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2005年12月

2005年の終わりに

 2005年が暮れようとしている。阪神淡路大震災の衝撃とオウムのテロルに揺れた10年前の1995年とまったく同様に、自分たちの生活がいかに脆い地盤の上に築かれているのかを思い知らされた1年だった。そして、その1年のあいだに起きた2度の脱線事故は、規模こそ大きく異なるが、どちらとも、ひとりひとりのかけがえのない生命が守られるための最低限の倫理を確かめあうことなしに、利潤を獲得し、新自由主義的な競争に勝ち抜くための数値的なデータだけを追い求めることの危うさを突きつけていた。にもかかわらず、アメリカ主導のグローバリズムに追随し、その正義なき戦争における人殺しに加担し、新自由主義的な競争の原理を、そうした競争とは無縁なはずの領域にまで浸透させ、社会のなかの階級格差の拡大を自明視する流れが、とりわけ総選挙の結果とともに決定的になったのも確かである。
 そのような流れを、マス・メディアを介して心地よく響く言葉の数々がつくり出していることは、おそらく間違いない。滑らかで耳当たりのよい美辞麗句、それは何も語っていない。いかなるリアリティにも応えていないのだ。だからこそ滑らかなのだが、そうであるがゆえに人びとを惹きつけ、思考停止に陥らせる魔力だけは持ち合わせている。そして今、人びとは「改革」とか「安全」といった言葉の前で思考を停止させながら、破局へ向かう流れに巻き込まれようとしているように思えてならない。ほかならぬ自分の生きざまを思い描くより前に、ひとしなみに「公」だの「国益」だののための犠牲にされるというひとりひとりの破局は、もうすぐ眼の前まで来ているのかもしれない。
 このようにひとりひとりの破局へと突き進む流れに、自分なりにできる仕方で楔を打ち込まなければ、と思いつつも、結局思うような仕事ができないまま、新しい年を迎えようとしている。2006年には、今まで続けてきた仕事を形にする見通しがつけられるだろうか。状況は厳しくなる一方だが、やらなければならない。
 ヴァルター・ベンヤミンは、第一次世界大戦中からそれに続くドイツのインフレーションの時代にかけて、それぞれの言語が、けっして同類のあいだの意思疎通の道具にも、わかりやすい情報を伝達するための手段にも局限されえず、それゆえ「国語」の統一体としても固定されえないことを、言語それ自体のダイナミズムを取り出すことで示そうとしていたように思われる。彼によれば、言語はむしろ、自分とは深淵によって隔てられた他なるものとのあいだでつねに新たに語られる。ある種の「わかりやすさ」をはみ出してゆく異質なものに応答し、同じ立場に立つことのできない他者とのあいだにひと筋の回路を切り開こうとするなかでつねに新たにかたちづくられてゆくのだ。そのことを、ベンヤミンは当初、言語の純粋な「本質」にもとづいて説明しようとしていたが、後には、言語が同類のあいだの意思疎通と情報伝達の道具と化した「バベル」以後の「言語の混乱」のただなかに、それぞれの言語がそうした他者に応答する力を取り戻す可能性を探るようになる。ちょうどウィトゲンシュタインが、「論理形式」を示すことで言語の純化を図った後、「ざらざらとした大地」の上の「生活形式」に立ち戻ったように。ただしベンヤミンによれば、それぞれの言語が「バベル」以後の世界で言語が他者と応えあいながら生成するダイナミズムを取り戻すためには、それが囚われている「母語」の滑らかな流れに吃音をもたらすようなかたちで、その桎梏を解体しなければならない。そのきっかけとなるのも、他者の異質な言葉との遭遇である。このとき、それに応える言葉を、自分が自明に話していた言語を内側から突破するかたちで見いだすことが問題となるのだ。そして、そのような応答の言葉を見いだすとき、それぞれの言語は、他者とのあいだに回路を切り開く力を取り戻すことになる。
 では、このように、立ちどまらせ、自分が話してきた言語を見つめなおさせるような他者の言葉と出会い、それに応答する言葉を見いだすなかで、言語を他者とのあいだで、そこにある深淵の上で語り交わされるながら生成するものとして見つめなおす可能性を、もう少し具体的にどのように思い描けばよいのだろう。言わば、武満徹が語ったように「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」(年賀状に引いた『音、沈黙と測りあえるほどに』のなかの言葉)余地は、どのように開かれるのだろうか。こうした問題に取り組むことが、来たるべき年の最初の課題となりそうである。もし、「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」とは今どういうことなのか、自分の言葉にできたなら、破局に近づきつつある今の流れに向きあう自分の位置を確かめることができるのかもしれない。

