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2005年演奏会回顧など

 先ほど広島市内の映画館で久しぶりにゴダールの「勝手にしやがれ」を見た。スクリーンで見られるのはこれが最後とのこと。この映画の終わり近く、惹かれあいながらすれ違い続ける二人の心を一瞬通い合わせるかのように流れるのが、モーツァルトのクラリネット協奏曲。そう言えば来年はモーツァルト生誕250年の記念の年である。1年を通していやというくらいモーツァルトの作品を聴くことになるかもしれないが、それに新たな生命を吹き込む演奏に出会えるだろうか。
 さて、今年聴いた演奏会を、日本国内で聴いたものにかぎって振り返ってみると、最も大きな感銘を受けたのは、2月に京都コンサートホールで聴いた、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会。このコンビによる最後のツアーということになったが、それまで両者がいかに緊密な関係を築いてきたかを実感させてくれる、説得力あるブルックナーの第7交響曲の演奏を聴かせてくれた。木造りの教会建築の味わいをもった、暖かくてどっしりとしたゲヴァントハウス管弦楽団の響きのなかに、作品の造形を無理のない流れのなかに浮かびあがらせようとするブロムシュテットの解釈が浸透していたように思う。ドレスデン国立管弦楽団との録音(DENON)より雄大なスケールをもちながら、けっして清新さを失うことのない第7交響曲の演奏であった。
 4月にはアクロス福岡で、ブロムシュテットとゲヴァントハウス管弦楽団のコンビとはある意味で好対照をなす、ミシェル・プラッソン指揮のパリ管弦楽団の演奏に触れることができた。とりわけドビュッシーの「海」では、パッセージごとに細かく表情をつけたり、ひと区切りごとにわずかな間を置いたりといった細工が、波の自然なたゆたいやさざめきを感じさせることに見事に結びついていたように感じられる。プラッソンの言わば芸人としての巧みさと、パリ管弦楽団の柔軟さとが呼応しあうなかから、気品ある遊びを含んだ響きが聴こえてくるのに、文字どおり酔わされた。
 秋には、すでにこの欄でも紹介したように、まず9月に倉敷市民会館で、大野和士指揮のベルギー王立歌劇場管弦楽団の演奏会を聴くことができた。大野の最近の充実ぶりを感じさせる、堂に入ったラヴェルとマーラーが印象に残る。10月には、岡山シンフォニーホールでのリッカルド・ムーティ指揮のヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会も訪れた。引き締まったリズムが躍動するなかから、シューベルトならではの歌が広がってゆく。シューベルトの有名な2つの交響曲に若々しい情熱を吹き込むとともに、最近の両者の相性のよさも印象づける演奏であった。
 広島で聴いた演奏会のなかでは、7月の被爆60年を記念した「未来への追憶」と10月のオペラルネッサンス公演が忘れがたい。前者では、細川俊夫の「ヒロシマ、声なき声」が圧倒的な印象を残した。被爆の凄惨さが新たな音楽言語をもって、言わば内側から抉り出された後に、平和への祈りが自然の静けさと溶けあってゆく。後者では、プッチーニの「三部作」のうち、「修道女アンジェリカ」と「ジャンニ・スキッキ」が取り上げられたが、人間の生をその全幅にわたって舞台上にすくい上げようとする演出と、歌手たちの力演が一体となっていた。いずれも、なぜ今広島でこの作品なのか、という問いに真摯に向きあうなかからつくり出された演奏会だったし、何よりもそのことが成功につながっていたと考えられる。
 モーツァルト生誕250年の年には、まずは、なぜ今モーツァルトのこの作品なのか、という問いに対する何らかの答えを含んだ演奏を聴いてみたい。そうした演奏であってこそ、モーツァルトの音楽に新たな生命を吹き込むことができるのではないだろうか。

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