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2011年9月

オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月28日

 朝オスナブリュックを発って、ミュンスターへ向かう。特急に乗れば30分とかからない、ほとんど隣町である。まず、ミュンスターの旧市街へ向かって、ツーリスト・インフォメーションで市街地図をもらい、いざツヴィンガーへ、と意気込んだが、ほとんど空振りに終わった。下調べが不十分だったと言えばそれまでだけれども。ナチ時代に監獄というか、ほとんど処刑場のように用いられていて、当時のソヴィエト連邦とポーランドから連れて来られたおびただしい人々が殺されたこの場所には、レベッカ・ホルンのインスタレーション「対向する協奏」──原題のDas gegenläufige Konzertは、ひとまずこのように訳せるだろうか──が設置されていて、それをぜひ見たかったのだが、夏のあいだ、日曜の午後にだけ見られるようだ。そもそもこの建物も、日曜にしか公開されていないという。ヴァイマルと同じである。なお、ツヴィンガーの建物自体、ずっしりとのし掛かってくる印象だった。今は崩れかかっているところもあるようだが、分厚い壁で取り囲むかのような円形の石組みのところどころに小さな窓が開いていて、いかにも監獄の造りである。塞がれた入口からは冷たい風が漏れていた。
 肩を落として歩いていたら、いかにも古そうな教会が目に入った。ミュンスターは教会の街と言えるほど、市街中心の大聖堂をはじめ教会が多いが、使徒教会というこの教会はプロテスタントの教会という。しかし、建物そのものはやはり古く、内部空間を含め、初期ゴシック様式をよく残していて美しかった。そこを出て、旧市街を少し歩き回った先にピカソ美術館があったので、冷やかし程度に立ち寄ってみたが、エディ・ノヴァロという、ピカソをはじめ同時代の芸術家の写真を数多く残した写真家の仕事を中心にした特別展の最中という。ノヴァロの写真と、その撮影を機縁として彼に贈られた小品が展示の中核をなしていた。さまざまな芸術家の写真を見られるのは、それはそれで面白かったとはいえ、作品の展示としては貧弱だったと言わざるをえない。展示の最後に、ピカソの版画がわずかながらあった。闘牛など闘いを主題としたもの、愛を主題としたもの、そしてピカソの分身とも言えるミノタウロスを主題としたものに分類されていたが、愛の表現である最後の妻の肖像が印象に残った。
 ツヴィンガー行きが空振りに終わったため、もうしばらく間があったので、大聖堂の傍らの州立芸術・芸術史博物館も訪れてみた。ちょうど新しい建物への立て替えの準備中ということで、倉庫に集められた作品を覗くことができるというのも面白かったが、それ以上に、収蔵作品から選りすぐったものをテーマごとに配置し、時代を距てたなかで対話させるという展示が興味深かった。展示されていた作品のなかでは、何よりもアウグスト・マッケのアトリエを飾っていたという、フランツ・マルクの「楽園」の壁画が素晴らしかった。動物たちが自然の色調のなかに穏やかに溶け込んでいる。壁画は、油絵よりも柔らかな印象だ。他に、流行の服を飾ったショウ・ウィンドウを眺める女性たちを描いたマッケの作品も美しかった。これも柔らかな色彩の音楽を奏でてている。クレーの「聴く人」を見られたのも嬉しかった。聴く行為そのものをユーモラスに描いた小品だ。花が咲き乱れる庭を描いたエミール・ノルデの作品も鮮烈な印象を残した。
 こうした20世紀前半の作品、さらには20世紀後半の作品が、中世の祭壇画や彫刻、そしてルネサンスやバロックの絵画と対話するかたちで展示されている。同じテーマの表現法がどのように変わっているかを見るのも面白かったうえ、古い作品も見応えがあった。また、地元の古い芸術が大切にされているのもよく伝わってきた。このあたり、日本の美術館も学ぶべきではないだろうか。なお、この美術館では、他にエルンスト・マイスターという詩人の絵画作品がまとまったかたちで展示されていたし、ヨハンナ・ライヒという若い作家のヴィデオ・アートもなかなか興味深かった。
