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2005年9月

高橋哲哉『国家と犠牲』

 わたしが今ここに生きていることはけっして正当化されえない。ここに場所を占めるとは、他者たちから生きる場所を奪うことであり、今何かを食べて命をつなぐとは、他の生きものを殺すことであり、さらにはそれをもとに作られた食べものを用意してくれる他者たちを搾取することでもありえよう。わたしがその立場に立つことのできない他者は、時にこうした自己保存の暴力を問いただす者としてわたしの眼前に立ち現われてくる。そして、たとえその他者の問いかけに真摯に応えようとしたとしても、わたしは他者の立場に立つことはできない以上、その他者に対する責任を果たしきることはできないし、またその他者に対する責任を引き受けるなら、わたしはそれ以外の他者たちとの関係をやはり暴力的な仕方でなおざりにせざるをえない。このこともまた、けっして正当化されえないのだ。わたしはその暴力を問いただす他者の呼びかけに再び応えなければならない。
 このように考えるとき、わたしはそれぞれ特異な他者たちに普遍的に応えることをまだあきらめてはいない。そしてカントはすでに、特異な他者たちに普遍的に応えようとする行為へ一歩を踏み出そうとするところに、「理性的存在者」としての「人間」の「自由」と、「道徳的」でありうる希望とを見ていたのではなかったか。あるいはレヴィナスは、わたしが特異な他者に対して「無関心でいられない」ときにわたしのうちに開かれる「応答可能性」のうちに、「根源的社会性」を見届けるとともに、ラディカルな「平和」の可能性を見て取っていたのではないだろうか。
 とはいえ、このようにそれぞれ特異な他者たちとの関係のなかでけっして正当化されえない仕方で生きるとは、たしかに厳しいことであり、割り切れないことではある。カントが「道徳的」であろうとする「理性的存在者」であるにつきない「人間」の深層に「根源悪」として見て取っていたように、今ここに生きている──社会的にお仕着せられたものであるはずの──自分を、あまりにも性急な「最終的解決」によって正当化したい欲望が、人びとのなかでうごめいていることもまた否定できない。そして、他者が自分のための「犠牲」になることを自分のために神聖化し、それによってもたらされる他者の悲惨を覆い隠し、疑似的な「最終的解決」を今生きている者たちのなかにもたらすレトリックとして絶えず持ち出されるのが、「犠牲の論理」にほかならない。それは「論理」であり、「レトリック」である。自己正当化の論理として首尾一貫性を追求するかぎりでは、それは「論理」であろう。しかし、それはつねに他者の悲惨を隠蔽しながら虚構の「われわれ」をつくり出し、その「われわれ」を説得する「レトリック」なのだ。このようなレトリックとしての「犠牲の論理」は、第二次世界大戦のあいだには「ユダヤ人問題の最終的解決」をもたらそうとする、いわゆる「ホロコースト」──この語はかつてユダヤ教の「犠牲」そのものを表わしていた──を引き起こしたし、今でも「国家」とその「国民」の自己保存のための「尊い犠牲」を産み出し続けている。
 このように「自己」正当化のレトリックとして今なお機能し続ける「犠牲の論理」の構造を、「生け贄」の「神聖化」(サクリファイス)というその宗教的起源から解き明かすとともに、その論理が「国家」を束ねていること、とりわけ軍隊をもつ近代国家を「国民国家」として構成していること、そしてその点で「犠牲の論理」が、日本も含め世界じゅうに遍在しているのを明快に示しているのが、高橋哲哉の近著『国家と犠牲』(NHKブックス)である。この著書は、思想書としては空前のベストセラーとなった彼の『靖国問題』(ちくま新書)のバックボーンをなしている思想を、より広いコンテクストで展開させることによって、悲惨な戦場での兵士たちの無惨な戦死からその悲惨さも無惨さも拭い去り、戦死を神聖で崇高な死に変え、非業の死を遂げる兵士を送り出してまで押し進めた侵略戦争の責任の所在を隠蔽しながら、兵士の遺族の感情を慰撫するばかりでなく、国民を「名誉の戦死」へ駆り立てていった「靖国の論理」がいかに根深いものであるかを読者に突きつけている。「自衛」の軍隊による「テロ対策」や「安全保障」を訴えるなら、すでに他の人びとを殺し、また他の人びとのために殺されるための人間の集団を作るという不正に手を染めながら、その不正を隠蔽する「犠牲の論理」を生きてしまうことになるし、「靖国の論理」で戦死者の「平和と繁栄のための尊い犠牲」を語る首相のもとで、その「自衛」への国民への動員を可能にするような政治が押し進められるのを容認するならば、自分自身が死へ向けて動員されることを同時に容認してしまうことになる。「犠牲の論理」とは、他者への不正を一方的に正当化し、他者への暴力を恒常化しながら、ひとりひとりを死へと駆り立て、そうしてある虚構の「われわれ」の自己保存を図るレトリックにほかならない。それは今ここに生きているわたしたちをいつでも虜にしかねないのだ。たとえ宗教的なよりどころをもっていたとしても、その宗教自体が──かつて聖なる生け贄を神に捧げていたものとして、あるいは語源的に人びとを束ねるものとして──「犠牲の論理」を含みもっているかぎりは、国家による犠牲の論理に巻き込まれかねない。高橋は、「殉国即殉教」を説いてみずから「靖国の論理」との共犯関係に身を置いた日本のキリスト者のことを取り上げるとともに、長崎への原爆投下によって殺された浦上地区の人びとを戦争終結のための「尊い犠牲」とし、原爆投下自体を「神の摂理」と神聖化することで、無差別殺戮をもたらした原爆投下の責任ばかりでなく、それを招いた天皇をはじめ日本国家中枢の責任をも隠蔽してしまったカトリック教徒永井隆の言説にも、鋭い分析を加えているのである。
 では、「犠牲の論理」の外部はあるのだろうか。高橋はデリダの『死を与える』を引きながら、「人は絶対的犠牲から逃れられない」、「他の他者を、他の他者たちを犠牲にすることなしには、ある他者への呼びかけ、要求、責務、それどころか愛に対しても応えられない」、と述べている。この「絶対的犠牲」がある構造の内部で、決断しなければならないのだ。そのことは何も、犠牲なき国家や社会がありえないことを意味しない。特異な他者に普遍的に応えようとすること、それは同時にあらゆる犠牲の廃棄という「不可能なもの」を欲望することである。その欲望にもとづいて、現実に犠牲なき国家や社会を目指してゆくことができるのである。それが具体的にどのように他者およびその他の他者たちに対する責任を引き受けて倫理的な決断を下すことでありうるのか、どのような実践でありうるのかは、『国家と犠牲』の最終章だけでは、今ひとつ明らかではない。おそらくそうした問題の考察にはもう一書が必要であろうし、またその問題は読者自身に課せられた問題でもあろう。
 高橋によると、魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を呼び覚ますとともに、魯迅自身、そうした犠牲にもとづく「人食い」の社会のなかで生きてきたことに絶望している。わたしたちも、自分自身が「人食い」の社会に生きていることに戦慄を覚えるところから始めなければならないのかもしれない。高橋哲哉の『国家と犠牲』は、そのきっかけに満ちているばかりでなく、わたしたちのなかに「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせる思考の可能性も示している。それは、犠牲の外部を目指す責任ある生への問いを呼び起こす書物なのである。

