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2009年9月

ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記VIII

 荷造りをしてホテルをチェックアウトし、ツォー駅へ向けて歩く。13ユーロもする朝食はパスしたので、朝食代わりに通りがかりのソーセージ屋でカレー・ソーセージを食べる。パンを付けて1.35ユーロ。ホテルの朝食の10分の1だが、腹一杯になった。ソースもかなりスパイシーで美味しい。スーパーも見つけて土産のチョコレートを仕入れる。そうこうするうちにツォー駅に到着し、すぐに来たX9のバスでテーゲル空港へ。
 テーゲル空港に着いてしばらくしてもチェックイン・カウンターがなかなか開かないので待っていると、おじさんがやってきて周りと何やら相談した後、手書きの券を渡し始めた。何でも空港のコンピューター・システムがダウンしてしまっているとか。渡された手書きの搭乗券には席の番号も書いていないので、どうなっているのかと訊けば、好きなところに座ってよいとのこと。やれやれという感じだ。
 エコノミー・クラスの一番前の席に座り、コペンハーゲンへ向かう。空港でもらったTagesspiegel紙を広げると、ちょうど20年前の今日、プラハのドイツ大使館へ押し寄せた東ドイツ市民が列車で西ドイツへ入ったとのこと。当時西ドイツの外務大臣だったゲンシャーの手記が載っていた。刻々と変化する情勢に対応しながら、東ドイツの市民にこれほど親身に対応したのは、ゲンシャー自身が東側のハレから出て来たということも要因の一つだろう。非常に感動的な手記だった。
 コペンハーゲンに着いて、東京行きの便のゲートへ向かうと、すでに日本人が群れていてげんなりしてしまう。おまけに機内で隣に座ったのは、子連れの家族の一人で、これにもうんざりした。とても落ち着いて本を読んだりする気にならないうえに、がさごそとやかましくて眠れない。それに故障したヘッドフォンは、こちらから催促に行かないと取り替えてもらえないし、機内食も、行きよりはましながらけっして美味しくはない。今回の往復のフライトで、スカンジナビア航空の印象はかなり悪くなった。
 成田への到着は、予定よりも早まって9時を少し回った頃。おかげで10時の羽田行きのバスに乗れたし、羽田からの飛行機の予約も12時発に変更できた。ただ、羽田からの飛行機が遅れて、広島空港に到着したのは14時近くだった。向こうに何かを残してきたような、どこか落ち着かない気持ちで広島の街に降り立った。

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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記VII

 今朝のレストランは、アメリカ人とおぼしき男たちの集団がいて騒々しい。それにしても、この連中はどうしてこうも不作法なのか。隣の椅子に足を乗せるし、皿に載せずにパンやハムを手づかみで取ってくるし、不愉快なことこの上ない。いそいそと朝食を済ませて部屋に戻ってだらだらとしながらネットでニュースを見たりしているうちに、チェックアウトの時間はいつだろうとふと気になって、ホテルの約款らしきものが書いてある冊子を開いてみると、何と9時から14時までの滞在に追加料金がかかるとある。慌てて荷物をまとめてチェックアウトし、ひとまずカジミエーシュ地区へ向かう。
 まず、一昨日見逃したガリシア・ユダヤ博物館の展示を見る。ホロコーストを生き延びたユダヤ人が、今は地図上に存在しないガリシア地方のユダヤ人共同体の生活を回想して描いた素朴な絵も興味深いが、ガリシア地方のユダヤ人共同体の信仰生活の痕跡や、ポグロムやホロコーストによるその破壊の痕跡などを写真で追った展示がいっそう興味深い。シナゴーグの廃墟や忘れ去られた墓碑などの写真が、共同体が根こそぎにされたことを物語っている。奥に設けられているメディア・センターでは、ちょうど第二次世界大戦が始まる頃のクラクフのユダヤ人の生活を記録した映画を見た。ユダヤ人がカジミエーシュ地区を拠点に生き生きと日常生活を営んでいる姿が映し出されている。英語の字幕が付いているが、ナレーターが語っているのはイディッシュ語のようだ。
 ガリシア・ユダヤ博物館を出た後は、近くにあるスタラ・シナゴーグの展示を見に行く。かつてシナゴーグを彩っていた祭具や古い宗教書が展示してあったが、それほど面白くはない。マイモニデスの書物の17世紀頃のアムステルダムだったかの版を見ることができた。シナゴーグを出た後、路面電車に乗って市街中心へ戻り、城内にあるチャルトリスキ美術館を訪れる。お目当てはもちろん、レオナルドの「白貂を抱く女性」の肖像。この美術館、チャルトリスキ家の宝物、甲冑や武具、エジプトやギリシアなどの古代美術、それに絵画と、かなり多彩な展示を誇っているが、やや散漫な感じもなくはない。もちろん展示物の数は膨大で、とくに古代美術はどうやってこれだけの数を集めたのだろうと思うくらい。絵画の展示はたしか5つくらいの部屋に分かれていたと思うが、レオナルドの「白貂を抱く女性」とレンブラントの「善きサマリア人のいる風景」以外はそれほど見るべきものはない。たしかにレオナルドの絵の静謐な美しさと精緻な表現には目を見張らせられる。レンブラントのどちらかと言うと珍しい風景画も、風景そのものが精神化されている印象を受ける。どこか神々しささえ感じる光の表現。
 ホテルへ戻ってスーツケースを引き取り、来たときと同じように中央駅から空港行きの電車に乗り、クラクフ空港からエア・ベルリンの飛行機でベルリンへ戻る。なぜか今回はジェットの機材。機内には行きと同じ顔ぶれも見られる。テーゲル空港に到着した後はX9のバスでツォー駅へ。駅から大通りをしばらく歩くとホテルが見つかった。今回のホテルは、アート・ホテル・ベルリン。現代美術で彩られた瀟洒な造りだ。部屋も比較的使いやすいし、無線LANが無料で使えるのも有り難い。ただ、朝食に別料金がかかるのが玉に瑕だ。部屋から友人に電話を入れ、ホテルの玄関で落ち合う。少し本屋を冷やかしてから、近くのレストランへ。友人が頼んだのはMaultascheという、南西ドイツのパイ料理で、私が頼んだのは日替わりの鶏肉料理。胸肉にシリアルのようなものをまぶして、からりと焼いたもの。店がだんだん騒々しくなってきたので、隣のワイン居酒屋へ場所を移してしばらく話す。現在のドイツの問題、日本の若い人たちの問題、街並みの問題など話は尽きず、店が閉まった後は近くのカフェへ。別れてホテルへ戻ったのは午前1時近かった。それにしても、ワイン酒場で飲んだドイツの赤ワインの美味しかったこと。今回の旅の疲れを癒す酒だった。

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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記VI