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2005年演奏会回顧など

 先ほど広島市内の映画館で久しぶりにゴダールの「勝手にしやがれ」を見た。スクリーンで見られるのはこれが最後とのこと。この映画の終わり近く、惹かれあいながらすれ違い続ける二人の心を一瞬通い合わせるかのように流れるのが、モーツァルトのクラリネット協奏曲。そう言えば来年はモーツァルト生誕250年の記念の年である。1年を通していやというくらいモーツァルトの作品を聴くことになるかもしれないが、それに新たな生命を吹き込む演奏に出会えるだろうか。
 さて、今年聴いた演奏会を、日本国内で聴いたものにかぎって振り返ってみると、最も大きな感銘を受けたのは、2月に京都コンサートホールで聴いた、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会。このコンビによる最後のツアーということになったが、それまで両者がいかに緊密な関係を築いてきたかを実感させてくれる、説得力あるブルックナーの第7交響曲の演奏を聴かせてくれた。木造りの教会建築の味わいをもった、暖かくてどっしりとしたゲヴァントハウス管弦楽団の響きのなかに、作品の造形を無理のない流れのなかに浮かびあがらせようとするブロムシュテットの解釈が浸透していたように思う。ドレスデン国立管弦楽団との録音(DENON)より雄大なスケールをもちながら、けっして清新さを失うことのない第7交響曲の演奏であった。
 4月にはアクロス福岡で、ブロムシュテットとゲヴァントハウス管弦楽団のコンビとはある意味で好対照をなす、ミシェル・プラッソン指揮のパリ管弦楽団の演奏に触れることができた。とりわけドビュッシーの「海」では、パッセージごとに細かく表情をつけたり、ひと区切りごとにわずかな間を置いたりといった細工が、波の自然なたゆたいやさざめきを感じさせることに見事に結びついていたように感じられる。プラッソンの言わば芸人としての巧みさと、パリ管弦楽団の柔軟さとが呼応しあうなかから、気品ある遊びを含んだ響きが聴こえてくるのに、文字どおり酔わされた。
 秋には、すでにこの欄でも紹介したように、まず9月に倉敷市民会館で、大野和士指揮のベルギー王立歌劇場管弦楽団の演奏会を聴くことができた。大野の最近の充実ぶりを感じさせる、堂に入ったラヴェルとマーラーが印象に残る。10月には、岡山シンフォニーホールでのリッカルド・ムーティ指揮のヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会も訪れた。引き締まったリズムが躍動するなかから、シューベルトならではの歌が広がってゆく。シューベルトの有名な2つの交響曲に若々しい情熱を吹き込むとともに、最近の両者の相性のよさも印象づける演奏であった。
 広島で聴いた演奏会のなかでは、7月の被爆60年を記念した「未来への追憶」と10月のオペラルネッサンス公演が忘れがたい。前者では、細川俊夫の「ヒロシマ、声なき声」が圧倒的な印象を残した。被爆の凄惨さが新たな音楽言語をもって、言わば内側から抉り出された後に、平和への祈りが自然の静けさと溶けあってゆく。後者では、プッチーニの「三部作」のうち、「修道女アンジェリカ」と「ジャンニ・スキッキ」が取り上げられたが、人間の生をその全幅にわたって舞台上にすくい上げようとする演出と、歌手たちの力演が一体となっていた。いずれも、なぜ今広島でこの作品なのか、という問いに真摯に向きあうなかからつくり出された演奏会だったし、何よりもそのことが成功につながっていたと考えられる。
 モーツァルト生誕250年の年には、まずは、なぜ今モーツァルトのこの作品なのか、という問いに対する何らかの答えを含んだ演奏を聴いてみたい。そうした演奏であってこそ、モーツァルトの音楽に新たな生命を吹き込むことができるのではないだろうか。