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言語論二題

 先週から今週にかけて、二冊の言語論を読み終えた。もっともそのうちの一冊は、言語論というよりはむしろ詩学と呼んだほうがよいのかもしれないけれども。
 一冊は、以前から気になっていた管啓次郎の『オムニフォン──〈世界の響き〉の詩学』(岩波書店)である。表題が示すとおり、彼が翻訳してきた詩や小説についての文学論的なエッセイが集められた著作であるが、その至るところに鋭い言語論的洞察がちりばめられていて、わたしにとってはどちらかというとそちらのほうが興味深い。とはいえ、文学論としても面白く読めたことは確かで、とりわけフェルナンド・ペソア論は、彼がさまざまな異名で書いた実際の詩作品がいくつも載せられていたこともあって、実に魅力的であった。この詩人の重要性、そしてその詩の魅力を詩的に伝えてくれる文章である。そして、その末尾に管が置いている、「自分であることは牢獄」と歌う「私は逃亡者」という詩は、異名の詩人ペソアの詩作そのものを歌うものであると同時に、管自身の思索のモットーであろう。
 ところで、言語論として興味深いのはまず、「オムニフォン」という言語に対する態度を論じた冒頭のエッセイである。「近代」の顔を示すものとして1492年という年号を呈示する発想も示唆に富むが、それ以上に、この年から本格的に始まることになる植民地主義的「近代」の力によって、アフリカの海岸から引き剥がされ、カリブ海の島々に連れられて来たディアスポラの人びとが産み出してきた、そして今も産み出されつつあるクレオール言語を媒体として文学作品を書いている作家たちが、みずからを「世界の響き」に育てあげようとしていることを論じているあたりがやはり注目に値しよう。
 管によると、クレオール言語で書くということは、異質な言葉たちが隣り合い、ぶつかりあう多島海に身を置くことである。そうすることで、カリブ海の作家たちは、それら異質な諸言語のどれもが、世界の豊饒さを受けとめるのになくてはならないことを洞察したのだ。「世界の多様性は、世界のすべての言語を必要とする」。そして、言語の群島の作家たちは、一つの言語で語るときに、他のすべての言語がかたわらに佇んでいることも意識している。管に言わせれば、「オムニフォン」とは、そのようにして「あらゆる言葉が同時に響きわたる言語空間で生きる」こと、またその「決意」なのである。それにもとづいて、「理解できない言葉の不透明性をうけいれ、それに耐えつつ、それを尊重し、その来歴を想像し、新たな「列島」を構成しうる可能性を探ろう」とすること、これは「アングロフォン」の資本主義が世界を覆いつつある状況と同時に、日本の列島を一つの「日本語」ないし「国語」という虚像が包もうとしている状況に対抗するかたちで、今まさに試みられなければならないことだろう。そのことはむろん、管自身が指摘しているように、数えることのできる個々の言語や方言を尊重することではない。むしろ、それらの言語の閉鎖性ないし排他性を解体して、そこにある響きを、さまざまな言語のあいだで聴き出そうとすることである。では、それを具体的にどのように実践しうるのだろう。多和田葉子の行き方はその実践の一つの方向性を示すものかもしれないが、これは他人任せにしてよいことではなく、今ここで語るわたし自身の問題である。
 もう一つ言語論として面白かったのが、「エコソフィア」の詩人たちとともにヤキ族の詩的言語を論じた「花、野、世」である。そこで管は、その詩的言語がそれ自体一つの「殺し」であると同時に、それが生きてゆくための現実の「殺し」を思い出させつつ、殺されたものの再生を祈るものであることに触れている。その指摘は、言語自体の暴力性とともに、その自己言及性、さらにはその詩的な表現力を思い起こさせる。語ることは、語られるものを殺すことであるが、まさにこの殺害によって、語られるものを甦らせることもできるのである。
 このように管の言語論はさまざまな示唆に富むとはいえ、あとがきに代えて置かれた「島と翻訳」というエッセイに含まれているベンヤミン批判は、やはり看過するわけにはいかない。そこで管は、「翻訳者の課題」でベンヤミンが導入している「純粋言語」の概念に対して、「そんな唯一の、真理の、沈黙の純粋言語がありうると考える」というのには「とても賛成できない」と述べている。「徹底的にローカルな言語質の群れの上に、そんな純粋言語のレベルを想定すること自体に、ぼくは反発を覚える。それは大陸の、どこかに中心と頂点をもたずにいられない「帝国」の発想だ」、というのである。とはいえ、そのように管が断言するときに忘れられているのは、ベンヤミンが、この「純粋言語」が取り戻しがたく失われているところ、すなわちバベル以後の状況を直視するところから、「翻訳者の課題」の議論を始めていることである。「多くの言語をひとつの真の言語に積分するというモティーフ」をもって翻訳者が翻訳を行なったとしても、けっして「純粋言語」に達することはできないし、また翻訳者がみずからの課題として遂行すべきとされる諸言語の「補完」とは、実のところ、「文字どおり」翻訳することでそれぞれの言語のうちに不協和をもたらし、その言語を動揺させ、他の言語と響きあう可能性へ向けて、「英語」、「ドイツ語」と数え上げうる言語を解体してゆくことである。とすれば、「多くの言語をひとつの真の言語に積分する」とは、あらゆる言語が、その「近代」的な桎梏を突破しながらモザイク状に響きあう、それこそ「オムニフォン」的な言語のありようを目指すものなのではないだろうか。それに、「純粋言語」の概念をただ「帝国」的なものとして打ち捨ててしまうことは、その概念をもってベンヤミンが語ろうとしている言語そのものの創造力や表現力を見すごしてしまうことにもなるだろう。
 こうした問題を感じるとはいえ、管の『オムニフォン』が、「世界の響き」に呼応しうるような言語の実践の可能性を、「ピジンという生き方」としても指し示す、魅力的な著作であることに変わりはない。それはわたしたちを複数の言語へ、さらには「オムニフォン」の世界へといざなうのである。
 さて、最近読んだもう一冊の言語論とは、半ばそのタイトルだけに惹かれて古本を注文した、竹内芳郎の『言語・その解体と創造』(筑摩書房)である。絵について絵を描くことはできないが、言語については言語で語ることができるというメルロ−ポンティの洞察──それがほんとうに明察であるかどうかには、いわゆる「モダン・アート」の動きを考えるならちょっと首をかしげてしまうが──にもとづいて、言語が自己言及的に、日常言語から、文学的言語と理論的言語という二つのメタ・レヴェルへ階層化する必然性を述べて、当時も今も死に体を晒している「言論」の地位を理論的に確保したうえで、構造主義的な、さらにはそれ以後の言語論を批判的に検討し、「言論」が体現すべき「社会的伝達性」を本質とする言語の主体的で革命的な変成の普遍的な可能性を語る論理をチョムスキーの変換生成文法の理論のうちに求める竹内の執拗な議論は、たしかに今となっては時代がかって見えるし、また「文化革命」に言語を動員しようかという粘着質の熱さには、ついて行きかねるという思いも禁じえない。しかし、言語そのものの「非現実性」および「疎外」を論じているあたりは、傾聴に値するだろうし、またいち早くデリダのエクリチュール論に対して詳細な批判的論評を加えている点も興味深い。
 竹内のこの言語論で何よりも面白かったのは、ドゥルーズとガタリによる「マイナー文学論」を先取りするかのような議論を展開しているあたりである。竹内は、かつての支配者の言語であり、自分から同胞の言葉を奪った日本語で書く在日朝鮮人の言葉づかいに、この「日本語」のうちに不協和をもたらし、それを内側から解体してゆくようなポテンシャルを見て取っているのである。「在日朝鮮人作家たちの場合」には、「国語の既成性に発話の直接的な自己表出性を対置させただけではどうにもならぬこと、むしろ、己れの発話そのものさえ己れの〈内語〉となった敵の国語によって占拠されてしまっている以上、一旦は己れを徹底的に他者化し、敵の国語をそのまま受容しつつその逆用をもって敵の国語自体を破壊するという、詐術に充ちた迂路を経なければ自己発見すらもできぬことが、したたかに体験されているのである」。そのように、スピヴァックふうに言えば、一つの言語を「学び捨てる」ことでその言語を内側から、そこに潜在する未聞の響きへ向けて解体し、「国語」であるといった言語の「近代」的桎梏を乗り越えてゆく、そうして他者とのあいだに新たな関係を築いてゆく可能性を、言語そのもののうちに見いだすことに、竹内が成功しているとは言いがたい。とはいえ竹内は、言語そのものの「非現実性」と「疎外」ゆえに、言語のうちに住まうことはできないこと、そしてそのことが「語る」可能性に転じうることに気づいていたようである。そして、彼によれば、「国語」の重圧を感じ、自分の言語に違和感をおぼえるところにこそ、言語の創造的な変成の出発点があるのだ。「言語創造の場そのものでも働くコトバの社会的既成性の重圧(……)を自覚的にひき受ける覚悟のない言語観は、どんなに革命的意図に貫かれていても、所詮は真のコトバの創造を基礎づけるには至らぬであろう」。

