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厳島神社の舞楽

 昨日、妻と宮島の厳島神社へ初詣でにではなく、舞楽を見に行った。厳島神社の平舞台では折々に舞楽が演じられるが、昨日も「二日祭」にちなんで二曲の舞楽が「奉奏」されていた。宮島までたどり着くのに思いのほか時間がかかってしまったため、一曲目の「萬歳楽」は見られなかったが、二曲目の「延喜楽」は何とか見ることができた。
 厳島神社の舞楽に初めて触れたのは、昨年の秋のことだった。アメリカ人の知人に誘われて出かけたのだが、身近なところにあるものには、えてしてそのように気づかされるものである。以来、バレエを趣味とする妻は舞楽独特の所作に興味をもった様子で、昨日も見に行くことになったしだいである。
 笙と笛を中心とする奏楽が、ミニマル・ミュージックを思わせる仕方でゆったりと繰り返されるなかに太鼓の音が響くと、さまざまな飾りをつけた華やかな衣裳を着けて、踊り手たちが順に平舞台へしずしずと上がってゆく。そこで独特の規則性をもったステップを踏みながら、また時に両足を踏ん張っての揃いのポーズでアクセントをつけながら、平安時代から伝わるとされる曲が舞われるわけである。そのさまは欧米人のエキゾティシズムを喚起したばかりでなく、舞踊家と作曲家をはじめ、多くの芸術家にインスピレーションを与えてきたのだろう。わたしには黛敏郎が作曲した「BUGAKU」くらいしか思い浮かばないが、舞楽を紹介してくれた知人によれば、舞踊家のジョージ・バランシーンは、ニューヨーク・バレエで舞楽の所作を取り入れた「BUGAKU」なる作品をつくったとか。
 舞楽の上演に接しながら、わたしはどちらかというとガムランを思わせるところもなくはない奏楽のほうに耳を惹かれる。聞けば、踊りやそのための衣裳や仮面には、中国ばかりでなくインドに端を発するものもあるという。どうやら舞楽は、「日本」独特の「伝統文化」と言うより、むしろ古代の人びとの海を越えての移動がもたらした文化の混淆の産物と言えそうである。それは他のさまざまな場所とつながりをもちながら、その場所での独自性をかたちづくる、文化そのものの雑種的な生成を体現しているのかもしれない。
 昨日の舞楽は、緑を基調とした衣裳が日に映えるさまは美しかったものの、四人の踊り手のアンサンブルが今ひとつで舞台が締まらない感じ。日が暮れてから、松明の明かりのなかで仮面を着けての舞いを見たほうが楽しめるにちがいない、というのが妻とわたしの率直な感想である。

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