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「辣韮のような存在」を映す鏡

 財政学を専攻する同僚のクラスと合同の1年生向けのゼミで、沢木耕太郎のルポルタージュ集『人の砂漠』(新潮文庫)に取り組むことになった。その掉尾を飾る「鏡の調書」は、岡山市奉還町で一人の老女が起こした詐欺事件を追っている。その事件とは、奉還町の人びとがみな「滝本キヨ」を名乗る80過ぎの老女によって3年近くにわたって騙され、彼女と付き合いのあった十数人が返済のあてのない600万円に及ぶ金を無心し続けたというものである。それにしても本名を片桐つるえというこの老女は、なぜこれほど長い間人びとを騙し続けることができたのだろう。この問いに答えるために事件の経緯をたどった沢木耕太郎は、事件が金儲けのために起こされたのではないことに行き当たる。「金持ちの素晴らしいおばあさん」として町中で認められている自分を演じ続けるための犯行だったのだ。そのことが「最上の張り合いとなっていた」のである。そして、東京から来た裕福で気風のよい老女の役を演じるために小奇麗に実なりを整え、詐欺を重ねてきた老女のことを、沢木は最終的にこう言い表わしている。「辣韮のような存在」。
 たしかに偽名を使い続け、いくつもの名前を行き来した片桐つるえは、「辣韮」さながらどこまで剥いても皮ばかりの、それどころか偽名を名乗ることで薄皮の一枚を他人に見せることに執着し続けた人物だったのかもしれない。しかし「辣韮のよう」なのは、果たしてこの詐欺をはたらいた老女だけなのだろうか。「世間」の評判を落とさないために「よき社員」を、「よき公僕」を、「よき親」を、果ては「よい生徒」や「よい子」までも演じ続けようとする人びともまた、「辣韮のよう」ではないか。いや、そう言う自分も、周囲の視線を気にしながら、社会からあてがわれた役割を演じるのに汲々とする「辣韮のような存在」ではないのだろうか。沢木耕太郎が描き出す片桐つるえの生きざまは、そのような問いを抱かせるものである。
 むろん、片桐つるえの奉還町の人びとを欺く手腕は、常人には真似できないほど見事である。「東京・銀座の煙草屋」という「眼新しさと馴染み深さが適度に入り混じった」役割の設定と、その信憑性を高める舶来煙草の手土産によって銀座から来た大金持ちの孤老であることを印象づけ、金を貸すことが途方もない見返りにつながる個人的なコネを強めることであるかのように期待させる心理作戦によって、町全体を「ほとんど集団催眠に近い完璧さで」騙すことに成功したのだ。もちろん騙すだけでなく、騙し続けるための手だても必要である。彼女は恩義を感じた人に対する付け届けを絶やさなかった。しかも、騙し取った金はもっぱら付け届けのために使われ、ほとんど自分の手許には残らなかったという。では、なぜそこまでして彼女は「金持ちの素晴らしいおばあさん」を演じることに固執したのだろう。この問いに向きあうなかで沢木耕太郎は、「滝本キヨ」という偽名のもとで奉還町の人びとに語られた人生が、「片桐つるえにあり得たかもしれない「また別の人生」への夢」と重なることを見抜く。「億万長者」であり、「島崎藤村の弟子だった」などといった嘘は、他人に騙されたのをきっかけに犯罪に手を染め、社会の底辺での生活を強いられてきた人生のなかで満たされなかった彼女の「夢」を表現していたのである。とはいえ、その「夢」は最後まで「夢」であり続けた。街中の人びとが彼女を「億万長者」と思ったところで、現実に「億万長者」になれるわけではないのだ。彼女は、それでも「億万長者」と思われることによって、「夢」の空虚さが埋められたかのような感触を得ようとしたのだろうか。
 そう考えるとき、大金持ちの孤老を演じ続けようとする片桐つるえの姿は、社会のなかで他人の視線に晒されながら生きるわたしたちの姿にも重なってくる。わたしたちはしばしば、「ひとかどの」とか「よい」とか認められるために身なりや立ち振る舞いを整え、ある理想化された「自分」の姿を装う。現実の自分がそれと重なっているわけではないのに。そうして「世間」で認められた自分を演じて満たされようとするわたしたちは、欺瞞に汚れた「辣韮」の皮にしがみついて生きていよう。しかし、その薄皮以外のところに「ほんとうの」自分などというものがあるのだろうか。「辣韮」をいくら剥いたところで剥いた皮が残るだけではないのか。だとすれば、そもそも「自分」とは何なのだろう。
 沢木耕太郎の「鏡の調書」は、一人の老女が起こした詐欺事件を追うことで、人はなぜ騙されるのかという問いに正面から向きあうばかりではない。それは、他人の視線に晒されながら社会のなかに生きる「自分」というものを映し出し、問いただす、それ自体が一枚の鏡のようなルポルタージュである。

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