 オシフィエンチムまでの移動の時間を見込んで早めに起き、朝食に降りてみると、レストランには誰もいない。自分でコーヒーを注ぎ、パンやチーズを皿に盛って食べ始めると、ようやくおばさんが一人顔を出したが、食べ終わるまで他人の姿を見たのはそれっきり。不思議な気分で朝食を食べ終えた。ちなみに、コーヒーの味がどうもおかしい。コーヒーと想像するものと違うと言うか、何か代用コーヒーのような味がする。後でベルリンの友人に話を聞くと、ポーランドで普通に飲まれている、スターバックスのようなコーヒーチェーンではない喫茶店やホテルの朝食に出てくるのは、そのような味のコーヒーなのだそうだ。何でもポーランドの人は、この味でないと落ち着かないのだとか。こちらは朝から何とも落ち着かないのだけれども。
 身支度を調え、ペットボトルのミネラルウォーターとベルリンのスーパーで買っておいたチョコレートを鞄に詰めて、バスターミナルへ向かう。ターミナルの窓口でオシフィエンチムまでの往復切符を買おうとすると、運転手から買えとのこと。そして、次のバスは10分後に地下の8番乗り場から出るという。もう20分待たなければならないと思っていたのでありがたい話だが、それまでに調べていた時刻表には載っていない便なので、ターミナルの時刻表を見てみると、確かにそのバスもオシフィエンチムを通るようだ。乗り場へ行ってみると、ワゴン車のようなマイクロバスが止まっている。運転手のおじさんに、博物館には止まるのか、と尋ねてみると、乗れと合図をするので、9ズロチを払って乗り込む。しばらくすると、同じようにオシフィエンチムの博物館を目指す若者が次々と乗り込んできて、バスはすぐに満員となった。
 バスは、いくつかの停留所で止まりながらおよそ1時間半オシフィエンチムへと走った。途中の田舎道では相当飛ばしていたように思う。博物館の駐車場に着くと、運転手が「アウシュヴィッツ・ムゼウム」と大声を出して止まった。降りる際、運転手は親切にも帰りの時刻表まで渡してくれる。博物館の正面から入ってみると、みな窓口で金を払って、オーディオ・ガイドのような首から提げる受信機とヘッドフォンを受け取っている。変だなと思って、入口の係員に一人で来たのだが、と声をかけると、15時まではガイドの案内によるツアーでの参加が義務づけられているとのこと。仕方がないので、待ち時間が最も短い英語のツアーに参加することにして、窓口でチケットを買い求める。映画の料金を含めて33ズロチということは、日本円にすると1500円くらいか。ガイドの人件費を考えるなら高いとは言えない。もちろん日本での感覚からすればの話ではあるが。
 ガイドの声を受信する装置とヘッドフォン、それに英語でのツアーの参加者を示す緑色のシールを受け取って、すぐそばの映画の上映室に入ると、英語による映画の上映がちょうど始まったところだった。映画は、おもに収容所の解放後に連合国軍によって撮影された映像によって構成された20分ほどのもの。導入の役割を果たす啓蒙的なものと言えようか。それが終わると、上映室の横のドアも開いて、収容所の入口へ導かれる。どこかガス室の扉が開かれたような感覚をおぼえた。自分と同じように緑色のシールを胸に着けた集団と一緒になって待っていると、やがて英語のガイドが現われた。25、6人の二つのグループに分かれて出発。一人は若い男性で、私のグループを導くもう一人は、小柄な若い女性。早口ながらはっきりとした英語を話してくれる。混んでいないバラックを見つけながら誘導し、参加者全員が展示を見られるように歩く速さに配慮して先導し、要所要所で立ち止まって説明してくれる。説明も簡にして要を得たもので、好感を持てる。参加者が囚人の生きざまと死にざまを想像できるよう語りかけるとともに、参加者の質問にも丁寧に答えていた。他のグループと同じバラックに入ったときに、同じ場所で渋滞しないよう配慮してくれるのもありがたい。何よりも、アウシュヴィッツで起きたことを語り継ぎ、ここを訪れた人に伝えようとする熱意を感じる。こうした若いガイドが、例えば広島でも、もっともっと育っていくべきではないか。そして、老いを隠せない被爆者に代わって、そしてそのために、広島を訪れる若い人々に語りかけるべきではないだろうか。10名以上の団体には、こうした若いガイドの先導を義務づけるくらいしてもよいはずだ。
 博物館の展示は、当時から残っている遺物や当時の貴重な写真によって、収容所における暴力の歴史が、ひと目で視覚的に理解できるように展示が構成されていて、その点、かなり膨大な文章を読むことを強いるブーヘンヴァルト収容所跡の展示とは対照的である。もちろん、そのぶん事柄が単純化されている感じも否めない。たしかに、よく知られているように、死のバラックと呼ばれた監獄バラックの展示や、囚人から奪われた身の回りのものを集積した展示は衝撃的である。火葬された死者の灰を目の当たりにしたときには息が詰まった。死のバラックでは、身代わりとなって死んだコルベ神父が餓死させられた部屋も見ることができた。ガス室に接続したクレマトリウムは、ブーヘンヴァルト収容所のものよりもさらに大規模である。その下に広がる薄暗いガス室をのぞき込んだときには、その空気の重さに圧倒されるほかはなかった。鉛色の空気が充満している。ただし、そこは暗黒ではない。小さな煙突から地上の光が漏れてくるのだ。ただし、まさにその煙突の穴からツィクロンBの結晶が落とされたのである。
 博物館前の駐車場から出ているシャトルバスに乗って、まさに死の工場として機能したビルケナウ収容所の跡も見ることができた。アウシュヴィッツよりも小さな門をくぐると、バラックとその跡の列が、どこまで続くのか見通せないくらいに広がっている。残されたバラックでは、アウシュヴィッツよりもさらに劣悪な生活条件を実感できたし、ガス室での死か強制労働かへの選別の現場も目の当たりにすることができた。ガス室と火葬場の跡がユダヤ人特務班の蜂起のために破壊されたままになっているのも印象深い。その廃墟の傍らには、抽象的な石碑のメモリアルが設けられている。
 ガイドによるツアーが終わった後は、アウシュヴィッツへ戻り、ツアーで見ることのできなかった展示を見に行く。再びバラックが建ち並ぶなかを歩いていると、午前中は見かけなかった日本人の集団もいて、唯一の日本人公式ガイドである中谷剛さんとおぼしき男性が先導していた。各国ごとの展示では、シンティ=ロマの人々のための展示が最も印象深い。一人ひとりの生と死にも光を当てながら、アウシュヴィッツなどナチスの収容所における虐殺に極まる、ヨーロッパにおけるシンティ=ロマの人々の差別の歴史が、冷静な視線で描かれていたように思う。他の展示ではほとんど触れられることのない人種主義の問題が指摘されているのも興味深い。対照的に、最も古くからあると思われるポーランドの展示は、ゲットーの蜂起を称揚するなどして、ナショナリズムに傾斜している印象が強く、あまり共感できなかった。新しい展示はどれも、最新のテクノロジーを導入したり、現代美術のインスタレーションの手法を取り入れたりするなどして、工夫されている。そして、そうした展示の技法は、ここアウシュヴィッツで起きたことが、けっして過ぎ去ってはいないことを伝えているのだろう。ふと思ったのだが、ここにドイツの展示があったなら、ナチスを生んだ歴史の根底的な検証と、ナチズムに内在するレイシズムに対する心底からの反省と、ひいては犠牲者への真摯な哀悼の場になったのではないか。さらにそれは、現在も続く他者の差別と排除に対する反省の景気を与えるものになりうるのではないだろうか。もし、ソウルに、台北に、南京に、かつてそこで植民地支配の暴力の犠牲となった者が「日本人」と名指す者自身による、その暴力を検証し、反省する展示があったとしたら、と想像してみる。アウシュヴィッツの各国の展示をもう少しゆっくり見て回りたかったが、博物館の閉館時間も、帰りのバスの時間も迫ってきたので、帰りを急がざるをえなかった。
 帰りのバスは、大きな観光バスのようなバスで、ゆったりと座ることができた。クラクフのバスターミナルに着いたのは19時近く。駅の隣に最近できたと思われる、ガレリアというショッピングモールを見ていると、フランスのカルフールが入っていたので、そこで土産物を含めて少し買い物をしてからホテルへいったん戻り、夕食のために再び街へ出る。ガイドブックに載っていた、グルジア料理のチェーン店の一つが比較的リーズナブルな値段だったので、そこに入って、鶏肉を少しスパイシーに焼いたものに、バターで少し炒めたご飯が付いたものを食べる。小さなビールを入れて日本円で600円くらいか。特別美味くはないが、悪くはない。帰ってしばらくすると、身体中がだるい。一日中外を歩き回っていたのと、英語のガイドの説明を聴くのにそれなりに集中力の持続を要したのと、それから何よりも、あまりにも重いアウシュヴィッツとビルケナウの展示とに消耗しきってしまったのだろう。

