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熊野純彦『差異と隔たり』

 まだその一部を拾い読みしたにすぎなかった熊野純彦の論文集『差異と隔たり──他なるものへの倫理』(岩波書店)を再読した。労働の産物のみならず自己の生命も「所有」の対象であり、人間はそれに対する自己決定権を有するという「私的所有論」、歴史とは出来事が終わった後で物語られるものであり、物語る現在の視点から──過去が実際どうであったかにかかわりなく──構成されるところにあるとする反実在論的な「歴史の物語り論」、そして言語とはすでにある記号どうしの差異の体系であり、言葉を話すとはその体系を織りなすコードに従属することにほかならないという「記号論的」で「静態的」な言語論のそれぞれに、レヴィナス他者論の視点から楔を打ち込もうとする熊野の議論は、現在自己の身体と生命、自己の来歴ともなる歴史、そしてみずからが語る言語に関して、それらを手にすることが必然的に孕むはずの他者との関係へのまなざしを欠いた、ある主体の一方的な決定と操作だけがものを言うかのような現在の状況にも切り込もうとするものであるばかりではない。その議論は何よりも、死に抗って生命を自己につなぎ止めること、過ぎ去ったことを想起し、語り出そうとすること、そして言葉を語ることそれ自体のうちに、自己とは絶対的に隔たった他者への回路を穿つことによって、それらのいとなみをより根源的な次元へ立ちかえらせ、そこに他者とのあいだにある倫理を考える余地を切り開こうとするものであるように思われる。
 熊野は「所有する」ことを主題化するにあたり、まず「所有する」ことそれ自体を可能にする原初的な、ある意味では当然至極な条件を浮かびあがらせている。その条件とは、「私は、私にいくらかは近しいが、私そのものではない対象だけを、私のものとして所有することが可能である」、というものである。この「私にいくらかは近しいが、私そのものではない対象」として今日クローズ・アップされているのが「身体」ということになろうが、熊野によれば、「身体を自己所有の対象と考えるとき、ひとはなぜか、身体が病んで、痛みに苦しみ、老い、やがて死んでゆくことを忘れはててしまっているかにおもわれる」。身体が病むときにこそ、それをあらためて自分のものにすることが痛切に問題となるはずなのに。しかも、その身体は、労働においては他者と「間身体的」に機能し、それ自体として他者に触れられる対象である。そればかりか、とくに病に苦しむとき、身体はそのさまざまな欠乏を、他者に配慮してもらわなければならない。
 このような身体の「自己所有」の不可能性が最もラディカルに浮かびあがるのは、やはり自分が死ぬときである。所有とは死を先送りする努力であるが、それは最終的には先送りできない。しかも、その死はけっして「私」に現前することなく、所有を擦り抜けてゆく。「私の死亡をたしかめ、私の生じたいを閉じることができるのは、他者にかぎられる」のである。そして、死の対極にある自己の生誕もまた、所有の彼方にある不可能な「贈与」の出来事なのだ。そのことを見つめなおすとき、身体として存在することに由来するさまざまな欠乏を埋め、死を繰り延べようとする「所有」一般の努力を、またそれをつうじて自分が生き存えることそれ自体を、自分の手をつねに逃れてゆく他者との倫理的な関係において問いなおすことが要請されるのである。
 さて、熊野は、いわゆる「過去の想起説」にもとづく「歴史の物語り論」を検討するに際し、その「想起説」自体のうちに、それが排除しようとする「過去としての過去」がひそかに回帰しているのに着目している。想起が、たんなる想像ではなく、まさに「想起」であると自己を了解するところに、「過ぎ去ったものそれ自体が、亡霊のように」回帰し、「想起が過去を定義する」という主張を侵食しているのである。それゆえ、その始まりにおいて「喪の儀礼そのものとむすんだ〈追憶〉にほかならない」歴史の物語りは、「それ自体としては反復不可能で、現在へと回収不可能な生」であるような過去を繰り返し物語るいとなみであるばかりでなく、そのような過去が、「遙かな差異そのままに、私の現在にかかわってくる」ところから始まるものなのではないだろうか。隔絶した過去がそのようなものとして現在に食い込んでくるところ、またそれに「無関心であることができない」ところに歴史は始まる。とすれば、その物語りはけっして完結することはありえないし、見せかけの完結はつねに欺瞞であろうことになろう。歴史をいくつかの一貫した筋立てに解消しようとするある種の「物語り論」が見すごしかねないこうした論点を、熊野は指摘しているのである。
