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Hiroshima Happy New Ear Xを聴いて

 広島の地に、あるいは広島の地から「新しい耳」を開こうとする現代音楽の演奏会「Hiroshima Happy New Ear」。早いもので今回で10回目を迎える。その第10回の演奏会を10月20日、アステールプラザのオーケストラ等練習場で聴いた。「悠久の時を超えて」と題された今回の演奏会では、笙という楽器の可能性を世界に知らしめた宮田まゆみと、現代リコーダー演奏の第一人者と呼ぶべき鈴木俊哉の二人を迎えて、千年以上にわたって伝承されてきた曲から、ごく最近生まれたばかりの作品まで演奏された。それら演奏された作品のなかで、笙のような楽器を生かしてきた伝統と現代の感性が時を超えて出会うのに立ち会い、笙とリコーダーという生まれた時も場所も大きく隔たった二つの楽器に通底するものにじかに触れることができたように思う。これら二つの楽器を貫くもの、それは世界を満たし、生命を貫く息である。古代ギリシア以来の伝統によれば、ギリシア語で「プネウマ」と呼ばれる、世界に満ちる気息こそ、ギリシア語の「アニマ」、すなわち「魂」とも訳される生命の原理にほかならない。今回の演奏会は、息をして生きているのになかなか気づくことのない、この気息の無限のダイナミズムを、あるいは無数の気息のせめぎ合いをあらためて見直す機会にもなったのではないだろうか。
 最初に演奏されたのは、古典的な雅楽において笙の曲として伝えられてきた「平調調子」。会場は、十分な高さがありながら、さほど広くないので、例えば千席規模の大きな演奏会場で聴くよりも、笙という楽器の音色や、そこにある陰影を捉えやすかったかもしれない。それはヨーロッパのオルガンのように広がりながら空間を満たすのではなく、鳳凰を模した楽器の姿そのままに空間に凛と立つ。しかし、そこには豊かな倍音だけでなく、影のような音も連れ添っていて、そこからたゆたうようなニュアンスの変化が生まれてくるようだ。秋の月のように白く映える響きがすっと退いて、木霊のように遠くから響くのに、一抹の寂しさを感じた。
 次に演奏されたのは、ルチアーノ・ベリオがリコーダー独奏のために書いた「ジェスティ」。「ジェスティ」とは身振りであるが、ベリオは、未だ一つの身体に統合されていない、複数の身振りそのものが、偶然の出会いを経て深く結びつくまでを一つの曲に構成しているようである。口から分離した手の動きが表現する、落下を繰り返すような自動運動と、声も混じる変化に富んだ息を吹き込む動きとが、時に遭遇し、また時にすれ違う。そこにある偶然性が、鈴木俊哉の見事な演奏によって、実にスリリングに感じられた。また、聴いていて、口と手の分離とともに、両者の運動そのものが、あたかも人間の意図を離れた自動的なものであるかのように、厳密に構成されているのが伝わってきたのも興味深い。
 ベリオに続いて、細川俊夫の「線Ib」が演奏された。この作品は、本来フルート独奏のために書かれたのを、リコーダーのために編曲したものという。この作品は、彼の作曲の原点にあるものという。あるいはゲーテの言葉を借りて、「原現象」とでも呼ぶべきなのかもしれない。リコーダーという木で出来た楽器でこの曲を聴くと、その後のいくつかの作品の響きが、とりわけ息を伴った響きが思い出されてくる。「線」以来、細川は宇宙的な時空間へのカリグラフィとして作曲行為を自覚するようになるわけだが、リコーダーでこの曲を聴くと、最初の打ち込みが激しい息とともにもたらされることばかりでなく、書道において擦れや滲みを伴う墨の線が、空間を満たす無数の気息とのせめぎ合いのなかから浮かび上がってくることが、非常によく伝わってくる。リコーダーの狭い管のなかに渦巻く気息のエネルギーが、一本の線に結実していく過程が、劇的ですらあった。
