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高橋哲哉『国家と犠牲』

 わたしが今ここに生きていることはけっして正当化されえない。ここに場所を占めるとは、他者たちから生きる場所を奪うことであり、今何かを食べて命をつなぐとは、他の生きものを殺すことであり、さらにはそれをもとに作られた食べものを用意してくれる他者たちを搾取することでもありえよう。わたしがその立場に立つことのできない他者は、時にこうした自己保存の暴力を問いただす者としてわたしの眼前に立ち現われてくる。そして、たとえその他者の問いかけに真摯に応えようとしたとしても、わたしは他者の立場に立つことはできない以上、その他者に対する責任を果たしきることはできないし、またその他者に対する責任を引き受けるなら、わたしはそれ以外の他者たちとの関係をやはり暴力的な仕方でなおざりにせざるをえない。このこともまた、けっして正当化されえないのだ。わたしはその暴力を問いただす他者の呼びかけに再び応えなければならない。
 このように考えるとき、わたしはそれぞれ特異な他者たちに普遍的に応えることをまだあきらめてはいない。そしてカントはすでに、特異な他者たちに普遍的に応えようとする行為へ一歩を踏み出そうとするところに、「理性的存在者」としての「人間」の「自由」と、「道徳的」でありうる希望とを見ていたのではなかったか。あるいはレヴィナスは、わたしが特異な他者に対して「無関心でいられない」ときにわたしのうちに開かれる「応答可能性」のうちに、「根源的社会性」を見届けるとともに、ラディカルな「平和」の可能性を見て取っていたのではないだろうか。
 とはいえ、このようにそれぞれ特異な他者たちとの関係のなかでけっして正当化されえない仕方で生きるとは、たしかに厳しいことであり、割り切れないことではある。カントが「道徳的」であろうとする「理性的存在者」であるにつきない「人間」の深層に「根源悪」として見て取っていたように、今ここに生きている──社会的にお仕着せられたものであるはずの──自分を、あまりにも性急な「最終的解決」によって正当化したい欲望が、人びとのなかでうごめいていることもまた否定できない。そして、他者が自分のための「犠牲」になることを自分のために神聖化し、それによってもたらされる他者の悲惨を覆い隠し、疑似的な「最終的解決」を今生きている者たちのなかにもたらすレトリックとして絶えず持ち出されるのが、「犠牲の論理」にほかならない。それは「論理」であり、「レトリック」である。自己正当化の論理として首尾一貫性を追求するかぎりでは、それは「論理」であろう。しかし、それはつねに他者の悲惨を隠蔽しながら虚構の「われわれ」をつくり出し、その「われわれ」を説得する「レトリック」なのだ。このようなレトリックとしての「犠牲の論理」は、第二次世界大戦のあいだには「ユダヤ人問題の最終的解決」をもたらそうとする、いわゆる「ホロコースト」──この語はかつてユダヤ教の「犠牲」そのものを表わしていた──を引き起こしたし、今でも「国家」とその「国民」の自己保存のための「尊い犠牲」を産み出し続けている。
 このように「自己」正当化のレトリックとして今なお機能し続ける「犠牲の論理」の構造を、「生け贄」の「神聖化」(サクリファイス)というその宗教的起源から解き明かすとともに、その論理が「国家」を束ねていること、とりわけ軍隊をもつ近代国家を「国民国家」として構成していること、そしてその点で「犠牲の論理」が、日本も含め世界じゅうに遍在しているのを明快に示しているのが、高橋哲哉の近著『国家と犠牲』(NHKブックス)である。この著書は、思想書としては空前のベストセラーとなった彼の『靖国問題』(ちくま新書)のバックボーンをなしている思想を、より広いコンテクストで展開させることによって、悲惨な戦場での兵士たちの無惨な戦死からその悲惨さも無惨さも拭い去り、戦死を神聖で崇高な死に変え、非業の死を遂げる兵士を送り出してまで押し進めた侵略戦争の責任の所在を隠蔽しながら、兵士の遺族の感情を慰撫するばかりでなく、国民を「名誉の戦死」へ駆り立てていった「靖国の論理」がいかに根深いものであるかを読者に突きつけている。「自衛」の軍隊による「テロ対策」や「安全保障」を訴えるなら、すでに他の人びとを殺し、また他の人びとのために殺されるための人間の集団を作るという不正に手を染めながら、その不正を隠蔽する「犠牲の論理」を生きてしまうことになるし、「靖国の論理」で戦死者の「平和と繁栄のための尊い犠牲」を語る首相のもとで、その「自衛」への国民への動員を可能にするような政治が押し進められるのを容認するならば、自分自身が死へ向けて動員されることを同時に容認してしまうことになる。「犠牲の論理」とは、他者への不正を一方的に正当化し、他者への暴力を恒常化しながら、ひとりひとりを死へと駆り立て、そうしてある虚構の「われわれ」の自己保存を図るレトリックにほかならない。それは今ここに生きているわたしたちをいつでも虜にしかねないのだ。たとえ宗教的なよりどころをもっていたとしても、その宗教自体が──かつて聖なる生け贄を神に捧げていたものとして、あるいは語源的に人びとを束ねるものとして──「犠牲の論理」を含みもっているかぎりは、国家による犠牲の論理に巻き込まれかねない。高橋は、「殉国即殉教」を説いてみずから「靖国の論理」との共犯関係に身を置いた日本のキリスト者のことを取り上げるとともに、長崎への原爆投下によって殺された浦上地区の人びとを戦争終結のための「尊い犠牲」とし、原爆投下自体を「神の摂理」と神聖化することで、無差別殺戮をもたらした原爆投下の責任ばかりでなく、それを招いた天皇をはじめ日本国家中枢の責任をも隠蔽してしまったカトリック教徒永井隆の言説にも、鋭い分析を加えているのである。
 では、「犠牲の論理」の外部はあるのだろうか。高橋はデリダの『死を与える』を引きながら、「人は絶対的犠牲から逃れられない」、「他の他者を、他の他者たちを犠牲にすることなしには、ある他者への呼びかけ、要求、責務、それどころか愛に対しても応えられない」、と述べている。この「絶対的犠牲」がある構造の内部で、決断しなければならないのだ。そのことは何も、犠牲なき国家や社会がありえないことを意味しない。特異な他者に普遍的に応えようとすること、それは同時にあらゆる犠牲の廃棄という「不可能なもの」を欲望することである。その欲望にもとづいて、現実に犠牲なき国家や社会を目指してゆくことができるのである。それが具体的にどのように他者およびその他の他者たちに対する責任を引き受けて倫理的な決断を下すことでありうるのか、どのような実践でありうるのかは、『国家と犠牲』の最終章だけでは、今ひとつ明らかではない。おそらくそうした問題の考察にはもう一書が必要であろうし、またその問題は読者自身に課せられた問題でもあろう。
 高橋によると、魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を呼び覚ますとともに、魯迅自身、そうした犠牲にもとづく「人食い」の社会のなかで生きてきたことに絶望している。わたしたちも、自分自身が「人食い」の社会に生きていることに戦慄を覚えるところから始めなければならないのかもしれない。高橋哲哉の『国家と犠牲』は、そのきっかけに満ちているばかりでなく、わたしたちのなかに「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせる思考の可能性も示している。それは、犠牲の外部を目指す責任ある生への問いを呼び起こす書物なのである。

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