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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記V

 ホテルをチェック・アウトして、昼過ぎのクラクフ行きのフライトのためにテーゲル空港へ向かう。オリヴァー・プラッツは、空港行きの109番のバスが通るし、他にもかなりの数のメトロバスが通るので、意外に便利かもしれない。クラクフ行きのフライトは、エア・ベルリン。どこにチェックイン・カウンターがあるのかと思ったら、Cブロックという離れのような建物にカウンターがあった。メイン・ビルディングと高低差があるので、荷物が多いとやや不便。バスで運ばれた先に待っていたのはプロペラ機で少々不安になったが、さほど揺れることもなく1時間強でクラクフに到着。さっそく必要な現金を引き出そうとキャッシュ・ディスペンサーへ急いだが、空港の到着口付近の機械がどれもうまく使えず、結局手持ちの50ユーロをポーランドの通貨ズロチに両替することになる。185ズロチというのは良いレートなのかどうかはわからない。ともかく、いくつかあった空港の両替商の窓口にあったレートのなかでは良いほうだろう。あまり考えないことにして、自動販売機で中央駅までの電車の切符を買い、空港巡回バスで電車の駅まで乗せてもらう。着いたのはかなり寂れた、朽ちかけた屋根の待合所が雑草に囲われたホームにあるだけの駅で、これにも不安にさせられたが、ほどなくして不釣り合いに新しい電車がやって来た。15分ほどでクラクフの中央駅に到着。
 駅の地下道を抜けて駅前の広場に出ると、通りの向こうには、世界遺産に指定されているクラクフの旧市街が広がっている。確かに美しい街並みだ。ともかくホテルに入ろうと、駅の反対側の通りへ出ようとするが、歩行者の通り道がなかなか見あたらない。しばらくして、スロープで通じている地下道を通って路面電車の線路と車道を横断できることがわかった。地下道にはあちこちに物売りが立っている。
 アレクサンダーIIという名前のホテルは、駅からほど近い路地の奥にあって、怪しげな英語を話す小太りのおじさんが迎えてくれた。最上階のサン・ルーフのある部屋に通されたが、どうやっても電灯が点かない。おじさんに来てもらってあれこれ試したが直らず、結局一つ下の階の部屋に替えてもらった。天井の高い広々とした部屋で、少々贅沢な気分にさせられるが、ほどなくして部屋が鉄道の線路に面していることがわかる。電車が通るとそれなりに騒音がする。電車がそう頻繁には通らないのがせめてもの救いか。インターネットへの接続はLANケーブルによるもので、回線の状態はかなり良い。スカイプで4日ぶりに妻と話すことができた。
 ひと休みしてクラクフの街へ出てみる。まず、翌日のオシフィエンチム行きのバスが出るターミナルの場所を確かめようと、駅へ戻ってみる。駅舎のある反対側に、広島のバスセンターに似たようなバスターミナルがあった。再び地下道を通って駅の正面口に戻るが、その途中の至る所で、ドイツのブレーツェルをひと回り大きくしたようなパンを売っている。値段は安いもので1ズロチというから、日本円にして30円足らずか。試しに一つ買い求めてみた。列車の車中で読むために、ということだろうか。小説の古本を売る店がいくつも立ち並んでいるのも面白い。
 ウェブ・サイトの情報によれば、カジミエーシュ地区にあるガリシア・ユダヤ博物館が19時まで開いていて、19時半からはそこでヘンデルのオペラの公演があるとのこと。キオスクで市内交通の切符を買って、路面電車でカジミエーシュ地区へ向かう。路面電車は、プラハの街で見かけたの同じような型で親しみが持てる。一つ手前の停留所で降りてしまったようで、道に迷いかけたが、しばらく南へ歩いているうちに、カジミエーシュ地区への入り口に行き当たった。ユダヤ料理を出す店をはじめ、いくつもの飲食店が屋外に席を並べていて、かなりの数の観光客がそこでくつろいでいる。それを横目にさらに歩き、別の通りに出ると、かつてのゲットーがあった一角から少し外れたところにガリシア・ユダヤ博物館が見つかった。掲示を見ると、開館は18時までとあり、ウェブ・サイトの情報と違う。カウンターの女性に話を聞くと、実際もうすぐ閉館で、オペラ公演の準備をしなければならないとのこと。どうしたものかといったん外に出て、帰りの電車の時間を調べてみたら、22時過ぎまでしかない。もしオペラ公演が休憩も含めて3時間以上かかったとしたら、電車に間に合わないことになる。中央駅まで歩けない距離ではないし、タクシーを使う手もあるが、慣れない夜道を歩くのは危険だし、流しのタクシーを拾うのはリスクが高い。オペラを観るのも諦めて、再び電車で中心街へ戻ることにする。
 歩き回って腹が減ってきたので、買っておいたパンをかじってみる。これが相当に固い。なかなか噛み切れず、しばらくかじっているうちに顎が痛くなってしまった。路面電車に乗って、中央駅の一つ先の停留所で降り、厳めしいフロリアンスカ門を通ると、クラクフの旧市街が広がっている。マリア教会の横を通って織物会館の前の広場に出ると、ここでもたくさんの飲食店が屋外に席を並べている。それを冷やかしながら歩いて、目に付いたメニューを覗いてみると、これが結構な値段だ。まともな食事を一皿頼んだら、千円は下らないというところか。それ以外はテイク・アウトのファストフードという感じで、観光客ずれした街の空気を感じないではいられない。ちなみに、トルコ人のケバブ屋もあちこちに店を構えている。
 夜の旧市街に馴染めないまま、いったんホテルに戻ろうと歩いているうちに、駅のすぐ前にあるホテルのレストランが目に入った。メニューを見ると、旧市街の観光客相手の店に比べてずっとリーズナブルな値段。今日の夕食はここと決めて入ってみると、妙に英語の上手いおじさんが応対してくれた。薄暗いなかに使い込まれた木製のテーブルが並ぶ寂しげな雰囲気のなかで、二つもあるテレビが妙に明るい。一方のテレビではニュースを流していて、ドイツの総選挙でメルケル首相の率いる同盟が勝利を収め、社会民主党が歴史的な敗北を喫したこと、映画監督のロマン・ポランスキーが、30年前の少女暴行の容疑で逮捕されたことなどを報じていた。なかでもポランスキーの逮捕はポーランド人にとって衝撃的なニュースのようで、翌日の新聞はどれも一面でそのことを報じていた。もう一方のテレビに流れているのは、ポーランドのダンス・コンテストの番組。若い男女のペアが次々に出てきては踊って、これを審査員が講評するというもの。飲みに来ているカウンターの客の一人も席を立って、合わせて踊ったところを見ると、ポーランドではこの手の社交ダンスがポピュラーなのかもしれない。
 ところで、このバーともレストランとも点かない店で注文したのは、ポテトケーキにハンガリーのグラーシュをかけた一皿。少しスパイシーなグラーシュも、表面をかりっと焼いたポテトケーキも悪くない。ヴィーンやプラハでもそうだが、グラーシュを注文するとおおむね間違いはないようだ。飲み応えのあるビールと一緒に食べているうち、すっかり腹一杯になってしまった。これまでの旅の疲れもあって、ホテルに帰ってシャワーを浴びると、すぐに眠くなってしまう。

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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記IV

