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2006年8月

岡真理『棗椰子の木陰で』

 48時間の爆撃停止の期限が切れて、イスラエルによるレバノンへの、空と地上両方からの激しい攻撃が再開された。攻撃の激しさは増す一方だが、これは当初から防衛の範囲をはるかに越えている。空からの爆撃においては、非戦闘員を無差別に虐殺するもの以外の何ものでもないクラスター爆弾も使われたという。今朝の新聞には、病院を掃討するイスラエルの地上特殊部隊の写真も載っていた。そして、このような一方的な軍事攻撃の被害を受けるのは、カナの避難施設への爆撃が象徴するように、決まって子どもや年老いた人びとをはじめとする一般の市民である。レバノンでは900人に上る人びとが殺され、そのほとんどが民間の非戦闘員であるという。そして、今や100万人を超える人びとが、住み慣れた場所を追われ、難民となっているとも報じられている。
 そのような悲惨な状況を最も研ぎ澄まされた眼で見つめている一人がアラブ文学研究者の岡真理であるが、彼女がこの10年間、悪化の一途をたどるパレスチナとその周辺のアラブ世界の情勢を見つめながら、それに応える文学の力を問い続け、書き継いでいった論考を集めた一冊が最近出版された。『棗椰子の木陰で──第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社)である。この論集には、言葉を語り、語られた言葉を読むことを、そして語り、読む主体のアイデンティティを、正確な言葉づかいをもって一歩一歩突きつめ、それらについての従来の見方を、すなわち人びとの自明のよりどころとなっているものを突き崩し、その果てに文学の、そして言葉の可能性を切り開こうとする試みの軌跡が刻まれている。
 たとえば、いわゆる「グローバリゼーション」が進行するとともに富める者と貧しき者が引き裂かれるなかで、あるいはイスラエルとアラブ世界との緊張が高まるなかで、しばしば「異文化理解」や「多文化共生」といったことが叫ばれる。しかし、そのように「固有の」文化があらかじめ存在することを前提するかのような議論には、大きな落とし穴があることを岡は指摘している。「かつて帝国主義の時代、非西洋世界の文化は価値的に劣ったものとされ、西洋中心主義の世界観のなかで周縁化されてきた。現代においては、過去の西洋中心主義に対する批判として、非西洋世界の文化の自己主張がさかんになされるようになった。とりわけグローバリゼーションが進行する今、世界の一元化に対する文化的抵抗として多文化主義が主張されている。どの地方にも、その地方固有の文化、固有の価値観がある、アラブにはアラブ独自のイスラーム文化によって培われた経験と価値観が、アフリカにはアフリカの太陽と母なる大地によって育まれた生と価値観がある、という主張。西洋中心的な私たちの世界認識が批判され、解体されるのは良い。しかし、ここで注意したいのは、こうした本質主義的な地方主義に根ざした多文化主義は、依然として西洋=普遍、非西洋=特殊という構図が強固に存在するこの世界では、西洋中心主義的な世界認識を解体するどころか、むしろ強化することになりはしまいかということである。知の本質主義的地方主義に居直り、地方の文化的特殊性を強調する「原理主義」が、西洋=普遍とする西洋中心主義と共犯関係を結んでいることはつとに指摘されているとおりである」。
 では、酒井直樹が批判する「文化主義」とも重なりあうこの「本質主義的地方主義」を乗り越えてゆくどのような道筋があるのだろうか。岡は、「固有な」ものとして、自己のアイデンティティの基盤として自明視しているものを内側から解体することを提案している。たとえば「母語」。これを私たちは「固有の」言語として「自然に」話しているだろう。しかし、それはもとをただせば、「母」という他者の口から吹き込まれた「異物」なのだ。それを語ることは、核心においては一体化の享楽であるよりはむしろ分裂の「苦悶」なのではないか。そのことを岡は、トリニダート・トバコの詩人マルレーヌ・ヌルベーズ・フィリップの詩「言語の論理に関する言説」を解釈しつつ、説得的に示している。
