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ベルリン旅日記(2011年7月16日)

 疲れを取る意味もあり、寝坊してから少し遅めに朝食へ降りると、朝食会場のサロンは満席。これほどの観光客が泊まっていたのか、と思う。やはり観光シーズンであることを実感させられる。しばらく部屋で待って出直しても席は空かない。週末ということもあり、みなゆっくりと朝食を楽しんでいるのだろう。結局相席させてもらうことになった。
 今日は夕方に国立歌劇場で細川俊夫さんの『松風』の公演を見ることになっているが、それまでは空いている。そのあいだ絵を見たいと思って、ポツダム広場へ向かった。地下鉄に乗る前に、札を小銭に替えたいこともあって、近くの文学館内の書店に立ち寄り、アライダ・アスマンの記憶と歴史の関係を扱った一冊を買い求めた。いつもどおり地下鉄2番線に乗り換えてポツダム広場へ行こうとしたが、途中が工事中で、いったん12番線に乗り換えることに。いつもの倍の時間がかかった。
 新国立美術館をのぞいてみると、ドイツ語で»Moderne Zeiten«というテーマの特別展示があり、面白そうな印象を受けたので、見ることにする。どうやら、ベルリンでのチャップリン全作品の上映とも関連した収蔵作品展のようで、実際会場のなかで『モダン・タイムス』、すなわち»Moderne Zeiten«の一部も上映されていた。20世紀前半の絵画と同時代(Moderne Zeiten)との関わりに光を当てた展示で、都市、技術文明、貧困などの社会問題、戦争などと絵画の関わりを、テーマごとに探るもので、展示そのものは非常に興味深く、この時代のとくにドイツの絵画が、いかに同時代の動きに鋭く感応していたかが、ひしひしと伝わってくる。なかでも印象的だったのは、やはり「ポツダム広場」をはじめとするキルヒナーの作品。今回は、水浴に訪れた避暑地で、裸体の女性を自然の風景のなかに溶け込ませ、その身体性を自然の生命の力強さと一体化させている絵画が心に残った。同様のテーマでは、ブリュッケの一員だったミュラーの作品も、キルヒナーとは違った繊細さを示していて美しい。戦争や大戦間期の社会問題に踏み込んだものとしては、やはりディクスの作品が凄い。きわめて伝統的な手法が、戦争の無残さを、人間の醜さを、これでもかと抉り出している。他にクレーの美しい作品がいくつかあった。それもまた技術文明の発展に感応しながら夢想された世界を繰り広げるものだった。
 美術館を出た後、地下鉄は時間がかかるので、フィルハーモニーの裏からバスを乗り継いでホテルへ戻り、ひと休みした後、シラー劇場を間借り中の国立歌劇場へ向かう。ザヴィニー広場の駅をくぐって北上すれば、歩いて10分強で行ける距離である。そこで細川俊夫さんの新作のオペラ『松風』の公演を見たわけだが、これは能の名曲「松風」をオペラへ翻案したものである。ベルリン国立歌劇場で行なわれたそのベルリン初演の今日は中日だった。
 「松風」のような夢幻能において表現されるのは、過去が浸透した時間とひとまず言えようが、そのような時間が、今回の公演では緊張感に満ちた音楽と多彩な身体表現をもって説得的に表現されていた。とりわけ、死者と生者が共存する時間が自然の風景のなかにあることが強調されていたことが、『松風』の世界を豊かにしていたように思われる。なお本作品は、5月初旬にブリュッセルのモネ劇場で世界初演された後、すでにワルシャワとルクセンブルクで上演されている。とくに今回の公演では、一人のダンサーが、無数の黒い糸によって織りなされた網のような壁を少しずつ手前に引いてくることによって、夜の帳が降り、死者の魂が現われる世界が開けるのが表現されていた。深沈とした音楽に乗って、夜闇がだんだんと迫ってくる。そしてその奥からは、謡曲でも歌われるとおり、満月が顔をのぞかせている情景は、今回の演出において最も魅力的であった。また、その網のような壁を伝って降りてくる松風と村雨の姉妹の魂の二重唱は、『松風』の音楽の白眉だったように思われる。
 微かに響き始める波打ち際の水音で始まり、地謡のような合唱が、朝日を湛えた村雨の露の残る松のあいだを潮風が吹き抜ける風景を静かに歌うなか、息の音で表現される風の音が徐々に静まって幕切れを迎える『松風』は、どこか前作のオラトリオ「星のない夜」を思わせる。こちらの作品は、けっして美しいだけではない、どこかおぞましくさえある季節の廻りが予感させる、いつまでも続くかのように思われる、忘れっぽい人間の暴力の歴史の連続のなかで起きた、1945年の二つの凄惨な出来事、すなわちドレスデンの空襲と広島への原子爆弾の投下を想起するとともに、これらの犠牲者の魂の救済を祈る場がやはり自然の風景のなかにあることを暗示するものであったとするならば、新しいオペラ『松風』は、祈りの場が自然のなかにあるのはなぜかを示すものと言えよう。須磨の浦のような自然の風景のなかに、その振動に生者の身体が共振するなかに、死者の魂は回帰してくる。そのとき、その魂は現世への断ちがたい思いを抱いているのだ。立ち止まって、風のそよぎに耳を澄ますとき、そうした魂の奥底からの叫びが聞こえるかもしれない。須磨を訪れた僧のように静かに佇むこと、そうして自然と自分の身体が触れ合うばかりか、両者が相互に浸透し合っているのを感じ取るとき、自分のなかに死者の魂がふと姿を現わすのかもしれない。そして、3月11日の後の今こそ、そのような経験をつうじて、死者の声が聴き届けられなければならないのではないだろうか(本公演について詳しくは以下を参照されたい:http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Matsukaze_Berliner_Staatsoper_16072011.htm)。そうした思いを抱きながら、夜遅くホテルへ戻った。

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