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ひろしまオペラルネッサンス公演『フィガロの結婚』によせて

 去る10月7日と8日に、広島市のアステールプラザ大ホールにて、広島市のひろしまオペラ推進委員会が主催するひろしまオペラルネッサンスの年に一度の公演として、モーツァルトの『フィガロの結婚』が上演された。指揮はデリック・イノウエ、演出は岩田達宗が担当した。
 岩田達宗の演出は、舞台上の無駄な大道具を一切廃して、歌手たちの舞台上での立ち振る舞いに聴衆の視線を集中させるもの。舞台上の舞台とも言うべき黒の床には、椅子やベッドなどが置かれているだけである。扉の開け閉めなども身ぶりだけで表現される。そのような抽象性の高い岩田の演出において特筆すべきは、歌手たちの立ち振る舞いが音楽の動きと一体となっていることである。初日と2日目で歌手が異なる以上、細かい身ぶりは変わってくるし、ある程度歌手自身のアイディアを生かしていると思われるところも見られたが、両日とも、音楽の起伏が、またそれが表現する感情の浮き沈みが、身体的な表現と一つになるような演出が示されていたのではないか。モーツァルトのスコアとダ・ポンテのリブレットをしっかりと読み込み、そこから読み取った普遍的な内実を、歌手の身ぶりを中心に据えた舞台に結晶させ、今に問いかける演出と言えようか。それによって、『フィガロの結婚』というオペラに込められたものが、一つの力となって、よりストレートに伝わってくるように思われた。
 岩田の演出がドラマの中心に位置づけているのは、伯爵夫人である。彼女の命がけの愛の芝居が、最後に伯爵との、そして『フィガロの結婚』に登場するすべての人びとのあいだの和解をもたらすところに光が当てられているのだ。伯爵夫人の他者への愛と信が際立たされることによって、『フィガロの結婚』は、あらゆる壁や境界を越えたところにある和解の希望を今に語りかける作品として立ち現われてくる。イスラエル政府が築いている分離壁が代表するように、人びとのあいだに可視ないし不可視の壁が新たに築かれつつある今こそ演じられるべき作品として。
 初日に伯爵夫人を演じた尾崎比佐子は、伯爵ばかりでなく、すべての登場人物を包み込むような暖かい存在感を示しながら、抜群の安定感ですべてのパートを歌いきっていた。他方、2日目に演じた乗松恵美は、澄んだまっすぐな声で、モーツァルトの旋律の美しさとともに、伯爵夫人の夫への愛の一途さを際立たせていた。彼女が伯爵に赦しを与える、終幕のあのオペラ全体のなかで最も美しい瞬間が、これほど胸に迫るものとして聴こえたことがあっただろうか。
 歌手たちのなかで出色の出来を示していたのは、初日にスザンナを演じた柳清美。軽やかでありながら力強く響きわたる明るい声ですべてのパートをほぼ完璧に歌いきり、茶目っ気に満ちたスザンナの若さを、けっして大きいとは言えない身体から劇場全体に放射していた。これに対して2日目にスザンナを演じた楠永陽子は、安定感のある歌唱と実に巧みな演技で、スザンナの、知恵者で通っていたフィガロをはるかに凌駕する機知を際立たせていた。『フィガロの結婚』の女性たちとしてマルチェリーナの存在も忘れることはできない。とりわけ2日目にこの役を演じた藤井美雪は、非常に難しく、またそうであるがゆえに省略されることの多い終幕のアリアを、このオペラにおける女性の勝利を象徴するものとして見事に歌っていた。
 男性歌手たちのなかで特筆すべきは、アルマヴィーヴァ伯爵を歌った小島克正。力強い声で伯爵の虚勢と酷薄さを際立たせながら、嫉妬に駆られて罠にはまってゆくさまも、余裕をもって演じていた。2日目に伯爵を歌った石原雄介は、どちらかと言うと伯爵の浮気なところを、ユーモアたっぷりに際立たせていたように思う。初日にフィガロを演じたリー・ヨングは、情熱的な演技で、権力の不正に対して激昂し、スザンナに対してはいわれのない嫉妬を燃やしてしまう、実に人間的なフィガロの姿を浮かびあがらせていたように思う。他方、2日目にフィガロを演じた迎肇徳は、鮮やかな歌唱と巧みな演技で、機知で難局を切り抜ける知恵者としてのフィガロの存在感を際立たせていた。それ以外のバルトロやドン・バジリオといった脇役たちにもほとんど隙がない。ケルビーノのなかで大人びたところと幼さが混在し、せめぎあっているのを描き出した長谷川美恵子の歌唱も印象に残る。
 指揮のデリック・イノウエは、速めのテンポを基調としたきびきびとした音楽の運びで、躍動感に満ちたモーツァルトを聴かせてくれた。このように、18世紀末に書かれたテクストから現在の希望を引き出す演出と、その希望を生き生きと響かせる音楽が一体となった、非常に完成度の高い『フィガロの結婚』の上演だったにもかかわらず、聴衆が2日合わせて1500人ほどでしかなかったのは実に残念である。オペラの上演に足を運ぶということが広島の街に文化として根づいていないことが、あらためて突きつけられたということなのだろう。オペラをこの街で生かそうとするなら、そしてそのことを広島の外へ発信していこうとするなら、オペラをすべての人びとに開かれた、現在進行中の芸術運動と位置づけ、そこにさまざまな芸術ジャンルを巻き込み、新たな聴衆を、オペラの創造の新たな可能性とともに開拓していかなければならないのではないだろうか。広島においてオペラという総合芸術は、まだ芸術運動の核となりえていない。
 15日には、新国立劇場の地域オペラ招聘事業の一環として、広島の、いやヒロシマの『フィガロの結婚』が、選りすぐりのキャストで、新国立劇場の中劇場で上演されるという。この東京公演の成功が、広島のオペラが外へ開かれた、そして外から人びとを呼び込む芸術運動へ生まれ変わる転機となることを願ってやまない。

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