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2005年美術展回顧など

 一昨日、東京へ行ったついでに京橋のブリヂストン美術館を久しぶりに再訪した。所蔵作品を用いて「印象派と20世紀の美術」というテーマの展示が行なわれていたが、そのせいか、以前に訪れたときより展示作品が充実しているように感じられる。名高いセザンヌの「サント=ヴィクトワール山」や、以前から好きだったルオーの「郊外のキリスト」もさることながら、今回見たなかで最も惹きつけられたのは、クレーの「島」。一筆書きのような線が入り組むなかに「パルナソス山へ」のように配された色彩の音楽的な運動が、島並をつくったり水面のさざめきをつくったりしているさまが眼を楽しませる。
 さて、今年見た美術展を、日本国内で見たものにかぎって振り返ってみると、まず東京で見たもので最も感銘深かったのはやはり国立西洋美術館の「ジョルジュ・ド・ラトゥール展」である。フェルメールと並んで現存作品数の少ないこの画家の作品をあれほどまとまったかたちで見られただけでも非常に貴重な機会だったが、フェルメールとはまったく異なった静けさに貫かれた画面の闇のなかに極限的にまで研ぎ澄まされた人物像を浮かびあがらせるド・ラトゥールの世界は、今年最大の発見だったと言ってよい。そのなかで人物のフォルムを浮かびあがらせる光は、どこか救いを感じさせる。
 東京ではほかに、国立近代美術館で「ゴッホ展」を、そして東京都美術館では「プーシキン・コレクション展」を見たが、かなりの人混みだったこともあって、「ド・ラトゥール展」ほどの大きな感銘は受けなかった。とはいえ、「ゴッホ展」でオランダのリアルな絵画表現の伝統をわがものとするところから出発して、だんだんと見えるものから見ること自体へと表現の重心を移してゆくゴッホの作風の変遷をたどることができたのは面白かったし、そこではまた「カフェテリア」の絵をはじめ「見る」ことの表現が一つの世界に結晶した美しい絵にも出会うことができた。
 現在住んでいる広島で見た展覧会のなかでは、以前にこの欄でも報告した、広島市現代美術館の「シリン・ネシャット展」とひろしま美術館の「香月泰男展」がとくに感銘深かった。シリン・ネシャットの雄弁でありながらどこか静けさを感じさせる映像作品が、鋭く男性と女性のあいだにある問題を抉り出したり、あるいは両者の協働のユートピア的な可能性を幻想的に描き出したりしているのに触れて、映像と結びつくことの多くなった現代美術の一つの可能性を感じ取ることができたし、またシベリア抑留の極限状態で見た世界を、声高なメッセージで覆い隠すのではなく、みずからの様式を練り上げることで静かに作品世界に結晶させようとする香月泰男の画風も今年の発見の一つである。それから、現代美術館で見た「草間彌生展」も忘れられない。恐ろしいまでに緻密で執拗なドットの配置によって空間を次元性から解放する、眩暈を起こさせるような平面作品も印象的だったが、どこか叙情性を感じさせる仕方で光を鏡面や水面に無限に映すインスタレーションは、これまで知らなかった彼女の一面を告げるものだった。
 来年は、まず神戸で「アムステルダム美術館展」を見る予定。聞けば、ベルンのパウル・クレー・センターの開館を記念して、「クレー展」が国内を巡回するとか。今から楽しみである。
 ところで、今年は夏に久留米の石橋美術館も訪れたので、ブリヂストン財団の美術館を二つとも訪れたことになる。どちらの展示も実に充実していたが、今年は、こうした一定のコレクションを保有する美術館が、開館時間も含めて展示の仕方を工夫したり(夕方5時閉館というのは、美術は有閑マダムの消費財と言っているようなものである)、講演会や演奏会を定期的に催したりすることで、地元の美術ファンに、常設展へ年間を通して何度も足を運んでもらえるようにしたり、若い世代がより気軽に美術を楽しんでもらえるようにしたりすることも、芸術を生活のなかにより深く根づかせるための喫緊の課題であることも、地方都市に住んでいて強く感じさせられた一年でもあった。

