹かれる。「四本の樹」の日没の表現は、色彩の階層的配置が画面全体の深沈とした雰囲気を醸し出して実に美しい。土に染み込むような夕映えのなかに、シーレが生命の蘇生にも見立てる木々の枝が夕日に黒く映える風景の少し張りつめた静けさ。岩が剝き出しとなった慰めのない光景のなかに人の命の儚さが象徴される「死と乙女」では、すでに石のような死神に捕らえられた少女もまた石化していくかのようだ。最晩年の家族の肖像が示す哀しみに包まれた喜びを前にすると、言葉を失わざるをえない。廂を色彩の配置によって構成しながら壁面の質感を執拗なまでに追究した「家の窓」も魅力的に思われた。これも哀しみに包まれた母子像も、たしかに聖母子像をモデルとしている点に注目するなら瀆神的かもしれないが、神に見放された世界で命をつなぐことの苦悩を切々と伝えて感銘深い。こうした生の苦悩を鋭く抉り出しながら慈しみにも満ちたシーレの表現を前にすると、ココシュカの人物表現などは逆に表面的に思われる。たしかに彼がプラハの風景をパノラマ的に描いた作品など魅力的ではあるのだけれども。
 これら以外には、カスパー=ダフィート・フリードリヒが霧のなかの海や砂岩の山並みを描いた風景画が、無限に続く奥行きを穏やかに示していて美しく思われたし、キルヒナーが山並みの風景を描いた作品も、彼の様式の成熟が画面の魅力に結びついているように感じられた。団体の観光客がぞろぞろと歩いていて騒々しかったので、それ解放されてほとんど誰もいない中世美術の部屋でゴシックの木彫や祭壇画を眺めていると、妙に心が落ち着いた。  ベルヴェデーレを後にして、宮殿のすぐ向かいにある、店の人が言うには「シャロン・ストーンも来た」というシルク製品の工房で、クリムトの「花嫁」の絵をプリントしたスカーフを妻のために買った後、電車を乗り継いで、昨日行ったのと同じアルト・ヴィーンでクラーシュの昼食。牛肉が良く煮込んであって美味しいのだけれど、スープが少し塩辛かった。そこを出て、午後はまずカール広場前の分離派会館を訪れる。地下に据え付けられているクリムトの「ベートーヴェンフリース」を間近で見ることができた。因習に捕らわれる苦悩から解放された生の歓喜を求める憧れが、漆喰の壁面に流動する。金箔を多用したフレスコ画の制作過程を再現したヴィデオも上映されていて、これも非常に興味深かった。
 そこを後にして、今度はカール広場の反対側にあるヴィーン博物館を訪れる。先史時代から現代までのヴィーンという街の歴史を伝える博物館であるが、クリムトやシーレの貴重な作品も展示されている。「愛」の寓意画や芸術の因習に挑みかかるクリムトの「パラス・アテナ」神像、それに美しい「エミーリエ・フレーゲの肖像」なども魅力的だが、ここでもやはりシーレの作品に惹かれる。自画像と向日葵の絵が展示されていたが、向日葵の絵を彼はほかにも何点か描いている。彼にとって向日葵とは何なのだろう。この博物館には、19世紀に天候による劣化から守るために取り外されたシュテファン寺院の外壁の彫刻の14世紀のオリジナルや、同時期のステンドグラスが展示されていて、これも興味深かった。ビーダーマイヤーを代表する作家グリルパルツァーの住まいを再現したコーナーもあったし、1848年の革命の様子を描いた絵とともにその時期を振り返るコーナーでは、最近読んだ革命史が思い出される。
 夜はコンツェルトハウスでカメラータ・ザルツブルクの演奏会。「安らぎなく! Ruhelos!」 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のソロイストを務めたパトリシア・コパツィンスカヤがアンコールで弾いたクルターグの「カフカ断章」の一曲「安らぎなく」を弾いて叫んだこのひと言は、この演奏会で演奏された二つの協奏曲の演奏を図らずも象徴しているように思われる。前半にファジル・サイの独奏でモーツァルトの第21番のピアノ協奏曲(K. 467)が演奏されたが、彼の独奏には嫌悪感すら覚え、聴いていて気持ちが悪くなった。自己顕示的に叩きつけられるフォルテの音は、モーツァルトの書いた楽譜から聴こえるものからはほど遠い。テクニックに長けたサイのことなので、「モーツァルトっぽい」繊細なピアノも弾けなくはないが、明らかに取って付けたようである。彼の恣意だけが聴こえ、モーツァルトは聴こえなかった。いくら即興的であったとしても、かつてのグルダのようにモーツァルトの精神を響かせることができるのだ。アンコールで演奏された「キラキラ星変奏曲」は、サイの自己顕示欲の塊でしかなかった。これほどまでではないにしても、コパツィンスカヤによるベートーヴェンの協奏曲の演奏も、「安らぎ」とともに音楽に身を委せられるにはほど遠かった。恣意的なところが耳について、途中から独奏に耳を傾ける気を失ってしまった。彼女の即興性も、ベートーヴェンの音楽が求めるものからかけ離れているとしか言いようがない。