 演奏会前半ではもう一曲、川上統の「軍鶏」が演奏された。笙とリコーダーのために書かれたこの若い作曲家の作品は、軍鶏という鳥の猛々しさと滑稽さの両方を描き出そうと、リズミカルな動きどうしの間を巧みに使っていたが、それを聴いていて、二羽の鶏が時にけたたましく存在を誇示し、時に媚態を見せながら戯れ合う、微笑ましい光景が想像された。アニマという生命の気息が軍鶏という生き物、すなわちアニマルの生態に吹き込まれる一曲とでも言えようか。
 休憩を挟んで、徳永崇の「模様の入れ方」が演奏された。笙で演奏可能なすべての和音をランダムに配したのを下地として、そこにリコーダーの音を刺繍するように絡めていく、まさに模様を入れる作曲行為を示すとともに、地と図の境界が揺さぶられるような仕方でハイブリッドな音響を現出させる作品と言えようが、とくに笙の響きがすでにハイブリッドな変化を含んでいて、織物の生地の糸の一本の繊維の光彩の変化のほうに注目させられた感じがする。
 次いで日本古謡の「さくら」を細川俊夫が笙独奏のために編曲したかたちで聴いた。陰影に富んだ響きのなかから、よく知られたペンタトニックな旋律が微かに響き出てくるのだが、そのさまは吐く息が歌となる、つまり息の響く音の高さが上下に動く際の緊張を、そこにある無数の振動を表わしているように思われた。息をして生きる人間が気息に満たされた空間のなかで、みずからの思いを乗せた深い息を吐いて歌うという行為そのものの原像を見た思いがする。
 その次に演奏されたサルヴァトーレ・シャリーノの「風に乗って運ばれた、対蹠地からの手紙」からは、シチリア出身というこの作曲家がもっている風の運動、とりわけその速度に対する独特の感性を感じることができた。海辺に立つと、さまざまな方向からの、それぞれ異なった速度をもった風の動きを体感することがあるが、そこにあるせめぎ合いや、それに伴う海辺の木々の揺らぎ、海鳥たちの動きの変化を顕微鏡で拡大したかのような動きが、リコーダーの演奏技法を最大限に駆使して表現されているのかもしれない。しかも、瞠目すべきことに、きわめて微視的な構成が、広い空間を吹き抜け、人を圧倒するような風の荒々しさにも結びついている。そのことを見事に表現しきった、鈴木俊哉の超絶技巧にも圧倒させられた。
 最後に演奏されたのは、細川俊夫が武満徹の還暦に寄せて書いた「鳥たちへの断章IIIb」。盲学校の子どもたちが手触りと心のなかのイメージを頼りに練り上げた鳥たちの彫塑に触発されて、音に触る行為として作曲そのものを見つめ直しつつ、その鳥たちの自然を、そして自然な生のうちにこそある自由を表現しようと作曲した作品という。自然の母胎を表現したという笙の響きがたゆたうなかから響いてくる低音のリコーダーの音は、おずおずと羽ばたき始める鳥の翼の動きを思わせるが、そこに同時に、例えば森のなかでぞくっとさせられるような生き物の気配のようなものさえ感じられる。やがて、リコーダーによって鳥の自由な動きが、とりわけリコーダーがソプラノに持ち替えられてからは、重力から解き放たれたかのような動きが展開されるのだが、笙の響きも変化を止めることはない。翼の羽ばたきに呼応してゆらめくかのように、彩りを変えていく。こうした笙とリコーダーの音の動きからは、人間によってけっして飼い馴らされることのない自然のダイナミズムと、生命そのものの自由を感じないではいられない。
 笙とリコーダー。この二つの楽器が示しているのは、生命のダイナミックな運動が気息によって貫かれているということである。無数の気息が行き交う空間のなかで一つの生命体が息を発するとき、その気息は振動し、響き出ることがある。もしかすると音として聴いているものの根源を、今回の演奏会で垣間見たのかもしれない。
※以上は、次のサイトに掲載した記事の抄録です。
 http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Hiroshima_Happy_New_Ear_X20102011.htm

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