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雪に閉ざされて

 「雪に閉ざされた北国」という言葉があるけれども、一昨日からの雪で文字どおり「雪に閉ざされた」感じである。今朝になっても降りやむ気配がない。もう50センチ近く積もっているのではないだろうか。南国に生まれ育ったわたしにとって、これほど雪が降り積もっているさまを見るのはほとんど初めてのことなので、物珍しい気もしないではないけれども、雪国に住む人の辛さの一端もわかるような気がする。ほんとうに身動きが取れなくなってしまうのだ。車が雪道用のタイヤを履いていないせいもあるが、これほど降ってしまっては(とりわけ運転経験の浅いわたしにとっては)、車がスタッドレスタイヤを着けていても、車を走らせるのには相当なリスクが付きまとうにちがいない。ちなみにいつも世話になっている近所の車屋さんによれば、ここのところの雪続きでスタッドレスタイヤ自体が品薄になってきているうえ、こうも降り積もってしまうと、タイヤを付け替える技能をもった人員を確保するのも難しい、とのことである。
 このように「雪に閉ざされた」状況を思うと、それは自分自身が今置かれている息苦しい状況ともどこか重なりあうようで空恐ろしい。企業は大学に対して、みずからの利益にじかに結びつくような研究と「即戦力」となる「人材」の育成を期待し、それに応じるかたちで学生たちも「就活」に生き残るのための「スキル」と「ノウハウ」だけを求めて大学に来るようになり、社会もそのような「スキル」だの「ノウハウ」だの、現にある社会に組み込まれるための「情報」を提供する「教育」だけを要求するようになるなか、資本を産む「労働力」にすぎない「人材」を数値化されたデータだけで評価する社会の趨勢が、それに批判の楔を打ち込まなければならないはずの大学のなかに入り込むどころか、大学のご都合主義的な「リストラ」のために利用されようともしているのだ。もはや内容はともかく、業績や授業のコマの数を水増しして、現にある社会の要求に応えなければならない、というわけである。もはやうじうじ考えている暇はない、さっさと労働にいそしめ、という声が聴こえるようだ。
 そうなれば、立ちどまって考え、書くことを、そして立ちどまってみずからの問題意識を掘り下げることの重要性を語りかけることを仕事とする者には、身の置きどころがなくなってしまう。「コミュニケーション・ツール」として機能し、情報の喧騒をつくりなす以前に、言語そのもののうちには、自分とは深淵によって隔てられた他者とのあいだを切り開きながら、そうした他者に応えるものとしてみずからをかたちづくるダイナミズムがあるのでは、と探り続けるなど、「世間」から見れば「現実離れ」しているだろうし、こうして考えたことを語ったとしても、言葉がそれこそ宙に浮いてしまうのではないか。また、学生たちに、「あたりまえ」のことに引っかかること、そうして立ちどまってみずからの問いを掘り下げ、世界とそこに生きる自分を可能性において見つめなおすことを語りかけたところで、学生たちにはもはや「現実問題」として、立ちどまっている暇はないのかもしれない。だとすれば、それこそ「雪に閉ざされた」ように、まったく身動きがとれなくなってしまう。
 こうした壁に直面している自分を思うとき、最近その新しい評伝を読んだ作曲家のショスタコーヴィチがソヴィエト政権下で置かれていた状況がしばしば思い出される。彼は、1930年代と1940年代に一度ずつ政権と衝突し、作曲家生命の危機に直面した。しかし彼は、政権側の要求に見合う作品を書くことで、体制下での復権を果たしたのである。政権と衝突せざるをえなかったのは、彼が政権の求める「リアリズム」とはまるで相容れない新しい音楽の語法を追い求めていたからだが、他方で彼が政権側も評価せざるをえない作品を書くこともできたのは、「器用」に「二枚舌」を使えたとか、十二音技法を否定し続けたようにある意味で保守的であったとかいうより、バッハとベートーヴェンの音楽を、形式のうえでも内容のうえでも新たなかたちでわがものとする(ソヴィエト政権の賞を受けたピアノ五重奏曲をはじめ、いくつかの室内楽曲や器楽曲からは、そのことが強く感じられる)、言わばそんな地力を彼がもっていたからではないか。そのような地力を何ひとつ持ち合わせていないわたしは、この「雪に閉ざされた」状況をどのように切り抜けることができるのだろう。見通しは暗いと言わざるをえない。

