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2006年6月

「ガーダ──パレスチナの詩」

 古居みずえ監督のドキュメンタリー「ガーダ──パレスチナの詩」を見る。上映会場となった原爆記念資料館の会議室は150人ほどのキャパシティだったが、中国新聞に監督を紹介する記事が出たためだろうか、雨天だったにもかかわらず、立ち見客が出るほどの盛況であった。
 作品は、ガーダというガザ在住の女性が、学問によって啓蒙された女性として、伝統的な慣習や女性の役割を押しつけられるのに反発しながらも、結婚し、子どもを産むなかで、苦難を生き抜き、抵抗を続けるパレスチナの女性としてのアイデンティティに目覚め、1948年以来のイスラエルの占領支配に苦しみながらも生活を守り続ける女性たちの記憶を一つの歴史として語り継ごうと決意し、ガザ周辺に住む老女たちを訪ねて回るさまを追っている。パレスチナの女性たちの日常の息づかいを、それを取り巻く空気とともに細やかに伝えるとともに、それ自体がイスラエルの圧政に対する抵抗となるような日常生活の力強さをも暖かく浮かびあがらせる映像が胸を打つ。
 古居みずえは、12年間にわたってガーダを追い続け、パレスチナの人びとの生活に密着しながら、500時間におよぶ映像を撮り貯めたという。そのなかから選りすぐられた2時間足らずの映像は、パレスチナの女性たちの息づかいのなかから、男性的視点からはなかなかとらえることのできないもう一つの抵抗の姿を浮かびあがらせている。家屋や農地を壊されてもそこで生活を守ることが、イスラエルの暴力に対する抵抗なのである。
 このドキュメンタリーが描き出しているのは、パレスチナの人びとの生活が歌に満ちていることである。結婚の祝宴のような場で人びとが歌い、そして踊るのはもちろんだが、けっしてそうしたハレの場だけに音楽があるわけではない。女性たちは、歌いながら生活を守っていると言ってもよいくらいだ。銃弾が飛び交うなか、女性たちは歌いながら菓子を作り、子どもをあやす。そして手を動かしつつ歌うなかに、かつての記憶が甦ってくる。そのように呼び覚まされてくる記憶をこそ、ガーダは聴き取り、語り継ごうとするのである。
 最も印象的だったのは、ガーダの義理の祖母が鎌を動かしながら、麦刈りの歌と思われる哀愁を帯びた歌を歌うシーン。刈り入れを真似ながら歌ううちに、イスラエルの侵攻によって故郷を追われた記憶が甦ってきて、彼女は涙にくれる。そのように、歌が時に涙とともに呼び起こす記憶を継ぎ合わせ、パレスチナの女性たちひとりひとりの身体的な生に根ざした記憶を描き出すこと、それはイスラエルのシオニズムのイデオロギーを形成する、ひと続きの国民的アイデンティティの物語とは異なったもう一つの歴史を提示することであろう。そして、このもう一つの歴史を書くことが、パレスチナの女性としてのガーダの抵抗なのである。
 ガーダがこのような抵抗に目覚めたのは、第二次インティファーダにおける幼い甥の死がきっかけだった。他の子どもたちと投石による抵抗に加わっていた甥は、イスラエル兵によって後ろから撃たれたのである。イスラエルの兵士は、逃げてゆく子どもの後頭部に銃弾を撃ち込んだのだ。映像は、そのような理不尽なイスラエルの暴力とそれに対するパレスチナの人びとの悲しみも描き出している。壊された家屋となぎ倒された果樹。その上に広がる青く澄み渡った空。古居みずえの「ガーダ」は、両者の落差のなかで悲しみを背負いながら、また歌うことで悲しみを他者と分かちあいながら生き抜く女性たちの息づかいを届けながら、もう一つの歴史の希望を感じさせる作品と言えよう。そこにあるのは、広島にいるわたしたちの抵抗としての歴史の希望なのかもしれない。
 パレスチナの女性たちの姿を暖かく、また細やかに描き出す「ガーダ──パレスチナの詩」の広島での上映が、この一回限りで終わってしまうのは実にもったいない。女性をはじめ、もっともっと多くの人びとに見てもらいたい作品である。広島市内の映画館で、一週間でもよいから上映する可能性はないものだろうか。