 このことを洞察し、言語の物質性に躓きながら、他者の言語として自分が「母語」として話してきた言語を見つめなおすこと。岡によれば、このことのうちに言葉を話すことを他者に開かれた活動へ反転させる契機がある。「母語を母語として生きる者であろうと、母語なるものの他者性を、つねにすでに、生きている。これらのテクストが読者に要求するのは、言語の物質性を回復させ、私たちがそれに躓くことによって、母語なるものの、忘却されてあるこの生々しい他者性を想起することにほかならない。言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。/だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者に開かれたものにする、その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。私の躯のなかに吹き込まれたあなたの言葉が、私の呼気となって出てゆく、開かれた私の躯が反響板となって、あなたの言葉を、あなたのものではない他者の言葉を、誰のものでもない言葉を、私のことばとして、私たちの言葉として。誰のものでもない他者の言葉を分有する者として。苦悶であると同時に、歓びでもあるような」。
 「固有の」言語ではなく、他者の言語を分有していることを引き受け、複数性を自分自身のうちに刻印することによってこそ、他者たちのあいだで言葉を響きあわせることができる。「この世に居場所をもたない者たちの、死者たちの声」に耳を澄ませ、「正統性」の名のもとでのあらゆる排除の暴力を越えたところで、そのように掻き消されようとしている声に耳を澄ませ、それに応答することができるのだ。『千夜一夜物語』、ナワール・エル=サアダーウィーの『零度の女』、李良枝の『由煕』といった文学作品の精緻で批判的なレクチュールをつうじて、岡真理のエクリチュールは、これまで自己の母胎と見なしてきたものを突き崩した先に、他者と応えあう言葉を見いだすことへ読者をいざなおうとしている。
 ところで、『棗椰子の木陰で』には、1997年から2006年にかけて、パレスチナの出来事を中心に、ひとつひとつの出来事に応答しつつ、そこにある暴力と、それに対する抵抗を証言するクロニクルも収められている。それを書き継ぐことをつうじて、岡はアラブ世界の情勢を見すえつつ、そのなかで暴力的な抑圧に苦しむ人びとと連帯しようとしている。その姿を見つめながら、レバノンに対する不当な攻撃に対して、そしてその陰で今も進行しているガザへの暴力に対して、抗議の声をあげようとしない自分自身の今ここを、戦慄とともに見つめ返すべき時が来ているのかもしれない。

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誕生日とフランス料理の愉しみ

 何十何回目だかの誕生日を迎えて、また歳を取ってしまった。ゲオルク・ビュヒナーよりも、ノヴァーリスよりも、フランツ・シューベルトよりも、ハインリヒ・フォン・クライストよりも、そして今年生誕250周年を迎えたあのモーツァルトよりも長生きをしてしまったと言えば、何歳になったのかおおかた想像がつくものと思われるが、振り返ってみれば、これまでいったい何をやってきたのかと暗澹とさせられる。バタバタと生き急いで、結局何もできていないではないか。
 とりわけこの1年は慌ただしく過ぎた。慌ただしく感じられるのは、歳を取ったせいなのかもしれないが、実際慌ただしく結果を出すことに追われていたのではないか。それにかまけて、思考を突きつめることを、また思想を表現する言葉を研ぎ澄ますことを、すっかり怠ってはいなかっただろうか。目に見える結果を出すことが求められる趨勢に抗しきれない自分も腹立たしい。
 母に、もう自分の顔をもつ歳だと言われた。そうなのかもしれないが、自分の顔を作れているとはとても思えない。にもかかわらず、音声的な言葉のかたちで、文字のかたちで、あるいは身体的な相貌というかたちで、つねに顔を他者に晒していなければならないし、パブリックに顔を晒さなければならない機会もまたすぐにやってくる。ともかく残された時間で、変に立てなくてもよい顔を作る最大限の努力をするほかないのだろう。
 ところで、誕生日の夜、広島市内の京橋川沿いのフランス料理屋「ア・ターブル」を妻と訪れた。やや古びた建物の2階にあるこぢんまりとしたその店は、フランスのジャズが流れていて、変に気取らない雰囲気が心地よい。とはいえ料理は実にしっかりとしている。
 まず出て来たのが前菜の盛り合わせ。スモークサーモンをパプリカやマンゴーと合わせたもの、アボガドに蟹肉を乗せてオーロラソースをかけたもの、水イカのラグー、ナスをラタトゥイユ風に煮込んだのにアンチョビソースをかけたもの、それに生ハムと実に多彩である。生ハムに添えられた、スイートコーンのペーストを胡麻豆腐のように固めたものは、ゼリー寄せの代わりだろうか。全体的に口当たりのよい味付けながら、ニュアンスに富んだ甘さと辛さのコントラストや食感のちがいを楽しむことができる。落ち着いたなかで食べることの愉悦を味わわせてくれる一皿。とくに気に入ったのはサーモンとマンゴーの組み合わせだった。
