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2006年2月

「ヌヴェール」という地名の符合

 必要があってヴァルター・ベンヤミンの生涯の足跡を調べていたら、「ヌヴェール」という地名にぶつかった。
 1939年、友人たちの度重なる忠告や脱出の誘いがあったにもかかわらず、亡命先のパリにとどまって国立図書館に通い、『パサージュ論』のための仕事を続けていたベンヤミンは、9月に第二次世界大戦が始まると、「敵性外国人」として、フランス政府当局によってまずパリ郊外のコロンブ競輪場に造られた収容所に入れられ、10日後にはさらに「志願労働者キャンプ」という名前のついたニエーヴル県ヌヴェールの収容所に移されている。
 彼は、フランス人の友人たちが力をつくしてくれたおかげで2か月後には解放されるが、それまでの期間彼はヌヴェールの収容所の劣悪な環境のなかで、シガレット三本を報酬とする野外哲学講座を開いたりして過ごしていた。あるいは、外出許可の腕章を得るために、「最高水準の」文芸雑誌の刊行を企てたりもした。これによってベンヤミンは三度目の雑誌の挫折を味わうことになるのだけれども。
 ジャック・デリダが2002年のアドルノ賞受賞記念講演『フィシュ』(逸見龍生訳、白水社)で取り上げることになる、「詩を《fichu》に変えることが問題なのだ」というひと言を含んだグレーテル・アドルノ(アドルノ夫人)宛の手紙をベンヤミンが書くのも、このヌヴェールの収容所でのことである。ともかくヌヴェールでの2か月間は、亡命生活の苦しさによってすでにかなり衰弱していたベンヤミンの身体に深刻なダメージを与えた。そのことを自覚してか、パリに戻ったベンヤミンは、思想的遺言とも言うべき「歴史の概念について」(「歴史哲学テーゼ」)を書き下ろすのである。
 そうしたベンヤミンの生きざまをたどりながら、「ヌヴェール」という地名に既視感をおぼえていた。どこかで聞いたことがあるのだけれども、何の機会だったか。
 しばらくしてふと思い出した。あの女性の出身地ではないか。
 その女性というのは、アラン・レネ監督の映画「ヒロシマ、モナムール」(邦題:「二十四時間の情事」、1959年)の主人公の一人のこと。マルグリット・デュラスの脚本によるこの映画で、日本人の建築家と8月6日の広島での24時間をともに過ごすフランス人の女優が、自分の生まれ育った街として「ヌヴェール」という地名を挙げているのである。
 生まれはフランスのどこか、という問いの答えとしてこの地名を耳にした岡田英次演じる建築家は、「ヌヴェール」の響きがすっかり気に入ってしまい、「ヌヴェール」と何度も繰り返す。すると、それに触発されるように、エマニュエル・リヴァ演じる女優は、ヌヴェールの辛い記憶を思い起こし、それを振り絞るように少しずつ語り始めるのである。その女優は、まだ少女だった第二次世界大戦中に、ヌヴェールに占領軍として駐留していたナチス・ドイツの兵士と恋に落ちてしまった。そして、戦争終結とともにフランスが解放されると、その罪の見せしめに、同胞の女性たちによって髪を切り落とされてしまうのだ。ベンヤミンが収容所に監禁された数年後のことである。
 ちなみに「ヒロシマ、モナムール」を見たのは昨年の11月のことだったが、映画館へ向かう際に路面電車に乗った。その電車は、見るからに年季の入った一台だったが、車内をよく見ると1945年8月6日に被爆した電車とのこと。これも何かとの符合だろうかと、その時はいろいろ思いをめぐらせてしまった。新聞によると、この「被爆電車」もまもなく現役を引退するようだ。歴史の「動く」痕跡が、街から姿を消してゆくわけである。そのことが記憶の退化と符合するものでなければよいのだけれども。

