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石見銀山を訪れる

 ようやく梅雨の明けた日曜日、世界遺産への登録を申請している石見銀山へ出かけた。思ったよりも遠くはなく、広島市内の自宅から車で、高速道路を使わなくても2時間足らずの距離。11時半頃に出て、午後1時過ぎには石見銀山公園の駐車場に到着した。
 まずは腹ごしらえということで、大森の街の入り口にある「御前そば」という蕎麦屋に入って、割子そばを食す。松江の蕎麦屋が出すものに比べてかなり素朴な感じの割子そば。あまり腰が強くなく、少しぼそぼそした感じで、個人的には今ひとつ。石見地方の蕎麦は、出雲蕎麦とはまたちがった打ち方で作られているのだろうか。それにしてもこの蕎麦屋、ハワイアン風にアレンジされた「ウルトラマン」シリーズのテーマ・ソング(「ウルトラマン・セブン」の歌の冒頭をウクレレが奏でるのを想像してほしい)を始終流していたのは店主の趣味だろうか。
 腹ごしらえがすんだところで、近くにある羅漢寺を訪れ、銀山での事故や苛酷な労働のために命を落とした人びとの慰霊と祖先の供養のために彫られたという五百羅漢を見る。まず寺に入ると、秘仏の降三世明王と大元帥明王が公開されていると案内された。本堂の奥を見れば異様にけばけばしい極彩色の木彫が眼に飛び込んでくる。どちらも江戸中期の木彫のようだが、目のあたりをリアルに作ろうとしているのが逆にキッチュな感じ。両明王に踏みつぶされている怪獣のほうが、どこかユーモラスで魅力的だ。
 さて、五百羅漢像のほうは、寺の道を挟んだ向かいの崖に掘られた石窟に安置されているが、これには圧倒された。どこも飾ったところのない素朴な石像ながら、造形がぎこちないわけではなく、むしろ洗練された造形のなかで人間の喜怒哀楽を生き生きと表現している。徳川吉宗の時代に、温泉津の石工坪内平七とその一門の石工が彫り始めたとのこと。確かな技術で、衒いのない人間の姿が彫り出されている。羅漢とは、人間と仏の中間の存在なのだとか。その五百の姿は、人間のすべてを象徴するのかもしれない。人間のすべてを表現するかのように、さまざまな表情と姿態を見せる石像たちが、狭く、薄暗い石窟のなかに所狭しと並んでいる。左右の石窟に、250体ずつの羅漢像が安置されていた。
 羅漢寺を後にして、ひところは銀の取り引きで栄えた大森の街へ入る。1800年の大火で、街はほぼすべて消失してしまったとのことなので、そう古い建物が残っているわけではない。近代初期の街並みが残っているという感じだろうか。洋館風の建物もあるし、古い看板やブリキの広告板が木の壁に打ち付けられているのも見られるので、明治か大正へタイム・スリップしたような気がする。
 大森の街に残るいくつかの古い建物は公開されていて、まず代官所の役人の家だったという旧河島家住宅を訪れる。武家屋敷らしい質実剛健な造り。これに対して、重要文化財に指定されているという熊谷家の屋敷は、一つの城のような豪奢な造り。銀の掛け屋として財を成し、酒造業をはじめさまざまな事業を手がけた石見有数の商家の屋敷は、大きな土蔵をひけらかすかのように造られた広い客間がある一方で、こぢんまりとした茶室もそなえている。いくつかの部屋には、往時の商売と生活を偲ばせる展示もあった。全体的に、武家の家よりも明るい色調で統一されていたようだ。
 これら二つの屋敷のあいだでは、かなり以前に廃業したと思われる理髪店の戸が開け放たれていた。のぞいてみると、古い革張りの椅子が土間に鎮座している。かつてどんな紳士がこの椅子に座っていたのだろうか。また、小高い丘のようなところには、もうすでに廃寺となっているとおぼしき寺もあり、その門の両側では、一本の木から彫り出した仁王像が踏ん張って睨みを利かせている。かなりの大きさで、ぎょっとさせられた。
 大森の集落の端のほうにあるかつての代官所は、今は石見銀山資料館となっている。なかなか立派な平屋の代官所だが、石庭の奥に抜け穴が隠されているのが面白い。百姓や鉱山労働者の一揆から逃れるためだろうか。資料館の展示は、銀が最も多く採掘され、大森の街が栄えた江戸初期の鉱山と鉱山街の歴史に焦点を絞ったものと言えようか。とくに灰吹法という手法で銀がどのように抽出されたのかを示す展示が面白い。鉛との比重の違いを利用した巧みな手法だったことがわかる。また、石見の銀は大航海時代のヨーロッパの注目も集めていて、そのことが当時の地図からもわかるし、鉄砲やキリスト教が伝来したのも、石見の銀に惹かれたヨーロッパ人の波が日本列島へ打ち寄せるなかでの出来事だったとか。たしかに16世紀のヨーロッパの世界地図にも石見銀山とおぼしき場所は記されている。当時の航海者の実感としては、「ジパング」は黄金の国ではなく、銀の島だったのかもしれない。
 石見銀山の隆盛を描こうとする資料館の展示では、鉱山労働者の苦難は今ひとつよく伝わってこない。それは今や「間歩」と呼ばれる坑道の岩肌から読み取るほかないのだろうか。最後に訪れた龍源寺間歩は、鉱山労働の厳しさをわずかに伝えているように思われた。狭い道路を通った先を少し登ったところにある入り口からは、白い靄とともにひんやりとした空気が漂っている。少し坑道のなかへ入ってみると、それが湧き水のせいだということがわかった。岩肌のあちこちから水が染み出ているし、足下ではちょろちょろと水が流れている。あちこちに垂直に掘られた細い穴があったが、そこから絶えず水を汲み上げなければ、銀を掘り出すどころではなかったようである。水を汲むのは銀を削り出すより、心理的にも体力的にも厳しい仕事だったにちがいない。
 江戸時代の初期にシルバー・ラッシュに湧いた石見銀山も、徐々に採掘量が落ち、鉱山町もさびれていったという。そんな石見銀山の鉱山労働者たちは、どこから来て、ここでどのように生き、そして死んでいったのだろう。石見銀山が世界遺産に指定されるかどうかはともかく、まずは鉱山労働者たちの生きざまを、ウォーラーステインの言う「世界システム」の植民地主義的な拡大が進みつつあった世界の広い文脈のなかに位置づけながら浮き彫りにする努力をするべきではないか。大航海時代のヨーロッパにも知られた石見銀山の世界的な意義を強調したいなら、なおさらのことである。今の大森地区は、若い人びとを呼び寄せてこ洒落た店やギャラリーを開かせるなどして、街の若返りと観光地化を優先させているように見える。それも街の活性化のためには欠かせないとはいえ、銀山の歴史をとらえなおす努力も同時に続けなければ、石見銀山は現在の日本と世界を、とりわけそこにある資本主義の問題を照らし出す輝きを失うことになろう。ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」が坑道の岩壁のなかへさらに深く埋め込まれてゆくことを危惧させられた石見銀山への旅であった。
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