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2006年3月

広島交響楽団の定期演奏会

 久しぶりに広島交響楽団の定期演奏会を聴く。秋山和慶の指揮でマーラーの第7交響曲1曲だけのプログラム。会場はこれまた非常にデッドな音響の厚生年金会館。
 マーラーの第7交響曲は以前から好んで聴いてきた曲の一つである。一つ前に書かれた第6交響曲が、英雄の悲劇という固定観念のもとで交響曲という形式を極限まで追い込もうとしているところに息苦しさを感じさせなくもない──むろんその緊張感も魅力的なのだけれども──のに対して、第7交響曲では自然の音が柔らかな歌や鮮烈な響きとなって解放されているように感じられるのだ。同様のことは、「復活」の後に書かれた第3交響曲についても思うのだが、そこで自然の音が解き放たれるのがどちらかというと日中の空間──ニーチェの言う「正午」と言ってもいいだろうか──であるのに対して、第7交響曲が開くのは異教的な夜の空間である。闇のなかで解き放たれた音たちが時に囁きあい、時に閃光のように輝き、時に異教の踊りのように躍動する、そんな「夜の音楽」にずっと魅かれていたのだ。ロンド・フィナーレを「映画音楽のよう」と評する者は、「夜の音楽」における既成の形式を越えた楽想の交錯について行けていないのではないか。
 マンドリンやテノール・ホルンといった特殊楽器が用いられることもあって、この第7交響曲が実際に演奏される機会はけっして多くはない。前回聴いたのも10年くらい前のことだったと思う。そのときの演奏したのが、今回と同じ秋山和慶指揮の東京交響楽団。その演奏があまりにも平凡だったので少し悪い予感がしたのだが、弱ったことにその予感は裏切られなかった。雑然と音にならない音が並べられていただけで、まったくマーラーの音楽の体をなしていなかった。指揮者もオーケストラも音楽をつかみきれていないことをさらけ出したような演奏。このごろは上手いソロの奏者が揃ったアマチュア・オーケストラでも、もっと聴き手を惹きつけるマーラーを聴かせるというのに、プロのオーケストラがこれでは情けない。聴き終わって虚しさだけが残った。
 そんななかでも比較的緊張感のある演奏に仕上がっていたスケルツォを聴きながら、このような演奏の責任が9割がた指揮者にあることを確信した。物理的な速度以上に音楽が弾まず、また流れないテンポで惰性的に振り、締まらない間の取り方で緊張感を失わせていたばかりではない。そもそも秋山は、必死に弾かなければならないところまでプレーヤーをある意味で追い込むような棒を振っていないし、またそれにプレーヤーが必死についてくるような説得力のある解釈も示せていないのだ。スケルツォのような演奏の困難な楽章でプレーヤーがそれぞれの実力を発揮すれば──ティンパニとヴィオラのソロは素晴らしかった──それなりの演奏に仕上がる、そんなオーケストラの潜在力を指揮者がまったく引き出せていないのである。
 残りの責任の1割の半分くらいは、やはりオーケストラの側にあると言わざるをえない。耳を覆いたくなるほどにミスを連発する金管楽器。トランペットなど一フレーズとしてまともに吹けていなかったのではないか。プロ意識を欠いていると言いたくなる締まりのなさが、音楽を台なしにしていた。それにしてもマーラーを弾くというのにオーケストラの音響のダイナミックレンジのこの狭さはどういうことだろう。プレーヤーはほんとうに自分の音を出しきっていたのだろうか。
 責任の残りの半分は聴衆にあると言いたい。ぽかんと口を開けて口当たりのよいものを入れてもらえるのを待っているかのようだ。いいマーラーを聴きたいという熱意が客席のどこからも感じられない。聴衆がこうも弛みきっていては演奏にも熱が入らないだろうし、客席と舞台が一体となることも望めないだろう。覇気のない演奏と熱意のない聴衆で埋めつくされた空間からは足が遠のいてゆくほかはない。

