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2006年11月

「シラノ・ド・ベルジュラック」広島公演

 11月22日、広島市内のアステールプラザ中ホールで行なわれた、新国立劇場と静岡県舞台芸術センター(SPAC)の共同制作による「シラノ・ド・ベルジュラック」の公演を見に行く。演出は、SPACの芸術総監督を務める鈴木忠志。鈴木は、基本的にはエドモン・ロスタンの原作の戯曲を下敷きとしながらも、そこに自由な翻案を付け加えることによって、一つの生き方の美学が提示される舞台を、力強く表現しようとしていた。とりわけ「武士道」的な「男」の「心意気」の美しさと、それを際立たせる「和」の美とが強調されていたが、それを額面どおりに受け取ってしまうなら、ロスタン描くシラノのうちに鈴木が見て取ったもののアクチュアリティを見損なってしまうことになろう。
 鈴木の演出では、大きな鼻をもち、それにコンプレックスを抱く剣豪シラノは日本人の姿をしている。日本人喬三の幻想がそのまま「シラノ・ド・ベルジュラック」になるというのが舞台の基本的な設計なのだ。それゆえ、登場人物の名は原作のフランス人の名前ではあるが、その服装も立ち振る舞いも江戸末期を思わせる。実際シラノが率いるのは、新撰組のような「青年隊」であり、その一人として、シラノが密かに思いを寄せるロクサアヌを恋する美貌の青年クリスチャンが登場するのである。
 シラノは、女性を前にすると言葉を失ってしまうクリスチャンの代わりに恋文を書き送り、やがてその恋文ゆえにロクサアヌはクリスチャンを愛するようになる。しかし、クリスチャンは、危険を冒して戦場へやってきたロクサアヌの言葉を聞いて、彼女が愛しているのは自分ではなく、シラノの言葉であることを悟り、みずから進んで戦死してしまう。その後、ロクサアヌが尼寺へ入って14年の歳月が経ったある日、彼女がシラノの許を訪れて、クリスチャンの告別の手紙を見せると。シラノはその手紙をそらんじている。クリスチャンから送られたすべての愛の手紙の書き手はシラノであり、シラノこそが彼女を愛していたのである。
 しかし、そのことをシラノはロクサアヌにけっして告白しない。その秘密を棺桶にもって入ること、それこそが「武士」の「男」の「心意気」なのだとシラノは、幕切れ近くの決め台詞を吐くのだが、それは現在の人間から失われつつあるものの所在を指し示しているのかもしれない。地球規模の情報通信網が日常生活に浸透したなかに生きる人間は、情報を発信し、他人とコミュニケーションを取り結ぶことで、自分を絶えずさらけ出している。そうして自分を見えるものにすることによって、情報通信網をつうじて身体のすみずみを、さらには身体をその内側から統御しようとする権力の枠組みにますます深く絡め取られてしまうのだ。こうして人間は、自由を謳歌しているように思いつつ、自由である余地を確実に狭めているのである。そのような状況において自由は、秘密を語らないこと、そうして見えない領域を残すこと、つまり他者にとって他者であり続けることのうちにこそある。シラノの最後の独白は、そのことを暗示しているように思われるのだ。とすれば、この舞台が提示しているのは、けっしてステレオタイプ化された「武士道」の「心意気」などではない。それはむしろ、一つの自由な生存の美学を示しているのである。
 こうした生存の美学を表現するのに動員された身体表現も、舞台装置も、全体的には非常に洗練されたものであったが、個人的にはやや過剰と思われるところもあった。まず、今や「スズキ・メソッド」とも呼ばれる方法で訓練された俳優たちの身体表現は、驚くほどの完成度を示していたけれども、どこか様式化されすぎていて、恋物語の表現としては堅苦しい印象は否めない。それが絶えずまくし立てるかのような文語調の台詞と組み合わさると、舞台からの表現の押し出しがあまりにも強くなってしまい、観客の側が劇の世界へ入るのが難しくなってしまう。また、舞台後景に咲き乱れる花はほんとうに必要だったのだろうか。満開の桜があるだけでもよかったのではないか。あまりにステレオタイプ化された日本的ジェンダーや「和」のイメージを強調するような演出も気になったところである。それから、「シラノ」の純愛と「椿姫」のそれを重ね合わせたい鈴木の気持ちもわからないではないが、音楽は尺八とヴァイオリンの独奏だけでよかったのではないだろうか。
 「スズキ・メソッド」による様式化された身体表現や発声法は、「シラノ・ド・ベルジュラック」の恋よりはむしろ狂気(終演後のアフター・トークで鈴木は、戯曲の主人公は殺人犯を含む犯罪者か狂人だと語っていた)を描くのに向いているように思う。静岡で見た「リアの物語」では、身体表現と台詞が狂気の鬼気迫る表現に結実していた。シェイクスピアの「リア王」を下敷きにした細川俊夫のオペラを、広島で鈴木の演出と作曲者細川自身の指揮で見てみたいと思うのはわたしだけだろうか。

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