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武満徹|Visions in Time展

 最晩年の武満徹が芸術総監督を務めたオペラシティのアート・ギャラリーで、武満の没後10年を記念して開催されている展覧会「Visions in Time展」を訪れる。同時代の美術からインスピレーションを受けながら、あるいは同時代の芸術家たちと実際に協働しながら作品を産み出し、また同時代の映画をはじめとする映像作品の制作にも積極的にコミットしながら、独自の、また普遍的な広がりをもった音の世界を切り開いていった作曲家の創造の軌跡を描き出そうとする展覧会。その展示は、武満の自筆譜と、刺激を与えあった同時代の芸術家の作品とを対位法的にと言うべきか、一つの空間に並べ、響きあわせることで、武満の音楽が響き出てくる場の息吹をそこに甦らせようとしていた。
 なかでも武満の世界のなかにいることを強く感じさせられたのは、「美術家との交感」と題されたセクション。ルドンやクレーの作品とともに、そこから着想を得た武満の作品の自筆譜が展示されているうえ、その演奏をヘッドフォンで聴くこともできる。眼を閉じ、人間の弱さをさらけ出しつつ、内省の静けさへ沈潜してゆく姿を祝福するルドンの絵を前にしながら、ピーター・ゼルキンの弾く「閉じた眼」を聴くことができるのだ。あるいは、イサム・ノグチの作品を見つめながら、彼の追悼のために書かれたフルート独奏のための「巡り」を聴くこともできる。そうして、武満の音楽の世界がルドンやノグチの作品の世界と響きあう地点に思いを馳せようとするとき、武満の切り開いた世界の広がりをひときわ強く感じるのである。
 ノグチやミロの彫刻作品からほど近いところには、武満自身が描いた絵も展示されていた。それを、クレーの東方風の「大聖堂」の絵──今回展示されていたなかでやはり最も魅力的な絵──と見比べると、クレーがそれぞれ独自の響きをもったひとつひとつの色を緻密に配置することによって暖かな音に満ちた世界を構成しているのに対して、武満は一つの色の濃淡の豊かさを画面の躍動につなげ、生命の流動の豊饒さを表現しようとしているように見える。そのあたりが、武満の世界の水ないし海との親和性を暗示しているのかもしれない。
 武満の音楽と並べられていた造形芸術作品のなかでもう一つ魅力的に思われたのが、ノグチの「死すべきもの」。全身で重力を受けるように沈み込んでゆくように苦悩に沈むさまが、逆に力強い存在感を示している。他に楽譜へと転生するムナーリの作品、他の芸術家とのコラボレーションによって産み出された図形楽譜、さらには同時代の芸術家が腕を振るってデザインした演奏会のポスターなども展示されていたが、どれも一つの芸術運動を時代に刻印しようとする力強さに満ちている。そうした作品が次々と産み出されていた時代の息吹を伝える武満徹の回顧展と言えるのではないだろうか。翻って今へ目を向けると、一つの時代を開くような同時代の芸術作品が、他のジャンルとの協働のなかから生まれてくることは少なくなったような気もして寂しい。この回顧展から、どれほどの数の芸術家が、自分の創作活動が他者のそれと響きあう可能性を読み取っただろうか。

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「ルート181」

 6月11日、パレスチナ人ミシェル・クレイフィとイスラエル人エイアル・シヴァンという二人の映像作家が監督した作品「ルート181──パレスチナ−イスラエル・旅の断章」を見る。上映会場となった広島市内の映画館(横川シネマ)には、椅子が足りなくなるほどの人が詰めかけていた。上映会を主催したグループのメンバーから聞いたところでは、200名近い入場者があったとのこと。あまり広く共有されているとは思えないパレスチナの状況を扱った映画にこれほどの人が集まるとは正直予想できなかった。広島の人びとの外へ向かう問題意識もまだまだ捨てたものではないということだろうか。ともかくこの上映会が、パレスチナの状況と問題がこれまで以上に広く共有される機会となったことは率直に喜びたい。
