« 大植英次&ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー演奏会 | トップページ | 武満徹|Visions in Time展 »

「ルート181」

 6月11日、パレスチナ人ミシェル・クレイフィとイスラエル人エイアル・シヴァンという二人の映像作家が監督した作品「ルート181──パレスチナ−イスラエル・旅の断章」を見る。上映会場となった広島市内の映画館(横川シネマ)には、椅子が足りなくなるほどの人が詰めかけていた。上映会を主催したグループのメンバーから聞いたところでは、200名近い入場者があったとのこと。あまり広く共有されているとは思えないパレスチナの状況を扱った映画にこれほどの人が集まるとは正直予想できなかった。広島の人びとの外へ向かう問題意識もまだまだ捨てたものではないということだろうか。ともかくこの上映会が、パレスチナの状況と問題がこれまで以上に広く共有される機会となったことは率直に喜びたい。
 映画「ルート181」のタイトルは、1947年の「国連決議181号」にもとづいている。その決議はパレスチナの分割線を定めるもので、この分割線が後にアラブ国家とユダヤ国家の境界線になることもうたっていた。しかし、1948年のイスラエル独立とそれに続く中東戦争の結果、この決議は反故にされてしまう。それが定めた境界線は、幻のものになってしまったのである。映画「ルート181」は、クレイフィとシヴァンの二人がこの幻の境界線を「ルート181」と名づけ、それをたどった旅の記録であるが、その映像はパレスチナの地から複数の声を届けながら、日本の現在の問題を鋭く照らし出している。
 「ルート181」上の土地は、イスラエルによって征服されている。かつてあったパレスチナ・アラブ人の集落は跡形もなく一掃され、そこにヘブライ語の地名が覆い被せられているのだ。あたかもアラブ人たちの生の記憶を消し去ろうとするかのように。そして、そこに住むユダヤ人たちは、自分がそこに他者を排除しながら生きていることを、二人の映像作家の前で正当化しようとする。神の約束や最初の開拓者たちの記憶を都合よく解釈することによって、そこがもともと自分の土地だったことを裏づける物語を捏造し、場合によってはそのために博物館のような施設まで建てたりするのである。その様子は、植民地支配をも利用して人びとを動員し、軍艦をはじめとする兵器を造り続けた軍需産業としての重工業産業の現在に至る存続を正当化しようとするかのように、いわゆる「ものつくり」の先達を礼賛しようとする博物館が建設されてしまう広島の状況とも二重写しになる。
 映画に登場するユダヤ人の多くは、そのようにひと続きの物語を作りあげることによって自分のアイデンティティと現在の生存を正当化する一方で、それがパレスチナのアラブ人の排除の上に成り立っていることを問いただされると、アラブ人への攻撃性を剥き出しにする。女性や子どもを含め箒で掃き出すように追放したことを、「弱い」アラブ人自身に責任があったことのように語る元軍人、アラブ人を「犬」や「癌」と呼んでその排除を正当化しようとする若い労働者。とりわけ新参の移民としてイスラエル社会のなかでも底辺に追いやられ、差別の対象ともなっている中東生まれのユダヤ人が、アラブ人への敵意を露わにすることによってイスラエル国民であることをことさらに自己主張しようとするさまは、日本でもいわゆる「勝ち組」になれるコースから外れてしまった人びとが、隣国の人びとへの敵意を剥き出しにしながら「国民」の虚像に必死でしがみつき、自分がマジョリティに属していることを何とかして確かめようとする様子にも重なってくる。そして、イスラエルにおいては、このように自分のアイデンティティの不確かさを他者に対する攻撃性によって埋め合わせようとする人びとが、やがて兵士となってパレスチナ人への直接的な暴力に手を染めることになるのだ。それによって、かつてユダヤ人がホロコーストのなかで被った暴力が、皮肉なことに今度はパレスチナ人へ向けて繰り返されることになるのである。
 そのことが実は、第一次中東戦争におけるイスラエルのパレスチナ・アラブ人居住地域の征服と占領以来、不断に繰り返されていたことも、映画は証言している。たとえばロッドと現在呼ばれているパレスチナ中部の街には、1948年当時にパレスチナ人を閉じ込める地区が造られていて、その地区はこともあろうに「ゲットー」と呼ばれていたという。ユダヤ人を閉じ込めていたゲットーが、ユダヤ人の手によって、パレスチナ人を閉じ込めるものとして再び造り出されたのだ。しかもロッドの「ゲットー」では、300人におよぶパレスチナ人がモスクに集められ、イスラエル人によって虐殺されたのである。