 昨晩の帰りが遅かったこともあって身体が重いが、8時頃に何とか起き出して朝食を取り、身支度を調えて、前から訪れようと思っていたプレツェンゼー記念館を訪れる。地下鉄7番線から、市街の外周を回るSバーン(これは走っている)に乗り換えて、ボイセル通りの駅から運河のほうへ歩くと、10分ほどで記念館が見つかった。ここはナチスの刑務所と処刑場があった場所で、今も刑務所として使われている建物の隣で、処刑場の跡が記念館として公開されている。ナチスの時代、この場所で3000名におよぶ抵抗者たちが命を落としたのだ。通常ギロチンで執行されたという死刑の部屋も公開されていて、赤い旅団のメンバー8名──そのなかの最年少者はまだ17歳だったという──を見せしめのために絞首刑にした首吊り鈎が並ぶ下に、排水口へ向けて緩やかな傾斜のある冷たい床があるのが実に生々しく、ナチスの暴力の凄まじさが薄気味悪く迫ってくる。隣の部屋では、プレツェンゼーの刑務所の歴史と、ナチスによってここで処刑された抵抗者のうち主要な人々とを紹介する展示が行なわれていて、設置されているコンピューターでは、処刑された人々全員の名前を検索することができる。
 プレツェンゼー記念館を出て、ボイセル通りの駅へ戻り、空港と市街を結ぶ急行バスに乗って、ブランデンブルク門近くの「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」へ向かう。ピーター・アイゼンマンの設計による墓碑のようなブロックが立ち並ぶなかに足を踏み入れたことはあったが、地下の情報センターへは入ったことがなかったので、それを見てみようと思ったのだ。ブランデンブルク門に群がる観光客をかき分けて「メモリアル」のある場所にたどり着くと。ナチスの犠牲となった同性愛者たちのための記念碑の案内板が目に入った。「メモリアル」のある広場のちょうど向かい、ティーアガルテンへ少し入ったところにその記念碑は立っている。少しいびつな形をした角形のコンクリートの塊という感じであるが、それには覗き窓のようなものが付いていて、そこへ顔を向けると、内部にある画面で二人の男が口づけを交わしている。その行為自体の名誉を回復しようというものだろうが、少し虚を突かれたような印象も受ける。この同性愛者たちのための記念碑は、向かい側にあるユダヤ人のためのモニュメントに比べればとてもささやかなものではあるが、それがあることの意味はけっして小さいものではない。
 さて、この記念碑を後にして「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」へ向かう。びっしりと立ち並んでいる不揃いな高さのブロックを縫うようにして地下のインフォメーション・センターへの入り口へ向かうと、この虐殺の犠牲者一人ひとりの身に降りかかった出来事の重みがのしかかってくるかのように感じないわけにはいかない。迷路のつもりで駆け回っている若者にぶつかりそうになりながら通って、反対側の地下への入り口にたどり着くと、10人ほどの観光客が並んでいる。入り口で入場者を管理している女性からドイツ語のパンフレットをもらい、それを読みながらしばらく待っていると、5分ほどで入ることができた。地下に入ると、ユダヤ博物館で見かけたようなセキュリティ・チェック。それを通過して中へ入ると、案内と管理を担当しているのも、ユダヤ博物館で見たのとそっくりな若者たちである。ユダヤ系の関係筋を通して同様のシステムを導入したのだろうか。設立母体が異なるはずなので、少々不自然な感じもなくはない。
 展示そのものはかなり工夫されている。最初にポグロムから「最終的解決」に至るユダヤ人迫害の歴史の概要が、写真を交えて説明され、続く部屋には、ナチスの暴力が迫るなかで、あるいは収容所へ移送され、虐殺される直前に書かれた手記が、その翻訳とともに展示されるとともに、部屋の壁には各国ごとの犠牲者の数も掲げられている。こうして犠牲者一人ひとりの生の記録から出来事の全体への展望を開くというのは、過去の出来事の記憶のあり方として注目するべきものを含んでいよう。一人ひとりの個としての経験を消し去ることはできないし、その際に経験された出来事の総体を見つめ直すことも忘れてはならないのだから。ただし、ここでの展示に選ばれているのは、手記や手紙を書き残すことができた犠牲者だけであることも忘れられてはならないだろう。
 次の部屋では、いくつかのユダヤ人家族がヨーロッパ各地で営んでいた生活とその運命が写真や映像を交えて展示されている。それはヨーロッパのユダヤ人の生を、家族の日常から浮き彫りにするとともに、家族の離散と絶滅を具体的に描き出すものと言えよう。さらにその次の部屋では、これまでに歴史的な調査によって突き止められた、犠牲者一人ひとりの名前と、その人が死に至るまでの履歴が読み上げられている。すべて読み上げると、6年と8か月近くかかるという。その長さによって、犠牲の大きさがあらためて浮き彫りになるわけだが、一人ひとりの名前がこうして重視されるところには、ユダヤ的な伝統が介在していることを感じないではいられない。実際、名前と履歴のデータは、イスラエルのホロコースト記念施設ヤド・ヴァシェムの犠牲者記念ファイルにもとづいているという。もちろんヤド・ヴァシェムの調査には心からの敬意を表わしたいと思う。ただし、この施設の紹介が展示のなかでかなり大きなウェイトを占めることには、少し違和感を感じないわけにはいかない。展示の構成に大きく寄与した機関が文字情報のかたちで紹介され、その活動へ訪問者がアクセスできるようにするのは当然のこととしても、あくまで虐殺の歴史を振り返りつつその犠牲者を哀悼するためにあるはずの展示室の空間に、その機関の写真がいくつも掲げられるなら、展示そのもの意味が歪められてしまうのではないだろうか。このほかに、虐殺の舞台となった場所に関する、映像資料と証言の音声による展示もあった。
 少し割り切れない気持ちで「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人のためのメモリアル」を後にすると、今日までホテルの朝食以外まともな食事をしていないことに気づき、通りがかったヴェトナム料理屋で遅い昼食を取ることにする。食べたのは、日本でいうサービスメニューとして掲げてあった、鶏肉を揚げたもの。まさに炒飯そっくりの焼飯が山盛りになっているのに載っていて、正直途中で飽きてしまった。ヴェトナム人と思われる店員の応対も気に入らない。
 途中のスーパーで買い物をしてからいったんホテルへ戻り、夕方からはベルリン・ドイツ・オペラでヴァーグナーの『タンホイザー』の公演を聴く。ドレスデン版による公演で、指揮はドナルド・ラニクルス。序曲から非常に力のこもった演奏で、期待が高まる。序曲の途中から、合唱が演じるヴェーヌスベルクの女性たちが裸を思わせる(舞台から遠い席で確認できなかったが、薄い肌色の衣装を着けているように見えた)姿で登場し、タンホイザーを誘惑する。そして序曲が終わるとともに、女性たちが誘惑する手を掲げながら奈落へ消えていくという演出。キルステン・ハームスによる演出は、全体として、ベルリン・ドイツ・オペラの上下の移動が自在な舞台を巧みに用い、かつ照明のイリュージョンも非常に効果的に駆使した演出だったが、舞台の上下動の際の騒音が少し気になった。騎士道的な恋愛が花咲く中世の世界を現代の視点から、現代の問題を照射するものとして捉える演出のコンセプトは、それなりに好感がもてるもので、基本的にはシンプルな装置と衣装によって舞台が構成されている。騎士の甲冑と馬を模した乗り物が仰々しすぎたのを除けば、違和感なく見ることができた。蝙蝠のような姿をした、ゴシック様式の教会の外壁に見られるような怪物が、人間の意識下の欲動を具現しているという見方も、説得的に表現されている。演出においてとりわけ興味深かったのは、第3幕でローマへ向かう巡礼の一行が病院のベッドから現われたこと。演出家へのインタヴューによれば、肉体的な快楽の園と言うべきヴェーヌスベルクと、精神的な騎士道的愛の世界であるヴァルトブルクとは、人間そのもののうちにある二つの側面を具現しているとのことだが、そうした見方にとって、身体的なものを否定しながら精神的な救いを集団で追い求める巡礼の姿は、どこか病的に映るのだろうか。ともあれ、幕切れの合唱が、ベッドから起き上がって、かつ女性たちも加わって歌われるのには、身体性の回復と身体を介した人間関係の再発見とを見る思いがした。ハームスは、そこに救済を見届けようとしたのかもしれない。とすれば、男性という同性の集団の巡礼が、タンホイザーを救済へと導くという解釈は否定されることになるし、ともすればナチズムの称揚にもつながりかねない、精神的なイデオロギーへの献身の賛美も斥けられることになろう。むしろ身体的な人間の生が他者との関係において再発見されるところに焦点が当てられることになるはずだ。実際、フィナーレにおいて憔悴したタンホイザーは、生きたエリーザベトの腕に抱かれることになる。
 歌手のなかでは、何とこのエリーザベトとヴェーヌスの二役を演じたペトラ・マリア・シュニッツァーが、この二つのパートを見事に歌いきっていた。体力的に相当困難なはずだが、最後まで声に疲れを見せることなく、美声を劇場全体に響かせていた。表現の振幅の大きさにも瞠目するべきものがある。タイトル・ロールを演じた、ペーター・ザイフェルトも、大きな体格を生かした力強い声と豊かな感情表現で、説得力のあるタンホイザー像を浮き彫りにしていた。とくに第3幕の「ローマ語り」の歌は感動的ですらあった。ヴォルフラムを演じたマルクス・ブリュック、ヘルマン公を演じたラインハルト・ハーゲンをはじめ他の歌手たちの歌唱にもほとんど隙がない。とりわけヴォルフラムの「夕星の歌」は、タンホイザーの「ローマ語り」に比肩しうる出来だった。
 今回の公演でとくに印象的だったのは、合唱の素晴らしさ。息を呑むようなピアニッシモから圧倒的なクライマックスまで、乱れることのないアンサンブルとハーモニーが貫かれていた。『タンホイザー』の出来を左右するのは合唱としばしば言われるが、ベルリン・ドイツ・オペラの合唱は、聴衆の耳を舞台の空気へしっかりと引きつけていた。舞台上の演技にも間然するところがない。指揮のラニクルスは、オーケストラから力強い響きを引き出していた。音楽の運びは手堅いながら、テンポにも推進力があり、バランスの取り方も巧みである。オーケストラも熱のこもった演奏で応えていた。この日の『タンホイザー』の公演では、オーケストラ、合唱、ソロの歌手、そして演出が一体となって、人間がその身体性において救済されるドラマを、きわめて説得的に構成していたのではないだろうか。

