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2005年の終わりに

 2005年が暮れようとしている。阪神淡路大震災の衝撃とオウムのテロルに揺れた10年前の1995年とまったく同様に、自分たちの生活がいかに脆い地盤の上に築かれているのかを思い知らされた1年だった。そして、その1年のあいだに起きた2度の脱線事故は、規模こそ大きく異なるが、どちらとも、ひとりひとりのかけがえのない生命が守られるための最低限の倫理を確かめあうことなしに、利潤を獲得し、新自由主義的な競争に勝ち抜くための数値的なデータだけを追い求めることの危うさを突きつけていた。にもかかわらず、アメリカ主導のグローバリズムに追随し、その正義なき戦争における人殺しに加担し、新自由主義的な競争の原理を、そうした競争とは無縁なはずの領域にまで浸透させ、社会のなかの階級格差の拡大を自明視する流れが、とりわけ総選挙の結果とともに決定的になったのも確かである。
 そのような流れを、マス・メディアを介して心地よく響く言葉の数々がつくり出していることは、おそらく間違いない。滑らかで耳当たりのよい美辞麗句、それは何も語っていない。いかなるリアリティにも応えていないのだ。だからこそ滑らかなのだが、そうであるがゆえに人びとを惹きつけ、思考停止に陥らせる魔力だけは持ち合わせている。そして今、人びとは「改革」とか「安全」といった言葉の前で思考を停止させながら、破局へ向かう流れに巻き込まれようとしているように思えてならない。ほかならぬ自分の生きざまを思い描くより前に、ひとしなみに「公」だの「国益」だののための犠牲にされるというひとりひとりの破局は、もうすぐ眼の前まで来ているのかもしれない。
 このようにひとりひとりの破局へと突き進む流れに、自分なりにできる仕方で楔を打ち込まなければ、と思いつつも、結局思うような仕事ができないまま、新しい年を迎えようとしている。2006年には、今まで続けてきた仕事を形にする見通しがつけられるだろうか。状況は厳しくなる一方だが、やらなければならない。
 ヴァルター・ベンヤミンは、第一次世界大戦中からそれに続くドイツのインフレーションの時代にかけて、それぞれの言語が、けっして同類のあいだの意思疎通の道具にも、わかりやすい情報を伝達するための手段にも局限されえず、それゆえ「国語」の統一体としても固定されえないことを、言語それ自体のダイナミズムを取り出すことで示そうとしていたように思われる。彼によれば、言語はむしろ、自分とは深淵によって隔てられた他なるものとのあいだでつねに新たに語られる。ある種の「わかりやすさ」をはみ出してゆく異質なものに応答し、同じ立場に立つことのできない他者とのあいだにひと筋の回路を切り開こうとするなかでつねに新たにかたちづくられてゆくのだ。そのことを、ベンヤミンは当初、言語の純粋な「本質」にもとづいて説明しようとしていたが、後には、言語が同類のあいだの意思疎通と情報伝達の道具と化した「バベル」以後の「言語の混乱」のただなかに、それぞれの言語がそうした他者に応答する力を取り戻す可能性を探るようになる。ちょうどウィトゲンシュタインが、「論理形式」を示すことで言語の純化を図った後、「ざらざらとした大地」の上の「生活形式」に立ち戻ったように。ただしベンヤミンによれば、それぞれの言語が「バベル」以後の世界で言語が他者と応えあいながら生成するダイナミズムを取り戻すためには、それが囚われている「母語」の滑らかな流れに吃音をもたらすようなかたちで、その桎梏を解体しなければならない。そのきっかけとなるのも、他者の異質な言葉との遭遇である。このとき、それに応える言葉を、自分が自明に話していた言語を内側から突破するかたちで見いだすことが問題となるのだ。そして、そのような応答の言葉を見いだすとき、それぞれの言語は、他者とのあいだに回路を切り開く力を取り戻すことになる。
 では、このように、立ちどまらせ、自分が話してきた言語を見つめなおさせるような他者の言葉と出会い、それに応答する言葉を見いだすなかで、言語を他者とのあいだで、そこにある深淵の上で語り交わされるながら生成するものとして見つめなおす可能性を、もう少し具体的にどのように思い描けばよいのだろう。言わば、武満徹が語ったように「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」(年賀状に引いた『音、沈黙と測りあえるほどに』のなかの言葉)余地は、どのように開かれるのだろうか。こうした問題に取り組むことが、来たるべき年の最初の課題となりそうである。もし、「どもりながら言葉の生命を噛みしめてみる」とは今どういうことなのか、自分の言葉にできたなら、破局に近づきつつある今の流れに向きあう自分の位置を確かめることができるのかもしれない。

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