 本を少し見て駅へ戻る途中、市庁舎の裏手にある三十年戦争の終結を記念した広場に立ち寄った。その傍らには戦争と暴力の犠牲者に捧げるモニュメントがあった。広場にはまた、「対話による寛容」と題されたエドゥアルト・チリダの彫刻作品も置かれていた。幾何学的な金属の塊が対話するかのように向かい合っている。緊張感のある対話の表現と言えようか。それをつうじてこそ平和が実現されると語りかけるのかもしれない。少なくとも、360年以上前の出来事をたんに歴史化するのではなく、その意味を現代の問題として問おうとする姿勢が伝わる広場の造りと言えよう。それに触れるとき、日本の「平和都市」の公共空間のあり方も再考させられる。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月27日

 機内であまり眠れなかったうえ、昨晩も寝るのが遅くなったので、起きられるか不安だったが、9時前に何とか起きることができた。朝食の後、さっそくフェリックス・ヌスバウム美術館を訪れるべく出かけた。オスナブリュックの街は、ヨーロッパの古い街の多くがそうであるように、かつて城壁だったリング状の大通りに囲まれている。それに沿ってしばらく歩くと、アルテ・シナゴーグ通りに行き当たった。1938年のいわゆる「水晶の夜」のポグロムによって破壊されたシナゴーグの跡には、皮肉にも、と言うべきか、警察署が建っているが、今はその傍らにシナゴーグの破壊とオスナブリュックから消されたユダヤ人を記憶するモニュメント(警告碑:Mahnmal)が置かれている。
 シナゴーグ跡から少し北へ歩くと、すぐにフェリックス・ヌスバウム美術館が見えてきた。ダニエル・リベスキンドが設計したその建物は、三つの異なった素材を外装に用いた建物が不規則に交差するように建っていて、異彩を放っている。美術館では、ヌスバウムの作品などを展示する常設展と並行するかたちで、チェコ生まれの現代芸術家ダニエル・ペシュタの作品展も同時に開催されていた。エントランスを入るとすぐに、血と誕生を象徴する彼のインスタレーションと立体作品にぶつかることになる。とくに血からの誕生を表わす立体作品は強烈な印象を与えるが、ナチスがそこから「人種」という虚構を読み取ったものを、もとの多義性と可塑性へ送り返すようでもあった。
 ヌスバウムの作品の展示は、部屋ごとをテーマに分けながら、ゆるやかに彼の生涯をたどる仕組みになっていた。最初の部屋には、彼の亡命以前の作品を中心に展示されている。解説によると、ヌスバウムは、ブリュッケの名の下にに集った表現主義の画家たち同様、ゴッホによってインスパイアされる──それはヌスバウムの絵画が時に見せる強い表現力に表われているかもしれない──とともに、アンリ・ルソーの生きものたちへの愛に満ちた素朴さも愛したという。1930年に描かれたという「集団の肖像(Bildnisgruppe)」は、ルソー的な素朴さがユダヤ的とも言える率直さと合致した作品と言えようが、ヌスバウムはやがてルソー的な要素を、アイロニカルに、時には自分自身への皮肉も込めて、作品に盛り込むようになる。後者の点がとくに強く表われているのが、1937年の「兄弟と一緒の自画像(Selbstbildnis mit Bruder)」であろう。兄弟の像を前後に並べ、高らかに笑う弟の姿を、もう一方の愁いに満ちた自画像が半分隠している。その様子自体が、ヌスバウムの絵画の自画像なのかもしれない。そして後に見るように、自画像こそ、彼が苦しく、また恐怖に囲まれた状況にあっても芸術家としての矜恃を保つ場であった。
 最初の部屋には、ヌスバウムの父親の肖像が置かれていて、知性に満ちた父親への尊敬の念とともに、画家の鋭い観察眼──そこにはモディリアーニを思わせるところもある──を感じさせる見事な作品と映った。そこには自分の旧作が画中画として引用されているが、引用の技法もまた、ヌスバウムの芸術を特徴づけるものと言えよう。これも後に見るように、彼は自画像などを、より大きな規模の作品にたびたび引用している。なお、亡命以前の作品としては、ユトリロを思わせる構図の風景画とともに、ユダヤ人の男女の肖像とともに、オスナブリュックのシナゴーグの内部空間を描いた「二人のユダヤ人(Die beide Juden)」(1926年)が興味深い。とくに女性の表情からは強い意志を感じる。この絵は、当地のユダヤ人の教団報にも載ったという。