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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記III

【ホテル・メゾン・オリヴァー・プラッツにて】
 ヴァイマールのホテルをチェック・アウトして、市街中心へ向かう。新美術館が開くのが11時なので、それまでレベッカ・ホルンのインスタレーションの展示場所を下見に行くが、地図に従って歩いて行き着いたのは、錆び付いた骨組みだけになったバスの車体が放置されている廃墟。普段は、市電の車庫だった建物を使って夜に演劇の公演が行なわれたりしているようだが、なかなか魅力的な会場かもしれない。それで、お目当てのインスタレーションはどこにあるのかと探してみると、貼り紙がしてあって、土曜と日曜の午後にしか公開されないとのこと。新美術館の受付の人に聞いても、同じ返事だった。期待していただけに非常に残念だ。
 通りがかりの古本屋をのぞいたりして開館時間を待ってから新美術館へ行き、そこで開催されているフランツ・エーリヒの回顧展を見る。最初に展示されていた、逮捕されて収監されているあいだに制作された水彩画のシリーズが、素朴ながら心を打つ。彼の恋人が差し入れた紙に書かれたとのことだが、その多くは全体的に明るく、穏やかな色調で、ほとんどの作品に鍵と錨がモチーフとして描かれている。鍵は当然ながら自由な世界へ出たいという願いを表わしているのだろうが、錨は何を表わしているのか。魚を魅力的に描いた一枚もあることからすると、広大な海原への憧れを表わしているのかもしれないし、自分の依って立つ足場のようなものを求めているのかもしれない。バウハウスで学んだであろう有機的に構築された画面構成のなかに、柔らかな静けさに満ちた世界が広がっている。
 エーリヒは、ブーヘンヴァルト収容所へ送られた後、インテリア・デザイナーとしてSSに重用されたようで、SSの住居やその家具のために膨大な設計図を残している。展覧会ではその一部が展示されていた。面従腹背のドキュメントと言えようか。もちろん図面を引く際、収容所の支配者の言いなりになってばかりだったわけではないだろう。調度品などの無駄を廃した設計は、バウハウスの精神に基づく抵抗のささやかな表われと言えるかもしれない。その抵抗が最もはっきりと表われているのが、言うまでもなく収容所の門に掲げられる「各人に各々自身のことを(Jedem das Seine)」の文字のタイポグラフィーであろう。展覧会ではヨースト・シュミットのモデルなどにもとづいて、エーリヒが用いた書体の由来が跡づけられるとともに、この箴言の由来も示されていた。それは次のようなローマ法に表われる正義の掟に由来するという。「正直に生きよ。他人を傷つけるなかれ。各人に各々のことを認めよ」。エーリヒの抵抗は、欺瞞の極致として掲げられる言葉を、その本来の意味へ投げ返そうとする試みだというのが、展覧会の主催者側の解釈のようである。
 展覧会ではそのほかに、エーリヒが戦後、東ドイツ時代に設計した放送局の建物を撮影場所に用いたヴィデオ・インスタレーションも展示されていた。インスタレーションは、アンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』から着想を得たもので、今は使われていないこの建物を、『惑星ソラリス』に出てくる過去の記憶を体現する「お客」のような女性が徘徊するのをカメラが追うというもの。その際に建物の細部が意味深く映し出されて興味深い。
 さて、ベルリン行きの特急が出る時間までまだしばらくあるので、ゲーテとシラーの像のある国民劇場の広場からほど近いバウハウス博物館を訪れる。バウハウス創立90年を記念してか、常設展はなく、バウハウスの歴史についての短いドキュメンタリー映画の上映と『新しい線(Die neue Linie:この「線」には「路線」、「進路」、身体の「輪郭線」といった意味が込められていよう)』という女性誌に関する特集展示のみ。バウハウス様式の表紙の書体をはじめとして、服のデザイン、インテリア、ライフ・スタイルの発信におけるバウハウスとの密接な関係に焦点が当てられていた。ナチスの支配下で、「自立した女性」から「民族の母」へ誌上の女性像が変貌していくのも興味深いが、正直なところ常設展を見たかった。20分ほどのドキュメンタリー映画も、バウハウスのさほど目新しいもののない紹介。グロピウス自身が話しているのはたしかに面白かったけれども。博物館を出た後は、近くのヘルダー教会を訪れ、クラーナハの祭壇画を見る。壮大な三幅対の絵が、祭壇一面に掲げられていて圧倒される。十字架上のイエスの描写も生々しい。飛び散った血が降りかかるのは聖別の徴か。祭壇の隣には、三つの時期に分けてルターを描いた肖像画もあった。
 教会を出て中央駅へ急ぎ、ブレーツェルと水を買い求めて、ベルリンへ向かう特急列車に乗る。ライプツィヒとドレスデンを往復する列車と違って車両は古く、車内もあまりきれいではない。車内はかなり混み合っていて、立っている人も多い。それをかき分けて予約した座席を見つけ、車掌さんの手を借りて荷物を棚に収めてやっと腰を落ち着けることができた。2時間と少し走り、数分の遅れでベルリンに到着。遅れたために、予定していた乗り継ぎの電車に乗れず、次の電車を探すのにひと苦労だった。Sバーンが走っていればこういうことはないのだけれども。
 ようやくポツダム行きの電車に乗り、シャルロッテンブルクの駅から歩いてホテルへ向かう。10分ほど探してホテルを見つけると、それはかなり古い建物のなかにあった。日本でいう三階がホテルになっているとのことで、そこまでスーツケースを持ち上げるのがひと苦労。ホテルの主人は気のいいおじさんで、部屋は大丈夫かなどといろいろ心配してくれる。部屋はそれほど大きくないが、不自由はない。古い建物ならではの内装も落ち着ける。一つ問題なのはインターネットの接続で、無線LANの電波がほとんど届いていない。メールの送受信とウェブ・サイトの閲覧以外は諦めたほうがいいだろう。荷解きをして、ひと息ついてから、今度はポツダム広場のフィルハーモニーへ向かう。オリヴァー広場からバスに乗り、ツォーロギッシャー・ガルテン駅で乗り換えて地下鉄2番線でポツダム広場へ。20分足らずで到着した。
 フィルハーモニーでは、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴く。指揮はインゴ・メッツマッハーで、曲目はマーラーの交響曲第3番。最初からしばらく響きにまとまりを欠き、金管楽器のミスも多くて心配したが、第1楽章の終わりあたりから調子に乗ってきた感じだ。とくに楽章のコーダの追い込みは、今まで聴いたなかで最も激しいものだった。第2楽章では、弦楽器の柔らかな響きがとりわけ魅力的。メッツマッハーがメロディを十分に歌わせていたのも好ましかった。第3楽章は、舞台裏からのポストホルンのソロを含め、いくつか危うい箇所があったものの、全体としては軽やかな歌の魅力と、針葉樹の森のように聳え立つ響きの壮大さを兼ね備えた演奏に仕上がっていた。この楽章でも弦楽器の奥行きのある、かつ肌触りの柔らかな響きがマーラーにふさわしい。第4楽章では、アンネ=ゾフィー・フォン・オッターが、ニーチェの「ツァラトゥストラの酔歌」の素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。声量が豊かなわけではないが、フィルハーモニーの広い空間のなかにすっと声を浸透させる歌唱力には瞠目させられる。第5楽章では、オルガンの前に陣取った少年合唱がしっかりと訓練されたハーモニーを聴かせてくれたし、女声合唱もそれ自体としてはまとまっていたのだが、オーケストラとのアンサンブルにずれが生じてしまったのが残念。第6楽章では、少しも急ぐことのないテンポで、柔らかなピアノから壮大なクライマックスへ至る大きなクレッシェンドが見事に構築されていた。ヴァイオリンをはじめとする弦楽器の繊細な響きと、豪壮とも言える金管楽器の響きとの対照が実に印象的である。ちょうど10年前に聴いたケント・ナガノ指揮による演奏に比べると、演奏の精度と響きの洗練の度合いは劣るかもしれないが、聴き応えという点ではそれに勝るとも劣らない演奏であった。

