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芸術史を見つめなおす新書二題

 講義のネタが見つかるかもしれないなどと思いつつ、最近出た芸術史に関する新書を2冊読んでみたが、どちらもなかなか興味深い。1冊は宮下誠の『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)で、もう1冊は岡田暁生の『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書)。著者は二人とも、40代半ばの気鋭の芸術史学者である。また、二人の著者はいずれも、21世紀の現在において絵画を、あるいは「クラシック」音楽をとらえなおす自分自身の位置を確かめるべく、20世紀の絵画の歴史へ、そして西欧音楽の歴史へとまなざしを向けている。それゆえ両者とも、客観的な歴史記述を装うことなく、むしろこれらの芸術史が、今ここで自分自身の視点からとらえなおした芸術史であることを前面に押し出している。そのことが、二つの新たな芸術史の叙述をより刺激的なものにしていることは間違いない。とはいえ、二人の著者の歴史の描き方は対照的である。
 まず、宮下誠の『20世紀絵画』は、「絵画とは何か」という本質的な問いに向きあうことから始めている。それによれば、対象を描くとはそれを欲望することであり、絵画とはその欲望の表象である。そして、世界の合理的な記号化が進むにつれ、リアルな「もの」それ自体への欲望が絵画の革新をもたらすようになるという。つまり、20世紀のキュビスムや新即物主義の運動は一面で、そうした欲望を映し出しているのだ。さらに、宮下によれば、20世紀までの絵画を支配してきた遠近法とは、世界を「人間」の視点から解釈する、一つの世界解釈のシステムないし言語であり、遠近法にもとづいて描かれた絵画は、世界を遠近法的に見よ、という命令を含んでいる。しかも、そこにはすでに三次元空間の二次元空間への「抽象」が含まれているのだ。20世紀までの西欧の遠近法的絵画は、ある種の「抽象」にもとづく特殊な「具象画」だったのである。そのリアリティが崩壊したのを前にして、画家たちは新たな世界解釈のシステムを、絵画の言語を産み出すことを迫られる。宮下はそのような視点から、マネ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ピカソ、カンディンスキー、マレーヴィチらの主要な作品を1枚ずつ取り上げ、その魅力も論じつつ、20世紀における「抽象絵画」の成立を描き出している。その描き方には、ところどころ「西洋」と「東洋」の安易な二分法へ傾くきらいもなくはないとはいえ、非常に説得力がある。
 しかしながら、宮下によると「抽象絵画」は20世紀絵画の終着点ではない。「抽象」の模索と同時並行的に、またその成立の後に、「具象」への回帰ないし新たな「具象」の探究が行なわれているのである。宮下はこのことを、ドイツ語圏の20世紀の絵画をおもに取り上げながら描き出している。とりわけわたし自身ライプツィヒの新しい美術館を訪れたときには正直ついて行けなかった旧東ドイツの絵画を論じた部分は、この書の白眉である。宮下によれば、その「わかりやすさ」は「考える」ことを見る者に求めている。「考える」とはおそらく、自分が世界を見るその見方を問いなおすことであろう。もしかすると、もはやそうした思考を抜きに絵画を見ることはできないのかもしれない。
 さて、宮下の絵画史が絵画の20世紀をいくつもの亀裂を含んだまま描き出すのに対して、岡田暁生の『西洋音楽史』は「通史」である。それは、「西洋音楽史」全体を一望する一つの視点を提示するものなのだ。とはいえ、そこにあるのは現在に至る連続的な「音楽史」の流れを教科書的に通覧する叙述ではなく、現在の視点から「中世音楽」とは何か、「ルネサンス音楽」とは何か、「バロック音楽」とは何か、といった問いに正面から向きあうことによって、「クラシック音楽」の歴史にいくつもの断裂線を書き込む叙述である。
 まず、今日「クラシック音楽」と呼ばれている「芸術音楽」の定義が興味深い。岡田によれば、「芸術音楽」とは「書かれた=設計された音楽」のことである。一定の「構成=設計(コンポジション)」にもとづいて書き残されたのが西欧の「芸術音楽」であり、「西洋音楽史」とはその歴史なのだ。岡田はそのように「芸術音楽」とその歴史をとらえる立場から、「中世音楽」、「ルネサンス音楽」、「バロック音楽」などに特有の「構成=設計」のありようを、実にわかりやすく説明している。また、そうした相異なる「構成=設計」が、時代ごとに「音楽」がどのように成立していたか、つまり演奏され受容されていたのか、ということと密接に結びついていることも説得的に描き出している。
 岡田の音楽史の叙述のなかで最も興味深かったのは、彼が専門とする19世紀の矛盾を抉り出している一章である。彼によれば、19世紀には純粋な音楽が追求され、音楽が宗教的な装いさえ帯びるようになる一方で、産業革命とブルジョワ社会の成熟が進むなかで、音楽の通俗化と商品化が進行した。このことが、現在における、消費される「ポピュラー音楽」と芸術的な「クラシック音楽」の分裂、さらには「クラシック」内部における、スター信仰とカルト的探究の分裂を用意したのである。しかしながら、岡田に言わせると、同時に人びとは、「ポピュラー」のうちにも「クラシック」のうちにも、何か宗教的な「カタルシス」を追い求めている。ロマン派の時代同様、音楽が「神なき時代の宗教」であることが求められているのだ。そのような現代の「感動中毒」のうちに、岡田は「現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候」を見て取っている。おそらくそれは相当に深刻な危機であろうが、どのような危機と岡田は見ているのだろう。
 それはさておき、岡田によれば、さまざまな様式へ分裂しているばかりでなく、繰り返し再演されるというかたちで残ることもない現代音楽の「歴史」を叙述することは難しい。現代音楽は、従来のような「公式」の「芸術音楽」であることをやめて「一種のサブカルチャー」になっているからである。たしかにそうであろう。そして、この「非公式」芸術の歴史を描くためには「通史」を描くのとは別の叙述の仕方が求められるにちがいない。「通史」へのまなざしからこぼれ落ちてしまうものを瓦礫から拾い上げるまなざしが必要なのだ。このような微細なものを「公式」のものに亀裂を穿つアクチュアリティにおいて取り出すまなざしこそが求められていると思うゆえに、個人的に芸術史の描き方としては、岡田の「通史」的な叙述より、宮下のモザイク的な叙述のほうに共感をおぼえる。とはいえ、両者の叙述にはともに──講義のネタになりそうな部分ばかりでなく──新たに学ばされた点やあらためて考えさせる論点が実に豊富に盛り込まれていたのは確かである。

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受信: 2006年2月 4日 (土) 23時06分

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