 次の部屋のテーマとなっていたのが静物画であった。解説によると、ヌスバウムは静物画によって「見かけは無垢の世界」を描こうとしたと語っていたそうだが、そこには見かけの無垢さ、あるいは無害さを突き抜けて、ヌスバウムの心理状態が色濃く表われている。そのことをいきなり突きつけられた思いで見たのが、1943年に描かれた「アフリカの彫刻のある風景(Stillleben mit aflikanischem Skulptur)」であった。画面の中央には、アフリカから輸入されたと思われる素朴な木彫の人物像が置かれているが、そのところどころが壊れている。しかも、その彫像はちょうど首吊りのような格好で支えられているのだ。その背後にはモノクロームの楽園的な風景。失われた楽園の光景と言うべきだろうか。ヌスバウムの絶望と死に対する恐怖の両方が表われた静物画と言えようが、それでも画面が完全にユーモアを失っていないところには、観察者としての画家の存在を感じる。静物画ではほかに、黒で覆われた「猫のいる静物画(Stillleben mit Katze)」(1941年)も眼を惹いた。亡命先で息を潜める画家の心境を表わしているのだろうか。
 今回ヌスバウムの作品をまとまったかたちで見て、彼の芸術の多面性に触れることができたのも収穫だった。彼はベルリン時代の末期に、映像作家と協力して、ユーモラスで、少し奇想天外なところのあるアニメーション映画を作ろうと企てていたようだ。また、同時代の人々の心理に深く分け入ってそれを寓意的に、かつユーモラスに描く、優れて風刺的とも言える絵画を、雑誌(Querstand誌)の表紙に寄せてもいる。こうした活動のあいだ、ヌスバウムは画家として地歩を築く手応えを得ていたかもしれない。しかしその道は閉ざされていく。彼のベルリンのアトリエは火災(ナチスの放火とも言われる)に遭い、150点に及ぶという作品を失った。そして、ヒトラーの政権掌握とともに、亡命を余儀なくされることになる。そのことを暗示するかのように、美術館の展示空間は徐々に狭まっていった。このあたりに忘却にこうする美術館というリベスキンドの建築構想と、ヌスバウムの生涯との呼応を感じることができるのかもしれない。
 さて、次の部屋には、ヌスバウムの亡命時代の自画像がまとめて展示されていた。そのどれもが、彼の生に対する態度と芸術の両方を凝縮された仕方で表わしているように思われたが、なかでも手で口を覆った「アトリエの自画像(Selbstbildnis im Atelier)」(1937年)は、亡命の境涯で画家として語ること──すなわち表立って自分を表現することを──禁じられている状況と、その状況に戦いて言葉を失っていることを一つながらに表わしているように見えた。画面の右下の隅が塗り残されているのが痛々しい。この自画像と同じ年には、「シュルレアリスティックな風景の自画像(Selbstbildnis in surrealer Landschaft)」も生まれている。近代的な都市の鉄塔のあいだから、目をぐっと見開いた画家の顔がのぞいている。この絵は、ほぼ同時期に描かれた靉光の「眼のある風景」を思わせるところがある。ヌスバウムの作品は、物質の量感が迫ってくるかのように塊を彫り出す靉光のマチエールとは対照的に、きわめて禁欲的な画面を呈しているが、両者の芸術には、時代を見通す眼差しを追究する点でどこか通底するものがあるように思えてならない。自画像ではもう一つ、「イーゼルの傍らの自画像(Selbstbildnis an der Stafferei)」(1943年)も印象的だった。イーゼルの前では、画家が澄んだ眼でこちらを見つめているが、その手には楯のようにパレットが握られている。創作の場の静けさを暴力から守ろうとする、せめてもの抵抗だろうか。イーゼルの前の机には、三本の壜が置かれ、その一本には髑髏の印のラベルが貼られている。そこに入っているのは、自殺用の毒薬にちがいない。芸術家として死ぬことをも辞さない覚悟を静かに、そしてそうであるがゆえにぎくりとさせる仕方で表わした作品である。