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武満徹の室内楽作品:Garden Rain

 久しぶりに武満徹の室内楽曲を集めたCDを購入し、聴いてみた。冒頭に収録されているブラス・アンサンブルのための「ガーデン・レイン」のタイトルを冠したこのアルバム(Deutsche Grammophon: 00289 477 5382)には、武満の初期から中期にかけての、さまざまな楽器による室内楽のための作品が収められている。どれも1970年代に録音されたものだが、CDとしては初めてのインターナショナル・リリースとなる音源も含まれている様子。何よりも、アイダ・カヴァフィアンのヴァイオリンとピーター・ゼルキンのピアノによる「悲歌」と、荘村清志のギターによる「フォリオス」が収められているのが嬉しい。
 「悲歌」では、抑えられた悲しみをたたえたヴァイオリンの歌が、連綿と紡ぎ出されてゆくばかりでなく、言わば感情が塞き止められる瞬間には、研ぎ澄まされた厳しい表現も聴くことができる。ゼルキンのピアノはいつもながら素晴らしいが、カヴァフィアンの飾り気のない音色も作品にふさわしい。荘村清志による「フォリオス」は、これまで聴いていたジョン・ウィリアムズの演奏にくらべ、ひとつひとつの音の緊密な関係がしっかりととらえられているという点においてはるかにすぐれているように思われる。録音のせいもあるかもしれないが、荘村の演奏には、作品への没入が表現主義的な味わいのする響きとなって表われているところもあって、「フォリオス」にバッハからの引用が含まれていることも考えあわせると、ベルクのヴァイオリン協奏曲をどうしても思い出してしまう。
 このアルバムには、これら二つの作品以外に、アルバムのタイトルにもなっているブラス・アンサンブルのための「ガーデン・レイン」、弦楽八重奏のための「ソン・カリグラフィ」、バルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」のように指揮者パウル・ザッハーの委嘱に応じて書かれた「ユーカリプス」など、武満が、自分自身の響きの世界を、実験的な試みも交えつつ、ひとつひとつの音を突きつめることによって追求していた、1950年代から1970年代にかけての、どちらかというと「辛口」の作品が収められている。冒頭のフィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルによる「ガーデン・レイン」は、そうした厳しい顔を見せる作品たちの世界への、優しい広がりをもった響きによるいざないになっているのかもしれない。
 それから、武満の1970年代初頭のさまざまな実験も、同じアルバムに収められた、笙の響きが持続するなかオーボエを尺八を思わせるノイズを交えて吹かせる「ディスタンス」、フルートと声のコラボレーションを試みた「ヴォイス」、ハープとテープによる「スタンザII」という三つの作品のうちに聴くことができる。 「ディスタンス」などを聴いていると、細川俊夫の作品の響きがどうしても思い起こされるが、細川がどちらかというと一つの起筆から響きの空間を生成させようとするのに対して、武満の求める響きの世界は、もっと多中心的な広がりをもっているようにも思われる。ちなみに、これらの作品を演奏しているのは、ハインツ・ホリガー、オーレル・ニコレ、ウルズラ・ホリガーといった演奏家。演奏は申し分ない。
 今回聴いた、武満徹の室内楽作品を集めたアルバム「ガーデン・レイン」、それは 「充実した沈黙」のなかから、「沈黙に抗して」発せられる「強く少ない音」(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)によって織りなされる音の小宇宙へといざなう魅力的な一枚と言えよう。ジャケットも綺麗に仕上げられている。