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東京−ベルリン/ベルリン−東京展

 出張の合間に東京六本木の森美術館で開催されている「東京−ベルリン/ベルリン−東京展」を訪れる。19世紀末から21世紀の現在に至るまでのベルリンと東京の芸術交流の歴史を、絵画、写真、建築、工業デザイン、ライヴ・パフォーマンスといった側面から描き出そうとする実に意欲的な展覧会である。自分に残された2時間ほどではとても充分に作品を見ることができないくらい見ごたえがあった。
 19世紀も終わりにさしかかった頃、新興の明治政府は、ベルリンから建築家を招いて政権の中枢をなす官庁街を日比谷に整備しようとする一方、森鴎外をはじめ若い学者や芸術家をベルリンへ派遣し、当時最新の学問や技術を学ばせたり、新しい芸術の息吹に触れさせたりしていた。そうした公的な交流を背景にしながら、日本の芸術家たちが深いところでドイツの芸術運動からインスピレーションを得ていたことを、最初の数室の展示は示していた。
 ベルリンで作曲を学んでいた山田耕筰と同じくベルリンでデザインを学んでいた斎藤佳三が、表現主義の発信基地とも言うべきシュトゥルム画廊の委託を受けて、第一次世界大戦の始まる1914年に日比谷美術館で開催した表現主義の木版画の展覧会を開いている。今回の展覧会ではそれが半ば再現されていたが、これをきっかけにして、表現主義の運動が日本にも徐々に浸透し始め、またドイツの絵画の潮流が日本でも知られるようになる。そうした動きを受けた日本の芸術家たちの作品が興味深い。
 たとえば岸田劉生はすでにデューラーの人物画を範としつつも、表現主義的な内面の発露を画面にもたらそうとしているし、また萬鉄五郎、東郷青児、普門暁といった芸術家の作品には、「青騎士」の画家たちの影響が色濃く表われている。萬はカンディンスキー風のコンポジションを試みているし、東郷の初期の女性像は、カンディンスキーと見まがうばかりの抽象性と色彩の構築性を示している。また神原泰は、画面に音楽的な運動を生命の流動として導入した作品を残しているし、普門の作品では鹿の姿がマルケの描く馬のように自然の生命の躍動と、そこにある色彩の運動のなかに溶け込もうとしている。
 ところで、最初の展示室には、ドイツ表現主義絵画を代表する一人エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーの作品も数点展示されていた。今回展示されているキルヒナーの作品はどれも見ごたえがある。何と言っても「ポツダム広場」は、アウラを剥ぎ取られた都市の情景をそこにある速度とともに鋭く描き出しながら、そこに娼婦と思われる女性のこちらを見つめ返すような一瞬の姿を刻印する傑作である。その女性の緑がかった肌の色は、一瞬にして儚く消え去ってゆくものが閃かせるアウラを放つかのようであり、また街路の緑は、いったん神話的なアウラを剥ぎ取られた都市が、再び無限の迷宮を内に宿した自然へと廃墟化しつつあるのを示しているかのようだ。
 さて、ドイツと日本の芸術交流の場としてもう一つ挙げなければならないのは、芸術とそれにもとづく生活空間の再構成、さらには世界変革をも目指した芸術運動としてのバウハウスである。バウハウスの美術学校に留学し、そのエネルギーを日本に持ち帰ろうとした日本人がいた一方で、ブルーノ・タウトは、ナチスによってドイツを追われた後日本に住みつき、その風土を生かした、かつバウハウス的に簡素で洗練された生活空間のデザインを日本に根づかせようと試みてもいた。そうした彼の試みについては、今後再評価が進むかもしれない。また、モニュメンタルな外観によって見る者を威圧するのではなく、人間の生活の場としての内部空間を、それぞれ異なった生活をいとなむ身体性にもとづきながら無駄を削ぎ落としたかたちで再構成し、それにもとづいて建築それ自体を組み立てなおそうとしたこの時代のバウハウス的建築も、バブルの再来とばかりに大都市にいくつもの巨大オフィスビルが建てられている今こそ再評価されるべきであろう。そのように生活空間を内部から再構成することを目指す建築や工芸のデザインにも触れることができたのも、今回の展覧会の収穫だった。
 バウハウスの運動は、ナチスによって押し潰されてしまうが、そうしたナチズムの暴力に対するジョージ・グロスらの風刺的抵抗の絵画も展示されていたし、あるいはファシズムによる政治の唯美主義に貢献したドイツと日本双方のフォト・ジャーナリズムの動きが当時の雑誌などによって描き出されていたのも興味深い。また、第二次世界大戦の敗戦を経験した両国のなかに、戦争の犠牲を神話化するかのような具象画が現われているのは、敗戦の後、両国の人びとがともにその虚構の自己同一性を慰撫する物語を求めていたことを示していよう。そして、それに対する誘惑は未だ死に絶えていない。こうした絵画の問題は、現在の問題でもあるのだ。
 今回の展覧会では、1960年代以降東京とベルリンがともに国際的なフルクサス

