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ベルリン旅日記:11月2日

 11月のベルリンとは思えない爽やかな青空の広がったのを幸いに、まずはヴァルター・ベンヤミンのベルリンでの住家を訪ねて回ることにした。最初に見つけたのは、彼が幼年時代を過ごしたクアフュルステン通り154番地の家。外壁はやや落ち着きのないピンク色に塗り直されていたが、建物そのものは当時のまま残っているようだ。1階部分が薬局として使われているが、4階建ての立派な邸宅。ここから小さなヴァルターは、召使いの女性に手を引かれながら、ティーアガルテンへ散歩に出かけたりしたのだろうか。それはともかく、この建物自体は豪奢な造りなのだが、周辺にはもうかつてのヴェステンの高級住宅街の面影はない。すぐ近くでは、トルコからの移民たちが八百屋やレストランをたくましく営んでいるし、安っぽい衣料品を売るチェーン店も建っている。
 次に訪れたのは、マグデブルク広場4番地の生家。建物は跡形もなく取り壊されてしまっていて、その後に無味乾燥な造りの集合住宅が建っている。ただその向かいには、昔からあると思われる小さな公園があった。もしかしたらその公園を、乳母車に乗せられた赤ん坊のヴァルターが、両親とともに訪れたこともあったかもしれない。今は幼稚園児たちの遊び場になっているようで、小さな子どもたちがかわいらしい遊具を使ってはしゃぎ回っていた。
 マグデブルク広場から、ベンヤミンが『1900年頃のベルリンの幼年時代』のなかで触れているベンドラー橋を渡り、日本を含めた各国の大使館が建ち並ぶヒロシマ通りを抜けて、かつて皇帝の狩り場だったベルリン市民の公園ティーアガルテンに入る。ここでは、ちょっとした森林浴も楽しみながら、『1900年頃のベルリンの幼年時代』の「ティーアガルテン」の章に書かれているベンヤミンの足跡をたどることにして、まずはフリードリヒ=ヴィルヘルム三世とその妻ルイーゼの像を探す。それらは、運河にほど近い、金網に囲われた(ウサギが逃げないように、ということらしい)一角にあったが、像そのものは意外と慎ましやかな感じである。しかし、ベンヤミンが触れているように、台座にはずいぶん凝った彫刻が施されている。とくにルイーゼ像の台座に彫られている、幾人もの男女が愛しあう神話的な情景は、小さなヴァルターの胸を高鳴らせたこともあったろう。そう言えば「ティーアガルテン」の章に、「愛」という言葉が、やがて否定されるべき想像的なものとして登場していた。
 皇帝夫妻の像のある一角を出て、戦勝記念塔へ向けて歩く。少しひんやりとした空気が心地よい。前の晩に雨がぱらついたせいか、空気がそれほど乾燥していないのも嬉しいところ。ゆっくり10分ほど歩いたら、戦勝記念塔が見えてきた。トンネルを通って塔のすぐ近くまで行き、下からけばけばしい壁画を眺めた後、再びトンネルを通って、6月17日通りに出る。ティーアガルテンの駅から電車に乗って、1912年からベンヤミン家が住んだ家のあるグルーネヴァルトへ行こう、と考えたのだ。
 15分ほど電車に乗った後、グルーネヴァルトの駅に到着する。実は、グルーネヴァルトへ行ったのは、もう一つ目的があった。この駅の17番ホームを見ることである。この17番ホームからは、1941年から1945年にかけて、おびただしい数のユダヤ人たちが、ポーランドやチェコといった当時のナチス・ドイツの占領地に造られた収容所へと「移送」されていた。今日それを忘れないために、もはや列車の発着に使われなくなったこのホームには、いつ、何人のユダヤ人が、ここからどこへ連れ去られていったのかが書かれた、金属製の銘板が並べられている。やはりヴァンゼー会議の行なわれた1942年1月以降、「移送」はだんだんと大規模になっていて、1943年には、これまで数百人までだったのが、千人以上の単位で、おもにアウシュヴィッツへと「移送」されている。この狭いホームに、行き先も、その後の運命も告げられることなく集められた千人以上もの人びとがひしめくさまは、凄まじいものであったことは想像に難くない。しかも、その後は貨物のように封印列車に詰め込まれて、そこから何日も立ったまま、飲食も排泄も許されない状態で運ばれてゆくのだ。グルーネヴァルト駅の17番ホーム、そこはかつて人間の顔が組織的に引き剥がされる場所だったのである。今はひっそりとしているそのホームに置かれた銘板の一枚に、一輪の赤いバラがたむけられていた。
 古めかしい造りの駅を出てしばらく歩くと、1912年以後ベンヤミンの家族が住んでいた家があったとされる通りにたどり着いた。今日リヒャルト・シュトラウス通りと呼ばれているその通りにあった邸宅は、第二次世界大戦中の空襲によって焼けてしまったという。残念ながら、その痕跡を探し出すことはできなかった。この近辺は昔から高級住宅街だったようで、庭も大きい豪奢な邸宅が今でも立ち並んでいて、通りにはかつてそこに住んでいたであろう名士たちの名が付けられている。シュトラウス以外の音楽家では、レオ・ブレッヒやヴィルヘルム・フルトヴェングラーといった、戦前のベルリンの顔だった指揮者の名が見られた。
