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2005年11月

ケバプと「ほんとうのネオナチ」の問題

 ベルリンへ行くと、やはりかならず一度はトルコのケバプのお世話になる。ケバプといっても、鉄串に刺して焼くシシ・ケバプとかではなくて、「デナー・ケバプ」。牛肉や羊肉(他の肉も使われているかもしれない)の肉片をペタペタと鉄の心棒に貼りつけ、その心棒を回転させて(「デナー」の名はこのことに由来するとか)じっくりと炙ったのをナイフでそぎ落とし、野菜と一緒にカリッと焼き上げた厚手のピタパンのようなパンに入れ、ソースをかけたもの。野菜は、タマネギ、トマト、キュウリ、赤キャベツというのが一般的で、ソースにはニンニク、ハーブヨーグルト、チリといった種類がある。1個で満腹感が得られるし、何といっても肉と一緒に野菜をそこそこ食べられるのがいい。日本で「ドネル・ケバプ」という名前で知られているものとほぼ同じものである。そう言えば、東京では1個500円で売っていたが、ベルリンでは日本円にして200円から350円くらいが相場。このあいだの旅行の際には、地下鉄のリヒャルト・ヴァーグナー広場駅近くの店で1個買って、ホテルの部屋へ持ち帰って食べた。
 このデナー・ケバプを売る「インビス」(ファスト・フード店)が、ベルリンにはそれこそ至るところにある。そのほとんどが、トルコからの移民がいとなむ店であるが、辺見庸の『もの食う人びと』(角川文庫)によると、そうしたケバプ屋は東西ドイツの統一後に続々と増えていったという。原因は失業。外国人労働者として働いていたトルコ人たちを、ドイツの企業は、東ドイツ市民を優先的に雇用するため、あるいはそれを口実に外国人を差別し、解雇していった。そうして職を失ったトルコ人たちは、資金的にも技術的にも手っ取り早いケバブ屋経営に飛びついた、というわけである。そして、そこで売る「デナー・ケバプ」は、味もスパイスも控えめにし、「ドイツ化」してあるとか。その歴史は、「ドイツに適応しようとしてきたトルコ人の辛い歴史そのもの」だ、というあるトルコ人の表白を、辺見庸は引いている。
 その「辛い歴史」は今なお続いている。ベルリンを出発する日の朝刊に、ポツダムで政治家を含む市民の対抗デモ(日本で政治家が極右に対する対抗デモに加わることは考えにくいし、それはまたそれで問題である)が、ネオナチの大規模な行進を阻止した、という記事が載っていた。極右的な主張に反対して声を上げる市民たちがいる一方で、辺見庸によればケバプ屋の増大とともにその外国人排斥を表面化させたネオナチもまだまだ暗躍している。そればかりでなく、外国人の締め出しを主張する極右政党が、ザクセン州議会では議席まで獲得しているのだ。そして、最近の景気の慢性的な低迷と、未だ高い水準の失業率は、ドイツにおけるトルコ系移民への風あたりをさらに強めていよう。
 ベルリンを出発する日、バスで市街の北西にある空港へ向かう途中で、モアビットという地区を通った。それまでバスで通ってきた街と明らかに雰囲気の異なる、人通りがまばらで寂れた感じの、やや怪しげな店の建ち並ぶ街路がしばらく続く。そこは、多くの経済的に苦しい状況に追い込まれている移民たちが、肩を寄せ合うように住んでいる地区とのことである。そうしたモアビット地区で、パリの暴動に続くかのように、何台かの車が放火されたという。ベルリンの日刊紙のウェブ版は、パリの暴動に便乗した若者の悪ふざけ、と楽観的な見方を示していたが、おそらくは何よりもまず、一部の(そうであると信じたいが)ドイツ人の差別的なまなざし、あるいは高失業率の責任を押しつけるかのような敵意に満ちた態度に対する不満の噴出を示すものなのではないか。その不満が、ネオナチの暴力と同じかたちをとって現われてしまったのは、非常に残念なことだけれども。
