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オスナブリュック、ミュンスター、デュッセルドルフへの旅:2011年9月27日

 機内であまり眠れなかったうえ、昨晩も寝るのが遅くなったので、起きられるか不安だったが、9時前に何とか起きることができた。朝食の後、さっそくフェリックス・ヌスバウム美術館を訪れるべく出かけた。オスナブリュックの街は、ヨーロッパの古い街の多くがそうであるように、かつて城壁だったリング状の大通りに囲まれている。それに沿ってしばらく歩くと、アルテ・シナゴーグ通りに行き当たった。1938年のいわゆる「水晶の夜」のポグロムによって破壊されたシナゴーグの跡には、皮肉にも、と言うべきか、警察署が建っているが、今はその傍らにシナゴーグの破壊とオスナブリュックから消されたユダヤ人を記憶するモニュメント(警告碑:Mahnmal)が置かれている。
 シナゴーグ跡から少し北へ歩くと、すぐにフェリックス・ヌスバウム美術館が見えてきた。ダニエル・リベスキンドが設計したその建物は、三つの異なった素材を外装に用いた建物が不規則に交差するように建っていて、異彩を放っている。美術館では、ヌスバウムの作品などを展示する常設展と並行するかたちで、チェコ生まれの現代芸術家ダニエル・ペシュタの作品展も同時に開催されていた。エントランスを入るとすぐに、血と誕生を象徴する彼のインスタレーションと立体作品にぶつかることになる。とくに血からの誕生を表わす立体作品は強烈な印象を与えるが、ナチスがそこから「人種」という虚構を読み取ったものを、もとの多義性と可塑性へ送り返すようでもあった。
 ヌスバウムの作品の展示は、部屋ごとをテーマに分けながら、ゆるやかに彼の生涯をたどる仕組みになっていた。最初の部屋には、彼の亡命以前の作品を中心に展示されている。解説によると、ヌスバウムは、ブリュッケの名の下にに集った表現主義の画家たち同様、ゴッホによってインスパイアされる──それはヌスバウムの絵画が時に見せる強い表現力に表われているかもしれない──とともに、アンリ・ルソーの生きものたちへの愛に満ちた素朴さも愛したという。1930年に描かれたという「集団の肖像(Bildnisgruppe)」は、ルソー的な素朴さがユダヤ的とも言える率直さと合致した作品と言えようが、ヌスバウムはやがてルソー的な要素を、アイロニカルに、時には自分自身への皮肉も込めて、作品に盛り込むようになる。後者の点がとくに強く表われているのが、1937年の「兄弟と一緒の自画像(Selbstbildnis mit Bruder)」であろう。兄弟の像を前後に並べ、高らかに笑う弟の姿を、もう一方の愁いに満ちた自画像が半分隠している。その様子自体が、ヌスバウムの絵画の自画像なのかもしれない。そして後に見るように、自画像こそ、彼が苦しく、また恐怖に囲まれた状況にあっても芸術家としての矜恃を保つ場であった。
 最初の部屋には、ヌスバウムの父親の肖像が置かれていて、知性に満ちた父親への尊敬の念とともに、画家の鋭い観察眼──そこにはモディリアーニを思わせるところもある──を感じさせる見事な作品と映った。そこには自分の旧作が画中画として引用されているが、引用の技法もまた、ヌスバウムの芸術を特徴づけるものと言えよう。これも後に見るように、彼は自画像などを、より大きな規模の作品にたびたび引用している。なお、亡命以前の作品としては、ユトリロを思わせる構図の風景画とともに、ユダヤ人の男女の肖像とともに、オスナブリュックのシナゴーグの内部空間を描いた「二人のユダヤ人(Die beide Juden)」(1926年)が興味深い。とくに女性の表情からは強い意志を感じる。この絵は、当地のユダヤ人の教団報にも載ったという。
 次の部屋のテーマとなっていたのが静物画であった。解説によると、ヌスバウムは静物画によって「見かけは無垢の世界」を描こうとしたと語っていたそうだが、そこには見かけの無垢さ、あるいは無害さを突き抜けて、ヌスバウムの心理状態が色濃く表われている。そのことをいきなり突きつけられた思いで見たのが、1943年に描かれた「アフリカの彫刻のある風景(Stillleben mit aflikanischem Skulptur)」であった。画面の中央には、アフリカから輸入されたと思われる素朴な木彫の人物像が置かれているが、そのところどころが壊れている。しかも、その彫像はちょうど首吊りのような格好で支えられているのだ。その背後にはモノクロームの楽園的な風景。失われた楽園の光景と言うべきだろうか。ヌスバウムの絶望と死に対する恐怖の両方が表われた静物画と言えようが、それでも画面が完全にユーモアを失っていないところには、観察者としての画家の存在を感じる。静物画ではほかに、黒で覆われた「猫のいる静物画(Stillleben mit Katze)」(1941年)も眼を惹いた。亡命先で息を潜める画家の心境を表わしているのだろうか。
