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ヴァイマール、ベルリン、クラクフ旅日記II

【ホテル・カイザリン・アウグスタにて:朝食後】
 コペンハーゲンからの飛行機が定刻にベルリン・テーゲル空港に到着したので、無事にヴァイマール行きの電車に乗り継ぐことができたが、中央駅での待ち時間を持てあましてしまった。何しろ空港から中央駅まで、たった10分強だったのだから。おまけに、前回のワールド・カップの際に開業した新しい中央駅は、ポツダム広場のアルカーデンのようなショッピングモールの底が抜けて駅になっている──どうしてこうも似ているのだろう──という感じで、入っているのはどこにでもあるような店ばかり。
 そんな店にわざわざ入る気にもならないので、新聞(Tagesspiegel紙)を買って、ホームのベンチに座る。新聞を開いてまず目に入ったのは、グスターヴォ・ドゥダメルの写真。9月の芸術週間には、彼をはじめ、クルト・マズア、ベルナルト・ハイティンク、そして当然ながらサイモン・ラトルといった指揮者がショスタコーヴィチの交響曲を振ったようで、新聞の文化面にはその報告が載っていた。とりわけ、ラトル指揮のベルリン・フィルハーモニーによる交響曲第4番の演奏は呼び物だったようだ。ショスタコーヴィチ演奏の世代交代ないし刷新に焦点を当てた報告になっていて、彼の交響曲を演奏するのにもはや独裁者の経験は必要ない、われわれはショスタコーヴィチを再発見しつつある、といった趣旨のことが書いてあった。少し表面的な見方のような気がしてならない。問題は「再発見」の中身ではないか。
 日本からするとほぼ一月遅れでこちらも総選挙のようで、政治面を占めるのは選挙関係の記事ばかり。こちらでも減税とそのための財源といったことが争点になっているようだが、注目されているのは、社会民主党(SDP)から分離した左派や、かつてのDDRの社会主義統一党の流れを汲む左派政党の動向。シュレーダー政権下から押し進められた新自由主義的なポリシーの浸透によって、また昨今の経済危機によって生活に痛手を受けた人々の受け皿になるかどうか。政治面にはこのほかに、ベルリンのリヒテンベルクの選挙区からパレスチナ人の女性が、自由民主党(FDP)の候補として立つということで、彼女のインタヴュー記事が出ていた。1面に出ていた、パレスチナの和平を新たな路線で押し進めるためにオバマがアッバスとネタニヤフを握手させた、という記事と緩やかなつながりを感じる。
 さて、ベルリンを訪れた旅行客にとってもっとも気になるのは、Sバーンの今後。整備不良が発覚して、現在市街の路線のほとんどが運休状態。新聞によると、28日の月曜日には、市街中心を貫通する路線の一部が復旧するようだ。そんな記事を読みながら、ようやくやって来た電車のなかに座っていると、さすがに疲れが出てうとうととしてしまう。ハレの駅で同じ大部屋にいた旅客がみな降りてしまって、とうとう一人になってしまった。こんなところで寝過ごしてしまっては大変なので、ナウムブルクを過ぎたあたりから立って待つ。待つこと20分、ようやくヴァイマールに到着。親切な女性に夜間出口を教えてもらって出てみると、すぐにホテルが見えた。今ひとつやる気のない夜番のおじさんがすぐに部屋に通してくれる。通された部屋は、バスタブもない今ひとつの部屋だが、この値段なら仕方のないところか。ちなみに、部屋のフロアには「パウル・クレー」という名前が付いていて、複製画と通り一遍の説明の書かれたプレートが廊下に架かっている。
【ホテル・カイザリン・アウグスタにて:夜】
 朝食後、駅前のバス停からバスに乗って、ブーヘンヴァルト収容所跡へ向かう。霧雨のような雨が降って肌寒い。途中にオベリスクという名のバス停があったので、何がオベリスクなのだろうと思って見てみると、それはパリで見たオベリスクの形をしたブーヘンヴァルト収容所の警鐘碑だった。後に収容所内の展示から、それが当初収容所に入ってすぐのところに建っていたことがわかる。バスがもうしばらく走ったところで外を見ると、鉄道の引き込み線の線路が残っている。逮捕されて、あるいは他の収容所から「移送」された者たちは、まずこの線路に乗り入れた車両からブーヘンヴァルトに降り立ったのだろう。鉄路が残っていることは、人の手で人──ただしこちらはナチスが「人間」とは認めなかった人──がここへ運ばれていたことをしっかりと印象づける。
 ブーヘンヴァルト。ブナの森。その場所は、名前が示すように深い緑の森に囲まれて現われた。時計の付いた門の向こうに収容所の跡が広がっている。門のすぐ脇にあるのは、「壕」と呼ばれていた独房の列。そこは凄まじい拷問とその末の殺害の現場だった。囚人たちは窓の鉄格子に鎖でつながれるなどして、座ったり、横たわったりすることを禁じられていたという。暖房のヒーターさえ拷問の凶器に使われたという独房は、狭い廊下を挟んで立ち並んでいる。そのいくつかには、その独房で殺されたと特定される人物のポートレートや遺品が展示されていたが、そこには訪問者によって花などが捧げられていた。折り鶴がいくつか見られたのは日本人によるものだろうが、取り返しのつかない暴力が行使された現場に、判を押したように折り鶴が置かれるのは場違いな感じがする。