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味覚と記憶、そして手仕事としての発明

 プルーストのあのマドレーヌのことを持ち出すまでもなく、味覚というのは記憶を喚起する不思議な力をもっている。しかも、思い出された過去の味覚が、過去の経験を思い起こさせることさえありうるのだ。最近読んでみてなかなか面白かった小説ウーヴェ・ティムの『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』(原題は『カレーソーセージの発見』、浅井晶子訳、河出書房新社)のなかで、後にカレーソーセージを「発見」することになるハンブルクの女性レーナのところに転がり込んだ脱走兵ブレーマーは、おそらくは精神的なストレスのために味覚を失っているにもかかわらず、かつてインドでカレーを食べて、当時陥っていた抑鬱から立ち直った話をレーナに生き生きと語って聞かせる。そしてレーナは、そんな彼のことをふと思い出したがために、けっして必要ではなかったカレー粉を手に入れ、偶然にカレーソーセージを発明することになる。さらにブレーマーは、立ち寄ったレーナの屋台で彼女のカレーソーセージを口にすることで、失っていた味覚を取り戻すのである。
 そのような物語を、作者のティムは、年老いて屋台を閉め、老人ホームに入っていたレーナから、屋台の常連客の一人でカレーソーセージのルーツに興味津々な「僕」に聞き出させるかたちで紡ぎ出している。したがって、語り手が「僕」になったり、レーナになったりするのだが、そのように、この二人を中心とする複数の視点から、ヒトラーがエヴァ・ブラウンと結婚した日に始まる、第二次世界大戦末期から、ドイツの敗戦を経て、戦後の復興期に至る、ハンブルクとそこでの「カレーソーセージの発見」を中心としたドイツの歴史を、ティムは物語ってゆく。そうして彼は、一つの視点だけを絶対視することなく、言わば複眼的にこの歴史を描いているのだが、それを通じて彼が最も愛情を込めて生き生きと描き出しているのは、やはりレーナという女性の姿である。
 レーナは一面では確かな現実感覚をもって、戦争末期以来の混乱をたくましく生き抜いた「強い」女性である。しかし、それでいてけっして実直さを失うことはないし、何よりもファシズムと、それと無関係ではない男性の理不尽な横暴に屈することなく自分自身に誠実であろうとするあたりには、爽快感すらおぼえる。彼女は、時にヒトラーの手先に対して歯に衣着せない言葉を浴びせるが、何よりも圧巻なのは、出戻りのくせに横柄な夫を叩き出す場面であろう。とはいえ、レーナは他面で実に情にもろい。ひょんなことから知りあった、二十ほども年下の兵士に恋心を抱き、彼をかくまってしまうし、ハンブルクが降伏しても、出て行ってもらいたくないがために、降伏の事実を告げずに、この兵士を半ば監禁してしまう。そして、大喧嘩の末に彼が出て行った後も、彼のことが忘れられず、そのことが先に述べたように、彼女にカレー粉をもたらすのである。そのような現実感覚と感情の大きな振幅のうちに、レーナという女性の魅力があるのだろう。
 そのように、比較的若かった──と言ってもすでに四十を過ぎていたわけだが──レーナも魅力的ながら、年老いて盲目となったレーナの記憶力にも驚かされる。部屋のどこに何があるのか、コーヒーを二杯分淹れるために何をしなければならないか完璧に記憶していて、彼女を訪れた「僕」の前に、いつもきっちり同量のコーヒーを二杯運んでくるし、編み目を指で数えて複雑な絵柄のセーターを編み上げてしまうのである。そのセーターを完成させて間もなくレーナはこの世を去ってしまうのだけれども。
 おそらくこのような驚くべき記憶力と、味覚をはじめとする感覚は、彼女のなかで相互に補完しあうかたちで、緊密に関係していたことだろう。味覚は記憶力を喚起し、記憶力は味覚を鋭く研ぎ澄ませたのではないか。そして、両者の相互補完的な関係が、今手許にある乏しい材料からの、プリコラージュのような手仕事としての発明の才を、レーナにもたらしたのではないだろうか。ティムによるカレーソーセージ発見譚においてレーナは、記憶と味覚が相互に喚起しあうなかで、「どんぐりコーヒー」を、「にせの蟹スープ」を、そしてついにはカレーソーセージを、手近な乏しい材料の組み合わせのうちに見いだしていったと考えられるのである。
 この発見に至るまでの経緯を、ティムは実に淡々とした文体で物語っている。その後の展開には、やや性急で、またありきたりなところもなくはないのだけれども、大げさになりすぎることのない語り口は、戦争末期から戦後の復興期に至るドイツの歴史のさまざまな側面──これをティムは何人かの、これまた面白い登場人物に代表させている──に、読者が冷静に向きあうことを可能にするものなのかもしれない。訳文も読みやすい。
