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2006年12月

ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ&新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会

 12月3日、東京都墨田区のすみだトリフォニーホールで、ショスタコーヴィチの生誕100周年を記念する新日本フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会を聴く。指揮は生前のショスタコーヴィチと親交のあったムスティスラフ・ロストロポーヴィチで、ピアノ協奏曲第1番と交響曲第8番という2曲のハ短調の作品が演奏された。
 最初に演奏されたピアノ協奏曲第1番は、若きショスタコーヴィチがその才気を古典的な形式のうちに凝縮させた作品として知られているが、この日の演奏は、どちらかというと当時のショスタコーヴィチのモダニズムよりはロマンティシズムを強調した演奏と思われた。ピアニストの上原彩子がひとつひとつの音をしっかりと弾きながら十分に歌っていたうえ、トランペット独奏を担当した服部孝也の音色が一貫して柔らかであったことがそのような印象を与えた側面もあるが、何よりもロストロポーヴィチが指揮するオーケストラの響きが深く、とりわけゆっくりとしたテンポの楽章において、ひとつひとつのフレーズを十分に歌わせながら説得力ある表現を示していたのが、強い印象を残したからである。第2楽章のレントの陰鬱な音楽がこれほど重々しく迫ってくるのを聴いたことがない。ロシアではスターリンが牙を剥き始める時代に、またヨーロッパではファシズムが跋扈し始める時代にこの曲が書かれたことが、あらためて思い起こされる。両端楽章の諧謔も重く、また苦い。個人的には、グロテスクな哄笑がもっと空々しく響くところがあっても、とは思ったが、モダニズムのアイロニーとともにユーモアを表現せざるをえないことを噛みしめるような表現が、遅めのテンポと厚みのある響きで打ち込まれてゆくのには、胸を衝かれてしまう。重厚な音の塊となった弦楽器群が突き進むのにもぐっと耳を惹きつけられる。上原彩子のピアノ独奏は、厚みのある音色で、ひとつひとつのフレーズをしっかりと弾き込んでいた。ショスタコーヴィチのスコアを十分に読み込んでいることが伝わる、説得力ある表現を示していたが、やや音色の変化に乏しい気もしないではなかった。また服部孝也は、一貫して美しい音色で困難なトランペット独奏のパートをほぼ完璧に吹き切っていたが、もう少し鋭い表現があっても、と感じるところもあった。とはいえ、両者のアプローチがロストロポーヴィチのそれと見事に調和していたことは言うまでもない。若きショスタコーヴィチの古典主義を装ったモダニズムではなく、苦く重いロマンティシズムを、強い説得力と高い完成度をもって表現したピアノ協奏曲の演奏であった。
 休憩を挟んで演奏された交響曲第8番は、ピアノ協奏曲が書かれたおよそ十年後、第二次世界大戦のさなかに書かれた作品で、その戦争を主題とする交響曲の中核をなすものとされてきたが、そこにあるのは戦争そのものの描写というよりはむしろ戦争の狂気と苦悩の表現であり、またそれを貫くのは戦争の犠牲となった人びとへの哀悼であることを、ロストロポーヴィチの指揮は強い説得力をもって示していた。とりわけ最終楽章の、作曲者が人生の肯定と呼んだと言われるユーモアが、いかに苦く噛みしめられたものであるか、初めて理解できたように思われる。ファゴットやチェロによって奏でられるどこかユーモアを含んだ旋律が、苦みに顔を歪めながら歌われているように聴こえるのだ。それを歌う者は戦争のことを、その犠牲になった者の苦しみを忘れようとしているようとしながら、どうしても忘れられないでいるのかもしれない。そのようななかに戦争の狂気の記憶が仮借なく回帰してくるのだ。第1楽章のクライマックスを形成し、第3楽章から第4楽章への移行部に再び現われたあの鋼鉄の暴風のような全オーケストラの叫びが、苦いユーモアを交えた最終楽章の展開のなかに割って入るのである。そのように3度繰り返される嵐のように吹きつける叫びは、ほんとうに鋼鉄を思わせる硬さと重さをもって聴き手に突き刺さってくるばかりでなく、はるか遠くから凄まじい速度で押し寄せてくるようですらあった。そのように強度と奥行きをそなえた響きをロストロポーヴィチの指揮はもたらしていたのだが、それに応える新日本フィルの各奏者の力量も特筆に値しよう。3度繰り返される重い叫びがけっして痩せることはなかったし、またその響きが混濁することも一度としてなかった。どこまでも正確に戦争の狂気が表現されていたのである。
 ロストロポーヴィチの指揮するこの交響曲の音楽の歩みは、どこまでも重く、深い。第3楽章の無窮動的な動きのひとつひとつもしっかりと踏みしめられる。そして、ずしりと打ち込まれる第1楽章冒頭のモティーフ。これこそが後に、鋼鉄の暴風のような狂気の叫びとなって回帰してくるのである。そのモティーフは、アダージョの楽章の冒頭において、恐ろしいまでに広大で奥深い、そして冷たく張りつめた空間を打ち開いていた。そしてその空間のなかに、すべての息が凍りつく寸前のところで囁かれているかのような祈りの歌がすっと入り込んでくる。ヴァイオリンが奏でる第2主題は、これ以上は不可能と思われるほどの最弱音で演奏されたのである。ロストロポーヴィチは、戦争と圧政の犠牲となった者たちのために、どれほど息を潜めて祈らなければならなかったのかを、祈りの場の空気とともに伝えようとしたのだろうか。この祈りの歌をあたかも一人で奏でているかのように弾き切ったヴァイオリン・セクションのアンサンブルにも瞠目させられた。
 第1楽章中間部と第2楽章のマーチの歩みも重い。とくに後者はスケルツォのなかのマーチとして、滑稽味を含んでいるのだが、その諧謔も苦く響く。たとえ軍隊組織のようなものが空虚な不条理を含んでいて、その権力が恣意的な暴力であったとしても、身近な人びとがその犠牲になった者にとっては、それはけっしてたんなる笑いの対象にはなりえない。皮肉を言いえたとしても、それはどこまでも苦く噛みしめられなければならないのだ。第1楽章のクライマックスを過ぎて、音楽が静まったなかに、どこか問わず語りのように歌い出されるコーラングレの独奏は、そのことのうちにある悲しみを、しっかりとした息づかいで切々と訴えるかのようだった。ロストロポーヴィチの指揮による第8交響曲の演奏は、抽象的な「戦争」ではなく、戦争の狂気が、さらには権力の暴力が吹き荒れた時間と空間を生きた人びとひとりひとりを、さらにはそれらの犠牲者たちに捧げられる祈りのひとつひとつを焦点とするものであったのではないか。そしてロストロポーヴィチは、生き残ったひとりひとりの生と祈りの空間と時間を、そして時代を克明に描き出そうとしていたのではないだろうか。そのような彼のアプローチは、新日本フィルの卓越した演奏──これほど個々の奏者の力量が高く、合奏能力も優れたオーケストラの演奏を、東京では日常的にも聴くことができるのだ──と一体となって、強く、そして重く胸に迫ってくる。作曲家ショスタコーヴィチとともに一つの時代を生き抜いた音楽家の証言が、きわめて完成度が高く、また心を揺さぶる説得力をもった音楽に結晶した、そんな第8交響曲の名演奏であった。