 それはさておき、ふりかえってみると、ここのところこの欄に、だいたい2週間に1度くらいしか記事を書けていない。大学での仕事に加え、週末もほとんど学会やその他の集まりなどで忙殺されているなか、自分の勉強と仕事もしなければならなかったせいもあるが、何よりも自分の関心を省みて、みずからの位置を見定めるだけの気持ちの余裕がなかったことが、わたしを書くことから遠ざけていたようだ。少なくとも講義からはしばし解放された今、それだけの「遊び」を心のなかにつくることができるだろうか。

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音楽書二題:ベルリン歌劇場史とショスタコーヴィチの評伝

 最近読んでみて面白かった音楽書を2冊紹介しておきたい。1冊は、菅原透の『ベルリン三大歌劇場──激動の公演史』で、もう1冊は、ローレル・E・ファーイの『ショスタコーヴィチ──ある生涯』(藤岡啓介/佐々木千恵訳)。どちらも、アルファベータという音楽書を中心に重要な文献をいくつも世に送り出している出版社の「叢書・20世紀の芸術と文学」シリーズの中の1冊である。2冊ともかなりの大部で(とくにファーイの『ショスタコーヴィチ』は、本文が2段組みで350ページ以上ある)読むのに骨が折れたが、その労に見合う読みごたえがあったのも確かである。
 現在ベルリンでは、ウンター・デン・リンデンの州立歌劇場、ドイツ・オペラ、コーミッシェ・オーパーという三つの歌劇場が競い合っているが、菅原透の『ベルリン三大歌劇場』は、ドイツ・オペラの前身である市立オペラ、もしくは今は失われた、コーミッシェ・オーパーのモデルとなった二つの歌劇場、当初王立だったリンデン・オーパー、そして今はその伝説だけが残っているクロル・オーパーの、それらが第二次世界大戦末期の空襲で焼失するまでに至るおもに20世紀の激動の公演史を、詳細に、また生き生きと描き出した好著である。やや歴史小説風の語り口には好みが分かれようが、舞台上でどのような公演が繰り広げられ、またその裏でどのような綱引きがあったのか、実に小気味よく描かれている。1929年頃にベルリンのイタリア大使館で撮影されたとされる、ブルーノ・ヴァルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーという5人の、今となっては伝説的な指揮者が顔を揃えた写真があるが、当時ベルリンでこの5人が、リンデン・オーパーで、市立オペラで、クロル・オーパーで、あるいは一大ブームを巻き起こしたイタリアからの客演者として、実際にどのように活躍していたのかが、膨大な資料を駆使してドラマティックに浮かびあがっているし、またその裏でリヒャルト・シュトラウスが、作曲家として、また指揮者として、いかに巧みに立ち回っていたのかも細かく記されている。当時の公演プログラムやポスターの図版、そして舞台写真を交えながら、これらの指揮者と協働した演出家や舞台美術家の演出のありようが、生き生きと描かれているし、今やそのほとんどが忘れ去れてしまった戦前の重要な歌手たちの活躍ぶりが、写真を交えて描かれているのも、資料として実に貴重である。