 蛇足ながら、カレーソーセージについてひと言。やはりこれは「カレーソーセージ」と書くと、何となく力が抜けてしまう。やはりドイツ語で「Currywurst」、せめて「カリーヴルスト」とでも言わないと、わたしとしては味とともに紙皿に載ったその姿が思い浮かばないし、食べようという気にもならない。とはいえ、大した料理ではなくて、どちらかと言うとジャンク・フードの部類に属する。焼いたソーセージを鋏や機械でぶつ切りにして紙皿に盛り、それにケチャップをたっぷりとかけ、そこにカレー粉を振れば出来上がり。プラスチックのフォークで、基本的には立って──多くの場合屋外で──食する。と言ってしまうと身も蓋もないかもしれないが、このケチャップがただのトマトケチャップではない。ドイツのスーパーに置いてある「カリーケチャップ」を使うとそれらしい味がするが、それを使えばよいというものでもなく、さまざまな香辛料の組み合わせで──ほんとうはこのあたりが「カレー」の妙味なのだろう──オリジナリティをもったケチャップソースを作って、味を競うことができるようだ。これもティムが『カレーソーセージの発見』で教えてくれたことである。
 これまでは、1949年にベルリンのカント通りの角でヘルタ・ホイヴァーがカレーソーセージの屋台を開いたのが、その始まりということになっていたのだけれども、ティムのこの小説以来、小説の主人公であるハンブルクのレーナ・ブリュッカーも、その発明者として注目されるようになったようである。ちなみに、彼女が発明者ということになると、カレーソーセージの誕生は2年早まって1947年ということになる。
 ちなみに、今住んでいる広島のお好み焼きも、戦後の復興期に産まれた名物料理のようだ。これを食べて育ったわたしの妻は、ベルリンでカレーソーセージがいたく気に入って、発つ直前にもそれを食べていた。カレーソーセージとお好み焼きを比較してみるのも面白いかもしれない。

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「カープを観に行く」

 妻が広島東洋カープのファンなので、年に数回は、妻と広島市民球場を詣でることになる。一昨日も市民球場へ、横浜ベイスターズとの試合を観に行ってきたところ。8月末に阪神タイガースとの試合を見に行って以来、今年二度目である。ちなみに妻は、野球観戦に行くことを、「カープを観に行く」と言う。そう言えばたしかに一昨日妻は、少し早めに球場に着いたのをいいことに、一塁側のベンチ前でカープの先発投手がピッチング練習をしたり、何人かの野手が素振りしたりしているのを、間近で楽しそうに眺めていた。
 そんなわけで、市民球場は何度か訪れているのだが、なかなかよい球場だと思う。何といってもグラウンドが近いのが好ましい。1階席に座れば、選手たちのプレーの様子を、かなりの迫力で楽しむことができる。外野にほど近い内野自由席からでもピッチャーの投げる球の筋が見えるくらいだ。グラウンドとスタンドを仕切る金網が、少し目の邪魔にはなるけれども。この金網さえ取り払ってしまったら、アメリカのスタジアムに近い雰囲気になって、観客と選手の一体感が生まれるのではないかしらん。
 その市民球場、「老朽化」を理由に、広島駅近くの「貨物ヤード跡地」に建て替えることになっているらしいが、まだまだ使えると思われる。たしかにところどころ古さを感じさせるところはあるけれども、そうした箇所さえ改修したら、最近改修された仙台の球場のように、カープの本拠地として十分に機能するはずである。それに、球場へ足を運ぶカープファンの市民球場への愛着は、(とくによそ者であるわたしにとっては)計り知れないものがある。
 にもかかわらず、市民球場の建て替えは「決まったこと」のようだ。広島そごうのすぐ近くにあって、アクセスも、デパ地下で弁当を買って行くのにも便利な現在地での建て替えにこだわってきた地元の財界人も、「ヤード跡地」での建て替え、という市当局の既定路線に折れたかたちだ。それにしても、大規模な建設、いや土建事業で沈滞した景気を浮揚しようといった考え方は、あまりにも時代遅れなのではないだろうか。しかもそれに税金まで注ぎ込むというのだから、頭を抱えてしまう。
 妻をはじめ何人かの広島人から聞いたかぎり、みな「ヤード跡地」になったら「行かない」し、「人も来ない」のだそうな。何よりもアクセスが悪いのだそうだ。とすれば、何年か後には、立ったり座ったりしながらバッターの名前を連呼する独特の応援が続く向こうで、仕事帰りのサラリーマンがデパ地下で買った弁当をつまみながら缶ビールを飲み、家族連れが「100円引き」といったシールの貼られた惣菜のパックを広げる、といった光景は、もう見られなくなるのかもしれない。
 とはいえ、「ヤード跡地」での建て替えは、もう「決まったこと」らしい(そして当局とは、こういう既定路線で物事を決め、税金を使うものらしい)。とすれば、跡地をどうするかがまた問題となる。わたしの希望はただ一つ、音響のよい、クラシック専用の音楽ホールがそこに造られること。そうすれば、本番の会場よりも練習場のほうが音響がよいという、広島交響楽団が現在置かれているいびつな状況も解消されるし、何よりも広島で(これまで広島を素通りしていた)よい音楽がもっと頻繁に聴けるようになるはずである。