ヴァイオリン自体の響きを生かしたなかに晴朗な世界を現出させるこの協奏曲の音楽を充分に繰り広げるなかに清新な風を吹き込むのなら理解できるが、むしろ作品のダイナミズムを阻害しているところが目立つ。何よりも許容しがたく思われたのは、ベートーヴェンが書いた音を改竄しているところがいくつかあったところ。カデンツァは、ベートーヴェンがこの協奏曲のピアノ協奏曲版のための書いたカデンツァをコパツィンスカヤが編曲したもの。ティンパニのほかに、コンサートマスターのヴァイオリンが掛け合いに加わるが、この日のコンサートミストレスは、コパツィンスカヤのアプローチに同意しているようには見えなかった。「カフカ断章」を含め、アンコールで披露された現代作品の演奏は見事だった。
 多少なりとも安心して耳を傾けられたのは、カメラータ・ザルツブルクの生気に満ちた演奏だった。モーツァルトの音楽が求めるものを、つねに新しい息を吹き込みながら守っていて、いつ聴いても素晴らしく思う。この日の最初に演奏された第28番の交響曲の演奏は、歌の喜びと沸き立つようなリズムの喜びとが共存する見事なものだった。Img_0783


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ヴィーンへの旅:2012年3月26日

 月曜日なので美術館は軒並み休みかと思いきや、ヴィーンではいくつかの美術館が開いていた。午前中はそのなかの一つ、レオポルド美術館を訪れた。世紀転換期のヴィーンの美術シーンを工芸や都市の変化にも視野を広げながら浮かび上がらせる展示に始まり、クリムトが家族などに宛てた相当な数の絵葉書と、彼のアトリエの再現などとを背景としながら、この美術館が所蔵しているいくつかの作品によって、今年生誕150年を迎えるクリムトの生涯と芸術を浮かび上がらせる特別展、それにこの美術館が誇るエゴン・シーレのコレクションを特集した展示と、どれも見ごたえがあった。クリムトの作品では、当然ながらこの美術館のコレクションを代表する「死と生」の色彩も素晴らしかったが、とくに美しく思われたのは、アッター湖の水面を描いた風景画、静かに彼方へ消え入っていくような背景から、緑がかった青の輝きが穏やかに映える。静かにこちらへ近づいてくるその色の配置が絶妙である。シーレの作品のコレクションも素晴らしかったが、そのなかでは、暗い色の岩肌から聖人の姿が徐々に浮かび上がるかのような「顕現」と、日没の風景を描いた作品の深沈とした美しさがとくに印象的だった。家並みを描いた風景画も、クレーの作品に見られるような色彩のリズムが、沈み込むような壁面の色と対照的で面白い。地下のほうでは、シーレの作品からインスピレーションを得た現代の作家のインスタレーションなどが展示されていたが、人間の身体性を鋭く抉り出すシーレの表現は、現代の作家に強く訴えるものがあるにちがいない。
 昼食は、シュテファン寺院の奥の路地を入ったところにあるアルト・ヴィーンというカフェで、この日の定食であるシュニッツェル。値段は、斜向かいにある、シュニッツェルが有名なフィグルミュラーのちょうど半額だった。豚肉のシュニッツェルも香ばしくて美味しいが、付け合わせのじゃがいものサラダがどこか心落ち着く味でよい。催し物のポスターや、ちょっとダダ風の美術作品が飾ってあって、よい雰囲気の店だった。
 午後は、アルベルティーナで印象派とクリムトの素描の特別展を見る。下階の2フロアを使って、マネからセザンヌに至る素描がパステル画などとともに展示してあった。相当な數の作品である。モネがロンドンのテムズに架かる橋を描いたパステル画がまず目を惹く。バレエの踊り子たちを描いたパステル画も美しいし、ロートレックの、あの特定の空間における人物の一瞬の相貌を無駄のない仕方で捉える力は、ことにパステルによる素描で発揮されるように見えた。セザンヌの素描は、彼が事物の形態を構成的に把握する過程を示して興味深い。  上階からは、この美術館の新しい常設展示となった、バルティナー・コレクションによる印象派から晩年のピカソまでの油絵作品が展示されているが、この展示も驚くべき充実ぶりで、これまでデューラーらからの素描や版画によって知られていたこの美術館の新たな魅力をなすものと言えよう。キルヒナーらしさがよく出た女性像があったのも嬉しかったし、ノルデの生命感にあふれる花園の絵もあった。印象的だったのは、ロートレックによる厩の白馬の絵。少し悲しげな表情が心に残る。カンディンスキーの左右に対照的な構成を示した作品やクレーの「逸脱」の一歩を示す作品も見られたのも喜ばしい。シャガールの三点では、どれも彼らしい幻想が画面いっぱいに繰り広げられている。戦後すぐのピカソが描いた、緑の帽子を被った女性の像は、深い哀しみに包まれていて、思わず立ち止まらせられる。