 次に出てきたのは、鮮やかなピンク色が印象的なビートの冷製スープ。仄かな酸味が夏にふさわしい爽やかさを醸し出しているが、コクも欠けてはいない。それに続いて、フォアグラのソテーが運ばれてくる。マッシュポテトの上に乗せられた二切れの(もちろん小さな)フォアグラにトリュフのソースのかかった、実に贅沢な一皿である。舌の上で溶けていくかのような味わいを醸し出す、フォアグラとソースの組み合わせを堪能した。
 実は、コースはこれだけでは終わらない。今度は魚介料理ということで、海老のクリーム煮にズッキーニとライスのグラタンを添えたものが出て来た。海老そのものも美味しかったが、まろやかななかに少し辛味を利かせたクリームソースの味も面白い。肉料理は、雲仙豚のソテー。シンプルな味付けの豚肉自体も美味しいが、マスタードとジャムが添えて、さまざまな味のヴァリエーションを楽しめるよう工夫してある。さらに、キャベツとマッシュルームの浅漬けのピクルスも添えてあった。豚肉にコクがあるだけに、さっぱりとした野菜が添えられているのは嬉しい。最後にはしっかりとした甘味のガトーショコラと、オレンジの皮の苦味を生かしたソースでアクセントをつけたシャーベットのデザートも楽しんで、身も心もすっかり満腹となってしまった。年に二度か三度は、このような舌の快楽もお許しいただきたいところである。ちなみにワインは、チリ産のものを注文したが、果実味豊かで、かつどっしりとした味。フォアグラにも豚肉にもよくマッチしていた。値段のほども(料理も含めて)実にリーズナブル。久しぶりによい店を見つけた。
 さて、昨年の誕生日から始まったこの雑記録風Weblogも、今日でちょうど1周年。折々に書き散らした雑文にお付き合いくださったみなさまには、心から感謝申しあげます。

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石見銀山を訪れる

 ようやく梅雨の明けた日曜日、世界遺産への登録を申請している石見銀山へ出かけた。思ったよりも遠くはなく、広島市内の自宅から車で、高速道路を使わなくても2時間足らずの距離。11時半頃に出て、午後1時過ぎには石見銀山公園の駐車場に到着した。
 まずは腹ごしらえということで、大森の街の入り口にある「御前そば」という蕎麦屋に入って、割子そばを食す。松江の蕎麦屋が出すものに比べてかなり素朴な感じの割子そば。あまり腰が強くなく、少しぼそぼそした感じで、個人的には今ひとつ。石見地方の蕎麦は、出雲蕎麦とはまたちがった打ち方で作られているのだろうか。それにしてもこの蕎麦屋、ハワイアン風にアレンジされた「ウルトラマン」シリーズのテーマ・ソング(「ウルトラマン・セブン」の歌の冒頭をウクレレが奏でるのを想像してほしい)を始終流していたのは店主の趣味だろうか。
 腹ごしらえがすんだところで、近くにある羅漢寺を訪れ、銀山での事故や苛酷な労働のために命を落とした人びとの慰霊と祖先の供養のために彫られたという五百羅漢を見る。まず寺に入ると、秘仏の降三世明王と大元帥明王が公開されていると案内された。本堂の奥を見れば異様にけばけばしい極彩色の木彫が眼に飛び込んでくる。どちらも江戸中期の木彫のようだが、目のあたりをリアルに作ろうとしているのが逆にキッチュな感じ。両明王に踏みつぶされている怪獣のほうが、どこかユーモラスで魅力的だ。
 さて、五百羅漢像のほうは、寺の道を挟んだ向かいの崖に掘られた石窟に安置されているが、これには圧倒された。どこも飾ったところのない素朴な石像ながら、造形がぎこちないわけではなく、むしろ洗練された造形のなかで人間の喜怒哀楽を生き生きと表現している。徳川吉宗の時代に、温泉津の石工坪内平七とその一門の石工が彫り始めたとのこと。確かな技術で、衒いのない人間の姿が彫り出されている。羅漢とは、人間と仏の中間の存在なのだとか。その五百の姿は、人間のすべてを象徴するのかもしれない。人間のすべてを表現するかのように、さまざまな表情と姿態を見せる石像たちが、狭く、薄暗い石窟のなかに所狭しと並んでいる。左右の石窟に、250体ずつの羅漢像が安置されていた。