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目取真俊「水滴」

 機会があって目取真俊の「水滴」(文春文庫『水滴』所収)を再読した。目取真俊の芥川賞受賞作であるこの作品も、彼の他のいくつかの作品と同様に、未だ自然の豊饒さを残している沖縄の現在に沖縄戦の過去が突如として侵入してくるさまを描き出し、沖縄の地上戦における沖縄の人びとの苦難がまだけっして過ぎ去っていないことを読み手に突きつけているが、この作品において戦争の過去が入り込んでくるのは、人間の身体の内部である。生命の熱気でむせ返るような沖縄の六月に、主人公徳正の右足の膝下が突然、石灰質の水を含んで熟れた冬瓜のように肥大する。そして、右足の親指に小さく開いた傷口から漏れ出る水滴が、あたかもアンドレイ・タルコフスキーの映画で惑星ソラリスを包むあのソラリス物質のように、徳正が50年以上ものあいだ抑圧し続けてきた沖縄戦の経験を、彼の眼前に甦らせるのである。
 徳正の右足が膨らんで水を滴らせるようになると、夜ごとに沖縄戦で戦死した兵士たちが、当時そのままの傷ついた姿で代わる代わる現われ、親指から水を飲むようになる。そのなかには、首里の師範学校でともに学び、沖縄戦では鉄血勤皇隊員として行動をともにした石嶺の姿もあった。水を飲みに現われるのは、石嶺も含めて、徳正が生き残るために壕に残してきた兵士たちだったのである。
 艦砲射撃の砲弾の破片を受けて腹部に致命的な裂傷を負った石嶺をやっとのことで壕まで運び込んだその夜、徳正は部隊と一緒に南へ移動した。しかも壕を立ち去る際に徳正は、兵士の看護のために従軍していた女学生宮城ミネが石嶺の容態を気づかって手渡した水筒の水を、我慢できなくなって飲み干してしまったのだ。徳正は空になった水筒を置いて壕を去ったのである。
 この経験を徳正はずっと自分のなかに押し隠していた。石嶺の母親には、逃げる途中ではぐれて行方不明になったと嘘をついたし、平和教育の一環として子どもたちに戦争の経験を物語る際にも、石嶺を見捨てて生き延びたという真実に触れることはなかったのだ。さらに宮城セツが自決を遂げていたことを知ったときには、これで石嶺のことを知る者はいなくなったと安堵さえしたのである。徳正は一方で、過去を抑圧することによって生き残っていることを正当化しようとしていたのだ。しかし彼が他方で、嘘をつき続けるかたちで生き続けることに対して、後ろめたさも感じていたのは間違いない。だからこそ、セツが自決したのを聞いて以来酒量が増えた。自分のなかにある過去の痕跡を酒で洗い流そうとするかのように。
 時の流れを撹乱するかのように回帰してきて、徳正の右足から一心に水を飲む石嶺の姿は、このような嘘に満ちた徳正の生きざまを、徳正に見つめなおさせる。石嶺が今飲んでいるのは、今まで生き延びるために自分が飲んだ水なのだ。そのことに思い至り、戦慄をおぼえながらも、これまで抑圧してきたこの正当化しえない過去を正視し、自分の傷を担い続けることを心に決めるとき、時が再び速度を増して流れ始める。「自分が急速に老いていくのが分かった。ベッドに寝たまま、五十年余ごまかしてきた記憶と死ぬまで向かい合い続けなければならないことが恐かった」。
 徳正が自分のなかの癒えることのない傷を担い続け、そこから湧きあがる記憶に向き合い続けることを決心して以来、兵士たちは現われなくなり、右足の腫れも引いていった。それとともに沖縄の現在が再び前景にせり出してくる。沖縄の夏が帰ってくるのだ。徳正は裏庭の仏桑華の生垣の下に、大きく熟れた冬瓜を発見する。
 そのように自然の豊かさを残す一方で、沖縄には基地や本土に寄生しながら金を儲け、したたかに生き延びるもう一つの顔もある。徳正の従兄弟清裕は、沖縄のこうした一面を体現しているようだ。清裕は徳正の右足から滴る水が若々しい生命力を回復させるのに目をつけ、これを瓶詰めにして「奇跡の水」として売り、大金を儲ける。だが、その水は50数年前の若さを取り戻させるのにすぎず、時の流れが元に戻ると、それを飲んだ人びとの身体は一挙に50数年分老いてしまう。清裕は、それに怒った人びとによって最後には袋だたきにされてしまうのだ。そんな彼にしても、酒に溺れる徳正にしても、彼の妻ウシのように、生き続けるための習慣を確立させた女性の支えがなければ生きていけない。地に足を着けて生きる女性が、沖縄の今を支えていることも、この小説は示していよう。
 徳正、ウシ、清裕という三人の登場人物を軸に、現在の沖縄のすべてを凝縮させたような世界を開きつつ、目取真俊は、生き残ることのうちに拭いがたく染みついた、けっして正当化できない領域を読み手に突きつけている。アウシュヴィッツの生き残りであるプリーモ・レーヴィが『溺れる者と救われる者』(朝日新聞社)で指摘した、「灰色の領域」である。生き残るとは、死者を見殺しにし、踏み越えてゆくことである点に関しては、アウシュヴィッツの生き残りにしても例外ではないのだ。しかし、生き残りのトラウマと過去の複雑さをかたちづくるこの「灰色の領域」にしかと向きあい、死者との関係をみずから正してゆくことは、生きることの現在を少しずつ刷新することにもつながりうる。ある意味で人間らしく、酒を断つと誓ったのも束の間、また仲間と大酒を飲んでしまった徳正が、その翌朝に巨大な冬瓜を発見したことは、その希望を暗示しているのかもしれない。