 パリ北部で車に火を点けている若者たちのなかには、近くのシャルル・ド=ゴール空港での仕事を、「9・11」後に「保安」を理由にクビにされたり、あるいは求人に応募しようと電話しても、アラブ系の名前を名乗った瞬間に電話を切られたり、といったことを経験した若者も含まれているという。そして、彼らが求めているのは、まずフランス社会において「人間」として扱われることなのだ。だからこそ、彼らを「クズ」呼ばわりしたサルコジ内相がやり玉に上がっているのである。辺見庸の『もの食う人びと』には、「ほんとうのネオナチっていうのは」、「上流階級のドイツ紳士の心のなかにもあるんじゃないかな」、というトルコ人を恋人にもつドイツ人女性の言葉が引かれている。外国人排斥を黙認し、移民たちが「人間」扱いされない社会の構造を温存しようとする、そして何か事が起こればサルコジ内相のように本音を漏らすようなメンタリティこそが、真にネオナチ的だ、というわけである。夜の路上に立って、「SMS」(携帯電話のショート・メール)で連絡を取りあい、車に火を点けて回る若者たちが問いただしているのは、何よりもまずそうしたネオナチ的メンタリティなのではないか。そして、車に火を点けるというやり方がけっして正当化されえないのは当然だが、そうしてサルコジ内相の発言を指弾する彼らの問いは、その現場から遠く離れた日本にあっても、自分自身への問いかけとして受けとめなければならないものも含んでいるのではないだろうか。
 ところで、パリ北部に始まった移民の若者たちの暴動を報じていた新聞には、何やら腐った肉を売りさばいていた業者に強制捜査が入った、という記事も載っていた。それによると、一部の肉はすでにケバプ店などに売りさばかれていたとか。もしかするとこのあいだ食べたのも、と一瞬背筋が寒くなったが、幸い今のところ腹の具合は悪くない。

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ベルリン旅日記:11月6日

 荷造りをして宿を引き払った後、ポツダム広場へ向かい、昨日同様楽器博物館で「美的経験の諸言語」をテーマとする学会に参加する。日曜日ということもあって電車の本数が少なかったのと、荷物を預けるコインロッカーを探すのに少し手間取ったのとでずいぶん遅刻してしまったが、最初の講演者がまだまだ熱弁をふるっていた。ルーマンのシステム理論などを下敷きに独自の「認知美学」とも言うべき理論を展開しているバツォン・ブロックという学者とか。ロスコなどを例に、ユダヤ系の芸術家が図像化禁止の掟を芸術的形象によって表現しているといった話はわからないではないものの、錯覚が知覚の明証性を前提としており、有意味であるとは騙されうることであるというテーゼを振りかざして、芸術は知覚の普遍性を表現すると述べ立てるのは、芸術を陳腐化するのに思えてならない。ブロックは、延々と制限時間を1時間近くオーバーして話し続けていた。その後の発表も、それに対する応対に終始した観があるが、それに対抗しうる明確な立場を打ち出しえていたとはとても言い難い。それは何よりも言語の位置づけ、さらに言えば「言語とは何か」という問いを言語哲学的に、芸術言語との関係を視野に入れながら理論的に掘り下げる作業が欠落しているからであろう。昨日も含めて、今回の学会で聴いた発表は、どれ一つとして、言語化を拒むものでもありうる強度をもった美的経験とその言語化との緊張関係を表現しえていなかったように思う。
 楽器博物館を出て、最後に発表したポツダム滞在中の知り合いと別れた後、ユダヤ博物館の近くに新たにオープンしたベルリン・ギャラリーへ向かう。そこで開催されている「表現主義の誕生」展を見ようと考えたのである。日曜日ということもあって、ギャラリーはかなり混んでいた。常設展として、20世紀初頭以後のドイツの表現主義、新即物主義、ダダから、現在存命中の芸術家たちの作品まで、多彩な作品が展示されていたが、そのなかには、フェリックス・ヌスバウムの作品やオットー・ディクスの作品も含まれていた。苦境に置かれた人間の困窮を包み隠さず描き出すことで、描かれた人間を画面上に屹立させるディクスによる詩人の肖像もさることながら、自画像であることを否定するかのように、自分自身の顔の上半分を画面の外に追いやったヌスバウムの1942年の自画像がとくに印象的。まったく無駄のないタッチで生存の危機に直面している人間の姿が、それが抱いている不安とともに鋭く描き出されている。やがてアウシュヴィッツへ送られ、そこで抹殺されることになる画家による、極限的にまで研ぎ澄まされた画面である。
