« 2011年2月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月

ベルリン旅日記(2011年7月17日)

 午前中、以前から気になっていたホテル近くのケーテ・コルヴィッツ美術館を訪れる。からりと晴れた素晴らしい天気だったので、11時の開館まで中庭の散策を楽しむことができた。木々の緑と白い紫陽花の花が夏の陽に映えて美しい。美術館は個人の邸宅を改装したもののようで、白壁の美しい縦長の建物だった。
 美術館の内部では、ケーテ・コルヴィッツの生涯と作品が年代順に展示されていて、大きな彫刻作品はそれほど多くはないものの、主要作品に至るプロセスが、素描や書簡、習作として作られた油彩画や塑像によって描き出されている点、興味深い。とりわけ生身の人間の生に対するほとんどエロティックなまでの慈しみのなかから、肩を震わせて戦争に抗うあの彫刻作品群が生み出されていることがよく伝わってくる。その慈しみは、とりわけ第一次世界大戦で戦死した息子ペーターの不在の身体を前にして、いやがうえにも増幅されていたことだろう。ドイツ農民戦争から現在の戦争の凄惨さを照らし出す「戦争」連作も、あらためて味わってみたい。たしかその版画の一部が沖縄の佐喜眞美術館にあったはずだ。
 午後は、ベルリン在住の友人と会ってゆっくりと昼食。行きつけになっているルートヴィヒ教会の前のレストランは、ライン地方のフラメクーヘン(四角いピザのようなオーブン料理で、フランスのアルザス地方にも同様のものがある)を出すようになっていた。試してみると、生地が非常に香ばしい。食後にコーヒーを2杯頼んで話し込んだ。私たちは、風が強くなったこともあって屋内の席へ移動したが、屋外の席に粘っている客もいる。そうして陽光を味わっているのだろうか。
 夕方は、コーミッシェ・オーパーでヴァーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を見た。実演に接するのは初めてである。シーズン最後の自主公演だからだろうか、客にワインが振る舞われていた。粋な気遣いである。席に着いてみると、椅子の上に字幕を表示する装置が新たに備えつけられている。英語とドイツ語から字幕を選べるようだ。このご時世、すべてドイツ語で通す(この劇場ではどの作品もドイツ語で歌われる)わけにはいかない、ということだろうか。
 今回の公演は、パトリック・ランゲの指揮、アンドレアス・ホモキの演出。若いランゲのきびきびとした音楽の運びを基調としながら、歌うべきところはしっかりと歌わせる指揮が心地よい。ここぞというところで即興的な溜めを作るのに付いて行ききれなかったところがあったとはいえ、オーケストラは実に力強い響きでそれに応えていた。弦楽器と管楽器がよく溶け合った響きの厚みは素晴らしく、この劇場のオーケストラの実力をあらためて実感させられた。この劇場で時折心配になる合唱とのアンサンブルも、今夜は最後まで保たれていて、幕切れ近くのオーケストラと合唱が一体となった響きは圧倒的だった。
 ホモキの演出は、例によって傾斜をかなりきつく作った舞台の上に、おそらくスチロールか何かで作った、ニュルンベルクの建物を模したと思われる、人が入れるくらいの小屋を転がして、場面ごとの秩序や混乱を表現するもの。第二幕の喧嘩の場面の後は、その小屋が倒れて折り重なっていた。それはそれでドラマの進行をよく表現していたように思うが、その小屋自体が何とものっぺりとした感じで、終幕で色づけされても、どうにも舞台が締まらない印象を受けた。登場人物の衣装などは、多少現代風の色づけがなされているが、おおむねオーソドックスなスタイル。ザックスとベックメッサーがはっと顔を見合わせる幕切れは、思わずにやりとさせられる小粋な演出と思う。ザックスとヴァルターの勝利で終わらせないという演出の行き方は、非常に好感がもてる。ちなみに、エヴァはザックスの父性に対して断ちがたい思いを抱き続けているようで、最後はヴァルターはほとんど振られてしまったように見える。
 歌手のなかでは、ザックス役のトマーシュ・トマソンが圧倒的な歌唱を聴かせてくれた。最後の「ドイツの芸術」を讃えるくだりなど感動的ですらあった。ベックメッサー役のトム・エリック・リーの巧みさも印象に残る。ベックメッサーの不器用な生真面目さが、逆に魅力的にも思われた。ヴァルター役のマルコ・イェンチュは当初危なっかしいところも見られたが、肝心の自作の歌を披露するあたりでは、非常に美しい声を聴かせていたと思う。エヴァ役のイーナ・クリンゲルボルンはもう少し存在感を強調してもよかったかもしれない。むしろダフィートとマグダレーネのほうが目立っていた。それが示すように、脇役たちにも隙がなかったのも今回の公演の美点であろう。音楽を聴くだけでも満足度の高い舞台だったように思う。第三幕の重唱など本当に美しかった。