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チョン・ミョンフン&ロンドン交響楽団演奏会

 チョン・ミョンフンが指揮するロンドン交響楽団の演奏会を広島郵便貯金ホールで聴く。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲にマーラーの第5交響曲というプログラム。
 ベートーヴェンの協奏曲で独奏を務めたのは、リトアニア生まれの若いヴァイオリニストであるジュリアン・ラクリン。最初の呼吸からして並々ならぬ気合いを感じさせるが、どうもそれが空回りしてしまっている感もなくはない。気持ちが入っているせいか、右腕の過大な圧力が弦にかかってしまい、音がややつぶれてしまっていた。そのためだろうか、全体的に音程が低く聴こえてしまう。ラクリンのヴァイオリンはまず、ベートーヴェンのこの曲の独奏に求められる、響きの崇高な輝かしさに欠けているのだ。
 ラクリンは肝心なところで何箇所か音程を低く外してしまっていたし、右腕に力が入っているせいか、フレーズの途中で音が変にふくらんでしまう箇所も散見された。フレージングを工夫しているところも見られたが、それもたんなる小細工のように聴こえ、そこに独創性と必然性を感じることができない。この曲の崇高な清澄さに達するためには、もう少し音色をコントロールしながら楽譜をしっかり自分のものにする必要があるのではないか。
 チョン・ミョンフン指揮のロンドン交響楽団の伴奏も感心できない。静かなところにはそれなりの緊張感があったものの、何でもないところ(冒頭のヴァイオリンの音程など)でミスを散発させていては締まりがない。
 後半に演奏されたマーラーの第5交響曲では、チョン・ミョンフンが、リズムの引き締まった、それでいてスケールの大きな解釈を聴かせてくれた。とりわけ第2楽章における、激情に荒れ狂う箇所と、深沈とした瞑想的な箇所との振幅の大きさが印象に残る。第4楽章のアダージェットでは、彼らしい清澄で自然なフレージングの歌が、下手に耽美的な解釈よりも深い感銘を残す。第3楽章のスケルツォは、途中に挟まれたワルツ風の一節のリズムをウィンナ・ワルツ風にしたのがやや空回り気味だったものの、躍動的なリズムを基調とした全体の運びが実に自然で、飽きさせない。両端楽章にはもう少し振幅の大きな表現があってもよかったように思われるが、そのあたりにはこれもチョン・ミョンフンらしい抑制がはたらいたのかもしれない。
 このような指揮者の解釈のスケールの大きさにオーケストラが対応できていたかというと、これはかなり覚束なかったと評するほかない。とくに弦楽器の各セクションの響きが、アインザッツや音程が揃っていないせいか、ざらついてしまっている。このことは、マーラーの第5交響曲の演奏に一方で求められる清澄さを表現するうえでは致命的ともなる。アダージェットには、そのせいで台なしになってしまった箇所もいくつかあった。もう一つ弦楽器に関して言えば、楽器が充分に鳴っていないようにも思われる。弦楽セクションの響きが一つにまとまってこちらに迫ってこないのだ。この曲の演奏にもう一方で求められる、うねり狂うような弦楽器の音は一度も聴けなかったし、深沈とすべき箇所も表面的に聴こえてしまう。それから、金管楽器にも少なからず落胆させられた。まず、音色が他の楽器の響きと溶けあわないし、ミスも多かった。マーラーの妻アルマは、フィナーレの最後の金管のコラールを「取って付けたよう」と批判したことがあったが、今回そのコラールは、ほんとうに「取って付けた」ように響いてしまっていた。
 そもそもオーケストラの側に、どさ回りのお仕事、と割り切ってしまっている雰囲気がなくはなかったのではないか。それではチョン・ミョンフンのすぐれた解釈と一体になるはずがない。こちらも、イギリスを代表するオーケストラと現代を代表する指揮者の一人の組み合わせに期待しすぎたのだろうか。(以上、http://homepage.mac.com/nob.kakigi/LSO_09032006.htmより抄録)
 もう一つこうしたネガティヴな印象を受けた要因として、ホールの音響もあるのかもしれない。木の内壁なのに、ドレスデンの文化宮殿を思わせるデッドな音響。それでも広島市内のホールのなかではましな部類に入るのだろうが。行政の財源に期待できない今、たとえば業績好調な(?)某製パン会社とかが一財を投げ打って、いい音響のコンサート・ホールを市内中心部に建て、街に文化的に貢献してくれないものだろうか。

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