 さて、お目当ての「表現主義の誕生」展は、常設展の一つ上のフロアで開催されていた。ホドラー、ムンクといった画家の影響のもと、従来のアカデミックな絵画のありようを真っ向から否定し、生の躍動とそこから噴出する感情を描ききるような表現を目指す集団として、ドレスデンに「ブリュッケ」が結成された時期から、キルヒナーらがベルリンへ移って、表現主義的な技法を大都市に生きる人間の生きざまを描きとるのに生かすようになるまでの作品が展示されていた。エミール・ノルデ、エーリヒ・ペヒシュタイン、カール・シュミット=ロットルフといった、「ブリュッケ」に加わった(ことのある)画家たちの作品の魅力を再発見することもできたが、最も強烈な印象を残したのはやはりエルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーの作品である。
 最初に眼を惹いたのは、1911年のドレスデンでの展覧会で「ブリュッケ」の画家たちを揺さぶったゴッホの影響のもと、補色どうしがぶつかりあうなかに女性像を、その皮膚の強烈な輝きとともに浮かびあがらせる裸体像。昨日見たピカソとはまた違った仕方で、キルヒナーも古典的な輪郭をはみ出してゆく身体性に接近しようと試み、はみ出してゆく動きをぎらりとした肌の光彩というかたちで画面に定着させているように見える。人物像のなかで最も印象的だったのは、「フランツルの肖像」。大胆に緑に塗られた顔面に浮かびあがる微笑みかける表情には魅了される。緑のなかから黒い眼と赤い唇を浮かびあがらせるというアイディアは、ゴッホらとの対話をつうじて独自の自由な色彩の配し方を模索するなかから生まれたものであろう。描き方はまったく対照的ながら、フェルメールの「ターバンの少女」と並んで魅力的な若い女性の肖像と呼びたいくらいの一枚。ところで、フェルメールの肖像画もそうなのかもしれないが、キルヒナーの「フランツルの肖像」が描きとっているのは、瞬間的な表情の変化、ここでは微笑みかけるという動きである。キルヒナーは、瞬間的な動きを描きとることにつねに関心を寄せていた。実際彼は、膨大なスナップ・ショット的スケッチを残している。あるいは、「ブリュッケ」の「表現主義」とは、古典的な輪郭をはみ出してゆく動きへの関心を示すものであり、なかでもキルヒナーはその運動の瞬間を画面に定着させるために、絶えず画家としての眼のシャッター・スピードを高めようとしていた、と言うべきなのだろうか。このようなキルヒナーの瞬間への関心は、やはりベルリンという大都市における生の速度を描きとることに生かされている。今回、以前に新ナショナル・ギャラリーで見た「ポツダム広場」とともに、ブリュッケ美術館に所蔵されている「ベルリンの街路の情景」を見ることができたのは幸運だった。どちらの絵でも、往来の速度のなかに、着飾った人びとの姿が、どこか儚さを感じさせる仕方で鋭く抉り出されている。1910年代のベルリンを、それを貫く未曾有の速度とともに描きとった傑作である。このように、都市における生へを見つめる一方で、キルヒナーは自然への、その躍動への憧れを失うことはなかった。彼が生涯にわたって好んで用いた緑は、それを象徴しているのかもしれない。都市生活を描いたキルヒナーの絵のなかでその緑が見事に生かされているのが、野外のカフェに座る女性を描いた一枚。もしかするとそのカフェは、今は跡形もなく失われた共和国広場のクロルのそれかもしれない。ベルリン・ギャラリーを出て、フリードリヒ通りの駅に預けた荷物を引き取った後、現在ドイツ政府の中枢があるその共和国広場の近辺を、テーゲル空港行きのバスで通過した。シュプレーの河畔に、カメラを提げた観光客のシルエットが浮かびあがっていた。

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ベルリン旅日記:11月5日