 劇場を出ると雨が強くなっていたので、屋根のあるところを伝うようにしてフリードリヒ通りの駅へ向かう。途中ウェスティン・グランデの喫茶で点いていたテレビを覗くと、サッカーの女性のワールドカップの決勝が延長に入っていた。さて、どうなるかと思いつつホテルに帰ってテレビを点けると、ちょうどPK戦が始まるところで、例のなでしこジャパンが優勝を飾る瞬間を見ることになった。帰りのフランクフルトから成田へ向かう飛行機も、彼女たちと一緒になったようで、成田では消防車の放水と、報道陣のカメラの放列に迎えられることになった。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルリン旅日記(2011年7月16日)

 疲れを取る意味もあり、寝坊してから少し遅めに朝食へ降りると、朝食会場のサロンは満席。これほどの観光客が泊まっていたのか、と思う。やはり観光シーズンであることを実感させられる。しばらく部屋で待って出直しても席は空かない。週末ということもあり、みなゆっくりと朝食を楽しんでいるのだろう。結局相席させてもらうことになった。
 今日は夕方に国立歌劇場で細川俊夫さんの『松風』の公演を見ることになっているが、それまでは空いている。そのあいだ絵を見たいと思って、ポツダム広場へ向かった。地下鉄に乗る前に、札を小銭に替えたいこともあって、近くの文学館内の書店に立ち寄り、アライダ・アスマンの記憶と歴史の関係を扱った一冊を買い求めた。いつもどおり地下鉄2番線に乗り換えてポツダム広場へ行こうとしたが、途中が工事中で、いったん12番線に乗り換えることに。いつもの倍の時間がかかった。
 新国立美術館をのぞいてみると、ドイツ語で»Moderne Zeiten«というテーマの特別展示があり、面白そうな印象を受けたので、見ることにする。どうやら、ベルリンでのチャップリン全作品の上映とも関連した収蔵作品展のようで、実際会場のなかで『モダン・タイムス』、すなわち»Moderne Zeiten«の一部も上映されていた。20世紀前半の絵画と同時代(Moderne Zeiten)との関わりに光を当てた展示で、都市、技術文明、貧困などの社会問題、戦争などと絵画の関わりを、テーマごとに探るもので、展示そのものは非常に興味深く、この時代のとくにドイツの絵画が、いかに同時代の動きに鋭く感応していたかが、ひしひしと伝わってくる。なかでも印象的だったのは、やはり「ポツダム広場」をはじめとするキルヒナーの作品。今回は、水浴に訪れた避暑地で、裸体の女性を自然の風景のなかに溶け込ませ、その身体性を自然の生命の力強さと一体化させている絵画が心に残った。同様のテーマでは、ブリュッケの一員だったミュラーの作品も、キルヒナーとは違った繊細さを示していて美しい。戦争や大戦間期の社会問題に踏み込んだものとしては、やはりディクスの作品が凄い。きわめて伝統的な手法が、戦争の無残さを、人間の醜さを、これでもかと抉り出している。他にクレーの美しい作品がいくつかあった。それもまた技術文明の発展に感応しながら夢想された世界を繰り広げるものだった。
 美術館を出た後、地下鉄は時間がかかるので、フィルハーモニーの裏からバスを乗り継いでホテルへ戻り、ひと休みした後、シラー劇場を間借り中の国立歌劇場へ向かう。ザヴィニー広場の駅をくぐって北上すれば、歩いて10分強で行ける距離である。そこで細川俊夫さんの新作のオペラ『松風』の公演を見たわけだが、これは能の名曲「松風」をオペラへ翻案したものである。ベルリン国立歌劇場で行なわれたそのベルリン初演の今日は中日だった。
 「松風」のような夢幻能において表現されるのは、過去が浸透した時間とひとまず言えようが、そのような時間が、今回の公演では緊張感に満ちた音楽と多彩な身体表現をもって説得的に表現されていた。とりわけ、死者と生者が共存する時間が自然の風景のなかにあることが強調されていたことが、『松風』の世界を豊かにしていたように思われる。なお本作品は、5月初旬にブリュッセルのモネ劇場で世界初演された後、すでにワルシャワとルクセンブルクで上演されている。とくに今回の公演では、一人のダンサーが、無数の黒い糸によって織りなされた網のような壁を少しずつ手前に引いてくることによって、夜の帳が降り、死者の魂が現われる世界が開けるのが表現されていた。深沈とした音楽に乗って、夜闇がだんだんと迫ってくる。そしてその奥からは、謡曲でも歌われるとおり、満月が顔をのぞかせている情景は、今回の演出において最も魅力的であった。また、その網のような壁を伝って降りてくる松風と村雨の姉妹の魂の二重唱は、『松風』の音楽の白眉だったように思われる。