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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記II

【ホテル・カイザリン・アウグスタにて:朝食後】
 コペンハーゲンからの飛行機が定刻にベルリン・テーゲル空港に到着したので、無事にヴァイマール行きの電車に乗り継ぐことができたが、中央駅での待ち時間を持てあましてしまった。何しろ空港から中央駅まで、たった10分強だったのだから。おまけに、前回のワールド・カップの際に開業した新しい中央駅は、ポツダム広場のアルカーデンのようなショッピングモールの底が抜けて駅になっている──どうしてこうも似ているのだろう──という感じで、入っているのはどこにでもあるような店ばかり。
 そんな店にわざわざ入る気にもならないので、新聞(Tagesspiegel紙)を買って、ホームのベンチに座る。新聞を開いてまず目に入ったのは、グスターヴォ・ドゥダメルの写真。9月の芸術週間には、彼をはじめ、クルト・マズア、ベルナルト・ハイティンク、そして当然ながらサイモン・ラトルといった指揮者がショスタコーヴィチの交響曲を振ったようで、新聞の文化面にはその報告が載っていた。とりわけ、ラトル指揮のベルリン・フィルハーモニーによる交響曲第4番の演奏は呼び物だったようだ。ショスタコーヴィチ演奏の世代交代ないし刷新に焦点を当てた報告になっていて、彼の交響曲を演奏するのにもはや独裁者の経験は必要ない、われわれはショスタコーヴィチを再発見しつつある、といった趣旨のことが書いてあった。少し表面的な見方のような気がしてならない。問題は「再発見」の中身ではないか。
 日本からするとほぼ一月遅れでこちらも総選挙のようで、政治面を占めるのは選挙関係の記事ばかり。こちらでも減税とそのための財源といったことが争点になっているようだが、注目されているのは、社会民主党(SDP)から分離した左派や、かつてのDDRの社会主義統一党の流れを汲む左派政党の動向。シュレーダー政権下から押し進められた新自由主義的なポリシーの浸透によって、また昨今の経済危機によって生活に痛手を受けた人々の受け皿になるかどうか。政治面にはこのほかに、ベルリンのリヒテンベルクの選挙区からパレスチナ人の女性が、自由民主党(FDP)の候補として立つということで、彼女のインタヴュー記事が出ていた。1面に出ていた、パレスチナの和平を新たな路線で押し進めるためにオバマがアッバスとネタニヤフを握手させた、という記事と緩やかなつながりを感じる。
 さて、ベルリンを訪れた旅行客にとってもっとも気になるのは、Sバーンの今後。整備不良が発覚して、現在市街の路線のほとんどが運休状態。新聞によると、28日の月曜日には、市街中心を貫通する路線の一部が復旧するようだ。そんな記事を読みながら、ようやくやって来た電車のなかに座っていると、さすがに疲れが出てうとうととしてしまう。ハレの駅で同じ大部屋にいた旅客がみな降りてしまって、とうとう一人になってしまった。こんなところで寝過ごしてしまっては大変なので、ナウムブルクを過ぎたあたりから立って待つ。待つこと20分、ようやくヴァイマールに到着。親切な女性に夜間出口を教えてもらって出てみると、すぐにホテルが見えた。今ひとつやる気のない夜番のおじさんがすぐに部屋に通してくれる。通された部屋は、バスタブもない今ひとつの部屋だが、この値段なら仕方のないところか。ちなみに、部屋のフロアには「パウル・クレー」という名前が付いていて、複製画と通り一遍の説明の書かれたプレートが廊下に架かっている。
【ホテル・カイザリン・アウグスタにて:夜】
 朝食後、駅前のバス停からバスに乗って、ブーヘンヴァルト収容所跡へ向かう。霧雨のような雨が降って肌寒い。途中にオベリスクという名のバス停があったので、何がオベリスクなのだろうと思って見てみると、それはパリで見たオベリスクの形をしたブーヘンヴァルト収容所の警鐘碑だった。後に収容所内の展示から、それが当初収容所に入ってすぐのところに建っていたことがわかる。バスがもうしばらく走ったところで外を見ると、鉄道の引き込み線の線路が残っている。逮捕されて、あるいは他の収容所から「移送」された者たちは、まずこの線路に乗り入れた車両からブーヘンヴァルトに降り立ったのだろう。鉄路が残っていることは、人の手で人──ただしこちらはナチスが「人間」とは認めなかった人──がここへ運ばれていたことをしっかりと印象づける。
 ブーヘンヴァルト。ブナの森。その場所は、名前が示すように深い緑の森に囲まれて現われた。時計の付いた門の向こうに収容所の跡が広がっている。門のすぐ脇にあるのは、「壕」と呼ばれていた独房の列。そこは凄まじい拷問とその末の殺害の現場だった。囚人たちは窓の鉄格子に鎖でつながれるなどして、座ったり、横たわったりすることを禁じられていたという。暖房のヒーターさえ拷問の凶器に使われたという独房は、狭い廊下を挟んで立ち並んでいる。そのいくつかには、その独房で殺されたと特定される人物のポートレートや遺品が展示されていたが、そこには訪問者によって花などが捧げられていた。折り鶴がいくつか見られたのは日本人によるものだろうが、取り返しのつかない暴力が行使された現場に、判を押したように折り鶴が置かれるのは場違いな感じがする。
 監獄施設を出て、かつては高圧の電流が流れる鉄条網で囲われていた収容所の内部へ入る。アウシュヴィッツの収容所の門に「労働は自由にする」と書かれているのはよく知られているが、ここブーヘンヴァルトの収容所の門には、「各人に各々自身のことを(Jedem das Seine)」と記されている。各人にそれぞれの本分を発揮することを許す、といった意味をもつラテン語の格言に由来し、本来は各人の人格を尊重することを義務づけるはずのこの言葉を、ナチスの親衛隊は、各人が各々の責務を果たせ、といった意味へとねじ曲げたにちがいない。ちなみにこの文句の書体のデザインを命じられたのは、バウハウスの学生だった政治犯フランツ・エーリヒで、その書体は、ナチスによって踏みにじられたバウハウスの師ヨースト・シュミットへの傾倒を、抵抗の意味を込めて示しているという。
 収容所の敷地内には、囚人たちを収容していたバラックの建物はもう残っていない。わずかに残った煉瓦の土台からその位置がうかがい知られる程度である。囚人たちは、囚われた理由や人種によって別々のブロックに分けられていて、どのブロックにどのような人々が収容されていたかはおおよそ特定できるようだ。そのいくつかには記念碑が建てられているが、なかでも目を引くのは廃墟のように石柱が立ち並んでいる中央付近の一角。近づいてみると、これは収容所で犠牲となったシンティ=ロマの人々を哀悼するモニュメントである。まちまちの方向へ聳える低い石柱には、それぞれナチスの収容所があった地名が記されていて、シンティ=ロマの人々がそこで犠牲になった、あるいはそこからブーヘンヴァルトへ移送されてきた場所を示している。その一つには赤い薔薇が手向けられていた。そこからさらに奥へ行くと、犠牲になった同性愛者に捧げる記念碑、エホバの証人や兵役拒否者で犠牲になった人々の記念碑が見られる。