 午前中から夕方にかけて、「美的経験の諸言語」というテーマの学会に参加する。日本の科学研究費補助金のように補助金の出る「特別研究領域」の年次集会として開催された学会である。会場は、フィルハーモニーの隣の楽器博物館のなかにあるクルト・ザックス・ホール。午前中に聴いたのは、1920年代の演劇におけるアヴァンギャルドな演劇、とりわけその舞台における台本のテクストと、マルチ・メディア的な舞台設計との結びつきを論じた発表、新聞をはじめとするマス・メディアにおける造形芸術の批評の動向と、それが自己検閲的に判断力を失っていることを批判する発表、そして音楽におけるポピュラーとクラシックの二項対立を脱構築することで現代音楽におけるアドルノの言説のヘゲモニーを打ち破ろうとする発表である。午後には、20世紀の建築史における、文学の動向や芸術運動のさまざまなマニュフェストと建築の関係について論じた講演に続いて、テクストとして書かれた舞台の理想を実際の演出において実現させようとする現代演劇の試みを論じた発表、シェーンベルク以後の音楽における、音楽の語法の設計としての作曲家の言語的なプログラムとその音楽的な実現の関係を論じた発表、そして現代のいわゆる芸術映画がさまざまな禁忌を自己検閲的に掲げるプログラムによって、芸術としての権威を獲得していることを暴き出す発表を聴いた。いずれも、芸術作品の制作とその批評の両方における、美的な経験と、テクストとして書かれる言語との関係の具体的な様相についての歴史的な記述としては興味深かったものの、理論的な掘り下げという点ではもの足りない。それにしても、批評を論じてベンヤミンの名前に一度も触れないというのはどういうことだろうか。
 学会の昼休みに、会場の近くにある新ナショナル・ギャラリーへピカソ展を見に行く。パリのピカソ美術館に所蔵されている主要な作品が展示されているということで、かなり混雑していた。実際、初期の絵から晩年の作品に至るまで、かなりの数の作品が展示されていた。「青の時代」の自画像をはじめ有名な作品も多かったが、今まで知らなかったピカソの一面を示す作品も展示されている。彼が点描を試みたことがあったとは知らなかった。具象的に人間像を彫りだす初期の作品から、過剰なまでに身体の豊饒さを強調する晩年の作品まで、ピカソの創作の足どりをたどって気づくのは、やはり彼が人間、とりわけ女性の身体を、その野生の豊かさにおいて描き出そうという試みを生涯にわたって続けていることである。20世紀を迎えてすぐにピカソは、従来の具象的な人間像が、もはや人間の身体性を表現しえなくなっていることに気づいたようだ。その後彼は、面を組み合わせることで、あるいは肉の塊を構成することで、自分が惹かれ続けた身体の「野生」に近づこうとするのである。女性の肖像画としては1920年代にピカソの妻であったオルガの肖像が印象的。あまりに美しく書かれた彼女の姿の傍らに見られる無造作な書き込みは、この絵が具象的な完結性をみずから否定しようとする身ぶりのように見える。朝鮮戦争中の1951年1月にあった虐殺事件を、ゴヤを思わせる手つきで描き残そうとする絵も忘れがたい。
 夜はコーミッシェ・オーパーへヤナーチェクのオペラ「イェヌーファ」の公演を見に行く。この作品の上演に接するのは初めてだが、今年の2月に国立歌劇場で見た「カーチャ・カバノヴァー」に続いて、歌と語りが交錯するなかで、ひとつのメロディとしての完結が絶えず否定されるヤナーチェクの音楽の緊迫感に惹きつけられる。ベルクの音楽と並んでオペラにおける、いや「オペラ」を越える音楽の可能性を示すものと言えよう。ヴィリー・デッカーの演出は、二人の男に翻弄されるなかで最初の子どもを失い、やがて新たな愛に目覚めるイェヌーファの生きざまと並んで、彼女の子どもを殺してしまう継母が強さと弱さの両方を示すさまにも光を当てている。荒涼としてシンプルな舞台のデザインも作品にふさわしいと思われる。キリル・ペトレンコの指揮するオーケストラは、実に力のこもった演奏で、心の底からの叫びと情景描写が一体となるかのような響きを聴かせていた。フォルティッシモの凄まじい強度とピアニッシモの緊張感。重要なヴァイオリンの独奏も力強い。それにしてもペトレンコという指揮者の実力は、もっと広く認められてもよいだろう。歌手のなかでは、イェヌーファを歌ったシネアド・ムルハイムと、イェヌーファの継母役を歌った、ヘドヴィヒ・ファスベンダー(ブリギッテ・ファスベンダーと関係があるのだろうか)が印象的。とりわけ後者は、継母の両面を見事に表現しきって、大きな喝采を浴びていた。ヤナーチェクのオペラの重要性を再確認できたことは、今回のベルリン滞在の大きな収穫であった。