 映画「ルート181」のタイトルは、1947年の「国連決議181号」にもとづいている。その決議はパレスチナの分割線を定めるもので、この分割線が後にアラブ国家とユダヤ国家の境界線になることもうたっていた。しかし、1948年のイスラエル独立とそれに続く中東戦争の結果、この決議は反故にされてしまう。それが定めた境界線は、幻のものになってしまったのである。映画「ルート181」は、クレイフィとシヴァンの二人がこの幻の境界線を「ルート181」と名づけ、それをたどった旅の記録であるが、その映像はパレスチナの地から複数の声を届けながら、日本の現在の問題を鋭く照らし出している。
 「ルート181」上の土地は、イスラエルによって征服されている。かつてあったパレスチナ・アラブ人の集落は跡形もなく一掃され、そこにヘブライ語の地名が覆い被せられているのだ。あたかもアラブ人たちの生の記憶を消し去ろうとするかのように。そして、そこに住むユダヤ人たちは、自分がそこに他者を排除しながら生きていることを、二人の映像作家の前で正当化しようとする。神の約束や最初の開拓者たちの記憶を都合よく解釈することによって、そこがもともと自分の土地だったことを裏づける物語を捏造し、場合によってはそのために博物館のような施設まで建てたりするのである。その様子は、植民地支配をも利用して人びとを動員し、軍艦をはじめとする兵器を造り続けた軍需産業としての重工業産業の現在に至る存続を正当化しようとするかのように、いわゆる「ものつくり」の先達を礼賛しようとする博物館が建設されてしまう広島の状況とも二重写しになる。
 映画に登場するユダヤ人の多くは、そのようにひと続きの物語を作りあげることによって自分のアイデンティティと現在の生存を正当化する一方で、それがパレスチナのアラブ人の排除の上に成り立っていることを問いただされると、アラブ人への攻撃性を剥き出しにする。女性や子どもを含め箒で掃き出すように追放したことを、「弱い」アラブ人自身に責任があったことのように語る元軍人、アラブ人を「犬」や「癌」と呼んでその排除を正当化しようとする若い労働者。とりわけ新参の移民としてイスラエル社会のなかでも底辺に追いやられ、差別の対象ともなっている中東生まれのユダヤ人が、アラブ人への敵意を露わにすることによってイスラエル国民であることをことさらに自己主張しようとするさまは、日本でもいわゆる「勝ち組」になれるコースから外れてしまった人びとが、隣国の人びとへの敵意を剥き出しにしながら「国民」の虚像に必死でしがみつき、自分がマジョリティに属していることを何とかして確かめようとする様子にも重なってくる。そして、イスラエルにおいては、このように自分のアイデンティティの不確かさを他者に対する攻撃性によって埋め合わせようとする人びとが、やがて兵士となってパレスチナ人への直接的な暴力に手を染めることになるのだ。それによって、かつてユダヤ人がホロコーストのなかで被った暴力が、皮肉なことに今度はパレスチナ人へ向けて繰り返されることになるのである。
 そのことが実は、第一次中東戦争におけるイスラエルのパレスチナ・アラブ人居住地域の征服と占領以来、不断に繰り返されていたことも、映画は証言している。たとえばロッドと現在呼ばれているパレスチナ中部の街には、1948年当時にパレスチナ人を閉じ込める地区が造られていて、その地区はこともあろうに「ゲットー」と呼ばれていたという。ユダヤ人を閉じ込めていたゲットーが、ユダヤ人の手によって、パレスチナ人を閉じ込めるものとして再び造り出されたのだ。しかもロッドの「ゲットー」では、300人におよぶパレスチナ人がモスクに集められ、イスラエル人によって虐殺されたのである。