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スークとフィルクシュニーの「プラハの春」ライヴ

 最近入手したディスクのなかでとくに気に入ったものの一つとして紹介しておきたいのが、1992年の「プラハの春」音楽祭におけるヨゼフ・スークとルドルフ・フィルクシュニーのリサイタルのライヴ録音のディスク(Supraphon SU 3857-2)。どういうわけか、13年後の今になってようやく発売された。知名度の差だろうか。すぐに国内盤も出たクーベリックが指揮する「わが祖国」や「新世界」交響曲の演奏とは大違いである。ともあれ、好んで聴く曲ばかりが収められているし、そうした曲をスークとフィルクシュニーのコンビがどのように演奏しているのか興味があったので購入してみたのだが、これが素晴らしい。
 全体としてオン・マイクの録音のなかに、ヴァイオリンのスークの息づかいが鮮明に聴こえてくる。それがライヴ独特の張りつめた空気のなか、音楽の生動と一体となっているかのようなのだ。そのような息づかいのなかで、スークは絹布にたとえられる美音と、少し土臭い厳しさの両方を聴かせてくれる。それを支えるフィルクシュニーのピアノは、厳しいなかにも温かさと気品をけっして失うことがない。
 最初に演奏されているドヴォジャークのソナチネにおいては、土いきれの香りも帯びながら決然とした、あるいは子守歌のような優しさに満ちた歌が魅力的であるが、それはけっして歌うことに溺れることはない。フィルクシュニーが要所要所に、楔を打ち込むよう音楽の構成を浮かびあがらせるようなタッチを示すことによって、歌は引き締まり、他ではありえないと思わせるような説得力を示すようになるのだ。他方で彼のピアノは、第二楽章の中間部で、この作品が歌劇「ルサルカ」と同時期に作曲されたことを思い起こさせるような神秘的な優しさも示している。そして、フィナーレにおける二人の演奏の緊迫感は、これまで聴いてきたヴォルフガング・シュナイダーハンとヴァルター・クリーンの演奏が少し色あせて見えるほどだ。
 この後に収録されているヤナーチェクのソナチネの演奏は、厳しい起筆とともに始まる最初の楽章からして、音楽への共感を迸らせている。ヤナーチェクの音楽は語るように歌われなければならないメロディに充ち満ちているのだが、これほど説得力のある語りを聴かせる演奏家がこの二人以外にいるだろうか。その語りを中断させるかのように作曲家が差し挟んだパッセージの表現も、仮借ない厳しさを示している。それでも音楽が温かさを失わないのも、この二人ならではのことかもしれない。
 おそらく休憩後の最初に演奏されたと思われるブラームスの第3番のソナタは、骨太で燻し銀のような輝きをもった音色で、すべてのパッセージが脈打っているかのように演奏されている。どのモティーフを取ってみても、しっかりと歌い抜かれているのだ。それでいて、各楽章の、あるいはその楽節ごとのどこか古典的な骨組みはけっして揺らぐことがない。そのような気品に満ちた演奏を、今聴くことができるだろうか。
 最後に収められているのは、ベートーヴェンの最後のヴァイオリン・ソナタ。この作品の演奏は、包み込むような優しさと、熱気あふれる高揚との両方を呈している。さすがに第三楽章のスケルツォあたりから指がもつれ気味なところも散見されるが、ぐいぐいと音楽が進められてゆくなかから温かい歌も聴こえてくるのだ。前半の二つの楽章の滋味豊かな、何か熱いものが胸のなかにじわっと広がってくるような表現は、ハスキルとグリュミオーの演奏などとはまた違った魅力を示していよう。全体の演奏様式も、今挙げたコンビよりベートーヴェンにふさわしいものに聴こえる。
 音楽と一体となった息づかいをもって、現実の生に根ざした熱さをもった歌を迸らせながら、けっして様式を崩すことのない、1992年の「プラハの春」におけるスークとフィルクシュニーの演奏、それは演奏家の気骨と気品の両方をまざまざと示すものと言えるかもしれない。今となっては貴重な記録、と言わざるをえないところが少し寂しいところである。フィルクシュニーは、この演奏の2年後、鬼籍に入ってしまった。

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