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細川俊夫「開花の時」世界初演

 花を見ることは、現に咲いている花の目に見える美しさを愛でることに終わりがちである。つまり、見る者に安らぎをもたらすような花の形態や色彩にのみ心を奪われてしまい、花が一つの生命の活動を表現していることを忘れてしまうのだ。しかし、一つひとつかけがえのない生命の営みを思う視点に立つならば、一輪の花が開くことは、無数の力の場とも言うべき宇宙のなかで行なわれる、緊張に満ちた運動にほかならない。自然界の葛藤のただなかからこそ、一輪の花は立ち現われ、唯一無二の生命をしばし輝かせるのである。
 このような一輪の花の開花の運動を、けっして外から分割されえない「時」の持続において響かせようとしたのが、細川俊夫の新作「開花の時(Moment of Blooming)」なのかもしれない。この作品は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、アムステルダム・コンセルトヘボウ、そしてロンドンのバービカン・センターの共同委嘱作品として書かれ、ベルリン・フィルの首席ホルン奏者シュテファン・ドールに捧げられている。2011年2月10日から12日にかけてサイモン・ラトルの指揮により行なわれたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で、この新しいホルン協奏曲は世界初演の「時」を迎えた。その三日目に立ち会うことができた。
 ホルン協奏曲「開花の時」は、独奏ホルンに二管編成のオーケストラ、それに客席上方に配された二本のホルン、それぞれ一本のトランペット、トロンボーンのために書かれている。作曲者自身が初演に寄せたコメントによれば、独奏ホルンは一輪の蓮の花を具現し、金管楽器の響きによってぐるりと囲まれることになるホールは、全体としてその蓮の花が咲く一つの池をなすのだが、実際演奏は、ひっそりとした池のある風景を思い起こさせる密やかな、それでいて瑞々しい静けさとともに始まった。響きと一つになりたくなるような魅惑的なピアニッシモである。そのなかに、日の光を受けて水面が煌めくのを思わせる鈴の音が響き、生命の息吹が通い始める。その息吹を管楽器奏者の息の音が表現しているわけだが、そのなかから独奏ホルンの音がすっと立ち現われてくる。蓮の生命の営みが始まるのだ。
 独奏を担当したシュテファン・ドールは、ホルンという楽器の幅広い表現力を存分に生かして、蓮の茎や葉が、そして蕾が水底の土壌から伸びてくる運動を実に雄弁に表現していた。ただし、一つの池のなかでそのようにして生きる蓮は一本ではありえない。一輪の蓮の花が開こうとするとき、もういくつもの蓮が生い育ちつつある。あたかも一つの生命に呼応するかのように。そのありさまを、客席に配された二本のホルンが、独奏のエコーを響かせるように表現するわけだが、それがまさに蓮の命が通い合うかのように、よく溶け合った音色で響いたのには驚かされた。オーケストラのなかの緊密なアンサンブルが、フィルハーモニーの広大な空間で生きている。
 蓮の茎と葉が土壌のカオスから──作曲者のコメントに、「泥土の混沌なしに花が天空をさして咲くことはけっしてありえないはずだ」という印象的な言葉があった──もがき出てくるのに、さまざまな生命が呼応し、音楽が高まっていくが、池という生命の営まれる場にあるのは、調和ばかりではない。弦楽器の不吉なコル・レーニョが嵐の訪れを告げ、やがて猛烈な強風が、今にも咲きそうな蓮に吹きつける。そして池を囲む山から吹き下ろすかのような全オーケストラの下降音型に抗して、何とか頭を持ち上げて立とうとする蓮を表現する独奏ホルンとの葛藤が繰り広げられるのだ。
 それが頂点に達すると、時の流れが断ち切られたかのように、静寂が訪れる。そして、充実した、垂直的な高さをもった静けさが空間を満たすなか、独奏ホルンが柔らかに響く。そのときあたかも、蓮が茎を天空へ向けてすっくと伸ばしながら、今まさに己の花を咲かせようとする瞬間が、音となって響いているかのようだった。この作品の白眉とも言うべき「開花の時」である。その開花を優しく包むように音楽がしばし高まった後、静かに曲が閉じられると、一輪の花としてみずからを輝かせるに至る生命への共感に、会場全体が包まれたように見えた。
 ところで、細川俊夫はそのような蓮の生命の営みに、人間の生の営みを重ね合わせているようでもある。その生命も自己自身を表現する。そして、世阿弥の『風姿花伝』が示すように、その表現はしばしば花になぞらえられるのだ。この花としての表現が、泥土のなかからもがき出ることを、また激しい嵐のなかでも矜恃を保って初めてみずからを輝かせられることを、蓮の花をモティーフとしたこのホルン協奏曲は暗示しているのかもしれない。その矜恃とは、作曲家としての細川にとっては、自然と人間の今は失われた照応関係を、音楽のうちに求めようとする姿勢にほかならない。それを貫き、自然と一つになろうとする人間の祈り──細川によると、蓮の蕾は祈る人間の手に似ている──を音楽にする独自の語法を細川が完全に花開かせつつあることを、新作「開花の時」は示していよう。そのような作品が、ベルリンの聴衆に温かく受け容れられたことを、まずは心から喜びたい。そして、この作品ができるだけ早く日本で、とくに広島で鳴り響くことを願ってやまない。
 ちなみに、この優れて自己言及的な作品は、一つの約束が29年遅れで果たされたことを示すものでもある。1982年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団創立百周年を記念する作曲コンクールに、細川は「プレリューディオ」で優勝したが、そのとき優勝者に与えられるはずだった委嘱作品の仕事は、複雑な事情で結局与えられずじまいだったのだ。奇妙なことに、ベルリンのジャーナリズムは、そのことに何ら言及していないようである。昨日の初演は、これから新聞紙上などでどのように報じられ、批評されるのだろうか。

※本記事は、以下のサイトに掲載されているサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会評の抜粋によって構成されています。
http://homepage.mac.com/nob.kakigi/RattleBPh_12022011.htm

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