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「モーツァルト・イヤー」の幕開けに

 昨晩と今晩、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の「ジルヴェスター・コンサート」とヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニューイヤー・コンサート」の両方を、衛星中継で最初から最後まで見てしまった。ほかに取りたてて見るべきものがないとはいえ、暇なことと言うべきか、物好きと言うべきか。
 今年がモーツァルト生誕250年の記念の年だということで、どちらの演奏会でもそれぞれ独自の趣向でモーツァルトの作品が取り上げられていたが、奇しくもと言うべきか、どちらの演奏会でも「フィガロの結婚」の序曲が演奏されていた。ベルリン・フィルの大晦日の演奏会は、日本の時間ではすでに年の明けた深夜に中継されたので、日本でそれを見ていた人にしてみれば、「モーツァルト・イヤー」はサイモン・ラトルの指揮するベルリン・フィルによるこの序曲の演奏をもって幕を開けたことになる。
 ラトルによる「フィガロ」の序曲の解釈は、どちらかというと遅めのテンポのなかで、ピリオド楽器による演奏を思わせる鋭いアクセントや楽譜に印刷されていないダイナミクスの変化を細かくつけて、モダン楽器によってモーツァルトの音楽に清新な息吹をもたらそうとするもの。リズムがきびきびと躍動しているので、遅めのテンポとはいえ音楽はけっして停滞しないし、第二主題も、茶目っ気を醸し出しつつエレガントに歌わせている。しかしながら、こうした委曲をつくした表現が上滑りしてしまっている感も否めない。演奏会の中ほどで取り上げられた「プラハ」交響曲の演奏を聴いたときにも思ったのだが、ラトルの解釈は、モーツァルトの書いた音楽に潜在するダイナミズムや魅力を発見させる箇所も多いのだが、同じように細かくダイナミクスやテンポに変化をつけるアーノンクールやヴェーグの解釈ほどには説得力を感じさせないのだ。オーケストラの編成が大き過ぎて、響きを引き締めきれなかったこともあるのかもしれない。ちなみに、エマニュエル・アックスを独奏に迎えた「ジュノーム」協奏曲の演奏では、凝った伴奏がピアノ独奏の平凡さを引き立てていた。
 これに対して、マリス・ヤンソンスが指揮するヴィーン・フィルによる「フィガロ」の序曲の演奏は、速めのテンポによる正攻法のもの。ヤンソンスは、しっかりと組み立てられた響きのなかでリズムを躍動させ、音楽を前へ前へと運んでゆく。そのように推進力に富んだ音楽の運びは、聴いていて爽快ではあるが、猪突猛進気味の感もなくはない。細かい表情は、ほぼ各奏者の自主性に任されているようで、そのため音楽の優美さは後退していた。ヤンソンスという指揮者は、誠実で質実剛健な音楽の組み立てのなかで躍動感と推進力に富んだ音楽の運びを示し、オーケストラを豪快に響かせるのは実に巧みだけれども、瀟洒なメロディを細やかに歌わせるのはあまり得意ではないのかもしれない。ワルツよりポルカの多い選曲はそのせいかしらん。しかし、今回の「ニューイヤー・コンサート」の選曲が、忘れられていた曲と有名な曲を巧みに織りまぜた、聴き手を楽しませてくれる選曲だったのも確かである。とくにヨーゼフ・ランナーの「モーツァルト党」を聴けたのは嬉しかった。この曲、今年一年アンコール・ピースなどとして世界中でヒットするのではないだろうか。
 それにしても、ラトルとベルリン・フィルによる「フィガロ」の序曲の演奏にしても、ヤンソンスとヴィーン・フィルによる同じ曲の演奏にしても、らしからぬ乱れ(前者では冒頭に奏者の勘違いとおぼしき乱れが、後者では曲の終わりに指揮者の意図とオーケストラの意図のずれが聴かれた)があったのはどういうことだろう。今年一年の多難の予兆でなければよいのだけれども。この「モーツァルト・イヤー」はむしろ、ベルリン・フィルの演奏会で最後に取り上げられた「フィガロ」の最終場面の演奏においてひときわ強調されていた謝罪と赦しが人びとの新たな絆を築き、それがこれまでの苦難を乗り越える礎となる年になってほしいものである。

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