それを目撃し、さらにはナチス・ドイツの絶滅収容所でユダヤ人特務班が同胞の遺体の処理を強いられたのとまったく同じように隣人たちの遺体の処理をさせられたのを証言する年老いたアラブ人の床屋が登場するシーンは、明らかにクロード・ランズマンの映画「ショアー」のなかの、絶滅収容所の生き残りアブラハム・ボンバが、床屋として髪を切りながら、ガス室に送られる直前のユダヤ人女性たちの髪を切らされたことを証言するシーンを思い起こさせようとするものであろう。クレイフィとシヴァンは、ボンバが経験したのと規模こそ異なれ、他者を絶滅させようとする点では同じ暴力が、ユダヤ人によって、それもホロコーストのわずか数年後に繰り返され、今も繰り返され続けていることを突きつけているのだ。カメラが映す、近隣アラブ諸国へのアラブ人の「移送」──それはユダヤ人の収容所への「移送」というかたちで用いられていた語だ──を訴える政治的スローガンもまた、戦慄を催すものだった。
 このように反復される暴力の中心的な担い手となっているのは当然ながらイスラエル国防軍の兵士たちであるが、そのなかの若い、哲学を学んでいてカフカを愛読するという一人に、監督たちは問いかける。「悪の陳腐さ」を知っているか。収容所への「移送」を取り仕切る責任者だったナチス・ドイツの高官アドルフ・アイヒマンの裁判を論じたハンナ・アーレントのルポルタージュの副題である。アーレントはそこで、組織の歯車として動くだけの凡庸な人間のルーティン・ワークこそが巨悪を担いうることを暴き出し、映画「ルート181」の監督の一人であるシヴァンは、アイヒマンがその凡庸さを露呈させる裁判の映像を映画「スペシャリスト」(1999年)のかたちで、「オフィスの犯罪」が横行する現代に突きつけたのだった。そしてシヴァンとクレイフィは、「悪の陳腐さ」というアーレントの言葉を引用することによって、イスラエル軍の若い兵士に、自分が上官の命令にしたがって仕事としてやっていることが、パレスチナ人に対する巨大な、圧倒的な、またパレスチナ人ひとりひとりの人格を否定するような暴力の一端を担うことであることにどれほど自覚的なのか、自覚的でないとすればお前はもう一人のアイヒマンではないのか、と問いかけているのである。その問いは日本の状況を問いただすものでもあろう。もしかすると「愛国心」や「国民の義務」が声高に語られるようになるなかで、日本では従順なアイヒマンたちが生産されてゆく機構が作り出されようとしているのではないだろうか。
 映画「ルート181」は、そのように「ユダヤ国家」の存立がパレスチナ人の排除と抑圧を構造化することを基盤にしていることを暴き出してゆくが、それはけっして一枚岩の悪としてのイスラエル像を呈示するひと続きの物語に解消されるものではない。まず、「ルート181」をたどる旅は絶えず寸断される。行程は鉄条網を張り巡らした境界や建設されつつある分離壁によって遮られ、道行く人との対話は戦闘機の爆音によって遮られるのだ。そして寸断された「旅の断章」から響いてくるのは、単一の声ではなく、複数の声なのである。イスラエル人のなかにもパレスチナ人との共存を望む人はいるし、とくに最後近くに登場するチュニジアから来たというユダヤ人女性は、人が毎日殺されてゆくのを聞いてはけっして自分の生活の安寧を享受できないと嘆いてもいる。他者の排除と抑圧の上に成り立つ「安全」の危うさと欺瞞に気づいている人びともいるのだ。その声は、「テロ対策」や「治安」などの名のもとに他者への暴力が恒常化し、遍在化しつつある状況のなかで見せかけの「平和」を享受する生活を問いただしてもいる。「ルート181」は、「非常事態」が常態化しつつある世界の状況をパレスチナから照らし出し、そのような世界に生きること自体を問う声をも響かせているのかもしれない。
 一見遠く思われるパレスチナから今ここを照らし出し、そこにある問題を抉り出すドキュメンタリー映画「ルート181」。その広島での上映は、できることなら今回の一回だけで終わらせたくはない。もっと多くの人びと、とりわけ若い人びとと、それが響かせる複数の声を共有したいものである。

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大植英次&ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー演奏会