 収容所の一番奥に目を遣ると、建物の土台のような形をしたモニュメントがある。それは「小バラック(Das kleine Lager)」と呼ばれていた収容施設の犠牲者に捧げられたもので、このバラックには、とりわけ大戦末期に、アウシュヴィッツをはじめポーランドなどの収容所から送られてきたユダヤ人をはじめとする人々が、劣悪な衛生状態のもと、すし詰めに収容されて、緩慢な虐殺の場──なかには「地獄のバラック」と呼ばれたブロックもあったという──ともなった。ソヴィエトの赤軍によって解放された収容所を視察に訪れた連合国の代表団が、ナチスの暴虐の証拠として公開した、飢えて衰弱しきった姿の元囚人たちの写真が撮られたのもこのバラックだった。しかしその後、バラックの建物は放置され、荒廃の一途をたどったようだ。東西ドイツの統一後にようやく現在のモニュメントが建設され、そこにはこの「小バラック」に収容された人々のことが各言語で記されている。
 そこからかつての鉄条網沿いにしばらく歩くと、大きな建物が見えるが、これは囚人から奪った衣服や装飾品などが貯蔵されていた倉庫で、そこには現在、収容所の歴史を、当時の遺物や犠牲者たちの遺品とともに概観できる展示がある。その隣には消毒施設があり、そこには現在、囚人として収容されていた人々が、収容中に作った、あるいは解放後に制作した芸術作品、さらにはこの収容所に触発されて作られた現代の作家たちの芸術作品が展示されている。抵抗の表現の一つとして収容生活のなかで作られた作品も胸を打つが、解放後に収容所のことを伝えようとして作られた作品も印象深い。たとえ生き残って収容所のことを語ったとしても誰も信じてくれまいとうそぶいた親衛隊員の話がプリーモ・レーヴィによって伝えられているが、それに抗して、さらには言語を絶する状況を伝えるために、生き残りたちは新たな表現方法を模索しなければならなかったという。それは、それ自体語りえないことを記憶するときに、いや証言することそれ自体に課せられる課題ではないだろうか。そして、記憶する表現のありようを模索することは、今なお課題であり続けているにちがいない。犠牲者一人ひとりの顔と名前が、その生の記憶とともに迫ってくるかのようなインスタレーションも興味深い。
 このように芸術作品が展示されているかつての消毒施設を出て、今度は収容所の歴史の展示へ向かう。収容所の成り立ちと仕組み、収容所での生活とそこでの親衛隊の暴力、それに対するさまざまな抵抗、大戦末期の、「強制労働による虐殺」と呼ばれた収容所外労働、解放と収容所の終わり、といったセクションに分かれていて、それぞれの展示は重い鉄のケースに収められている。ここで行なわれたことの重さをそれ自体として感じさせる展示である。基本的には記録文書をはじめドキュメントにもとづいた展示で、生存者の証言なども引用されてある。印象的だったことを拾ってみると、強制収容所がヴァイマール近郊に設けられたのは、ナチスを、そしてナチズムを、ヴァイマール共和国の誕生の地に植えつける狙いもあったようだ。また、生存そのものが暴力に対する抵抗であるなかで、それぞれの技能を生かしたさまざまな抵抗の方法が収容所内で編み出され、組織されていったのも興味深い。生存と抵抗のための連帯があったこともうかがえる。それから、ドイツにとって戦況が悪くなると、囚人たちが兵器生産のための労働に駆り出されたわけだが、おもにイギリスへ向けて発射されたV1ロケットの製作も囚人たちの手で行なわれていたようで、その残ったエンジン部が展示されていた。実物の展示では他に、移動可能な絞首台、死体を運んだというワゴンが生々しい。大戦末期には、過酷な労働と栄養状態の悪化から死んでゆく囚人が増えることになるが、そのなかには『集合的記憶』の著者であるモーリス・アルヴァックスも含まれていたという。
 上の階でたまたま展示していた写真をひと通り見て、ついにクレマトリウムへ。それは収容所の門にほど近い場所に建てられている。このことがすでに、収容所に住むことなく虐殺されていった者たちの存在を物語っていよう。死因を隠蔽するための工作が医師の手で行なわれていたという部屋と、医師の控え室とを通り抜けたところでドアを開けると、思わず息を飲んだ。暴力の犠牲となって死んだ人々を焼き続けた窯が口を開けている。名を奪われ、声を奪われ、身体を奪われ、命を奪われた者たちが、このなかで骨となり、灰となり、煙となっていったのだ。暴力の極点を間近にして言葉を失うほかはない。
 さて、クレマトリウムは地下へも入れるようになっていて、そこは基本的には死体置き場だが、同時に処刑場としても使われていて、絞首革を掛ける鈎が今も残されている。そこに佇むと、無数の死がのしかかってくるかのような空気の重さを感じないではいられない。死体を火葬窯の前へ持ち上げるリフトが、この場所の禍々を、これでもかと言うほどに強調している。いたたまれなくなって地上にあがると、さらに馬小屋に入れるようになっている。そこも虐殺の舞台となった場所だ。8000人に及ぶソヴィエト・ロシア軍の捕虜がここで射殺されたという。
 重い気持ちを引きずりながら外へ出ると、すでに時刻は午後4時を過ぎている。残された時間を使って、戦後ブーヘンヴァルト収容所がソヴィエト・ロシアの収容所として使われていた歴史の展示を見ることにした。1950年までのあいだに、劣悪な環境と栄養状態のために多くの者が多くの者が命を落としたばかりか、ロシア本土での強制労働へ送られた者もいたことがわかる。ただ、そのことは東ドイツ時代にはタブーだったとのこと。統一後にようやくその真実の解明が始まったようだが、それはややもすればナチスの暴力を相対化してしまう危険も含んでいる。そのような困難も見据えながら、過去の出来事と向き合わなければならないのは間違いないし、その作業はまだ緒に就いたばかりなのだろう。
 とくに印象深かった芸術作品の展示のカタログを買い求め、1時間に1本しかないバスに乗ってヴァイマールの市街中心へ戻る。本当はレベッカ・ホルンのインスタレーションを見たかったのだが、間に合いそうにないので、市外をしばらくぶらついてから、図書館のホールで行なわれるというバウハウスについての講演を聴くことにする。バウハウスがヴァイマールに創立されて今年で90周年。そのため、さまざまな催しが行なわれるようだが、この講演もその一環と言えようか。「ユートピアの誕生」と題された講演はバウハウスの創立に焦点を当てたもので、バウハウスは、当然ながらヴァルター・グロピウスを父として、19世紀後半のイギリスに端を発する、工芸の実践と教育を重視する新たな芸術運動を母として、壮大な総合的建築という理念、このユートピアを志向する共同体的実践の場として生まれたという趣旨のもので、とくに目新しい内容のものではない。「バウハウス・スタイル」の世界化に抗して、バウハウスの初期の精神を確認しようという、郷土愛のこもった講演なのかもしれないが、正直それほど面白くはなかった。ただ、バウハウスという芸術運動における「建てる」ことの意味は、ベンヤミンの「経験と貧困」におけるガラス建築の理念と接続させながら、かつハイデガーの同じ主題での講演と対照させながら、掘り下げる必要があるかもしれない。ディスカッションの途中で会場を後にし、スーパーで飲み物を買い求めてバスで宿へ帰る。さすがに疲れ切ってしまった。