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石原吉郎の問い

 最近講談社文芸文庫から出た『石原吉郎詩文集』を、重い感銘をもって読み終えた。石原吉郎が自分自身に向けていた問いが、読んだわたしの肩にずしりとのしかかっているように思われてならない。
 この『詩文集』には、まず石原が「もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動」と「失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志」をもって書いた詩の精選が収められているが、なかでも「事実」と題された一篇において示される、起きてしまったことを、その「事実」が「うすわらい」を始めるまでに凝視するまなざしは、読む者を突き刺すほどの鋭さをもっている言えよう。そのように事実をその内側から照射するようなまなざしをもって、石原は、代表作とされる「葬式列車」を書いたのだろう。その詩では、名前を失って「まっ黒なかたまり」と化した人間の群れ──そのなかに石原自身も交じっていたかもしれない──が、貨車に投げ込まれ、運ばれてゆくなかで、生きたまま「屍臭」を放ち始め、亡霊と化してゆくさまが、凄まじいまでの鋭さをもって、しかし静かさに貫かれた筆致で描き出されているのである。
 起きてしまった「事実」へのそのような鋭いまなざしをもつこと、それは石原の言葉で言えば、彼自身の「位置」に立つことにほかならない。石原は、8年間ものシベリア抑留を経験しながら、けっして声高に他人を告発することなく、静かに自分自身の「位置」に立とうとした。しかも、彼はそのこと自体に仮借のない問いを向けたのである。詩の後に収められた評論を含む散文、そしてとりわけ彼が断続的に綴った日記ふうのノートは、自分の「位置」に立つことへの問いに向きあい続ける石原の歩みを示すものといえよう。
 みずからの「位置」に立つことを問うとは、石原にとってはとくに、詩を書く自分自身の言葉と、言葉を語る自分が、他ならぬ自分であることとを問うことであった。それに、この二つの問いは不可分だったのである。彼が言語をつねに「失語」とのかかわりで問題にしていたことはよく知られていようが、「失語」に陥るとは、石原によると、「ことばの主体がすでにむなしい」がゆえに、「ことばに見はなされる」ことなのだ。それゆえに、「ことば」を問うとは、つねに「ことば」を語る「主体」としての自己のあり方を問うことなのである。
 とすれば、石原にとって「ことば」とは、それを語る者自身を他者へ向けて差し出すものであることになろう。実際彼は「失語と沈黙のあいだ」という文章のなかで、「ことばはじつは、一人が一人に語りかけるものだと私は考えます」、と述べているのである。さらに自分の詩を、こう「ひとすじの呼びかけ」と規定している。「ひとすじの呼びかけに、自分自身のすべての望みを託せると思ったからです。ひとすじの呼びかけと私がいうのは、一人の人間が、一人の人間にかける、細い橋のようなものを、心から信じていたためでもあります」。このような、詩を「投壜通信」と規定するパウル・ツェランを思わせる身ぶりで、石原は、言語が第一次的に他者への「ひとすじの呼びかけ」であることを指摘するのである。彼によれば、そのことを忘却するとき、人間は──たとえ饒舌に話しているように見えても──言葉を語る自己とともに言語そのものを失うのだ。そのような危険を身をもって経験しながら、石原は自分の「ことば」に厳密であろうとした。彼が照らし出した言語の深層を踏まえながら、この言葉を銘記しておかなければならないのだろう。「言葉は厳密にもちいねばならぬ。詩を書くことが生きることへの確証であるなら」。
 このようにみずからの言葉を研ぎ澄ませながら、石原は自分自身を、その孤独において問い詰めていった。そのことを衝き動かすきっかけになったのは、シベリアにおける抑留生活と、そこでの鹿野武一という徹底的な「ペシミスト」との出会いであったようだ。それをつうじて石原は、「自己という存在」が「徹底的な例外であって、徹底的に例外でない」ことを洞察する。彼によれば、自分自身であろうとするとき、この二つの相矛盾した命題のあいだにある断層を孤独のなかで目のあたりにしなければならないのだ。そこにある「絶望」を、キルケゴールは「死に至る病」と呼んだ、と石原は言うかもしれない。そして、自分が自分であろうとする「絶望」のなかに浮かびあがる孤独、それを石原は数ある状態のなかの一つとは考えていなかった。「孤独ということは〈存在〉と同義なのだ」。人間は、「はじめから孤独のなかに居り、一歩も孤独からでていないのだ」。
 石原は、そのような人間にとって本質的とも言える孤独を美化しようとはしなかった。孤独のなか、自分自身であり続けようとするとき、他の人間は、自分に対する脅威として立ち現われることもある。そして、そのように他者を敵視するところから、他者との関係を築くこともできるのだ。そのような孤独への深い洞察が、他者との関係への冷徹なまなざしに結びついている。石原は、ノートのなかにこう書きつけることもできたのだ。「理解しあい、手をにぎりあうことだけが連帯なのではない。にくみあい、ころしあうこともまた連帯である」。
 このような、石原を彼自身の「位置」に追い込む、言語とそれを語る自己への鋭い洞察、そしてそれに結びついた彼の問いは、「立ちどまる」ことから始まっている。その重要性について、彼はこう語っている。「私が立ちどまるとき、私は階段を一つ降りる。生きることがそれだけ深くなるのだ。なぜなら、立ちどまる時だけ私は生きているのだから」。わたしも立ちどまるところから始めなければならないのかもしれない。そうすると、彼の問いがずしりとのしかかってくるのも確かなのだけれども。
 最後に、石原が1956年の9月11日に、ノートにこのような言葉を書きつけていたのを紹介しておきたい。「敵を恐れるな──やつらは君を殺すのが関の山だ。/友を恐れるな──やつらは君を裏切るのが関の山だ。/無関心なひとびとを恐れよ──やつらは殺しも裏切りもしない。だが、やつらの沈黙という承認があればこそ、この世には虐殺と裏切りが横行するのだ」(ヤセンスキイ『無関心な人びとの共謀』より)。饒舌に映る「沈黙という承認」が近づくかに見えるなか迎える次の9月11日に向けて、銘記しておきたい言葉である。