 広島厚生年金会館へ大植英次が指揮するハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの演奏会を聴きに行く。一度かぎりとはいえ、バイロイト音楽祭の指揮台に立ち、「トリスタンとイゾルデ」を振った大植が、いったいどのようなヴァーグナーを聴かせてくれるのか、少し興味があったのだった。前半に歌劇「リエンツィ」序曲と「ジークフリートの牧歌」を配し、後半に楽劇「ヴァルキューレ」から第一幕を演奏会形式で上演するというなかなか意欲的なプログラム。
 この日の演奏は全体として、なぜ大植がバイロイトへ招聘されたのか、という問いと、またなぜその招聘が一年で終わってしまったのか、という問いの両方に対して答える要素を含んでいたように思われる。まず、その上部組織にあたるハンブルクの北ドイツ放送交響楽団に比べるなら超一流の実力を最初から約束されているとはやはり言い難いハノーファーの北ドイツ放送フィルハーモニーをしっかりとまとめあげ、随所で聴き手を陶然とさせるようなクライマックスを築いていた点は評価しておかなければならない。大植の八年間にわたるオーケストラ・ビルディングの成果が、一つの塊として迫ってくるヴァーグナーの響きに結実していたことは認めておくべきだろう。そのような現場での実力が評価されてバイロイトへ呼ばれたことは想像に難くない。しかしながら、大植の音楽そのものが、はたしてヴァーグナーにふさわしいものなのだろうか、という疑問も拭えないところもあったのは確かである。
 まず大植の音楽は、全体的に落ち着きなく上滑りしてしまっている。どこかせかせかしていて、音楽にゆったりと身を委せることができないのだ。全体的に呼吸が浅いせいもあるだろうが、何よりもリズムのとらえ方に問題があるのではないか。アウフタクトをしっかりつかんで歌いきったうえで強拍を踏みしめるようなリズム感を感じ取ることができないために、地に足がついていない音楽を聴いているような感じがするうえ、音楽の構造もぼやけて聴こえる。また、大植の指揮ぶりを見ていると、作品全体を貫く音楽の大きな流れを巨視的にとらえる視点を失って、細かい楽節の処理に心を奪われているようだ。そうすると、個々の楽節はそれらしく聴こえても、作品全体が一本の筋によって貫かれていることが見えなくなり、音楽から緊張感が失われてしまう。実際「リエンツィ」の序曲と「ヴァルキューレ」第一幕には、間然としてしまった箇所がいくつかあった。
 こうした大植の落ち着きのなさと視野の狭さは、ヴァーグナーを聴かせる場合には、やはり致命的な欠点となろう。大植にバイロイトでの二度目のシーズンが訪れなかったのはそのせいではと思うのは、うがった想像だろうか。
 そう考えると、全体としての完成度が最も高かったのは、オーケストラの自主的なアンサンブルに音楽の運びを委せた「ジークフリートの牧歌」だったのではないかと思われてくる。少人数の編成の弦楽器と管楽器が呼吸を合わせて、ヴァーグナーが妻のために自宅の室内で初演したこの曲にふさわしい親密なアンサンブルを繰り広げていた。また、他の作品では、奏者のあいだに演奏能力の差があるせいか、静かなところで弦楽の響きがややざらついてしまっていたのに対して、「ジークフリートの牧歌」では少人数の編成が功を奏して、弦楽器の各セクションの響きが艶やかにまとまっていた。弦楽器の広がりのあるハーモニーの上に管楽器のソロが突出することなく浮かびあがっていたのも、この曲の空間的な広がりのある牧歌的雰囲気を表現するうえでは好ましい。「リエンツィ」序曲での大植の指揮も、どちらかというとオーケストラの自主性を重視していたが、そこではそうした行き方が裏目に出ていた。音楽の運びに緊張感が欠けてしまって、最後のマーチがやや安っぽく響いてしまっていた。