 リヒャルト・シュトラウス通りをとぼとぼと歩いているうち、ブリュッケ美術館へ行ってみようと思いつく。この表現主義のための美術館を、ベルリンの中心街から離れていることもあって、今まで訪れたことがなかったのだ。そこからかなり距離があったのだが、地図を頼りに歩いて20分ほどでたどり着く。カール・シュミット=ロットルフの戦後の作品を集めた回顧展が開かれていた。キルヒナーやノルデにくらべて印象の薄い画家だったのだけれども、こうしてじっくり見ていると、今挙げた二人にはない魅力も感じ取ることができる。いくつかの風景画と静物画が気に入った。どの作品も、画家のまなざしと、対象の光彩との親密な対話によって貫かれているように思う。そして、その光彩をあたかもモティーフとなる対象そのものから発せられているかのように力強く描きとることで、対象にしっかりとした存在感をもたらしているようだ。シュミット=ロットルフは、最後まで抽象画に手を染めることはなかった。
 ブリュッケ美術館を出た後、バスと電車を乗り継いで、ザヴィニー広場の駅へ行く。その広場から伸びるカルマー通りの3番地に、ベンヤミンはギムナジウム時代に住んでいたのである。そこには、周りのモダンな建物からちょっと浮いた感じで、古い造りの邸宅が建っていた。当時の建物がそのまま残っているのだろう。どういうわけか、ここも薬に縁があって、今は薬剤関係の事務所として使われている。ここからベンヤミンは近くの学校へ通っていたのだが、だんだんと適応できなくなってしまうのである。そうして彼は、グスタフ・ヴィネケンの学校へ移り、青年運動へのめり込んでゆくのだが、そうした活動家ベンヤミンのベルリンでの足跡をたどることは、今回かなわなかった。
 付近の書店をいくつかのぞいてみた後、いったん宿へ戻り、夜はその近くにあるベルリン・ドイツ・オペラへ、クルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」を見に行く。さすがに歩き疲れたのと時差ボケが相まって、集中力を欠いてしまったのが悔やまれるが、オペラを内側から破壊しようとするこの作品の起爆力の一端を感じることはできた。カラン・アームストロングの寡婦のベグビック、ニコラ・ベラー・キャルボーンのジェニー、それにデイヴィッド・スタールという指揮者の率いる管弦楽がいずれも好演を聴かせていた。とりわけヴァイル特有の怪しげな影を含んだ響きは、そう簡単に出せるものではないだろう。マハゴニー市に近づいていたハリケーンがそれた後、享楽への欲望が噴出する際の猥雑な鮮やかさを放つ響きがとりわけ印象的だった。ギュンター・クレーマーの演出は、客席の第一列に男性の合唱団員を配して、マハゴニーへの欲望が聴衆自身の欲望でもあることを意識させながら、この理想の歓楽街の興亡を描くというもの。マハゴニーの享楽に酔う男たちすべてにミッキーマウスの面をかぶらせる一方、ドイツの国旗をモティーフにした天幕を張るあたりは、政治的なバランスへの配慮を示すものか、それとも「グローバル化」した世界における享楽の姿を描き出そうというものだろうか。あまりにも衣裳などが一律に揃えられているあたり、どうも単調な感じがして退屈するところもあったが、最後の場面ではその単調さが逆に、消費による快楽の追求が、異質な者の排除と、それによる軍隊的な画一性とに結びつくのをうまく描くのにつながっていたようにも思う。ともかく、ブレヒトとヴァイルの共同作業による最もオペラらしく見えるオペラ「マハゴニー市の興亡」によって、二人がどのように「オペラ」を内側から爆破し、それに興ずるわたしたちの生活をどのように問いただそうとしたのか、もう少し探ってみる必要があるだろう。とりわけ興味深いのは、古いナンバー付きのオペラの様式が、オペラの展開のモンタージュ映画的な非連続性と結びついている点である。ここが「マハゴニー」であることを突きつける上演は、今日どのようにすれば可能だろうか。

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マンハイムで偶然に第二帝國時代風の集合住宅を見つける。建造年月日や目的などは定かではないが、構造といいその佇まいといい典型的なものであろう。道路側から一見すると一般的な多くの住居と変わりない。北側は、壁が白く塗られて整備されているから、昔の面影は無いので気が付かないのである。たまたま南側の車庫の場所に空間が開いていて、中庭から覘く様な感じで見る事が出来た。 このような建造物は、ベルリンからザクセンにかけ�... [続きを読む]

受信: 2005年12月19日 (月) 04時54分

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