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シリン・ネシャットという映像作家

 2週間ほど前のことになるが、第6回のヒロシマ賞を受賞したイラン出身の映像作家シリン・ネシャットの展覧会を広島市現代美術館へ見に行った。当日は展覧会初日ということもあって、このアーティストの講演会もあり、彼女から直接興味深い話を聞くことができた。
 展示というか上映されていた作品のなかでまず印象的だったのが、「荒れ狂う(Turbulent)」と題された作品。対面する二つのスクリーンが置かれ、一方のスクリーンでは男性歌手が観客の前で、もう一方のスクリーンでは女性の歌手(?)が誰もいない劇場の舞台で歌っている。何よりも惹きつけられたのがこの女性のヴォイス・パフォーマンスだった。何か歌詞を歌うわけではない。心の奥底から湧きあがる、自然の胎動を表現するかのような豊饒なヴォカリーズ。そこからはたしかに、「女性」ないし「母性」に対するある種の本質主義を感じ取らないわけにはいかなかったのだけれども、その表現の力には圧倒された。とはいえ、ネシャットがこの声とともに映し出そうとしているのは、女性が誰に向けても歌えないことである。そこにあったのは、パブリックな場で歌うことを禁じられた女性の、聴く者のない叫びだったのだ。
 男性歌手のほうはというと、多くの観客を前に、歌詞のある、日本の演歌のようなポピュラーな歌を歌って喝采を浴びるのだが、そのようなコントラストは、「歓喜(Rapture)」という題の作品にも引き継がれる。そこで男性は、伝統的な、かつよくありがちな行進、取っ組みあい、礼拝を繰り返す。こうしたコンフォーミスティックな男性の姿を尻目に、女性たちは船で別の世界へと旅立ってゆくのである。
 こうした男性と女性のすれ違いが演じられる二つのスクリーンのあいだに見る者は立たされるわけだが、そうするとだんだんと、男性と女性のあいだにある深淵に身を置いているかのような感情に襲われる。ネシャットによると、「荒れ狂う」と「歓喜」は、「熱情」という今回展示されなかった作品とともに、三部作を構成している。それは男性と女性のあいだの隔たりを描ききろうとする三部作なのかもしれない。
 三部作と聞いて、わたしはテオ・アンゲロプロスの「エレニの旅」に始まる三部作と、プッチーニの「三部作」のことを思い出さないわけにいかなかった。ギリシア悲劇に始まる三部作という形式、これについてはまた稿をあらためて論じなければなるまい。
 さて、もう一つ印象に残った作品、ミニマル・ミュージックの作曲家フィリップ・グラスとのコラボレーションによる「パッセージ(Passage)」では、先の三部作とは対照的に、喪の仕事を、男性と女性がそれぞれ異なった仕方で、協働してなし遂げようとするさまが表現される。男たちは遺骸を担ぎ、女たちは祈りながら埋葬のための穴を掘り、その傍らでは少女が石を積んでいる。そして最後には、遺骸が埋葬の場に到着して、この三者が一つの画面に集結するのだが、その瞬間に炎の弧が男性と女性を取り囲むのだ。哀しみ──それはネシャットにとってパレスチナの問題のうちにある哀しみでもあるという──をくぐり抜けたところにある連帯の希望を伝えようとするかのようなこの映像表現は、グラスの音楽と相まって、見る者の感情を燃え立たせるものに仕上がっていた。
 このように、たとえば男性と女性のように対立しあうものどうしが、それぞれ異なったものとして結びつく、あるいは連帯する姿を表現する映像言語を、今ネシャットは模索しているようだ。講演のなかでネシャットは、ノマド、そして生き残りとして、新たな言語を発明しようとしている、つまり中心と家をもたない者として、新たなシンボリズム──たしかに彼女の作品には象徴主義的な美しさもないわけではない──の形式を実験しているところだ、と語っていた。そのように亡命者として自分の新たな言語を探し求める姿には、わたし自身深く共感するところである。

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