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下鴨車窓『人魚』公演に触れて

 昨日(2011年8月3日)は、アステールプラザの多目的スタジオで行なわれた下鴨車窓の『人魚』の公演を見て、その後この作品の脚本家であり、かつ演出家である田辺剛さんとのアフター・トークに参加させていただいた。この『人魚』という作品は、古来セイレーンやローレライの名で知られる、船乗りたちを歌で魅惑し、海の底へ追い落とす、時代を超えた水の精にまつわる伝承を下敷きにしながらも、人魚を自然の人知を超えた猛々しさを突きつける存在として、かつ従来の美しい人魚像を破壊する生き物として舞台に載せるとともに、それを今日の社会、とりわけ2011年3月11日以後の社会に問いを突きつける寓意像に仕立て上げることに成功した、希有な作品と言えよう。
 ドラマの筋は、村の漁師たちを次々に餌食にしてきた人魚が、多くの犠牲を払いながらもようやく網に捕らえられたが、その後海では魚が獲れなくなるばかりか、好奇心に駆られた村の子どもに続いて、人魚の世話を委されてきた兄妹の妹の恋人と、人魚に近づいた村人も犠牲になるなど、災厄が続くが、そうしたなか、とうとう村そのものが嵐に呑み込まれてしまうという、まったく救いのない物語であるが、それを織りなす小道具の一つひとつが意味深く、作品そのものが寓意像によって織りなされた現代の寓話のようにすら思われてくる。いや、舞台が全体として今ここの寓意なのかもしれない。嵐を前にした廃墟としての村の情景を前にしながら、そのことに思い至るとき、はっとさせられる。
 小道具のなかでとりわけ印象的だったのが、人魚を繋ぐ綱を結わえた椅子。それが、舞台からは見えない人魚の力で引きずられていくのだが、そのありさまが、人間の作り上げた世界の脆さそのものを映し出しているように思われたのだ。当たり前の世界を構成する何気ない一つの事物が、その世界に潜む綻びを突きつけるそのとき、人魚は海の生き物としての力強さを取り戻しているわけだが、それが陸に上げられると、腐っていかざるをえない。人魚は臭いを放ち、そこに蠅がたかるのだ。蠅のたかる人魚というのも、童話的な美しい人魚像を突き崩す卓抜な表現であろう。それは死にゆく生き物の腐敗を表わしながら、同時に生き物を飼い馴らそうとする社会の腐敗を暗示し、その破局を予感させる。そもそも、人魚を捕らえるばかりか、それを商売の道具にしよう──村の長老たちは、ついには人魚をサーカスに売ろうとまで企てる──というところに、どこか腐ったものが潜んでいるのだ。
 人魚というのは、太古以来の人間の神話的な世界像が投影された、実在することのない半人半魚の水の精であるが、それが人を破滅へ誘うという多くの人魚に共通する特性は、生命の糧となる自然の豊饒さと、その人知を超えた恐ろしさを一つながらに表わしているのかもしれない。今回の舞台では、人魚が人を食らうということが、性愛としての「食べる」行為とも重ねられていたのが興味深かった。そのように、人魚が豊かでありながら恐ろしいことの表現が、抗しがたい魅力をもった歌なのであろう。それは人間の、自然にじかに晒された感受性に直接作用し、人間を揺さぶるばかりか、そのなかに自然の母胎へ回帰したいという欲動さえ引き起こすのだろう。しかし、この資本主義的合理性に毒された漁村にあって、人魚の歌を聴くことができるのは、お払い箱にされつつある占い師だけである。そのことは、合理性の道具になることによって、もしかしたら身体で歌うことも、歌を聴くことさえもできなくなってしまっているかもしれない私たちの姿を浮き彫りにしているのかもしれない。
 おそらく『人魚』という救いのないドラマのなかに一つ未来につながる要素があるとするならば、それはこのように、私たちが生き物としての生のうちにあったものを見失いつつあるのに気づかせるところかもしれない。一つの社会の崩壊の後に、そして放射能という生命の根幹を脅かすもの──これもまた腐った合理性が撒き散らしたものだ──に曝されているなかで、生き物としても生きていく余地をどのように切り開いていけるかを、『人魚』の舞台は問いかけているかもしれない。朽ち果てつつあるこの社会と同様に合理性が支配しつつある漁村の社会に、拭い去りがたい血腥さがあることは、人魚の餌食になった男の血をいくら拭きとろうとしても広がっていくばかりの血糊が生々しく示していよう。そして、この社会は凄まじい嵐のなかに消えていく。では、その恐怖のうちにある予感をどのように受け止めうるのか。『人魚』という予言的な寓話は問いかけているのではないだろうか。
 すでに挙げた細かな表現を含め、演出は非常に洗練された、凝縮度の高いもので、かつ着想──そこにベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』などが影を落としているのは疑いえないし、あるいはそこにカフカが書いた「セイレーンの沈黙」も加えることができるかもしれない──の深さを感じさせる。また、俳優たちの渾身の演技も光った。とくに人魚のふてぶてしさと弱さをさまざまに声色を変えて、さらには迫真の咳まで交えて表現した川面千晶の演技は圧巻だった。また、占い師を演じた大熊ねこの声は、地の底から響いて、情景全体を包むようで、一人の声でありながら村の崩壊を見守るコロスか地謡のように思われ、とくに心に残った。

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