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ベルリン旅日記(2011年7月15日)

 細川俊夫さんの新作の歌劇『松風』の公演を見るために、ベルリンへ向かった。公演は16日の夜、ベルリン国立歌劇場(シラー劇場)にて。18日の月曜日が祝日なので、3泊5日で行くことができたのだった。ただ、ベルリンへ行くと決めたのがやや遅かったので、航空券がなかなか取れず、往路は結局仁川経由の便を手配してもらった。乗り継ぎだけながら、初めての韓国である。広島からアシアナ航空の仁川行きに乗り、仁川でルフトハンザのミュンヘン行きに乗り換え、ミュンヘンからベルリンまでは1時間足らずのフライト。仁川が梅雨前線の影響か、かなりの雨で、ミュンヘンへの出発が遅れ、やきもきさせられたが、ベルリンへのフライトには間に合った。ミュンヘン行きの機内食にビビンパが出てきて、コチュジャンが付いてきたのにはさして驚かなかったが、着陸前のパスタの食事にもコチュジャンが同じように付いてきたのには少し驚かされた。そういう習わしなのだろうか。ベルリンに20時過ぎに着いたら少し肌寒い。
 機内で読んだのは、白洲正子の『能の物語』(講談社文芸文庫)と原民喜の『夏の花』(岩波文庫)。前者は、「井筒」、「熊野」、「隅田川」など、能の名作21篇の謡曲を、物語として語り直したもの。基本的に七五調の韻文で書かれ、背景の叙述や情景の描写が省略された謡曲のテクストを、描写的な散文へ翻訳し、作品世界へ読者を誘う。その際、謡曲に一部が引用される和歌が、原作へと言わば訳し戻され、それに最小限の注釈が付されていることが、それぞれの物語を味わい深いものにしている。白洲正子の端正で陰影豊かな文体も、「能の物語」に相応しい。謡曲を散文へと渡すことによって、生死の境を越えたところにある夢幻能の世界へ誘う好著であるが、「松風」が取り上げられていなかったのが少し残念。
 ここのところ夏ごとに読み返している原民喜の『夏の花』であるが、今年は先日『映像の芸術』を読んだ佐々木基一の解説の付いた岩波文庫版を、ドイツへの機内で読むことになった。原自身の編集による能楽書林版(そうすると読んだ本二冊がともに能に関わりがあったことになる)を再現したもので、「燃エガラ」という詩や、「小さな村」などの小説なども収められている。あらためて原の透徹した眼差しに打たれるが、「夏の花」三部作が、原爆の惨劇を戦争という文脈のなかにしっかりと位置づけていることは、もう少し強調されてもよいのではないだろうか。それは原が、軍都廣島で軍人相手の商売をしていた商店に生まれたからこそ可能なのかもしれない。今回初めて読んだ「昔の店」という掌編には、何人もの従業員を抱える大きな軍御用達の商店で育った原の幼年時代が、アンビヴァレントな思いを込めて描かれている。ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」と照らし合わせてみたい作品である。
 今回読み直して一つ気がついたのが「頑張る」という語の用法。原の使い方に従えば、「頑張る」のはまず軍人であり、軍人はまた非戦闘員に「頑張る」ことを強いるのだ。壇上に頑張って、防空演習に集まった住民を睥睨し、防空要員として広島に頑張ることを住民に強いるのだ。そのさまが描かれる「壊滅の序曲」の世界が、今ここと符合するように思えてならない。節電を頑張ることを、それどころか福島の人々は、被曝の危険が大きい場所に頑張ることをも強いられるこの夏の後に、「福島で原子炉の爆発が起き、大量の放射性物質がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった」と書くことになるのだろうか。「脱原発」をめぐる日本の状況は、ドイツのメディアでも大きく取り上げられていた。こちらのほうが、それぞれの政治家の立場は明確に描かれている。

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