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大植英次&ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー演奏会

 広島厚生年金会館へ大植英次が指揮するハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの演奏会を聴きに行く。一度かぎりとはいえ、バイロイト音楽祭の指揮台に立ち、「トリスタンとイゾルデ」を振った大植が、いったいどのようなヴァーグナーを聴かせてくれるのか、少し興味があったのだった。前半に歌劇「リエンツィ」序曲と「ジークフリートの牧歌」を配し、後半に楽劇「ヴァルキューレ」から第一幕を演奏会形式で上演するというなかなか意欲的なプログラム。
 この日の演奏は全体として、なぜ大植がバイロイトへ招聘されたのか、という問いと、またなぜその招聘が一年で終わってしまったのか、という問いの両方に対して答える要素を含んでいたように思われる。まず、その上部組織にあたるハンブルクの北ドイツ放送交響楽団に比べるなら超一流の実力を最初から約束されているとはやはり言い難いハノーファーの北ドイツ放送フィルハーモニーをしっかりとまとめあげ、随所で聴き手を陶然とさせるようなクライマックスを築いていた点は評価しておかなければならない。大植の八年間にわたるオーケストラ・ビルディングの成果が、一つの塊として迫ってくるヴァーグナーの響きに結実していたことは認めておくべきだろう。そのような現場での実力が評価されてバイロイトへ呼ばれたことは想像に難くない。しかしながら、大植の音楽そのものが、はたしてヴァーグナーにふさわしいものなのだろうか、という疑問も拭えないところもあったのは確かである。
 まず大植の音楽は、全体的に落ち着きなく上滑りしてしまっている。どこかせかせかしていて、音楽にゆったりと身を委せることができないのだ。全体的に呼吸が浅いせいもあるだろうが、何よりもリズムのとらえ方に問題があるのではないか。アウフタクトをしっかりつかんで歌いきったうえで強拍を踏みしめるようなリズム感を感じ取ることができないために、地に足がついていない音楽を聴いているような感じがするうえ、音楽の構造もぼやけて聴こえる。また、大植の指揮ぶりを見ていると、作品全体を貫く音楽の大きな流れを巨視的にとらえる視点を失って、細かい楽節の処理に心を奪われているようだ。そうすると、個々の楽節はそれらしく聴こえても、作品全体が一本の筋によって貫かれていることが見えなくなり、音楽から緊張感が失われてしまう。実際「リエンツィ」の序曲と「ヴァルキューレ」第一幕には、間然としてしまった箇所がいくつかあった。
 こうした大植の落ち着きのなさと視野の狭さは、ヴァーグナーを聴かせる場合には、やはり致命的な欠点となろう。大植にバイロイトでの二度目のシーズンが訪れなかったのはそのせいではと思うのは、うがった想像だろうか。
 そう考えると、全体としての完成度が最も高かったのは、オーケストラの自主的なアンサンブルに音楽の運びを委せた「ジークフリートの牧歌」だったのではないかと思われてくる。少人数の編成の弦楽器と管楽器が呼吸を合わせて、ヴァーグナーが妻のために自宅の室内で初演したこの曲にふさわしい親密なアンサンブルを繰り広げていた。また、他の作品では、奏者のあいだに演奏能力の差があるせいか、静かなところで弦楽の響きがややざらついてしまっていたのに対して、「ジークフリートの牧歌」では少人数の編成が功を奏して、弦楽器の各セクションの響きが艶やかにまとまっていた。弦楽器の広がりのあるハーモニーの上に管楽器のソロが突出することなく浮かびあがっていたのも、この曲の空間的な広がりのある牧歌的雰囲気を表現するうえでは好ましい。「リエンツィ」序曲での大植の指揮も、どちらかというとオーケストラの自主性を重視していたが、そこではそうした行き方が裏目に出ていた。音楽の運びに緊張感が欠けてしまって、最後のマーチがやや安っぽく響いてしまっていた。
 「ヴァルキューレ」第一幕では、大植は前半とは打って変わって、オーケストラをしっかりとコントロールしながら、双子の兄妹とその宿敵が少しずつその素性を明かしつつ運命的な出会いを遂げるドラマの緊迫感を響き出させようとしていた。その結果、個々の場面はしっかりと描き出されていたし、この第一幕をクライマックスへ導く剣のモティーフをはじめ、個々のライトモティーフも印象的に浮かびあがらせられていた。しかし、冒頭と幕切れでは、嵐のような烈しさを表現しようとする大植の気合いがやや空回りしてしまっていたように見受けられる。音楽が滑ってしまって、冒頭ではジークムントを襲った苦難の烈しさが、幕切れではジークムントとジークリンデの心中に湧きあがる喜びの烈しさが、今ひとつこちらに迫ってこないのだ。
 歌手のなかでは、フンディングを歌ったクリストフ・シュテフィンガーが圧倒的な力強さを示していた。明くる日の決闘を宣告するドスの利いた声は、フンディングの一族の怨念の深さを物語って余りある。それに比べると、ジークムントを歌ったロバート・ディーン・スミスとジークリンデを歌ったリオバ・ブラウンの声は少し弱い印象を受ける。ジークムントがこれまでの苦難を切々と物語り、約束された剣を切望する歌の真摯さにも、またジークリンデが不意の客人を気遣ったり、生き別れた双子の兄に出会えた喜びに打ち震えたりするさまを描く表現の細やかさも心に訴えるものがあったが、オーケストラの響きに声が負けてしまっている箇所が散見された。
 オーケストラは、木管楽器を中心に健闘していたように思われる。とりわけオーボエとイングリッシュ・ホルンのソロは印象的だった。金管楽器も十分に力強かったが、それに比べると弦楽器の響きはやや弱い。それにしてもオーケストラの各奏者のエネルギーには恐れ入る。これだけヴァーグナーを演奏した後に、さらにもう二曲アンコールとしてヴァーグナーを演奏したのである。演奏されたのは、「ヴァルキューレの騎行」の名で知られる「ヴァルキューレ」第三幕への前奏曲と楽劇「神々の黄昏」のクライマックスを形成する「ジークフリートの葬送行進曲」。見識ある妥当な選曲ではあるが、どちらもオーケストラへの苛酷な要求を含んだ曲である。それらを最後まで力強く演奏しきったのだ。
 最後に、演奏会の運営についてひと言述べておかなければならない。「ヴァルキューレ」第一幕の上演にあたっては、日本語の字幕を舞台の上か両端に表示すべきだったと思われる。古語と韻文を駆使したヴァーグナーの台本は、ドイツ語を知っていても追うのは相当難しい。まして照明が暗いなかでは、プログラムをもっていても、歌詞対訳の日本語を読むことすらままならないはずだ。そして、言葉を追うことに気を取られると、舞台を見ることができないばかりでなく、音楽への集中力も途切れてしまう。かといって舞台に集中すれば、演奏会形式での上演の場合、よほど曲を知っていないかぎりどんな場面なのか想像がつかず、もどかしい思いをするだけである。とりわけ、ヴァーグナーの実演がまれにしか行なわれてこなかった広島での演奏であることを考えるなら、日本語の字幕は必要ではなかったか。それにしても客席に空席が目立つのは寂しい。大植は広島の出身と聞く。バイロイトで日本人として初めて指揮したヴァーグナーを引っ提げての里帰り公演となれば、もう少し話題を呼んでもよさそうなものだ。広島の人びとは、広島の外で活躍する広島出身の芸術家に対してどこか冷淡な感じがする。裏を返せば、それだけ内向きだということだろうか。
 大植英次とハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの日本ツアーの初日を飾る広島公演は、大植の故郷とヴァーグナーへの愛に満ちた、実に力のこもった演奏会だった。しかし、その愛が音楽と一体化して聴衆に届いたかどうかには、疑問を呈さないわけにはいかない。そして、その疑問の原因は、演奏する側とそれを受け入れる側の両方にあったと考えられる。(以上http://homepage.mac.com/nob.kakigi/OueNDRHannover02062006.htmより抄録)