 今回ヌスバウムの作品をまとまったかたちで見て、彼の芸術の多面性に触れることができたのも収穫だった。彼はベルリン時代の末期に、映像作家と協力して、ユーモラスで、少し奇想天外なところのあるアニメーション映画を作ろうと企てていたようだ。また、同時代の人々の心理に深く分け入ってそれを寓意的に、かつユーモラスに描く、優れて風刺的とも言える絵画を、雑誌(Querstand誌)の表紙に寄せてもいる。こうした活動のあいだ、ヌスバウムは画家として地歩を築く手応えを得ていたかもしれない。しかしその道は閉ざされていく。彼のベルリンのアトリエは火災(ナチスの放火とも言われる)に遭い、150点に及ぶという作品を失った。そして、ヒトラーの政権掌握とともに、亡命を余儀なくされることになる。そのことを暗示するかのように、美術館の展示空間は徐々に狭まっていった。このあたりに忘却にこうする美術館というリベスキンドの建築構想と、ヌスバウムの生涯との呼応を感じることができるのかもしれない。
 さて、次の部屋には、ヌスバウムの亡命時代の自画像がまとめて展示されていた。そのどれもが、彼の生に対する態度と芸術の両方を凝縮された仕方で表わしているように思われたが、なかでも手で口を覆った「アトリエの自画像(Selbstbildnis im Atelier)」(1937年)は、亡命の境涯で画家として語ること──すなわち表立って自分を表現することを──禁じられている状況と、その状況に戦いて言葉を失っていることを一つながらに表わしているように見えた。画面の右下の隅が塗り残されているのが痛々しい。この自画像と同じ年には、「シュルレアリスティックな風景の自画像(Selbstbildnis in surrealer Landschaft)」も生まれている。近代的な都市の鉄塔のあいだから、目をぐっと見開いた画家の顔がのぞいている。この絵は、ほぼ同時期に描かれた靉光の「眼のある風景」を思わせるところがある。ヌスバウムの作品は、物質の量感が迫ってくるかのように塊を彫り出す靉光のマチエールとは対照的に、きわめて禁欲的な画面を呈しているが、両者の芸術には、時代を見通す眼差しを追究する点でどこか通底するものがあるように思えてならない。自画像ではもう一つ、「イーゼルの傍らの自画像(Selbstbildnis an der Stafferei)」(1943年)も印象的だった。イーゼルの前では、画家が澄んだ眼でこちらを見つめているが、その手には楯のようにパレットが握られている。創作の場の静けさを暴力から守ろうとする、せめてもの抵抗だろうか。イーゼルの前の机には、三本の壜が置かれ、その一本には髑髏の印のラベルが貼られている。そこに入っているのは、自殺用の毒薬にちがいない。芸術家として死ぬことをも辞さない覚悟を静かに、そしてそうであるがゆえにぎくりとさせる仕方で表わした作品である。
 自画像が集められた一室には、同時にほとんど無数と言ってよいシリコンで取った顔型──安部公房の『他人の顔』を思い起こさせる──を並べて中空に漂わせたペシュタのインスタレーションも置かれていた。ペルソナの漂いとでも言えようか。素顔を隠す仮面であることと、自分自身を響き出させることのあいだで揺れ動く顔そのもののありかたに踏み込みながら、それこそ無数の自画像を描いたとも言えるヌスバウムの芸術との対話を試みた作品と言える。それを展示することで、現代の表現とヌスバウムの半世紀以上前の表現が相互に照射し合う空間が生まれていたことは、造形作品の展示を考えるうえでも実に示唆的に思えた。
 自画像に続いては、1940年代の比較的規模の大きな作品が展示されていた。画家の最期の時期の透徹した眼差しによって貫かれた作品ばかりである。最初に目に入ったのは、ヌスバウムが敵性外国人として収容所に囚われたときの経験を土台に描かれた「サン・シプリアンの囚人たち(Gefangene in Saint Cyprien)」(1942年)。肩を落とした囚人たちの特徴的な姿を、フラ・アンジェリコの画面を思わせるような静かで緻密ななタッチで、伝統的な「四つの気質」の主題に即して寓意的に描いている。その1年後から制作されたとされる「呪われた者たち(Die Verdammten)」(1944年)の画面は、後期ゴシックから16世紀にかけてのフランドルの──ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの名を思い起こさずにはいられなかった──祭壇画、それも殉教者を描く祭壇画のように、絶望して死を待つユダヤ人たちの群像を、廃墟と化した街のなかに描いている。実際その背後には棺桶を担ぐ死神が近づいているのだ。そしてその群像のなかに、ヌスバウムは、あの「ユダヤ人の身分証をもつ自画像」を引用しているのである。ヌスバウムの顔は、じっとこちらを見つめ、憔悴しきったユダヤ人が死に追いやられていく状況を見通そうとするかのようだ。このように、死の恐怖に取り囲まれ、生存そのものが困難な状況に置かれながら、あくまでその状況を見通し、それに画家として立ち向かおうとするヌスバウムの矜恃のうちに、フランドルのもう一人の画家と相通じるものを見て取らないわけにはいかない。