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動物園三題

 水族館には1年に1度はかならず行っているのに、動物園には5年ほど行っていない。井の頭公園の一角にある小さな動物園は「動物園」のうちに入らない、と言われたら、もしかすると小学校5年生のとき、従兄に連れられて上野動物園へ行ったのが最後になるかもしれない。
 そんな具合で動物園にはご無沙汰していたのだが、どういうわけか今年になって3か所も動物園を訪れた。この夏訪れたのが鹿児島の平川動物公園と広島の安佐動物公園。それから、こちらは半年ほど前の話になるが、ベルリンの動物園である。
  広島の安佐動物公園を訪れたのは、実は昨日の話。「ナイト・サファリ」と銘打って、夏休みの時期の土曜日だけに限定して夜間も開園しているので、妻と行ってみたというわけである。昨日はその最終日ということもあってか、大変な人混みであった。早めに行って、午後7時半頃に帰途についた(これが正解)が、その頃には、動物園へ向かう道路は大渋滞になっていた。
 安佐動物公園の展示はどういうわけか「ヒヒ山から」始まる。この「山」を裏からのぞいたり、ヒヒと綱引きができる仕掛けがあったりするあたり工夫が感じられるが、その後しばらくはあまり珍しくもない動物の展示が続く。そこで十数年ぶりに来たという妻に、ここの目玉は何なの、と訊くと、レッサーパンダとのこと。たしかに小高い丘を登りつめたところにあるその展示場の前には人だかりができていた。さすがにどこかの動物園のレッサーパンダのように立ったりはしなかったけれども、活発に愛嬌を振りまいていた。日が落ちて涼しくなっているせいもあるかもしれない。そう言えば、平川動物園にもレッサーパンダはいたのだけれど、昼間見たせいか、ずいぶんおとなしかった。
 やはり夜になると、動物たちの動きは全体的に活発になる。とりわけライオンをはじめ猛獣の類いは、昼間は気のない表情を浮かべてじっとしているくせに、夜になると実に活発に歩き回る。ユーモラスだったのは、餌をもらったツキノワグマの様子。吊るされたプラスチックのケースから餌を取ろうと、立ち上がって一生懸命それを振っていた。笑いを誘う光景ではあるが、こんなクマが近くの山にはうようよいると思うと空恐ろしい。ちなみに、山口県の徳山にある動物園で飼われている雄のマレーグマは、妻の雌熊に餌を横取りされると、立ち上がって頭を抱えるのだそうな。
 さて、お盆に鹿児島の平川動物公園を久しぶりに訪れてみて、こんなに広かっただろうか、と思った。実際、順路にしたがってひと巡りすると、ゆうに3キロはあるとか。小さいころよく歩いたものである。いや、なだめすかして歩かせる親のほうが大変だったかもしれない。
 さて、ここの見せ物は何といってもコアラなのだけれども、昼間、とくに暑い時期はユーカリの木のなかに小さく丸まってほとんど動かない様子だ。とはいえ、この動物園、安佐動物公園に比べて展示している動物の種類がはるかに多い。とくにサルの類い。ネズミに近いものからヒトに近いものまで実に豊富である。その多彩な表情と群居のさまを見ていると、やはり人間の姿と二重写しになってくる。そのせいだろうか。ベルリンの動物園で最も人気があったのは、類人猿をはじめサルの類いであった。平川動物公園では、もう一つ色とりどりの鳥類が間近を歩いたり飛んだりするなかを歩ける一角も気に入った。目を楽しませながらひと息つける場所である。
 さらに平川動物公園で特筆すべきは、遊園地が併設されていること。実は子どものころ、こちらも楽しみだったのだけれども、なかなか連れて行ってもらえなかった。そのころとほとんど変わらない遊具が置いてあったが、少し錆びついている感じ。全体的にさびれた印象は拭えない。今回は観覧車に乗ってみたのだが、化粧の濃い小柄なおばさんに扉を開けてもらったゴンドラのなかには、何とうちわが置いてあった。それを扇ぎながら桜島と鹿児島湾を眺めていたら、だんだんとさっき見たペンギンのように水をかけてもらいたくなってきた。
 先に述べたように、ベルリンの動物園では、サルが人気を集めていたのだが、そのほかにも意外な動物が人気を集めていた。たとえばカバ。大きく口を開けるのを見て、ドイツ人たちが歓声を上げていた。たしかに近くで見るとかなりの迫力がある。その一方で、ジャイアントパンダなどは、それほど人気がない。そのおかげで、上野動物園ではあまり考えられないことだが、笹をかじるのを間近でじっくり眺めることができた。
 ベルリンの動物園を訪れた時間が、ちょうど肉食動物の餌の時間と重なっていて、幸運にも猛獣たちが餌を食べる様子も見ることができた。トラやライオンが、飼育係のおじさんからもらった肉の塊に目を輝かせてしゃぶりつくさまは、間近で見ると凄い。もう一つ面白かったのが、コヨーテの群れの様子。肉のにおいを嗅ぎつけると、いっせいにその方向へ顔を向け、喜び勇んで駆け出す。やがてその肉が自分たちのものでないとわかると、コヨーテたちはまたいっせいに、しょんぼりともとの場所に戻ってゆくのである。
 安佐動物公園においても、平川動物公園においても、飼育係の手書きによる動物の説明や担当している動物のライフ・ヒストリーの報告が目についた。これはきっと以前よりかなり増えているにちがいない。飼育係の熱意と客をつなぎ止めようという工夫の両方を示すものだろう。とはいえ、そうした説明の詳しさという点では、ベルリンの動物園の説明書きは、両者にはるかに抜きん出ている。たしかに、あまり愛想のない「硬い」説明が大半なのだけれども。その「天敵」の項にかならず「ヒト」と書いてあるのには、苦い笑いを禁じえなかった。