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広島県立美術館の「エルミタージュ美術館」展

 雪のちらつくなか、広島県立美術館で開催されている「エルミタージュ美術館」展を見に行く。サンクト・ペテルスブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されている作品のごく一部をみせるこの展覧会は、「フランドル絵画とヨーロッパ工芸の精華」というサブ・タイトルのとおり、ダフィート・テニールス(子)の風俗画を中心にバロック期のフランドル地方の絵画と、16世紀から19世紀初頭までの陶磁器を中心とする工芸品の数々とを展示するものになっていた。1月に見た兵庫県立美術館における「アムステルダム国立美術館」展のように、絵画のなかに実際に描かれている工芸品を展示するといった仕掛けがなく、絵画と工芸品のつながりを強く感じさせる展示でなかったのは残念だけれども、たとえばナポレオンの妻ジョゼフィーヌのために注文された豪奢な食器セットの絵付けが、フランドルやネーデルランドの風俗画が描くのとまったく同じ画題を、同じような画風で描いているのを見ると、バロックの風俗画が、エルミタージュの基礎を築いたエカテリーナ2世をはじめ各国の王侯貴族によっていかに好まれていたのかを感じ取ることができる。
 正直なところ、展示されている絵画のなかにこれと言って凄い絵があったわけではないが、今回の展覧会が「知られざる巨匠」としてフィーチャーしているテニールスの作品をまとめて見ることができたのは、やはり大きな収穫だった。テニールスは、等身大の庶民、とりわけ農民たちの生きざまを、その風俗も含めて生き生きと描き出すことのできた、ピーテル・ブリューゲル(父)以来の画家であった。とはいえ、ブリューゲルとは異なってテニールスは、時に滑稽であったり、醜悪であったりする人びとの姿に、ことさらに道徳的な意味を込めようとはしていない。むしろひとりひとり異なった表情や身ぶりを、あるいはその身の周りにある細々とした日常の道具類、楽器をはじめ享楽のための小道具を、温かいまなざしをもってありのままに描き出そうとしているように見える。そのようなまなざしが注がれることによって、垢抜けない農民の顔が、あるいは桶のような日々の暮らしの道具が、生き生きと輝き始めるのだ。
 そのようなテニールスの特質が最もすぐれたかたちで発揮されていると思われた作品として、「農民の婚礼」という絵とともに、農村の祭りを描いた2枚の絵を挙げておきたい。それ以外では、やや珍しい集団肖像画である「アントワープ市射手組合」の屋外でのセレモニーを描いた絵は、市民階級の自負とその街への誇りを生き生きと描いているように見えるし、庶民の厨房のなかで世界を構成する「四大元素」が表現できるという発想も、テニールスならではのものと思われた。他方、この画家は自然の風景を描くのはあまり得意でなかったようで、自然の風景を背景としなければならない場合には、時にそれを描くのが得意な他の画家の助力をあおがなければならなかった様子である。
 テニールスの作品以外では、ヤン・ブリューゲルの家族の肖像と推測されているアンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画(展覧会の広告にも用いられている一枚)が、よく練られた構図のなかに人の表情に生気をもたらす光のマジックを組み込んでいて、なかなか印象的。ジョルジュ・ド・ラトゥールの「いかさま師」を思い起こさせずにおかない構図で掏摸の場面を描いた「手相占い」も、明暗の対比の際立たせ方までド・ラトゥールに似ていて面白いが、画面はそれほど緊迫感に満ちてはいない。工芸品では、木片の組み合わせでだまし絵のように遠近感をもたらすドイツの寄せ木細工の精巧さに瞠目させられた。
 今回は、学生たちを連れてこの「エルミタージュ美術館展」を身に行ったのだが、美術にこれまで触れるチャンスが少なかった学生も、テニールスの風俗画を楽しんで見ていた様子だった。とくに女性の学生は、小さく描かれたパンケーキをほおばる子どもに「かわいい」と声を上げながら見入っていた。この展覧会は、凄い作品に出会えるわけではないけれども、ネーデルランドの絵画にはない明るさと温かさをもって庶民の等身大の姿を描くテニールスの世界に触れるよいチャンスであることは確かなようである。

