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武満徹の室内楽作品:Garden Rain

 久しぶりに武満徹の室内楽曲を集めたCDを購入し、聴いてみた。冒頭に収録されているブラス・アンサンブルのための「ガーデン・レイン」のタイトルを冠したこのアルバム(Deutsche Grammophon: 00289 477 5382)には、武満の初期から中期にかけての、さまざまな楽器による室内楽のための作品が収められている。どれも1970年代に録音されたものだが、CDとしては初めてのインターナショナル・リリースとなる音源も含まれている様子。何よりも、アイダ・カヴァフィアンのヴァイオリンとピーター・ゼルキンのピアノによる「悲歌」と、荘村清志のギターによる「フォリオス」が収められているのが嬉しい。
 「悲歌」では、抑えられた悲しみをたたえたヴァイオリンの歌が、連綿と紡ぎ出されてゆくばかりでなく、言わば感情が塞き止められる瞬間には、研ぎ澄まされた厳しい表現も聴くことができる。ゼルキンのピアノはいつもながら素晴らしいが、カヴァフィアンの飾り気のない音色も作品にふさわしい。荘村清志による「フォリオス」は、これまで聴いていたジョン・ウィリアムズの演奏にくらべ、ひとつひとつの音の緊密な関係がしっかりととらえられているという点においてはるかにすぐれているように思われる。録音のせいもあるかもしれないが、荘村の演奏には、作品への没入が表現主義的な味わいのする響きとなって表われているところもあって、「フォリオス」にバッハからの引用が含まれていることも考えあわせると、ベルクのヴァイオリン協奏曲をどうしても思い出してしまう。
 このアルバムには、これら二つの作品以外に、アルバムのタイトルにもなっているブラス・アンサンブルのための「ガーデン・レイン」、弦楽八重奏のための「ソン・カリグラフィ」、バルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」のように指揮者パウル・ザッハーの委嘱に応じて書かれた「ユーカリプス」など、武満が、自分自身の響きの世界を、実験的な試みも交えつつ、ひとつひとつの音を突きつめることによって追求していた、1950年代から1970年代にかけての、どちらかというと「辛口」の作品が収められている。冒頭のフィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルによる「ガーデン・レイン」は、そうした厳しい顔を見せる作品たちの世界への、優しい広がりをもった響きによるいざないになっているのかもしれない。
 それから、武満の1970年代初頭のさまざまな実験も、同じアルバムに収められた、笙の響きが持続するなかオーボエを尺八を思わせるノイズを交えて吹かせる「ディスタンス」、フルートと声のコラボレーションを試みた「ヴォイス」、ハープとテープによる「スタンザII」という三つの作品のうちに聴くことができる。 「ディスタンス」などを聴いていると、細川俊夫の作品の響きがどうしても思い起こされるが、細川がどちらかというと一つの起筆から響きの空間を生成させようとするのに対して、武満の求める響きの世界は、もっと多中心的な広がりをもっているようにも思われる。ちなみに、これらの作品を演奏しているのは、ハインツ・ホリガー、オーレル・ニコレ、ウルズラ・ホリガーといった演奏家。演奏は申し分ない。
 今回聴いた、武満徹の室内楽作品を集めたアルバム「ガーデン・レイン」、それは 「充実した沈黙」のなかから、「沈黙に抗して」発せられる「強く少ない音」(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)によって織りなされる音の小宇宙へといざなう魅力的な一枚と言えよう。ジャケットも綺麗に仕上げられている。

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