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「近代」を問いただす新書二題

 鹿児島へ帰省しているあいだ、最近出た新書を二冊読み終えた。
 一冊は徐京植の『ディアスポラ紀行──追放された者のまなざし』(岩波書店)。「近代の奴隷貿易、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリズムなど、何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔」と定義される「ディアスポラ」たちの生の痕跡を、あるいは彼/彼女たちが受けた暴力の痕跡を、現代美術をはじめ、音楽、文学など芸術作品のうちに、あるいは芸術家たちの生きざまのうちに探る、ロンドン、光州、カッセルなどへの旅の軌跡を描くエッセイである。自明な家郷をもたず、自分は何者なのか、自分が話す言葉はいかなる言語なのかをつねに問いつづけなければならず、それゆえ生につなぎ止める絆は弱く、存在証明と死のあいだを漂いつづけなければならない一人の「ディアスポラ」、すなわち在日朝鮮人二世として、徐はここで、こうした「ディアスポラ」たちの生の痕跡を読み解くことをつうじて、「国民国家」や「植民地主義」の「近代」の歪みや矛盾を鋭く照らし出すとともに、その先に「植民地主義やレイシズムが押し付けるすべての理不尽が起こってはいけないところ」としての「真実のくに」というユートピアを遠望している。
 そのような徐の省察をたどりながら、彼がヴァーグナーの音楽にアンビヴァレントな感情を抱きつつ惹かれていること、最近そのヒロシマ賞受賞展を見たシリン・ネシャットが光州ビエンナーレでもグランプリを獲得していることなどを知ったのだけれども、とくに印象に残ったのは、パウル・ツェランの詩作に寄せた一節である。徐は、ツェランがみずからの詩を「投壜通信」にたとえていることに触れて、それは「いま目の前にいるドイツ語を解する人々に自分の詩が受け容れられることはほとんど期待していないということではないか」と指摘している。自分のホームページに「投壜通信」というタイトルを付けているわたし自身にもそうした思いがないかと訊かれるなら、とても否認できない。たしかに「国語」としての「日本語」を話す「日本人」に読んでもらいたいなどとはまったく思わない。いつか誰かが書いたものを拾ってくれるかもしれない。その誰かがそういう「日本人」である必要はどこにもないのだ。
 徐によると、ツェランは「生まれ育った多言語・多文化の領域(多様な言語文化が息づいていた故郷のチェルノヴィッツ)が諸国家の暴力によって破壊され、精神的なきずなとしての「母語の共同体」が消滅した後も、詩人は母語そのものを自らの「母国」とし、また、詩を書くという行為そのものを「母国」として、終わりのない放浪を続けた」。わたしは、そのあてどない旅のあいだも、ツェランはその「母語」を、それとともに詩作という「母国」をつねに問いなおしては生成させ続けていた、と考えたい。だからこそ、その旅は「終わりのない放浪」なのではないか。そしてそう考えるとき、「母語」、「母国」といった言い方にはやはり違和感をおぼえる。とはいえ、ツェランの詩作についての徐の省察は、このようなあてどのない「ディアスポラ」の旅の軌跡のうちに、「近代」の桎梏を突き抜ける可能性が秘められていることを気づかせるとともに、現実には彼のいう「ディアスポラ」ではない自分が、その可能性を引き受けて終わりのない旅へ一歩を踏み出すことを勇気づけるものだった、と言わなければならない。
 ところで、鹿児島で読んだもう一冊の新書は、目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK生活人新書)である。こちらは、今も続く「日本」の「近代」によって「本土」のための犠牲にされつづけている沖縄人、それも肉親から60年前の沖縄戦の記憶を継承する沖縄人の視点から、今や「戦後」でも「戦前」でもなく、「戦時」にほかならない今につながる「日本」の「近代」の問題を、厳しく問いただすとともに、目取真俊という作家の創作活動の背景もうかがわせる一冊である。
 今なお「本土」の「防波堤」として、日本全体の75パーセントの米軍基地を抱える沖縄に身を置くとき、日本がアメリカの「テロとの戦争」に自衛隊の対外派遣をもって加担する今が、「戦時」にほかならないことが浮かびあがってくる。そして、その今と沖縄戦の過去を関係づけるとき、軍隊が市民をけっして守らないことを露呈させ、あまりにも多くの沖縄の若者を「国のため」の死に追いやった沖縄戦の問題が何ひとつ解決されていないことも見とおされてくる。そう、沖縄戦はほんとうは終わっていないのだ。では、「戦後60年」の今を「戦後ゼロ年」にするためにはどうすればよいのか。まずは沖縄戦が露わにした問題が解決されていないこと、否、それどころか「基地問題」というかたちで沖縄の人びとのうちに抱え込まれたままだということを見抜かなければならない。現在に戦争の過去を──場合によっては身体のうちに──執拗に差し挟み、時の流れを寸断する目取真俊の小説の書き方は、それを見とおすきっかけをもたらそうとするものなのかもしれない。
 もう一つ目取真がここで照らし出しているのは、沖縄を「癒しの島」として喧伝するイデオロギーが、沖縄が抱えている問題を覆い隠すばかりか、沖縄を「捨て石」とし、犠牲にすることを可能にしてきた沖縄の人びとに対する「本土住民」による差別を隠蔽するイデオロギーにほかならないことである。さらに彼は、このイデオロギーによる沖縄文化の神話化が、天皇制を神話化するナショナリズム、さらには文部科学省が押し進めようとする「心の教育」による「国のため」に命を捧げる「国民」の訓育とも共犯関係にある、ということも指摘している。
 目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』。沖縄を訪れるなら、その前に必ず読んでおかなければならない一冊と思われる。

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