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マリス・ヤンソンス&ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会

 12月2日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて、マリス・ヤンソンスが指揮するアムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会を聴く。前半に演奏されたのは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲と交響曲第8番。
 最初に演奏された「エグモント」序曲を聴いていても、ヤンソンスのベートーヴェンへのアプローチをうかがい知ることができる。おそらくそれは、作品の脈打つ生命と古典的な様式を新たな視点からとらえなおしつつ、両者をモダン楽器の機能を最大限に生かして表現しようという行き方であろう。たしかにそうしてこそ、コンセルトヘボウ管弦楽団の豊潤な響きを、ベートーヴェンの作品の内実を表現するのに生かすことができるにちがいない。たしかに「エグモント」序曲の演奏において、オーケストラはまだ十分に鳴り切っていなかったとはいえ、ヤンソンスとコンセルトヘボウ管弦楽団は、豊かな、それでいてけっして混濁することのない響きで、悲劇性を過剰に強調することなく、この序曲の音楽がもつ躍動感を生き生きと表現していた。それによって何よりも音楽のフォルムが明確に伝わってくるのは、一面で爽快ではあるが、ベートーヴェン中期の音楽から聴かれる、型を破ってしまう叫びのようなものが伝わってこないもどかしさは残る。勝利の音楽に入る前のヴァイオリンのパッセージがディミニュエンドして終わるのは、様式的には正しいと思われるとはいえ、どこか肩透かしを食った感じもする。
 こうしたヤンソンスのベートーヴェンへのアプローチが最も生きたのは、第8交響曲の演奏においてであろう。当初このヘ長調の交響曲が取り上げられると知ったときには、今なぜ、という疑問が湧くのを禁じえなかったが、演奏を聴いてみて、ヤンソンスがこの作品を取り上げのはなぜか、理由の一端を理解できた気がした。彼の音楽がその基底にもつ楽天性と、どちらかというと骨太の運動性とが、今このヘ長調の交響曲の音楽に内在する生命と最もよく調和していることが、演奏から伝わってきたのである。
 第1楽章冒頭の4小節で主題が提示されるのを聴いただけで、素晴らしい演奏になることが確信されるとともに、音楽そのもののなかへ入っていくことができた。ヤンソンスは、響きを後に引きずらない切れ味をもった明確なフレージングによって、音楽のフォルムをはっきりと見定めながら、そこに内在する生命の躍動をきびきびとしつつ急ぎすぎることのないテンポで、かつベートーヴェンの音楽にふさわしい重厚さをもって引き出していたのである。何よりも、まったく無理のない音楽の運びで、コンセルトヘボウ管弦楽団自体のもつ豊麗な響きにピリオド楽器の奏法の切れ味をうまく加味しながら、それをベートーヴェンの長調の音楽の表現に存分に生かし切っていたのが印象に残る。ピリオド楽器の奏法に全面的に依拠した演奏のように耳を驚かせるところはほとんどなく、どこを取っても自然に響いてくるのだが、けっして音楽がルーティンに流れてゆくことはない。全体の響きが明瞭なためにゴツゴツした動きも浮かびあがってくるのだが、それが喜びに満ちた音楽に推進力をもたらしてゆく。たんにオーケストラの各セクションのバランスが取れているというだけでなく、それがけっして自己目的化することなく、清新で喜びにあふれた音楽像の形成に見事に生かされていたのである。