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ベルリン旅日記:11月4日

 朝の5時半に宿を出て電車でヴァイマールへ向かう。フリードリヒ・シラーの没後200年を記念する学会に出席するためである。6時過ぎにベルリンを出て、ヴァイマールに搗いたのは9時過ぎ。何とか10時からの講演に間に合った。会場はバウハウス大学内のかつてバウハウスのアトリエとして使われていたというホール。天井が採光のためにガラス張りで、柔らかな光が入ってくる。「バウハウス」の名を冠した大学らしく、このホールがある建物以外にも、壁もすべてガラス張りの建物が並んでいる。
 講演はおもにシラーのテクストを解釈しながら、演劇の原題における可能性を論じるもの。前日に行なわれたジャック・ランシエールの講演を前提にして、それに対する応答というかたちで展開される箇所もあって、ついて行くのが難しいところもあったが、わたしにとっては現代における舞台芸術の意味と位置について考えるまたとない機会であった。シラー自身の議論のなかで彼が顕揚する「美的教育」が挫折することを示し、演劇の芸術美と教育的効果が両立しえないことを証明しながら、美的次元と、教育的ないし倫理的な次元との緊張を表現することで、自己反省的に自己形成を遂げるものとして演劇をとらえかえす講演や、世界の規範的なメカニズムないしエコノミーと主体性のあいだの深淵を開く熱狂が噴出する場として演劇を見つめなおそうとする講演など。ルソー的な一般意志のありようを批判しながら、来たるべき民主主義の可能性が示される場として演劇をとらえなおそうとする議論もあったが、その場合の聴衆あるいは大衆とは何か。あるいは、ある舞台演出を例に、俳優の演技による言語形成を論じる議論において、言語形成の場として何が考えられているのか。批評眼をもった聴衆による言語への翻訳なのか、あるいはそれを含めた演劇の舞台なのか。自問することも多い。それにしても、日本では考えられないくらい、劇作家として、美学者として、シラーが高く評価されている。
 夕方、学会の会場を出てベルリンへの帰途につく。大学近くのバス停でバスを待っていたら、一緒にバスを待っていたおばあさんが、虹が出ていると教えてくれた。見ているうちにだんだんと鮮やかな七色に変わってきた。おばあさんは、めったに見れるものではないと感嘆していた。わたしも実際に見るのは何年ぶりのことだろう。
 ほんとうはベルリンへ帰ってから、コンツェルトハウスでユン・イサンの没後10周年を記念する演奏会を聴くつもりだったのだが、ベルリンへ向かう電車が遅れてしまい、聴けずじまい。非常に残念だったが、いいかげん休め、ということかもしれない。少しCDを買ってから帰途につく。宿に着いたら、やはりまともに立っていられないくらい疲れ果ててしまっていた。

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ベルリン旅日記:11月3日

 夜のうちに雨が降ったようで、道路が濡れていたが、だんだんと晴れてきた。今日は午後にポツダム大学へ行くので、その前にいくつか用事を済ませようとフリードリヒ通りの駅へ向かう。まず、2月までのポツダム滞在の後で完成した、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人追悼記念碑」を訪れる。