 微かに響き始める波打ち際の水音で始まり、地謡のような合唱が、朝日を湛えた村雨の露の残る松のあいだを潮風が吹き抜ける風景を静かに歌うなか、息の音で表現される風の音が徐々に静まって幕切れを迎える『松風』は、どこか前作のオラトリオ「星のない夜」を思わせる。こちらの作品は、けっして美しいだけではない、どこかおぞましくさえある季節の廻りが予感させる、いつまでも続くかのように思われる、忘れっぽい人間の暴力の歴史の連続のなかで起きた、1945年の二つの凄惨な出来事、すなわちドレスデンの空襲と広島への原子爆弾の投下を想起するとともに、これらの犠牲者の魂の救済を祈る場がやはり自然の風景のなかにあることを暗示するものであったとするならば、新しいオペラ『松風』は、祈りの場が自然のなかにあるのはなぜかを示すものと言えよう。須磨の浦のような自然の風景のなかに、その振動に生者の身体が共振するなかに、死者の魂は回帰してくる。そのとき、その魂は現世への断ちがたい思いを抱いているのだ。立ち止まって、風のそよぎに耳を澄ますとき、そうした魂の奥底からの叫びが聞こえるかもしれない。須磨を訪れた僧のように静かに佇むこと、そうして自然と自分の身体が触れ合うばかりか、両者が相互に浸透し合っているのを感じ取るとき、自分のなかに死者の魂がふと姿を現わすのかもしれない。そして、3月11日の後の今こそ、そのような経験をつうじて、死者の声が聴き届けられなければならないのではないだろうか(本公演について詳しくは以下を参照されたい:http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Matsukaze_Berliner_Staatsoper_16072011.htm)。そうした思いを抱きながら、夜遅くホテルへ戻った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルリン旅日記(2011年7月15日)

 細川俊夫さんの新作の歌劇『松風』の公演を見るために、ベルリンへ向かった。公演は16日の夜、ベルリン国立歌劇場(シラー劇場)にて。18日の月曜日が祝日なので、3泊5日で行くことができたのだった。ただ、ベルリンへ行くと決めたのがやや遅かったので、航空券がなかなか取れず、往路は結局仁川経由の便を手配してもらった。乗り継ぎだけながら、初めての韓国である。広島からアシアナ航空の仁川行きに乗り、仁川でルフトハンザのミュンヘン行きに乗り換え、ミュンヘンからベルリンまでは1時間足らずのフライト。仁川が梅雨前線の影響か、かなりの雨で、ミュンヘンへの出発が遅れ、やきもきさせられたが、ベルリンへのフライトには間に合った。ミュンヘン行きの機内食にビビンパが出てきて、コチュジャンが付いてきたのにはさして驚かなかったが、着陸前のパスタの食事にもコチュジャンが同じように付いてきたのには少し驚かされた。そういう習わしなのだろうか。ベルリンに20時過ぎに着いたら少し肌寒い。
 機内で読んだのは、白洲正子の『能の物語』(講談社文芸文庫)と原民喜の『夏の花』(岩波文庫)。前者は、「井筒」、「熊野」、「隅田川」など、能の名作21篇の謡曲を、物語として語り直したもの。基本的に七五調の韻文で書かれ、背景の叙述や情景の描写が省略された謡曲のテクストを、描写的な散文へ翻訳し、作品世界へ読者を誘う。その際、謡曲に一部が引用される和歌が、原作へと言わば訳し戻され、それに最小限の注釈が付されていることが、それぞれの物語を味わい深いものにしている。白洲正子の端正で陰影豊かな文体も、「能の物語」に相応しい。謡曲を散文へと渡すことによって、生死の境を越えたところにある夢幻能の世界へ誘う好著であるが、「松風」が取り上げられていなかったのが少し残念。
 ここのところ夏ごとに読み返している原民喜の『夏の花』であるが、今年は先日『映像の芸術』を読んだ佐々木基一の解説の付いた岩波文庫版を、ドイツへの機内で読むことになった。原自身の編集による能楽書林版(そうすると読んだ本二冊がともに能に関わりがあったことになる)を再現したもので、「燃エガラ」という詩や、「小さな村」などの小説なども収められている。あらためて原の透徹した眼差しに打たれるが、「夏の花」三部作が、原爆の惨劇を戦争という文脈のなかにしっかりと位置づけていることは、もう少し強調されてもよいのではないだろうか。それは原が、軍都廣島で軍人相手の商売をしていた商店に生まれたからこそ可能なのかもしれない。今回初めて読んだ「昔の店」という掌編には、何人もの従業員を抱える大きな軍御用達の商店で育った原の幼年時代が、アンビヴァレントな思いを込めて描かれている。ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」と照らし合わせてみたい作品である。
 今回読み直して一つ気がついたのが「頑張る」という語の用法。原の使い方に従えば、「頑張る」のはまず軍人であり、軍人はまた非戦闘員に「頑張る」ことを強いるのだ。壇上に頑張って、防空演習に集まった住民を睥睨し、防空要員として広島に頑張ることを住民に強いるのだ。そのさまが描かれる「壊滅の序曲」の世界が、今ここと符合するように思えてならない。節電を頑張ることを、それどころか福島の人々は、被曝の危険が大きい場所に頑張ることをも強いられるこの夏の後に、「福島で原子炉の爆発が起き、大量の放射性物質がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった」と書くことになるのだろうか。「脱原発」をめぐる日本の状況は、ドイツのメディアでも大きく取り上げられていた。こちらのほうが、それぞれの政治家の立場は明確に描かれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年2月 | トップページ | 2011年8月 »