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クナッパーツブッシュのベートーヴェン

 マエストロ・シャイセ。ドイツ語を少しでも知っている人にしてみれば、どうしようもなく品のない称号であるが、ルーペルト・シェトレの『指揮台の神々(原題は「燕尾服を着た神々」)』(喜多尾道冬訳、音楽之友社)を読むと、ハンス・クナッパーツブッシュという指揮者のことをこう呼びたくなってしまう。彼は、ことあるごとに「クソッ(シャイセ)!」という罵りの言葉を、オーケストラの楽員に、歌手に、ときには自分自身に、それも大声で投げつけていたとか。人前で自分に「クソッ!」と言えるあたり、この指揮者の大きさを物語っている。彼は、オーケストラのメンバーをはじめ他の音楽家に対等の同僚として接することができたし、またこの同僚たちに自分の過ちをはっきりと認めるだけの度量を持ち合わせていたのである。そして、シェトレの記述が教えてくれるのは、この愛すべきマエストロ・シャイセが、虚栄心に縁がなく、繊細な優しさに富んだ、そして襟にいつも白いクチナシを差すような洒落っ気をもった──その意味でも今ではお目にかかれない──紳士であったことである。
 さて、最近このマエストロ・シャイセがベートーヴェンのいくつかの交響曲を指揮した演奏のライヴ録音を集めた、ちょっと怪しげな雰囲気のCD(Andoromeda: ANDRCD 5017)が発売されたので、怖いもの見たさ半分に購入してみた。怖いもの見たさ、というのは、かつて巨大なスケールと人を食ったようなユーモアを兼ね備えた第8交響曲の演奏を聴いたことがあるからである。そのとき何よりも驚かされたのは、クナッパーツブッシュが、みずからの音楽の大きさをすみずみまで、その精神において掌握していることである。
 今回聴いた演奏のなかで最も感銘深かったのは、第2交響曲の演奏である。推進力が漲るなかに垂直的な響きの広がりを示す第1楽章も、恐ろしいまでのユーモアを聴かせるフィナーレも実に印象的だったのだけれども、とりわけ惹きつけられたのは緩徐楽章である。クナッパーツブッシュは、第2交響曲のラルゲットを心から愛していたのだ。そしてこのブレーメンでの演奏で彼は、命を賭けてそのしみじみと温かな歌のうちに永遠を現出させようとしている。最後に主題が回帰するとき、彼はただでさえ遅いテンポを一段と落として、その歌が天上に永遠にたゆたうかのように聴かせているのである。このような「芸」を、現代の指揮者から聴くことはできまい。
 ほかの演奏では、やはり「エロイカ」交響曲の演奏が、クナッパーツブッシュの個性を最もよく表わしているのかもしれない。葬送行進曲の楽章では、巨大な空間のなかに、ベートーヴェンが楽譜に込めた叫びが抉り出されてくる。フィナーレの変奏曲を聴くと、巨人のやや不器用な百面相を見るような思いがする。
 これらの演奏の3年ほど前のミュンヘンでの第7交響曲の演奏は、けっして遅くないテンポの実に剛毅な演奏である。何も奇をてらうことなく、引き締まった、それでいて響きが貧しくなることのない造形美のなかに、充実した内容を織り込んだやや辛口の名演奏。クナッパーツブッシュのもう一つの顔を示すものかもしれない。
 それにしても、このマエストロ・シャイセのように、巨大な響きの空間を掌握しながら、確信犯的な「芸」と音楽そのものの内容をぴたりと合致させる手腕をもった指揮者は、かつて現われなかっただろうし、これからも現われることはないだろう。そしてとりわけ今日では望むべくもあるまい。そうしたことを、今回クナッパーツブッシュのベートーヴェンをいくつか聴きながら痛感せざるをえなかった。
 もう一つ、これらのライヴ録音を聴いて感じられたのは、クナッパーツブッシュが実に無造作にバトンを振り下ろしていることである。だからアンサンブルにはあちこち傷もあるのだが、彼はそのような何の気取りもない指揮ぶりで、あれほど奥行きの深い世界を現出させることができるのである。これもマエストロ・シャイセの「芸」の凄みであろう。

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