ブランデンブルク門のすぐ南の、かつて東ドイツの国境警備隊が地雷を敷設していた土地に造られたこのいわゆる「ホロコースト記念碑」は、ジャーナリストのレア・ロッシュが中心になって結成された市民団体が、ベルリン州政府と連邦議会を巻き込むかたちで、また学者、ジャーナリスト、芸術家、政治家の熱い議論の末に、17年をかけて実現させたものとのこと(影書房『前夜』第5号所収の梶村太一郎の論文「つまずきの石」を参照)。今やベルリンの新名所と化している。高さがどれも異なる無数の直方体の石柱がぐにゃぐにゃとした床面の上にひしめいていて、そのような石柱の森のなかに入ると何とも言えない圧迫感に襲われるのだが、子どもたちにとっては絶好のかくれんぼの場所である。走り回る子どもたちがはしゃぐ声と、それを追いかける親の叫び声があちこちで聞こえ、正直なところ静かに、犠牲となったユダヤ人たちが、すでに戦争直前の日常生活でも感じていたであろう圧迫感を身に受ながら、「ヨーロッパのユダヤ人」の虐殺とはいったい何だったのか、と考える雰囲気ではない。地下の展示を見てみようかとも思ったが、並ばないと入れない様子だったので、今回は諦める。それはともかく、この記念碑が国会議事堂の眼の前にあることは、この過去の忘却に重い楔を打ち込むものと言えよう。このような楔を政府の側も引き受けようとしている点は、忘却の進む日本の状況とやはり対照的と言わざるをえない。
 フリードリヒ通りのドゥスマンで本を買い求めた後、電車に乗ってポツダムへ向かう。ポツダム大学に着いて、今年の2月まで世話になった教授と再会し、そのゼミに顔を出した。ゼミとはいえ、ものすごい数の学生で、多くの学生は、近くの教室から椅子を持ち込んで座っていた。ヘーゲルの美学がテーマで、おもにいわゆる「芸術終焉論」を中心に、ヘーゲルによる芸術の歴史的、社会的、さらには哲学的位置づけが問題になっていた。ゼミの後は、同じゼミに出席していた、今年わたしと同じようにポツダム大学で研究している知人と再会し、ドイツでの研究生活などについて大学のカフェテリアで話をする。
 ベルリンへ帰った後、宿に荷物を放り込んでから国立歌劇場へ向かい、「白鳥の湖」の公演を見る。ヴラディミール・マラーホフが見事にジークフリートを踊っていた。堂々としていて、かつしなやかな身のこなしは、貫録さえ感じさせる。ジャンプも高く、衰えをまったく感じさせない。白鳥のオデットと黒鳥のオディーレを踊ったポリーナ・セミオノーヴァもすばらしい。オデットのときには、指先まで使って悲しみを表現していたし、またオディーレのときには実に鮮やかな踊りを見せてくれた。ジークフリートとの、一方はオデットでの、他方はオディーレでのパ・ド・ドゥはこの日の白眉であった。この二人以外の踊り手も、けっして遜色のない踊りを見せていたし、白鳥のアンサンブルも美しい。オーケストラの音色にもう少し繊細さがあれば、と思うところもあったが、重い硬質の響きは、やや粗削りなところもある「白鳥の湖」のスコアにふさわしかったのではないか。ヴァイオリンのソロも大変な力演を聴かせていた。何よりも印象的だったのは、オデットをはじめとする白鳥たちも、ジークフリートも靄に包まれた湖の底へ消えてゆき、後には陰謀を仕組んだ彼の母親の苦悩だけが残るという救いのない結末。それは、それまでの典型的なバレエの世界の華やかさをも否定するかのようであった。

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ベルリン旅日記:11月2日

 11月のベルリンとは思えない爽やかな青空の広がったのを幸いに、まずはヴァルター・ベンヤミンのベルリンでの住家を訪ねて回ることにした。最初に見つけたのは、彼が幼年時代を過ごしたクアフュルステン通り154番地の家。外壁はやや落ち着きのないピンク色に塗り直されていたが、建物そのものは当時のまま残っているようだ。1階部分が薬局として使われているが、4階建ての立派な邸宅。ここから小さなヴァルターは、召使いの女性に手を引かれながら、ティーアガルテンへ散歩に出かけたりしたのだろうか。それはともかく、この建物自体は豪奢な造りなのだが、周辺にはもうかつてのヴェステンの高級住宅街の面影はない。すぐ近くでは、トルコからの移民たちが八百屋やレストランをたくましく営んでいるし、安っぽい衣料品を売るチェーン店も建っている。