 自画像が集められた一室には、同時にほとんど無数と言ってよいシリコンで取った顔型──安部公房の『他人の顔』を思い起こさせる──を並べて中空に漂わせたペシュタのインスタレーションも置かれていた。ペルソナの漂いとでも言えようか。素顔を隠す仮面であることと、自分自身を響き出させることのあいだで揺れ動く顔そのもののありかたに踏み込みながら、それこそ無数の自画像を描いたとも言えるヌスバウムの芸術との対話を試みた作品と言える。それを展示することで、現代の表現とヌスバウムの半世紀以上前の表現が相互に照射し合う空間が生まれていたことは、造形作品の展示を考えるうえでも実に示唆的に思えた。
 自画像に続いては、1940年代の比較的規模の大きな作品が展示されていた。画家の最期の時期の透徹した眼差しによって貫かれた作品ばかりである。最初に目に入ったのは、ヌスバウムが敵性外国人として収容所に囚われたときの経験を土台に描かれた「サン・シプリアンの囚人たち(Gefangene in Saint Cyprien)」(1942年)。肩を落とした囚人たちの特徴的な姿を、フラ・アンジェリコの画面を思わせるような静かで緻密ななタッチで、伝統的な「四つの気質」の主題に即して寓意的に描いている。その1年後から制作されたとされる「呪われた者たち(Die Verdammten)」(1944年)の画面は、後期ゴシックから16世紀にかけてのフランドルの──ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの名を思い起こさずにはいられなかった──祭壇画、それも殉教者を描く祭壇画のように、絶望して死を待つユダヤ人たちの群像を、廃墟と化した街のなかに描いている。実際その背後には棺桶を担ぐ死神が近づいているのだ。そしてその群像のなかに、ヌスバウムは、あの「ユダヤ人の身分証をもつ自画像」を引用しているのである。ヌスバウムの顔は、じっとこちらを見つめ、憔悴しきったユダヤ人が死に追いやられていく状況を見通そうとするかのようだ。このように、死の恐怖に取り囲まれ、生存そのものが困難な状況に置かれながら、あくまでその状況を見通し、それに画家として立ち向かおうとするヌスバウムの矜恃のうちに、フランドルのもう一人の画家と相通じるものを見て取らないわけにはいかない。ピーテル・ブリューゲルである。絞首台の上の小鳥として自分を画面に描き入れた彼もまた、同時代に生きる人々の姿を寓意的に描き、その生命力を肯定しながら、人々を取り巻く状況を見通していた。ヌスバウムには、20世紀のブリューゲルのような側面があるとまでは言えるかもしれない。それを彼が亡命したフランドルで身につけたのではないか。ブリューゲル的な観察者の存在を、「手回しオルガン師(Orgelmann)」(1943年)にも見て取ることかもしれないが、この作品はさらに謎めいている。死に覆われ、破壊された街のなかにオルガン師が独り佇んでいるが、そのオルガンのパイプもまた人骨である。彼は人々の死を見届け、その骨を拾ってきたのか、それとも死を奏でる死神の友なのか。
 ヌスバウムの最期の作品と言われているのが、「死の勝利(Triumph des Todes)」(1944年)である。これはひとまず、中世以来の「死の舞踏」のモティーフを借りながら、人間がもたらした人間の文化の破滅を描いた作品と言えよう。ラッパやクラリネット──軍楽隊で使われる楽器ばかりだ──を手にした骸骨たちが高らかに「死の勝利」を奏でる下で破壊されているのは、書物、楽譜、タイプライター、フィルム、パレット、観測器具など、どれも広い意味でアートに関わる品々ばかり。世界の広大さを測りながら、そこに生きることをその奥底から表現してきた文化が滅び去っていくさまを突きつけて止まない。そして、それが同時代の出来事であることを、画家はそれとなく示唆している。作品が完成した日付である「1944年4月18日」の文字が新聞の日付として描かれているのである。死神がクラリネットを吹く背後では、機関砲の砲口がクラリネットと同じ方向を向いている。ちなみに、この作品と同じ年に、ホルクハイマーとアドルノは亡命先のカリフォルニアで『啓蒙の弁証法』を著わしている。それが論じている、啓蒙が野蛮へと堕していく過程でまき散らされる暴力を、ヌスバウムの「死の勝利」ほどに克明に描き出した作品を知らない。