 最後にクリムトのこれまた膨大な素描を見たが。建物の壁面を彩る人物群像や、あるいは金色に包まれた肖像画を創作する前に、彼がいかに多くの素描を繰り返していたかを知ることができる。女性の肢体を捉える眼差しと手つきを完全に自分のものにしてから、彼はそれを大きな画面の造形に生かしていった。そのプロセスを伝える充実した展示だった。
 夜は、楽友協会ホールにて、ズービン・メータ指揮によるヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。メータが指揮する演奏を生で聴くのは初めてだが、彼がオーケストラから充実した響きを引き出すのにいかに長けているかを身をもって知ることができた。最初に演奏されたのは、ヒンデミットの交響曲「画家マティス」。メータはこの曲を得意としているのだろうか。落ち着き払った音楽の運びで、密度の濃い演奏を聴かせていた。ことに印象的だったのは、第2楽章の「埋葬」における沈んだ、そして清澄なピアノの響き。フィナーレの「聖アントニウスの誘惑」では、聖性と悪の抗争が力強く描かれた後、圧倒的なコラールで閉じられた。楽器の音が溶け合って壮大なハーモニーが形成されるのは、このオーケストラ、そしてこのホールならではのことであろう。続いて演奏されたのは、リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」。たゆたうようなオーケストラの響きが実に魅力的な一方、ヴィーン国立歌劇場でも歌っているというマルティナ・セラフィンの声は魅力に欠ける。始終叫ぶような歌い方で、あまりにドラマティックに過ぎ、この曲に用いられている詩の細やかな魅力が台無しになった感もなくはない。アイヒェンドルフの「夕映えに」など、詩と声の抒情性が合致してこそ美しいのに。休憩のときに周りのマダム連が、「あの歌手、写真よりもずいぶん老けているわね」などと言っていたが、プログラムの写真そのものが相当古い印象だ。なお、ヘッセの詩による「九月」の終わりだったか、ホルンが実に魅力的なソロを聴かせてくれた。
 休憩を挟んで、この日のメイン・プログラムであるドヴォルザークの「新世界より」の交響曲が演奏された。第1楽章のテンポの運びは、音楽自体のダイナミズムを生かした見事なもので、これとヴィーン・フィルハーモニーの有機的な響きが相俟って、この楽章は素晴らしい演奏に仕上がっていた。再現部でノスタルジックなフルートの旋律をいっぱいに歌わせた後、コーダへ向けて一気にたたみ込むあたりは、聴き手も思わず興奮させられる熱演であった。最後の和音を少し溜めるのが想定外だった楽員が散見されたというハプニングも気にならなかったくらい引き込まれた。第2楽章のラルゴは、メータが取ったテンポが速すぎる感じで据わりが悪い。コーラングレのソロも歌いきれていない印象である。弱音器を付けた弦楽による旋律が高まって、木管楽器の田園的な旋律を引き出すあたりは非常に美しかった。スケルツォの楽章は、申し分のない充実した演奏。オーケストラが一体となった、力感に満ちたリズムが一瞬たりとも無機的なることがない。ここでもメータの巧みなテンポの運びが光る。フィナーレも全体的にきわめて密度の濃い演奏で、聴き応えがあった。唸りを上げる弦楽の刻みに乗って、ピラミッド状の響きで金管楽器が咆哮する。欲を言えば、美しい第二主題をもう少しじっくりと、ダイナミクスを微妙に変えながら聴かせてほしかったところ。ただ、それでも全体としては、おそらく来日公演などではほとんど聴くことのできない、このオーケストラならではの魅力が充分に発揮された演奏だったと思う。会場で思いがけず友人とその家族に出会えたのも嬉しかった。帰りがけ、通りがかったスペイン料理屋で、タパスの軽い夕食を取ってホテルの部屋へ戻った。

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ヴィーンへの旅:2012年3月25日

 今日から妻とヴィーンへの旅。ヴィーンを訪れるのは、新婚旅行のとき以来8年ぶりということになる。7時前に広島空港に着いてチェックイン。成田行きの便がオーストリア航空ともコードシェアしているためだろうか、成田からのヴィーン行きの便も同時にチェックインできて、荷物もスルーで預けられたのはありがたかった。9時半前に成田に着いてみると、南ウィングは、ものすごい人混みでごった返していて、出国審査場に通じる保安検査のゲートの前に長蛇の列ができている。本当は少しゆっくりしたかったが、すぐにこの列に並ばなければならなかった。おそらく今日から学校の春休みで、家族連れや卒業旅行で海外へ出る人々のちょっとした出国ラッシュになっているのだろう。