 次に訪れたのは、マグデブルク広場4番地の生家。建物は跡形もなく取り壊されてしまっていて、その後に無味乾燥な造りの集合住宅が建っている。ただその向かいには、昔からあると思われる小さな公園があった。もしかしたらその公園を、乳母車に乗せられた赤ん坊のヴァルターが、両親とともに訪れたこともあったかもしれない。今は幼稚園児たちの遊び場になっているようで、小さな子どもたちがかわいらしい遊具を使ってはしゃぎ回っていた。
 マグデブルク広場から、ベンヤミンが『1900年頃のベルリンの幼年時代』のなかで触れているベンドラー橋を渡り、日本を含めた各国の大使館が建ち並ぶヒロシマ通りを抜けて、かつて皇帝の狩り場だったベルリン市民の公園ティーアガルテンに入る。ここでは、ちょっとした森林浴も楽しみながら、『1900年頃のベルリンの幼年時代』の「ティーアガルテン」の章に書かれているベンヤミンの足跡をたどることにして、まずはフリードリヒ=ヴィルヘルム三世とその妻ルイーゼの像を探す。それらは、運河にほど近い、金網に囲われた(ウサギが逃げないように、ということらしい)一角にあったが、像そのものは意外と慎ましやかな感じである。しかし、ベンヤミンが触れているように、台座にはずいぶん凝った彫刻が施されている。とくにルイーゼ像の台座に彫られている、幾人もの男女が愛しあう神話的な情景は、小さなヴァルターの胸を高鳴らせたこともあったろう。そう言えば「ティーアガルテン」の章に、「愛」という言葉が、やがて否定されるべき想像的なものとして登場していた。
 皇帝夫妻の像のある一角を出て、戦勝記念塔へ向けて歩く。少しひんやりとした空気が心地よい。前の晩に雨がぱらついたせいか、空気がそれほど乾燥していないのも嬉しいところ。ゆっくり10分ほど歩いたら、戦勝記念塔が見えてきた。トンネルを通って塔のすぐ近くまで行き、下からけばけばしい壁画を眺めた後、再びトンネルを通って、6月17日通りに出る。ティーアガルテンの駅から電車に乗って、1912年からベンヤミン家が住んだ家のあるグルーネヴァルトへ行こう、と考えたのだ。
 15分ほど電車に乗った後、グルーネヴァルトの駅に到着する。実は、グルーネヴァルトへ行ったのは、もう一つ目的があった。この駅の17番ホームを見ることである。この17番ホームからは、1941年から1945年にかけて、おびただしい数のユダヤ人たちが、ポーランドやチェコといった当時のナチス・ドイツの占領地に造られた収容所へと「移送」されていた。今日それを忘れないために、もはや列車の発着に使われなくなったこのホームには、いつ、何人のユダヤ人が、ここからどこへ連れ去られていったのかが書かれた、金属製の銘板が並べられている。やはりヴァンゼー会議の行なわれた1942年1月以降、「移送」はだんだんと大規模になっていて、1943年には、これまで数百人までだったのが、千人以上の単位で、おもにアウシュヴィッツへと「移送」されている。この狭いホームに、行き先も、その後の運命も告げられることなく集められた千人以上もの人びとがひしめくさまは、凄まじいものであったことは想像に難くない。しかも、その後は貨物のように封印列車に詰め込まれて、そこから何日も立ったまま、飲食も排泄も許されない状態で運ばれてゆくのだ。グルーネヴァルト駅の17番ホーム、そこはかつて人間の顔が組織的に引き剥がされる場所だったのである。今はひっそりとしているそのホームに置かれた銘板の一枚に、一輪の赤いバラがたむけられていた。
 古めかしい造りの駅を出てしばらく歩くと、1912年以後ベンヤミンの家族が住んでいた家があったとされる通りにたどり着いた。今日リヒャルト・シュトラウス通りと呼ばれているその通りにあった邸宅は、第二次世界大戦中の空襲によって焼けてしまったという。残念ながら、その痕跡を探し出すことはできなかった。この近辺は昔から高級住宅街だったようで、庭も大きい豪奢な邸宅が今でも立ち並んでいて、通りにはかつてそこに住んでいたであろう名士たちの名が付けられている。シュトラウス以外の音楽家では、レオ・ブレッヒやヴィルヘルム・フルトヴェングラーといった、戦前のベルリンの顔だった指揮者の名が見られた。