 監獄施設を出て、かつては高圧の電流が流れる鉄条網で囲われていた収容所の内部へ入る。アウシュヴィッツの収容所の門に「労働は自由にする」と書かれているのはよく知られているが、ここブーヘンヴァルトの収容所の門には、「各人に各々自身のことを(Jedem das Seine)」と記されている。各人にそれぞれの本分を発揮することを許す、といった意味をもつラテン語の格言に由来し、本来は各人の人格を尊重することを義務づけるはずのこの言葉を、ナチスの親衛隊は、各人が各々の責務を果たせ、といった意味へとねじ曲げたにちがいない。ちなみにこの文句の書体のデザインを命じられたのは、バウハウスの学生だった政治犯フランツ・エーリヒで、その書体は、ナチスによって踏みにじられたバウハウスの師ヨースト・シュミットへの傾倒を、抵抗の意味を込めて示しているという。
 収容所の敷地内には、囚人たちを収容していたバラックの建物はもう残っていない。わずかに残った煉瓦の土台からその位置がうかがい知られる程度である。囚人たちは、囚われた理由や人種によって別々のブロックに分けられていて、どのブロックにどのような人々が収容されていたかはおおよそ特定できるようだ。そのいくつかには記念碑が建てられているが、なかでも目を引くのは廃墟のように石柱が立ち並んでいる中央付近の一角。近づいてみると、これは収容所で犠牲となったシンティ=ロマの人々を哀悼するモニュメントである。まちまちの方向へ聳える低い石柱には、それぞれナチスの収容所があった地名が記されていて、シンティ=ロマの人々がそこで犠牲になった、あるいはそこからブーヘンヴァルトへ移送されてきた場所を示している。その一つには赤い薔薇が手向けられていた。そこからさらに奥へ行くと、犠牲になった同性愛者に捧げる記念碑、エホバの証人や兵役拒否者で犠牲になった人々の記念碑が見られる。
 収容所の一番奥に目を遣ると、建物の土台のような形をしたモニュメントがある。それは「小バラック(Das kleine Lager)」と呼ばれていた収容施設の犠牲者に捧げられたもので、このバラックには、とりわけ大戦末期に、アウシュヴィッツをはじめポーランドなどの収容所から送られてきたユダヤ人をはじめとする人々が、劣悪な衛生状態のもと、すし詰めに収容されて、緩慢な虐殺の場──なかには「地獄のバラック」と呼ばれたブロックもあったという──ともなった。ソヴィエトの赤軍によって解放された収容所を視察に訪れた連合国の代表団が、ナチスの暴虐の証拠として公開した、飢えて衰弱しきった姿の元囚人たちの写真が撮られたのもこのバラックだった。しかしその後、バラックの建物は放置され、荒廃の一途をたどったようだ。東西ドイツの統一後にようやく現在のモニュメントが建設され、そこにはこの「小バラック」に収容された人々のことが各言語で記されている。
 そこからかつての鉄条網沿いにしばらく歩くと、大きな建物が見えるが、これは囚人から奪った衣服や装飾品などが貯蔵されていた倉庫で、そこには現在、収容所の歴史を、当時の遺物や犠牲者たちの遺品とともに概観できる展示がある。その隣には消毒施設があり、そこには現在、囚人として収容されていた人々が、収容中に作った、あるいは解放後に制作した芸術作品、さらにはこの収容所に触発されて作られた現代の作家たちの芸術作品が展示されている。抵抗の表現の一つとして収容生活のなかで作られた作品も胸を打つが、解放後に収容所のことを伝えようとして作られた作品も印象深い。たとえ生き残って収容所のことを語ったとしても誰も信じてくれまいとうそぶいた親衛隊員の話がプリーモ・レーヴィによって伝えられているが、それに抗して、さらには言語を絶する状況を伝えるために、生き残りたちは新たな表現方法を模索しなければならなかったという。それは、それ自体語りえないことを記憶するときに、いや証言することそれ自体に課せられる課題ではないだろうか。そして、記憶する表現のありようを模索することは、今なお課題であり続けているにちがいない。犠牲者一人ひとりの顔と名前が、その生の記憶とともに迫ってくるかのようなインスタレーションも興味深い。