 続く展示室には、ダニエル・ペシュタの作品がまとまったかたちで展示されていた。それもまた、ヌスバウムの芸術との対話として展示されているようで、端的に「フェリックス・ヌスバウムのための天使」と題された作品以上に、「天使たちが生き残る」と題された作品が、先ほどの「死の勝利」に呼応する作品と言えるかもしれない。原子爆弾か水素爆弾のものであろうキノコ雲のなかへ、内側からすでに灰と化した無数の人々が吸い込まれていく。そのなかに、画面に貼り付けられた格好の白い人物像がいくつか見られるが、それは生き残った天使のようでもあり、核爆発によって殺された人々の変容したした姿のようでもある。ペシュタという作家は、記憶の揺らぎや人間の自己同一性の不確かさに関心があるようで、遺伝的なものや写真による同一性の確認を揺さぶる作品がいくつか展示されていた。チェコ出身で、民主化のための地下活動にも関わった経験もあるという。今後注目してよい作家かもしれない。
 別の一室には、ヌスバウムの「折り畳み本(Faltbuch)」(1933年)と、リベスキンドによる美術館の設計構想が並べられていた。リベスキンドは、ほとんど抽象画のようなこのヌスバウムの作品からインスピレーションを得て、「出口のない美術館」、また「絵のように建てられた建物」として美術館を構想したという。ここ以外に、ヌスバウムの作品とリベスキンドの建築が直接対話する場面は見られなかったとはいえ、ヌスバウムの生涯と芸術をリベスキンドなりに汲み取ってこの美術館が設計されていることは、内部空間を歩いていてよく伝わってくる。建物が交差することによって生まれる空間には、廃墟にあったと思われる石材を組み合わせて、十字が造られていた。それもだんだんと苔むしている。それもまた廃墟を思わせるが、そうすると、ここにあるのは廃墟、ないしは儚さの表現を含み込んだ建築なのかもしれない。
 フェリックス・ヌスバウム美術館を出て、旧市街をしばらく歩くと、エーリヒ=マリア・レマルク博物館が見つかった。『西部戦線異状なし』で知られるこの作家の生涯と作品を紹介していたが、彼の作品はナチスによる焚書に遭ったという。なお、この博物館は平和センターを兼ねていて、ロビーでは、広島と長崎の資料館の資料を用いて小さな「原爆展」が開かれていた。原爆の被害を伝える展示に、ドイツで、しかもドイツ語で再会するのは不思議な感じだが、遠くで起こった場所のことを進んで展示する姿勢には学ぶべきものがあろう。それに、ヌスバウム美術館が造られたこと自体、ナチスの時代とそのなかで跋扈した人種主義の暴力に対する真摯な反省を抜きにしては考えられない。しかも、そこに今展示されているペシュタの作品は、人種主義を現在の問題として問うてもいる。ちなみに、オスナブリュックには、暴力に立ち向かうモニュメントが街の至る所に置かれている。むろん、現在の街から暴力の問題が一掃されてはいないようではあるけれども。

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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月26日

 今日から4泊6日でドイツを訪れる。今回の旅では、とくに三十年戦争終結の場であると同時にナチスの暴力の記憶も刻み込まれている二つの都市、オスナブリュックとミュンスターを訪れて、歴史的な場所や歴史的な記憶が集約された場所に芸術が介入することによって、過去を想起することがどのように喚起されるか、さらには過去を想起すること自体がどのように変化するかを、実際にその場所に足を踏み入れることで可能なかぎり確かめてみたい。それによって、今ここで歴史を紡ぎ出すことをどのように捉え返せるかを考える糸口を探ることができればと思う。
 まず、オスナブリュックでは、ダニエル・リベスキンドが設計したフェリックス・ヌスバウム美術館を訪れる予定である。ベルリンのユダヤ博物館に見られるように、複数の建物を交差させ、それによって作られる「ヴォイド」という空隙をもつ建物のなかに、アウシュヴィッツで虐殺されたこのオスナブリュック出身の画家の作品が数多く展示されているわけだが、そこで建築と美術がどのように共振しているか興味がある。リベスキンドの設計自体、どのようなコンセプトで、それがどのように実現されているのか、それとヌスバウムの絵画が、さらには彼の経験がどのように共鳴しているのか、そしてヌスバウムの絵画自体が、どのような強度をもって迫ってくるのか、見て来たいと思う。オスナブリュックでは、シナゴーグをはじめ、他の歴史的な場所も訪れておきたい。