 オーストリア航空のヴィーン行きの直行便で、11時間のフライト。前回このキャリアを利用したのは、ヴィーン経由でドレスデンへ行った2004年の秋以来ということになるが、以来使っていなかった理由を思い出してきた。機内のエンターテインメントの内容が乏しく、機内食もあまり美味しくなかったのだ。妻は見る映画がないとこぼしていた。ラジオのクラシック音楽のプログラムも3時間ほどのサイクルで同じ曲を繰り返している。機内食は、グリルチキンのグラタン添えか「カツ丼」という「究極の」と言いたくなるような選択肢だった。特別不味いわけではないが、美味しくはない。他のキャリアに比べて全体の量を抑えてあるのと、カイザーゼンメルなどのパンが香ばしいのが嬉しい。機内では、岡田暁生の『楽都ウィーンの光と陰──比類なきオーケストラのたどった道』と良知力の『青きドナウの乱痴気』を読了。前者は、ヴィーン・フィルハーモニーというオーケストラの歴史を掘り起こすことを軸としながら、ヴィーンの音楽文化の発展と凋落と同時に、移民の街であり、そうであるがゆえに同時に人種差別の渦巻く街でもあるヴィーンの姿をも浮き彫りにする。スター指揮者として華々しく登場し、歌劇場やオーケストラをめぐる陰謀に翻弄されたマーラー、そしてプラーターの貧しい移民の家に生まれ育ったシェーンベルクに関する章はことに興味深い。巻末の年表や地図もなかなか有益だと思う。音楽の都としてのヴィーンの歴史は、第一次世界大戦以前の、すなわちハプスブルク帝政期のブルジョワジーの興隆に負っていることとともに、これほどまでにヨハン・シュトラウスがヴィーンを代表をするものとしてこれほどまでに全面に押し出されるのは、その時代へのノスタルジーの表われなのだ。後者は、1848年の3月に始まり、10月の敗北に終わるヴィーン革命の歴史を、歴史に名を残さない人々の声や足跡を記した膨大な資料を渉猟して、革命史の見直しを迫る労作。労働者の権利を求める闘いが、やがてハプスブルク帝国内での民族抗争へ転化していく様子が、ヴィーンの都市生活を文字どおり支えていた人々の声から浮き彫りにされる。革命に立ち上がったヴィーンを皇帝の軍隊から守ろうと最後まで戦い、クロアチア人の部隊を先兵とする皇帝軍によって虐殺されたのが、ボヘミアやポーランドからヴィーンへ流れ込んできた人々であったのは、実に痛ましいが、こうした歴史は今も繰り返されていよう。
 少し早くヴィーンへ到着し、空港からバスで市街へ向かう。バスが到着したシュヴェーデンプラッツの停留所のすぐ前に、かつてゲシュタポの本部が置かれていたところに設けられた記念碑が見えた。「けっして忘れない」と碑文にある。気温が20度を超えて暑かったので、ジェラートを食べてから地下鉄でホテルへ向かう。宿はノイアー・マルクトに隣接するオイローパ。便利な場所にあるが、部屋がケルンテン通りに面しているので、夜騒々しくないか心配だ。
 少し休んだ後、アン・デア・ヴィーン劇場へオッフェンバックのオペレッタ『ホフマン物語』を見に行く。ウィリアム・フリードキンの演出で、リッカルド・フリッツァ指揮のヴィーン交響楽団がピットに入った。劇中のホフマンが思いを寄せるプリマ・ドンナがアンナ役を歌うモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の上演を劇中劇のように背景に据えながら、ホフマンの恋の遍歴を、彼のなかの無意識の暗黒面が表われてくるプロセスとして描き出す演出で、ヴィデオを駆使した演出ながら、読み替えを打ち出すのかどうか少し煮え切らない印象で、また後半の運びがやや冗長──ただでさえこの作品の後半は、失恋話の繰り返しなだけに退屈になりやすいだろう──に思われた。最後に作家としての人生に戻るところで、ホフマンはノート・パソコンに向かった。
 歌手はいずれも高水準の歌唱を聴かせてくれたが、なかでも全曲を通してミューズ/ニクラウスを演じたロクサナ・コンスタンティネスクは、素晴らしかった。オランピアを歌ったマリー・エリクスメンもほぼ完璧な歌唱。主役のホフマンを歌ったクルト・シュトライトも巧みだったが、今ひとつパンチに欠ける印象だった。それ以外の役もほとんど隙がない。フリッツァ指揮のヴィーン交響楽団は、少し垢抜けたところや軽やかなリズム感が欲しいところもあったが、全体には力強く舞台を支えていて、聴き応えがあった。
 帰りがけ、あるバイスルに寄って軽く夕食をと思ったが、その店はもはやなく、結局市電の停留所のインビスでケバブなどを買い求めて宿へ戻る。ヴィーンにはずいぶんケバブを売る店とアメリカ系のファスト・フードのチェーン店が増えている。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月28日