 リヒャルト・シュトラウス通りをとぼとぼと歩いているうち、ブリュッケ美術館へ行ってみようと思いつく。この表現主義のための美術館を、ベルリンの中心街から離れていることもあって、今まで訪れたことがなかったのだ。そこからかなり距離があったのだが、地図を頼りに歩いて20分ほどでたどり着く。カール・シュミット=ロットルフの戦後の作品を集めた回顧展が開かれていた。キルヒナーやノルデにくらべて印象の薄い画家だったのだけれども、こうしてじっくり見ていると、今挙げた二人にはない魅力も感じ取ることができる。いくつかの風景画と静物画が気に入った。どの作品も、画家のまなざしと、対象の光彩との親密な対話によって貫かれているように思う。そして、その光彩をあたかもモティーフとなる対象そのものから発せられているかのように力強く描きとることで、対象にしっかりとした存在感をもたらしているようだ。シュミット=ロットルフは、最後まで抽象画に手を染めることはなかった。
 ブリュッケ美術館を出た後、バスと電車を乗り継いで、ザヴィニー広場の駅へ行く。その広場から伸びるカルマー通りの3番地に、ベンヤミンはギムナジウム時代に住んでいたのである。そこには、周りのモダンな建物からちょっと浮いた感じで、古い造りの邸宅が建っていた。当時の建物がそのまま残っているのだろう。どういうわけか、ここも薬に縁があって、今は薬剤関係の事務所として使われている。ここからベンヤミンは近くの学校へ通っていたのだが、だんだんと適応できなくなってしまうのである。そうして彼は、グスタフ・ヴィネケンの学校へ移り、青年運動へのめり込んでゆくのだが、そうした活動家ベンヤミンのベルリンでの足跡をたどることは、今回かなわなかった。
 付近の書店をいくつかのぞいてみた後、いったん宿へ戻り、夜はその近くにあるベルリン・ドイツ・オペラへ、クルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」を見に行く。さすがに歩き疲れたのと時差ボケが相まって、集中力を欠いてしまったのが悔やまれるが、オペラを内側から破壊しようとするこの作品の起爆力の一端を感じることはできた。カラン・アームストロングの寡婦のベグビック、ニコラ・ベラー・キャルボーンのジェニー、それにデイヴィッド・スタールという指揮者の率いる管弦楽がいずれも好演を聴かせていた。とりわけヴァイル特有の怪しげな影を含んだ響きは、そう簡単に出せるものではないだろう。マハゴニー市に近づいていたハリケーンがそれた後、享楽への欲望が噴出する際の猥雑な鮮やかさを放つ響きがとりわけ印象的だった。ギュンター・クレーマーの演出は、客席の第一列に男性の合唱団員を配して、マハゴニーへの欲望が聴衆自身の欲望でもあることを意識させながら、この理想の歓楽街の興亡を描くというもの。マハゴニーの享楽に酔う男たちすべてにミッキーマウスの面をかぶらせる一方、ドイツの国旗をモティーフにした天幕を張るあたりは、政治的なバランスへの配慮を示すものか、それとも「グローバル化」した世界における享楽の姿を描き出そうというものだろうか。あまりにも衣裳などが一律に揃えられているあたり、どうも単調な感じがして退屈するところもあったが、最後の場面ではその単調さが逆に、消費による快楽の追求が、異質な者の排除と、それによる軍隊的な画一性とに結びつくのをうまく描くのにつながっていたようにも思う。ともかく、ブレヒトとヴァイルの共同作業による最もオペラらしく見えるオペラ「マハゴニー市の興亡」によって、二人がどのように「オペラ」を内側から爆破し、それに興ずるわたしたちの生活をどのように問いただそうとしたのか、もう少し探ってみる必要があるだろう。とりわけ興味深いのは、古いナンバー付きのオペラの様式が、オペラの展開のモンタージュ映画的な非連続性と結びついている点である。ここが「マハゴニー」であることを突きつける上演は、今日どのようにすれば可能だろうか。

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