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エレニの叫びと音楽というユートピア

 先日、広島市内の映画館でテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』が再上映されていたのを見に行った。アンゲロプロスの作品らしく、息の長いショットで映像美をじっくりと味わわせてくれる映画であることをあらためて実感させられるが、その映画がゆったりとしたテンポで語りかけてくるのは、20世紀のギリシアの苦難の歴史を一身に背負っているかのような女性エレニの痛ましい生涯である。オデッサから逆難民として帰還したギリシア人のリーダー格だったスピロスの葬列の筏舟の一団が、薄暗く曇ったなかを静かに川を下ってゆくとりわけ美しいシーンには、切々と苦難の歴史を物語るこの映画の時空間が凝縮されていたのかもしれない。
 みなしごとなってオデッサから帰還したエレニの生涯を描くこの映画は、国家への反逆者を匿った疑いで監獄を転々とするあいだに、まず内縁の夫を沖縄戦で失った──エレニの幼なじみで、後に恋人となるアレクシスは、音楽家として羽ばたくチャンスをアメリカに求めた後、家族を呼び寄せるために米軍の移民部隊に加わっていたのだった──うえに、第二次世界大戦後の内戦で双子の息子まで亡くしてしまった彼女の慟哭によって締めくくられる。最後の子どもの遺骸を見つけた生涯の難民エレニは、もはや愛する者が一人もいなくなってしまったことを思い知り、見る者を突き刺すような叫び声を上げて泣くのだ。
 そのようなエレニの慟哭のシーンは、一面で『否定弁証法』におけるアドルノの言葉を思い出させるものである。「永遠に続く苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を表現する権利を持っている」(三島憲一訳)。エレニはまだ泣き叫ぶことができるし、永遠に続くかのような苦悩を背負った彼女には、そうする当然の権利があると思われる。それに、彼女の慟哭は、映画を見る者の胸に、彼女が生きた証を刻み込むことだろう。しかし、他面でエレニはもう泣き叫ぶことしかできないのかもしれない。叫びにしかならない彼女の思いを受けとめることができるのだろうか。そうして、どこかしら彼女と同じ苦難を味わった難民たちの生の歴史に思いを馳せることができるだろうか。映画館を出た後で、エレニの叫び声がどこか別の場所で反響しているのに耳を澄ませなければならないのかもしれない。
 ところで、エレニの涙をたたえているかのような雲に覆われた映画の空間のなかに、一つだけ心を和ませてくれる場所がある。テサロニキの難民居住区域「白布の丘」にある廃墟、通称「音楽の溜まり場」である。エレニとアレクシスがスピロスの手から逃れるのを手伝ったヴァイオリン弾きニコス──彼が後に反逆者として追われることになるのだ──は、アレクシスのアコーディオン演奏の才を認め、そこへ案内する。すると、仕事を待ってそこに集う音楽家たちが、アレクシスとエレニを音楽で歓待するのである。そのシーンは、廃墟のなかに一つの、現実の歴史からすれば文字どおりのユートピアを開くかのようだった。
 音楽は時としてユートピアを現出させることができる。そのような考えを抱かせるきっかけをもたらすものとして、ここでは1枚のDVDを挙げておきたい。それは、指揮者として、またピアニストとして、八面六臂の活躍を続けているダニエル・バレンボイムと、音楽への造詣も深かった思想家エドワード・サイードとが協働して創設した、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラのジュネーヴでのライヴ録音を収録したCD(Warner Classics 2564 62190-5)に付いてくるもので、そこにはジュネーヴでの演奏会の模様のほかに、ヴァイマールとセヴィリアでのワークショップとリハーサルの様子を記録したドキュメンタリーと、ユダヤ人バレンボイムとアラブ系の知識人サイードの対談とが収められている。
 ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラは、パレスチナ自治区を含むアラブ諸国とイスラエルの才能ある若い音楽家たちによって構成されている。現実の世界では、アラブ人とユダヤ人の関係は険悪な状態が続いている。パレスチナ=アラブ人の居住地域とユダヤ人入植地のあいだに建設が進んでいる「分離壁」は、何よりもそのことを象徴していよう。しかもイスラエルのシャロンが病に倒れ、パレスチナ自治評議会の選挙でハマスが勝利を収めて以降、両者の和解への道筋はますます見定めがたくなっている。そのような困難な状況を乗り越えて、アラブ人とユダヤ人の若い音楽家が一つのオーケストラを、弦楽器セクションにあっては同じプルトを形成し、同じ一つの音楽をつくりあげようとするのである。
 ワークショップとリハーサルをオーケストラの創設者たちの話も交えながら記録したドキュメンタリー「レッスンズ・イン・ハーモニー」には、イスラム世界への憧れをうたった『西東詩集(ウェスト=イースタン・ディヴァン)』の作者ゲーテゆかりのヴァイマールにおける最初のワークショップで、アラブ人とユダヤ人の音楽家がところどころでぶつかりあいながらも、一つの音楽へ向けてだんだんと心を一つにしてゆくさまが生き生きと映し出されている。オーケストラが奏でる音楽は、たしかにまだ粗削りではあるけれども、プロフェッショナルなオーケストラの演奏からなかなか聴くことのできない若々しい力に漲っている。対話をつうじて若い音楽家たちの心を一つにしてゆく、バレンボイムとサイードをはじめとする指導者たちの力量も特筆すべきであろう。
 争いが絶えず、エレニのような難民を日々生み出しているこの世界のなかに、音楽というユートピアを一瞬現出させるかのようなウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ。その活動が、日本でももっと知られるようになって、その支援者が増えれば、と思うと同時に、「平和文化都市」にして「オペラの街」であるここ広島で、現実の政治情勢のなかでは対立しあう国々や諸民族出身のアーティストたちで一つのオペラをつくりあげることができたら、とふと考えた。

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