 ミュンスターは日帰りで立ち寄るだけだが、ツヴィンガーと呼ばれる、かつてナチが政治犯の収容所に使っていたという建物に、現代美術作家のレベッカ・ホルンがインスタレーションを据え付けているのを見ておきたいと考えている。この建物の一室一室に、そこにある石の一つひとつに刻み込まれた、ナチの暴力の犠牲者たちの記憶が、その場でどのように想起されるだろうか。ホルンの作品そのものとともに興味深いところである。ミュンスター市街の各所には、ホルンの作品以外にも、野外の彫刻作品がいくつか置かれているという。そのいくつかも見て、古い街並みが美しいとされる歴史的な街ミュンスターが、アートの介入によってどのように変貌しうるのか、その経験とはどういうものか、考えてみたい。
 日本へ帰る前の日の夜には、デュッセルドルフの隣町に当たるデュイスブルクを訪れ、工場跡を劇場に改造した建物で、ルールトリエンナーレの一環として行なわれる、細川俊夫の『班女』の公演にも接することになっている。これも歴史的な場所で、三島由紀夫の近代能をもとにしたオペラがどのように響くのかも楽しみである。その予習を兼ね、機内ではまず三島の『近代能楽集』を読んだ。伝承されてきた謡曲を土台にしながら、それを巧みに現代のドラマに翻案しながらも、その登場人物に、時空の交錯する夢幻能の世界を現出させる詩的な台詞を語らせる手腕には、やはり唸らせられないではいられない。そのひと言によって、何気ない日常的な場面に、死者とその浮かばれる思いがふと現われたり、正気と狂気、あるいは夢とうつつの境目がぼやけたりするのだ。「班女」もさることながら、「卒塔婆小町」など傑作だと思う。20世紀後半のホーフマンスタールとでも形容したいような三島の一面を示していよう。
 今回、成田からミュンヘンを経由してデュッセルドルフへ行き、そこから鉄道でオスナブリュックへ向かったのだが、ミュンヘン行きの機内ではもう一冊、吉田秀和の『時の流れのなかで』を読む。『音楽芸術』誌に34年にわたって連載されてきた批評を選りすぐったもの。音楽そのものについての深い理解については言うまでもないが、絵画、ひいては芸術そのものへの鋭い洞察も、具体的な展覧会に接したときの経験などをもとに示されている。セザンヌとマネの絵画の経験を土台に、絵画におけるマチエールを、画家の生と結びつけながら重視するあたりは興味深い。さらに、この批評選集に関して特筆すべきは、吉田のしなやかな思考が、芸術の領域だけにとどまっていないことである。チャーチルの「鉄のカーテン」という言葉を例に、歴史を語る言葉について論じた一節など、眼を開かせられる思いで読んだ。日本文化についての批評には、現代にも当てはまるところがいくつも含まれているのではないだろうか。批評としてのエッセイとは何かということを考えるうえで必読の一冊と思われる。
 それにしても、今回の旅では悪霊に取り憑かれたようにうまく事が運ばない。ケチの付き始めは成田空港の滑走路手前で飛行機が急停止したこと。嫌な予感がしたが、案の定タイヤの空気圧不足が判明したとのこと。その整備と給油で1時間ほど成田出発が遅れてしまった。そのためミュンヘンでは、予定していた接続便には乗れず、その次のデュッセルドルフ行きに乗ることになった。それに間に合って、初めて降り立ったデュッセルドルフ空港では、大急ぎで鉄道の駅と空港を結ぶスカイトレインに乗り、何とかデュイスブルクで特急に連絡する電車に乗り込めたまではよかったのだけれども、デュイスブルクの手前で人身事故があったようで、いつまで経っても予約していたハンブルク行きの特急が来ない。おそらく自殺だろう。3時間近く遅れてようやくやって来た特急も、半分はドルトムント止まりとなり、席を予約していた者もみな、後方の車両に乗り換えさせられた。これが事故を起こした当の電車なのかもしれない。結局オスナブリュックに着いたのは、午前2時過ぎ。ドイツ鉄道が発行したタクシー・クーポンを同じ方向の乗客と乗り合いで使い、ホテルまでタクシーで行けたのは、不幸中の幸いだった。移動が丸一日になってしまい、本当に疲れ果ててしまった。

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