 「ヴァルキューレ」第一幕では、大植は前半とは打って変わって、オーケストラをしっかりとコントロールしながら、双子の兄妹とその宿敵が少しずつその素性を明かしつつ運命的な出会いを遂げるドラマの緊迫感を響き出させようとしていた。その結果、個々の場面はしっかりと描き出されていたし、この第一幕をクライマックスへ導く剣のモティーフをはじめ、個々のライトモティーフも印象的に浮かびあがらせられていた。しかし、冒頭と幕切れでは、嵐のような烈しさを表現しようとする大植の気合いがやや空回りしてしまっていたように見受けられる。音楽が滑ってしまって、冒頭ではジークムントを襲った苦難の烈しさが、幕切れではジークムントとジークリンデの心中に湧きあがる喜びの烈しさが、今ひとつこちらに迫ってこないのだ。
 歌手のなかでは、フンディングを歌ったクリストフ・シュテフィンガーが圧倒的な力強さを示していた。明くる日の決闘を宣告するドスの利いた声は、フンディングの一族の怨念の深さを物語って余りある。それに比べると、ジークムントを歌ったロバート・ディーン・スミスとジークリンデを歌ったリオバ・ブラウンの声は少し弱い印象を受ける。ジークムントがこれまでの苦難を切々と物語り、約束された剣を切望する歌の真摯さにも、またジークリンデが不意の客人を気遣ったり、生き別れた双子の兄に出会えた喜びに打ち震えたりするさまを描く表現の細やかさも心に訴えるものがあったが、オーケストラの響きに声が負けてしまっている箇所が散見された。
 オーケストラは、木管楽器を中心に健闘していたように思われる。とりわけオーボエとイングリッシュ・ホルンのソロは印象的だった。金管楽器も十分に力強かったが、それに比べると弦楽器の響きはやや弱い。それにしてもオーケストラの各奏者のエネルギーには恐れ入る。これだけヴァーグナーを演奏した後に、さらにもう二曲アンコールとしてヴァーグナーを演奏したのである。演奏されたのは、「ヴァルキューレの騎行」の名で知られる「ヴァルキューレ」第三幕への前奏曲と楽劇「神々の黄昏」のクライマックスを形成する「ジークフリートの葬送行進曲」。見識ある妥当な選曲ではあるが、どちらもオーケストラへの苛酷な要求を含んだ曲である。それらを最後まで力強く演奏しきったのだ。
 最後に、演奏会の運営についてひと言述べておかなければならない。「ヴァルキューレ」第一幕の上演にあたっては、日本語の字幕を舞台の上か両端に表示すべきだったと思われる。古語と韻文を駆使したヴァーグナーの台本は、ドイツ語を知っていても追うのは相当難しい。まして照明が暗いなかでは、プログラムをもっていても、歌詞対訳の日本語を読むことすらままならないはずだ。そして、言葉を追うことに気を取られると、舞台を見ることができないばかりでなく、音楽への集中力も途切れてしまう。かといって舞台に集中すれば、演奏会形式での上演の場合、よほど曲を知っていないかぎりどんな場面なのか想像がつかず、もどかしい思いをするだけである。とりわけ、ヴァーグナーの実演がまれにしか行なわれてこなかった広島での演奏であることを考えるなら、日本語の字幕は必要ではなかったか。それにしても客席に空席が目立つのは寂しい。大植は広島の出身と聞く。バイロイトで日本人として初めて指揮したヴァーグナーを引っ提げての里帰り公演となれば、もう少し話題を呼んでもよさそうなものだ。広島の人びとは、広島の外で活躍する広島出身の芸術家に対してどこか冷淡な感じがする。裏を返せば、それだけ内向きだということだろうか。
 大植英次とハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの日本ツアーの初日を飾る広島公演は、大植の故郷とヴァーグナーへの愛に満ちた、実に力のこもった演奏会だった。しかし、その愛が音楽と一体化して聴衆に届いたかどうかには、疑問を呈さないわけにはいかない。そして、その疑問の原因は、演奏する側とそれを受け入れる側の両方にあったと考えられる。(以上http://homepage.mac.com/nob.kakigi/OueNDRHannover02062006.htmより抄録)

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