とはいえ何よりも興味深かったのは、斬新な舞台で当時賛否両論の渦を巻き起こし、アドルノも擁護の評を寄せた「フィデリオ」の公演で知られる、クロル・オーパーの公演史である。今は跡形もないが、1920年代の終わりには、当時の新しい芸術運動の一大拠点であったこの歌劇場の苦難の歴史が、当時その音楽監督だったクレンペラーの活躍を中心に詳細に描き出されているのに、初めて触れることができた。その歴史は、新しい芸術運動を発信する媒体としてオペラを考えようとするとき、つねに参照されなければならないはずである。
 ところで、2006年に生誕100年を迎えることになる作曲家ショスタコーヴィチの新しい評伝、ファーイの『ある生涯』は、同時代人の自伝や手記、語録、書簡など、集められるだけの資料を駆使して、多角的な視点からショスタコーヴィチの生涯の各局面をつぶさに描き出している。それによってファーイの評伝は、たとえばソロモン・ヴォルコフの『証言』が浮かびあがらせるように「反ソヴィエト的」であるとかいった、強いイデオロギー的色彩をもったショスタコーヴィチ像が突出させるのを避けることができているばかりでなく、彼がソヴィエト政権時代を生き抜くことを可能にした、彼の多面性をまんべんなく浮かびあがらせることにも成功している。また、彼がムラヴィンスキー、オイストラフ、ロストロポーヴィチといった音楽家たちとどのように交わり、作品の初演を準備したか、あるいは第4交響曲の場合のように、初演を取り下げたか、といったことが細かく描かれているのも興味深い。今挙げた第4交響曲が代表するように、ショスタコーヴィチは、一面で交響曲をはじめとする既成のジャンルを限界にまで追いつめるアヴァンギャルドであり続けようとした。しかし、同時に他面では、けっしてそうしたジャンルも、それをメロディによって構成することも、けっして放棄しなかったし、十二音技法にも反対し続けた。そうしたショスタコーヴィチ自身の両面が、1930年代と40年代に訪れた危機が代表するように、彼をソヴィエト政権と衝突させたし、政権の求める作品を書いてこれらの危機を切り抜けることも可能にしたのだ。そのように、彼が二枚舌であったが、それでも同時に一枚舌でもあり続けたことを、ファーイは、同時代人にも証言させながら、多角的にかつ一本筋の通った仕方で描き出している。そのことがこの評伝に、ずしりとした読みごたえをもたらしているのだろう。もちろんそこに時代の重いドキュメントが詰まっていることも間違いない。
 さて、ここに紹介した2冊の音楽書、巻末の資料も実に充実している。菅原透の『ベルリン三大歌劇場』には、クロル・オーパー、市立オペラ、リンデン・オーパーの詳細な公演記録が収められているし、ファーイの『ある生涯』(ただし改訂新版のみ)には、評伝に登場した人物を紹介した人名事典が収められている。これらの資料にも、これからたびたび教えられることがあるにちがいない。