 朝オスナブリュックを発って、ミュンスターへ向かう。特急に乗れば30分とかからない、ほとんど隣町である。まず、ミュンスターの旧市街へ向かって、ツーリスト・インフォメーションで市街地図をもらい、いざツヴィンガーへ、と意気込んだが、ほとんど空振りに終わった。下調べが不十分だったと言えばそれまでだけれども。ナチ時代に監獄というか、ほとんど処刑場のように用いられていて、当時のソヴィエト連邦とポーランドから連れて来られたおびただしい人々が殺されたこの場所には、レベッカ・ホルンのインスタレーション「対向する協奏」──原題のDas gegenläufige Konzertは、ひとまずこのように訳せるだろうか──が設置されていて、それをぜひ見たかったのだが、夏のあいだ、日曜の午後にだけ見られるようだ。そもそもこの建物も、日曜にしか公開されていないという。ヴァイマルと同じである。なお、ツヴィンガーの建物自体、ずっしりとのし掛かってくる印象だった。今は崩れかかっているところもあるようだが、分厚い壁で取り囲むかのような円形の石組みのところどころに小さな窓が開いていて、いかにも監獄の造りである。塞がれた入口からは冷たい風が漏れていた。
 肩を落として歩いていたら、いかにも古そうな教会が目に入った。ミュンスターは教会の街と言えるほど、市街中心の大聖堂をはじめ教会が多いが、使徒教会というこの教会はプロテスタントの教会という。しかし、建物そのものはやはり古く、内部空間を含め、初期ゴシック様式をよく残していて美しかった。そこを出て、旧市街を少し歩き回った先にピカソ美術館があったので、冷やかし程度に立ち寄ってみたが、エディ・ノヴァロという、ピカソをはじめ同時代の芸術家の写真を数多く残した写真家の仕事を中心にした特別展の最中という。ノヴァロの写真と、その撮影を機縁として彼に贈られた小品が展示の中核をなしていた。さまざまな芸術家の写真を見られるのは、それはそれで面白かったとはいえ、作品の展示としては貧弱だったと言わざるをえない。展示の最後に、ピカソの版画がわずかながらあった。闘牛など闘いを主題としたもの、愛を主題としたもの、そしてピカソの分身とも言えるミノタウロスを主題としたものに分類されていたが、愛の表現である最後の妻の肖像が印象に残った。
 ツヴィンガー行きが空振りに終わったため、もうしばらく間があったので、大聖堂の傍らの州立芸術・芸術史博物館も訪れてみた。ちょうど新しい建物への立て替えの準備中ということで、倉庫に集められた作品を覗くことができるというのも面白かったが、それ以上に、収蔵作品から選りすぐったものをテーマごとに配置し、時代を距てたなかで対話させるという展示が興味深かった。展示されていた作品のなかでは、何よりもアウグスト・マッケのアトリエを飾っていたという、フランツ・マルクの「楽園」の壁画が素晴らしかった。動物たちが自然の色調のなかに穏やかに溶け込んでいる。壁画は、油絵よりも柔らかな印象だ。他に、流行の服を飾ったショウ・ウィンドウを眺める女性たちを描いたマッケの作品も美しかった。これも柔らかな色彩の音楽を奏でてている。クレーの「聴く人」を見られたのも嬉しかった。聴く行為そのものをユーモラスに描いた小品だ。花が咲き乱れる庭を描いたエミール・ノルデの作品も鮮烈な印象を残した。
 こうした20世紀前半の作品、さらには20世紀後半の作品が、中世の祭壇画や彫刻、そしてルネサンスやバロックの絵画と対話するかたちで展示されている。同じテーマの表現法がどのように変わっているかを見るのも面白かったうえ、古い作品も見応えがあった。また、地元の古い芸術が大切にされているのもよく伝わってきた。このあたり、日本の美術館も学ぶべきではないだろうか。なお、この美術館では、他にエルンスト・マイスターという詩人の絵画作品がまとまったかたちで展示されていたし、ヨハンナ・ライヒという若い作家のヴィデオ・アートもなかなか興味深かった。
 本を少し見て駅へ戻る途中、市庁舎の裏手にある三十年戦争の終結を記念した広場に立ち寄った。その傍らには戦争と暴力の犠牲者に捧げるモニュメントがあった。広場にはまた、「対話による寛容」と題されたエドゥアルト・チリダの彫刻作品も置かれていた。幾何学的な金属の塊が対話するかのように向かい合っている。緊張感のある対話の表現と言えようか。それをつうじてこそ平和が実現されると語りかけるのかもしれない。少なくとも、360年以上前の出来事をたんに歴史化するのではなく、その意味を現代の問題として問おうとする姿勢が伝わる広場の造りと言えよう。それに触れるとき、日本の「平和都市」の公共空間のあり方も再考させられる。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月27日

 機内であまり眠れなかったうえ、昨晩も寝るのが遅くなったので、起きられるか不安だったが、9時前に何とか起きることができた。朝食の後、さっそくフェリックス・ヌスバウム美術館を訪れるべく出かけた。オスナブリュックの街は、ヨーロッパの古い街の多くがそうであるように、かつて城壁だったリング状の大通りに囲まれている。それに沿ってしばらく歩くと、アルテ・シナゴーグ通りに行き当たった。1938年のいわゆる「水晶の夜」のポグロムによって破壊されたシナゴーグの跡には、皮肉にも、と言うべきか、警察署が建っているが、今はその傍らにシナゴーグの破壊とオスナブリュックから消されたユダヤ人を記憶するモニュメント(警告碑:Mahnmal)が置かれている。