 このように芸術作品が展示されているかつての消毒施設を出て、今度は収容所の歴史の展示へ向かう。収容所の成り立ちと仕組み、収容所での生活とそこでの親衛隊の暴力、それに対するさまざまな抵抗、大戦末期の、「強制労働による虐殺」と呼ばれた収容所外労働、解放と収容所の終わり、といったセクションに分かれていて、それぞれの展示は重い鉄のケースに収められている。ここで行なわれたことの重さをそれ自体として感じさせる展示である。基本的には記録文書をはじめドキュメントにもとづいた展示で、生存者の証言なども引用されてある。印象的だったことを拾ってみると、強制収容所がヴァイマール近郊に設けられたのは、ナチスを、そしてナチズムを、ヴァイマール共和国の誕生の地に植えつける狙いもあったようだ。また、生存そのものが暴力に対する抵抗であるなかで、それぞれの技能を生かしたさまざまな抵抗の方法が収容所内で編み出され、組織されていったのも興味深い。生存と抵抗のための連帯があったこともうかがえる。それから、ドイツにとって戦況が悪くなると、囚人たちが兵器生産のための労働に駆り出されたわけだが、おもにイギリスへ向けて発射されたV1ロケットの製作も囚人たちの手で行なわれていたようで、その残ったエンジン部が展示されていた。実物の展示では他に、移動可能な絞首台、死体を運んだというワゴンが生々しい。大戦末期には、過酷な労働と栄養状態の悪化から死んでゆく囚人が増えることになるが、そのなかには『集合的記憶』の著者であるモーリス・アルヴァックスも含まれていたという。
 上の階でたまたま展示していた写真をひと通り見て、ついにクレマトリウムへ。それは収容所の門にほど近い場所に建てられている。このことがすでに、収容所に住むことなく虐殺されていった者たちの存在を物語っていよう。死因を隠蔽するための工作が医師の手で行なわれていたという部屋と、医師の控え室とを通り抜けたところでドアを開けると、思わず息を飲んだ。暴力の犠牲となって死んだ人々を焼き続けた窯が口を開けている。名を奪われ、声を奪われ、身体を奪われ、命を奪われた者たちが、このなかで骨となり、灰となり、煙となっていったのだ。暴力の極点を間近にして言葉を失うほかはない。
 さて、クレマトリウムは地下へも入れるようになっていて、そこは基本的には死体置き場だが、同時に処刑場としても使われていて、絞首革を掛ける鈎が今も残されている。そこに佇むと、無数の死がのしかかってくるかのような空気の重さを感じないではいられない。死体を火葬窯の前へ持ち上げるリフトが、この場所の禍々を、これでもかと言うほどに強調している。いたたまれなくなって地上にあがると、さらに馬小屋に入れるようになっている。そこも虐殺の舞台となった場所だ。8000人に及ぶソヴィエト・ロシア軍の捕虜がここで射殺されたという。
 重い気持ちを引きずりながら外へ出ると、すでに時刻は午後4時を過ぎている。残された時間を使って、戦後ブーヘンヴァルト収容所がソヴィエト・ロシアの収容所として使われていた歴史の展示を見ることにした。1950年までのあいだに、劣悪な環境と栄養状態のために多くの者が多くの者が命を落としたばかりか、ロシア本土での強制労働へ送られた者もいたことがわかる。ただ、そのことは東ドイツ時代にはタブーだったとのこと。統一後にようやくその真実の解明が始まったようだが、それはややもすればナチスの暴力を相対化してしまう危険も含んでいる。そのような困難も見据えながら、過去の出来事と向き合わなければならないのは間違いないし、その作業はまだ緒に就いたばかりなのだろう。
 とくに印象深かった芸術作品の展示のカタログを買い求め、1時間に1本しかないバスに乗ってヴァイマールの市街中心へ戻る。本当はレベッカ・ホルンのインスタレーションを見たかったのだが、間に合いそうにないので、市外をしばらくぶらついてから、図書館のホールで行なわれるというバウハウスについての講演を聴くことにする。バウハウスがヴァイマールに創立されて今年で90周年。そのため、さまざまな催しが行なわれるようだが、この講演もその一環と言えようか。「ユートピアの誕生」と題された講演はバウハウスの創立に焦点を当てたもので、バウハウスは、当然ながらヴァルター・グロピウスを父として、19世紀後半のイギリスに端を発する、工芸の実践と教育を重視する新たな芸術運動を母として、壮大な総合的建築という理念、このユートピアを志向する共同体的実践の場として生まれたという趣旨のもので、とくに目新しい内容のものではない。「バウハウス・スタイル」の世界化に抗して、バウハウスの初期の精神を確認しようという、郷土愛のこもった講演なのかもしれないが、正直それほど面白くはなかった。ただ、バウハウスという芸術運動における「建てる」ことの意味は、ベンヤミンの「経験と貧困」におけるガラス建築の理念と接続させながら、かつハイデガーの同じ主題での講演と対照させながら、掘り下げる必要があるかもしれない。ディスカッションの途中で会場を後にし、スーパーで飲み物を買い求めてバスで宿へ帰る。さすがに疲れ切ってしまった。

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