 第2楽章では、メトロノームを模したと言われる音楽の歩み自体が醸す諧謔が、確かな足どりと鋭い切れ味をもって十分に表現されていたが、その間に差し挟まれる木管楽器のハーモニーは、響きそのものに身を委ねる喜びも味わわせてくれた。第3楽章のメヌエットもけっして退屈させることはない。弦楽器の波打つ動きのなかからすっとヴァイオリンのチャーミングなメロディが引き出される瞬間には眼を細めてしまう。トリオのホルンのアンサンブルを伴奏するチェロの動きは2人の奏者だけで弾かれていたが、それによってホルンの響きの美しさがいっそう引き立てられていたように思う。フィナーレは愉悦の極み。第8交響曲の時期以降のベートーヴェンの音楽において特徴的になってゆく断片的なモティーフの動きが、喜びに満ちた音楽の躍動と見事に結びついていた。曲の末尾ではトゥッティのアコードが執拗に反復されるが、ヤンソンスはそれを、むしろそのしつこさを楽しむかのように、そしていつまでも終わりが来ないかのように響かせた末に、短く切り約められた響きで、一抹のユーモアもそこに込めながら曲を閉じた。そうして響きを引きずらないこと。それは清新な明確さと心からの喜びをもって作品に内在する生の躍動を表現したこの演奏を締めくくりにふさわしい。そうであってこそ、音楽の余韻が心の喜びと響きあいながら残るのだから。
 さて、休憩の後に演奏されたドヴォジャークの交響曲第9番においても、ヤンソンスの確かな読みにもとづいた音楽運びの巧みさが光った。この作品において彼は、さらに余裕のあるテンポでメロディを歌わせながらも、けっして過度に情緒的になることなく、むしろこのあまりにも有名な作品の新たな姿を響かせようとしていた。たとえば、第1楽章の第2主題は、第1主題よりもかなりテンポを落として演奏されていたが、音楽が停滞することはけっしてないし、むしろメロディが十分に歌われるなかに、これまで聴こえてこなかった和音の奥行きが響いてくる。むろんリズムの躍動も欠けてはいない。とりわけ第1楽章のコーダで、重厚な響きの塊が終わりへ向けて突き進む様子はスリリングであったし、また非常に聴き応えがあった。
 第2楽章のラルゴの演奏は、非常に広い強弱の幅を取っていたが、ピアニッシモでもけっして響きが痩せないのが印象的。澄んだ、それでいて豊かな響きによって貫かれたラルゴ。コーラングレのソロも確かなフレージングでしっかりと歌われていたし、各セクション二人だけの弦楽器で演奏されるパッセージにおいても響きの豊潤さが損なわれることがなかった。かなりテンポを動かしながら一つの楽節から別の楽節へ移り変わるのもけっしてわざとらしくならない。第3楽章のスケルツォにおいては、ヤンソンスの音楽の運びの巧さがとくに光っていた。リズムの躍動と歌の豊かさが見事に両立しているし、かつすべてが清新に響く。フィナーレにおいては、音の塊が力強く前へ進むさまにまず耳を惹きつけられたが、それ以上に第2主題のメロディに、ふだん聴き逃してしまいがちな対旋律がしっかりと寄り添いながら、歌の豊かさをもたらしていたのが印象に残る。その歌がけっして情緒的になりすぎないのは、未聞の響きをスコアから引き出してゆくうえで必要なことだったのかも知れないが、個人的にはもう少し熱いものが湧き上がってくるのを聴きたかった気もしなくはない。すべてがあまりにも澄んだ響きのなかで、あまりにも流麗に歌われてしまったのが、作品全体の印象を薄めてしまっているのでは、という思いも残る。ドヴォジャークの第9交響曲の演奏として、これ以上の完成度を望むのは極めて難しいとはいえ、その完成度それ自体が、音楽が自己自身を伝える力を弱めているのでは、という疑念も拭えなかったところである。ヤンソンスのドヴォジャークのスコアの読みが卓越したものであることは十分に感じ取られたのだけれども。その第9交響曲という、感情の振幅が極めて広いなかに、郷愁をはじめさまざまな想念が入り込む作品が相手だっただけに、ヤンソンスの音楽づくりの美質が最大限に生かされているのを感じる一方で、演奏の技術的な完成度と音楽の力がかならずしも一致しえないことをあらためて痛感させられた演奏であった。

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