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スークとフィルクシュニーの「プラハの春」ライヴ

 最近入手したディスクのなかでとくに気に入ったものの一つとして紹介しておきたいのが、1992年の「プラハの春」音楽祭におけるヨゼフ・スークとルドルフ・フィルクシュニーのリサイタルのライヴ録音のディスク(Supraphon SU 3857-2)。どういうわけか、13年後の今になってようやく発売された。知名度の差だろうか。すぐに国内盤も出たクーベリックが指揮する「わが祖国」や「新世界」交響曲の演奏とは大違いである。ともあれ、好んで聴く曲ばかりが収められているし、そうした曲をスークとフィルクシュニーのコンビがどのように演奏しているのか興味があったので購入してみたのだが、これが素晴らしい。
 全体としてオン・マイクの録音のなかに、ヴァイオリンのスークの息づかいが鮮明に聴こえてくる。それがライヴ独特の張りつめた空気のなか、音楽の生動と一体となっているかのようなのだ。そのような息づかいのなかで、スークは絹布にたとえられる美音と、少し土臭い厳しさの両方を聴かせてくれる。それを支えるフィルクシュニーのピアノは、厳しいなかにも温かさと気品をけっして失うことがない。
 最初に演奏されているドヴォジャークのソナチネにおいては、土いきれの香りも帯びながら決然とした、あるいは子守歌のような優しさに満ちた歌が魅力的であるが、それはけっして歌うことに溺れることはない。フィルクシュニーが要所要所に、楔を打ち込むよう音楽の構成を浮かびあがらせるようなタッチを示すことによって、歌は引き締まり、他ではありえないと思わせるような説得力を示すようになるのだ。他方で彼のピアノは、第二楽章の中間部で、この作品が歌劇「ルサルカ」と同時期に作曲されたことを思い起こさせるような神秘的な優しさも示している。そして、フィナーレにおける二人の演奏の緊迫感は、これまで聴いてきたヴォルフガング・シュナイダーハンとヴァルター・クリーンの演奏が少し色あせて見えるほどだ。
 この後に収録されているヤナーチェクのソナチネの演奏は、厳しい起筆とともに始まる最初の楽章からして、音楽への共感を迸らせている。ヤナーチェクの音楽は語るように歌われなければならないメロディに充ち満ちているのだが、これほど説得力のある語りを聴かせる演奏家がこの二人以外にいるだろうか。その語りを中断させるかのように作曲家が差し挟んだパッセージの表現も、仮借ない厳しさを示している。それでも音楽が温かさを失わないのも、この二人ならではのことかもしれない。
 おそらく休憩後の最初に演奏されたと思われるブラームスの第3番のソナタは、骨太で燻し銀のような輝きをもった音色で、すべてのパッセージが脈打っているかのように演奏されている。どのモティーフを取ってみても、しっかりと歌い抜かれているのだ。それでいて、各楽章の、あるいはその楽節ごとのどこか古典的な骨組みはけっして揺らぐことがない。そのような気品に満ちた演奏を、今聴くことができるだろうか。
 最後に収められているのは、ベートーヴェンの最後のヴァイオリン・ソナタ。この作品の演奏は、包み込むような優しさと、熱気あふれる高揚との両方を呈している。さすがに第三楽章のスケルツォあたりから指がもつれ気味なところも散見されるが、ぐいぐいと音楽が進められてゆくなかから温かい歌も聴こえてくるのだ。前半の二つの楽章の滋味豊かな、何か熱いものが胸のなかにじわっと広がってくるような表現は、ハスキルとグリュミオーの演奏などとはまた違った魅力を示していよう。全体の演奏様式も、今挙げたコンビよりベートーヴェンにふさわしいものに聴こえる。
 音楽と一体となった息づかいをもって、現実の生に根ざした熱さをもった歌を迸らせながら、けっして様式を崩すことのない、1992年の「プラハの春」におけるスークとフィルクシュニーの演奏、それは演奏家の気骨と気品の両方をまざまざと示すものと言えるかもしれない。今となっては貴重な記録、と言わざるをえないところが少し寂しいところである。フィルクシュニーは、この演奏の2年後、鬼籍に入ってしまった。

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