 けっして現在に回収できない過ぎ去ったものが現在を侵食しているのに遭遇し、それに対して無関心でいられないとき、現在は他者の痕跡の場と化す。熊野によると、その痕跡はけっして癒えることのない「傷痕としての過去」を回帰させるものとして、現在の外部から予測しえないかたちで到来し、現在を、またそのリアリティを構成している来歴の物語を根底から揺さぶるのである。ベンヤミンは、その「物語作者」のうちに「死は、物語作者が報告しうるすべてを承認する」と書きつけるとき、その「承認」のうちにこうした現在の動揺を見て取ってはいなかっただろうか。だからこそ彼は「無意志的記憶」に注目し、現在と過ぎ去ったことが遭遇する恣意的でない瞬間に歴史の構成が始まると述べることができたのではないだろうか。それはさておき、熊野の議論によって、現在が過ぎ去った他者の痕跡の場と化す今こそが歴史そのものの原点であることが明らかになったとすれば、彼が述べているように、そうした他者への「祈り」を含んだ、新たな歴史の物語りのありようが問われなければならないことになろう。熊野は、そのような問題意識を、ここでは言語への問いに接続させている。  熊野は、今日ともすればあまりにも規範的ないし記号論的に取り押さえられがち言語のうちに他者と応えあう回路を開き、言語をめぐる経験の深みを計測するために、まずレヴィナスが取り出した言語における「語ること」と「語られたこと」の区別とも重なるような言語の両義性を指摘している。「言語がこの私よりも前に存在し、私はすでに存在する語と規則を用いてなにごとかを語りだす以上、すべてはかつてすでに繰り返し語られたものである。他方では、私がいま特定の状況で、特定のことばによって、現前する他者にたいしてなにかを伝えようとするかぎり、いっさいはいまだ語られたことがないはずなのだ」。発話の「繰り返し語られたもの」を反復するという側面ばかりを強調するなら、言語がつねに他者へ向けて語られることが見すごされてしまう。そして、この点に注目するなら、「ことばを習いおぼえたばかりの子どもであれ、既成的なコードにほとんど搦めとられてしまっているかにみえるおとなであれ、ひとは、発話の連鎖を継続しようとするそのつど、ことばが生まれようとする現場に立ちあうことができる」ことが確認されるのである。  ここにあるのは、熊野に言わせれば、他者とのあいだにある一般性へ向けた言語の生成である。一個の名詞を言挙げることであっても、言葉を語るとはつねに、他者との関係を更新するような呼びかけと贈与を含んだかたちで、「いまだかつて語られたことのないもの」を語り出すことなのである。そのような経験とともにある言語の本質を体現しているのが、熊野によれば「固有名」にほかならない。「固有名」は、言語が何ごとかを語る前に他者への呼びかけであることを示しているのである。「他者に呼びかけるために、まず発せられる固有名は、その意味では、ことばそのものの原型をかたどっているといわなければならない。呼びかけとしての固有名、特定の他者を呼び止めるための表現は、文法的な品詞としての固有名にさきだって、言語それ自体を可能にしているのである」。このような洞察は、言語の本質を「名」のうちに見て取ったベンヤミンの思考の消息を思い起こさせずにおかない。  熊野によれば、固有名のように呼びかけられる言葉は、同時に「あてどない祈り」である。それが、一つの言葉として他者に届く保証はどこにもないのだ。にもかかわらず、今ここにいる自分は、自分がけっして立つことのできないそこへ言葉を届けようとする。届かなければ届かないほど、その欲望は増大することさえある。それは何よりも、自己と他者のあいだに埋めることのできない隔たりがあるからである。他者はつねに言葉を擦り抜けてゆくし、また言葉を語ろうとするとき、他者がつねに先に呼びかけていて、言葉はそれにけっして追いつくことができないのだ。「世界の移ろいと揺らぎは、なまえを与えられぬままに生起し、ほどなく消え去ってゆく」こと、そして他者の呼びかけに応えようとするときにそこにあるのは、もはや取り戻しようもなく過ぎ去った他者の痕跡でしかないこと。これが言葉を語ることを不可能にしながら可能にし、さらには衝き動かしているのだ。言語をめぐるベンヤミンの思考を「世界の受難史」に応ずるアレゴリーへ差し向けたのとおそらくは同じこのような洞察に、他者に応答し、そして呼びかける言語のありようを問う熊野の思考は達しているのである。そしてその到達点こそ、彼にとっては他者とのあいだにあるべき倫理的関係を主題化する思考の出発点なのであろう。

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