 シナゴーグ跡から少し北へ歩くと、すぐにフェリックス・ヌスバウム美術館が見えてきた。ダニエル・リベスキンドが設計したその建物は、三つの異なった素材を外装に用いた建物が不規則に交差するように建っていて、異彩を放っている。美術館では、ヌスバウムの作品などを展示する常設展と並行するかたちで、チェコ生まれの現代芸術家ダニエル・ペシュタの作品展も同時に開催されていた。エントランスを入るとすぐに、血と誕生を象徴する彼のインスタレーションと立体作品にぶつかることになる。とくに血からの誕生を表わす立体作品は強烈な印象を与えるが、ナチスがそこから「人種」という虚構を読み取ったものを、もとの多義性と可塑性へ送り返すようでもあった。
 ヌスバウムの作品の展示は、部屋ごとをテーマに分けながら、ゆるやかに彼の生涯をたどる仕組みになっていた。最初の部屋には、彼の亡命以前の作品を中心に展示されている。解説によると、ヌスバウムは、ブリュッケの名の下にに集った表現主義の画家たち同様、ゴッホによってインスパイアされる──それはヌスバウムの絵画が時に見せる強い表現力に表われているかもしれない──とともに、アンリ・ルソーの生きものたちへの愛に満ちた素朴さも愛したという。1930年に描かれたという「集団の肖像(Bildnisgruppe)」は、ルソー的な素朴さがユダヤ的とも言える率直さと合致した作品と言えようが、ヌスバウムはやがてルソー的な要素を、アイロニカルに、時には自分自身への皮肉も込めて、作品に盛り込むようになる。後者の点がとくに強く表われているのが、1937年の「兄弟と一緒の自画像(Selbstbildnis mit Bruder)」であろう。兄弟の像を前後に並べ、高らかに笑う弟の姿を、もう一方の愁いに満ちた自画像が半分隠している。その様子自体が、ヌスバウムの絵画の自画像なのかもしれない。そして後に見るように、自画像こそ、彼が苦しく、また恐怖に囲まれた状況にあっても芸術家としての矜恃を保つ場であった。
 最初の部屋には、ヌスバウムの父親の肖像が置かれていて、知性に満ちた父親への尊敬の念とともに、画家の鋭い観察眼──そこにはモディリアーニを思わせるところもある──を感じさせる見事な作品と映った。そこには自分の旧作が画中画として引用されているが、引用の技法もまた、ヌスバウムの芸術を特徴づけるものと言えよう。これも後に見るように、彼は自画像などを、より大きな規模の作品にたびたび引用している。なお、亡命以前の作品としては、ユトリロを思わせる構図の風景画とともに、ユダヤ人の男女の肖像とともに、オスナブリュックのシナゴーグの内部空間を描いた「二人のユダヤ人(Die beide Juden)」(1926年)が興味深い。とくに女性の表情からは強い意志を感じる。この絵は、当地のユダヤ人の教団報にも載ったという。
 次の部屋のテーマとなっていたのが静物画であった。解説によると、ヌスバウムは静物画によって「見かけは無垢の世界」を描こうとしたと語っていたそうだが、そこには見かけの無垢さ、あるいは無害さを突き抜けて、ヌスバウムの心理状態が色濃く表われている。そのことをいきなり突きつけられた思いで見たのが、1943年に描かれた「アフリカの彫刻のある風景(Stillleben mit aflikanischem Skulptur)」であった。画面の中央には、アフリカから輸入されたと思われる素朴な木彫の人物像が置かれているが、そのところどころが壊れている。しかも、その彫像はちょうど首吊りのような格好で支えられているのだ。その背後にはモノクロームの楽園的な風景。失われた楽園の光景と言うべきだろうか。ヌスバウムの絶望と死に対する恐怖の両方が表われた静物画と言えようが、それでも画面が完全にユーモアを失っていないところには、観察者としての画家の存在を感じる。静物画ではほかに、黒で覆われた「猫のいる静物画(Stillleben mit Katze)」(1941年)も眼を惹いた。亡命先で息を潜める画家の心境を表わしているのだろうか。
 今回ヌスバウムの作品をまとまったかたちで見て、彼の芸術の多面性に触れることができたのも収穫だった。彼はベルリン時代の末期に、映像作家と協力して、ユーモラスで、少し奇想天外なところのあるアニメーション映画を作ろうと企てていたようだ。また、同時代の人々の心理に深く分け入ってそれを寓意的に、かつユーモラスに描く、優れて風刺的とも言える絵画を、雑誌(Querstand誌)の表紙に寄せてもいる。こうした活動のあいだ、ヌスバウムは画家として地歩を築く手応えを得ていたかもしれない。しかしその道は閉ざされていく。彼のベルリンのアトリエは火災(ナチスの放火とも言われる)に遭い、150点に及ぶという作品を失った。そして、ヒトラーの政権掌握とともに、亡命を余儀なくされることになる。そのことを暗示するかのように、美術館の展示空間は徐々に狭まっていった。このあたりに忘却にこうする美術館というリベスキンドの建築構想と、ヌスバウムの生涯との呼応を感じることができるのかもしれない。