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クナッパーツブッシュのベートーヴェン

 マエストロ・シャイセ。ドイツ語を少しでも知っている人にしてみれば、どうしようもなく品のない称号であるが、ルーペルト・シェトレの『指揮台の神々(原題は「燕尾服を着た神々」)』(喜多尾道冬訳、音楽之友社)を読むと、ハンス・クナッパーツブッシュという指揮者のことをこう呼びたくなってしまう。彼は、ことあるごとに「クソッ(シャイセ)!」という罵りの言葉を、オーケストラの楽員に、歌手に、ときには自分自身に、それも大声で投げつけていたとか。人前で自分に「クソッ!」と言えるあたり、この指揮者の大きさを物語っている。彼は、オーケストラのメンバーをはじめ他の音楽家に対等の同僚として接することができたし、またこの同僚たちに自分の過ちをはっきりと認めるだけの度量を持ち合わせていたのである。そして、シェトレの記述が教えてくれるのは、この愛すべきマエストロ・シャイセが、虚栄心に縁がなく、繊細な優しさに富んだ、そして襟にいつも白いクチナシを差すような洒落っ気をもった──その意味でも今ではお目にかかれない──紳士であったことである。
 さて、最近このマエストロ・シャイセがベートーヴェンのいくつかの交響曲を指揮した演奏のライヴ録音を集めた、ちょっと怪しげな雰囲気のCD(Andoromeda: ANDRCD 5017)が発売されたので、怖いもの見たさ半分に購入してみた。怖いもの見たさ、というのは、かつて巨大なスケールと人を食ったようなユーモアを兼ね備えた第8交響曲の演奏を聴いたことがあるからである。そのとき何よりも驚かされたのは、クナッパーツブッシュが、みずからの音楽の大きさをすみずみまで、その精神において掌握していることである。
 今回聴いた演奏のなかで最も感銘深かったのは、第2交響曲の演奏である。推進力が漲るなかに垂直的な響きの広がりを示す第1楽章も、恐ろしいまでのユーモアを聴かせるフィナーレも実に印象的だったのだけれども、とりわけ惹きつけられたのは緩徐楽章である。クナッパーツブッシュは、第2交響曲のラルゲットを心から愛していたのだ。そしてこのブレーメンでの演奏で彼は、命を賭けてそのしみじみと温かな歌のうちに永遠を現出させようとしている。最後に主題が回帰するとき、彼はただでさえ遅いテンポを一段と落として、その歌が天上に永遠にたゆたうかのように聴かせているのである。このような「芸」を、現代の指揮者から聴くことはできまい。
 ほかの演奏では、やはり「エロイカ」交響曲の演奏が、クナッパーツブッシュの個性を最もよく表わしているのかもしれない。葬送行進曲の楽章では、巨大な空間のなかに、ベートーヴェンが楽譜に込めた叫びが抉り出されてくる。フィナーレの変奏曲を聴くと、巨人のやや不器用な百面相を見るような思いがする。
 これらの演奏の3年ほど前のミュンヘンでの第7交響曲の演奏は、けっして遅くないテンポの実に剛毅な演奏である。何も奇をてらうことなく、引き締まった、それでいて響きが貧しくなることのない造形美のなかに、充実した内容を織り込んだやや辛口の名演奏。クナッパーツブッシュのもう一つの顔を示すものかもしれない。
 それにしても、このマエストロ・シャイセのように、巨大な響きの空間を掌握しながら、確信犯的な「芸」と音楽そのものの内容をぴたりと合致させる手腕をもった指揮者は、かつて現われなかっただろうし、これからも現われることはないだろう。そしてとりわけ今日では望むべくもあるまい。そうしたことを、今回クナッパーツブッシュのベートーヴェンをいくつか聴きながら痛感せざるをえなかった。
 もう一つ、これらのライヴ録音を聴いて感じられたのは、クナッパーツブッシュが実に無造作にバトンを振り下ろしていることである。だからアンサンブルにはあちこち傷もあるのだが、彼はそのような何の気取りもない指揮ぶりで、あれほど奥行きの深い世界を現出させることができるのである。これもマエストロ・シャイセの「芸」の凄みであろう。

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