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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記I

【成田空港にて】
 広島空港の保安検査が大変な混雑だったせいもあって、およそ10分の遅れで成田空港に到着。それにしても、広島空港のあの混みようはいったい何だったのだろう。「シルバーウィーク」と喧伝された連休のUターンラッシュだろうか。それにしては帰るのが早過ぎる気もしないではない。明日まで使って東京で遊ぼうとでもいうのだろうか。ともあれ、7:35発の二つの東京行きは両方とも満席だったろう。おかげでチェックイン・カウンターの前にも、保安検査場の前にも長蛇の列。もう少し間隔を開けて出発できないものか。チェックインの際に前に並んでいた、シカゴ経由でオハイオの田舎へ遊びに行くというおじさんが言っていたように、6時台から飛ばすことも不可能ではないはずだ。もちろん、そんなフライトに乗るのは個人的には願い下げだけれども。空港職員に申し出なければ、もしかすると成田行きのフライトに間に合わなかったかもしれない。
 さて、これからスカンジナビア航空でコペンハーゲンを経由してベルリンへ飛び、ベルリンに降り立ったら今度は鉄道でヴァイマールへ向かう。ヴァイマール到着は日付が変わって0:45となかなかハードな移動になるが、限られた日程のなかで一日かけてブーヘンヴァルト収容所跡を見て回るためには致し方ないところ。明日はブーヘンヴァルト収容所跡と附設の博物館をしっかり見ることにしよう。ナチズムが、そのイデオロギーにもとづく法が「人間」と認めなかった者たちから、名を奪い、声を奪い、身体を奪い、その果てに生命を奪い去った暴力の現場の廃墟を。この暴力の痕跡を。そして、この暴力の記憶が、今どのように想起され、表象されているのかを。第二次世界大戦後もソヴィエト・ロシアの刑務所として使われたというこの収容所を覆い尽くした暴力の凄惨さに思いをいたすとともに、その暴力の現場だった場所で記憶が、とりわけ集合的な記憶がどのように機能しているのかも見届けてきたい。ヴァイマール市街へ戻った後は、ヴァイマール市電車庫跡に展示されているというレベッカ・ホルンの「ブーヘンヴァルトのためのコンサート」をぜひ見てみたいものである。この記憶の芸術は、ブーヘンヴァルトの名を知る者に、どのような記憶を喚起するだろうか。
 成田空港へ着いてみると、コペンハーゲン行きのフライトは30分の遅れとのこと。おかげで慌てずに金策を整えられたし、コペンハーゲンでの乗り継ぎには十分な時間があるので、旅程そのものに支障はないが、これからの旅の多難を予感させなくもない。どういうことが待ち構えているかわからない──とくにポーランドへは初めてなので、一抹の不安がある──が、まずは気力を充実させなければ。
【コペンハーゲン・カストルプ国際空港にて】
 出発は30分以上遅れたのに、コペンハーゲンに着いたのは定刻の10分も前。追い風に乗ったということだが、それにしても早い。スカンジナビア航空のパイロットは時にこういうことをしてくれる。離着陸もすこぶるスムーズだ。パイロットの技量の水準がかなり高いのだろう。
 そのあたりが変わらないのは嬉しいことだが、機内サーヴィスの水準が下がったことは否めない。それが如実に表われるのはやはり機内食。前回使ったとき、それなりに好印象だっただけに、今回はかなりがっかりとさせられた。昼食に出てきたのは、漬け物の巻き寿司とバッテラを盛り合わせたのを前菜代わりに、和風とも中華風ともつかない中途半端な味の鶏肉の煮込みに、ショッキングなことに幕の内弁当のようなご飯を付け合わせた一皿。夕食は、お決まりの伸びきって固まったそばに、ソースのべっとりついたメンチカツの挟まったサンドイッチ。そしてデザートは、シロップをたっぷり吸った缶詰フルーツに、何とグリコのポッキーときたものだ。凄まじい取り合わせで不味いばかりでなく、野菜不足な上に、食後感が悪い。おまけに、機内のエンターテインメント・プログラムが不具合を起こして、二度もリセットしていたのも、個人的にはほとんど影響を受けなかったとはいえ、印象を悪くしたし、キャビン・アテンダントが概してつっけんどんで、命令口調だったのも感じが悪い。それに、どうも日本人と北欧人とではサーヴィスに差があるように思えてならない。同じ側のデンマーク人には食事が早く供され、しかもメニューに選択の余地があるのはどういうことなのか。
 それから、エコノミー・クラスでは、アルコール飲料は2本までは無料で提供されるが、それから先は有料(1杯につき4ユーロ:約540円)とのこと。機内で大酒を飲むつもりはないので、それ自体はかまわないのだが、何となく印象が悪い。これもコスト削減の一環で、運賃を安く保つための努力としてご理解ください、という言い分なのだろう。昨年の石油高騰に、金融恐慌に端を発する世界的な不況の煽りを食って、スカンジナビア航空がこうしたコスト削減策を打ち出さざるをえなかったのは理解できるとしても、そのしわ寄せが最終的に行き着くのが、経済的な危機に生身で曝されているはずのエコノミー・クラスの乗客であるというのは釈然としない。支払い能力の有り余っているビジネス・クラスの乗客に、それなりの金を払わせて、それなりのサーヴィスを提供すればよい話ではないか。その余裕がないのなら、エコノミー・クラスで出張すればよいことだ。ビジネス・クラスとエコノミー・クラスを隔てる赤いカーテンがいつになく分厚く見えた。
 さて、ベルリンまでのフライトまではあと2時間。予定通りにテーゲルに着いて、無事ヴァイマール行きの特急に乗れるだろうか。空港から中央駅までは、TXLのバスで直行できるようだ。それにしても、このコペンハーゲンの空港、乗り継ぎ先の便のゲート番号が出るのがいつも遅い。

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