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コメント

 私も4日に大阪で同じプログラムを聴きました。CDはかなり指輪を聴いていましたが、実演は初めての経験でした。どうしてもヴァルキューレはクナッパーツブッシュのイメージがしみついているので大植氏の最初の部分は速く感じました。最後もアチュレ気味で空回りといえば空回りかもしれませんがこういう解釈もいいのではないでしょうか。たしかにわずかに呼吸の浅さは感じましたが、日本人でこれだけのワーグナーはきけないのではないでしょうか、前に小沢征爾氏のワーグナーのCDを聴いたことがありますが、まったくワーグナーの呼吸になってませんでした。
このオケは名前も聴くのも初めてでしたが、弦特にヴァイオリン群はもういっそうの表現力が必要な感じですね。チェロはソロが多く聴かせどころの多い曲ですが、健闘していました。スタンディングオベーションでは一番の拍手でした。管楽器特に木管群はうまいですね。特にオーボエは聞き惚れました。歌手は男性群はよかったですね、テノールはルネコロ風だなとう印象をもちました。第3場のWalse!Walse!の所を限界まで音を延ばしたのは圧巻でした。ソプラノはもう少し声量があればよかったと思いましたが十分満足しました。フンディングも見事でした。
大阪の会場はかなり盛り上がっていました。

投稿: やっす | 2006年6月 5日 (月) 20時51分

 やっすさん、丁寧なコメントをありがとうございます。大阪の会場は盛り上がっていましたか。広島では、義務感に駆られたようにブラヴォーを飛ばして会場を後にするおじさんもいたりして、喝采もどこか空々しかったです。「ヴァルキューレ」で木管が非常に上手かったこと、チェロが大健闘していたことは同感です。歌手もたしかに相当に高水準の出来でした。しかし、テノールとメゾ・ソプラノの二人には、総奏のオーケストラを突き抜けて迫ってくるような力強さを求めたかったのです。大野や、関西で活躍しているところでは飯守のヴァーグナーを聴いたことがないので、大植のヴァーグナーが日本人の指揮者のなかでどれほどの水準にあるのかはわかりませんが、アプローチの真摯さに対しては大いに好感をもっています。ただ、これだけ活躍している指揮者に対しては、もう少し深く、筋の通った音楽を求めたいのです。ちなみに、ヴィーンで小澤の「オランダ人」を聴いたことがありますが、外面的な効果ばかりを追い求めた、とてもヴァーグナー的とは言えないお粗末な演奏でした。また何かの折にコメントをいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

投稿: Walter | 2006年6月 6日 (火) 00時07分

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