ピーテル・ブリューゲルである。絞首台の上の小鳥として自分を画面に描き入れた彼もまた、同時代に生きる人々の姿を寓意的に描き、その生命力を肯定しながら、人々を取り巻く状況を見通していた。ヌスバウムには、20世紀のブリューゲルのような側面があるとまでは言えるかもしれない。それを彼が亡命したフランドルで身につけたのではないか。ブリューゲル的な観察者の存在を、「手回しオルガン師(Orgelmann)」(1943年)にも見て取ることかもしれないが、この作品はさらに謎めいている。死に覆われ、破壊された街のなかにオルガン師が独り佇んでいるが、そのオルガンのパイプもまた人骨である。彼は人々の死を見届け、その骨を拾ってきたのか、それとも死を奏でる死神の友なのか。
 ヌスバウムの最期の作品と言われているのが、「死の勝利(Triumph des Todes)」(1944年)である。これはひとまず、中世以来の「死の舞踏」のモティーフを借りながら、人間がもたらした人間の文化の破滅を描いた作品と言えよう。ラッパやクラリネット──軍楽隊で使われる楽器ばかりだ──を手にした骸骨たちが高らかに「死の勝利」を奏でる下で破壊されているのは、書物、楽譜、タイプライター、フィルム、パレット、観測器具など、どれも広い意味でアートに関わる品々ばかり。世界の広大さを測りながら、そこに生きることをその奥底から表現してきた文化が滅び去っていくさまを突きつけて止まない。そして、それが同時代の出来事であることを、画家はそれとなく示唆している。作品が完成した日付である「1944年4月18日」の文字が新聞の日付として描かれているのである。死神がクラリネットを吹く背後では、機関砲の砲口がクラリネットと同じ方向を向いている。ちなみに、この作品と同じ年に、ホルクハイマーとアドルノは亡命先のカリフォルニアで『啓蒙の弁証法』を著わしている。それが論じている、啓蒙が野蛮へと堕していく過程でまき散らされる暴力を、ヌスバウムの「死の勝利」ほどに克明に描き出した作品を知らない。
 続く展示室には、ダニエル・ペシュタの作品がまとまったかたちで展示されていた。それもまた、ヌスバウムの芸術との対話として展示されているようで、端的に「フェリックス・ヌスバウムのための天使」と題された作品以上に、「天使たちが生き残る」と題された作品が、先ほどの「死の勝利」に呼応する作品と言えるかもしれない。原子爆弾か水素爆弾のものであろうキノコ雲のなかへ、内側からすでに灰と化した無数の人々が吸い込まれていく。そのなかに、画面に貼り付けられた格好の白い人物像がいくつか見られるが、それは生き残った天使のようでもあり、核爆発によって殺された人々の変容したした姿のようでもある。ペシュタという作家は、記憶の揺らぎや人間の自己同一性の不確かさに関心があるようで、遺伝的なものや写真による同一性の確認を揺さぶる作品がいくつか展示されていた。チェコ出身で、民主化のための地下活動にも関わった経験もあるという。今後注目してよい作家かもしれない。
 別の一室には、ヌスバウムの「折り畳み本(Faltbuch)」(1933年)と、リベスキンドによる美術館の設計構想が並べられていた。リベスキンドは、ほとんど抽象画のようなこのヌスバウムの作品からインスピレーションを得て、「出口のない美術館」、また「絵のように建てられた建物」として美術館を構想したという。ここ以外に、ヌスバウムの作品とリベスキンドの建築が直接対話する場面は見られなかったとはいえ、ヌスバウムの生涯と芸術をリベスキンドなりに汲み取ってこの美術館が設計されていることは、内部空間を歩いていてよく伝わってくる。建物が交差することによって生まれる空間には、廃墟にあったと思われる石材を組み合わせて、十字が造られていた。それもだんだんと苔むしている。それもまた廃墟を思わせるが、そうすると、ここにあるのは廃墟、ないしは儚さの表現を含み込んだ建築なのかもしれない。
 フェリックス・ヌスバウム美術館を出て、旧市街をしばらく歩くと、エーリヒ=マリア・レマルク博物館が見つかった。『西部戦線異状なし』で知られるこの作家の生涯と作品を紹介していたが、彼の作品はナチスによる焚書に遭ったという。なお、この博物館は平和センターを兼ねていて、ロビーでは、広島と長崎の資料館の資料を用いて小さな「原爆展」が開かれていた。原爆の被害を伝える展示に、ドイツで、しかもドイツ語で再会するのは不思議な感じだが、遠くで起こった場所のことを進んで展示する姿勢には学ぶべきものがあろう。それに、ヌスバウム美術館が造られたこと自体、ナチスの時代とそのなかで跋扈した人種主義の暴力に対する真摯な反省を抜きにしては考えられない。しかも、そこに今展示されているペシュタの作品は、人種主義を現在の問題として問うてもいる。ちなみに、オスナブリュックには、暴力に立ち向かうモニュメントが街の至る所に置かれている。むろん、現在の街から暴力の問題が一掃されてはいないようではあるけれども。

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