 さて、次の部屋には、ヌスバウムの亡命時代の自画像がまとめて展示されていた。そのどれもが、彼の生に対する態度と芸術の両方を凝縮された仕方で表わしているように思われたが、なかでも手で口を覆った「アトリエの自画像(Selbstbildnis im Atelier)」(1937年)は、亡命の境涯で画家として語ること──すなわち表立って自分を表現することを──禁じられている状況と、その状況に戦いて言葉を失っていることを一つながらに表わしているように見えた。画面の右下の隅が塗り残されているのが痛々しい。この自画像と同じ年には、「シュルレアリスティックな風景の自画像(Selbstbildnis in surrealer Landschaft)」も生まれている。近代的な都市の鉄塔のあいだから、目をぐっと見開いた画家の顔がのぞいている。この絵は、ほぼ同時期に描かれた靉光の「眼のある風景」を思わせるところがある。ヌスバウムの作品は、物質の量感が迫ってくるかのように塊を彫り出す靉光のマチエールとは対照的に、きわめて禁欲的な画面を呈しているが、両者の芸術には、時代を見通す眼差しを追究する点でどこか通底するものがあるように思えてならない。自画像ではもう一つ、「イーゼルの傍らの自画像(Selbstbildnis an der Stafferei)」(1943年)も印象的だった。イーゼルの前では、画家が澄んだ眼でこちらを見つめているが、その手には楯のようにパレットが握られている。創作の場の静けさを暴力から守ろうとする、せめてもの抵抗だろうか。イーゼルの前の机には、三本の壜が置かれ、その一本には髑髏の印のラベルが貼られている。そこに入っているのは、自殺用の毒薬にちがいない。芸術家として死ぬことをも辞さない覚悟を静かに、そしてそうであるがゆえにぎくりとさせる仕方で表わした作品である。
 自画像が集められた一室には、同時にほとんど無数と言ってよいシリコンで取った顔型──安部公房の『他人の顔』を思い起こさせる──を並べて中空に漂わせたペシュタのインスタレーションも置かれていた。ペルソナの漂いとでも言えようか。素顔を隠す仮面であることと、自分自身を響き出させることのあいだで揺れ動く顔そのもののありかたに踏み込みながら、それこそ無数の自画像を描いたとも言えるヌスバウムの芸術との対話を試みた作品と言える。それを展示することで、現代の表現とヌスバウムの半世紀以上前の表現が相互に照射し合う空間が生まれていたことは、造形作品の展示を考えるうえでも実に示唆的に思えた。
 自画像に続いては、1940年代の比較的規模の大きな作品が展示されていた。画家の最期の時期の透徹した眼差しによって貫かれた作品ばかりである。最初に目に入ったのは、ヌスバウムが敵性外国人として収容所に囚われたときの経験を土台に描かれた「サン・シプリアンの囚人たち(Gefangene in Saint Cyprien)」(1942年)。肩を落とした囚人たちの特徴的な姿を、フラ・アンジェリコの画面を思わせるような静かで緻密ななタッチで、伝統的な「四つの気質」の主題に即して寓意的に描いている。その1年後から制作されたとされる「呪われた者たち(Die Verdammten)」(1944年)の画面は、後期ゴシックから16世紀にかけてのフランドルの──ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの名を思い起こさずにはいられなかった──祭壇画、それも殉教者を描く祭壇画のように、絶望して死を待つユダヤ人たちの群像を、廃墟と化した街のなかに描いている。実際その背後には棺桶を担ぐ死神が近づいているのだ。そしてその群像のなかに、ヌスバウムは、あの「ユダヤ人の身分証をもつ自画像」を引用しているのである。ヌスバウムの顔は、じっとこちらを見つめ、憔悴しきったユダヤ人が死に追いやられていく状況を見通そうとするかのようだ。このように、死の恐怖に取り囲まれ、生存そのものが困難な状況に置かれながら、あくまでその状況を見通し、それに画家として立ち向かおうとするヌスバウムの矜恃のうちに、フランドルのもう一人の画家と相通じるものを見て取らないわけにはいかない。ピーテル・ブリューゲルである。絞首台の上の小鳥として自分を画面に描き入れた彼もまた、同時代に生きる人々の姿を寓意的に描き、その生命力を肯定しながら、人々を取り巻く状況を見通していた。ヌスバウムには、20世紀のブリューゲルのような側面があるとまでは言えるかもしれない。それを彼が亡命したフランドルで身につけたのではないか。ブリューゲル的な観察者の存在を、「手回しオルガン師(Orgelmann)」(1943年)にも見て取ることかもしれないが、この作品はさらに謎めいている。死に覆われ、破壊された街のなかにオルガン師が独り佇んでいるが、そのオルガンのパイプもまた人骨である。彼は人々の死を見届け、その骨を拾ってきたのか、それとも死を奏でる死神の友なのか。