 羅漢寺を後にして、ひところは銀の取り引きで栄えた大森の街へ入る。1800年の大火で、街はほぼすべて消失してしまったとのことなので、そう古い建物が残っているわけではない。近代初期の街並みが残っているという感じだろうか。洋館風の建物もあるし、古い看板やブリキの広告板が木の壁に打ち付けられているのも見られるので、明治か大正へタイム・スリップしたような気がする。
 大森の街に残るいくつかの古い建物は公開されていて、まず代官所の役人の家だったという旧河島家住宅を訪れる。武家屋敷らしい質実剛健な造り。これに対して、重要文化財に指定されているという熊谷家の屋敷は、一つの城のような豪奢な造り。銀の掛け屋として財を成し、酒造業をはじめさまざまな事業を手がけた石見有数の商家の屋敷は、大きな土蔵をひけらかすかのように造られた広い客間がある一方で、こぢんまりとした茶室もそなえている。いくつかの部屋には、往時の商売と生活を偲ばせる展示もあった。全体的に、武家の家よりも明るい色調で統一されていたようだ。
 これら二つの屋敷のあいだでは、かなり以前に廃業したと思われる理髪店の戸が開け放たれていた。のぞいてみると、古い革張りの椅子が土間に鎮座している。かつてどんな紳士がこの椅子に座っていたのだろうか。また、小高い丘のようなところには、もうすでに廃寺となっているとおぼしき寺もあり、その門の両側では、一本の木から彫り出した仁王像が踏ん張って睨みを利かせている。かなりの大きさで、ぎょっとさせられた。
 大森の集落の端のほうにあるかつての代官所は、今は石見銀山資料館となっている。なかなか立派な平屋の代官所だが、石庭の奥に抜け穴が隠されているのが面白い。百姓や鉱山労働者の一揆から逃れるためだろうか。資料館の展示は、銀が最も多く採掘され、大森の街が栄えた江戸初期の鉱山と鉱山街の歴史に焦点を絞ったものと言えようか。とくに灰吹法という手法で銀がどのように抽出されたのかを示す展示が面白い。鉛との比重の違いを利用した巧みな手法だったことがわかる。また、石見の銀は大航海時代のヨーロッパの注目も集めていて、そのことが当時の地図からもわかるし、鉄砲やキリスト教が伝来したのも、石見の銀に惹かれたヨーロッパ人の波が日本列島へ打ち寄せるなかでの出来事だったとか。たしかに16世紀のヨーロッパの世界地図にも石見銀山とおぼしき場所は記されている。当時の航海者の実感としては、「ジパング」は黄金の国ではなく、銀の島だったのかもしれない。
 石見銀山の隆盛を描こうとする資料館の展示では、鉱山労働者の苦難は今ひとつよく伝わってこない。それは今や「間歩」と呼ばれる坑道の岩肌から読み取るほかないのだろうか。最後に訪れた龍源寺間歩は、鉱山労働の厳しさをわずかに伝えているように思われた。狭い道路を通った先を少し登ったところにある入り口からは、白い靄とともにひんやりとした空気が漂っている。少し坑道のなかへ入ってみると、それが湧き水のせいだということがわかった。岩肌のあちこちから水が染み出ているし、足下ではちょろちょろと水が流れている。あちこちに垂直に掘られた細い穴があったが、そこから絶えず水を汲み上げなければ、銀を掘り出すどころではなかったようである。水を汲むのは銀を削り出すより、心理的にも体力的にも厳しい仕事だったにちがいない。
 江戸時代の初期にシルバー・ラッシュに湧いた石見銀山も、徐々に採掘量が落ち、鉱山町もさびれていったという。そんな石見銀山の鉱山労働者たちは、どこから来て、ここでどのように生き、そして死んでいったのだろう。石見銀山が世界遺産に指定されるかどうかはともかく、まずは鉱山労働者たちの生きざまを、ウォーラーステインの言う「世界システム」の植民地主義的な拡大が進みつつあった世界の広い文脈のなかに位置づけながら浮き彫りにする努力をするべきではないか。大航海時代のヨーロッパにも知られた石見銀山の世界的な意義を強調したいなら、なおさらのことである。今の大森地区は、若い人びとを呼び寄せてこ洒落た店やギャラリーを開かせるなどして、街の若返りと観光地化を優先させているように見える。それも街の活性化のためには欠かせないとはいえ、銀山の歴史をとらえなおす努力も同時に続けなければ、石見銀山は現在の日本と世界を、とりわけそこにある資本主義の問題を照らし出す輝きを失うことになろう。ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」が坑道の岩壁のなかへさらに深く埋め込まれてゆくことを危惧させられた石見銀山への旅であった。
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