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福岡アジア美術館の「アジアをつなぐ──境界を生きる女たち」展と大分での「青木涼子、ふるさとで舞う」

 朝早い新幹線に乗って福岡へ向かう。福岡へ行くのは久しぶりであるが、今回の目的は福岡アジア美術館で開催されている「アジアをつなぐ──境界を生きる女たち 1984–2012」展を見ること。アジアの女性アーティストによる美術作品を集めてその表現の現在を映し出すこの展覧会を、知り合いのアーティストが出品していることもあり、どうしても見てみたかったのである。
 因習に、それに拠りかかって自己保存を図る権力に身体の内奥から搦め捕られて、ある「女」であることを強いられている自分、それに自分自身で向き合うなかから生まれる表現、その率直かつ緻密な表現を、例えば中国の林天苗の「卵#3」に見ることができるかもしれない。作家自身と思われる人の身体から、無数の糸によって作られた無数の卵が、糸を引きながら吐き出されている。卵子を産むことがすでにして無数の糸に絡みつけられることでもあることを、執拗なまでに突き詰めることが、見事な構成に結実している。そのような表現の源にあるのは、「家」に、あるいは「女」であることに閉ざされることに対する身体的な次元での違和感と抵抗であろうが、その際に、閉ざされるなかで手を染めざるをえない「伝統的」な手仕事を逆手に取るしたたかとも言える行き方も示されているのは興味深い。韓国のイースギョンの「翻訳された壺」は、陶器を修復する伝統的な工法を習得することをつうじて、あらゆる規範を超えて自己増殖する身体を表現したものと言えよう。モンゴルのダグヴァサンブー・ウーリーンツヤの「わたしは凧」は、伝統的なモンゴルの絵画の技法を駆使しながら、男女が絡み合い、摑み合いもする地上を離れて飛翔することへの憧れを「わたし」が飛ばす「わたし」としての凧によって、非常に洗練されたかたちで表現している。
 アジアに生まれた女性として生きることの表現は、移り住んだ先で新しい生活を営むことにまつわる苦悩としても掘り下げられている。そのなかで非常に印象的だったのは、インド出身のザリナ・ハシミによる移民の寂寥を抽象的な表現に結晶させた作品。表現そのものが非常に魅力的だったのは、韓国のソン・ヒョンソクの水彩作品。何と静かでかつパトスを内に秘めた筆触だろうか。バングラデシュのニルーファル・チャマンの作品は、結ばれ、よじられる存在であることを、身体そのものの可塑性に力強く転化させていた。
 これら以外に印象的な作品もあったのだが、それ以上に印象的だったのはキュレーションの見事さ。テーマをしっかりと腑分けしながら掘り下げている。そして、カタログも、数多くのエッセイが収められているうえ、資料としても充実している。
 アジア美術館を出てから、地下鉄で天神へ移動し、高速バスで大分へ。九州道が鳥栖まで混んでいてやきもきさせられたが、何とか10分ほどの遅れで大分に到着。大分では、当地のiichiko総合文化センター内にある音の泉ホールで、「青木涼子、ふるさとで舞う──能とであう、20世紀の弦楽四重奏」と題した、アルディッティ弦楽四重奏団が能楽師の青木涼子と共演した演奏会を聴いた。少し驚かされたのが、アルディッティ弦楽四重奏団がヤナーチェクとラヴェルの古典的な作品を、非常に深い共感をもって演奏していたこと。先日聴いた現代の作品の鮮烈な表現も、このような古典的な作品への深い理解から生まれているのだ。ただし、けっして情緒に流れることなく、作品のテクスチュアを実に緻密かつ音楽的に浮き彫りにしていた。ラヴェルの弦楽四重奏曲にはもう少し広がりを求めたい気もしたが、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」では不穏な情動の蠢きが完璧に表現されていた。
 細川俊夫の「沈黙の花」では、大分出身の青木涼子の能舞が加わったが、その構成が非常によく練られていたのが非常に興味深い。彼女は、作品を二部構成と捉え、前半を人の姿で、後半を夢幻の世界の花の精の姿で静かに舞っていた。花を見るという人間的な行為が、花そのものに沈潜し、花の生命と共振するさまを目の当たりにするようで、その点、音楽の精神とも共鳴していた。この舞台のために新たにデザインされた衣裳も、華やかでありながら散る花の儚さも感じさせ、音楽に相応しい。
 このような花を見る魂の変容は、続くケージの作品の演奏とともに行なわれた献花への良い橋渡しにもなっていた。ここでも青木涼子が舞ったが、少し躍動感と合間に謡いも交えて、ケージが表現する四季との対話を試みていた。ケージの弦楽四重奏曲は、音を非常に切り詰めた、時に周囲に耳を澄ますような音楽なので、能舞の足を踏む音が入っても気にならないどころか、むしろケージが聴こうとしていた音の一つのようにすら聴こえる。慈照寺の花方である朱寶による生花は、大ぶりの竹を軸に、ススキやヒガンバナ、それに薔薇を配して、秋を凝縮した見事なもの。薔薇が入って華やかさを増しながら全体が締まるのが意外に面白かったが、朱寶によると薔薇そのものは中国に由来するとのことで、今回は中国産の落ち着いた色彩の花を使ったそうである。舞台を眺めていて、ケージのたゆたうような音楽から、舞いと花が湧き出てくるかのような印象を受けた。静かに満たされたような思いを抱きながら、大分を後にすることができた。

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コメント

こんなところに書き込みはまずいでしょうが、先日魔笛を鑑賞したところ、先生の文章に接し、メールを打っています。なかなか名文でした。オペラの出来のほうは私は今一に思いましたが。

投稿: ごふくや | 2012年12月 3日 (月) 14時18分

ごふくやさん、コメントありがとうございます。『魔笛』の公演にお越しくださりまことにありがとうございます。また、拙文にも過分なお言葉をいただき恐縮です。オペラに関しては、今回得た課題を糧に、またより良い舞台を創っていければと考えております。次回もぜひお運びください。

投稿: Walter | 2012年12月 4日 (火) 03時02分

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