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モーツァルト週間の演奏会における聴衆の高齢化

 ザルツブルクでモーツァルトの生誕250周年を記念して開催された「モーツァルト週間」の演奏会をいくつか訪れた印象を、すでにこの欄で「ザルツブルク旅日記」というかたちで報告した(もう少し詳細な演奏評についてはhttp://homepage.mac.com/nob.kakigi/Mozartwoche_2006.htmを参照されたい)が、その演奏会の会場は、ほとんど金持ちと思われる高齢者によって占められていた。演奏会のチケットを直接注文できるモーツァルテウムのウェブ・サイトにドイツ語版と英語版しかなかったせいか。ドイツ人とイギリス人の多くは単独で来ていて、フランス人、イタリア人、そして日本人の多くはツアーを組んでやって来ていた感じだったのだけれども、そうした聴衆の年齢層が相当に高い。一人でまともに歩けない人が何人もいるばかりか、救急隊員が待機している演奏会さえあった。そのような会場のなかで妻とわたしは、はっきり言って浮いていた。そのせいか、あちこちの国から来たお年寄りに、どこから来たのか、音楽家なのか、などと尋ねられることがしばしばだった。悪い気はしないが、何だか寂しい。
 ちょうど10年前にモーツァルト週間の演奏会を訪れたときには、わたしは「Jugendabonnement」という制度を用いてその演奏会を聴いた。若い人向け予約制度で、どの演奏会を聴けるかは完全に自由には選べないが、かなりの数の演奏会をまとめて、しかも相当に安価で予約できた。おまけに、モーツァルテウムの大ホールでも、祝祭大劇場でも、前の方のかなりいい席で聴けたものである。その席の周りには、金持ちとおぼしきお年寄りや羽振りのよさそうな中年紳士ももちろんいたけれども、若い人びともかなりいたように記憶している。実際、会場のロビーは、当地の学生も含めた若い人びとでにぎわっていた。
 そのような思い出があったので、熟年より年上の人びとで占められた演奏会場のありさまを目のあたりにしたときには、ショックを隠せなかった。何も高齢の人びとが音楽を聴くことを否定するつもりは毛頭ない。しかし、そうした人びとが安らぎや癒しだけを求めて聴きに来るばかりだと、会場が期待感や緊張で張りつめてこないのだ。緩みきった会場の雰囲気のなかで、最上のパフォーマンスを望むことができるだろうか。それに、若い人びとが、高水準の演奏に実際に触れるなかで、今モーツァルトの音楽をどのように聴くことができるのか、あるいはモーツァルトの音楽をどのように解釈し、演奏することができるのか、ということを考えなければ、これから誰がモーツァルトの音楽に新たな生命を吹き込むのだろう。
 たしかに、モーツァルト週間の演奏会をいくつか訪れて、すばらしい内容の演奏にいくつも触れることができたのは幸せだったけれども、他方でモーツァルト生誕250周年の年に、しかもその生誕の場所で、彼の音楽の末期の姿を見せつけられてしまった気もしなくはない。そして、その姿のうちには、クラシック音楽が今抱えている問題が凝縮されたかたちで現われていたのではないだろうか。

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