それを目撃し、さらにはナチス・ドイツの絶滅収容所でユダヤ人特務班が同胞の遺体の処理を強いられたのとまったく同じように隣人たちの遺体の処理をさせられたのを証言する年老いたアラブ人の床屋が登場するシーンは、明らかにクロード・ランズマンの映画「ショアー」のなかの、絶滅収容所の生き残りアブラハム・ボンバが、床屋として髪を切りながら、ガス室に送られる直前のユダヤ人女性たちの髪を切らされたことを証言するシーンを思い起こさせようとするものであろう。クレイフィとシヴァンは、ボンバが経験したのと規模こそ異なれ、他者を絶滅させようとする点では同じ暴力が、ユダヤ人によって、それもホロコーストのわずか数年後に繰り返され、今も繰り返され続けていることを突きつけているのだ。カメラが映す、近隣アラブ諸国へのアラブ人の「移送」──それはユダヤ人の収容所への「移送」というかたちで用いられていた語だ──を訴える政治的スローガンもまた、戦慄を催すものだった。
 このように反復される暴力の中心的な担い手となっているのは当然ながらイスラエル国防軍の兵士たちであるが、そのなかの若い、哲学を学んでいてカフカを愛読するという一人に、監督たちは問いかける。「悪の陳腐さ」を知っているか。収容所への「移送」を取り仕切る責任者だったナチス・ドイツの高官アドルフ・アイヒマンの裁判を論じたハンナ・アーレントのルポルタージュの副題である。アーレントはそこで、組織の歯車として動くだけの凡庸な人間のルーティン・ワークこそが巨悪を担いうることを暴き出し、映画「ルート181」の監督の一人であるシヴァンは、アイヒマンがその凡庸さを露呈させる裁判の映像を映画「スペシャリスト」(1999年)のかたちで、「オフィスの犯罪」が横行する現代に突きつけたのだった。そしてシヴァンとクレイフィは、「悪の陳腐さ」というアーレントの言葉を引用することによって、イスラエル軍の若い兵士に、自分が上官の命令にしたがって仕事としてやっていることが、パレスチナ人に対する巨大な、圧倒的な、またパレスチナ人ひとりひとりの人格を否定するような暴力の一端を担うことであることにどれほど自覚的なのか、自覚的でないとすればお前はもう一人のアイヒマンではないのか、と問いかけているのである。その問いは日本の状況を問いただすものでもあろう。もしかすると「愛国心」や「国民の義務」が声高に語られるようになるなかで、日本では従順なアイヒマンたちが生産されてゆく機構が作り出されようとしているのではないだろうか。
 映画「ルート181」は、そのように「ユダヤ国家」の存立がパレスチナ人の排除と抑圧を構造化することを基盤にしていることを暴き出してゆくが、それはけっして一枚岩の悪としてのイスラエル像を呈示するひと続きの物語に解消されるものではない。まず、「ルート181」をたどる旅は絶えず寸断される。行程は鉄条網を張り巡らした境界や建設されつつある分離壁によって遮られ、道行く人との対話は戦闘機の爆音によって遮られるのだ。そして寸断された「旅の断章」から響いてくるのは、単一の声ではなく、複数の声なのである。イスラエル人のなかにもパレスチナ人との共存を望む人はいるし、とくに最後近くに登場するチュニジアから来たというユダヤ人女性は、人が毎日殺されてゆくのを聞いてはけっして自分の生活の安寧を享受できないと嘆いてもいる。他者の排除と抑圧の上に成り立つ「安全」の危うさと欺瞞に気づいている人びともいるのだ。その声は、「テロ対策」や「治安」などの名のもとに他者への暴力が恒常化し、遍在化しつつある状況のなかで見せかけの「平和」を享受する生活を問いただしてもいる。「ルート181」は、「非常事態」が常態化しつつある世界の状況をパレスチナから照らし出し、そのような世界に生きること自体を問う声をも響かせているのかもしれない。
 一見遠く思われるパレスチナから今ここを照らし出し、そこにある問題を抉り出すドキュメンタリー映画「ルート181」。その広島での上映は、できることなら今回の一回だけで終わらせたくはない。もっと多くの人びと、とりわけ若い人びとと、それが響かせる複数の声を共有したいものである。

|

« 大植英次&ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー演奏会 | トップページ | 武満徹|Visions in Time展 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/126937/10505709

この記事へのトラックバック一覧です: 「ルート181」:

» おすすめ映画 [共通テーマ]
何かおすすめする映画とかあったら語ってください。 感動もの、笑える映画、なんでもどうぞ。 [続きを読む]

受信: 2006年6月13日 (火) 19時21分

« 大植英次&ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー演奏会 | トップページ | 武満徹|Visions in Time展 »