 ヌスバウムの最期の作品と言われているのが、「死の勝利(Triumph des Todes)」(1944年)である。これはひとまず、中世以来の「死の舞踏」のモティーフを借りながら、人間がもたらした人間の文化の破滅を描いた作品と言えよう。ラッパやクラリネット──軍楽隊で使われる楽器ばかりだ──を手にした骸骨たちが高らかに「死の勝利」を奏でる下で破壊されているのは、書物、楽譜、タイプライター、フィルム、パレット、観測器具など、どれも広い意味でアートに関わる品々ばかり。世界の広大さを測りながら、そこに生きることをその奥底から表現してきた文化が滅び去っていくさまを突きつけて止まない。そして、それが同時代の出来事であることを、画家はそれとなく示唆している。作品が完成した日付である「1944年4月18日」の文字が新聞の日付として描かれているのである。死神がクラリネットを吹く背後では、機関砲の砲口がクラリネットと同じ方向を向いている。ちなみに、この作品と同じ年に、ホルクハイマーとアドルノは亡命先のカリフォルニアで『啓蒙の弁証法』を著わしている。それが論じている、啓蒙が野蛮へと堕していく過程でまき散らされる暴力を、ヌスバウムの「死の勝利」ほどに克明に描き出した作品を知らない。
 続く展示室には、ダニエル・ペシュタの作品がまとまったかたちで展示されていた。それもまた、ヌスバウムの芸術との対話として展示されているようで、端的に「フェリックス・ヌスバウムのための天使」と題された作品以上に、「天使たちが生き残る」と題された作品が、先ほどの「死の勝利」に呼応する作品と言えるかもしれない。原子爆弾か水素爆弾のものであろうキノコ雲のなかへ、内側からすでに灰と化した無数の人々が吸い込まれていく。そのなかに、画面に貼り付けられた格好の白い人物像がいくつか見られるが、それは生き残った天使のようでもあり、核爆発によって殺された人々の変容したした姿のようでもある。ペシュタという作家は、記憶の揺らぎや人間の自己同一性の不確かさに関心があるようで、遺伝的なものや写真による同一性の確認を揺さぶる作品がいくつか展示されていた。チェコ出身で、民主化のための地下活動にも関わった経験もあるという。今後注目してよい作家かもしれない。
 別の一室には、ヌスバウムの「折り畳み本(Faltbuch)」(1933年)と、リベスキンドによる美術館の設計構想が並べられていた。リベスキンドは、ほとんど抽象画のようなこのヌスバウムの作品からインスピレーションを得て、「出口のない美術館」、また「絵のように建てられた建物」として美術館を構想したという。ここ以外に、ヌスバウムの作品とリベスキンドの建築が直接対話する場面は見られなかったとはいえ、ヌスバウムの生涯と芸術をリベスキンドなりに汲み取ってこの美術館が設計されていることは、内部空間を歩いていてよく伝わってくる。建物が交差することによって生まれる空間には、廃墟にあったと思われる石材を組み合わせて、十字が造られていた。それもだんだんと苔むしている。それもまた廃墟を思わせるが、そうすると、ここにあるのは廃墟、ないしは儚さの表現を含み込んだ建築なのかもしれない。
 フェリックス・ヌスバウム美術館を出て、旧市街をしばらく歩くと、エーリヒ=マリア・レマルク博物館が見つかった。『西部戦線異状なし』で知られるこの作家の生涯と作品を紹介していたが、彼の作品はナチスによる焚書に遭ったという。なお、この博物館は平和センターを兼ねていて、ロビーでは、広島と長崎の資料館の資料を用いて小さな「原爆展」が開かれていた。原爆の被害を伝える展示に、ドイツで、しかもドイツ語で再会するのは不思議な感じだが、遠くで起こった場所のことを進んで展示する姿勢には学ぶべきものがあろう。それに、ヌスバウム美術館が造られたこと自体、ナチスの時代とそのなかで跋扈した人種主義の暴力に対する真摯な反省を抜きにしては考えられない。しかも、そこに今展示されているペシュタの作品は、人種主義を現在の問題として問うてもいる。ちなみに、オスナブリュックには、暴力に立ち向かうモニュメントが街の至る所に置かれている。むろん、現在の街から暴力の問題が一掃されてはいないようではあるけれども。

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