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広島交響楽団の定期演奏会

 久しぶりに広島交響楽団の定期演奏会を聴く。秋山和慶の指揮でマーラーの第7交響曲1曲だけのプログラム。会場はこれまた非常にデッドな音響の厚生年金会館。
 マーラーの第7交響曲は以前から好んで聴いてきた曲の一つである。一つ前に書かれた第6交響曲が、英雄の悲劇という固定観念のもとで交響曲という形式を極限まで追い込もうとしているところに息苦しさを感じさせなくもない──むろんその緊張感も魅力的なのだけれども──のに対して、第7交響曲では自然の音が柔らかな歌や鮮烈な響きとなって解放されているように感じられるのだ。同様のことは、「復活」の後に書かれた第3交響曲についても思うのだが、そこで自然の音が解き放たれるのがどちらかというと日中の空間──ニーチェの言う「正午」と言ってもいいだろうか──であるのに対して、第7交響曲が開くのは異教的な夜の空間である。闇のなかで解き放たれた音たちが時に囁きあい、時に閃光のように輝き、時に異教の踊りのように躍動する、そんな「夜の音楽」にずっと魅かれていたのだ。ロンド・フィナーレを「映画音楽のよう」と評する者は、「夜の音楽」における既成の形式を越えた楽想の交錯について行けていないのではないか。
 マンドリンやテノール・ホルンといった特殊楽器が用いられることもあって、この第7交響曲が実際に演奏される機会はけっして多くはない。前回聴いたのも10年くらい前のことだったと思う。そのときの演奏したのが、今回と同じ秋山和慶指揮の東京交響楽団。その演奏があまりにも平凡だったので少し悪い予感がしたのだが、弱ったことにその予感は裏切られなかった。雑然と音にならない音が並べられていただけで、まったくマーラーの音楽の体をなしていなかった。指揮者もオーケストラも音楽をつかみきれていないことをさらけ出したような演奏。このごろは上手いソロの奏者が揃ったアマチュア・オーケストラでも、もっと聴き手を惹きつけるマーラーを聴かせるというのに、プロのオーケストラがこれでは情けない。聴き終わって虚しさだけが残った。
 そんななかでも比較的緊張感のある演奏に仕上がっていたスケルツォを聴きながら、このような演奏の責任が9割がた指揮者にあることを確信した。物理的な速度以上に音楽が弾まず、また流れないテンポで惰性的に振り、締まらない間の取り方で緊張感を失わせていたばかりではない。そもそも秋山は、必死に弾かなければならないところまでプレーヤーをある意味で追い込むような棒を振っていないし、またそれにプレーヤーが必死についてくるような説得力のある解釈も示せていないのだ。スケルツォのような演奏の困難な楽章でプレーヤーがそれぞれの実力を発揮すれば──ティンパニとヴィオラのソロは素晴らしかった──それなりの演奏に仕上がる、そんなオーケストラの潜在力を指揮者がまったく引き出せていないのである。
 残りの責任の1割の半分くらいは、やはりオーケストラの側にあると言わざるをえない。耳を覆いたくなるほどにミスを連発する金管楽器。トランペットなど一フレーズとしてまともに吹けていなかったのではないか。プロ意識を欠いていると言いたくなる締まりのなさが、音楽を台なしにしていた。それにしてもマーラーを弾くというのにオーケストラの音響のダイナミックレンジのこの狭さはどういうことだろう。プレーヤーはほんとうに自分の音を出しきっていたのだろうか。
 責任の残りの半分は聴衆にあると言いたい。ぽかんと口を開けて口当たりのよいものを入れてもらえるのを待っているかのようだ。いいマーラーを聴きたいという熱意が客席のどこからも感じられない。聴衆がこうも弛みきっていては演奏にも熱が入らないだろうし、客席と舞台が一体となることも望めないだろう。覇気のない演奏と熱意のない聴衆で埋めつくされた空間からは足が遠のいてゆくほかはない。

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